勿論許可は取った。雪乃はその上で、彼女達にそれを伝えたのだ。気にしていない結衣はともかく、もとより隠すつもりもなかった八幡も半ば投げやりに、好きにしろよと許可を出したのだ。
その結果がこれである。
『お兄ちゃん、ついに……』
「ああ」
『ついに、結衣さんをお義姉ちゃんと呼ぶ日が』
「来てない。それはまだ来ていない」
最初は小町。夕食後に怒涛の勢いで電話をしてきた彼女を、八幡は少々げんなりとしながら受け流した。そうしつつ、おめでとうという言葉には素直にありがとうと返す。何だかんだで兄妹だ、そういうところは茶化さない。
『というか、今更じゃないですか?』
「うるせぇよ一色」
『あはは。まあ結衣先輩は祝福しましたから、安心してください』
「いやだったらガハマの彼氏である俺も祝福しろよ」
『……恥ずかしげもなく言うんですね』
「そこ突っ込むな……今猛烈に後悔してるから」
そういう役割はこちらである。いろはの売り言葉に買い言葉となったそれを発した八幡は、暫し廊下で蹲った。別に事実なんだから気にすることはない。そんな彼女のフォローなのか追い打ちなのか分からないそれにも、おう、と短く返事をするのみである。
電話を終え、ダメージから立ち直った八幡は、近くにあった椅子に座ると息を吐く。天井を見上げると、どうにも実感が湧かないと一人呟いた。小町にああ言ったものの、いろはにそう返したものの、彼の中ではこれが本当なのかが、まだ。
「うぉ」
左手に持ったままであったスマホが震えた。何だ、と画面を見ると、着信を知らせるメッセージとともに、相手の名前も表示されている。きちんとした名字や名前ではない。彼の電話のアドレスでそう登録されているのは両親と、『ガハマ』である結衣。そして。
『や、今大丈夫?』
「大丈夫じゃないから切るぞ」
『大丈夫そうだね。んでさ比企谷』
「大丈夫じゃねぇって言ってんだろ折本」
『クソ野郎』である彼女だけだ。八幡の言葉など気にすることなく、折本かおりはケラケラと笑い言葉を紡ぐ。連絡回ってきたんだけど、と問い掛ける。
『マジ?』
「……今丁度自信なくしてたとこだ」
『なにそれ、ウケる』
「そうだな……」
『いやそこはツッコミ入れろー』
おいおい、と呆れたような声が電話越しに聞こえてくる。そう言われてもと溜息を返した八幡は、先程ぼんやりと考えていたことをそのまま彼女へと口にした。本当に、自分は彼氏彼女の関係になったのか、と。
『いやあたしが知るわけないじゃん』
「それもそうか……」
『ま、でも。――比企谷が心配するってことは、マジ話じゃないかな』
「意味分からん」
『ん? 比企谷って、そういう時はまずそんなはずがないっていう否定から入るんだよね。でも今の話聞くと、本当なのか不安って感じだし。それってつまり、間違ってないって思ってるっぽい』
「どういう理屈だよ……」
『あたしが知るはずないじゃん、ウケる』
「ウケねぇ」
はぁ、と溜息をもう一つ。そうしながら、成程確かにそうかもしれないと彼は視線を上に向けた。
違うと思っていれば、最低値であると思っていれば、そうであった時にああやっぱりと安堵できる。八幡が一人で悩む時はそのスタンスであることが多かった。腐れ縁であるかおりはそのことを知っている。だから、プラスであることを心配するような時がどんな時かも、彼女は分かっている。
「俺、本当にガハマの彼氏になったのか……」
『本人に言えって、そこは』
「……それは、そのだな。さっきのあれがそれで、こうエネルギー的なゲインが」
『ヘタレだー……』
「こちとら非モテの陰キャだぞ、そう簡単に出来るわけないだろ」
『ま、あたしへの告白をメールでやるくらいだし?』
「うるせぇ」
吐き捨てるように八幡はそう返すと、スマホを持っていない方の手で頭をガリガリと掻いた。風呂で濡れた髪はまだ多少しっとりとしていて、彼の指に少しだけ絡みつく。
そんな光景は見えるはずもなし。電話口のかおりは、止まった会話を戻すように、それにしてもと声を上げた。
『比企谷に彼女かぁ……ヤバい、ウケる』
「何でだよ」
『さっきまでの会話でまだ分かんない?』
「……ぐぅ」
『まあ、でも、よかったじゃん。由比ヶ浜ちゃん、前から好きだったでしょ?』
ピシリと八幡は固まる。前から、と彼女は述べた。かおりはこのタイミングでブラフをするような性格ではなく、それはすなわち知っていたということであり、そして。
「……いつからだ?」
『ん? 最初に出会った時? ああこれ比企谷惚れてるなーって』
「いや、それは流石に勘違いだろ。俺がガハマのこと好きだって自覚したのは――」
『こないだの修学旅行の班決め辺りじゃない? ああようやくかってメチャクチャウケた』
今度こそぐうの音も出なかった。今目の前にかおりがいないことをここまで忌々しいと思ったことはない。心中で叫びながら、彼は彼女の言ったタイミングの会話を思い返していた。丁度その頃に、同じように彼女は八幡に電話をしてきた。
「ああ、そういうことか。……つまりお前、あの時の電話のあれは」
『ん? ああ、バレバレって話? そうそう、比企谷のことに決まってんじゃん』
「マジかよ……」
『だから頑張って告白しなよって』
「……ああ、くそ。やっぱりそういう意味かよ」
あの時には気付かなかったことが、今なら分かる。本を読み返してトリックの伏線を確認するかのごとく、八幡の中の氷解した疑問の答え合わせを行っていく。
一通りその辺りの話を終えぐったりとした八幡は、そろそろ切るぞと伝えた。元々からかうのが目的だったし、と笑ったかおりは、そんな彼の言葉に同意をする。
『あ、そだ比企谷』
「なんだよ」
『おめでと。彼女、大切にしなよ』
「……おう」
悶えた。何だ今の、と素直に真面目になったことを後悔しながら頭を抱えていた八幡は、ホテルを歩く生徒達から奇異の目で見られつつ、しかし気にする余裕もなく。
だから視線に気付くのが遅れた。いつの間にか椅子の隣に立って彼を見下ろす視線に反応するのが遅れた。
「うぉ!?」
「奇遇ね、比企谷くん」
ビクリと反応したのをきっかけに、その人物は、雪ノ下雪乃は声を掛ける。手に持っているぬいぐるみをくりくりと動かしながら、彼女は彼の目の前に立った。
「それはもっと前に言うべき言葉だろ……」
「あなたが気付いていないのが悪いのでしょう?」
結構見ていたわよ、と雪乃に言われてしまうと、八幡としても言い返せない。はぁ、と溜息を吐くと、一体何の用だと目の前の彼女に問うた。
「からかいに来たわ」
「帰れよ」
全力で拒否をしたのだが、生憎と悪魔には通用しなかったらしい。よいしょ、と八幡の隣に座ると、何が楽しいのか笑みを浮かべて彼を見る。勿論理由が分かっているので、彼はその場から立ち去ろうとソファーから立ち上がり。
「あら、今戻ってもいいの? クラスメイトに色々言われない?」
「……」
その通りだ。半ば知っていた案件とはいえ、確定事項になるならばそれはそれだ。出歯亀ーズに混ざれなかった翔を筆頭に、クラスの男子の大半は八幡の部屋でそこにいない主役を肴に盛り上がっている。当然ながら行けばもみくちゃだ。彼としては絶対に向かいたくない場所なわけで。
「消灯時間まで時間を潰す必要があるわね」
「だとしても、お前と話すは無い」
「あらそう。なら、由比ヶ浜さんとイチャつく?」
「何でそこでガハマの名前が――」
「出てくるに決まっているじゃない。あなた達、恋人同士でしょう?」
「……」
その通りだ。先程かおりとの会話で再確認した以上、ここで迷うことはない。ないのだが、それはそれで目の前の悪魔を祓う手段が何もないことを指すも同然。
だからといってその選択肢を取る気はさらさらなかった。今の状況を鑑みて、それはまさしく火に油を注ぐ行為だ。
「まあ、呼ぶにしろ向かうにしろ、確実に騒ぎになるからどちらにせよ無理でしょうけれど」
「だったら言うな」
はぁ、と溜息と共に項垂れる。そういう意味では彼氏彼女となったそばから、こうして別の女子と、見た目だけは学年一美少女と座って話しているのも問題なのだが。その辺の感覚は既に麻痺していた。
「さて、それでは」
「あん?」
「ちょっと惚気けてくれないかしら」
「お前は絶対に碌な死に方しないぞ」
知っているわ、と雪乃は笑う。こいつに何を言っても無駄だと判断した八幡は、諦めたように視線を明後日に向けた。惚気はしない。半年以上付き合わされたのだ、やりそうなことを多少なりとも予測は出来る。
具体的には、ぬいぐるみを抱えていることで見えなくした右手に仕込まれているスマホだ。
「いいの? 由比ヶ浜さんに愛を囁かなくて」
「するわけねぇだろ。……もしするとしても、それはガハマ本人にだ、お前にじゃない」
「ふふふっ、そうよね。そういうことは、本人に直接、よね」
何に満足したのか分からない。分からないが、ともあれ雪乃は微笑みながらうんうんと頷いた。そうしながら、右手に持っていたスマホをポケットへと仕舞い込む。
そこで暫しの沈黙が訪れた。元々八幡はペラペラと何かを喋る方ではない。雪乃も人を陥れたり罠に嵌めたり自分が気持ちよく勝ったりする時は饒舌になるが、基本は口数の少ない方だ。そして、お互い沈黙を別に苦に思わない。
八幡はぼんやりとスマホを眺め、雪乃はご当地仕様のパンさんぬいぐるみをいじる。そんなことを続けて、数分。
「なあ、ちょっと聞いていいか?」
「あら、比企谷くんから話題を振るなんて珍しいわね。どうぞ」
「言ってろ。……雪ノ下、お前は、俺の、その、ガハマのことが好きだって気持ちに、いつ気付いて」
「最初からよ」
つい先程、かおりから聞いた言葉を思い出す。お前もか、と思いながら、八幡はそれは勘違いだと雪乃に述べた。自分が彼女を好きになったのはもっと後だと伝えた。
だが、雪乃はそれを聞いて鼻で笑う。まあそういうことにしてやろうと言わんばかりに口角を上げる。
「何か言いたげだな」
「いいえ、何も。ああ、でも、そうね。もう付き合っているのだから、言ってしまおうかしら」
「何をだ」
「あなたが、由比ヶ浜さんに渡した誕生日プレゼントのことを、よ」
は、と彼は怪訝な表情を浮かべる。今更何を言っているのだ、と彼女に問う。
対する雪乃は、無意識でしょうけれど、と前置きをした。きっと向こうの『月が綺麗』と同じなのだろうけれどと言葉を紡いだ。
「だから何をだ」
「キンレンカ。あの時から由比ヶ浜さんがずっとつけているチャームだけれど」
「それがどうした。あれの花言葉なら、別に関係――」
「フランスでは、キンレンカを送ること自体が『愛の告白』を意味するわ」
ぶふっ、と八幡が吹いた。目を見開き、雪乃が平然とポーカーフェイスをしていることに舌打ちをし。手にしているスマホで素早く検索ワードを入力した。そうして出てくるそれを見て、ついでにフランスの花言葉を見て、彼の手はカタカタと小刻みに震えた。
「……雪ノ下」
「心配しなくとも、由比ヶ浜さん
「……そうか」
自身のしでかした衝撃で、敢えてそう述べた雪乃の言葉はスルーされた。スマホを肘掛けに置きだらりと四肢を投げ出した八幡は、ラグドール人形のような状態のまま動かなくなる。
流石に完全に死んでいる相手に追い打ちをしてもつまらないのか、雪乃はそんな彼を見て小さく微笑み見守った。とりあえず復活するまで、再起動するまで。
オットセイのような、ウシガエルのような、そんな声を上げながら八幡が身じろぎする。過去は変えられない。今更それを蒸し返されたところで、致命傷にしかならない。そう結論付け、彼は何とか持ち直した。
「話を続けていいかしら」
「何がだよ」
「その頃にはもう、お互い意識していたのでしょうね」
「知らん」
「そうね、こういうのは案外、当事者は気付かないもの。ねえ、『愛の人』」
「知らんっつってんだろ」
クスクスと笑った雪乃は、からかうのはここまでにしましょうと彼に述べた。まだまだこれからも高校生活は続くのだ。話の種は、きちんと適切な時期に蒔かねば。
それになにより。
「これでも、祝福しているのよ」
「抜かしてろ」
「ふふっ。でも、これは本当。私の友人が幸せになるのは、素晴らしいことだもの」
「これまでの言動で何一つ説得力がねぇよ」
はぁ、と八幡が溜息を吐く。そうしつつも、彼は彼女の言葉が本当なのだと確信していた。友人、と雪乃は言った。だから、信じた。
「それで、比企谷くん。明日はどうするの?」
「新幹線乗って帰るだけだろ。何もすることなんぞ」
「もし望むのならば、私が他の人達を足止めしてもいいわ」
「……いらん。わざわざそんなことしなくても」
きっとあいつらなら、勝手に気を使う。言いかけたその言葉を飲み込み、いつの間にか恋人以外にも、友人と聞いて頭に思い浮かぶことの出来る連中が案外増えていることに思い立ち。
「幸せものね、比企谷くん」
「……抜かしてろ」
思考を読んだのだろう。雪乃が楽しそうにクスクスと笑うのを見て、八幡は思い切り視線を逸らした。
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