ごめんなさい。
うああああ! と悶える人物が一人。それほど大きくないソファで、心中で死にたいだの明日学校行きたくないだの叫んだ挙げ句、低い唸り声を上げながら転がっていた結果床に落ちた。
そのまま暫し死んだように動かなかったその人物、言わずもがな八幡は、再度思い出したかのようにジタバタと悶え始めた。その姿は死んだと思ったセミに近付いたら生きていて突如動き出すが如し。
そんなセミファイナル状態の八幡であったが、ふと気付くとリビングの入口に誰かが立っているのが見えた。それが誰かを認識した彼は、自身の妹である小町を視界に入れ、しかし何か言うことなくそのまま項垂れる。そんな動きをする兄を何やってんだという目で見下ろしていた小町は、スマホを何やら操作した後床に落ちている物体を避けつつソファに座り込んだ。
「それで?」
「……あ?」
「どうしたのお兄ちゃん」
「今聞くのか……」
「入り口に立ったままだと邪魔になるでしょ」
それはそうだが、と呟きながら、しかし八幡は床に転がったままである。立ち上がる気力が湧かない、そんなことを言いながら、とりあえず彼は自身を見下ろす妹へと答えを返した。
「ちょっとな……ラブコメヒロインになったんだ」
「……ふーん」
「流されるとそれはそれでキツイな……」
そんな八幡の呟きに、小町はだって真面目に聞く必要無さそうだしと切り返す。うつ伏せであった状態からごろりと回転すると、八幡はテーブルの足を掴んで無駄にこすり始めた。特に意味のない行動である。勿論小町は何も言わない。
「で?」
「で、ってお前……」
「言いたくないなら別にいいよ。小町だって無理には聞かない。愚痴りたいなら聞いたげる」
「笑うなよ」
「無理かな」
「即答!?」
床に転がったまま向きを変え小町を見る。その表情は既に笑顔、今のやり取りで八幡にとっては重要かもしれないが自分にとってはしょうもないことだと判断したらしい。
八幡本人もそれは分かっているので、はぁ、と溜息を吐いた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。ちなみに床に転がったままである。
「雪ノ下に、『付き合って』って言われたんだ」
「……ほぅ」
「いやな、話の流れ的にどう考えてもガハマへのプレゼントの買い物にってことだったよ。でもな、一瞬、ほんの一瞬だけドキッとしちまったんだ……!」
「美人だもんね、雪乃さん」
「まあ確かに顔っつうかスペックはいいな。逆に言うとそれしか良くない」
中身が酷すぎるからな。そんなことを言いながら、八幡は天井を見やる。そもそも、自分なんかに告白する相手がいるという前提がまず間違っている。それを重々承知の上で、しかしどうしてもその言葉に反応してしまう自分がとてつもなく嫌になる。ああやっぱり男という生き物は単純なのだと嘆きたくなる。
だがそれは逆に言うと、それだけ相手が親しいものだと認識しかけている証明にも成り得てしまう。見ず知らずの相手に言われたのならば、よく知りもしない程度の相手からの言葉ならば、当たり前のように八幡はそれを告白なのではないと判断するからだ。
「仲良いんだね、雪乃さんと」
「ふざけろ。あんなのと仲が良くてたまるか」
ふんと鼻を鳴らすと八幡はそっぽを向く。元々小町の方を向いてはいないので最早どこを見ているのか分からない状態になった兄を眺めながら、彼女はどこか楽しそうに笑った。
ああやって人を貶す時は、兄のあの貶し方は。
『なんだかクソ野郎がまた増えそうですよ』
『マジで? ウケる!』
スマホ画面のトークを見ながら、未だに立ち上がらない八幡の様子を伺い。
さてでは自分達も何かプレゼントを用意しようかな、とかおりとの約束を取り付けた小町は、もう一度楽しそうにケラケラと笑った。
週末である。約束の日、と言い換えてもいい。梅雨入りのニュースも入り、しかしそんなことも感じさせない晴れ間の広がる土曜日、比企谷八幡はどこかそわそわした様子で人を待っていた。一度落ち着いたものの、やはりあの時のショックがどことなく尾を引いている。
「比企谷めっちゃキョドっててマジウケるんだけど」
「うるせぇ死ね」
そんな彼を笑う人物が一人。小町と共に何故か八幡の横にいるかおりは、ケラケラと笑いながら遠慮なしに彼の肩を叩く。そんな痛みに顔を顰めていると、不意に彼女がその声を止めた。
あの人がそうなんだっけ。そんな言葉に視線を上げると、こちらに向かって歩いてくる雪乃の姿が見える。普段とは違う彼女の装いに、八幡は思わず動きを止めてしまった。
「お待たせ、比企谷くん」
「お、おう。いや、別にそこまで待ってもいねぇけど」
「カップルかよ! ウケる!」
ぷふー、と横で聞いていたかおりが吹き出す。そんな彼女を八幡は思い切り睨み付けると、それで今日はどうするんだと雪乃へ向き直った。
そうね、と頷いた雪乃は目的地を告げ、そこでならばお目当てのものが見付かるでしょうと彼に述べた。そうしながら、ちらりと小町とかおりを見た。
「あなた達も、目的は同じかしら?」
「あ、はい。そうです。でも小町達は別行動で探そうと思ってますよ」
「そーそー。えっと、雪ノ下さん? は比企谷の面倒見てやって」
「おい何でお前俺の保護者気取りなの? 生まれてこの方お前に保護された覚えは欠片もないんだけど」
「ええ、分かったわ。ええと、折本かおりさん、でいいのかしら?」
「うん、よろしく」
「無視かい」
はぁ、と溜息を吐いた八幡は、もうどうでもいいと視線を外した。そんな兄を生暖かく見守っている小町が視界に映り、やべぇ味方いないと彼は肩を落とす。
いやいや、と小町はそんな八幡に否定を述べた。小町は最初から最後まできちんとお兄ちゃんの味方だよ、と笑顔を見せた。
「小町……」
「ん? 今の結構小町的にポイント高かったでしょ?」
「雪ノ下けしかけた時点で破綻してるぞ」
「えー」
そんなにマズかっただろうか、と小町が首を傾げるが、八幡はジト目で彼女を見るのみ。そうしつつも、まあ確かに一人では限界があったので助かっているのもまた事実なわけで。
まあいいや、とどこか諦めたように頭を掻いた八幡は、とりあえず行こうぜと三人に声を掛けた。別段反対する理由もなし、改札口を通り、電車に乗って目的地まで進んでいく。
そうして辿り着いた大型商業施設の入り口にて、小町とかおりは笑顔で手を振りながら去っていった。後は若いお二人で。比企谷をよろしくねー。そんな二人の言葉を聞き、八幡はガクリと項垂れる。
何なのお前らほんと。彼の呟きは空気に消えた。
「良い妹さんと友人じゃない」
「本気で言ってんのか? いやまあ確かに小町はよく出来た妹だが」
「大好きなのね、妹さん」
「……まあ、家族だしな」
「折本さんも、似たような空気を感じたけれど」
「ただの腐れ縁だ。あのクソ野郎と小町を比べるとか失礼にも程がある」
「そうね。友人と家族の大切さは別だものね」
「……言ってろ」
ボリボリと頭を掻き、俺達も行くぞと雪乃に述べる。こくりと頷いた彼女は、それで具体的なアイデアはあるのかと問い掛けた。
「無いから依頼したんだろうが」
「自慢げに言うことではないわね。由比ヶ浜さんのデータは見せたはずだけど」
「参考にしろとか言ってたな。……犬の首輪でも買うか」
この間のノートで印象に残っている部分を思い返す。そう言えば犬のリードが外れたのが原因とか言っていたな、と当時の会話もついでに思い出した。が、流石にあれから一年以上経っているのにそのままということもないだろう。中々のアイデアだと思ったのだが、と自分で自分の意見を却下しながら彼はちらりと横の雪乃を見た。
「中々アブノーマルな性癖ね」
「その発想に至るお前の思考の方がアブノーマルだ」
「あら、私が一体何を考えていたというの? 具体的に教えてくれないかしら」
「お前は俺を導きに来たのか罵倒しに来たのかどっちなんだよ……」
そうね、と少しだけ考える素振りを見せた雪乃は、くるりと踵を返し行きましょうと告げる。何だかんだできちんと約束は果たすらしい。
施設内を歩きながら、雪乃は八幡にこの間見せた情報を改めて口頭で伝えていく。それらを踏まえ、結衣の喜ぶようなものを用意するべきだ。そう言って彼女は指を立てた。
「で、何を送ればいいんだ?」
「それは自分で考えることよ。奉仕部は魚を直接与えはしないもの」
もっともらしいことを言っているが、その実雪乃も分かっていないのではないか。そんな考えが頭をもたげたが、それを指摘したところで何の役にも立たないことを認識した八幡は溜息を吐く。これでスラスラと答えられた日にはこれまでの倍の罵倒をされるだろうと予測し、恐れたということもある。
「さっきまでの情報はアドバイス足り得なかったかしら?」
「……いや、そうだな。とりあえず服でも」
「由比ヶ浜さんのサイズが知りたいのね」
「っていうのはきっと他の連中も考えてるだろうし、別のものだな」
この間のノートのページに書かれていた数値が頭をよぎる。身長と体重はおぼろげだが、それ以外の三つの数値は何故か頭にこびりついて離れなかった。特にBから始まるやつだ。
ごふごふとわざとらしい咳払いをした八幡は、そうなるとアクセサリーかあるいは最初に考えたように犬の首輪などの小物辺りがいいかもしれないと思考し、口にする。そこに異論を挟むこともない雪乃は、それならとりあえず見に行きましょうと近くにあったマップを眺めた。ある程度の当たりをつけ、ちらりと周囲を観察し。
「……比企谷くん」
「ん?」
「これは、どこにあるのかしら?」
「マップ見てんのにその質問はおかしくね?」
何言ってんだこいつ、という目で雪乃を見たが、彼の予想とは裏腹に彼女は真剣な表情をしている。どうやら真面目に分からないらしい。怪訝な表情を浮かべた八幡は、しかしそれを信じることが出来ずに思わず疑問を口にする。
「なあ、雪ノ下。お前ひょっとして」
「そう。雪乃ちゃんは方向音痴なの」
横合いから声。思わずそちらに顔を向けた八幡は、視界に映った人物を見て目を見開く。
美人であった。華やかな、陽だまりのような美貌を持った女性であった。そんな人物が、ニコニコと笑みを浮かべながらこちらに近付いてくる。
八幡は彼女に見覚えがない。雪乃の名前を述べていたのだから、彼女の知り合いなのだろうと判断した彼は、目の前で笑顔を浮かべる美女と隣の美少女とを交互に見やる。そうしながら、雪乃の浮かべている表情を見て再度彼は目を見開いた。
「げ、姉さん……」
心底嫌そうな顔であった。具体的には、普段彼が雪乃を見る時に浮かべるような、かおりと出会った時に浮かべるような、そんな顔であった。
それがつまりどういうことか、を八幡は深く考えないことにした。
「げ、はないんじゃない?」
そう言って彼女は苦笑する。それを見て更に苦い顔を浮かべた雪乃は、しかし瞬時に表情を戻すと一体どうしたのと問い掛けた。
「どうしたもこうしたも。雪乃ちゃんを見掛けたから来ただけ」
「そう。じゃあ帰って」
「酷くない!?」
がぁん、と大袈裟なリアクションを取る女性を見ながら、八幡は警戒を解かずにいた。基本余裕で上から目線を崩さない雪乃があんな態度を取る相手だ。どう考えても普通ではない。
そもそも、纏う雰囲気が胡散臭すぎる。一挙一動、その全てがまるであらかじめ設定されているかのような、そんな嘘臭さが溢れ出ているのだ。
「……ん?」
そんな彼女が、八幡を視界に入れた。笑みを浮かべたまま彼を見ると、ふむふむ、と何かを確かめるように数度頷く。
その行動だけで、見透かされた気がした。勿論気のせいだろう。向こうがそういう風に思わせる挙動を取っただけなのだろう。だが、そう感じてしまうというだけで、八幡は十分驚異に値すると判断した。そして恐怖した。こいつは絶対に近付いてはいけない相手だ、と。
「酷いなぁ。そんなことはないよ」
「っ!?」
薄く微笑む。八幡を見て、彼女は先程までの笑みとはまた違う笑顔を浮かべた。ただそれだけで、彼はまるで蛇に睨まれたカエルのように縮こまってしまう。
そんな八幡を助け起こしたのは、他でもない隣にいた雪乃であった。いい加減にしろ、と眼の前の女性を睨み付け、ついでに帰れと言わんばかりにシッシと手を払う。
「はいはい。ごめんね。ちょっと気になったから」
笑顔は変わっていない。が、先程まで感じていた寒気が薄まった。はぁ、と息を吐いた八幡は、しかし目の前の女性を見ず横の雪乃に小声で尋ねる。何だこいつ、と。初対面の相手であるにも拘らず、向こうをまるで考慮しない聞き方をした。
「私の姉よ」
返ってきたのはそんな簡潔な一言である。一瞬だけ理解が出来ず、しかし次の瞬間全ての問題が氷解したように八幡は女性へと向き直った。そういえばさっき確かに姉さんって言ってたな、と改めて彼女を見た。
「雪乃ちゃんの姉、陽乃です。よろしく、比企谷くん」
「あ、はい。よろし――え?」
今なんつったこの人。下げかけた頭を途中で止め、目を見開いて陽乃を見る。今から名乗ろうとした自分の名前を、目の前のこいつは先に言わなかったか。
「あは、ごめんね。君のことは、雪乃ちゃんから聞いていたの。驚かせちゃった?」
「……あ、まあ。驚きました」
「そうかそうか。うん、それはよかった」
何が良かったのか分からない。引き攣った表情で曖昧な返事をした八幡は、再度雪乃を見た。おいこの人頭おかしいんじゃないのか。そんな意味を込めた視線を受けた雪乃は、ええそうねと迷うことなく即答した。
「年中無休で人をからかうことと自分が楽しいことしか考えていない変態よ」
「雪乃ちゃん、自己紹介?」
「私は姉さんには劣るわ。きちんと真面目な部分があるし、常識的な行動も取るもの」
「冗談きついね。今日だってそうでしょ? 自分が楽しいから、ここに来てる」
ギロリと雪乃が陽乃を睨んだ。おお怖い怖い、とおどけたように後ずさった彼女は、そのまま今度は八幡へと一歩踏み出す。ずい、と近付かれた彼は、陽乃のその距離に思わずのけぞった。やばい柔らかいいい匂いする、と凄くどうでもいいことが頭に過ぎった。
「比企谷くんも大変だね。雪乃ちゃんに振り回されてない?」
「え、あ、その……あの、ですね。……まあ、確かに振り回されてます」
しどろもどろになりながら、八幡は彼女にそう返す。そっかそっか、とチシャ猫のように笑った陽乃であったが、しかし彼の続きの言葉に動きを止めた。でも、という八幡の声を聞いて目を少しだけ見開いた。
「別に、大変じゃないですよ。このくらいなら、慣れてますし……」
そこまで言ってから、俺何言っちゃってんのと悶え始めた八幡を眺めながら、陽乃は暫し目を瞬かせた。そうした後、楽しそうに、その口元を三日月に歪める。視線を彼の隣に動かすと、うんうんと満足そうに頷いている雪乃の姿も見えた。
「雪乃ちゃん」
「何? 姉さん」
「まさか社交辞令でも何でもなく、あんなことを本気で言うのが身内と静ちゃん以外にもいるとは思わなかったわ」
「でしょう? ……今の私の周りには、他にもいるのよ」
「え? ほんとに?」
「ええ。とりあえずほぼ確実なのは、由比ヶ浜さんね」
今プレゼントを選んでいる相手だ、という話をすると、ああこないだ聞いたねと陽乃は笑う。そういうことよ、と同じように笑みを浮かべた雪乃は、そういうわけだから今日は邪魔しないでちょうだいと彼女へ続けた。
「んー。そうだねぇ……。わたしとしてもそうしたいのは山々なんだけど」
「……もうやらかし終わっているのね」
「大正解。はい、あちらをご覧ください」
じゃじゃん、と陽乃がガイドのように手を向けた方向へと視線を向ける。聞き耳を立てていた八幡も同じようにそこを見た。
目をパチクリとさせ、彼と雪乃を交互に見ている少女の姿がそこにあった。今日、プレゼントを買おうとしていた相手の姿がそこにあった。
「あれ? ヒッキーと、ゆきのん?」
由比ヶ浜結衣の姿が、そこにあった。
修羅場なんぞあるわけない。