虹の軌跡   作:テッチー

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ワン・パニック

 

 ――過ごした時間はなくならない。育んだ絆はなくならない―― 

 

 ● ● ●

 

「これで終わりっと。それにしても暑いな」

 腕に抱えていた荷物の束を倉庫に置くと、額の汗を拭ってリィン・シュバルツァーはそう独り言ちた。今は八月、暑い昼下がりの午後である。

 夏休みを目前に控え、今日のカリキュラムは午前中で終了している。もっとも夏休みというのも貴族生徒の帰省という名目なので、そうでない生徒には三、四日の連休があるくらいなのだが。

 ここトールズ士官学院は帝都ヘイムダルの東に位置する近郊都市トリスタにあって、帝国中興の祖ドライケルス大帝が設立した軍事学校である。

 新型戦術オーブメント《ARCUS》の運用の為に、今年から設立された特科Ⅶ組。

 彼はそのクラスの一人だった。

 部活に入っていないリィンは特に予定もなく、とりあえず学生寮に帰ろうとしたのだが、校門に差し掛かったあたりで、とある女子生徒を見つけた。

 生徒会長のトワ・ハーシェル。

 小柄な体躯には似つかわしくない大きな荷物を抱えて、よたよたとグラウンドに向かって歩いていた。

 見過ごすことも出来ず、リィンは手伝いを申し出て――今に至るのだった。

 

「ありがとう、リィン君。助かっちゃったよ」

 リィンに少し遅れて、トワがグラウンドの倉庫に入ってきた。

「通りがかって良かったです。それにしても相変わらず忙しそうですね」

「今日はリィン君に荷物運びを手伝ってもらったから早く終わりそうだけどね。暑い中がんばってくれたし、なにかお礼をしたいんだけど……」

「お礼だなんて、気にしないでください」

 むー、と考え込むトワ。リィンの声は届いていないようだった。

「そうだ!」

 思いついた様子で、嬉しそうに跳ね上がる。

「冷たいもの食べたくない? 学生会館の売店で期間限定のパフェが売ってるんだけど、明日から夏休みだから今日までの販売なんだって。でねでね、私もそのパフェまだ食べてないんだよ。よかったら食べに行かないかな? ご馳走しちゃうよ!」

 瞳を輝かせながら、まくし立てるように熱弁する。どちらかというと彼女自身が食べたくてしょうがない雰囲気ではあった。リィンは先輩の意を汲んで、

「えーと……でしたら、お言葉に甘えて」

「うんうん、甘えてどうぞ!」

「でも、いいんですか? ちょっと荷物運びを手伝っただけなのにお礼なんて。なんだか申し訳ないというか」

「まったくもー」

 トワは頬をふくらませた。

「リィン君は自分のやったことにもっと胸を張らないと。私もいつも助けてもらって感謝してるんだから」

「す、すみません」

「そこがリィン君のいいところなんだけどね。なんだったら今度はリィン君から私に何かお願いしてみてよ。これでもリィン君よりお姉さんなんだから」

 お姉さんという一語が妙に強調されていた。

「トワ会長にお願いですか? すぐには思いつきませんが……わかりました。何か考えておきます」

 そんなやり取りを交わしつつ、倉庫から外に出た時だった。

「あ」

 先にそれを見つけたのはトワで、彼女の視線を追ってリィンもすぐに気づいた。グラウンドの片隅に動く小さな影。異口同音に二人は言う。

『犬がいる』

 

 

 《☆☆☆――虹の軌跡 ~ワンパニック☆☆☆――》

 

 

「どこから入ったワンちゃんなんだろうね?」

「町中から迷いこんだんでしょうか」

 トワとリィンの視線の先には、ウロウロする犬の姿があった。

 まだ子犬のようだ。茶色い毛並みで、尻尾は短い。首輪をつけていないようなので、やはり迷い犬かもしれなかった。

「やっぱり放っておけないよね。リィン君、協力してくれる?」

 貴族生徒も多いトールズ士官学院で、平民の彼女が生徒会長を務められる理由がこれだ。

 リィンは即答した。

「もちろんです」

「そう言ってくれると思ったよ。なんでもお願いしてって言ったばかりなのに、逆にお願いしちゃってごめんね。お詫びにパフェのトッピングいっぱいにしてあげるからね」

「あ、ありがとうございます。それで俺はどうしたらいいでしょうか?」

「とりあえずリィン君はあのワンちゃんを保護して欲しいんだ。その間に私はトリスタから捜索届が出てないかの確認と、念のため外来のお客さんが連れてきた可能性はないか調べてくるね。先にワンちゃんが保護できたら生徒会室で待っててくれたらいいから」

 こういう時のトワの指示は端的でわかりやすく、そつがない。

 先月に帝国解放戦線が帝都でテロを起こした際にも、彼女の迅速な対応には目を見張るものがあった。その時のことがきっかけで、今月末にクロスベルで行われる通商会議に出席することになっている。

「それじゃお願いね!」

 トワは本校舎に走っていった。

 残ったリィンは犬を見据え、じりじりと間合いを詰めていく。犬はまだこちらには気づいていない。

「そういえば……犬ってどうやって捕まえるんだ?」

 先にトワ会長に聞いておけばよかった。

 よくわからないが、まずは腰を落とし、すり足の要領でさらに接近してみる。ユミルの実家では犬を飼っているが、素手での捕獲を試みたことはない。

 とにもかくにも相手の機先を制さなければ。 

 八葉一刀流、無手の型を取る。瞑目し、高まる闘気。呼吸を整え、準備が整った。

 ――よし、いける。

 みなぎる気迫。見開く双眸。

 そしてばっちり子犬と目が合う。いつの間にかこっちを向かれていた。

「あっ」

 一鳴きするが早いか子犬は逃げ出した。

 グラウンドからあっという間に姿が見えなくなってしまう。子犬とはいえ、足の速さは中々のものだった。

「不意を突かれて体が止まるなんて、俺もまだまだ未熟だな」

「なにがまだまだ未熟なのよ」

 見当違いの反省をするリィンの後ろでは、同じⅦ組のアリサ・ラインフォルトがあきれ顔で佇んでいた。

 

 

「――と、いうわけなんだ」

「なるほどね」

 事情を説明すると、アリサは一応納得した様子だった。彼女はラクロス部の用事でグラウンドまで来ていたらしい。

「まあ、経緯はわかったけど」

「けど、なんだ?」

「犬を捕まえるのに、武道の型ってあなた本気なの?」

 もっともな指摘に、リィンはたじろいだ。

「う、仕方ないだろ」

「傍から見てたけど、あなた相当怪しかったわよ。あれで逃げない犬がいたら、むしろ見てみたいわ」

「……もう許してくれ」

「まったくもう。それよりそろそろ追いかけなくていいの?」

「それもそうだな。じゃあ、アリサ」

「ちょっと待って」

 その場を離れようとするリィンを引き留める。

「一人じゃまた失敗するかもしれないでしょ。だから、私も手伝ってあげる」

「いいのか?」

「あ、あなた一人だと心配だし、子犬も気になるし!」

 何か気に障ったのか、アリサはそっぽを向いた。

 ともあれ、二人は子犬が逃げていった方向――ギムナジウムへと向かう。

 

 

 ギムナジウム。

 学院正門から本校舎を挟んだ先にある施設で、練武場やプールなどの設備がある。

 一般カリキュラムでは水練や屋内での実技訓練に使われることが多いが、放課後はもっぱらフェンシング部と水泳部が部活場所として活用している。

「とりあえず中に入って調べてみるか」

「子犬だからどこでも隠れられそう。あと女子更衣室は開けたらダメだからね」

「はは、当たり前だろ」

「他人事みたいに笑ってるけど、あなたの場合はうっかりがあり得るのよ。最近はわざとなんじゃないかって思えてきたわ」

「それは勘違いだ。不可抗力なんだぞ」

「だから許されるってものでもないから」

 まずはエントランスの右手側。練武場を調べようとしたが、扉には鍵がかかっていた。

「今日は稽古をやってないらしいな」

「フェンシング部は貴族生徒も多いから、帰省の関係で人数が集まらないんじゃないかしら? でも水泳部はいるみたいね」

 水しぶきの音に混じってホイッスルが鳴っている。

 さっそく奥へと進み、水練場に足を踏み入れると、

「そうだ。もっと全身の力を使うのだ。肩の力を抜いて……うん、いい感じのようだな」

 よく通る声が耳に届く。

 腰まで流れる綺麗な青髪をポニーテールでまとめた少女がプールサイドに立っている。彼女もすぐリィン達に気づいた。

「リィンにアリサではないか。二人共どうした?」

「練習中に悪いな、ラウラ」

 ラウラ・S・アルゼイド。レグラムを治めるアルゼイド子爵の息女で、アリサと同じくⅦ組のメンバーだ。

 彼女も貴族生徒なので帰省する権利はあるのだが、月末の特別実習のこともあってか実家に戻るつもりはないらしい。

「ちょうど一区切りついたところだ。モニカ、少し休憩にしよう」

 ラウラはプールで泳ぐ部員の女子に声をかけた。水泳部の一年で、ラウラの友人だ。泳ぎに不慣れで、よくラウラが指導している。

「それで何か用事があって来たのだろう?」

「ああ、実は子犬を探していて――」

 

 事情を聞いたラウラは首を横に振った。

「子犬か。それは心配だが、少なくともここには来ていないな」

「そう……ギムナジウムには入らず通り過ぎたのかしら。だとすると旧校舎の方に行ってなければいいんだけど」

 アリサが不安げにうつむく。

「旧校舎は施錠されているし、迷い込むことはなかろう。私も子犬のことは気にかけておく」

「俺たちもそろそろ捜索に戻るか。時間を取って済まなかった。行こう、アリサ。早く見つけ出してやらないとな」

「ええ、そうね。それじゃ失礼するわ」

 顔を上げたアリサは、ふとプールを見やった。

「それにしてもモニカさん、ずいぶん泳げるようになったみたいね」

 先ほど休憩しようとラウラが伝えていたが、モニカはずっと泳ぎ続けていた。

 ラウラは優しげに笑った。

「モニカ。調子がいいのはわかるが、根を詰めるのは感心しないな。休むことも必要だぞ」

 ラウラの声が聞こえていないのか、疲れを感じさせない水しぶきを上げながら、モニカは泳ぎ続けている。もう少しでプールサイドの端まで泳ぎ切るところだった。

「まったく、成長したものだ。しかし今日はいつものクロールではないのだな。犬かきなど余計に疲れるだろうに」

 水しぶきの中に見え隠れする茶色い毛並み。モニカの髪も赤茶色ではあるが――

 三人の間に一瞬の沈黙が流れた後、リィンが我に返って叫んだ。

「って、あれモニカじゃないぞ! 犬だ!」

「わかっている。モニカは犬ではなく私の友人だ」

「わかってないぞ!」

 そうこうしている内に、子犬は泳ぎ切り、プールサイドへよじ登ろうとしている。

「私に任せて!」

 出遅れたリィンとラウラに代わり、アリサが一番に走り出した。子犬の正面に先回りし、上がってきたところを抱きかかえようとする。

 早かったのは子犬の方だった。アリサが回り込む前に、プールサイドに上がっている。わずかに遅れて、アリサが子犬の元にたどり着いた。体が濡れているからか、子犬の動きは鈍い。

「よーし、観念なさい」

 子犬めがけて両手を伸ばす。

 そのタイミングを計っていたかのように、子犬は全身を激しく震わせ、体に滴る水を弾き飛ばした。

「きゃあああっ!?」

 飛び散った大量の水滴はアリサに襲い掛かり、たまらず彼女は尻もちをつく。

 子犬はアリサの脇を通り抜け、追ってきたリィンをかわし、入口へと走っていった。

「ラウラ、捕まえてくれ!」

「承知した!」

 子犬は止まる気配もない。このまま外まで駆け抜ける気だろう。ラウラは不敵に笑った。

「その意気やよし。だがこの私を簡単に突破できると思わないでもらおうか。アルゼイドの名にかけて、ここは死守させてもら――」

「わんっ!」

「きゃっ」

 怯んだラウラの隙を突き、あっという間に子犬は出て行ってしまった。

「ラ、ラウラ。大丈夫か」

 呆然としたままのラウラに、リィンは声をかける。

 はっとしてラウラは入口に振り返るが、子犬の姿はすでになかった。

「あの子犬らしからぬ気迫……見事なものだった。しかしすまない。逃げられてしまったようだ」

「気にしないでくれ。アリサも無事みたいだし」

「無事じゃないけど! 制服が濡れちゃったわよ!」

 憤るアリサはスカートのすそをしぼっている。怒りは中々収まらない様子だ。

「夏だしすぐに乾くんじゃないか?」

「そういう問題じゃないの! あ、の、ワンちゃん……必ず捕まえるんだからね」

「ついさっきまで、かわいそうとか言ってたのに……」

 アリサに聞こえないよう、ぼそりとつぶやく。

「そういうことなら、そなたらは先に行くがいい。私も着替えたらすぐに捜索に加わろう」

 手近なタオルで髪を拭きながら、ラウラはそう言った。

「それは助かるが、練習はいいのか?」

「モニカには悪いがこちらの方が優先だろう。それに子犬を捕まえるときに言ってしまったからな。アルゼイドの名にかけて、と」

「……律儀だな」

「当然のことだ。このままでは父上の名も汚すことになってしまう。必ずや、あの子犬を捕まえてみせよう」

 ラウラの協力も得る形となり、リィンとアリサは改めて水練場を後にしようとしたところで、

「少し待て、リィン」

 ラウラに呼び止められる。どことなし声が低い。コホンと咳払いをしてから彼女は続けた。

「そなたは何も聞かなかった」

「は?」

 怪訝顔のリィンに、ラウラはさらに詰め寄る。

「ち、ちょっと、近いわよ!」と焦るアリサを手で制し、彼女は「よいか」と押し含める口調で言う。

「先ほど私が子犬に吠えられた時のことだが……そなたは何も聞かなかったな?」

「あ、さっきの悲鳴――」

「なにも聞かなかったな?」

 尋常ではない威圧感が、肌の表面をしびれさせる。

「あ、ああ、俺は何も聞いていない」

「ならばよし」

 ラウラは一息つく。

 しかしプールサイドの陰から一部始終を見ていたモニカは、初めて見たラウラの意外な一面に「きゃっ」と声を上げて喜んでいた。

 

 

「次は位置的にここか。奥まっているから、ここにいてくれると捕まえやすいんだが」

 続く捜索場所は中庭だ。ギムナジウムと中庭は目鼻の距離にある。

「順序的にはそうね。ところで、さっきラウラは何のこと言ってたの?」

「……俺は何も聞いていない」

「ふうん、そうなんだ」

 納得しない視線がリィンに刺さるが、彼は冷や汗をかくだけで、それ以上は何も言わなかった。

 この中庭は本校舎の東側と西側に挟まれるように作られていて、木陰になることから学院生の憩いの場の一つとして愛用される場所だ。

 だが今この時に限って、その機能は完全に失われていた。

 東側のベンチには、怜悧な瞳に反して落ち着いた雰囲気を漂わせ、アリサとはまた質の違うブロンド髪の持ち主の少年が。

 西側のベンチには眼鏡をかけ、いかにも理知的に見えるが、どうにも激情にかられやすそうな雰囲気の少年が。

 それぞれ向かい合う形でどっかりと腰かけ、しかも険呑な雰囲気を隠そうともせず、互いに無言で牽制しながら読書に興じている。

 ユーシス・アルバレアとマキアス・レーグニッツ。

 双方ともにⅦ組所属。貴族の上位に位置する四大名門のユーシスと、帝都知事を務める父を持つ貴族嫌いのマキアス。

 不仲になることを定められたような二人で、Ⅶ組最初のトラブルとして周囲も気を揉んだものだったが、特別実習を重ねる中で和解し、今に至っている。

 とはいえ反りが合わないのは相変わらずで、些細な小競り合いは日常の光景となっているのだが。

「何やってるんだ、二人とも」

 見かねたリィンが先に口を開く。ユーシスとマキアスは本から目を離し、

「お前か」

「君か」

 同時に応じる。そのタイミングも二人には面白くなかったらしく、そろって『ちっ』と舌打ちで牽制し合う。これほど乾いた空気の流れる憩いの場があっていいものか。

「舌打ちが重複して聞こえたの初めてだわ……」

 アリサは呆れを通り越して感心さえしているようだ。

 ユーシスが不機嫌そうに言った。

「大したことはない。読書でもして午後の時間を過ごそうとしていたら、そこの無粋な男がやって来ただけのことだ」

 すかさずマキアスが反論する。

「そもそもこの場所で読書をするのは今日の朝から決めていたんだ。君にどうこう言われる筋合いはないぞ」

「俺は昨日の夜から決めていた」

「ならば僕は昨日の朝だ!」

「そういえば一昨日の夜だった気がするな」

「くそう!」

 まさに売り言葉に買い言葉。このままでは埒があかないと判断したリィンは、二人の言い合いを割って本題に入った。

「悪いが先に話を聞いてくれ。ここらで犬を見ていないか?」

『犬?』

 またも同じタイミングで言葉を発した二人は、ステレオ舌打ちを披露した。

 

 リィンからの説明を聞いて、

「なるほどな。僕は一時間前からここにいるが、犬は見ていない」

「つまり俺は一時間も不快な思いをし続けていたというわけだ」

「こちらのセリフだ!」

 この短時間で何度目になるかわからない口喧嘩をリィンとアリサがなだめつつ、その都度脱線しがちな話を元に戻す。

「要するに中庭には来てないってことね」

「それだけわかれば十分だ。けどまいったな。次はどこに行くか……」

 学生会館か図書館か、こうなると旧校舎の捜索も視野に入れなければならなくなってくる。

「犬なら見たよ」

 不意に起伏のない口調が差し挟まれた。向かいの花壇から銀髪の少女が、てくてくと歩いてくる。

「フィー、いたのか」

「ぶい」

 無表情のピースサインが顔の前で揺れる。

 フィー・クラウゼル。リィン達よりは二歳年下だが、わけあってⅦ組に在籍している。普段はどこかで寝ているか、園芸部として花の世話をしているかだが、今日は後者だったらしい。

「それより犬を見たって本当か?」

「ん、さっき花壇の前の道を走っていくのを見たよ。茶色い子犬だったと思う」

 フィーは子犬が走り去ったらしい方向を指さす。旧校舎側だ。

「まずいな。急いで追わないと」

「子犬を捕まえてどうするの? 非常食とか」

「するか!」

「冗談。あんまりおいしくないしね」

「冗談に聞こえないんだよ、フィーのは。……え、食べたことあるのか?」

「イノシシに近い風味。獣臭さがあるから好みがわかれるかも」

 深く追求するのが怖い話題だった。

 しかし子犬が本当に旧校舎側に行ったのなら、さすがに余裕が無くなってくる。アリサも不安げな表情を浮かべていた。

 成り行きを聞いていたユーシスは「旧校舎に行くなら俺も同行しよう」とベンチから立ち上がり、一方のマキアスも「人手は多い方がいいだろう」と本をたたむ。

「二人とも助かるよ。フィーは……」

 戦力的にも同行して欲しいところだが、炎天下の中で花壇の世話をしていたということは、草花の日光対策だろう。旧校舎探索となると時間がかかる。花壇のことを考えると、この状況で彼女は誘えない。

「私も行くよ」

 フィーはあっさりとそう言う。

「それは助かるが、花壇の世話をしていたんじゃないのか?」

「大丈夫。昨日エーデル部長と花壇に屋根をつけたから」

 見れば確かに、花壇には手作りであろう木製の日除け屋根が設置されていた。

「じゃあフィーはずっとそこで何してたんだ?」

「ユーシスとマキアスの観察。面白かったから」

『おい!』

 本日三度目のステレオ舌打ちが鳴った。

 

 

 リィン、アリサ、ユーシス、マキアス、フィー、そして合流したラウラを加えた六人は、旧校舎へと続く細道の前に立っていた。

 この道を抜ければ旧校舎はすぐそこなのだが、今皆の目の前には小さなバリケードがあって、旧校舎へ立ち入れないようになっている。

「なんだ、これは? 朝方に通りかかった時はこんなもの無かったぞ」

 マキアスが戸惑い、「封鎖されるような事前連絡は、掲示板にも張り出されていなかったと思うが」とラウラも首を傾げた。

「あ、いたいた、リィン君~」

 トワが小走りでやってくる。彼女の両どなりには、バイクスーツ姿のボーイッシュな女性――アンゼリカ・ログナーと、つなぎを来た恰幅のいい温厚そうな男性――ジョルジュ・ノームがいた。二人とも二年生でトワの友人だ。

「リィン君、ワンちゃんはどう?」

「すみません、まだ保護できていません。もしかしたら旧校舎まで逃げ込んだかもしれないので確認しに来たんですが、このバリケードはもしかして先輩たちが?」

 アンゼリカがずいと前に出た。

「そうさ。トワの頼みだったからね。このアンゼリカ、ひと肌脱がしてもらったよ。むしろトワを脱がしたいぐらいさ。脱がしたいというか脱がすんだ。そう決めたんだ」

「アンちゃん、やめてよ? 言葉の構成がおかしいよ? よだれ、拭いてよ……?」

「まあ、設置したのはほとんど僕だけどね」

 アンゼリカにハンカチを渡しつつ、ジョルジュが肩をすくめる。

「トワの指示でね。万が一に備えて旧校舎側への進入を防ぐことと、あと一時的に今は正門も閉めている。そういうわけで、子犬は必ず学院内のどこかにいる。これで捜索場所も絞られてくるはずさ」

「さすがの手腕ですね」

「ああ、見事だ」

 アリサとユーシスが感嘆の声を漏らすと、当のトワは気恥ずかしそうに「みんな、やめてよ」と顔を両手で覆った。

「これは……お持ち帰りしたくなる可愛さだな。ふんふんふん!」

「鼻息荒いから。後輩達の前では控えた方がいいと思うよ」

 妖しく蠢くアンゼリカの手がトワに伸びるのを、ジョルジュは慣れた様子でたしなめる。

 捜索は各段にやりやすくなっていた。旧校舎に入ることと、トリスタ市街まで出てしまうこと。この二つの可能性を除外できることはかなり大きい。

「ここからは班を分けよう。A班は学生会館、B班は図書館を。先輩方は子犬が元の場所に戻ってくることも考えて、グラウンド側、中庭側、講堂前を巡回して欲しいのですが」

 リィンの提案に、トワたちもすぐに了承した。

「それで二施設の捜索後、子犬が見つからなければ、A班、B班合同で本校舎の捜索。こんなところでどうだ」

 Ⅶ組の面々も異論はなく、そのプランで捜索することになった。

「それで班分けはどうするの? リィンが決めていいわよ」

 アリサが言うと、リィンは少し考え込んでから

「A班は俺、アリサ、ユーシス。B班はラウラ、マキアス、フィーで行こう」

 各個人の特性、性格、技能を考えるとバランスの取れた人選だ。先月までならラウラ、フィーのコンビは考えられないが、今なら全く問題ない。

 ユーシスが言った。

「どこかの教官の悪意に満ちた班分けとは大違いだ。やるな、リィン」

「ああ、それで一番苦労したの……たぶん俺だからな」

 心労絶えないⅦ組のリーダーの言葉に、心当たりが多分にあるクラスメイト達はそろって目を逸らした。

 

 

 分かれた二班はさっそく担当する施設に向かう。

 ラウラ、マキアス、フィーの三人は図書館だ。

「ふうむ。内部の構造を考えると、図書館内に子犬がいる可能性は低そうだな」

 マキアスは辺りを見回している。図書館は二階まであるが、見通しはよく、子犬の隠れられそうな場所はあまり多くない。受付の事務員に聞いてみても子犬は見ていないとのことだった。

「しかしあの素早い子犬のことだ。扉の出入りにまぎれ、受付の目をかい潜ったかもしれん」

 ラウラが注意深く本棚の陰を確認していると、「あっ」と二階からフィーの声が聞こえた。

 急いでラウラとマキアスが二階に駆け上がる。

 そこに子犬の姿はなく、代わりにフィーの手には『ココパンダー物語・中巻』というタイトルの一冊の本があった。

「フィー?」

「ん。前から続きが気になってたけど、ずっと貸出中だったんだ。やっと戻ってきた。ココパンダーのタメロウが野生になっちゃうところで上巻は終わってたから」

「ココパンダーは元々野生であろう。どういう設定なのだ。それに今はそういう目的では――はっ!?」

 ラウラの視線が本棚のある一点で止まった。

「『槍の聖女と三人の騎士』だと? 幻と言われた至極の一冊ではないか!」

 一瞬で目的を見失ったラウラは、震える手でその書籍を棚から抜き出すと、自身の頭上に高々と掲げてみせる。図書館の照明が後光となり、本は神々しい輝きをまとっていた。

「なんと荘厳であることか。このラウラ、今日ほど女神に感謝したことはない」

「いやいや、二人共。今は子犬を探すことが先決……ん?」

 言いながらマキアスの目も本棚に移っていく。視点が定まった先にあったのは『モテる男のメガネ選び』というタイトルだった。

「いや、僕はそういった類のものに興味はない。だが自分の見識を拡げる為に、あえて普段読まない本を読むことも大切だ」

 誰に言っているのか、マキアスはぶつぶつと呟きながら、本に手を伸ばす。

 B班の機能が停止するまでに時間はかからなかった。

 

 

 場所は学生会館に移り、リィン、アリサ、ユーシスのA班。B班が各々の読書に熱中しだしたのとほぼ同時刻。

「回り込め、リィン!」

「了解だ。アリサは退路を塞いでくれ!」

「わかったわ」

 三人は1Fラウンジのテーブルや椅子、果ては厨房の中にまで入って大立ち回りを繰り広げていた。

「相変わらず素早いわね!」

「アリサ、テーブルを動かして移動経路を制限するんだ」

 B班同様に屋内の捜索に入ったA班だったが、探すまでもなく扉を開けた先に子犬がいたのだ。

 休み前でラウンジには学生がほとんどおらず、気を抜いていたからか売店の人も子犬が入ってきたことに気づいていなかった。

 リィンたちを見るや、やはり子犬は逃げ出した。テーブルの下を潜り、椅子を飛び越え、縦横無尽にラウンジを駆け巡る。三人は後手に回り、一匹の子犬にいいように翻弄されていた。

「そこだ!」

 動きを見切ったユーシスが、子犬の方向転換にタイミングを合わせて、捕まえにかかる。

 子犬は急に足を止め、彼が迫る逆方向に進路を変えた。予期しない動きに足がもつれ、ユーシスは転倒する。

「この俺が膝をつかされただと?」

 ぎりと歯を軋るユーシスはリィンに向かって叫んだ。 

「少し持ちこたえておけ! 俺はグラウンドから馬を用意してくるぞ」

「馬を? なんでだ?」

「要は狩りと一緒だろうが」

「一理あるな……あるか?」

「ないわよ!」

 自信に満ちたユーシスの案は、アリサに一蹴された。

「なんだか騒々しいようですが……どうかしましたか。って、なな、なんですかこれ!?」

 二階から誰かが降りてきた。髪を三つ編みでくくり、丸メガネをかけた女子――Ⅶ組の委員長こと、エマ・ミルスティンだ。

 乱雑にひっくり返ったテーブルと椅子。「それでも馬を取りに行く」となぜか憤慨するユーシス。そんなユーシスを「ちょっとリィンも手伝ってよ!」と必死で抑えるアリサ。そして「さあ、いい子だからこっちに来るんだ」と何かに語りかけているリィン。

 困惑するエマが固まっていると、リィンの足元から小さな影が飛び出した。その影は一直線に彼女へと向かう。

「え、え、え? ひゃっ!?」

 いきなり吼えられ、エマはびくりとのけぞった。その拍子に、手に持っていたレポート用紙を落としてしまう。はらりと舞った一枚をぱくりと咥えると、子犬はタイミング悪く開いた扉から外に飛び出してしまった。

「あー! 返してください! それはドロテ部長の大切な――」

「委員長、無事か!?」

 駆け寄ってきたリィンに、エマはふるふると首を横に振った。

「リィンさん、あの子犬は何なんですか……」

「多分迷い犬だ。とりあえず俺たちは今の子犬を捕まえる為に動いている。それよりも何か取られたようだったが、課題のレポートだったのか?」

「あ、あれは文芸部の先輩から添削して欲しいと頼まれた小説の原稿でして……」

 ラウンジから大きな音がしたので、添削途中だったものを思わず手に持ったまま来てしまったのだ。

 それはともかく、問題は文章の内容だった。

 少年達の熱い青春を赤裸々に綴った、文芸部部長の渾身の力作。加えて山場だったから、そういう描写もがっつりだ。

 エマの顔色がみるみる青ざめていく。

「と、取り返さないと。誰かに見られるわけには」

「顔色が悪いようだが……」

「大丈夫です! それより早く子犬を追いかけましょう、ええ、早く追いかけないと!」

「そ、そうか」

 普段のエマからは想像できないほどの気迫。

 売店の店員にはあとで必ず片付けに戻ると伝え、エマを加えた四人は学生会館を後にした。

 

 

 A班が学生会館を出ると、子犬の姿はまだ見えた。

 道なりに行けば講堂だが、その付近にはトワたちがいるはずだった。途中にある正門は閉まっているし、本校舎の入口も出入りがない時は閉めている。

「よし、このまま追いかけよう」

 ようやく終わりが見えた子犬の逃亡劇に、リィンが胸をなで下ろしたタイミングで、B班も図書館から出てきた。

 子犬を追うA班に、B班も追いついて合流すると、リィンは走りながら端的に状況説明をした。

「承知した」

「了解」

「任せてもらおう」

 銘々に答えるB班の三人。それぞれの手にリィンの視線が向く。

「三人とも、なんで本を抱えながら走っているんだ?」

「リィンも興味があるのか。ふふ、そなたにも聖女サンドロットの偉大さを教えてもよいぞ。おっと、もちろん私が読んだ後にはなるが。……それにしても、彼女に使える筆頭騎士のポンコツさといったら……」

「君も意外にメガネが似合いそうだからな。何だったら僕が見立ててやろうか。将来メガネをかける時のためにな」

「まさか野生になったのはガールフレンドのココパンダーだったなんて……驚き」

「……図書館で何やってたんだよ」

 先を走る子犬の動きに変化があった。正門前まで来ると、講堂側には行かず、右へ進行方向を変えた。つまり本校舎入口側だ。

 勝ち誇ったようにユーシスが言う。

「馬鹿め。本校舎の入口は閉まって……む?」

 しかし本校舎の扉は開いていた。そのそばにハインリッヒ教頭が立っている。

「子犬に気づいて扉を閉めてくれればいいんだけど」

 アリサの期待とは逆に、ハインリッヒは財布から写真のようなものを取り出し、うっとりと眺め始めた。とても子犬に気づける様子ではない。

 案の定、子犬はハインリッヒの足元をたやすくすり抜けて、本校舎の中へと入り込んでしまった。

 リィンたちも校舎内に入ろうとするが、さすがの教頭もこれには気づいた。

 焦った素振りで写真を財布にしまうと「こ、こら! むやみに走り回るでない!」と叱責の声を上げた。さらにそこから延々と続く粘着質な説教。

 解放されたのは十分後だった。

 ようやく校舎内に入ったものの、子犬の姿は見えない。ただでさえ広い校舎である。固まって動くのは効率が悪い。

「今からは各人分散して捜索しよう。子犬は見つけても逃げられる可能性の方が高い。一人で行動に移さず、《ARCUS》で全員に位置を連絡してくれ」

 導力を利用して遠隔通信を行う技術は、先代モデルのオーブメント《ENIGMA》から試験的に実装されている。

 通信機能に制限はあるが、使い勝手がよくⅦ組メンバーも多用していた。

 リィンの指示で、メンバーは校舎内に散開していく。

「一階はラウラとフィーがいるから、俺は二階から探してみるか」

 明日から貴族生徒は長期の、平民生徒も数日の連休になるため、休み前最後の課外活動を行っている学生も多い。

 さっそくリィンは近くにいる生徒から聞き込みを開始した。

「ああ、犬なら見たぜ。えっと教員室前だったかな」

「すばしっこい犬だと? 私のマッハ号より早いわけがなかろう」

「犬~? ええ、見ましたわよ。どこで? そんなの覚えてませんわ。それよりアリサさんはどこですの!」

「やあ、君も一緒に釣りに行かないかい? 犬? ははは、さすがに犬は釣れないよ」

「んー、写真を撮ってる時にいたような……でも女の子の方に気が向いてたからなあ」

「うふふ、さっき調理室前にいた子犬どこに行ったのかしら。捕まえてラブクッキーのエッセンスに……」

 ざっと聞き回ったところで、リィンは談話コーナーのテーブルに手をつき、息を吐いた。

「だめだ。むしろ情報が多すぎて場所が特定できない。目撃証言はそこそこあるんだが……」

「あ、いたいた。リィン!」

 残るⅦ組メンバーの二人、エリオット・クレイグとガイウス・ウォーゼルがこちらに歩いてくる。

 小柄で温厚そうな方がエリオットで、長身で精悍な方がガイウスだ。

 この二人とは最初のオリエンテーションで行動を共にしたこともあり、リィンにとっては早い段階から親しく話をしていた友人でもある。

 彼らにも手伝ってもらえないだろうか。

 そう思うリィンに、先に訊ねてきたのはエリオットだった。

「子犬を見なかった?」

 

 

 エリオットの話では、吹奏楽部の演奏中に件の犬が入ってきて、彼の楽譜を一枚咥えて走り去ってしまったらしい。

「替えはあるんだけど、いろいろ楽譜に書き込んでたからさ。あれが無いと困るんだよね」

 しゅんと頭を落とすエリオット。

「もしかして、ガイウスも何か取られたのか?」

「ああ。さっきまで美術室で絵を書いていたのだが、突然子犬がやってきて、緑の絵の具チューブを持っていかれてしまったのだ。ノルドの緑に合うように混ぜ合わせて作ったものだから、代わりがない」

 ガイウスも困り果てた様子だ。

「災難だったな」

「風のいたずらかと思ったぞ」

「それは違うと思うが」

 こちらの事情も伝えると、エリオットもガイウスもすぐに捜索に加わってくれた。

 その時、《ARCUS》に通信が入る。相手はアリサだった。

『リィン? 子犬を見つけたわ』

 

 

 アリサからの連絡でⅦ組は屋上へと集まった。彼女が屋上の隅を指差すと、そこに茶色い毛並の子犬がいた。

「こんなところにまで来るなんて……」

「まったく見上げた瞬足だった。感心するぞ」

 マキアスの嘆息に、ラウラが同意する。

「うふふ。ワンちゃん、レポート用紙はどこにやったのかな~?」

 魔導杖を握りしめているエマを「委員長、それはダメだからね!?」と同じ魔導杖使いのエリオットがいさめている。メガネの奥に見えるエマの瞳は半分以上本気だった。

「エリオットの楽譜も俺の絵の具も見当たらないな」

 きょろきょろと視線を巡らすガイウス。

「さて、どう捕まえる? さすがにこの人数なら同時に行けば何とかなると思うが」

「それはダメね」

 リィンの提案をアリサが止めた。

「確かに逃げ場はないけど、ここは屋上よ。外に飛び出す危険もあるわ」

 一応屋上の端は少し高めの段に囲まれているが、あの子犬なら楽に飛び越えられる程度だ。アリサの言う通り、下手に手出しをして興奮させれば、最悪の事態にもなりかねない。

「フィーなら子犬の警戒心を解けないか? 帝都での猫探しの時みたいに」

「無理。あれは猫限定」

「そ、そうなのか」

 打開策が出ないまま時間が流れていく。

 耐えかねたユーシスが口を開いた。

「ここで手をこまねいていても、状況は変わらんだろう。とにかく刺激しないように、少しでも近づいて警戒心を解いたらどうだ」

 他のメンバーも異論はないらしく、リィンの号令を待っている。

「わかった。それで行こう。ミッション開始だ。これより特科Ⅶ組、総力をもって子犬を保護する!」

『了解!』

 その言葉を合図に、彼らは子犬を囲むように広く扇型の陣形を取った。あまり密集しても威圧感を与えてしまう。互いに距離を調節しながら、子犬にゆっくりと近づいていく。

 リィンの目配せで先陣を切ったのはエリオットだった。

「じゃあ、やるよ」

 自前のバイオリンでエリオットは演奏を始めた。落ち着いたメロディが屋上に響き渡る。

 子犬はピクリと反応し、メンバーの方を向く。まだ警戒しているようだ。

 続いたのはエマだった。懐から小さな缶を取り出すと、それをコトンと地面に置いた。

「美味しいご飯ですよ。こっちにおいで~」

「エ、エマくん? それはキャットフードだ!」

 マキアスが眉をひそめた。

「す、すみません。これしか持ってなくて……」

「むしろなんでキャットフードを持っているのかが気になるが……やむを得ないな」

 マキアスはエマの置いた缶の横に、すっとティーカップを添えた。

「僕の入れた特製のコーヒーだ。遠慮せずに飲みに来るといい」

 自慢げに子犬に告げるマキアスに、「犬がブラックを飲めるか。せめて砂糖とミルクを用意しろ」とユーシスが冷たく吐き捨てる。

「あなたも色々と間違ってるわよ?」

 アリサがすかさずつっこむも、ユーシスは気に留めた様子もなく、右手を子犬に向かって差し出した。

「いつまで意地を張っている。いい加減にこっちに戻ってこい」

 子犬はじっとユーシスを眺めている。

「お前が望むなら、好きなだけ走り回って構わんのだぞ。その時は俺も馬に乗って付き合ってやろう」

 ユーシスは子犬に説得を始めていた。「その時はノルド高原に来るといい。歓迎しよう」とガイウスが横からフォローを入れる。

 成立しているんだかしていないんだか、よく分からないやり取りを見たラウラは「ふむ、そういうのもいいのか」と一人で納得し、ユーシス同様に手を差し伸べた。

「聞くがいい。そなたには非凡な才能がある。私と共に自分を磨いてみないか」

 子犬を諭すラウラのとなりで、フィーは「にゃー、にゃー」と彼女なりにコミュニケーションを取ろうとしている。

 現場は混沌としていた。

「怪しすぎる光景ね……。私もだけど、たぶん皆ペットとか飼ったことないんだわ」

「すごくがんばってくれているのはわかるんだが……」

 アリサとリィンが、どうにか警戒心を解く方法を考えていたその時、先に子犬が動いた。

 全員に背を向けると、ピョンと屋上端の囲い段に飛び乗ったのだ。

「あっ!」

 しかも間の悪いことに、ちょうど屋上を強い風が吹き抜けた。子犬の体は風圧で、囲い段の外に押し出されてしまった。

「っ! 危ない!」

 小さな鳴き声。リィンは子犬に向かって全速力で走る。限界まで伸ばした指先が、落ちかかった子犬の体にわずかに触れた。だがそれ以上は届かなかった。

 離れていく小さな体。

 リィンの傍らを凄まじい速さの人影が通り過ぎた。

 それは自身も屋上の外に飛び出しながらも、瞬時に子犬を脇に抱え、わずかに壁にかかった足先を起点に、鋭敏な身のこなしで舞い戻ってくる。その人影はⅦ組を率いる担任教官、サラ・バレスタインだった。

「まーた、あんた達は何をやってるのよ? ハインリッヒ教頭が『Ⅶ組の連中が走り回っているから見てこい』って言うもんだから来てみたけど……っと」

 サラの腕の中で、もぞもぞと子犬が動く。

 安堵と疲労が半分ずつ。彼らはその場に座り込んだ。

「ま、事情は後で聞くとして、とりあえずみんながんばったみたいね?」

 サラは笑顔を浮かべると、いつものウインクをしてみせた。

 

 ●

 

 時刻は十七時。日は陰ってくるが、この時期ではまだまだ明るい時間だ。

 Ⅶ組のメンバーとは一旦別れて、一通りの顛末をトワに報告する為に、リィンは学生会館の生徒会室にいた。

「それは大変だったね。あのワンちゃん、そんなにあちこち行ったんだ」

「最終的にはサラ教官に助けられる形になりましたが……その、すみません。逆に俺があんなに追いかけなかったら、もっと早く保護できたのかもしれません」

「それは違うよ」

 トワは首を横に振った。

「何がどうなるかなんて誰にもわからないよ。それにリィン君が動かなかったら、ワンちゃんは誰にも見つけられなかったかもしれないし。リィン君は自分のやったことにもっと胸を張っていいんだよ」

「トワ会長……ありがとうございます」

 その言葉は今日、午前中にもトワに言われたものだった。どこか胸のつかえが取れた気がした。

「さて、と。遅くなっちゃったけどそろそろ行こっか、リィン君」

「どこに行くんですか?」

 いそいそと椅子から立ち上がりながら、トワは言った。

「忘れてるの? 荷物運びのお礼だよ」

 

 

 一階のラウンジは綺麗に片付いていた。テーブルも椅子も並べられ、完全にいつもの風景だ。話によるとジョルジュとアンゼリカが元に戻してくれたらしい。

「すみません。ラウンジの後片付けまでして頂いたなんて」

「あはは、言いっこなし」

 笑顔で目の前の巨大なパフェにぱくつくトワの表情は幸せそのものだが、パフェが大きすぎて彼女の顔は見えなかった。

 リィンの目の前にも、ありとあらゆるトッピングを施された巨大なパフェが運ばれてくる。

「遠慮せずにいっぱい食べちゃってね!」

「う……頂きます」

 トワの厚意を断わることなどできず、リィンは帝国男子の意地で見事完食してみせたのだった。

「おいしかった?」

「ご、ごちそうさまでした。しかし会長もよくあれだけの量を完食できましたね」

「甘いものは別腹だよ? 帝国女子のたしなみなんだから」

「初めて聞きましたが……」

 巨大パフェをぺろりと完食したトワは、紅茶を飲んで口直しをしている。一方のリィンは紅茶に浮かぶレモンの切れ端でさえも今は見たくなかった。

「そういえば、あの子犬のことは何かわかりましたか?」

「うん、リィン君には伝えようと思ってたんだけど」

 トワはカップを置いて話を切り出した。

「やっぱり、あのワンちゃんは本当に迷い犬だったみたい。トリスタにも茶色い子犬を飼ってる家は見つかってなくて、捜索届も出てないの。来館のお客さんが連れてきたわけでもないって。お母さん達とはぐれちゃったのかな…」

「そうですか……あの子犬は今後どうなるのでしょうか」

「えと、ね。言いにくいんだけど、学院内ではやっぱり飼えないの。すぐに里親が見つかればいいけど、そうじゃなければ――」

 トワは口をつぐむ。その先は言われなくてもリィンにもわかっていた。

 今日はあの子犬に振り回された一日だったが、同時にあの子犬の為の一日でもあった。Ⅶ組の皆で協力した結果を、無駄にしたくはない。

「トワ会長」

「うん?」

「会長は今日、俺に言ってくれましたよね。次は『リィン君から何か私にお願いしてよ』って」

「う、うん。言ったよ」

「では」

 リィンはテーブルにずいと身を乗り出した。

「お願いがあります」

 

 

 次の日。

 Ⅶ組が普段使用している第三学生寮に小さな同居人が増えた。

 皿に注がれたミルクをペロペロとなめる、茶色い毛並みの子犬。

「うふふ。まあ、よく飲みますこと」

 この学生寮の管理人でもあるラインフォルト家のメイド――シャロンの入れたミルクを、その子犬はおいしそうに飲んでいた。

「昨晩、サラ様がその子を連れて帰って来た時には、サラ様の非常食かと思ってしまいましたけど」

「ケンカ売ってるのかしら。今なら高価買取中よ?」

「まあ、サラ様ったら怖い」

 年上のお姉さんたちのそんなやり取りを見ながら、リィンはエントランスのソファーに腰かけた。

 昨日、トワに頼んだ内容がこれだったのだ。

 “学院内で飼えないのなら、せめて学生寮で世話をする許可が欲しい”

 リィンから頼まれたトワは、その足で学院長室に赴き、ヴァンダイク学院長に直接許可をもらってくれたのだ。

 許可にあたり、学院長から提示された条件は三つ。

 一つ目は当然だが、里親が見つかるまでということ。二つ目は、期限は二か月の間ということ。三つ目は、Ⅶ組全員で世話をするということ。

 Ⅶ組は満場一致で、その条件を受け入れた。

 知ってか知らずか、新しいⅦ組の仲間は元気に吠えてみせたのだった。

 

 ●

 

 ――後日談――

 

 子犬に奪われたガイウスの絵の具、エリオットの楽譜、エマのレポート用紙は無事に発見された。見つけたのは用務員の男性で、発見場所は本校舎一階の階段横のスペースだ。

 校内のどこかにあることは予想できたので、三人はそれらしいものがあれば連絡が欲しいと用務員に頼んでいたのだ。もっともエマだけは最後まで自分の力で探すと言い張っていたのだが。

 ガイウスとエリオットはそれぞれ楽譜と絵の具を受け取ると、ほっとため息をついて用務員室から出ていった。

「あ、あの……」

 一人残ったエマと用務員の男性の間に、妙な沈黙が流れる。

「これは……君のものかね」

 一枚のレポート用紙を差し出した用務員は、静かに口を開いた。

「は、はい。そうですが」

 おずおずと肯定するエマは、用務員の頬がほのかに赤らんでいることに気づいた。

 嫌な予感しかしない。

「これは君に返そう。私は今年で六十歳になるが……ここまで体の芯が熱くなったのは久しぶりだ」

「……!」

 やはり用紙の内容を読まれている。エマの顔は火が出るほどに赤面していた。

「違いますから! 私が書いたんじゃないですよ!?」

「よもやあのような世界があったとは……目からウロコとはこのことだ」

「違うんです、違うんです! 話を聞いて下さい!」

「男子学生か……。ふううぅ。実に……実にいいね」

「いやああああ――っ!」

 本校舎全域に響き渡る絶叫。

 これが長きに渡る因縁の始まりであることを、彼女はまだ知る由もなかった。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ★おまけ★

 

 保護された子犬が第三学生寮にやってきた夜。エントランスにて、

「わー犬だ! 犬だ!」

 Ⅶ組のメンバーに混じってはしゃぐ少女の姿があった。彼女の名はミリアム・オライオン。所属は帝国正規軍だが、なんらかの特務を受けて現在はこのⅦ組にも所属している。

「ミリアム、今日どこ行ってたの?」

 そう問うフィーに、「おじさんのとこだよ」ミリアムは快活に笑って答えた。

「それよりもさ、この犬飼うの? 飼うの~? ねえ、ユーシス~?」

「ええい、なぜ俺に聞く!」

 腕にしがみつくミリアムをユーシスが振り払っていると「おー、なんだか騒がしいな」と玄関から一人の男子学生が入ってきた。

「ああ、クロウ先輩。遅くまでどこに行ってたんですか?」

 リィンが挨拶すると「ちょいと野暮用でな。あと先輩はいらねえって」とクロウは苦笑した。

 クロウ・アームブラスト。トワたちの友人で、彼も二年生なのだが単位数が足りないとのことで、今月からⅦ組のカリキュラムに参加することになっている。

 先のミリアムと合わせて、これがⅦ組のフルメンバーである。

「それよかよ。その犬ころなんだよ? サラの非常食か?」

「クロウ? ちょっとここ座りなさい」

 こめかみに青筋を浮かせつつ、ひきつった笑顔でサラが手招きする。

「おっかねえな。冗談に決まってんだろ。リィン、そいつここで飼うのか?」

「期限付きですけどね。そういうことになりました」

「へえ。で、なんて名前なんだ?」

 名前と訊ねられて、全員が『あ』と声をそろえた。

「まじかよ。まだ決めてなかったのか? もう今のうちに決めちまおうぜ」

 クロウの提案で急遽名前の募集がされることになった。

「一人一案だ。ほれほれさっさと出せ。じゃあ、マキアスから」

「ぼ、僕からですか? うーん。そういえばチェスで最強の駒はクイーンなんですが、犬の鳴き声とかけまして“キュイーン”というのはどうでしょう」

「いや、ねーだろ。ドリルの音みたいになってんじゃねえか」

 そう言うクロウに乗っかって、「まったくだ」とユーシスは嘆息した。

「なんだと? そういう君はどうなんだ!」

「ふん。俺が世話をすることもあるのだからな、それに相応しい高貴な名前をくれてやる。そうだな、“ノブリティー号”がよかろう」

「高貴さの欠片もねーな。ていうか号をつけるから馬っぽいんだよ。じゃあ、次はリィン」

「あ、はい。そうだな。うーん……三日もらえれば何とか形にしますが」

「悩みすぎだろ! そういうとこだぞ!? あーもう、どんどん案出せ!」

 次々に名前の候補が飛び交った。

「ガーちゃん二号!」

「子犬には荷が重すぎる!」

「テリーヌとかどうですか」

「なんかうまそうだな!」

「いい日、いい風」

「それは名前なのか?」

「アルゼイド流、瞬足轟天撃」

「技名にしか思えねえ、つーかアルゼイド流って言ってるしな!」

「RF-3265Cなんてどうかしら」

「ラインフォルト社製でもないからな。あと形式番号だろそれ!」

「茶毛のクレイグ」

「さらっと自分の名前を入れんな!」

「……ネコ」

「……イヌだ」

 一通り出揃ったところで、突っ込み疲れたクロウが「だああっ!」と叫んだ。

「この中から決まるわけないだろうが! もうサラが決めちまえよ。一番懐いてるみたいだし」

「ええー、あたし? うーん」

 急に話を振られたサラは、きょろきょろと辺りを見回してみる。目についたのはいつものビールだった。

(ビール、ビールか。ビール飲みたいな。ビール……)

 ふと思いついた。

「えと。ルビィとかどうかしら。この子、男の子だから似合わないかもだけど――」

 するとサラの膝で丸まっていた子犬が「ワンッ」と鳴いた。

「ははっ、そいつも気に入ったみたいだな。響きも悪くねえし、それでいいんじゃねえか」

 そういうわけで子犬の名前は『ルビィ』に決まった。

「名前の元がビールだって、この子たちには内緒にしとかないと……」

 また一つ秘密が増えたⅦ組の教官は、小声でそう呟くのだった。

 

 

~END~


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