ドモン。
私とした夜の散歩のことを、お前は覚えているだろうか。
お前は小さい頃、喘息を患っていて、夜になると決まって発作を起こした。
父さんは研究で忙しく、母さんは家のことと父さんの世話で疲れていた。だからお前の夜の世話は、私がすることが多かった。
お前が発作を起こすと、私は薬を飲ませ、発作が落ち着くまでお前を背負って庭を散歩したものだった。
夜半の澄んだ大気。首筋にかかる苦しげな呼吸。背中に染み込む体温。今もありありと思い出すことができる。
お前の気を紛らわせるため、私はいろんな話をして聞かせた。たわいない世間話から最近読んだ歴史小説、父さんの研究、習っている武道のことなど。
あれはいつのことだっただろうか。私はいつものようにお前を背負って庭を歩いていた。空には地球が昇っていた。完全な円の形をしていて、息を呑むほど美しかった。
「お兄ちゃん。ごめんね」
荒い息をつきながら、お前がつぶやいた。
「なんで謝るんだ?」
「だって僕、お兄ちゃんのジャマしてばっかりで……」
「馬鹿だなあ、ドモンは」私は肩を竦めてみせた。「俺はこの散歩の時間が好きなんだ。気分転換になるし、アイデアもよく出るし。なにより、お前といるのは楽しいよ」
「……ありがと、お兄ちゃん……」
「ほら、見てごらん、ドモン。今日の地球は真ん丸だ。綺麗だぞ」
「うん……」
お前は促されるまま空を見ていたが、
「お兄ちゃん。地球って、なんで青いの」
不意に、ぽつりとつぶやいた。
「青? ああ……地球の表面は、七割が水に覆われているんだ。海っていうんだけどね。だからあの青は海の色なんだ」
「海……」
「あの海から、あらゆる生物の祖先が生まれたと言われている。だけど今は汚染が進んで問題になっているんだ。人間があそこで戦争をしすぎたせいで……」
「……僕には、涙に見える」
「え?」
「あんなの、きれいすぎるよ。ひとりぼっちで、きれいで、なんだかかなしい」
お前の言葉に、私はなにも返すことができなかった。
さく、さく、という私の足音だけが響く。いつの間にか、肩のあたりでささやかな寝息が聞こえ始めた。
夜風が頬を撫でる。空を仰ぐと、地球は変わらずひそやかな輝きを湛えていた。
そうだ。お前の言うとおりだった。
あれはすべての生命の母。
失われゆく私たちの故郷。
銀河にこぼれ落ちる、ひと粒の涙。
ドモン、私はね。
あの時初めて、地球という星をちゃんと見つめたような気がする。
あれからずっと、夜空を伝う涙がこの胸に滴っている――そう感じるんだ。
*****
海面の浮きがククッと沈む。
シュバルツはすかさず立ち上がり、釣り竿のリールを巻いた。波の下の針先に、中ぶりの魚がかかっている。
「慎重に巻くんじゃ、慎重に」
「はい!」
「ホイ、助けてやれ」
「わかってら!」
ホイが甲板から身を乗り出し、たも網で魚をすくい上げた。
「いい調子じゃ。クロさんや、腕を上げたのう」
「ホイの教え方がいいんです」
「ちがいないや。おれはこの辺でいちばんの名人だからね」
「ワシを除けば、じゃがな」
船上が朗らかな笑いに包まれる。
シュバルツたちがこの家に身を寄せてから、ひと月あまりが経過していた。
キョウジは相変わらず緩やかに回復し、シュバルツは少しでも家計の足しになればと行商や釣りを手伝った。
汗水を垂らして働き、皆と食卓を囲み、暗くなったら眠る。生まれ落ちてからのシュバルツがついぞ経験したことのない、平穏そのものの日々だった。
「ねえ。クロのおじさん」
ホイがシュバルツのシャツを引く。
「なんだ?」
「おじさん、シロさんが治ったらここ出てくって言ってたけどさ。行く当てとかあるの?」
「……いや、特にはないな」
「ならさ、ずっとここにいればいいじゃない。うちの仕事、手伝って暮らしたら?」
「それは……」
――そうできたなら、どんなにいいだろう。
しかしシュバルツの出自がそれを許さない。DG細胞の塊が普通の人びとと長く交わるわけにはいかなかった。
シュバルツが黙っていると、ホイが悲しそうな顔でうつむいた。
「ホイ。誤解しないでくれ」シュバルツは片膝をつき、ホイの目を覗きこんだ。「できることなら、私もそうしたい。そうだな……すぐにとはいかないが、いつか諸々のことが片づいて、自由になることができたなら……その時あらためて私を雇ってくれないか?」
「うん! いいよ!」
ホイがぱっと顔を上げ、満面の笑みを浮かべる。
「そうと決まればどんどんしごくよ。海の男になるには、覚えなくちゃいけないことがまだまだたくさんあるんだよ!」
「お手柔らかに頼みます、師匠」
シュバルツとホイが虫餌を釣り針につけていると、船室に続くドアが開き、寝間着姿のキョウジが出てきた。
「シロさん!」
「楽しそうな声が聞こえたから。釣りの調子はどう?」
「海風に当たるのはよくない。これを使え」
シュバルツが傍らのコートを取り、キョウジの肩にかける。「過保護だなあ」とキョウジが苦笑した。
「シロさん、歩いても大丈夫なの?」
「うん、もうだいぶいいんだよ。これ以上ゴロゴロしてたら太りそうだしね……そうだ、ミンちゃんは? 食器を返そうと思って」
「姉ちゃんは行商だよ。水上の客はしけてるからって、最近陸に行ってばっかりなんだ」
「困ったもんじゃ……最近陸ではちょっとしたことですぐスパイ容疑なんぞといってしょっぴかれるんじゃ。目をつけられると厄介じゃから、行商はよせと言っとるんじゃがのう」
と、キョウジが「あれ?」と言ってコートのポケットに手を突っ込んだ。
「震えてる。電話だよ」
「見せてみろ」
タブレットを受け取って確認すると、満貫商店からだった。キョウジに聞かれないよう、船首へ移動する。
「もしもし」
「ご機嫌麗しゅう、血を分けたわたくしの兄弟よ。本日はお日柄もよく……」
「前置きはいい。要件はなんだ」
「せっかちな方ですねえ。まあ、いいでしょう」とりすました咳払い。「例の商品についてキャンセル枠ができました。明日の朝五時に出発の分です」
「明日だと!? ずいぶん急だな」
「急だからこそ、兄弟であるあなたに真っ先にご連絡したのです。どうします? 受けますか?」
シュバルツは悩んだ。キョウジはまだ本調子ではない。しかし、これを逃せば次のチャンスがいつになるかわからない。
「まずは詳しい話を聞きたい」
「よろしいですとも! では、本日中に必ずわたくしの元に来てレクチャーを受けてください」
「ああ」
「あなたの新しい門出を、命を懸けて応援いたします。では、のちほど」
通話が切れる。シュバルツは駆け足で皆がいる左舷に戻った。
「すみません、用事ができたので陸に行ってきます。ついでにミンを拾ってきます」
「おお、そりゃちょうどええ。頼むぞい」
「出かけるのか? これから?」
キョウジが目を瞬かせる。
「ああ。急用だ」
「なら俺も連れてってくれないか? ネオホンコンの街並みを見てみたいんだ」
「駄目だ」
「なんでだよ。もうだいぶ歩けるようになったし……」
「しかし、まだ走ることはできないだろう。そんなことで、万一のことがあったらどうするつもりだ」
「なんだよ、ケチ。自分ばっかりあちこち満喫してさ」
「そういう問題じゃないだろう」
「まあまあ、二人とも落ち着きなされ」
老人が間に割って入る。
「シロさんはどこにも行けずくさくさしとるんじゃろう。軽く外へ連れて行ってあげたらどうかのう」
「しかし……」
確かに、ストレスを溜めすぎるのは心身に良くないだろう。
それに、とシュバルツは考え直す。本当に明日の朝、キョウジをネオジャパンコロニーに送り出すのであれば、密航のことはすぐにでもキョウジに説明せねばならない。ならば今、ともに満貫商店に行ってレクチャーを受けるのが最も効率がいい。
「……しかたがない。ただし、絶対に無理は禁物だ。わかったな」
「やった!」
キョウジは子どものように無邪気に喜んでいる。その様子を、シュバルツは渋い顔で見守った。
勢いよく波を切ってボートが進む。縁から身を乗り出していたキョウジが「つめたっ!」と言って顔を押さえた。
「ずぶ濡れになるぞ。おとなしく座っていろ」
シュバルツが注意するも、キョウジは前のめりのまま海を見渡している。
二人は今、湾のただ中を走っていた。ランタオ島脱出に使ったボートを修復し、ゴミ捨て場にあったエンジンを積んだのだが、見た目はともかく馬力は申し分ない。
「なんて綺麗なんだろう。ビル街と海の対比が相まって……こんな光景がこの世にあるなんて」
キョウジの目にはうっすらと涙が光っている。これまで必要以上にキョウジの望みを抑圧しすぎたか、とシュバルツはひそかに反省したが、
「できることなら男二人じゃなくて、もっとロマンティックな状況で見たかったなあ……」
「叩き落とすぞ、貴様」
その反省を即座に撤回した。
キョウジは「そんなに怒ることないじゃないか」と気の抜けた笑みを浮かべていたが、不意に、
「ごめんな」
とつぶやいた。
「なにがだ。ふざけた態度をようやく改める気になったか」
「そうじゃなくってさ。……俺はお前に、つらいことばかりさせてしまったから」
「そのことか」シュバルツはかぶりを振った。「地球やドモンを救うために、どうしても必要なことだった。お前が謝る必要はない」
「うん……」
相槌とは裏腹に、キョウジの表情は冴えない。
「そういえば、キョウジ。お前は目を覚まして間もない頃、不思議なことを言っていたな」
「え?」
「私に向かって、『お前は自分が助かったと思っているんだな』と……覚えているか?」
「ああ……」
「あれはいったいどういう意味だ? お前が回復したら訊きたいと思っていた」
「理論的に考えるんだよ、シュバルツ。そうすればおのずと答えは見えてくる」
どことなく父に似ている、低く沈んだ声だった。
「どういう意味だ?」
「科学者は安易に答えを求めてはいけない。そうだろう?」
「私は科学者ではない。忍者だ」
「おもしろい屁理屈だなあ、それ……あれ?」
キョウジが視線を上げる。
「シュバルツ、見てみろ。あそこ」
指さす方向に目をやると、ネオホンコンの上空を戦闘機が十機編成で飛んでいる。
「ものものしいな」
「ネオホンコン軍だね。周辺国との衝突に備えているんだろう」
「デビルガンダムの残骸の余波か」
シュバルツが唸ると、キョウジが「そうだな」とうなずいた。
「デビルガンダムが主要国で分割管理されることで、世界の軍事バランスは大きく変わる。たとえDG細胞そのものを軍事利用しなくとも、細胞から得られるデータがあれば、これまでの軍事レベルを大幅に革新することが可能だ。ネオジャパンが覇権を行使できない今、一気に世界の実権を握ろうとする国が出てくる可能性がある」
「ガンダムファイトの崩壊……か」
第二次カオス戦争の勃発は絶対に阻止せねばならない。
世界の命運が、またドモンの双肩にかかることになるのかもしれない。シュバルツは弟の身を案じずにはいられなかった。
キョウジはボートの縁に肘をつき、遠いまなざしで海を見つめている。
「地球はどう思っているんだろうなあ。この状況を」
「地球?」
「うん。もしも地球に心があったとしたら、だけどね。シュバルツはどう思う?」
「……わからない」
人類があまりにも愚かなことを続けていると、いつか地球に見放されるのではないか。デビルガンダムの暴走は、あながち地球の望みから外れたものではなかったのではないか――そう思ったが、口にはできなかった。
「ちょっと、シュバルツ! ぶつかる、ぶつかる!」
気がつくと、浮き桟橋がすぐそこにまで近づいてきている。シュバルツは慌ててエンジンを止めた。
ボートを桟橋に着け、船から降りる。キョウジの手を取り、引き上げてやった。
「歩けるか? キョウジ。すでに疲れているようだが」
「大丈夫だって! シュバルツ、俺は小さい子どもじゃないんだよ」
キョウジは体力を誇示したいのか、腕を大げさに振っている。シュバルツは説得を諦め、カンカン帽と丸縁サングラスを押しつけた。
「なに? これ」
「顔を隠すんだ。街の防犯カメラで顔認証検索でもされたら、厄介なことになる」
「それはわかるんだけどさ……できればもっとオシャレなのがいいなあ」
「贅沢を言うな」
シュバルツは自らの顔をキャスケットとストールで隠すと、キョウジを伴い、街の大通りへと向かった。
「シュバルツの目的地ってどこ?」
歩きながらキョウジが訊ねる。
「町外れのスラムだ」
「スラムになんの用事が?」
「……行けばわかる」
表通りから路地に入ろうとしたその時、北の方角から怒鳴り声が聞こえた。耳をそばだてると、少し間を置いて悲鳴が上がる。まだあどけなさの残る少女の声だ。
「今の声……」
「ただ事ではないな」
シュバルツは声のほうへと駆けた。
表通りから三本北の通りの隅に、三人の軍人が立っていた。カーキ色の軍服の隙間から、地べたにへたり込んだミンが見える。
「ミン!」
シュバルツが駆け寄ると、ミンが涙目で「おじさん!」と叫んだ。頬にぶたれたような跡がある。シュバルツは平静を失いそうになるのを懸命に堪えた。ミンを体の後ろに隠し、軍人たちと向かい合う。
「なんだ? てめえは。このガキの親か?」
「そんなことはどうでもいい。仮にも国を守る軍人が、数人がかりでこんな子どもに乱暴するなどと……お前たちこそいったいどういうつもりだ?」
「そのガキが俺たちに楯突きやがったんだよ!」
「ちがうもん! その人、私の売り物をただで持ってこうとしたんだよ! だからお金払ってって言ったらぶたれたの。ひどすぎるよ!」
ミンが首からかける立ち売り箱には、ソースがけの魚のフライが二つ残っている。うちひとつは皿ごと無惨にひっくり返っていた。
「ならば、そもそもの非はそちらにあるな。だが極力荒事は起こしたくない。今すぐ立ち去るのなら見逃してやろう」
「バカかてめえは!? ネオホンコン軍に歯向かってただで済むわけねえだろうが!」
真ん中に立つ軍人がシュバルツに殴りかかる。しかしシュバルツはそれを掌底で払うと同時に男の背後に回り、肘裏で男の首を締め上げた。
「がっ……!? あっ……」
「話し合う労力すら惜しくなるほどの連中だな、貴様らは。致し方ない」
残りの二人が目を剥いている間に、男の全身がだらりと弛緩する。
「こ、この野郎!」
二人同時に飛びかかってくる。シュバルツはひとりの鳩尾を正拳突きで捉え、残るひとりの側頭部に回し蹴りを放った。男たちがもんどり打って道に転がる。
コートについた埃を払っていると、
「すごい! おじさん、ありがとう!」
ミンがシュバルツの手を取った。感激した様子で目を潤ませている。さらに「おーい」という声がし、路地からキョウジが姿を現した。
「すごいなあ。これ全部お前がやったの?」
「そうだよ! クロのおじさん、ホントにすごかったんだから! 三人をあっという間に、マンガのヒーローみたいにバッタバッタとやっつけたんだよ」
「うん。こいつは正真正銘のヒーローなんだ」
「えっ?」
「俺にできなかったことのすべてを、成し遂げてくれた男なんだよ」
むず痒い気分になってきたシュバルツは「こいつらが目を覚ますと厄介だ。場所を変えよう」と二人を誘い、スラムへ向かった。
ミンは歩きながら、しきりにキラキラした目でシュバルツを窺い見ている。そこに怯えや反省の色がないのが気がかりだった。
「ミン、これでわかっただろう。陸は危険だ。無理な行商はもうやめなさい」
「えっ……」
高揚していたミンの表情が、一転して曇る。
「だいたい、そこまでお金に困っているわけじゃないんだろう? どうして物騒な陸で商売をする必要があるんだ?」
「えっと……その、それは……」
ミンは困ったように視線をさまよわせている。
「おい、ミンはこれでもレディなんだぞ。そんな尋問みたいな聞き方はないんじゃないか?」
「しかし、実際に危ない目に遭っているんだぞ」
「あのね、クロのおじさん。私ね、ほんとは……」
ミンがそこまで言ったその時、突然辺りが薄闇に包まれた。
雲がかかったにしては影が濃すぎる。見上げると、ロボットが空を背にして浮かんでいた。赤い体躯、曲がった背と長い腕。そのシルエットは猿を連想させる。しかし体長はおよそ五メートル、象ほどもある。大猿の化け物、という形容が似つかわしかった。
さらにシュバルツは自らの認識が誤っていることに気づいた。ロボットは浮遊しているのではない。鉄塊が風を切る唸り、広がる影。今まさにシュバルツたちに向かって落ちて来ようとしている。スケールが大きいため、咄嗟にわからなかったのだ。
考える間もなかった。シュバルツがキョウジとミンを抱えて跳ぶのと同時に、ロボットが地上に降り立った。シュバルツは跳躍の勢いのままビルの壁を駆け上がり、屋上の縁に立つ。見下ろすと、今しがた歩いていた場所にロボットの足が突き刺さっていた。
「不審者に告ぐ」
拡声器を通した声がビル街に反響する。
「こちらはネオホンコン警察だ。貴様らの反社会的行動を確認した。治安維持法違反の疑いで逮捕する。抵抗すれば命の保証はしない」
「ミドルMSの一種か……? ただの浮浪者紛いを捕まえるのに機動兵器を使うなんて、正気の沙汰じゃない」
シュバルツに担がれたままキョウジが叫ぶ。
ミドルMSが瞬時にして屋上まで跳び上がると、背後から人の背丈ほどの長さの警棒を抜き取り、三人に向かって振り下ろした。シュバルツは咄嗟に二人を後方に投げる。両手で警棒を受け止めると、衝撃にシュバルツの体が軋んだ。踏みしめる足場が崩れて陥没する。間髪を入れず敵が回し蹴りを放ってきた。すんでのところで体を反らせて躱したが、蹴りがキャスケットの天辺を掠め、空の彼方へと吹っ飛ばした。
ミドルMSは体勢を整えて戦闘の構えを取ったが、不意に「待て」と声を上げた。
「その顔……貴様まさか、キョウジ・カッシュか? あのネオジャパンの……?」
声に困惑が滲んでいる。
「しかし、キョウジ・カッシュは死んだはずでは……? いったいどうなっている?」
「幽霊、とでも思ってもらえると助かるのだがな」
パイロットが動揺しているのを見逃す手はない。シュバルツはミドルMSの足元へと跳ぶと、右の膝裏を諸手で打突した。巨体が大きく傾ぐ。倒れるその瞬間、体を横に回転させパンチを放ってきた。背後に引いてかわすと、鋼鉄の拳が地面にめり込む。コンクリートの床面にヒビが走り、たちまち大穴が空いた。
穴の中へと落ちていく敵を追う。重い巨体が床に仰向けにめり込み、シュバルツはその胸部に着地した。シュバルツを認めると警棒を振るってきたが、距離が近すぎるため攻撃に重みがない。シュバルツは警棒を掴むと逆に奪い取り、自らの背丈ほどもあるそれで機体の肩部を次々に叩き潰した。それから警棒を捨て、胸部コックピットハッチを無理やりこじ開ける。呆然とした顔のパイロットの襟首を掴んで引きずり出し、首根に手刀を打ち込むと、パイロットは小さく呻いて気絶した。
シュバルツはパイロットを放り出し、ジャンプして屋上へと戻った。かろうじて残った床の隅に、ミンとキョウジが身を寄せうずくまっている。シュバルツが近寄るとミンが立ち上がり、「おじさん、無事だったのね!」と顔を輝かせた。
「ここは危険だ。場所を移動するぞ」
シュバルツは二人を両肩に担ぐと、屋上から身を躍らせた。屋根から屋根へと跳び、街を駆け抜ける。あっという間にボートを泊めた桟橋へとたどり着いた。二人を下ろすと、ミンは猛スピードでの移動に酔ったのか、目を白黒させていた。
「ミン、大丈夫か」
「うん、平気……」とは言うものの、しきりに咳き込んでいる。「とにかく、うちに戻ろっか。今日のお礼に、ご馳走うんと作ってあげるね」
「いや。戻ることはできない」
「えっ?」
シュバルツは片膝をつき、ミンの顔を覗き込んだ。
「私の素性を警察に知られてしまった。これからネオホンコンが総力を挙げて私を確保しに来るだろう。だから、これ以上君たちの家に厄介になることはできない」
「そ、そんな……」
「私たちはこの街を去る。おそらく君たちの船にも警察が来るだろうが、うまくしらを切って乗り切ってくれ」
「やだよ、おじさん。行かないで!」
叫ぶなり、ミンが抱きついてきた。小さな体が震えている。
「警察に追われててもいいよ。私たちがおじさんをかくまうから……だからずっとうちにいて。私たちのそばにいて」
「……ミン。聞いてくれ」
シュバルツは小さな背にそっと手を回した。
「私は私として生を受けてから、ずっと戦いの連続だった。安らぐ暇など片時もなかった。だから、君たちのところに身を寄せて……生まれて初めて、平和な日々というものを実感として知ることができた」
「おじさん……」
「けれども、まだやらねばならないことが残っている。だから私は……私たちは、行かなければならないんだ。……すまん」
「……そっか……」ミンが鼻をすする。「……じゃあ、おじさんのお仕事が全部終わったら……その時は、うちに戻ってきてくれる?」
「ああ。その時は、きっと」
「……ありがと」
ミンがシュバルツから身を離す。
「あのね、おじさん。私ずっと、おじさんにプレゼントを買うために行商頑張ってたんだ」
そう言って、たすき掛けにしている鞄の中を探る。取り出したのは、ハトロン紙で包装された大きな包みだった。
「これ。開けてみてくれる?」
シュバルツは包みを受け取り、包装を開ける。中には見慣れたネオドイツの軍服一式が入っていた。
「これは……」
「おじさん、この服欲しそうにしてたから」
ミンが涙ぐみながら笑う。
「私、なんとなくわかってた。おじさんはきっとすぐ、ここを出て行くんだろうなって……ずっと寂しそうな目をしてたから。だから、なにか思い出になるものをプレゼントできたらいいなって……そう思って」
「ありがとう。心から感謝する」
軍用コートを掴み、虚空に広げる。次の瞬間、シュバルツは完璧な軍装に身を包んでいた。
「すごい! 今のどうやったの?」
「ミン。私にはお返しに渡せるものがなにもない」
騎士のようにひざまずき、ミンの手を取る。
「だから、せめて名前を残していこうと思う。私の本当の名前はシュバルツ。シュバルツ・ブルーダーだ」
「シュバルツ……」
「いつか再会する時まで、君の心にしまっておいてくれるだろうか」
「うん。絶対、忘れない」
丸みを帯びた紅い頬を、一筋の涙が伝う。
シュバルツはミンをひとりボートに乗せた。エンジンをかけ、海へと押し出す。
「シュバルツ! 絶対絶対、死なないよね! 生きてまた会えるよね!」
「ああ、きっとだ!」
ミンの乗るボートはどんどん小さくなる。夕闇に紛れて見えなくなってから、シュバルツは「行こう」とキョウジを伴い、桟橋を出た。
波止場を突っ切り、人気のない裏通りを急ぐ。しかし石畳に響くキョウジの足音がふと止まった。振り返ると、キョウジはカンカン帽とサングラスを外し、素顔を晒している。暗い街灯の下、その面立ちはひどく疲れたように見えた。
「シュバルツ。君が本気を出せば、顔も素性も変えてミンと一緒にいることができる。そうだろ?」
「なにを言っている、キョウジ?」
「俺の影であることをやめる、っていう選択肢もあるってことさ」
「あり得ない。少なくとも私はそれを望まない」
「お前は無自覚すぎるよ、シュバルツ。痛々しいほどにね」
「無自覚? 私が? いったいなにに」
「俺からなにもかもを奪われている、っていうことにだよ」
シュバルツはキョウジを睨みつけた。キョウジはただ静かに見つめ返している。
「俺はかつてお前を殺した。そのうえお前に俺自身を植えつけた。お前は俺を憎んだっていいのに、そうしない。今もなお、影として俺に尽くし続ける」
「それが私の望みだからだ」
「お前自身の望みじゃない。俺によって作られたものだ。そう願うように、俺にずっと仕向けられてるんだよ。お前は」
キョウジの言葉が、シュバルツの奥深い部分に鋭く突き刺さる。
「……作り物だというのか。私という存在も、この心も」
「デビルガンダムを倒すという、俺の目的は果たされた。お前はもう、自由になっていいんだよ。俺の呪縛から解き放たれるべきなんだ」
「……自由になど、興味はない」
シュバルツはキョウジに詰め寄った。
「解放になど意味はない。ドモンを守りお前の願いを叶えるという、そこにしか私の生きる意味はない。今までも、そしてこれからもだ」
「だからそれは、」
「たとえこの心が作り物だとしても、そんなことは大した問題ではない。私は私の願いのままに生きる。たとえお前であろうと、それを邪魔だてすることはできない!」
「ちがうんだ、シュバルツ……」キョウジの顔が苦しげに歪む。「お前を否定したかったわけじゃない。俺はただ、お前自身の人生を送ってほしいだけなんだ」
「そう願うのならば、ひとつ頼みがある」
「……え?」
「この先のスラムにある満貫商店という店に行け。そこの主人が密航の道案内をしてくれる。明日の朝五時発の船で、ネオジャパンコロニーに向かうんだ」
「密航だって? お前も行くのか?」
「私は行かない。座席は一人分しかない」
「シュバルツ、またお前はそうやって……!」
「自己犠牲などではない!」
シュバルツはキョウジの胸ぐらを掴んだ。
「新宿で、ギアナ高地で、ランタオ島で、私はドモンに決断を強い続けた。その償いがしたいんだ。このことだけはキョウジ、お前に仕組まれた願いではない。私だけの記憶、私だけの本当の願いだ!」
キョウジは息を呑み、言葉を発せられずにいる。
「私の気持ちを尊重したいというのならば、言うことを聞いてくれ。本物の兄として、どうかドモンを助けてやってほしい」
「シュバルツ……」
「明日の五時まで、私が警察と軍を引きつける。その間に、なんとしても出発するんだ。わかったな」
懐から出したタブレットをキョウジに押しつけると、シュバルツは一息に虚空へと跳んだ。
「待ってくれ! シュバルツ!」
キョウジの叫びが路地にむなしく響く。それを振り切ると、シュバルツはビルの屋根から屋根へと飛び移り、街を目指した。