「ふぅ……」
比企谷八幡は一人で飯を食っている。教室で食べればいいのに、わざわざ別の、それも大分離れた場所で昼食を食べているのには理由があった。が、別段しょうもない理由なのでわざわざ語るほどのものではないが。
「怖えよ……」
はぁ、と溜息を吐く。八幡の中で『クラスメイト』でも『知り合い』でもない場所にカテゴライズされかかっている少女は、定期的に彼を昼食に誘っていた。あの日、二人で昼食を食べてからある程度満足したらしい結衣は強引に引きずり込むことこそしなくなったが、それ自体をやめることはなかったのだ。
そしてその結果、そっかー、と少ししょんぼりしながら去っていく少女を見ることになるわけで。
当然のように彼女の友人である三浦優美子が睨んでいた。思わず情けない声を上げながら土下座して謝りそうになるほどの鋭い眼光であった。
「てか何だよあれ、何コンダだ……」
ヒキガエル、ではなく比企谷では獰猛な蛇にはとても敵いはしないであろう。そんなわけで彼は戦略的撤退を決め込んでいるのだ。学校生活の二年目が始まり、一週間は経過した。逆に言えば一週間程度しか経っていない。
その状態で、彼は既に教室から逃げ出すことを選んだのだ。
「ってか、あいつ絶対俺がガハマと一緒にいたらいたで石化の視線向けてくるぞ」
いつの間にか蛇から蛇女にランクアップしたらしい優美子の愚痴を零しながら残っていたパンを口に入れる。パックのジュースで喉を潤すと、さてではどうしたものかと空を見上げた。雲一つなく、吹き抜ける風は心地いい。ああ別にここにいてもいいんだ、と自然が自分を受け入れてくれる気がして、八幡はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
勿論第三者が見たら通報ものである。彼の腐れ縁が見ても、「あ、比企谷、ちょっと通報しとくね」と笑いながらスマホを取り出す。
幸いにして誰にも犯罪者スマイルは見られることなく、八幡は何も考えていないような顔で教室に戻るタイミングを考えながら景色を見ていた。定年退職し趣味も何もない老人のような出で立ちであった。
スマホを取り出す。時刻はまだ余裕がある。どうせならここでニュースサイト巡りをしておくかとアプリを起動し、届いていた腐れ縁からの会話アプリのメッセージは適当に無視した。とはいえ、朝と昼とでそうそうニュースが変わるわけでもなし。とりあえず買ってはいるしデッキも組んだが肝心の対戦相手がいないカードゲームの情報サイトでも見るかと検索単語を打ち込んだ。
「ん? 新カード出るのか。あ、これ俺のデッキに入るな」
入れたところで対戦相手はいない。時間が合った時だけ妹の小町が相手をしてくれる程度だ。それでも買うのをやめるといざという時後悔しそうだったので、八幡は今日も新パックを購入するのだ。
一人脳内のコンボを回していた八幡は、そこで人の気配を感じ顔を上げた。視界の端に、こちらに向かって歩いてくる人影が見える。どうやら女性のようで、華奢な体付きではあるが不健康ではないことを感じさせた。
人影が近付くにつれ、その端正な顔立ちと流れるような黒髪がはっきりと彼の視界に映る。同じ制服を着ているはずなのに、その辺の女生徒とは一線を画す何かがあるように感じられた。
「あら」
少女は八幡を見付けると、少しだけ目を見開いた。こんな場所に人がいるとは珍しい。そんなことを言いながら、ゆっくりと彼に近付いた。
彼は彼女を知っている。同じ学年ならば恐らく知らない者はいないだろうと言えるほどの有名人だ。八幡達の普通科とは別に一クラスだけある国際教養科、そこのトップに鎮座する成績優秀文武両道容姿端麗のパーフェクト超人というもっぱらの噂の学年ナンバーワン美少女。
「こんなところで昼休憩だなんて、変わっているのね」
軽い調子で世間話を行ってくる彼女ではあるが、その実表情はニコリともしていない。愛想がない、と言い換えてもいいだろうか。その割には初対面の八幡相手に遠慮なく接してくるという謎のアンバランスさがあった。
「ちょっと事情があってな」
普通であれば噂の美少女と急接近というシチュエーションはテンパって碌に話せないと確信を持っている。にも拘わらず、彼が自分でも驚くほど普通に言葉を返せたのは、そんな変な部分を垣間見たからだろうか。
「事情……」
す、と彼女の目が細められた。一歩八幡に近付くと、よければその事情を教えてくれないかしらと言葉を紡いだ。
見た目の割にお節介焼きなのだろうか。そんなことを思った八幡であったが、しかし話せと言われても別段語るほどのものはない。そもそも他人に話すのが恥ずかしいレベルである。
「いや、見ず知らずの人に話すようなことじゃないんで」
「そうは見えないけれど」
何がだ。思わずそう言いかけ、彼は言葉を飲み込む。見た目の話ならば、別にそう悪くはないはずだ。そんなことを思いながら、八幡はもう一度彼女に告げた、話すようなことではないと言い放った。
「そう。……ところでそれは、あなたが自分で解決出来るの?」
「は? いや、別に俺が出来ようと出来まいと関係ないだろ」
「そうね。だから聞いてみただけよ」
何だこいつ。表情を変えることなく飄々とそんなことを言ってのける眼の前の少女を、八幡は怪訝な顔で眺めた。澄ました顔のままその視線を受けた少女は、まあ言いたくないのならばいいと踵を返す。
「そいつはよかった」
「……あら、驚かないのね」
「見ず知らずの相手を一々気にしていられるほど切羽詰まってもいないんでな」
「余裕がない、ではなく?」
「同じだろ。余裕があるから気にする、余裕がないから縋り付く」
足を止めた少女は、そのまま振り向かずに一人頷く。そうした後、首だけをこちらに向け、わずかに口角を上げた。
「まあ、どちらでもいいわ。だって、見ず知らずでなければ今の会話の前提が崩れるものね」
「は?」
「それじゃあ、私はもう行くわ」
そう言って少女は視線を戻し歩き出す。その最中、思い出したように足を止め、振り向いた。表情はポーカーフェイスでもなく、ほんの少し口角の上がったものでもなく。
どこか不敵な、挑戦するような、笑み。
「――もし、何か困っていることがあるのならば、救いの手を取りに来なさい。奉仕部が、あなたに相応しい魚の取り方を用意してあげる」
「は?」
「それじゃあまた。比企谷八幡くん」
言いたいことだけ言うと、少女はひらひらと手を振り今度こそ彼の前から去っていく。やって来た方向ではないので、元々の用事でも済ませに行ったのだろう。そんなどうでもいいことを考えつつ、八幡は一切合切わけの分からない少女に思考がついていけず、暫しその場で立ち尽くした。
翌日、あの場所に行くとまたあの変なのと遭遇してしまうのではないかという考えが頭に過ぎった八幡であったが、幸いというべきか本日は雨。わざわざ濡れ鼠になってまで食事をしたくない、ということで八幡は教室でコンビニのパンを食べるべく封を切った。結衣は友人達のグループで集まっているので今日のお誘いは無し。重畳である。
それにしても、と彼は思う。結衣が集まっているグループのメンバーは所謂クラスの中心部。その筆頭ともいえるサッカー部のエース葉山隼人とその友人の男子を見ても、わざわざ自分に構う理由が分からない。モブのクラスメイトなんぞ放っておけばいいのに、と一人心の中で呟きながら、八幡はスマホのニュースサイトを展開した。
画面のニュースを眺めていても、教室の喧騒は否応なしに聞こえてくる。やれゲームの装備がどうだの、今週のマガジンがどうだの、ドラマの俳優がイケメンだの。ちらちらと聞こえる単語をつい検索してああ成程これのことねなどと思いながら、ふと窓の外を眺めた。
雨は止みそうもない。このままでは帰りが大層残念なことになるであろうことは想像に難くなかった。
「いーじゃん、丁度今日アイスが安いから、ダブル食べに行きたい」
そんな声が聞こえた。雨の日にアイスとは中々チャレンジャーだなと思いながら聞き流していた八幡は、そこで聞こえた次の言葉に思わずスマホを取り落とした。
「あ、じゃあちょっと誘いたい人がいるんだけど」
「……誰?」
一瞬にして声が底冷えする。その提案した人物が誰かを分かっていた八幡は、いや待てちょっと待てお前それは駄目だろうと思いながらもそっと向こう側を見た。言った人物、由比ヶ浜結衣と、言われた人物、三浦優美子を見た。
「え、っと……ヒッ……じゃなくて、あたしの友達なんだけど」
「あーし達の集まりに、あーしらが全然知らない奴混ぜるわけ?」
「あ、っと。……駄目、かな?」
駄目に決まってんだろ。そう叫びたくなるのを必死で抑えて、八幡は取り落としたスマホを拾い上げた。ちょっと空気読むだけじゃないように頑張ると宣言したからといって、いきなり全速力で空気ガン無視していいわけではない。今すぐ忠告したいが、しかし行けば確実にこじれる。これはどうしようもないと彼は冷静なふりをして推移を見守った。
「あんさー、ユイ。分かるよ? あーしもそういう時期あったから」
「……うん」
「でもね、今のは無い。仲間内でパッと思い付いてじゃあ行こかーって時にいきなり『彼氏呼んでいい?』とか、マジ無い」
「うん……ごめん。って違う! 彼氏じゃないし!」
「でも気になってんでしょ?」
本人の目の前でやることじゃない。名前が出ていないので辛うじてバレていないクラスの中で、ほぼ確信を持った八幡は今すぐ窓を蹴破って外に飛び出したい衝動に駆られていた。しかしそれをやったが最後。ああこの会話は比企谷のことだったのかとなるならまだいい、自惚れ野郎が暴走したと笑われたら目も当てられない。
そもそもこれは本当に自分のことなのだろうか。ふと冷静になってそんなことを思った。中学時代、同じような展開があっただろう。好きな奴とかいるの? うん、いるよ。い、イニシャルとか……。え、えっとね。
「あ、やべ、泣きそう……」
ギリギリのところで自分ではないと判明し踏み止まったからいいものの、あのまま「ひょっとして俺?」とか聞いていたら今頃自分はいなかったであろう。存在的な意味で。
ともあれ、この状況はそれに似ている。いくら由比ヶ浜結衣が比企谷八幡に親しい様子で話し掛けてきても、それがイコール好意であるとは限らないのだ。え、ちょっとヒッキーやめてよそういうの。とか言われたらうっかり自殺しかねない。
「き、気になってるとか、そういうのじゃないし……」
ともあれ、八幡の後ろ向きな思考を余所に女子の会話は続いていた。結衣は視線をキョロキョロとさせながらそんなことを呟き、優美子はそれを聞いてやれやれと肩を竦める。
その瞬間、八幡は背筋が凍る感じがした。誰かが自分を睨み付けている。そうはっきりと感じ取れるのに、誰も自分を見ていない。恐らく犯人であろう人物は結衣を見ながら苦笑している。もはや化け物だな、と彼は心中で溜息を吐いた。流石に向こうにバレることはなかったようで、会話はそのまま続いているようである。
「んー。じゃあさじゃあさ、ユイはその人のこと、どう思ってるの?」
そこで様子見をしていた仲間内の三人目、海老名姫菜が笑みを浮かべながらそう問うた。優美子とは違い純粋に興味があるといった口ぶりで、件の人物に敵意が向けられていないこともあり結衣も普通に答えるべく思わず考えてしまう。
「どう、なんだろう……。あたしはその人のこと『友達』だって思ってるけど。向こうはそう思ってくれてないかも……」
あはは、と彼女は笑う。それを聞いてふむふむと頷いた姫菜は、ああこれは男同士ならばよかったのに天を仰いでいた。突然のその発言に推移を見守っていた葉山達は思わず一歩下がった。
そして一方。その発言を聞いたもう一人といえば。
「ユイ」
「な、何? っていうか優美子顔怖いよ」
「……あんた、それマジ?」
「え? 何が?」
「向こうはユイを友達と思ってないかもしれないってやつ」
「へ? あ、うん。はっきり聞いてないから多分だけど」
「ふーん」
教室の温度が五度ほど下がった気がした。ただでさえ春の雨の日で気温は下がり気味なのに、ここで更に下げられてしまうと真冬に逆戻りだ。そんな気がしてしまうほど、あからさまに優美子の機嫌が悪くなっていた。
葉山達は大分距離を取っていた。その中の一人、戸部は逃げ出した。
「ユイ、あんたそれでいいわけ?」
「出来れば、もうちょっとはっきりして欲しいかなーってのはあるけど」
「ふーん。……はっきり、ね」
頬を掻く結衣を見ながら、優美子はそんなことを呟き小さく舌を出し唇を舐めた。本来ならば今すぐあの窓際の席に座っているあれを蹴り飛ばして窓から叩き落とすのだが、親友である彼女がこの状態である以上自重せねばなるまい。絶対に釣り合わないが、恋は盲目というし言っても聞かないであろうことは想像に難くない。
ならば今やるべきことは一つであろう。そう結論付け、優美子はちらりと姫菜を見た。大体意図を汲んだのか、笑みを浮かべながらサムズアップをしていた。
「分かった。……ユイ、今日の放課後、空けときなよ」
「う、うん。って、あれ? アイス食べるんじゃ?」
「当然アイスは食べるし。その後ちょっと、ね」
ふっふっふ、と彼女は笑う。八幡が横目でちらりと見たその笑みがとてつもなく獰猛なものに感じたのは恐らく気の所為ではあるまい。
そしてそれが確信となったのは優美子が続けた言葉からである。
「んで、ユイ。さっき言ってた『友達』、ちゃんと連れてきなー」
「……え? いいの?」
「いーよいーよ。せっかくだし、きちんと挨拶しておくのもいいんじゃない? でしょ、海老名」
「そうだね。私もちょっと気になるなぁ」
そして一方。ニコニコと笑いながらそう述べる姫菜を見て、結衣は分かったありがとうと頷いた。そこに隠された意図が何なのか、とかそういうものを一切合切感じ取ることなく許可が出たことに喜んだ。
「あ、じゃあ連絡しとくね」
「そーしなそーしな」
「放課後楽しみだねぇ」
結衣がスマホを操作するために視線を外したそのタイミングで、優美子は再び笑みを浮かべた。明らかに獲物を殺す笑みであった。
彼女は気付いていない。結衣は今はまだ友達未満であるということを話したのに、向こうは既に友達以上に向かっているのだと誤解されたことを。転じて、『向こうは友達だと思っていない』が、『向こうは結衣をいやらしい目で見ている』に変換されていたことを。
そして会話を聞いていた彼はそれに気付いてしまったのだということを。
「……やべえ、逃げたい」
『ヒッキー、放課後遊びに行くよ!』というメッセージの表示されたスマホを眺めながら、八幡はいつも以上に死んだ魚の眼で天を仰いだ。
次回、八幡死す!