その1
「マジかよ……」
「あはは」
「笑い事じゃねぇ……」
今日も今日とてテニスコートを丁度眺める位置のスペースで昼食をとっていた八幡は、結衣とダラダラと無駄話をしていた。この間のアナログゲームの一件が案外気に入ったらしく、彼から教えてもらったカードゲームもそこそこ乗り気で遊んでいる。
「でもこれ、高いよね」
「まあな。とある番組で出演者がダーツの景品にお願いしたらパジェロより高くなるから無理だと断られたってエピソードがあるくらいだからな」
「うわぁ……」
スマホで検索していたカードを眺め、結衣はそんな声を零す。もうちょっと安いカードゲームないかな、と隣に尋ねると、いくらでもあるぞと返された。
「まあ無理にやる必要もないしな。それこそ別のゲームをやればいい」
「ヒッキーと遊べるのがいいなぁ」
「……何か適当に考えとく」
「やた!」
いえい、とはしゃぐ結衣を見ながら、こいつはほんと無駄に元気だなと八幡は苦笑する。こいつのことだからそのうち向こうの面々と遊ぶ用に、とか考えているのだろうとついでに思いつつ、彼は視線を前に向けた。
丁度自主練を終えたらしい生徒が一人、テニスコートから出てくるところであった。
「あ、さいちゃん」
「やあ、由比ヶ浜さん、比企谷くん」
「練習熱心だな、戸塚」
戸塚彩加、二人のクラスメイトであり、八幡にとっては一年の頃からのクラスメイトにしてこの間の調理実習を共にした班員でもある少年である。少年である。見た目は女子だが少年である。本人が割と気にしているが少年である。大事なことなので何度も言った。
ともあれ、そんな彼は二人を見て今日も仲が良いねと微笑んだ。それを聞いて結衣は笑顔を浮かべ、八幡はどこか怪訝な表情を浮かべる。
「ん? それどういうことだ?」
「どういうこと、って。クラスのみんなも知ってるよ。二人がよくお昼を一緒に食べてるの」
「……何で?」
「何で、って……一緒にお昼持って教室出ていけば嫌でも分かるんじゃないかな」
そして冒頭に至る。完全にポカミスをやらかしていた八幡は、これから何を言われるかどんな目で見られるかを想像し暗い顔で項垂れた。
が、結衣はそんな彼を見て大丈夫だよと述べる。顔を上げた八幡に向かい、心配いらないと笑みを向ける。
「だってもうみんな知ってるんでしょ? でも別に何も言われてないじゃん」
「……そう言われてみれば、そうだな」
「そうそう。案外みんな気にしてないんだよ」
「……」
気にしてないんじゃなくて慣れたからだよ。そうは思ったが彩加は口にしなかった。二人の認識が最近になって発覚したのだと考えているので、口にするのが憚られたのだ。正直最初からバレていたのだという事実は彼の胸の中に飲み込まれた。
「しっかしさいちゃん、練習頑張ってるね」
「それ俺が一番最初に言ったやつな」
「あはは。うん、うちのテニス部まだまだ弱いから、せめてぼくが頑張らないとって」
へぇ、と八幡は彩加を見る。こんな華奢な体の割に相当なガッツを溜め込んでいるな。そんなことを考え、やはり光る奴は違うと頬を掻いた。
「とはいっても、やっぱり全体的に強くならないと駄目なんだけどね」
「お前以外は駄目なのか?」
「いや、正直ぼくもまだまだ。三年が次の大会でいなくなっちゃうとどうしようもないくらいには弱いかなぁ……」
あはは、と笑いながら彼は肩を落とす。そんな姿を見て、結衣はどうにか出来ないかなと八幡を見た。俺に頼るなお前も考えろ、とその視線に返すと、確かにそうだと彼女は思考を回転させる。
「あ、ヒッキーテニス部入らない?」
「何でだよ」
「スポーツ漫画とかでよくある展開にならないかな?」
「下手な奴が途中から入って何になるんだよ。俺を排除するために一致団結、とかか?」
「そこは自分が纏めるとか言おうよ」
無理なことは言わん、と堂々言い放った八幡は、そういうわけだから却下だと結衣に述べた。その時彩加が若干寂しそうな表情をしていたのに気付いたが、彼は敢えてスルーを決め込んだ。どうあろうと自分がテニス部に入ることはないし、入ったとしても二人の望むような結果は得られない。そう八幡は確信しているからだ。
しかしそうなると別のアイデアが必要になる。うーむと考え込んだ結衣を見ながら、八幡はやれやれと肩を竦めた。
「悪いな戸塚。力になれそうにない」
「そんな、いいよ。むしろ真剣に考えてくれてありがとう」
フル回転させ過ぎて煙でも出ていそうな結衣を二人で見やる。こういう何事にも真っ直ぐなのはこいつのいいところだよな、と八幡は一人考え、だからこそあのゴルゴンと親友なのだろうと余計なことも追加で考えた。
「まあ、もし何か思い付いたら――」
また話す。そう言いかけた八幡の言葉は、そうだ、という彼女の言葉に掻き消された。なんぞやと隣に顔を向けると、これは完璧だと言わんばかりの表情で立ち上がった結衣の姿が。勿論彼はとてつもなく嫌な予感がした。
「困った時は依頼だよ! 奉仕部行こう、さいちゃん」
「奉仕部?」
「おいこらガハマ何でクラスメイトを嬉々として悪魔の巣に案内しようとしてるんだお前は」
「え? ゆきのんなら何かいいアイデア出してくれるくない?」
「くれ……ないとも言い切れないが絶対碌でもない結果になるぞ」
「むー。ヒッキーゆきのん嫌がり過ぎだし」
「お前これまでのあいつと関わった事件思い返せよ」
「全部ハッピーエンドじゃん」
「お前ん中ではな!」
そう言って吠えるが、八幡の言葉を聞いても結衣はそうかなと首を傾げるばかりである。実際彼女自体はそこまで被害に遭っておらず、他の依頼人である優美子やいろはも何だかんだで実質ダメージは軽微。材木座は結局ハッピーエンドになっていた。
つまり八幡だけがボロクソなのである。
「……まあつまりあれか、俺が関わらなきゃ俺にダメージは無し。だったら問題なしか」
「何かヒッキーが変なこと考えてる」
「会話の流れ的に妥当じゃないかな……」
あはは、と苦笑する彩加を見ながら、じゃあとりあえず放課後だねと結衣は拳を振り上げた。
「何でここに俺がいる……」
「どうしたの比企谷くん。自分の存在に疑問を持ち始めて。アイデンティティの崩壊かしら? 崩壊するような自己があったなんて驚きね」
「何でお前は息をするように俺を罵倒するんだよ」
放課後の奉仕部である。俺は絶対に関わらないからな、と昼休みにお笑い芸人のお約束のようなことをのたまっていた八幡は、ものの見事にその通りと相成っていた。
彼の目の前では結衣と彩加が依頼について話している。それらをノートにメモしながら、雪乃は八幡のボヤキに対応していたというわけだ。
「それで、どう? ゆきのん、何かいいアイデアないかな?」
「そうね……一番手っ取り早いのは、部員が強くなることだけれど」
肉体改造が必要ね、と雪乃は呟く。なんてことのない一言であったが、八幡はそれがどうにも仮面ライダー的な意味に聞こえて思わず身震いした。
とりあえずは目の前から、と視線を彩加に向けた雪乃は、彼を見ながら口角を上げる。その笑みはいつぞやのように営業スマイルだ。当然のことながら、やはり彼女の営業先はまちがっている。
「え、っと。雪ノ下さん?」
「心配しないで。奉仕部は哀れな子羊に救いの手を差し伸べるのが仕事よ」
「お前絶対子羊を羊にしてからラム肉にするよな」
「ではまず比企谷くんをぶち殺すところから始めましょうか」
「物騒だ!?」
髪を靡かせながら雪乃は冗談の一切ない声色で躊躇いなくそう言い放った。当然ながら結衣のツッコミはスルーされた。
その代わり、心配しないでと彼女は結衣に向き直る。比喩表現で本当にぶち殺すわけではないのだから。そう言って微笑むと、雪乃は彩加へと視線を戻した。
「あなたを強くしてあげるわ。代償は比企谷くんの命だけど」
「魔女かよ! そこは当人の命を使えよ! いやそれも駄目だな、ガハマにしとけ」
「何でだっ!?」
ずずい、と結衣が八幡に迫る。不満そうに彼を睨み、ぐいぐいと距離を詰めた。
当たり前だが当たっていた。
「いや、このアイデア出したのお前じゃん……」
「う。それはそうだけど」
「大丈夫。由比ヶ浜さんの命は取らないわ」
「俺の命は取るのかよ。いやさっき比喩表現って言ってたじゃねぇか」
はぁ、と溜息を吐きながら結衣をどかす。柔らかな感触が失われたが、これ以上それを味わうと彼の命が世間的に無くなりそうであったので自重した。そうしながら、話が進まないと雪乃を睨んだ。
「私は進めているつもりよ。とりあえずテニスの練習は一人では限界がある。そのためのサポートをお願いしようと思ったの」
「回りくどい」
「あなたはそういうのが好きでしょう?」
「時と場合によりけりだろ。今回はいらん」
溜息をもう一度。こいつといると溜息がどんどん増えていくと八幡は心中でぼやきながら、諦めたようにその方法を問い掛けた。サポートというのは、何をしたらいい、と。
それを聞いて笑みを浮かべた雪乃は、とりあえず明日の昼休みにしましょうと言い放つ。一体何を、と問い掛ける必要もない。勿論彩加の強化を開始するのだ。
そうして始まったそれだが、八幡は翌日の初日で早くも後悔する羽目になった。何故か一緒に特訓をさせられる羽目になったからだ。
「おい、ゆきの、した……」
「どうしたの比企谷くん、目が死にそうよ。いつもだけれど」
「何で俺が一緒にやってんだよ……」
「一人でやるより競い合う相手がいた方がモチベーションが上がるわ」
言いたいことは分かるが、それでこの状況は納得出来ん。そうは思ったがそれを口に出来る体力が無かったため、八幡は睨み付けることで返答とした。勿論雪乃は笑って弾いた。
「でもゆきのん、ヒッキー割とガチで死にそうだよ?」
「普段から運動もせず甘いものばかり摂っているからこうなるのよ」
「お前自分のこと棚に上げてねぇだろうな……」
「勿論、体力には自信がないわ」
「無いの!?」
自信満々でそう宣言する雪乃に結衣は驚き、八幡はこの野郎と一歩踏み出す。だったらお前もやれ、という彼の言葉に、彼女は笑顔で首を横に振った。
「私が死んだら誰が戸塚くんの指導をするというの?」
「だから死ぬような特訓させんじゃねぇよ!」
「あら、誤解のないように言っておくけれど。あなた達は死なないわ、私が死ぬだけよ」
「何で自信満々なんだよお前……」
もういい、と肩を落とした八幡は、息を整えた彩加と共に次は何をするのかと問い掛けた。それに満足そうに雪乃は頷くと、筋トレのメニューが書かれた紙をぴらりと掲げる。
どらどら、とそれを覗き込んだ八幡はそのまま動きを止めた。それを見て首を傾げた結衣も同じように紙を覗き込む。
「昼休み終わっちゃうよゆきのん……」
「言われてみればそうね。時間を失念していたわ」
紙を自分に引き寄せると、ポケットから出したペンで打ち消し線を引いていく。最低限この辺りだろう、と残った筋トレメニューを眺め、では改めてとそれを突きつけた。
「えっと、この辺は部活でもやってるやつだけど……これは?」
「戸塚くんは見た感じ、男子の肉体を作るより女子の肉体を作った方が手っ取り早いわ」
「ゆきのん、ちょっと何言ってるか分かんない」
「ああ、ごめんなさい。つまり、男子テニス用のトレーニングより女子テニスプレイヤーに近い体を作るトレーニングの方が的確だと思ったの」
「ははは……あんまり嬉しくない」
自身の体を確認するようにぺたぺたと触れた彩加は、苦笑しながらも肩を落とした。こう見えてもちゃんと男子なんだけど。そう呟くが、それに力強く同意してくれる人間は生憎ここには一人もいない。結衣ですらあははと笑って濁した。
「気を落とさないで頂戴。早い話がパワーよりスピードやテクニックを鍛えようというだけなのだから」
「最初からそう言えよ」
八幡の抗議は無視された。では早速始めましょうといないものとして扱われたまま再び彩加の特訓が始まる。当たり前のように八幡も参加させられた。
覚えてろよ雪ノ下、という恨み節を満足そうに聞きながら、彼女は結衣に向き直る。とりあえずこれは定期的に続ける基礎だから、と口にして、次のステップの準備をするために動こうと述べた。
「そのために、由比ヶ浜さんも協力、してくれるかしら」
「えっと……」
ちらりと八幡を見る。明日絶対筋肉痛だろうな、と彼の冥福を祈りつつ視線を眼の前の雪乃に戻した。巫山戯ておらず真面目なその表情を見て、彼女は首を縦に振った。由比ヶ浜結衣は優しい少女なのである。
「心配しなくとも、由比ヶ浜さんは戸塚くんへ球出しなどを担当してもらうから」
「あ、そういうやつなら全然おっけー」
「ありがとう由比ヶ浜さん」
いつの間にか持っている雪乃のスマホでは、会話アプリが起動している。その画面には会話相手の名前もしっかりと表示されていた。
『……本気で言ってる?』
そんなメッセージを受信したのを確認し、ええ勿論と彼女は返答する。ついでにお気に入りのパンさんスタンプも追加しておいた。そのメッセージに既読マークはすぐについたが、返答は中々来ない。そのままスルーした、というわけではないのは相手の性格上分かっているので、雪乃はその画面のまま二人の筋トレを暫し眺める。
ぽん、と音がした。画面を見ると、相手の返答が表示されている。分かった、という言葉と、明らかに罵倒であろうスタンプ。それらを見やり、雪乃は口角を上げた。
「心配しなくとも、大丈夫。――由比ヶ浜さんは、ね」
そう呟くと、彼女は適当なスタンプを押して会話アプリを終了させた。そこに表示されていた名前を見られないように、画面を消した。
葉山隼人、と記されていた会話相手とのやり取りを知られないように済ませると、ああそうだと彼女は手を叩く。
「ついでに、他の依頼も並行しましょう」
再度スマホの会話アプリを起動させると、彼女はお目当ての名前へとメッセージを送った。三浦優美子、一色いろは、と表示されているその相手に悪魔のささやきを送り届けた。
「これでよし。後は、葉山くんと」
ちらりと目の前を見る。限界を迎えテニスコートでへばっている死んだ魚の目をした少年を眺め、それを介抱する少女を見詰め、雪乃は楽しそうに笑った。
「彼次第、ね」
その笑みは、平塚静教諭が見ていたら非常に嫌な顔をしながらこう述べたであろうものである。呆れながら、溜息を吐きながら、それでも言い淀むことなく口にする感想である。
姉にそっくりの、とてつもなく悪い顔をしてるぞ。