もしくは海老名さんのターン?
落ち着かない。これから勝負の、決戦の時だというのが己の心をかき乱し、平静ではいられない。戸部翔の心中は、先程からウロウロとせわしなく動いている体と合致していた。
「緊張してきた。やべー」
そんな翔の言葉に大和と大岡がからかい半分で励ましの言葉をかけている。勿論それで落ち着くはずもなく、結局は挙動不審な状態を続けるのみだ。
「楽しそうだな」
「いやめっちゃ緊張してっから!?」
そんな翔を見ていた八幡がぽつりと零した。それに反応した彼は反射的に叫び、そしてがくりと肩を落とす。いやマジヤバいんだって。そんなことを言いながら、彼は八幡の横に座る。
「んでも、ヒキタニくんには感謝してんだよなぁ」
「……どうした? いきなり」
「いや、何だかんだで世話焼いてくれたし?」
「途中からは割とほったらかしだったぞ」
「そうでもないべ」
ははは、と翔は笑う。半ば緊張をほぐすために喋っているようなものであったのだろうが、それでもそれは本心なのだろうということくらいは八幡でも分かった。分かったからこそ、彼はバツの悪そうに視線を逸らし頭を掻く。だから俺は何もしてない。否定の言葉を口にしながら、向こうで他の生徒と話している大和と大岡を見やった。
「あっちの二人の方がきちんと心配してくれてんだろ」
「そうでもねーべ。心配してくれてることはしてくれてんだろうけど、なんつーの? 真剣さはヒキタニくんの方が上、みたいな」
「買いかぶりだ」
「まあまあ。俺がそう思ってるってことで」
よ、と翔が立ち上がる。海老名姫菜を呼び出した時刻はもうじき。何も隠さず、ただ目的の場所へと来るよう頼み込んだそれは、既に告白しているも同義であったが、彼はそこを気にしていない。後は野となれ山となれ、覚悟を決めたのか、大きく息を吐くと、翔は八幡に小さく手を上げるとそこから去っていった。
緊張ほぐれたのかな。その様子を眺めていた彩加が八幡にそう問い掛けるが、彼も分からんと返すのみ。それは、当人のみが知ることだ。表面上を取り繕っているのか、それとも。
「比企谷」
「ん?」
他の生徒達と話していた隼人が、彼を呼ぶ。くい、と視線で外を指し、八幡は意図を察して嫌々ながら立ち上がった。
旅館の外の川べりで、景色を眺めながら彼は問う。どうだろうな、と八幡に尋ねる。
「いや、振られるだろ」
「だよなぁ……」
彼の言葉に、隼人は溜息を吐きながら彼へと向き直った。それでも、止めることは無理だろうな、と苦笑しながら言葉を続けた。
「別に本人が望んでんだ、好きにやらせりゃいいだろ」
「まあ、な……」
そう言いつつ、彼の表情は浮かない。好き好んで友人が玉砕をするのを眺める趣味はないのだろう。分かっていても、どうにかならないかと考えてしまうのだ。
そんな隼人を八幡は鼻で笑う。いやお前何言ってんのと彼を見る。
「三浦に告白されたんだろ?」
「ぶふっ!」
自分がその立ち位置にいたのだから、分からないはずないだろうと八幡は呆れたように肩を竦めた。そもそも自分は告白されて、でももう片方の告白を聞きたいから保留したとかいう外道の所業をやっておきながら何聖人面して友人の心配してんだ。ここぞとばかりに彼は隼人をそう攻め立てた。
「……雪乃ぉぉぉ」
「落ち着け葉山。流石に俺もやりすぎた」
爽やかイケメンをかなぐり捨てるほどの負のオーラを纏い始めた隼人を見て、流石に八幡も引く。ついでに不可抗力なことと今回のことに必要だったからだと何故か彼女を弁明した。
はぁ、と溜息を吐いた隼人は表情を戻す。いやまあ分かっていたけれど、と苦笑しながら再度夜の川を眺めた。
「確かに、俺は戸部に何か言う資格はないな」
「そもそも、人の恋愛事情にとやかく言う資格なんざ大抵はないだろ」
「余程のお節介か、あるいは悪魔や魔王なら……か?」
「さてな」
話は終わりか、と八幡は隼人に述べる。ああそうだな、と返した隼人は、暫し川を見詰めたまま、いや待ったと前言を翻した。
「俺は、余程のお節介でも悪魔でも魔王でもないが」
「……何だよ」
「比企谷、君はどうなんだ――
振り向いた隼人は、真っ直ぐに彼を見た。比企谷八幡はどうするのだ、と問い掛けた。何を、とも、何が、とも言わず、ただただそう尋ねた。
だから、八幡はそれに対してこう答えた。何を、とも、何が、とも言わず、ただただこう返した。
「余計なお世話だ」
ライトアップされた竹林は、今この瞬間、ただ一人のための舞台となった。この舞台役者が降りるまで、主役はそこに立つ一人で、ヒロインはもうすぐやってくる一人だけ。
観客となっているのは、大岡と大和、そして隼人と八幡。もうじきヒロイン側の観客として優美子と雪乃、そして結衣も来るはずだ。
「っべー……いや、マジ」
緊張がぶり返してきたのか、翔はガチガチで竹林に突っ立っている。大岡や大和は頑張れよ、と言葉をかけていくが、翔の返事は若干かすれていた。
はぁ、と八幡は溜息を吐く。あの調子では告白とかそれ以前だ。最悪勝負すら始まらないかもしれない。
「戸部」
「な、なに隼人くん? 俺割とイッパイイッパイで」
「……いや、応援しようと思ったけど、その顔見たら言う気が失せた」
「酷くね!?」
がぁん、とリアクションを取る翔であったが、そのやり取りで少し調子を戻したらしい。うし、と頬を叩くと、姫菜が来るであろうその先へと視線を向ける。
そしてそんな隼人の隣に立っていた八幡は、彼へと尋ねた。それで振られたらどうするのだ、と。
「今から告白するのにそこ!?」
「最悪を想定しておくのは基本だろ」
「マジかー……」
はぁ、と溜息を吐くと、翔は暫し考え込み真剣な表情を浮かべた。どうやら隼人もその質問をしようと思っていらしいことを顔で察し、二人を真っ直ぐに見た。
「そりゃ、諦められないっしょ。俺、こんな適当な性格だからこれまで適当な付き合いしかしてなかったけど……今回は、本気なんだわ」
「そうか」
ふう、と八幡は息を吐く。ちらりと隣を見ると、笑顔の隼人がいたので舌打ちを叩き込んでおいた。そうしながら、二人はくるりと踵を返す。余計な観客は、素直に舞台の下へと引っ込むべきだ。
「なら、最後の最後まで……頑張れよ」
だがその前に、少しくらいは激励してもバチは当たるまい。振り向くことなくそう述べた八幡を見た翔は、おお、とどこか満足そうに返事をした。
そうして離れた場所で待機していた男子連中のもとへ、ヒロイン側の観客がやってくる。ほれ、と優美子が指差した先には、海老名姫菜が戸部翔と向き合っているところであった。
「はろはろ。……で、とべっち。どうしたの?」
「あ、おう。えっと」
笑顔で手を振りながらやってきた姫菜は、翔にそんな言葉を投げかける。勢いで押そうと思っていた彼は、先手を取られたことで心が一歩下がってしまった。当然ながら、それを見ていた観客どもはあちゃぁと頭を押さえる。
「うわ、海老名マジ容赦ねぇなー」
「とべっち、いけるかなぁ……」
「そうね……無理かしら」
優美子が呟き、結衣が心配し、雪乃がバッサリ切り捨てる。男子連中はそれを聞いて思わず後ろに下がったが、しかし感想はほぼ同じだったのでとりあえず持ち直した。八幡と隼人は、である。大岡と大和は雪乃に耐性がないのだ。
「俺さ、その」
「うん」
姫菜は表情を変えない。笑みを浮かべたまま、翔の言葉をただ待つように立っている。その姿が、これから良い返事をくれるようには到底思えなかった。告白したら最後、後は振られておしまい。そうなるのが確定しているかのような立ち姿であった。
だが、観客は手を出せない。たとえ分かり切ったバッドエンドだとしても、見ている側が脚本を捻じ曲げることは出来ないのだ。それが出来るのは、主役とヒロイン、あるいは、監督か。
「あのさ――」
「ねえ、とべっち」
そう、捻じ曲げられるのは、それくらいなのだ。
え、と誰かが声を発した。それは優美子だったかもしれない、結衣かもしれない。雪乃ではないだろう。隼人や、八幡は、ひょっとしたら可能性はある。
ともあれ、翔の告白を遮った姫菜は、笑顔のままちょっと聞いて欲しいんだと述べた。有無を言わさず、言葉を紡いだ。
「私さ、こう見えて、嫌いなんだ」
「へ? な、何が?」
「自分」
翔の動きが止まった。は、と状況についていけてない大和と大岡がフリーズするのが分かったが、残りの観客は歯牙にも掛けずに二人を見守っている。
「ほら、私腐ってるでしょ?」
「あ、おう?」
「……腐ってるってのは、趣味の話だけじゃないんだ。誰にも理解されたくないし、理解したくない。そのくせ、人との繋がりは未練がましく手繰り寄せる」
ね、腐ってるでしょ。先程とは違う、どこか自嘲めいた笑みを浮かべた姫菜は、手を後ろで組むとくるりと回った。そのまま舞台を目一杯使うように、歩きながら口を開く。
「そう、嫌いだった。私は、私が嫌いだった」
ピタリと動きを止めた。翔に背を向けたまま、彼女はそこで伸びをした。だからもし、そんなことを言いながら、決して振り返ることなく、彼の表情を見ることなく、彼女は述べた。それを、告げた。
「私のことを好きって人がいたとしても、私はそれに応えられない。だってそうでしょ? 私、その人の好きな人、嫌いだもん」
「……」
彼女は振り向かず、翔は声を発しない。決して向き合うことなどなく、二人だけの舞台は、主人公とヒロインは、そこでライトアップされたそれに照らされ、物語を続けていく。
「……まあ、私が私を嫌いなことを知ってて、そんなこと関係ないっていう物好きもいたけどね。そのおかげで、嫌い、が嫌いだった、くらいには改善したかな」
勿論好きじゃないよ。釘を差すようにそう続けると、彼女は空を見上げる。月がポッカリと浮かんでいて、天と地、その両方から照らされる光が否応なしに自分達を浮かび上がらせていた。
「でも、まだ答えは変わらない。嫌いだったやつのこと好きだーって宣言されても、知るか、ってなるし」
そんなもんだよね、と姫菜は述べた。それを自分の言いたいことの締めにしたのか、そこで彼女は息を吐いた。そうしながら、いつのまにか俯いていた翔へと再度向き直った。
彼の表情は見えない。が、恐らく自分の言いたいことは伝わったに違いあるまい。そんなことを考えつつ、姫菜は微笑を浮かべ、ごめんねと零した。
「いきなり変なこと言っちゃった。それで、とべっちの話って、何かな?」
マジカヨ、と誰かが呟いた気がした。鬼か、と八幡が頬をひくつかせ、まあ告白を断るよりは有情でしょうと悪魔がしれっと述べていた。
「やっぱ、駄目か」
「……そう、かな」
優美子が溜息を吐くが、結衣は真っ直ぐに二人を見ている。その目は真剣で、そして諦めていないと述べていた。観客が、まだ終わっていないと、舞台で起きることを見逃さんとしていた。
「言わないって選択肢は、あいつ自身が潰したんだ」
「隼人……?」
「だから、言うさ。何かしらを」
同じように、隼人も真っ直ぐに舞台を見ている。それはそこに立つ二人を通して、また違う何かを、異なる誰かのことも見ているのかもしれない。そんなことを思わせた。
沈黙が続く。それは一瞬だったのかもしれないし、長時間だったのかもしれない。舞台の二人がただ立つだけのそれは、しかし主役が顔を上げたことで崩された。
「俺、さ」
「……うん」
しょうがない、と言わんばかりの顔を姫菜は浮かべる。出来ればここで、何でもないと言って欲しかった。そんなことを思いながら、彼女は彼の言葉を待つ。そうした後に、お断りの返事をするために。
「……手伝う」
「うん……うん?」
「俺、手伝う。海老名さんが、好きになれるように」
「は? へ? 誰が? 何を?」
いきなり何言い出すんだこいつは。そんなことを思い、彼女の頭にはてなマークが飛び交う中、翔は息を吸い、吐いた。もう一度、真っ直ぐに。彼は彼女へ、宣言した。
海老名姫菜が、海老名姫菜を好きになれるように、協力する、と。
「……何で?」
「へ? いや、ほら、嫌いじゃなくて嫌いだったってことは、このままいけば好きになる可能性だってワンチャンあるっしょ? だったら、そうなるように手助けしようと」
「だから何で!? 私は別にそんな」
「いやほら、俺海老名さんのこと好きだし。どうせなら、海老名さんにも俺の好きな人のことを好きになってもらいたいべ」
「は、はぁぁぁぁ!?」
今こいつなんつった。さらっと好きだとか抜かしやがったぞ。あまりにもさらっと言われたので、一瞬理解が追いつかなかった姫菜が素っ頓狂な声を上げる。観客はあんぐりと口を開け、ついていけんと思考を放棄するものもいる。
「あれ、絶対そういう意味で言っていないわね」
「だよなー……」
雪乃の言葉に、優美子が同意しながら肩を落とした。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、あそこまでド級の馬鹿だとは思っていなかった。そんなことを思いながら、彼女は横の隼人を見た。
必死で笑いを堪えているのを見て、ああ根っこはここにいる幼馴染と同じなんだな、とほんの少しだけ呆れた。
「だからさ、俺にも手伝わせて。そんで、海老名さんがちゃんと自分のことを好きになれたら……そんときに、改めて言いたいことがあるんだ」
「いや今言ったよ!? めっちゃ言ったよ!?」
「へ? 何が?」
「だから! ……あー、うん、もうどうでもいいや……」
盛大に溜息を吐いた姫菜は、力尽きたように肩を落とした。とりあえず告白は有耶無耶になったということにしておこう。そうでなくては自分が疲れる。そんなことを思いながら、彼女は頬を掻きながら視線を戻した。
「……余計なお世話ってこともあるよ?」
「あー、まあ、そりゃなぁ。でも、嫌いなものとか、出来るだけ無い方がいいっしょ」
そんなことを笑顔で言われてしまえば、姫菜としても何も言えない。分かった分かった、と言いながら、彼女は彼の肩を叩くとその横を通り過ぎた。話終わりなら帰ろうか。そう述べると、観客のもとへと歩き出した。
カーテンコールだ。その行動でそう判断した観客たちは、揃って舞台へと歩き出す。我に返った大和と大岡は翔の背中を叩き、風呂行こうぜと笑う。それにどこか満足そうな顔をした彼は、笑い合いながら竹林の道を歩いていった。
「海老名」
「……はぁ。もう、最悪」
優美子の言葉に、姫菜はそう返す。が、優美子はそんな彼女を見て笑っていた。お前そんなこと言ってるけど、とその頬を突いた。
「笑ってんじゃん」
「……気のせいですぅ」
「まんざらでもなかった感じ? うりうり」
「ちーがーいーまーすー。あの馬鹿さが一周回ってちょっとツボに入っただけだから」
やめい、とその手を払い除けながら、姫菜はスタスタと歩き出す。ケラケラと笑いながら、そんな彼女の後に優美子が続いた。
「一件落着、かな」
「そうね。あの二人は、ね」
隼人の言葉に雪乃はそう述べる。修学旅行での問題はこれでひとまず片付いた。だから残るは一つだけだと彼女はその口角を上げる。
ねえ由比ヶ浜さん、と雪乃は振り向いて声を掛けた。びくりと反応した結衣に向かい、彼女はクスクスと笑う。
「どうせなら、少しここを歩く?」
「へ? あー、そだね。せっかくだし」
「だ、そうよ比企谷くん」
「……ああ、そうかい」
その言葉と、その視線。それが何を意味しているのか、分からない八幡ではない。ただ、分からないふりをしているだけだ。そうではない、とその答えを不正解だと断じているだけだ。今の会話に、何故自分が出てくるのか。その意味を理解しないほど、彼は鈍感ではない。
それでも、彼は動かない。臆病で、卑屈で、自信のない自分を表に出すかのように、彼は進むことはない。
「……俺も、俺が嫌いになりそうだ」
いっそ馬鹿になれたらいいのに。そんなことが頭をよぎって、八幡は振り払うように頭を振った。
シリアス「あ、次出番?」