ドモン。
お前が生まれた時のことを、よく覚えているよ。
私は小学三年生だった。授業が終わるや否や、父さんが車で学校まで迎えに来て、そのまま病院に向かった。
お前は母さんのベッドの横に置かれた保育器の中で、すやすやと眠っていた。まぶたも、鼻も、唇も、なにもかも嘘のように小さくて、それなのに職人の名人芸のように緻密に形作られているのが不思議でしかたがなかった。
「触ってもいいのよ」と母さんに言われたけど、私は保育器に手を入れられなかった。
「キョウジ、今日からお兄ちゃんだな。弟と仲良くするんだぞ」
父さんにそう言われたけど、返事すらできなかった。
私はその時、圧倒されていたんだ。
――奇跡とは、こんなふうにふわりと日常に舞い降りるものなんだと。
*****
「おじさん! クロのおじさん!」
何度も呼びかけられ、意識が少しずつ浮上していく。
つんと鼻をつく潮の香りに、シュバルツは完全に覚醒した。
海風が勢いよくシュバルツのコートをなびかせる。彼の棲み処である船は今、全速力でネオホンコン中央に位置する湾を走っていた。
「眠っていたのか、私は」
ホイに話しかけると、「うん、ガーガーいびきかいてたよ」と笑った。間髪を入れずミンが「嘘よ、いびきなんてかいてなかったから!」と弟を小突く。
真昼間から意識を手放すとは、迂闊だった。ランタオ島で目覚めてから一週間、体調は概ね回復したと思っていたが、まだまだ本調子ではないようだ。
「さあ、もう着くぞい」
老人が手際よく操舵輪を回す。船が左手の浮き桟橋に横付きになった。ミンとホイが船縁と桟橋の間に板をかけ、それを足場に船から降りる。シュバルツも二人のあとに続いた。
「すみません、すぐに戻りますので。連れのことをお願いします」
「おお。任せておけ」
「おじさん、こっちだよ!」
ホイがシュバルツの手を引き、早足で歩く。商店街にたどり着いたシュバルツは、驚愕に思わず目を見開いた。
――想像以上に荒廃している。
ネオホンコンの街並みからは明らかに活気が失われていた。人の数は少なく、シャッターを下ろしている店も少なくない。ただ、軍人だけが妙に多かった。
「最近のネオホンコンはすっかりだめさ。実力のない政治家が能書きばっかり叫んで、迷走しまくってるんだ。あーあ、ウォン首相とマスターアジアがいた頃はよかったなあ」
ガンダムファイトによる覇権を失うということの意味を、シュバルツはあらためて噛みしめた。
「あの……クロのおじさん」
ミンが遠慮がちにシュバルツのコートを引っ張る。
「なんだい?」
「それ、ほんとに暑くないの?」
そう言ってシュバルツの格好を指さす。
シュバルツは今、古ぼけたキャスケットを目深に被り、ストールを首に何重も巻いて鼻頭まで隠していた。
「いや? まったく暑くない。以前つけていた覆面に比べれば、快適ですらある」
「ええ~……おじさん変わってるね……」
シュバルツが顔を隠しているのは、そのほうが落ち着くから、といった安易な理由などではない。
この一週間、シュバルツは持てる手段のすべてを使って情報を収集した。外出もままならない状況では収穫は限られているが、それでもいくつかわかったことがある。
ネオジャパンは今、覇権国となったにも関わらず苦境に立たされていた。
というのも、二年前のネオジャパンにおける「デビルガンダム事件」の真相がすっかり明るみに出たからだ。罪のない科学者親子を陥れて世界征服を企てようとしたネオジャパン軍部は、今もなお世界中から非難されている。それに伴い、ネオジャパン政府はコロニー連合の主導権を放棄するに至っていた。
シュバルツにとって特に重要なのは、キョウジ・カッシュの処遇だ。
多国籍調査団による事件の真相究明が進むにつれ、キョウジの名誉もまた回復していた。しかしそれと引き換えに、キョウジがどのようにデビルガンダムに関わっていたかまで広く知れ渡ることとなった。
世間的にはキョウジはすでに故人だが、もしも生きていたとなれば、大騒ぎになるに違いない。DG細胞についてライゾウ・カッシュ博士に次ぐ知見を持つ彼を――さらに言えば、デビルガンダムのパイロットにすらなった彼を、各国が確保しにかかることは明白だ。そのために、キョウジに繋がる素性はなにひとつ外部に漏らしてはならなかった。
「おじさん、ほらあれ。あれがネオホンコンのスラムだよ」
ホイが指さす方向を見るなり、シュバルツは息を呑んだ。
その区画はさして大きくはない。表通りの商店街と比べれば、箱庭のような面積しか保持していない。しかしそのささやかな土地に、冗談かと思うほど大量のビルがびっしりと建てられている。さらにビルの側面や上部に無秩序な建て増しが行われ、建築同士がもはや有機的としか言いようがないほど無節操に結びついている。
スラムに足を踏み入れるなり、例えようのない悪臭がシュバルツの鼻に突き刺さった。魚の腐ったような、汚水のような、血のような……思いつく限りすべての要因を内包した臭いだった。
おびただしい数の電光看板が灯る狭い路地を、ホイとミンは迷うことなくまっすぐ歩いて行く。何回か階段を上ると、昼にも関わらず真っ暗な廊下が現れた。
「ここだよ」
ホイが指し示したのは崩落した小部屋の跡に捻じ込むようにして作られた、ひどく小さなバラックだった。
ホイとミンに外で待つように言い、立て付けの悪いドアを無理やり開けて中に入る。
天井には裸電球だけがぽつんと灯っている。部屋の中央にショーケースが置かれ、その中に携帯電話やタブレット、ソフトウェアのパッケージ、電子義眼、用途の不明なカードや部品といったものがぎっしりと詰め込まれている。壁には油まみれの頚椎接続ケーブルが何本もぶら下がっていた。
ショーケースの奥にはちょび髭をたくわえた小太りの男が陣取っている。シュバルツを認めるや否や、取ってつけたような笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ! 満貫商店へようこそ。ご用件はなんでしょうか」
「この店はハードウェアもソフトウェアも、揃えられないものはないと聞いた」
「ええ、ええ、まったくその通りで」男の笑顔は慇懃すぎて異様ですらある。「お客様に寄り添い、あらゆるオーダーにお応えするのが当店のモットーでございます」
「ほしいものは二つある」シュバルツは指を二本立てた。「まず一つ。電話内蔵式のタブレットだ。もちろん足のつかないものがいい」
「ええ、ええ、いくらでも当店にはございます」
「それからもうひとつ。こちらが本題だ」
シュバルツはショーケースへとずいと詰め寄った。
「お前の専門分野のひとつに、密航の斡旋があると聞いた。航行データの書き換えの達人で、成功率がずば抜けて高い、とも」
男の笑みに、ほんのひとさじだけ警戒心が混じる。
「よその方のようですが、ずいぶんとお調べになったようでございますね」
「ネオジャパンコロニーに行きたいんだ。密航船の座席をひとつ売ってくれ」
「ネオジャパンコロニー……でございますか」
男が笑顔を捨て去り、考え込む。
「無理なのか?」
「無理などということはございません。わたくしはどんな公的データにも干渉できる自信がございます。ただ、宇宙渡航データへの干渉は今もっとも難しいジャンルのひとつなのでございます。さらに行先がネオジャパンコロニーとなれば、難易度は各段に跳ね上がります」
「ネオホンコンコロニーの影響か」
「そのとおりでございます」
男がもったいぶった仕草でうなずく。
ネオホンコンは覇権を失ってから急速に経済力を失っていった。凋落を食い止めるべく、ネオホンコンコロニーの建造が決定されたのは第十三回ガンダムファイト終了から半年後のことだ。建造は急ピッチで進められ、三か月前、ついに一般人の移住が開始された。富裕層の移住はほぼ完了し、現在は貧困層の非合法な移住を当局が厳しく監視している。そのために、半端な密航ではあっさり看破され、強制送還されるのが落ちだった。
「ひとりだけでいいんだ。なんとかならないか」
「そうですね……そもそも密航船の座席には、大量の予約が入っておりまして。どんなに頑張っても、三年は待っていただかねばなりません」
「三年も待てない」シュバルツは店主に向かって身を乗り出した。「主。斡旋の手配料はいくらだ」
「そうですね。シチュエーションにもよりますが、ネオジャパンコロニー行きであれば……」太い指で電卓を器用に叩く。「この程度はいただく必要がございます」
「法外だな。なにがお客様に寄り添う、だ」
シュバルツが睨むと、男は「それはもちろん、お客様のために命を懸ける覚悟でございますから」とうそぶいた。
シュバルツは電卓を奪い、数字を入力し直す。
「もしも優先的に斡旋してくれたら、これだけ支払おう」
電卓を見せると、男の目が幾何学的なほどまん丸くなった。
「ああ! 血を分けた兄弟。生まれる前からの友よ! あなたのためならば、わたくしは地獄の業火にも喜んで焼かれますとも!」
「兄弟なのか友なのか、どっちなんだ」
「準備ができたら、これからお渡しするタブレットにご連絡します。手配するのは一席分でよろしいですね?」
念を押され、シュバルツは「ああ」とうなずく。
男がセットアップしたタブレットを受け取ると、シュバルツはなおも友だの愛だのと騒ぎ立てる男を振り切り、早々にバラックを後にした。
「おじさん! どうだった? 買い物はうまくいった?」
通路の隅に屈んでいたホイがぱっと立ち上がり、駆け寄ってくる。
「ああ。だいたい想定どおりには進んでいる」
「もう帰ろうよ。ここ臭くってさ、雰囲気も変だし、あんまり好きじゃないんだ」
「そうだな……」
地上まで下りてきたシュバルツは、路地をぐるりと見回した。
汚水が垂れ流しの中、なんとか店としての体裁を整え、商いに精を出す人々。
道端に桶を置き、魚をその場でさばく男。
うずくまって煙草を吸う老女。
濡髪で駆ける子どもたち。
確かにこの一角から漂う瘴気は快いものではないが、シュバルツは妙に心惹かれていくのを感じた。
ここならば、自分のような人ならざる者でも、そっと受け入れてくれるかもしれない……
「あ! ねえねえあれ、見て!」
ミンの声にはっと顔を上げる。スラムの出口に近い場所に古着屋があった。店主が手あたり次第にかき集めたと思われる衣服の数々が、ショーウィンドウに所狭しと飾られている。燕尾服、パジャマ、民族服、高級下着……ラインナップは支離滅裂だが、ささやかながらも清潔感がある分、このスラムの中ではかなりまともな部類の店といえた。
「このワンピース、かわいいな。すごい、表通りの十分の一の値段だよ」
ミンがショーウィンドウにかじりつき、うっとりとしている。
「どこから流れてきた品かわからんから、スラムでの買い物は用心しろってじいちゃんが言ってたよ。表通りで買った方がいいって」
ホイがミンを引っ張るのを尻目に、シュバルツもまたショーウィンドウに釘付けになっていた。しかし彼が注目したのはワンピースではなく、その隣にある軍服だった。
おそらくはネオドイツ軍の横流し品だろう。標準の軍服に加え、軍用トレンチコートとブーツ、さらにはサーベルまでセットになっていた。
「おじさんはそういうお洋服が好きなの?」
いつの間にか、ミンがシュバルツをじっと見上げている。
「好きというか……以前はこういう格好をしていたんだ」
「おじさん、軍人だったの?」
「……まあ、そのようなものだ」
「こういう服が好きなら、買っちゃえば?」
「ああ……」
できることなら入手したい、と思った。
シュバルツはキョウジと同じ記憶と行動原理を持つが、あくまでも影であり、キョウジそのものではない。そのため、生まれたての頃は自分が何者なのかわからなくなり、混乱することがたびたびあった。そんな折、ゲルマン忍者としての軍装が自らを「シュバルツ」だと定義づけるのに大いに役立った。あの扮装には当初こそ戸惑いが大きかったが、今となっては感謝しかない。
「シュバルツ」と名乗ることもできず、「シュバルツ」としての装いもできない今、再び自我の境界が脆くなりつつあるのを感じる。今後のことを思うと、自らが影であることを定義づけるなにかを、できるだけ早く手に入れたいと思うのだが……
「……いや。今はやめておこう」
「ええ! なんでえ。おじさんも買ってくれたら心強いのに」
「ミン、そんなのわかってるだろ。クロのおじさん、お金ないんだよ。無職だし」
「ぐっ……」
ホイの言うとおりだった。シュバルツの現在の軍資金は、ネオドイツのファイターであった時に念のため作っておいた架空名義口座に残る金しかない。密航でそのほとんどが吹っ飛ぶことを思うと、極力温存するのが望ましかった。
「そんなずけずけ言わないの! おじさんに失礼でしょ!」
走っていくホイを、ミンが手を振り回して追いかける。シュバルツは後ろ髪を引かれる思いでショーウィンドウから立ち去った。
船に戻ると、キョウジが目を覚ましていた。布団に横たわり、壁の丸窓から見える小さな空を眺めている。シュバルツはストールと帽子を取り、床にあぐらをかいた。
「今日の戦利品だ」
キョウジにタブレットを渡すと、「すごい、最新式じゃないか」と喜んだ。
シュバルツはタブレットを弄るキョウジのそばに寄り、布団を剥いで彼の足を露出させた。スラックスの裾を掴み、膝までめくり上げる。
「てて、痛いよ、シュバルツ」
「少し我慢していろ」
ふくらはぎに走る傷に触れる。DG細胞がかさぶたのように傷を覆っており、中で治癒が進んでいる気配があった。
キョウジはこの一週間でだいぶ快方に向かってはいるものの、シュバルツより治るスピードがかなり遅かった。遮るもののない状況で石破天驚拳を食らったのが影響しているのかもしれない。
「あーあ、早く歩けるようになりたいよ。ネオホンコンに来るのは初めてなんだ、隅々まで見て回りたい」
「焦りは禁物だ。まずはよく寝て食べるんだ」
するとドアがノックされ、「シロさん、ご飯だよ」とミンが入ってきた。肉団子入りの粥の椀をキョウジの枕元に置く。
「いつもありがとうね、ミンちゃん」
キョウジが礼を言うと、「ううん、早くよくなってね、シロさん」と屈託なく笑った。
シュバルツが自分の布団を丸め、キョウジの背の下に入れて身を起こさせてやっていると、
「その……クロのおじさん。さっきはごめんなさい」
先ほどまでとは打って変わって、ミンの表情が曇っている。
「なぜ謝るんだ? 心当たりがないんだが」
「ホイのこと。あの子、おじさんに失礼なことばっかり言って」
「そんなもの、まったく気にしていない。あれはホイなりの親密さの表現だろう?」
「そうだけど……」
「わざわざ私の気持ちを気にしてくれているのか。ミンは優しいな。ありがとう」
シュバルツが微笑むと、ミンの顔が見る間に真っ赤になった。
「あの、その、あの……優しいとかじゃ……別にそんな……」
うろたえた様子で視線をさまよわせている。
「あっ、あのっ、私、行商の下ごしらえしないと。じゃあね、シロさん、ちゃんと食べてね!」
ウサギのように部屋を跳び出ていってしまった。
「……いいなあ。シュバルツは女の子にモテて」
キョウジが不平そうに口をとがらせる。
「……。は?」
「ミンちゃん、シュバルツのこと好きだよね、絶対」
「いや、そういうことじゃないだろう、あれは」
「だって俺にはあんな素振りは全然見せないんだよ。いいなあ……同じ顔、同じものの考え方なのになにが違うんだ。シュバルツみたいにもっと野性味を取り入れたほうがいいのかな……」
ぶつぶつとつぶやくキョウジに、シュバルツは思わず失笑した。
「私はお前の要素を凝縮して作られているんだぞ。取り入れるもヘチマもないだろう」
「そうなんだけど、でもシュバルツにはシュバルツだけの良さがあるもの。俺とはやっぱり違うよ」
母体であるキョウジに「まったく同一でない」と言われるのは、寂しくもあり、またどこか嬉しくもあることだった。
「ねえ、シュバルツ、これ」
キョウジがタブレットをシュバルツへと差し出す。
画面にはネットの新聞記事が表示されていた。「デビルガンダム 分割保管へ」と見出しがついている。白骨化したデビルガンダムの大部分はネオジャパンで保管される予定だが、一部を他の主要四か国で分割し保持することが主要国首脳会議で決定された、という内容だった。
「どう思う? それ」
「茶番だな。相互監視のもとDG細胞の平和的利用研究を行う、などといったところで、各国とも軍事力への応用を水面下で模索するに決まっている」
「覇権争いのあり方にも、影響が出るかもしれないね」
「あるいはな」
記事の下には別の記事へのリンクがあった。タップして記事を開く。ガンダムファイターたちがネオジャパンコロニーに結集し、ガンダムファイトの改善を訴える声明を発表した、とのことだった。声明の代表者は第十三回ガンダムファイトの優勝者であるドモン・カッシュ。
「ドモンのやつ、頑張ってるな」
「ああ、声明発表の記事? 俺も読んだよ、それ」
ドモンはガンダムファイトのあと一年ほど地球に滞在していたが、今はネオジャパンコロニーにいる。そのほうが各国首脳部に働きかけるのに不便がないからだろう。
「ドモンの活動を助けるためにも、ネオジャパンコロニーに戻ったほうがいいと私は思う」
シュバルツがそう言うと、キョウジは渋い顔になった。
「悪いけど、俺はそうは思わないんだよね」
「なぜだ? キョウジ」
「俺もシュバルツもDG細胞のキャリアだろう? しかも今のところ、二人とも奇跡的に精神状態が安定している。世界にとっては垂涎の実験材料だ。俺たちの存在そのものが巨大な火薬庫みたいなものなんだよ。俺たちが下手に接触すると、ドモンに余計な苦労をかけることにもなりかねない」
「例えそうだとしてもだ。私たちが生きていると知れば、ドモンがどれほど喜ぶか」
あれほどにたくましく成長したドモンならば、たとえ今の兄が災いしか呼ばない存在だとしても、万難を排して受け止めようとするだろう。アンドロイドである自分はともかく、本物の兄であるキョウジだけでも帰るべきだ――そう思ったが口にはしなかった。言えばキョウジがいっそう反発するのが目に見えていたからだ。
キョウジはしばらくの間シュバルツを見つめていたが、やがてうとうとし始めた。
「んん……なんだか、眠いや」
「いつになく喋ったからな。疲れたんだろう。寝るといい」
「ずうっと寝込んだまんまで、頼りっきりで……不甲斐ないよ」
「お前のことは私が守る。なにも案ずることはない」
「ごめんね、シュバルツ……俺は……、お前に守られるべき、存在じゃ、ないのに……」
「どういう意味だ、それは?」
キョウジの返事はなかった。彼は布団に身を預け、静かな寝息を立てている。
キョウジの額に手を当てる。以前のような高熱ではなかったが、まだ熱い。シュバルツはタオルでキョウジの額や首筋の汗を拭いてやった。水を補充すべく、水差しを手に居室を出る。
甲板に出ると、風が心地よかった。夕暮れ空に星が出始めている。ホイが「おじさん、見て」と声をかけてきた。
「あの星に見えるの、コロニーだよ。ネオホンコンコロニー。あっちに見えるのは、ネオチャイナ。それからあれは、ネオジャパン」
「ほう。詳しいな」
「学校で習ったんだよ。夏の空の星のこと」
得意そうにしているホイに、シュバルツはふと訊ねてみたくなった。
「ホイ。君はコロニーに行きたいと思うか?」
「コロニー? うーん、そうだなあ……」ホイは腕組みをして考え込んだ。「ねえおじさん、コロニーには海ってあるの?」
「海か。そうだな……疑似的な川や湖はあるが、ここまで広い海はない」
「そっか。ならおれ、コロニーには行きたくないよ。おれは海が好きだから」
「そうだな」歯切れのいいホイの回答に、シュバルツは思わず微笑んだ。「愛するものへの思いを貫く。それが人の本道だ」
シュバルツは目を凝らす。ホイが教えてくれたネオジャパンコロニーは、地球から見るとひどくささやかだった。あの地で織りなされた、家族や友との懐かしい記憶――しかしそれらはすべて、シュバルツ自身のものではない。シュバルツの心の拠りどころとなっているのは、生まれ落ちてから地球で過ごした日々だった。
――待っていろ、ドモン。
私は必ずキョウジをコロニーに送る。
そうしてお前に、ささやかなりとも償いをしてみせる……
少しずつ夕暮れに闇が染み込んでいく。星々の輝きが増していくのを、シュバルツはただじっと見つめていた。