現状から逃げるのは簡単だ。今手にしているスマホを使い、メッセージの返信に『今日は用事がある』とかなんとか入力すれば事足りる。が、それをして果たして問題は解決するのか。
勿論答えは否。一時しのぎどころか、悪化の一途を辿るのは本人である八幡でなくとも容易に想像出来る。理由は単純、この一回で終わらないからだ。そして回数が増えるごとにドツボにはまっていく。
そうしていくうちに気付けば悪い意味で有名人の出来上がりだ。学生生活なんぞ空気のように過ごしたいと思っている彼にとってはゲームオーバーに等しい。勿論なったらなったら開き直りそのままぼっちの生活を送るだけなのだが。
「はぁ……」
どのみち回避出来ないのならば早い方がいい。八幡は死んだ目のまま了解のスタンプを押してアプリを閉じた。ちらりと横目で見ると、やた、と喜んでいる結衣の顔が見える。
「……」
決して口には出さないし、思考の片隅にも入れていなかったもう一つの理由がそこにあった。断ったら、多分あいつが悲しむ。そんな彼らしくない理由を自覚することなく、あるいはあえてスルーしつつ。
まあもうどうにでもなればいい。そんなことを結論付け、八幡は放課後の地獄までの時間をただただ目どころか表情すら死んだ状態で過ごし続けた。
『比企谷が女子に囲まれてる! ウケる!』
『死ねよ』
会話アプリに表示されたトークにそう返信した八幡は、一体どこで見てやがると視線を彷徨わせた。が、ある程度見慣れているはずのその姿は見当たらず、対面に座っている優美子に何キョロキョロしてるのかと睨まれる始末。
「いや、何か知り合――腐れ縁がこの辺にいたらしいから」
「ふーん。あんた友達とかいたんだ」
「友達じゃねぇよ。腐れ縁だ」
「何が違うし」
「少なくとも俺はあいつのことをクソ野郎だと思ってるからな」
「……ふーん」
それで興味を失ったのか、優美子は自身のカフェラテに手を伸ばした。それにほんの少しだけ口を付けると、彼女はちらりと結衣を見る。
何故か先程の八幡と同じようにキョロキョロと周囲を見渡している姿が視界に映った。
「ユイ、何してんの?」
「え? あ、ヒッキーがよく話に出す腐れ縁の人見てみたかったから」
「ん? さっきの話知ってんの?」
「うん。優美子に話してなかったっけ? ヒッキーのお見舞い行ってた時のやつ」
「……ああ」
一年の頃の彼女の会話を思い出し、優美子は顔をげんなりとしたものに変えた。総武高校に入学して一ヶ月。その極短い期間で突如男のことを惚気るようになった親友の姿がフラッシュバックしたのだ。
比企谷くんっていうんだけど。比企谷くんがね。ヒッキーがさ、あ、比企谷だからヒッキーって呼ぼうと思って。ヒッキーったら、あたしのことガハマとか呼んじゃって。ヒッキーが言ってくれたの。ヒッキーにも言われたから、あたし少し頑張ってみる。ヒッキーと約束したの。大丈夫、絶対ヒッキーと再会するから。
ギリィ、と歯を食いしばった。駄目だ、やっぱりこいつ殺さなきゃ。そんな考えが頭をもたげ、いかんいかん殺すのはもう少し後だと思い留まる。
「ヒキオ」
「……は? え? 俺?」
「他に誰がいるし。何キョドってんの?」
「唐突に謎のあだ名で呼ばれたら誰だってキョドるだろ……」
何かを思い出したのか、八幡はそう言って溜息を吐いた。ついでにちらりと結衣を見て、お前のことだよと言わんばかりに表情を見せる。その何か通じ合ってますみたいな行動を眺めた優美子はその表情を益々険しくさせた。
「あはは。でもしょうがないんだよ。私達ユイからヒッキーって名前しか聞いてないから」
爆発寸前の優美子に代わり、姫菜がそんなフォローを入れる。そもそも名字読みにくいから、と言葉を続け、だからヒキタニだと思っていたと笑った。険悪でなければ笑い話で済むような話であり、実際八幡もこの空気ならばそこまで何か思うこともない。よく言われるよ、と苦い顔を浮かべ別段訂正することもなく肩を落とした。
「しかし、意外だね」
「何がだ?」
「ヒキタニくん、もうちょっと女子と喋り慣れてないのかと思ってた」
クラスでもそこまで積極的に人と関わるようには見えなかったから。そう述べた姫菜は、同意を求めるように優美子を見る。少し冷静さを取り戻したのか、彼女もそうそうと同意するように頷いた。
「いや、まあ。喋り慣れてるか慣れてないかで言えば慣れてない」
「そうなの?」
「ただ、まあ。腐れ縁のクソ野郎が一応性別的には女だから、テンパるほどでもないっつーか」
ぴくりと優美子の眉が上がる。結衣に視線を向けると、別段驚いた様子は見られない。つまりこれは知っている情報というわけか。そう判断すると、あからさまに消沈した様子の姫菜に視線を戻した。
「海老名」
「何? 私はさっきまで燃え上がっていたヒキタニくんとその腐れ縁さんとのカップリングが急激に鎮火してもう死にそうなんですけど」
「……ちょっとお前黙ってろ」
獲物を殺す目が八幡から姫菜に変更される。それを受けた姫菜は姫菜ではいはいごめんなさーいと軽く受け流していた。
何だあれ彼女実はペルセウスの生まれ変わりか何かじゃないのか。そんなことを考えた八幡は、そういえばギリシャ神話なら男と男が交わっても問題ないのかもしれないと自身の思考を脱線させた。
「ところでガハマ」
「ん?」
「話ガン無視でアイス食ってんじゃねぇよ。何で俺といる時だけゴーイングマイウェイなのお前?」
「え? だってヒッキーだし」
「お前の中で俺の重要度どんだけ低いの?」
「え? めっちゃ高いよ?」
「高いなら高いなりにもうちょっとだな」
「あ、ヒッキーのアイスちょっともらっていい?」
「聞けよ」
溜息を吐きながら八幡は目の前に置いてあったアイスのカップを手で横にずらす。ありがとー、とそれを自身のスプーンですくった結衣は、躊躇うことなく口に入れた。こっちでもよかったかな、とそのままサクサクと他人のアイスを突き崩した彼女は、そこでふと我に返った。
「……ごめん、ヒッキー」
「何についてごめんかは知らんが、別にそこまで食いたかったわけじゃない。気にすんな」
「うん、ありがと」
じゃあ返すね、と歪になったアイスが八幡の眼前に戻る。いやもうここまでくれば全部食えよ、と思わないでもなかったが、それを言うのも憚られたので彼は溜息を吐きながらそのアイスにスプーンを突き刺した。
「……」
「もう、別にいいんじゃない?」
「あ?」
「はいはい。で、どうするの?」
小声で姫菜は優美子に問い掛ける。勿論ぶち殺すとその目が述べていたが、しかし先程のやり取りを見る限りどうやら体目当てで近付いた有象無象というわけでもなさそうで。
「ってか、ユイと釣り合ってないし」
「そう? 目はちょっと腐ってるけど、顔の作り自体はそこまで悪くなくない?」
姫菜の言葉に優美子は改めて八幡を睨み付ける。モブ顔、というほどでもない。が、主人公かといえばそれもちょっと違うような。そんな中途半端な顔を眺め、いや絶対釣り合っていないともう一度呟いた。
「じゃあ、顔はまあ合格ラインギリギリということにしておいて。性格は?」
「ゴミ」
「バッサリ言ったね」
「あーし達とのノリについていけないっしょ、あれ」
「ついてはいけないかもしれないけど。それでも無理せずそこに立ってるくらいはしてくれそうじゃない?」
「何か海老名やけにあいつの味方してない?」
「優美子が敵視し過ぎてるだけだって」
そう言って苦笑した姫菜は、結衣と会話している八幡を見た。二人共自然体で会話をしているように見え、どういう関係か口にするならば相応しい単語があるように思えるほどで。
どうかな、と彼女は問う。優美子はそれを見て鼻を鳴らすと、残っていたアイスを一口でたいらげた。
「は? まだどっか行くのか?」
「当たり前だし」
八幡の言葉に優美子はそう返すと、まあ帰りたいなら帰ればと続けた。その目はどう答えてもお前は殺すがな、と言っているように彼には見えて、思わず数歩後ずさる。
視線を動かした。結衣はどうしようか、と何も考えてないように彼を見詰めている。恐らくじゃあ帰ると返答したとしても彼女はぶんぶんと手を振りながら明日学校でね、などと言うのだろう。
そんなある意味対照的な二人を見た彼は、最後に姫菜を見た。中立の立場に立っているような存在であると思っていた彼女を見た。
「……どうしたの?」
「あ、いや」
悪寒が走った。結衣も優美子もある意味真っ直ぐに気持ちをぶつけてきていると何となく感じ取れたが、目の前の彼女だけはどうにもそんな気がしなかった。一歩引いている、といえば聞こえがいいが、その実彼女はまるで。
「……分かった。もう少しだけ付き合う」
「ホント! やた!」
わーい、と呑気にはしゃぐ結衣と、それを見てギリリと歯ぎしりする優美子。そんな二人を見ながら、八幡は視線で姫菜に伝えた。これでいいのか、と問い掛けた。
彼女が目を細めるのを見て、まあとりあえずは及第点らしいと彼は溜息を吐く。こういうのは本来自分の役目ではないはずだ。そんなことを思ったが、それをぼやいたところで今の状況が何か変わるわけでもなし。とりあえずあの三人の向かう場所についていけばそれでいいだろうと頭を掻いた。
そうして辿り着いた先はゲームセンターである。まあ確かにアイスを食べた後の腹ごなしにはうってつけかもしれない、と考えながらはしゃぐ三人を眺めていた八幡は、そこでぐいと手を引っ張られた。
「ヒッキー、あれ取れる?」
「ん?」
結衣が指差すのはクレーンゲーム。中のぬいぐるみは有名なアミューズメントパークの人気キャラクター、パンダのパンさんだ。千葉にあるのに東京と名前についていることである意味有名な某ランドのそれを眺めた八幡は、暫しそれを眺めるとううむと唸った。
「ユイ、無理無理。そんな奴当てにしてもしょうがないし」
「そっかー」
「おい待て。人に振っといてそれはないだろ」
「何? やれんの?」
優美子のどこか挑発的な言葉と視線が突き刺さる。ここで「できらぁ!」と叫ぶのは簡単だが、それで出来なかった場合羞恥心で間違いなく死ぬ。ついでにそれを理由に目の前のゴルゴンに絞め殺される。
それを瞬時に悟った八幡は、すぐに答えることをせず無言で視線を動かした。丁度タイミングよく店員が歩いてくるのが見えたので、これ幸いと彼は店員に場所移動を申し出る。
「うわ、ダサ……」
「何とでも言え。これなら――」
五百円を投入。普通に百円ずつ入れるよりも一回多くチャレンジ出来るようにした八幡は、明らかに見下した目で自分を見る優美子の視線を極力気にしないようレバーを操作し、ぬいぐるみの頭の横辺りにアームが引っかかるようにクレーンを下ろす。
「ヒッキー、それじゃ掴めなくない?」
「いいんだよ掴めなくて。この手のやつは」
ガコン、と音がしアームが閉じる。そのまま上に移動するクレーンが、丁度すくい上げるようにぬいぐるみを取り出し口へと押し出した。
おお、と結衣が声を上げるのを横目に、後二回くらいかと再度アームを操作する。予想よりも一回多く掛かってしまったが、なんとか五百円以内にぬいぐるみを叩き落とすことに成功していた。ゴトン、という音とともにぬいぐるみが取り出し口に現れる。
「凄い凄い。ヒッキーやるじゃん!」
「よくやらされてるからな」
ほれ、とぬいぐるみを結衣に渡すと、彼女はそれを嬉しそうに抱きしめた。見て見て、と優美子に押し付け、鬱陶しいと跳ね除けられると今度は姫菜に見せに行く。そんなことを繰り返した後、結衣はもう一度八幡へと向き直った。
「ヒッキー」
「ん?」
「ありがと。……大事にするね」
「おう、そうしろ」
「うん!」
軽口を叩いたのに全力の笑顔で返された八幡は思わず顔を反らす。そうすると視界に入ってくるのは怒りのゴルゴンである。あ、これ石化して死ぬわ。そんな覚悟を決めた彼は、しかしゴルゴンが三浦優美子に変わるのを見て命拾いしたとへたり込んだ。心の中で、である。
よしじゃあ次は、と再び盛り上がってゲームセンターのプライズコーナーを散策する三人。クレーンゲームの功績により後ろで追従する立場から結衣の隣にランクアップした八幡は、これいつになったら終わるのだろうかと一人こっそりと溜息を吐いた。きっと今日で一週間分のHPとMPを使い果たす。そんな確信をついでに持った。
そうして一通りプライズを見て回った三人とオマケは、そろそろ時間かなとスマホを眺める。この季節ならばまだ暗くはなっていないが、油断していると危ないのは間違いない。
「じゃ、今日はこの辺にしときますか」
姫菜の言葉に、二人もうんうんと頷く。やっと帰れると安堵の溜息を吐いた八幡は、しかし彼女の発した次の言葉に目を見開いた。
「そういえば、聞きたかったことがあったの忘れてた。ね、優美子」
ちらりと姫菜は優美子を見る。ああそうか、と口角を上げた優美子は、結衣を見て、そして八幡を睨み付けた。
「ヒキオ」
「な、何だ?」
「あんた結局、ユイとどういう関係?」
誤魔化すな、しっかりと答えろ。そう彼女の目が告げていた。今日の振る舞いを見る限り、明らかに距離が近い。結衣はこう見えてただの友人程度の男子との距離をここまで縮めはしない。勿論一年の間に散々聞いていたので彼女が八幡を『ただの友人』と見ているかどうかは優美子もよく知っている。本人に自覚がないのも知っている。
問題はこの男の方だ。女慣れしているようには見えず、だからといって結衣を狙っているようにも見えない。だというのに、彼女の距離の詰め方に疑問を持たず流している。この見た目で、この性格で。そんなことはありえない。
「どういう関係、って……」
問われた八幡は困惑気味にそう呟いた。どう答えるのが正解だ。どう言えば向こうは納得する。そんなことをまず考え、いや違うと振って散らした。眼の前の彼女が求めているのはそうではない。というか、そういうその場しのぎを言った時点で八幡の冒険はここで終わってしまう。
だとしても。彼の中でそれに対する本物の答えは持ち合わせていない。何を言っても違う気がして、何を言っても薄っぺらな気がした。
「俺も、分かんねぇよ……」
だから、彼はそう答えた。はっきりと答えろ、という問い掛けに、はっきり答えないことをはっきり答えた。これで殺すならもう殺せよ。そんなことを半ばやけっぱちになって考えた。
「……あっそ」
が、優美子はそれだけを言うと踵を返した。じゃあ帰るか、と軽い調子でゲームセンターから出ていこうとした。結衣も姫菜もそれに続き、呆けていた八幡も少し遅れてそれに続く。
向こうにとって、あれは納得いく答えだったのだろうか。そう考えても、当然のことならば結論など出るはずもなかった。
「ヒッキー」
「ん?」
「あたしは、友達だと思ってるよ」
「……そうか」
が、去り際に言われた彼女の言葉を聞いて、彼は多分間違っていなかったのだろうと思うことにした。
当然ながら、明日も教室で顔を合わせるので憂鬱である。