その日、少年は魔王と出会う。
「ひゃっはろー」
八幡は逃げ出した。が、丁度タイミングよくやってきた隼人と激突した結果、そのまま会議室にいた陽乃に二人揃って捕獲される。
知らなかったのか? 魔王からは逃げられない。
「おい葉山、お前のせいだぞ」
「有志の申込みに来たタイミングと陽乃さんの襲来のタイミングが一致したとか想像出来るわけないだろ……」
「しろよ、お前なら」
割と理不尽なことを言いながら、八幡はとりあえず今日の仕事を片付ける。そうしながら、隣で我関せずと仕事をしていた雪乃に視線を向けた。何でこれ呼んじゃったの? と。
対する雪乃、平然と言い切った。知らんと彼に言い放った。
「勝手に湧いて出たの。私の管轄外よ」
「雪乃ちゃん、姉を害虫みたいな扱いにするのはどうかと思うな。隼人ならともかく」
「いや俺も駄目だよ!?」
有志団体の申込書類の審査待ちをしていた隼人は、そんな彼女の言葉へ律儀にわざわざツッコミを入れる。普段の爽やかイケメンとは思えないそれに、会議室にいた生徒達は一瞬我が目を疑った。それに気付きはっと我に返った隼人は、コホンと咳払いをするとすぐさま己のキャラを戻す。仮面被ってる奴は大変だな、と八幡は他人事のようにそれを見ていた。
「というか比企谷くん、君は委員長でしょ? 逃げちゃ駄目じゃない」
「急に持病の対人恐怖症が再発しまして」
「中々嘘だと断言しにくいところを持ってきたね」
「真実ですから」
しれっとそう言い放つ八幡を見て、陽乃は楽しそうに笑った。いい感じにこっちに適応してきたね。そんなことを言いながら、彼女は雪乃の隣を陣取る。当たり前のように彼女は自身の姉を押し戻した。
「雪乃ちゃんのいけず」
「邪魔よバカ姉」
「取り付く島もないし」
ちぇ、と口だけは不満を言いながら、彼女は手近にある書類を手に取る。ふむふむ、とそれを見て何やら思案していた様子だったが、すぐさま笑顔を浮かべると視線を動かした。実行委員長と副委員長へ、八幡と雪乃へ。
「ちゃんとやってる?」
「見れば分かるでしょ」
「そりゃ、ね。でも、パンチが足りない」
「見れば分かるでしょう?」
陽乃の言葉に、雪乃が返す。八幡はそれを聞いて無性に嫌な予感がした。具体的に何かを言っているわけでもないし、何一つ話は進んでいない。そのはずなのに、着々と悪魔の計画が立てられているように思えたのだ。
「あの、雪ノ下さ――」
「比企谷くんが委員長なんだよね? まだ有志団体の枠は空いてる?」
「へ?」
止めようとした言葉を遮られ、仕事の提案をされた。そのせいで八幡は言おうとした言葉が一瞬飛ぶ。次いで、とりあえず答えを述べようと手元の資料を漁った。枠は空いている。それを伝えると、なら自分も参加すると彼女は彼に言い放った。
その結果、結局彼の言いたかった言葉は全て吹き飛んだ。
「書類はどこかな?」
「あ、そこのファイルの――ってちょっと待った!」
「ん? 何か問題あった?」
「……問題は、ない、です」
有志団体のスケジュールを纏めたタイムテーブルには、誂えたように欠けた部分があった。先程の隼人を入れても、まだ足りないその枠。もしそこに目玉となる『何か』が入れば。
「雪ノ下」
「どうしたの? 比企谷くん」
「いいのか?」
「それを決めるのはあなたよ、委員長」
「俺では決めかねる。だからお前に意見を聞いたんだ」
その返しにふむと頷いた雪乃は、ちらりと陽乃を見て口元を三日月に歪めた。視線を八幡へと戻すと、彼女は念の為と彼に述べる。自分の意見で決定していいのかどうかと問い掛ける。
「……お前達がグルなのは分かったから、好きにしろよ」
「あら、心外ね比企谷くん。私と姉さんは別に結託してなどいないわ。さっきも言ったように、この人は勝手に来たのだもの」
「はいはいじゃあ今この場で即興の悪巧みをしたんですね分かります」
「そんなに私が信用出来ない?」
「もしお前がこれまでの行動を振り返って俺の信頼を勝ち取れてると思ってんなら、腕のいい脳外科医に頭の中をよく調べてもらった方がいいぞ」
はん、と吐き捨てるように述べた八幡を雪乃は楽しそうに眺める。そうは言いつつ、
「ところで姉さん」
「何?」
「これで、今回のあなたは私の指揮下、ということでいいのかしら?」
「そういうことだね。隼人をイジるなり比企谷くんを追い詰めるなり、好きに使っていいから」
「用途狭いな!」
当たり前のように八幡のツッコミは流され、先程の会話のインパクトの強い部分だけが一人歩きを始めていく。雪ノ下陽乃が、今回の文化祭で実行委員の下につく。その一点で、会議室にいる三年生はことの重大さを感じ取り、それが下の学年にも波及していく。
「当然、しっかりと使いこなせるんだよね、副委員長? じゃないと乗っ取っちゃうぞ」
「勿論よ。首輪を付けてヒィヒィ言わせてあげるわ」
「おお怖い怖い」
怖いのはお前もだよ。そう言いたいが矛先がこちらに向くのは勘弁して欲しい八幡は、とりあえず視線を合わせないようにしながら静かに仕事を進めていくのであった。
限界は近い。むしろすぐそこだ。
「……」
「ヒッキー?」
返事がない、ただの屍のようだ。そんなメッセージウィンドウが出てきてしまいかねない状態の八幡を見た結衣は、眉尻を下げつつも怒りの表情を浮かべた。助けを呼べって言ったのに。そんなことを呟きながら、彼の寝ている机の前に椅子を引き、座る。
「あたし、待ってようと思ったんだ。ヒッキーはそういうの嫌がるし」
てい、と八幡の髪の毛を指で弾く。それに反応したのか少し悶えた彼を見つつ、そのままゆっくりと頭を撫でる。表情を優しい微笑みへと変えながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「でもさ、やっぱりヒッキーは待ってても駄目っぽいから」
撫でている手が止まる。心地いい感触が無くなったからなのか、八幡はもぞもぞと小さく動いた。頭から手を離し、親指で中指を曲げたまま固定させ、それをゆっくりと彼の額に移動させる。
「こっちから、行くことにしたよ」
とりゃ、とデコピンを放つと、案外クリーンヒットしたのかゴツンという乾いた音が響く。その衝撃で呻いた八幡は、ゆっくりと目を開けると額を撫でた。次いで眼の前に結衣の顔があったことで、勢いよく起き上がり椅子がガタンと揺れる。
「おはよ、ヒッキー」
「お、おう……。まだ時間あるよな?」
「そだね。まだヒッキーが行くまでには時間あるんじゃないかな」
ほら、と結衣が指差した先にはクラスの出し物を練習している光景が広がっている。見る限り一体何をやっているのかわけが分からないのが若干の混沌を醸し出していたが、しかし目的に向かって進んでいるのは間違いない。
ともあれ、八幡にとってはあまり見慣れない光景であった。なにせ、彼は授業が終わると実行委員で走り回っていたのだから。
「これは時間ないって言うんだよ馬鹿野郎!」
「だから、時間はあるってば」
ほら、と結衣はスマホを見せる。そこには雪乃へ今日は八幡は遅れることを伝えるトーク画面が映っていた。まあ大分参っていたものね、という返事を見て、彼は額に手を当て頭痛を堪えるように俯く。
「……さてヒッキー」
「んだよガハマ」
「あたしは怒ってます。激おこです」
「……何でだよ」
分かっている。今この現状と、先程の雪乃の一文。加えると、練習のためにどかしているはずの教室の机が、何故かここだけ残りっぱなし。
「困ったら助けを呼んでって言ったじゃん」
「……別に、困ってなんか」
「ぶっ倒れてたじゃん! 優美子ですら心配するレベルで」
「おいユイ」
向こうで作業していた優美子からツッコミが入る。ですらってなんだし。そんな呟きは姫菜のツボに入ったらしく、監督が爆笑で悶え始めたのでクラスの作業は暫しの休憩となった。
「寝てただけだろ。体調不良ってほどじゃ」
「寝てる時点で駄目だし。普通は授業をちゃんと受けて、そんで文化祭の準備するの。ヒッキー出来てないじゃん」
「それは俺がただの不真面目な」
「だったら委員長なんかやめちゃえ!」
バン、と机を叩く音が響く。彼女の迫力に思わずビビった八幡は、のけぞった体勢のままごめんなさいと謝った。情けないことこの上ない光景である。
そんな酷い体勢で謝罪したからか、少しだけ落ち着いた八幡は頭をガリガリと掻きながら姿勢を戻す。言い訳をしたところで、目の前の少女は通用しない。それを実感し、小さく溜息を吐いた。
「すまん、悪かった。……ちょっと、無理し過ぎてたな」
「ほんとだし。ていうか、ゆきのんいるのに何でそんなに疲れてるの?」
「は? 何でってそりゃ――」
八幡の動きが止まる。そういや何で俺こんなに疲れてるんだ? ここに至って彼はようやくそんな単純な疑問にぶち当たった。
何故疲れているかといえば、勿論ひたすら仕事をしているからだ。雪乃と同じペースで案件を片付けているからだ。働くのが親の扶養から外れることの次に嫌な八幡がそこまでする理由は。
そう、気持ちを整理するために目の前の少女と距離を置きたかったからだ。
「本末転倒じゃねぇか……いや、途中から分かってたけど」
「どしたの?」
「いや、何でもない。自分のアホさ加減に呆れてただけだ」
考えてみれば、タイミングは何度もあった。最初に雪乃に焚き付けられた時、めぐりに仕事し過ぎじゃないかと言われた時。結衣と約束をした時、そして。
陽乃が手伝いをすると宣言した時だ。
「ちくしょう……そういうことかよ。あれは本気でそういう意味だったのか」
彼の脳内で雪ノ下姉妹が頬に手の甲を当てながら高笑いしている光景が映し出されている。だからとっとと泣き付けばよかったのに、と笑う雪乃に脳内でチョップを叩き込み、八幡は改めて結衣を見た。そうして、すまんともう一度頭を下げた。
「心配かけた」
「うん。めちゃくちゃ心配した」
「文実の方は大分いい感じに進んでるし、助っ人も来たから。これまでよりは楽になる、はずだ」
「そか、それは良かった」
そう言って結衣は微笑む。無理しちゃ駄目だから、と釘を刺す彼女を見ながら、八幡は頷き。
頭を再度ガリガリとさせながら、だから、と続けた。
「そのためにも、少しだけ、だな。俺の仕事の方も、手伝ってくれると、助かる、というか」
「……」
「おい何だその顔」
「ヒッキーがそうやって助けを求めるとは思わなかったから」
「あ、今の無しで」
「冗談だってば! ヒッキーの手伝いするよ、任せて!」
どん、と胸を叩く。その拍子にそこに装備されている大きく柔らかい装甲がたゆんと揺れ、ああ何だか久しぶりだなと八幡は少し笑ってしまった。それはそれとして揺れるおっぱいはとても素晴らしいので目に焼き付けた。
「つってもまあ、今んとこ思い付かないんだが」
「えぇ……」
何だそれ、という顔でこちらを見る結衣を見ながら、八幡はゆっくり立ち上がる。流石にそろそろ行かねば先程の脳内が現実になる。鞄を手に取り、それを肩に引っ掛け。
「とりあえず、今から実行委員会にも行くわけだから。そこで協力して欲しいことが出来た時は、まあ……頼むわ」
「……りょーかい。任せといてよ!」
じゃあちょっくら社畜してきますか。首を回しながらそんなことを呟き、八幡は手をひらひらさせながら教室を出ていく。そこには夏休み明けのモヤモヤを洗い流したような、彼に似つかわしくないスッキリとした表情が浮かんでいた。
そしてそれを感じ取った結衣も、どこか満足そうな顔で彼の背中を見送った。
「おやおやぁ、いいのかなぁ? ユイ、こっちの仕事もしながらヒキタニくん手伝うの?」
「あ、姫菜、復活したんだ。うん、まあ、無理しない程度にするつもり」
「そりゃそうだし。ヒキオにあんな啖呵切って自分が無理したら馬鹿じゃん」
ぺし、と結衣の頭を軽く叩いた優美子は、だからあいつの仕事が来たらこっちの仕事少し減らすから、と笑みを浮かべた。いいの、と彼女を見ると、不敵な笑みを浮かべたまま後ろを見ろと指を差す。
「あ、沙希、戸部っち……」
「あいつはともかく……あたしと結衣は、友達、でしょ。頼ればいいじゃん」
「そーそー。まあ、俺は割とヒキタニくん応援してるし?」
「そういうこと。川崎はともかく、戸部は死ぬまでこき使っていいから」
「酷くね!?」
そうは言いつつ、翔も笑顔である。皆、何だかんだで結衣が好きなのだ。友人として、仲間として。
そしてそれは、何も彼女にだけではなく。
「ありがと、みんな」
それが分かるから、結衣は皆にお礼を述べた。自分だけではなく、向こうで頑張っている彼の分も、一緒に。本人は絶対に言わないだろうから、代わりに。
「葉山くん」
「どうした、戸塚」
「ぼくも八幡の手伝いをしたいと思うんだ」
「……奇遇だな。俺も、向こうの手伝いをしたいと」
「しゃらーっぷ! 二人は主演! 気持ちだけ受け取らせて、こちらを成功させることこそ、ヒキタニくんへの手向けに」
「八幡はそういうの別にいら――」
「さあ、もっと! もっと熱く、ねっとりと……!」
「……前門の姫菜、後門の陽乃さん、か」
知らなかったのか……? 腐女子からは逃げられない。