その1
夏休みが終わった。学生は再び学生らしく学び舎に向かい勉学に励む。一応名目上はそうなってはいるが、実際真面目に勉強しようと新学期を迎える学生はそう多くはない。殆どが面倒だと思うか、あるいは長期休みに会えなかった友人との再会を喜ぶだけだ。
比企谷八幡は例に及ばず、前者であった。ただただ再開された学生生活が面倒で、次の休日はいつになるのかと指折り数えるだけのはずであった。
「おはよ、ヒキオ」
「お!? ……おはよう」
「おはよー、ヒキタニくん」
「お、おはよう……?」
「ヒキタニくん、ちーっす」
「お、おう」
「おはよう比企谷」
「おおう? お、う」
三浦優美子が、海老名姫菜が、戸部翔が、そして葉山隼人が。何故か揃いも揃って今までの面々の他に、わざわざ八幡に声を掛けに行ったのだ。クラスの面々の中では何事かと視線を向けるものもそこそこいる。
が、言うほど多くはなかった。彼自身は物凄く奇異な光景を体感していると思っているのだが、クラス全体の認識としてはまあそうだろうな程度である。由比ヶ浜結衣とあれだけ仲が良いのだ、その繋がりとの距離が縮まっても不思議ではない。
とはいえ、それでも気になるのが人の性。隼人とよく話している面々のうち翔以外、大和と大岡はその疑問について本人へと問い掛けていた。
「あー、夏休みに隼人くん達とキャンプ行ってさ。そん時にヒキタニくんもいたってわけ。色々世話んなったんだよなー」
「世話に?」
「そーそー。……いやほんと、ヒキタニくんマジ大活躍だった」
あの時の光景を思い出す。こちらの都合によりピエロに扮して生首を持ちながら追いかけ回して小学生をガチで泣かす役という普通に考えて確実な貧乏くじを率先して引いた八幡に、翔はある意味一目置いていた。夏休み前に相談に乗ってもらったこともあり、彼にとって比企谷八幡は既に友人カテゴリであった。勿論雪ノ下雪乃も、である。
対する大和と大岡は、そのことを知らないために翔のそれにはいまいちピンときていない。彼らにとっては八幡は結衣と仲が良い男子生徒程度でしかないからだ。ふーんと流しながら、まあその辺はどうでもいいやと話題を変えていた。
そして先程述べた通り、一番驚愕しているのが他でもない八幡自身である。
「何が起きた……!?」
「いや夏休み色々みんなでやったじゃん」
「色々って……そんなにやったか?」
夏休みが終わっても変わらずこちらに来た結衣のその言葉に、八幡は暫し考え込む仕草を取った。精々奴らと関わったのはあのキャンプと花火大会程度だ。ここまで一気に距離を詰められるような覚えは。
「ない?」
「少なくとも俺にはない」
「そうかな? キャンプん時とかヒッキー色々やったでしょ?」
「小学生追いかけ回して泣かせた後反撃食らって青タン作っただけだぞ」
「言い方酷い……」
間違ってはいないところが悲しい、と結衣は苦笑するが、まあその辺のイベントは結構濃かったからと付け加えた。そんなものかね、と八幡はよく分かっていないように呟き、面倒そうに溜息を吐いた。
「嫌なの?」
「嫌っつーか、面倒くさい」
「花火大会の時も似たようなこと言ってたねヒッキー」
彼は基本的に一人を好むタイプである。集団でいるのを嫌うタイプである。だからこそ出来るだけモブでいたいと思っていたのだ。結衣と出会ってしまったからそれは崩されたと思わなくもないが、実際はかおりが腐れ縁になった時点で詰んでいる。つまりどうあっても彼の願いは果たされない。諦めが肝心であった。
実際八幡はその辺りを拒絶するのを既にやめている。勝手にしろ、というスタンスをとることによって妥協をするのだ。だから今のこれも、彼が口にした通りでしかない。
それよりも彼には大きな問題が渦巻いているのだ。今更彼の認知しない友人が五人六人出来たところで関係はない。
「……どしたの?」
「あ?」
「いや、なんていうか。何かちょっとよそよそしいっていうか」
「気のせいだろ」
「そうかな? あたしこれでもヒッキーしっかり見てるから自信あったんだけど」
「……っ!?」
顔を逸らした。それを見てやっぱり何か変だと詰め寄った彼女を、八幡は全力で押し返す。不満げな表情をしていた結衣であったが、予冷が鳴ったので渋々自分の席へと戻っていった。
そんな彼女を見て、八幡は小さく息を吐く。あの一件以来、理性とはまた違うところでふと猛烈に勘違いをしてしまう場面が増えてきた。そう、あくまで勘違いである。実際には彼女は彼をそういうふうには思っていないし、彼自身も彼女をそういう対象にしていない。
だから、勘違いなのだ。勘違いだと、結論付けたのだ。
「……」
それを踏まえると八幡の行動はただの勘違い野郎で痛い以外の何者でもないのだが。本人も当然分かっているのでその度に彼は羞恥で悶え、結果として結衣に怪訝な表情で見られることになるわけで。
夏休みの残り期間を使って沈めたそれは、まだ重しが足りないのかもしれない。彼はそんなことを思いながらやってきた担任教師をぼんやりと眺めた。
「……」
というわけで。そんな何がというわけなのか分からない前振りとともに、クラスのルーム長、あるいは委員長の少年が黒板に書かれた文字を読み上げる。文化祭実行委員という役職に記された名前は、やはり声に出しても同じであった。
すなわち、比企谷八幡、だ。
「……」
ちなみにくじ引きの結果決まったので八幡としてもクレームが出しにくい。それでいいと言ってしまった上で、自分に決まったから抗議するのでは確実に支持が得られないからだ。
それを実感しているのか、同じようにくじ引きの結果決まってしまった女子の文化祭実行委員の少女も物凄く嫌そうな顔をしながらも無言で受け止めていた。
彼と違うところは、その結果について慰めてくれる友人が傍らにいたことである。大変そうだね、頑張って。言葉自体は当たり障りもなく、そして本心も同じであろうが、それでもその少女――相模南にとっては幾分かの救いとなっているようだ。
勿論八幡にそんな言葉は掛からない。彩加が苦笑しながら彼を見ているのが唯一のそれといったところであろうか。勿論彼は八幡が南の友人が述べたような、そういう言葉を望んでいないことを承知の上だからこその行動である。
それとは別に、八幡は八幡でほんの少しだけこれを好機だと考えていた。文化祭実行委員ということは、その間はクラスの出し物にはあまり関われない。逆説的に言えば、クラスの面々と顔を合わせる機会が減るということでもある。
そう、結衣と会う機会が減るのだ。結局落ち着いていなかった気持ちを鎮めるのには、いい機会なのだ。
彼らしくない、あるいは彼らしい後ろ向きで前向きな結論を出しながら、八幡は決まったその日に行われる実行委員会へと向かっていった。当然だが南とは別行動である。
会議室にやってきた八幡が見たのは、まだそこまで集まっていない生徒達の姿であった。時間通りであれば問題ないので、恐らくこれから増えるのであろう。そんなことを思いながら彼は適当な場所へと座る。くじ引きで決められたということもあり、元よりやる気は欠片も無かった。
同じく南もそうなのだろう。知り合いだろう女子と談笑しながら、委員会にされてどうしようかと思っただの、クラス運がないだのとのたまっている。葉山がいるから問題ないじゃないか、という横の女子の言葉に、彼女はまあねと笑っていた。
「あ、でもさ、確か葉山くんって」
何か噂になっている相手でもいるのだろう。そんな前振りをしながら口を開いたのと同時、会議室の扉が開く。ちらりと見てすぐに皆興味を失う程度の光景であったはずのそれは、しかしそこに立っていた人物によって塗り替えられた。さらりと美しい黒髪を靡かせつつ、我が道を行くかのごとく平然と喧騒を切り裂きながら歩みを進めたその人物は、あろうことか八幡の隣に当たり前のように座り込んだ。別に席の位置は決まっていない。決まってはいないが、彼女は八幡達とは違い国際教養科である。普通科の生徒が座る場所とは違う区画に行くべきだろう、そう彼が望んだところで、当然ながら彼女が聞くわけがない。
一瞬静まり返った喧騒は元に戻っている。南達も談笑を再開しているし、先程言いかけたことの続きを問い掛けているのが八幡の耳にも届いた。葉山隼人と一緒にいることの多い女子。三浦優美子と一色いろはと、そして。
「盗み聞きかしら」
「その質問するってことは、お前もしてんだろ雪ノ下」
「あら、だって会話をしながら彼女の視線が私に向いたのだもの。不可抗力よ」
そう、葉山隼人との仲を噂される女子の三人目は、八幡の隣に陣取ったこの雪ノ下雪乃その人だ。隼人と彼女が一緒にいる場面がどういう意味合いを持つか、それを八幡はよく知っているのでアホらしい以外の感想は出てこない。後は精々葉山ざまあくらいだ。
ちなみにそれを踏まえると今の状況は八幡がざまあされる側である。
「何でお前ここにいるんだよ」
「その言葉はそっくりそのまま返してあげるけれど」
「クジ引きで決められたんだ。好きでこんな場所にいるかよ」
はん、と鼻で笑うようなリアクションを取った八幡を見ながら、雪乃は口角を上げる。あらそうかしら。そんなことを言いながら、頬杖をついて首を傾けた。
「丁度いい、とか。思っていたりしない?」
「……どこをどう考えるとそんな発想が出てくる。頭沸いてんじゃねぇのか?」
「そう? 由比ヶ浜さんとぎこちない比企谷くんにとっては、これが最善の答えじゃないかしら」
ガタン、と椅子が揺れた。何だ、と一瞬八幡に視線が向けられるが、音の正体を知るとすぐに視線が逸らされる。クスクスと楽しそうに笑う雪乃とは対照的に、八幡はこれ以上無いほど嫌なものを見る目で彼女を睨んだ。効くわけがない。
「花火大会の後、何かあったでしょう?」
「何の話だ」
「由比ヶ浜さんから連絡があったのよ。何かヒッキーがよそよそしい、って」
「あいつの気のせいだろ」
「まさか。あなたに関しては、家族や折本さんに次いで彼女は正確よ」
「その程度だろ。なら、間違えることだってある」
そう言って視線を逸らした八幡を見て、雪乃は笑う。そうかもしれないわね、と言いながらも、彼女は口元を三日月に歪める。
彼は聞かなかった。その連絡がいつ来たのかを問わなかった。心当たりがあるのだろう、そう雪乃に確信させる程度には取り繕えていなかった。
八幡の視線が逸れているのをいいことに、彼女はスマホを取り出し会話アプリを起動させる。丁度同じ実行委員になったから、こちらから少し対処してみる。そんな意味合いの言葉を相手に送ると、ありがとーという言葉と共にスタンプが返ってきた。それを見て優しい笑みを浮かべた雪乃は、さてではどうしようかと口元に手を当て暫し考える。
視線の先には生徒会長である城廻めぐりが、どこかのんびりした空気をまといながら頑張ろーと手を振り上げている。それに拍手をする役員に合わせ、実行委員も拍手を行っていた。
「では、まずは実行委員長を決めたいと思います」
そう言って笑顔で手を叩くめぐり。その発言に不思議そうな顔を浮かべた面々がいるのを確認した彼女は、あははと微笑みを苦笑に変えて咳払いを一つした。
曰く、例年実行委員長は三年生以外が務めることになっているらしい。この時期の三年生は受験に差し障る可能性がある、というのがその理由の一端で、後は次代にバトンタッチをするという意味合いも少々あるのだとかなんとか。
「そんなわけなので。誰か、立候補者は――」
しーん、と静寂だけが広がる。誰か手を上げることもなく、皆一様に、ほんの少しだけの例外を除いて自分以外に押し付けようと視線を動かすのみだ。
「誰か、いませんかー?」
静寂は変わらず。傍らで見守っている教師が何事か述べても、状況は動かなかった。まあそうだよね、と髪をいじっていためぐりも、そうは言いつつ会議を先に進めるために丁度いい相手を見付けんと視線を彷徨わせている。
そこでふと、一人の女生徒が目に入った。あ、と小さく声を上げた彼女は、その女生徒に向かって声を掛ける。
「あの、雪ノ下さん、だよね?」
「はい」
短く、しかしはっきりと肯定する雪乃を見て、めぐりは顔を輝かせた。雪ノ下雪乃の名はやはり有名なのか、と隣の八幡がぼんやり考えていると、彼女はそのままとんでもないことを言い出す。
「やっぱり、はるさんの妹さんなんだ」
「……は!?」
八幡は思わずめぐりを見た。今こいつ何つった。はるさん、とか言わなかったか。それが誰を意味しているのかなど、雪乃をその人物の妹さんだと言った時点で想像がつく。
「はるさんも実行委員長で、その時はもう凄かったんだ」
「ええ。姉のしでかしたことは知っています」
しでかした、と抜かした。そんな彼女の隣にいる八幡は楽しげに陽乃のことを話すめぐりを既に近寄ってはいけない人物にリストアップ済みである。雪乃の発言からすると、大凡八幡の考えていた通りの、否、それ以上の惨状になったのだろう。
「どうかな? はるさんの妹さんだし、きっと」
めぐりの勧誘は続いている。確かに彼女が委員長となった文化祭は凄まじいものになるだろう。阿鼻叫喚、地獄絵図。そんな四文字が頭に浮かび、八幡はこれからの生活に暗雲が立ち込めたことを察し始めていた。
「いえ、申し訳ありませんが、委員長は辞退させていただきます」
が、彼の予想とは裏腹に、雪乃の答えはノーであった。思わず彼女の方を向いた八幡は、しかし雪乃が笑顔なのを見てすぐさま覚る。あ、これ絶対碌でもないことを考えているやつだ、と。
「その代り、というわけではありませんが。副委員長の役職を頂いて、私の信頼する友人を委員長を推薦したいと思います。どうでしょう?」
「え? あ、うん。それは助かるよ~」
一気に二枠埋まるし、とめぐりは笑う。それを聞いて雪乃も頷くと、コホンと咳払いをし立ち上がった。立ち上がり、明らかに隣に座っている男子生徒を見た。
「では――」
「待て、ゆきのし」
何がしたいのか、何をするのか。八幡は理解した。どうにかしてそれを阻止しようと動いた。雪乃は立ち上がっている。その発言を止めるには、必然的に彼も立ち上がらなくてはいけない。そうしたのならば、間違いなく雪乃の勝利だ。では座ったままならば? 発言の阻止が出来ずに、雪乃の勝利だ。
「比企谷八幡くんを、委員長に推薦します」
まあつまりどうあがいても八幡の負けである。その宣言と共に拍手が生まれ、立ち上がりかけた八幡と雪乃に教室中の視線が集まっている。
よし、と会議室のホワイトボードに実行委員長と副委員長の名前がマーカーで記された。
「よろしくお願いしますね~。比企谷くん、雪ノ下さん」
じゃあ行きましょうかと、と雪乃に促され、八幡は売られていく仔牛のようにドナドナと壇上へと歩みを進めた。これからは生徒会長ではなく、実行委員長と副委員長の仕事である。
「丁度いいでしょう?」
壇上でそれぞれの役職を振り分けながら、雪乃は隣の八幡にそんなことを述べた。何が丁度いいのかわけの分からない八幡は、思わずきゅっぷいとか言いそうな目で隣を見た。いつものように、奉仕部の仕事を承った際に浮かべる間違った営業スマイルの彼女が、彼に告げる。これから忙しくなる、と。クラスメイトに関わっている暇など無い、と。
だから、それはつまり。
「少し、由比ヶ浜さんと距離が置けるのだから」
「……抜かしてろ」
「そうね。余計なお世話よね」
クスクスと笑う雪乃を見て、八幡は早急に結衣とのぎこちなさを修繕せねばならないと心に刻みこんだ。
仕事は減らない。