入院生活三週目。つま先からかかとまで、加えて足首も覆っていたギブスが簡易的なものに変わり、サンダル程度ならば履いて少し歩く程度は許可が出た。これで松葉杖を使うことなく病室から出ることも可能となり、比企谷八幡は晴れて引きこもりを卒業することとなったのだ。
「うわダリィ……」
「ダメ人間じゃん」
いっそこのまま入院し続けて一生を過ごそうか。そんなことを思い始めた八幡は、結衣の呆れたようなツッコミで我に返った。だがしかし、いやだって誰しも考えるだろうと自分の意見を間違っていたとは認めない。
「いや、ずっと入院は嫌だよ」
「三食昼寝付き、むしろ昼寝がメインみたいな環境だぞ」
「ずっと寝てるってつまんなくない?」
「いい加減動かずにやれることがなくなると寝る以外何もしたくなくなるものだ」
「その時点でずっと入院が駄目だってことじゃん……」
はぁ、と溜息を吐いた結衣は、解き終えた課題のノートを鞄に仕舞い伸びをした。ううん、と上半身を天に向かってぐいと持ち上げ、反った体から反抗するマシュマロが非常に甘く柔らかそうな雰囲気も醸し出す。
「ねえヒッキー」
「ん?」
「知ってる? 女の人って、胸見られてるの意外と分かるんだよ」
「……へー、それは知らなかった。豆知識だな」
「こっち見て言ってくんない?」
物凄く目が泳いでいる状態で平静を装っても何の意味もない。ジト目で彼を見詰めていた結衣であったが、まあいいやと肩を竦めた。別に今更だ、と思ったのだ。
カバンのチャックを閉め、彼女はそれを肩に掛ける。よし、と気合を入れると、立ち上がり八幡へと声を掛けた。
「じゃあヒッキー。あたし今日はもう行くね」
「ん? おお、じゃあな」
見送りはしないぞ、と彼は続け、別にいらないよと彼女は笑う。そうした後、結衣は手をひらひらとさせて病室から出ていった。
ちらりと時計を見る。先週と比べると随分と早いな。そんなことを思ったが、その分一人の時間が増えるから問題はないと八幡はすぐにそのことを頭から吹き飛ばした。
翌日も結衣は見舞いにやって来て、そしてあまり長居せずに帰っていった。何か言いたげではあったが、それを別段問い詰めることはしなかった。別に彼女をこの空間に縛る気など毛頭ない。向こうが何かあるならば好きにすればいいのだ。
が、当の本人はそうは思っていなかったらしい。その次の日、今日もすぐ帰っちゃってごめんと彼女は八幡に謝罪したのだ。
「は?」
「へ?」
「いや、何で謝るんだ?」
「え? だって、あんましここにいないし……」
「何? お前自分がマイナスイオンでも出してると思ってんの? アロマディフューザーに土下座して謝れよ」
「酷くない!?」
若干涙目である。どうやら割と本気の言葉だったらしいということに気付いた八幡であったが、しかし。
だとしても、ここに長居しないことを申し訳なく思う必要はどこにもない、という主張を撤回したりはしない。こんな場所は好きに帰ればいいのだ。むしろそこまで頻繁に来なくてもいいくらいにまで思っていたりもする。
「……はぁ。とりあえずとっとと帰れよ」
「酷くない!?」
「いや、お前用事あんだろうが」
「あ」
そうだった、と思い出したように目を見開いた結衣は、もう一度ごめんと謝罪してから病室を飛び出していった。何が何でも騒がしい奴だ。そんなことを開けっ放しになった扉を見ながら思いつつ、八幡はよっこらせと立ち上がる。
「リハビリ以外で歩かせるんじゃねぇよ、ったく」
ゆっくりと足を動かし、開いたままの扉に手をかけると、彼はノロノロとした動作でそれを閉めた。
「……」
「……」
そろそろ退院が目に見え始めた。それに合わせるように結衣の見舞いの時間も短くなった。まあそりゃそうだろ、と思っていた八幡であったが、彼女はそうでもなかったらしい。今日は時間に余裕があるのか、来てすぐに帰るということはなかったのだが、その代わりに椅子に座ったまま何とも言えない表情で黙り込んだままである。
気まずい。そう思うものの、今この瞬間はあまり普段のように適当な物言いをしてしまうのはいけないのではないかと自重した。流石に八幡でもそのくらいの空気は読める。
「あ、あの……」
「ん?」
「あの、さ……」
そんな時間が暫し過ぎた後、結衣はようやく口を開いた。が、そこから出てくるのはあの、だのその、だのという意味のなさない呟きばかり。一体こいつ何が言いたいんだ、と喉までその言葉が出掛かり、飲み込む。
「も、もうすぐ退院だよね」
「んあ? そうだな。あー、学校行きたくねぇ……」
「八月三十一日の小学生みたいなこと言ってる……」
「中学生の時も言ってたぞ俺は」
「そういえばあたしも言ってたかも」
ぷっ、とお互いに顔を見合わせ吹き出した。結衣の表情も幾分か和らぎ、先程までの暗い雰囲気が霧散している。作戦通り、と何も考えてなどおらず偶然いい感じになったのを勢いでごまかすように脳内で叫んだ八幡は、このタイミングで喉の奥に押し込んでいた言葉を吐き出すことにした。
で、一体何が言いたかったんだ、と。
「あ、うん、ごめん」
「……いきなり凹むなよ。何か俺が悪者みたいじゃねぇか」
顔は十分悪者である。そんなツッコミを入れてくれる人物はこの場にいない。
溜息を吐いた。ガリガリと頭を掻くと、まあいいやと八幡はベッドに寝転がる。え、と結衣が顔を上げたが、彼は知らん知ったことかと手をひらひらとさせた。
「言いたくないことを無理に言わせる趣味はない」
「あ、うん。ごめん……」
「だから謝んなっての。別にお前何もしてないだろ」
「うん、ごめん」
「……おう」
これ以上何か言っても恐らく延々とごめんループだろう。そう判断した八幡は流した。とりあえず流して、向こうの次の言葉を待った。
が、そこから先は沈黙である。先程の焼き増しが始まったことで、彼もこれは絶対に終わらないという確信を持った。つまり、何かしら動かなければ、永遠にこのままだ。
ならば何を言えばいいか。彼女が言い淀んでいる、落ち込んでいる原因に思い当たる節はある。が、それをどう言えば解決するのかが浮かばない。そもそも八幡はそれを問題だと思っていないからだ。
「なあ、ガハマ」
「……何?」
だから彼はもう考えるのをやめた。直球で言ってしまおうと思い立った。ベッドから起き上がり、真っ直ぐに結衣を見る。
そして、言葉を紡いだ。
「別に俺はお前が来なくても何とも思わないぞ」
「……そ、っか」
直球過ぎた。飾りも何もなく、とりあえず言ってみました的なその言葉は、間違いなく結衣の地雷を踏みぬいた。それに気付いたのは言ってしまった後だったので、今のナシ、というわけにもいかない。
ならばどうすればいいか。簡単だ、今の言葉を違う意味にすればいい。
「何勘違いしてやがる」
「へ?」
「……いや、だからな。えっとだな」
ゲーム王のファラオみたいな物言いで言葉を続けようとした八幡は、そこで言葉に詰まってしまった。だって脊髄反射で喋ったのだから、しょうがないね。てへ、と舌でも出しながら可愛く脳内で言ってみたものの、所詮八幡なので当然のごとく可愛くない。
状況は悪化した。
「そもそも最初に、同情とかそう言うので来るのはやめろっつってたわけで」
「……そんなんじゃ、ないもん」
「そうじゃないなら、お前は、えっと、あれだ……お、俺に、会いに来たかった、っていうことに、なっちゃうわけなんですけど、そこんとこどうなんですかね」
「前にも言ったし……。あたし、ヒッキーに会いたくてここに来てるって」
「お、おう。そうか……」
だからやめろよそういうの、男は勘違いしちゃうでしょ。脳内比企谷君が悶えているのを必死で押し留め、八幡はまあつまりそういうことだと締めの言葉を発し一人納得したように頷いた。何がそういうことなのか全く分からなかった。
そんなテンパっている死んだ魚のような目の男を見て少し落ち着いたらしい。そうだよね、と呟くと、結衣は眉尻を下げたまま口だけで笑みを作った。
「ヒッキーってさ、優しいよね」
「頭大丈夫か?」
「そういうところは酷いけど。……うん、でも優しい。なんていうのかな、こう、合わせなくても気にしないっていうか」
「意味分からん」
「あはは、あたしもよく分かんない」
そう言って苦笑した結衣は、そこで一旦言葉を止めた。息を吸い、吐く。そうした後に、ちょっと聞いて欲しいんだと彼女は述べた。
「あたしさ、結構空気読もう読もうとしちゃうとこがあって。人に合わせないと不安、っていうか……」
「……おう。おう?」
こいつ俺との会話で空気読んだり合わせたりしてたっけ? そんなことを思ったが、八幡は飲み込んだ、これ絶対今俺の方が空気読んでるよね、とか思ったが顔には出さなかった。
「それでさ。そろそろ高校始まって一ヶ月になるじゃん。皆も結構慣れてきて、放課後も遊びに行くようになって。……ヒッキーのお見舞い、行けなくなってきて」
「いやそれは別に何の問題もないだろ」
遊びに行くなら行けよ。そんなことを続けると、結衣はそういうんじゃないと首を横に振った。そこが問題じゃない、と呟いた。
「今日はお見舞い優先しよう、ってなっても、皆が行くからあたしも行かなきゃって思っちゃって。自分の意見の主張? 的なのが、出来なくて」
「……」
「駄目だよね、あたし。でも、やっぱり周りに人がいないと、寂しいし……友達に嫌われるのも、嫌だし……」
ぽたり、と何かが落ちる音がした。何か、などと考えるまでもなく。八幡はそれを見て顔を顰めた。結衣が泣いているのを見て、無性に自分が責められている気がした。被害妄想である。
ここで何か気の利いたことが言えればよかったのだろう。だが、八幡にはそんな都合のいい美辞麗句など出てこない。浮かんでくるのは言い訳と屁理屈ばかりだ。
それでも彼は口を開いた。ちくしょう、と心の中で毒づきながらも言葉を紡いだ。
「小学生の時の同級生で今も会う奴が何人いると思ってんだ」
「へ?」
「百人いたら精々一人だろ」
「それは流石に極端過ぎじゃない?」
「まあ聞け。つまり、卒業して四年後にも友達やってる確率なんざ一%しかないってことだ。高校も同じだと考えれば、どうせ就職する頃には一人くらいしか残らない」
分かるか、と八幡は結衣を見る。涙目のまま、結衣はどういうことだと首を傾げた。いきなりわけの分からないことを言われたからか、ほんの少しだけ気が紛れたらしい。
「……一々人の顔色伺って学生やってても、どうせ皆いなくなるんだから無駄だろ」
「極論!?」
「まあ確かに長いものに巻かれるのが楽な時は多い。が、そればっかりやってると巻かれ過ぎて雁字搦めだ。巻かれる紐なんざ一本か二本で十分なんだよ」
「そう、かな……?」
「おう。見ろ、俺なんかそういう生活を続けて不動のモブAを確立したんだぞ」
比企谷? ああ知ってる知ってる、まあ話すこともあるし。え? 別に友達じゃないけど。そういう感じの立ち位置である。完全ぼっちではない分ほんの少しだけマシかもしれない。
「それにな、何だかんだいってその一%は勝手に残るもんだ」
「……それってさ、『親友』ってやつ?」
「腐れ縁だろ」
「言い方ぁ!?」
ちょっと感動したのに、と結衣は唇を尖らせる。そんな彼女を見て、仕方ないだろうと彼は肩を竦めた。自分にはそんな相手がいないのだから。そう続け、今までの会話を全否定した。
「ヒッキー……」
「そんな目で見ても事実は変わらん。そもそも、俺の中学からの腐れ縁はあれだぞ。
『比企谷ー、クリスマスって予定ある?』
『……いや、別にないけど』
『だよねー』
って笑って去ってくクソ野郎だぞ」
「それ本当に友達? それが一%で残っちゃったの?」
残念ながら残ってしまったので仕方がない。おう、と力強く頷いた八幡は、まあつまりそういうわけだから大丈夫だと笑みを浮かべた。
そんな無駄に自信満々の彼の笑みを見た結衣は思わず吹き出す。自分が悩んでいたことが何だか馬鹿らしくなってきた。もう少し適当に生きても大丈夫なんじゃないかと思い始めてきた。
「……ありがと、ヒッキー」
「おう、感謝して咽び泣け」
「絶対に嫌」
そう言って彼女は笑顔を見せた。いつも通りの弾けるような笑みを浮かべた。
それを見た八幡も、うんうんと頷くと満足そうに口角を上げる。やってやった感が体中から溢れており、顔は完膚なきまでにドヤ顔だった。
「でも、うん。あたし、もうちょっと無理しないでみる」
「そうしろそうしろ」
だから無理してここに来んな。そんな言葉を続けた八幡を見て、彼女は笑みを浮かべたままべぇと舌を出した。
「絶対に嫌」
「……どっちみちもうすぐ退院だっつの」
「退院するまで、来るもん」
「だから無理すんなって」
「無理じゃないし!」
「お、おう」
迫力に圧された八幡は、だったらいいんだと引き下がった。そうそう、と許可をもらったと判断した結衣は、そんな彼の言葉を聞いて嬉しそうに笑った。