その1
高校生活は二年目に突入した。おおよそ一年前と大して変わらない生活を続けていこうと考えていた比企谷八幡にとって、この新たな二年目は嵐のようなものであると言えるだろう。ちなみに始まってまだ三日である。
「ヒッキー! おはよ!」
「お、おう……」
元気よく挨拶をしてくる由比ヶ浜結衣、それを八幡は若干引き気味に返したが、彼女は別に気にすることなく去っていった。何だあいつ、と昨日と同じ感想を持ちながら、彼はそのまま自分の席についてスマホを取り出す。今日のニュースは大したものがないな。画面を見ながらそんなことを思った。
今の所実害はない。周囲からの視線も別段増えているわけでもないし、積極的に話しかけてくるような相手もいない。とりあえずクラスメイトその一程度のポジションは確保出来ているといっていいだろう。そのことを確認し、八幡は小さく息を吐く。
周りに人が集まる。それを良しとするか悪しとするかは個人の判断だ。八幡はどちらかといえば後者よりで、最低限の会話が出来る程度の繋がりさえあれば問題ないだろうと思うフシさえある。とはいえ、それを自ら進んで実行するほどの度胸と行動力がないのも、また彼の特徴であった。結局モブか背景が一番居心地のいい場所なのだ。
「ん?」
スマホが会話アプリの新着メッセージを知らせる。誰だ、とスワイプして確認した八幡は、その表情を思わず歪めた。表示されているメッセージは短めで起動させることなく全文が読めたが、確認だけを済ませると起動して既読マークを付けるということすらせず横にスライドさせお知らせから排除する。
「……」
追加でメッセージが来た。やはりお知らせの表示のみで全文確認が出来たが、彼は今度は碌に見ることすらせずに横に弾く。
ふう、と息を吐いた八幡は再度ニュースサイト巡りに没頭した。お、今度新刊が出るのか。そんなことを思いながら次の記事を探そうとリンク先をタップする。
スマホが連続で震えた。お知らせ部分が次々にメッセージが来たことを知らせてくる。確認するとスタンプが連打されていた。
無言でアプリを起動させる。メッセージの差出人に短く簡潔に煩い、と送った八幡は、これで大丈夫だとアプリを最小化させ終了させようと。
『比企谷ー、頭大丈夫?』
短く簡潔に死ね、と送り返した。ついでにスタンプで罵倒しておくのも忘れない。
がこれが悪手であることは彼自身理解していた。それを証明するように、八幡の返事とは無関係の会話が次々流れてくる。こっちの生徒会がマジ意識高い系なんだけど、などと言われても知るかとしか返せないだろうに。そんなことを思いつつも律儀に返事をしてしまうのが既に敗北者であろう。ちなみに勿論返事は知るか、である。
そんなことをしているうちにホームルームが開始される。ああちくしょう、ニュースサイト巡りが中途半端じゃないか。一人悪態をつきつつ、八幡は教室にやってきた担任教師へと視線を向けた。
授業は退屈である。幸いにしてまだ理解出来ない範囲を超えてはいないため、ただただ面倒であるという程度だけで済んでいるが、これが一週間二週間、そして一ヶ月二ヶ月と進んでいくとまた変わっていくのだろう。ちらりと一週間もたなそうな顔をしてノートと黒板を睨み付けている結衣を見ながら、八幡は一人溜息を吐いた。
そんな机に縛り付けられる時間が終わり、昼休みという名前の昼食時間へと突入する。八幡はちらりと窓の外を見ると、どこか適当な場所で昼飯でも食べようかと席を立った。戻ってきて食べるにしろ、外で食べるにしろ、まずは購買で何かを買わねばならない。
教室の扉を開け、廊下を歩く。気分は孤独でグルメな人なのだが、いかんせん購買でパンを食う程度ではそこに至ることはないだろうと自覚していた。
「いや待てよ。そういう話もあるし、案外ありか」
「何が?」
「うぉぉお!?」
今のは独り言である。思っていたことが口に出てしまう、とか表現すると一体どこの最強俺TUEEE系だよとツッコミを入れてしまいたくなるが、これが案外馬鹿にできない。一人でいるのが多かったり好きだったりすると、自分で自分と相談を始めてしまうことが多々ある。そしてその場合、それらを口にすることで聴覚にも刺激を与え意見を固めやすくする作用があるのだ。本当かどうかは定かではない。
ともあれ、彼は別に誰かに喋ったわけではない。にも拘わらず返事が来たことで思わず奇声を上げて飛び退ってしまった。視界の先には、何やってんのと言わんばかりの表情でこちらを見ている結衣がいる。
「……何だ、ガハマか。何か用か?」
「え? これ流していいやつなの? あたし何事もなかったように会話していい系?」
「用事ないなら俺は行くぞ」
「あ、ちょっと待ってよ。あるし、用事」
ぐい、と制服の袖を掴まれた。無理矢理振り払うことは可能だが、それをする必要もなければメリットも存在しないため、八幡は小さく溜息を吐きながら向き直り彼女を見る。
えへへ、と笑っている結衣はモブAである八幡には眩しかった。
「お昼、一緒に食べない?」
「は?」
「いや、せっかく同クラになったんだし、いいじゃん」
ね、と笑う結衣を見ながら、八幡は心底嫌そうな顔をして溜息を吐いた。眼の前の彼女と飯を食うということは、必然的に彼女のグループに近付くということだ。そして、彼女のグループとは八幡曰くリア充の巣窟というやつである。
彼の出した結論はこれであった。絶対イヤだ。
「何で!?」
「あのな、お前俺のクラスの立ち位置分かってんのか?」
「空気」
「もう少しあるよ……多分」
「いや、冗談だから。そこでガチ凹みされるとあたしとしても困るというか……」
はぁ、と盛大に溜息を吐いた八幡は、まあとにかくそういうわけだからお前と飯など食ってられんと言い放った。不満そうにぶうぶうと文句を言う結衣を尻目に、八幡は一人購買に向かう。
これは今日教室で食うのは無理だな。そんな結論を弾き出し、そしてなるべく結衣に見付からない場所を発見せねばと一人ごちた。
その翌日。朝の挨拶をいつものように済ませた八幡は、席に座りニュースサイト巡りをしている最中視線を感じた。誰だ、と周囲を見渡すと、恐らくこのクラスで現在一番遠慮なく喋る間柄である少女がこちらを睨んでいるのが見える。さっきまで普通に挨拶していたのに一体全体何がどうなった。そんなことを一瞬だけ考え、まああいつのことだから機嫌なんぞすぐに変わるのだろうと結論付けた。犯人さえ分かればもうどうでもいい。彼は視線を気にすることなくスマホを操作し続ける。
そうして授業が始まり、そして昼休みになった。今日は迷うことなど何もない。八幡は立ち上がると購買に向かい、そして昨日探し出したベストプレイスへと逃げるべく足を踏み出した。
その一連の動作が素早かったからであろう。結衣が行動を起こそうと思った時には既に八幡は影も形もなくなっていた。キョロキョロと周囲を見渡し、教室を出て廊下を眺めた彼女は、肩を落とし教室へと戻る。はぁ、と溜息を吐きながら友人のもとへ向かった結衣は、当然のようにどうしたのだと心配された。
「え? あ、うん、大丈夫。別になんでもないから」
「何でもないって顔じゃないんだけど」
ジロリ、と結衣を見るのは彼女の友人である三浦優美子だ。ゆるふわウェーブロングという髪型の名称とは対極に位置するような目付きと、派手目な格好に相反するようなオカン気質によりクラスでも人気は高い。
「ううん。ホントなんでもないよ。さ、お昼食べよ」
「……ま、ユイがそれでいいならあーしは何も言わないけどさ」
肩を竦めた優美子は、同じように昼食を手に持ち自分達を待っているグループへと向かう。ひらひらと手を振っている男子生徒を見て笑みを浮かべた彼女は、彼の隣に座ると何事もなかったかのように談笑を始めた。
結衣もそれに混じり、彼ら彼女らと会話をする。いつも通りの光景であり、それを苦痛だなどとは決して思わない。が、どうにも何かが引っ掛かっているような感じがした。
「結衣、どうした?」
「へ? いや別に何も?」
そんな彼女の様子が気になっただろう。一緒に昼食を食べていた男子生徒が彼女に向かってそんな言葉を投げかけた。何もない、と返しはしたものの、気付くと既に結衣以外の皆は食事を終えて片付けている。ああ、これは確かに何かあったと言われてもしょうがない。そんなことを思いながら、しかし彼女は何でもないと首を振った。
「そうか? それなら、いいんだけど」
男子生徒はそれだけを言うとそれ以上深く追求することをやめた。それが結衣にとってはありがたく、そしてほんの少しだけ彼と比較して笑みを浮かべてしまう。ヒッキーだったらもう少し何かボロクソ言ってくるんだろうな。そう考え、少しだけ楽しくなった。
それを皆は気分が戻ったと思ったのだろう。少しだけ重かった空気が霧散し、いつも通りの雰囲気が戻ってきていた。
そうして談笑を続けていると、ふと優美子が彼女を見た。ねえ、と結衣に向かって声を掛ける。
「ユイ」
「何?」
「やりたいことあんなら、やりなよ」
「へ?」
「……ま、あーしは絶対認めないけど。マジ趣味悪い」
「いやいや! そんなこと……そんなこと……」
あるかもしれない。否定の言葉を出すことが出来ず、結衣は優美子にあははと愛想笑いを返すだけに留まった。
「ヒッキー! ご飯食べよ!」
「嫌だ」
「いいから!」
「嫌だっつってんだろ。俺は俺の安息の地へ行くんだよ」
今度こそ逃さん、と結衣は授業の片付けもせずに八幡を捕まえにかかった。ガシリと彼の腕を掴み、自分の体ごとロックして絶対逃さんと意気込んでいる。
「いいから、離せ」
「やだ、離したらヒッキー逃げるもん」
「いやそれはそうなんだけど、そうじゃなくてだな」
彼の腕は挟まれていた。彼女の持つ凶器により左右から蹂躙されていた。いくらモブ人生を爆進していようとも、いくら目が死んでいようとも。巨乳女子高生の持つ殺戮兵器の前には万人等しく獲物なのだ。
つまり八幡は尊厳の窮地に立たされていた。ふわりと甘い香りが彼の鼻孔をくすぐり、そしてむにむにと柔らかいマシュマロがとろけるような味わいを与えてくる。このままでは立たされてしまう。正確には立ってしまう。女遊びに慣れていない八幡ならば、間違いなく。
「いいから離れろ」
「やだ。一緒に食べるって言ってくれるまで離さない」
「分かった、分かったから離れろ」
「……離した途端逃げるじゃん」
「ガハマのくせに考えてやがる……!」
「酷くない!?」
ツッコミの拍子にほんの僅か拘束が緩んだ。今だ、と八幡は全力で腕を引き抜き、そしてこの場から離脱する。しようとした。
「ひゃぁん!」
「……っ!?」
擦れたのだろう。間近で少女が嬌声を上げた。密着している状態であったのが災いし、八幡はそのバインドボイスをモロに浴びてしまったのだ。ついでに引き抜いた拍子に制服と制服の触れ合いでなく、制服と手の平の触れ合いも経験してしまった。
その一瞬の停止が命取りとなったのだろう。結衣は再度八幡を捕まえ、よくも逃げやがったなと言わんばかりの表情で彼を睨んでいる。
これ以上問答を続けていても、時間と自分の尊厳が磨り減るだけだ。そう判断した八幡は、溜息を吐くと分かった分かったと項垂れた。今度こそ逃げないとはっきり言ってのけた。
「ホントに?」
「これ以上グダグダやってると時間なくなるからな」
「あ、ホントだ。結構時間経ってるね」
まあいいや、と結衣は拘束を解き彼の手を取る。じゃあ行こう、とニコニコ笑顔で廊下から教室へと戻ろうと踵を返した。
勿論八幡は待て、と彼女を静止させた。
「何?」
「俺は購買でパン買って来なきゃ昼飯ねぇんだよ」
「あ、そっか。じゃあ一緒に」
「その前に、一つだけ確認させてくれ」
ん? と結衣が首を傾げる。こいつきっと何も考えてないんだろな、と思いながら、彼は真っ直ぐに彼女を見ると言葉を紡いだ。
「俺を葉山達のグループに混ぜるつもりか?」
「あ、駄目?」
「駄目に決まってんだろ! 何で青春主人公みたいな連中の中にモブが突っ込まにゃならんのだ」
「えー。ヒッキーなら案外上手くやれることない?」
「あれに混じったら俺は本気で空気にしかならんだろ」
会話をすることは可能でも、談笑することは不可能だ。そう言い切った彼は、もしそうならば俺は絶対に行かんと物凄く嫌そうな顔で彼女から離れる。じゃあな、とこれからの行動如何では全力ダッシュしようと足に力を込めた。
「ま、待って待って。だったらあたしと二人で! それならいいでしょ?」
「……ちなみに、どこで食う気だ?」
「教室でよくない?」
絶対よくねぇよ。そう思ったが口に出すのも面倒になってきた八幡は顔全体で表現した。物凄く嫌そうな顔で結衣を睨んだ。
そんな彼を見て、駄目なの、と彼女は首を傾げる。空気読んだり周囲に合わせたりする性格を自分といる時だけ全力で取っ払うのはやめろよ。そんなことを思いつつ、八幡は勿論駄目だと言い切った。男女二人が教室で昼飯を食う。ある意味リア充グループに交じるより悲惨な結末が待ち受けているのは想像に難くない。
ああもう、と彼はガリガリと頭を掻く。昼飯抜きになるよりは、教室で動物園のフクロテナガザルを見るような視線を浴びるよりは、これの方がいくらかマシだと八幡の中の脳内コンピューターが答えを弾き出した。
「ガハマ」
「ん?」
「お前弁当? 今持ってるのか?」
「ヒッキー捕まえにダッシュしたから手ぶらだけど」
「……んじゃ今すぐ持ってこい。俺の昼飯スポットで食うぞ」
「逃げない?」
「今更逃げねぇよ。いいから早くしろ。俺の飯がなくなる」
「ん、わかった!」
待っててよ。と結衣は手を振りながら掛けていく。八幡はそんな彼女のドップラー効果を眺めながら、よし、と踵を返し購買へと足を進めた。
「あー、やっぱり逃げようとしてたし!」
「はえぇよ。何だお前、何インボルトだ」
「ヒッキーだったらそうするだろうと思ってお弁当だけ取って即来た」
「読まれてた、だと……?」
まあそうなる気はしてたけど。そんなことを思いながら、八幡は隣にやってくる結衣を見て溜息を吐いた。そうしながら、さっさと行くぞと今度こそ二人で購買へと足を進めた。
ちなみにどうでもいい話だが、机の上に物を出しっぱなしであった結衣は五限の担当教諭に睨まれた。