入院生活が二週目に突入した。相も変わらず足の骨は折れたままであるし、肋骨のヒビは治っていない。つまりは動きたくないということであるが、それでも、否、それだからこそ八幡は敢えて勉学の道を選んだ。
嘘っぱちである。見舞いなのか勉強会なのか分からない状況になってしまった結衣の訪問に備え、とりあえず相手にドヤ顔できる程度には知識を身に着けておこうと無駄に張り切った結果である。勿論病室に勉強道具など持ち込んではいないため、彼は両親に自身の部屋にあるであろう教科書一式とノート、筆記具を持ってくるよう頼んだ。
頭の精密検査を受けた方がいい、と本気で心配された。妹の小町には死なないでお兄ちゃんと泣かれた。
「信頼って凄いな」
一人呟く。もっとも自分が両親の立場なら同じ態度であっただろうと容易に想像出来るため、そこを深く掘り下げることはない。
まあ精々その期待に応えてやろうじゃないかと半ば自棄になって教科書を読破していた八幡は、コンコンというノックの音で我に返った。時刻を見ると、そろそろ放課後になった頃だ。
「やっはろー」
「はいはいやっはろやっはろ」
「乗るならしっかり乗ってよ」
ぶう、と頬を膨らませた由比ヶ浜結衣は、扉を閉めるとテクテクと彼のベッドまで歩いていく。今日はしっかり勉強用具も持ってきたから、と笑う彼女のボディにはカバンが掛けられていた。勿論斜め掛けである。左肩から袈裟斬りのように右腰に掛けられているのだ。
「さて、じゃあよろし――どしたの?」
「いや、ちょっと円周率がな」
なんのこっちゃと首を傾げる結衣をよそに、八幡はじっと彼女の鞄の紐を見る。見事なパイスラだ、と感心するように頷くと、病室に置いてあった机を指差した。
「由比ヶ浜、ちょっとあれ持ってきてくれ」
「あれ、って机? りょーかい」
カバンを肩から外し部屋の脇に置く。そうした後、よいしょ、と机の端を持って下から上に持ち上げた結衣は、へその辺りで机を保持するとえっちらおっちらと運んできた。机の上にナニカ乗っていたが、八幡は紳士なのでそれを指摘することなく自分の脳内メモリーに保存するのみに留める。
「……何かいやらしいこと考えてない?」
「失礼だな、この曇りのない眼に向かって」
「水揚げされたマグロみたい」
「死んでんじゃねぇか! 大体俺は別にそんなにDHAが豊富でもない!」
「怒るとこそこ?」
勉強教えるの辞めようかな。そんなことを思いながら死んだ魚の眼をついと逸らした八幡は、しかしそれはそれで昨日今日の勉学が無駄になるような気がして踏み止まった。そうだ、自分はこれから目の前のあっぱらぱーに頭脳の差を見せ付けて勝利の余韻に浸らなければならないのだ。
よし、と気合を入れ直し、八幡は持ってきた机の上に自身のノートと教科書を広げた。結衣もそれに習うようにカバンからノートと筆記具を取り出す。
「さて、では始めるか」
「うん。で、何からやるの?」
それを聞く前にノート広げている時点でこいつはどうしようもない。そう思ったが、この先に待っている自分のドヤ顔と目の前の相手の敗北顔のためにぐっと堪える。どうやら取り出したのは現代文のノートのようで、特に何の面白みもない黒板の板書の写しがそこにあった。
「じゃあ、現文にしよう」
「あ、ちょうどこれだ」
「おう。で、だ」
今彼女のやっている範囲の話を聞く。ふむふむ、と頷いた八幡は、ちなみに分からないことはあるのかと問い掛けた。
「これ、どういう話なの?」
「そこからかよ!」
入院生活が二桁に突入した。何だかんだでお見舞いついでの勉強会は八幡自身にもいい影響を与えたようで、学校に復帰して早々補習という自体は避けられそうではあった。
もっとも、基準が眼の前の少女である。これが最底辺であった場合、案外大丈夫でもないかもしれない。そんな危機感をほんの少しだけ覚えた。
「それにしても」
「ん?」
「ヒッキーって理数系全然駄目なんだね」
「全科目全然駄目に言われるとそこはかとなくムカつくな」
「全部じゃないし! は、八割くらいだし……」
「その場合は全部の方がネタになる分マシだろ」
「酷くない!?」
ぶうぶう、と抗議をしてくる結衣を適当にあしらった八幡は、そんなことはいいからとっとと課題をやるぞとノートを叩いた。今日は彼女の課題を手伝うという明確な目標がそびえ立っていたのだ。
「分かってますよーだ。ねえ、ヒッキー、ここはどうすればいいの?」
「お前な、言ったそばからノーシンキングで俺に聞くんじゃ――ウェイト」
「へ? どしたの?」
「どうしたのかは俺のセリフだ! お前今俺のことなんつった?」
「え? ヒッキー?」
「何がどうなって唐突に罵倒してんだよ!」
ばん、と机を叩く。思いの外大きな音が出て、そして思った以上に手の平が痛む。が、それを顔に出せば今の空気があっという間に霧散してしまうだろうと必死で耐えた八幡は、盛大な溜息を吐きながら目の前の少女を見た。
「あのな。俺が今引きこもってるのはしょうがないことなの。だって脚折れてるんだぜ? 普通に考えて歩きたくないだろ。松葉杖使って必死こいて自販機コーナー行ったところでMAXコーヒーが売ってないんじゃ何の意味もないしな」
「え? あ、うん、そうだね?」
「そうだろ? だからな、俺は決して引きこもりたくて引きこもってるわけじゃない。仕方なく、しょうがなく! 病室から出ないだけなんだ」
もう一度溜息。分かったか、と目で述べた八幡は自身の座っていたベッドに寝転がる。横に交差するような体勢なのでほんの少し頭がはみ出したが、彼はそこを気にしなかった。
「ねえヒッキー」
「分かってねぇじゃねぇか!」
「え? 何が?」
「だから俺は好き好んで引きこもってるわけじゃ」
「そこは分かったってば。ていうか何でいきなりそんな話したの?」
「だからお前が俺のことをヒッキーとか言い出すからだな」
「へ? 比企谷だからヒッキー。良くない?」
そこにからかいは全く無かった。純粋に彼女はそれがいい感じのあだ名だと信じ切っている顔であった。
勿論八幡はそんな少女の顔を曇らせることなど余裕である。全然、と簡潔にばっさりと切って捨てた。
「何で!? 由来分かりやすいし呼びやすいしいい感じじゃん!」
「どこがだよ! 大体何だ比企谷でヒッキーって。だったらお前は槇原さんをマッキーって呼ぶのかよ!」
「槇原敬之はマッキーに決まってんじゃん」
「……そうだな。槇原敬之はマッキーだな……」
あれだったら間違ってないのか。そんなことを思わず考え、いや違うだろうと頭を振った。槇原がマッキーだとしても比企谷がヒッキーなのは認められない。そんな決意を胸に抱いて、八幡は真っ直ぐに結衣を見た。
「そんなに駄目かなぁ……」
「……いや、てか何でいきなりあだ名とか使い始めたんだよ」
日和った。目に見えて悲しそうだったので、これ以上文句をいうのが憚られた。比企谷はホントそういうとこヘタレだよね、と笑っている腐れ縁の顔が頭に浮かんだので、いいから消えろ折本と脳内で罵倒した。
「いや、だってさ。お見舞いに来てもう一週間くらいになるじゃん? そうなるとぶっちゃけ高校のクラスメイトと付き合いの長さそこまで変わらないし、いつまでも他人行儀な呼び方もなーって」
「そこであだ名に行き着いてしかもヒッキーとかどんだけだよ……」
せめて名字呼び捨てとか名前呼びとかだろ。そんなことを思いながら溜息を吐いた八幡は、しかし結衣が譲らんとばかりの表情をしているのを見て顔を顰めた。これはあれだ、何を言っても無駄なやつだ。そう結論付けたが、しかし彼としても出来ることならば譲りたくはない。
ぐぬぬ、と必死で思考を巡らせていた八幡であったが、しかし目の前の少女が名案を思い付いたとばかりに声を張り上げたことで我に返り思わず彼女を見た。清々しいまでのドヤ顔であった。絶対に碌な事にならないと確信出来るほどの笑顔であった。
「ヒッキーもあたしをあだ名で呼べばいいんじゃん!」
「……は?」
「そうすればおあいこでしょ? うんうん、あたしったら天才じゃない?」
目を瞬かせた八幡は、目の前の少女が本気で言っていることを確認してああもう駄目だと諦めの境地に入った。それでも寸でのところで踏みとどまり、起死回生の手を探す。
そうして出した結論に、彼は自分で自分を褒めたいとばかりに笑みを浮かべた。
「それで、由比ヶ浜。お前のあだ名ってのはどんなんだ?」
「え? あたしが決めるの?」
「おう、ビシッと良いのを一発頼む」
これが八幡の作戦である。比企谷でヒッキーなどというセンスを持った彼女ならば、自分自身のあだ名も間違いなく壊滅的であろう。そう判断した彼は、相手の攻撃を利用したカウンター作戦に打って出たのだ。
「えっと、んっと。……じゃ、じゃあ、由比ヶ浜結衣だから……ゆ、ゆいゆい、とか」
「……」
「何さヒッキーその顔」
「いや、なんでもない。……俺が呼ぶのか? それを?」
「自分で言い出したんじゃん」
むう、と唇を尖らせる結衣を見ながら、八幡は窮地に立たされていた。この作戦には重大な穴があったのだということを失念していたのだ。
そう、壊滅的センスによって生み出されたそのあだ名を口にするのは自分だということを、彼は完全に見落としていた。
「なあ、やっぱり無かったことにしないか? 俺もうヒッキーでいいから」
「何で!? いいじゃん、せっかくだからお互いあだ名にしようよー」
「思った以上にノリノリになってやがる……」
どうやらカウンターにカウンターを合わせられたらしい。八幡の脳内ボクサーは的確に顎を撃ち抜かれマットに沈むところであった。テンカウントどころが三十を超えたカウントが鳴り響く中、最早彼に退路などあるわけがなく。
ごくり、と喉が鳴った。本気か、本気で「ゆいゆい♪」とか呼ばなくてはいけないのか。頭に浮かぶ死刑宣告から必死で逃げるために脳内で足を動かすが、死神はひたひたとゆっくり確実に迫ってくる。ぶっちゃけもう喉に鎌当てられていてもおかしくない。
それでも八幡は逃げ続けた。その先が崖であろうとも、ビルの屋上であろうとも。何とかして回避しようと動き続けた。
「……ゆ」
「ゆ?」
「ゆ、ゆ、ゆ……」
しかし回り込まれてしまった。死神に羽交い締めにされた挙げ句ジャーマンスープレックスをかまされた八幡は、諦めの境地に達することで彼女のあだ名を口にしようとした。してしまった。
が、残っている僅かな理性がその腕を掴む。いいのか、ゆいゆいとか呼んだら最後、これからファンシーでメルヘンなその四文字がどこまでも付きまとうぞ。いいや限界だ、言うしか無い、言わざるを得ない。駄目だ、仕方ない。無理だ、分かってる。
「あぁぁぁぁああぁぁ!」
「うわ、ひ、ヒッキー。どしたの? キモい悲鳴あげて」
「どうしたもこうしたのあるかぁ! そんなあだ名呼べんわ! お前なんか名前からその四文字取っ払ってガハマで十分だ!」
彼の中で何かが切れたらしい。頭を掻きむしりながら支離滅裂なことを叫んだ八幡は、その支離滅裂な思考のまま思い付いたことを思い付いたまま口にし。
挙げ句叫んで宣言した上指まで突き付けていた。は、と気付いた時にはもう遅い。俺一体何言っちゃってんのとか後悔したところで、出した言葉は引っ込められないのだ。
「……ガハマ?」
「あ、いや、そのだな。つい勢いで言っちゃったというか。思考より反射が勝ったといういうか」
わたわたと手を振り回しながら必死で弁解するが、これはどう考えてもアウトだろうと八幡は確信していた。よりにもよって女子にこんな仕打ちをした日には、翌日からクラスの最底辺確実である。
ああでも別に元々似たようなものか。遠い目でそんな自虐が頭に浮かんだ。
「ヒッキー」
「あ? な、何だ由比ヶ浜」
「……」
「ゆ、由比ヶ浜?」
「…………むー」
そのタイミングで声を掛けられたので反射的に返事をしたが、当の本人は何やらご立腹である。ふくれっ面で八幡を睨みながら違うそうじゃないと言わんばかりに体を揺らす。それはつまり彼の返事が間違っているということで。
いや本当にそうなのか。そうは思ったが、しかしこの状況で現状思い付くのはそれしかない。もし違ったのだとしてもどうせ更に機嫌が悪くなるだけで済む。元々マイナスならば大して変わらない。
そんな思いを込め、彼はそれを口にする。
「……ガハマ」
「うん!」
「……マジかよ」
笑顔で返事をされた。それでいいのか、と思わなくもないが、しかしまあ本人が納得しているのならばもういいや。そんな本日三回目の諦めの境地に達した八幡は、今日何度目か分からない溜息を吐いた。
「疲れた……」
「え? 何で?」
「お前には理解出来ない悩みがあったんだよ」
まあいい、と彼は中断されていた結衣の課題に目を向ける。それで分からないところはどこだったのか、と尋ねると、ああそうだったそうだったと彼女はシャーペンを手に取った。
「ねえ、ヒッキー」
「んだよガハマ」
「……ちょっと、呼んだだけ」
「アホなこと言ってないで課題やれ課題」
はいはい、と結衣は満面の笑みで問題に取り掛かる。それを見て、今日最後になって欲しい溜息を八幡は零していた。