その教室へと足を踏み入れた時、八幡は気付いた。否、正確には思い出した。そこに座っている人物の顔を見た時、全てを悟ったのだ。
奉仕部、という単語を彼に語ったのが誰であったのか、視認したことで記憶の引き出しがようやく開いたのだ。
「あら、いらっしゃい。ようこそ奉仕部へ」
そう言って微笑む彼女を見て、獲物を見付けたと言わんばかりの表情を浮かべている雪ノ下雪乃を見て。
「あ、雪ノ下さん! ってことは、ここは雪ノ下さんの部活?」
「ええそうよ。今は私しかいないけれど」
それは部として大丈夫なのか、と八幡は思ったが、目の前の得体の知れない美少女は一人でも何か出来そうな気配がするので気にしないことにした。加えると、そのうち人手を増やそうとも思っていると本人が言ったことも大きい。
「そんなわけだから、もしよかったらこの部に入らない?」
「え? あたし達に出来るかな……」
「おいちょっと待て何でナチュラルに俺混ぜ込んでんだよ」
「え?」
「何言ってんだこいつみたいな目をやめろ。俺は奉仕活動は微塵も興味がない」
でしょうね、と雪乃が微笑む。その微笑みは優しさから来るものでは決してなく、むしろ分類するのならば嘲笑というものに近かった。勿論八幡はそれを理解したので、この野郎と顔を顰めさせる。
そうしながら、そもそもここに来た理由はそれじゃないだろうと結衣に言い放った。あ、そうか、と思い出したように手を叩く彼女を見て、彼は無言でチョップを叩き込んだ。
「痛い! ……けど、ホントだ。普通のツッコミレベルだ」
「だろう? なんせここに至るまでにクソ野郎に散々文句言われたからな。比企谷マジウザい、全然ウケないんだけど。とな」
「……それでも仲が続くんだ」
「非常に不本意ながらな」
むう、と結衣が唇を尖らせる。そんな彼女の態度がどういうことなのかいまいちよく分からない八幡は、それを流すと本題に入れと再度促した。むくれた表情のまま、しかしそこはしっかりと切り替え。分かった、と結衣は頷き表情を戻す。
「えっと、雪ノ下さん」
「何かしら」
「今回は相談をしに来たんだけど……」
「ええ。聞きましょう」
いい加減立ち話もなんだから、と雪乃は二人に椅子をすすめる。適当に座った二人は、では改めてと用件を話し出した。
とはいってもそれ自体は簡単なものである。早い話が料理の腕を上達させたい、だからだ。成程、と頷いた雪乃、少しだけ考え込む仕草を取った。
「えっと、難しいかな……?」
「それはあなた次第ね。上達しようとする意志が無ければ、何をやっても無駄よ」
「やる気はあるし! とりあえずヒッキーに美味しいって言わせる」
「……あら。へえ、ふうん……」
「おいその目やめろ。その手の勘違いは俺が一番大怪我するから本気でやめろ」
あらあら青春ね、と言わんばかりの目をした雪乃を八幡は全力で否定した。女子の思わせぶりな行動など九割以上が勘違いだ。それが彼の持論であり、とりあえず結衣のそれはもしあったとしても親愛以上のものはないと断言する理由である。正しいかどうか、というのはここに考慮されていない。
ともあれ、そんな本題に関係ない余分な情報は時間を無駄に費やすだけだ。結局出来るのか出来ないのか、と八幡が雪乃に問い掛けると、彼女は彼を見て薄く笑い、結衣に視線を戻した。
「その相談、承ったわ。それで、何か作りたいものはあるかしら?」
「んー。とりあえず、クッキーとか」
「クッキー……? 上達の必要があるの? 有名パティシエに匹敵する腕前が欲しい、という相談だったのかしら」
結衣の言葉を聞き、雪乃は不思議そうな顔をした。それを聞いた結衣は結衣で、何か変なことを言ったのだろうかと首を傾げている。
どうやら双方伝達に食い違いがあったようだ。それを何となく察した八幡は、とりあえず理解の早そうな雪乃へと声を掛ける。お前は勘違いをしている、と言葉を続けた。
「さっきの相談の内容は意図的に端折られた部分がある」
「うぐぅ!」
「意図的に? 何かしら?」
雪乃に理解させようと放った言葉は、逆に結衣に自覚をさせてしまう結果になったらしい。バツの悪そうに顔を逸らし、いやだってしょうがないじゃんとぶつぶつ呟いていた。
「こいつは料理ド下手糞だ」
「言い方ぁ!」
「致命的に料理の腕前がない」
「変わってない! 酷くない!?」
結衣の叫びを知らんと流した八幡は、そういうわけだと雪乃に告げた。それだけで大体察したらしい彼女は、しかし一体どの程度の下手さなのかは知っておきたいと顎に手を当て考え込む。
だったら丁度いいものがある。そんなことを言った八幡は、結衣のカバンを軽く叩いた。
「ガハマ、あれ出せあれ」
「あれ? ……あれ、かぁ」
渋々といった様子でカバンを開けた結衣は、そこから包みを取り出した。半透明のそれから見えるのは黒い物体。本人はクッキーだと言い張る何かである。
それを無言で見詰めていた雪乃は、手渡されたそれを開けると一つ摘まみ、そのまま八幡の口元へと近付けた。
「何する気だ!」
「試食よ」
「自分でやれ!」
「私が死んだら誰が由比ヶ浜さんに料理を教えるの?」
「そこまでじゃないよ! ……多分」
遠回し、というほどでもない勢いでボロクソ言われた結衣は思わずツッコミを入れるが、しかし自分でも何となく分かっているので強く言うのは憚られた。でも流石に死にはしないと思う。そんなことを心の中で言いつつ、自分も食べるからと雪乃の持っている包みから一つ取り出した。
「おいガハマ。お前まさか味見してないのか?」
「……したし。ちょっとだけ」
「しっかりと味見はしていない、と。ふむ……とりあえずの改善点は見えたわ」
「え? 今ので?」
こくりと雪乃が頷く。早い話が自分で食べないから失敗するのだ。そういうような話を彼女は口にした。自分で食べないから、分量が合っているかどうか、火加減が正しいか、時間は適切かを見極められない。正しいかどうかを判断出来ない。
「そんなもんか?」
「とりあえず、と言ったでしょう? 他にも色々あるでしょうから、一度由比ヶ浜さんの調理風景を見てみましょう」
「こいつに料理させると出来るのはそれだぞ」
それ、と雪乃が持っている黒い物体を指差した。そうね、と軽く返した雪乃は、その隙を見計らい八幡の口へクッキーだとは思えないものを突っ込む。勢いをつけ過ぎて指まで入れてしまい、彼女の指が彼の唾液で少し濡れた。
「さて比企谷くん。お味は?」
「お前覚えてろよ。……クソ不味い」
「少なくとも致死性はないようね」
「当たり前だし!」
「つってもこれ、あれだぞ。ギャグに出来ない不味さ。苦いのは分かるが、何でクッキーが生臭いんだよ……」
「恐らく卵でしょう。それだけ焼いたのに生の部分が残っているのは最早芸術ね」
「うぅぅぅ……」
ボロクソである。分かっていたけど、と肩を落とした結衣に向かい、大丈夫だと雪乃は述べた。どん底ならば、後は上がるだけだと彼女を諭すように告げる。
「さて、では家庭科室にでも行きましょう。材料は……まあ向こうにあるのを拝借すればいいとして」
「良くねぇだろ……」
こいつ本当に大丈夫か、と八幡は思ったが、今更どうすることも出来ないので諦めることにした。
「おお、一応食えるぞ」
「褒めてない!」
家庭科室から承諾を得た上でギッた材料を使い作ったクッキーは、三度目でようやくその名を冠するものが出来上がった。最初の木炭の紛い物と比べれば格段の出来なので、八幡からすればこれ以上ないほどに褒めている。当然ながら結衣は納得いかなかった。
「ううぅ……。何でうまくいかないんだろう」
しょぼんと肩を落とす結衣を見て、雪乃は苦笑する。傍目でも一生懸命なのは伝わってきているし、そこで諦めようともしていない。彼女としてはその姿勢は好ましいものであるし、その意志を見せられた時点でこちらとしては概ね依頼達成に近い。
とはいえ、それを口にするのはまだ先だ。そんなことを思った雪乃は、文句を言いつつバリバリとクッキーを食べている八幡へと向き直った。
「比企谷くん」
「何だ。俺は今ようやく普通に食えるようになったクッキーを味わってるんだ、邪魔するな」
「あら。……そんなに『由比ヶ浜さんの作った』クッキーに夢中なの?」
「その手は食わんぞ」
「最初に食べたじゃない、私の手」
「お前が突っ込んだんだ! とにかく、さっきまでの酷いのと比べるとちゃんと食べ物だからって理由だ。ガハマは関係ない」
ふむ、と雪乃は頷きちらりと結衣を見た。もう一回作る時間あるかな、と迷っている彼女を視界に入れると、まあ今回はここまでだろうと笑みを浮かべる。
ところで比企谷くん。そんな前置きをした彼女は、結衣がこちらを見たタイミングで言葉を紡いだ。
「そのクッキーがあなたの知らない女子の作ったものだったら、食べた?」
「は? ……まあ、女子の手作りとかそういう付加価値で大して美味くなくても食べたと思うぞ」
「そう。なら、その前の二回の状態だったら、どう?」
「流石に食わねぇよ……」
木炭の出来損ないとか、生地が死地になっているような物体は見知らぬ女の子の手作りというエンチャントが施されていても躊躇する。アリかナシかで言えばありよりのなしだ。
その言葉を聞いて満足そうに微笑んだ雪乃は、だったら、と言葉を続けた。どうして由比ヶ浜さんのそれは食べたのかしら、と彼に問うた。
「あ?」
「今の三回目はともかく、一回目と二回目もあなたは食べたでしょう? それは、何故?」
「いや、何故も何も無理矢理試食係にしたのはお前じゃん……」
「無理矢理、というほど強制してはいないわ。しょうがない、とこちらが何か交渉する前に了承したのはあなたよ」
「……」
言葉に詰まる。確かに、流されている部分は多々あったが逃げることも怒ることもなく渋々ではあるが試食を買って出たのは他でもない自分だ。そのことを分かっているのか、八幡は苦い顔を浮かべ雪乃を睨んだ。勿論彼女は気にしない。
「少し質問を変えましょう。あなたは、由比ヶ浜さんが作ったから、あの二回の失敗作も食べたのかしら?」
「別にガハマに限ったことじゃない」
「けれど、見知らぬ女子は駄目」
「……何が言いたい」
「言って欲しいの?」
ちぃ、と八幡は舌打ちする。雪乃から顔を背け、しかしそこで丁度こちらを見ていた結衣と目が合う。
ぼん、と音を立てるが如く、彼女の顔が真っ赤になった。
「そうね。やっぱり、
「勝手に言ってろ。そんな偽物の理解で満足するなら、いくらでもな」
「あら、いいのね。だったらもう少し好き勝手に言わせてもらうけれど」
ギリギリ、と彼の歯軋りの音が聞こえた。それを見て満足そうに微笑んだ雪乃は、結衣に向き直ると今日はここまでにしましょうと述べた。流石にそろそろ部活動も終わらねばならない時間だ。
「え? あ、うん。そうだね」
「調理場の片付けをして、鍵も返さないといけないもの」
「あ、そっか。じゃあ、洗い物するね」
ボウルやバットを流しで洗い、ヘラやスプーンも片付けていく。そんな結衣を見ながら、雪乃は材料の片付けと机の拭き掃除を行った。
そして残された八幡は。はぁ、と溜息を吐くとクッキーの乗っていた皿の上のペーパーをゴミ箱に放り込み、それを持って流し台へと向かう。結衣の隣に立つと、置いてあったスポンジで軽く洗い始めた。
「ひ、ヒッキー……!?」
「何だ」
「ち、近くない?」
「はぁ? お前普段俺との距離どれだけ詰めてるか思い返せよ」
「……もっと、近いっけ……」
「記憶の容量尽きたのか? 流石に早いな」
「酷くない!?」
もー、と膨れる結衣を見て、八幡は鼻で笑う。そんなやり取りをして、二人揃って息を吐くと、何事もなかったかのように洗い物を再開した。ギクシャクとしたのは一瞬だけで、普段通りに戻ったらしい。
あくまで表面上は、である。彼は知らず知らずのうちに意識していたのかもしれないし、彼女は気付いていないだけで最初からそうだったのかもしれない。それを無意識に押し込んだだけなのかもしれない。
それでも。掃き掃除をしていた雪乃は、箒の柄に手を重ねその上に顎を乗せながら微笑んだ。まあとりあえずこんなものだろうと口角を上げた。
「料理の上達は、正しくレシピを認識していること、きちんと味見をすること、そして」
掃除を終えた雪乃は、箒を片付け二人に声を掛ける。洗い物も終わったので、戸締まりをして帰ろうと続けた。
家庭科室から奉仕部へと戻る。その途中、結衣は今度こそ美味しいって言わせると意気込み、八幡は鼻で笑いながら精々頑張ればいいんじゃないのかと挑発していた。
そんな二人を眺め、うんうんと雪乃は頷く。これでいい、と呟く。結衣の依頼は料理の上達。ならばこれは必要だろう、と一人ほくそ笑む。なにせ、必要な要素の一つは。
「そして――誰かに美味しいと言って貰いたいという気持ち。前二つは前提条件、そしてこれは必要条件。結局最後は」
愛情よね。二人に聞こえないようにそう言葉を締めた雪乃は、今日もいい仕事をしたとばかりに伸びをした。
尚、人によってはこれをなんと呼ぶか。代表として彼女の幼馴染である葉山隼人に代弁してもらおう。
「雪乃ちゃん……また余計なお世話焼いてるんだろうな……」
とりあえずゆきのんと葉山は絶対くっつかないのでご心配なく