虹の軌跡   作:テッチー

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そんなⅦ組の一日 ~エマ

9月12日(自由行動日) 10:00 エマ・ミルスティン 

 

「これと、これ。あとは……」

 参考書に資料集、できれば挿絵は多い方がいいかな。

 約束の時間は十一時。私は少し早めに図書館に足を運び、使えそうな本を揃えていく。

 今日はフィーちゃんに勉強を教えることになっているのだけど、彼女は単調な教え方や難しい言葉が出てくると眠気に襲われる体質のようで、それなりの工夫が必要不可欠なのだ。

 挿絵、小話、適度な質疑応答と日常会話。全てがバランスよく揃わないと、とても勉強としては成立せず、寝息と揺り起こしの繰り返しになってしまう。

 フィーちゃんはⅦ組の中では年下なので、やはり普段の授業についていくのは大変らしく、そこで時々だけど私がお節介を焼いている。

「今日は導力学も進めたいけど、少し難しいし大丈夫かな……」

 彼女は習うより慣れる方が肌に合うから、今回は実験器具――というか、私の魔導杖を持ってきていた。

 実際に導力の流れを見てもらった方がイメージしやすいという理由だ。あとはフィーちゃんが興味を示してくれれば。……なんだか気まぐれな子猫の相手をしている感じだけど、最近は私もずいぶん慣れてきたような。

 うん。これで準備は万端。あとはフィーちゃんが来るまで適当な本でも読んで待つとしよう。

 

 

 ――11:30 

 ええ、来ません。

 約束の時間を三十分過ぎても、一向に図書館の扉は開く気配すらありません。

 とはいえ慌てなくても大丈夫です。三十分程度の遅刻は誤差の範囲内です。目標からずれても放たれた弾頭は近くに落ちるもの。

 私が寮を出るときにはもう部屋にいなかったので、すでに学院に到着しているか、あるいは、だとしてもどこかで眠っているか。

 もちろん待ちます。今日はその為に来たのですから。

 

 

 ――12:30 

 うふふ、来ません。

 約束の時間を九十分過ぎても、図書館の扉は一リジュも動きません。誤差と呼べる範囲を軽くオーバーしています。弾頭は遥か頭上を過ぎ去り、星になってしまいました。

 もしかしてあの扉、鋼鉄でできているのでしょうか。それは重過ぎてフィーちゃんには開けられませんよね。

 しかし、さすがに遅すぎるような。

「普通に眠っているだけかもしれないけど……」

 一応周りの様子を見に行ってみようか。魔導杖を置いたままでは行けないので、杖を片手に図書館を出てみると、やはり見える範囲にフィーちゃんの姿はない。

 だけど、今図書館を出たことは今日最大の失敗だったのかもしれない。

「おや、エマ君じゃないか。自由行動日なのに勉強かね?」

 ……この声は。

 背後から掛けられた声に、体が一瞬びくりとして、額から一滴の汗が流れていく。

 振り返ると白髪の混じった髪に、鼻下に整えられた髭、年相応に垂れ下がった目尻の、一見して優しそうな初老の男性。トールズ士官学院専属の用務員、ガイラーさんだ。

 その手には竹ぼうきが握られており、おそらくは落ち葉の掃除でもしてくれていたのだろう。

「ガ、ガイラーさん、どうもこんにちは」

「ああ、こんにちは」

 私はこのガイラーさんが少し苦手だった。簡単に詳細を説明すると八月下旬、ルビィちゃんの学院内捜索に話は遡る。

 あの日、私はルビィちゃんに添削していた小説の一ページを取られてしまった。それをこのガイラーさんが見つけてくれたんだけど、その際に小説内容の一部を読まれたのだ。

 ちなみにそれは文芸部のドロテ部長が執筆したもので、内容は男子生徒のやや過激な青春を扱ったもの。

 どうやらガイラーさんはその小説に多分に、いや過分に影響を受けてしまったらしく、変な方向に価値観が変わってしまったのだった。

 ここまででも結構危うい話なのだけど、問題はここから。ガイラーさんはその過激な内容の小説を、私が書いたと思い込んでいる。

 それからというもの、ガイラーさんはことある毎に小説の続きを催促してくる。私が書いたものではないことを説明するも、謙遜と取られて全く誤解が解けないまま今に至っている。

 普段は授業を理由にその場をはぐらかすものの、自由行動日の今日ではその理由を使えそうにない。

「あはは、では私はこれで」

「エマ君」

 苦笑いを浮かべながら、半ば無理やりその場を離れようとしたら、ガイラーさんの妙に力強い一言に足を止められてしまった。

「な、なんでしょう」

「聡明な君のことだ。用件は分かっているだろう。小説のことだよ」

 いつものガイラーさんが来た。待っているフィーちゃんは来ないのに。

「すみません、私急いでいますので」

「何、時間は取らせないよ」

 押し殺したような、言い含めたような声音に、背筋に正体不明の悪寒が走る。無意識に魔導杖を強く握りしめている自分がいた。

 私が一歩退けば、ガイラーさんは一歩詰め、距離が動かない。

 無言で相手の動作を先読みするような、緊張感が辺りに充満していくのが分かる。私はラウラさんやリィンさんみたいに剣の世界に生きたことはないけど、なんとなく実感した。これが剣を交わす前に勝敗が決すると言われる要因の一つ。間合いを制するということ。

「私本当に今日は用事があるんです。そこをどいて頂けませんか?」

「私とて君にいつでも会えるわけではない。今この時間を女神の天啓と理解し、目的を果たすまで退く気はないよ」

 女神様も過激な青春小説がお好きなのでしょうか。この状況本当に困るんですが。

「さすがの私も怒っちゃいますよ?」

「ふふ。腕ずくかね? やってみるといい」

 脅しだと思っているのか、両手を大きく開いたガイラーさんは、余裕を感じさせる笑みを浮かべたまま、立ち尽くしている。

 悟られないように地面に目を落とすと、そこは石畳だ。やれないことはない。魔導杖に意識を集中すると「それでいい」と見透かしたようにガイラーさんが言った。

 人通りはない。ためらいはもちろんあるけれど、今後のことを考えると、本気であることも伝えておきたい……どうすれば。

 そんな時、ガイラーさんが熱を帯びた吐息を深く吐き出し、怪訝そうな顔で空を仰ぎ見て、

「どうしたんだろうか。今日は妙に体が……たぎる」

「ひっ」

 悪寒が限界突破した。躊躇は一瞬で消え失せて、気付けば魔導杖を振り上げて燃え盛る火球を生み出していた。もう止められない。狙いはそこだ。

 赤黒い炎の塊が、ガイラーさんより少し前の地面に着弾する。火の粉を舞い上げながら熱波と陽炎を勢いよく立ち上らせた。

 直撃はもちろん避けて、あくまで牽制だが、しかしこれでガイラーさんも驚いて――

「悪くないね」

 炎の向こう側から落ち着き払った声音が響き、揺らめき立つ黒い影が何かを振り上げたように見えた。

 次の瞬間、突風が炎を裂き、その先には竹ぼうきを振り下ろしたガイラーさんの姿があった。

「え、ええ!?」

「実にいい攻撃だったが手加減したね。それもわざと外した。君の優しさだと受け止めるが、戦場では時に命取りになることも覚えておいたほうがいい。Ⅶ組は実戦を経験したこともあるのだろう?」

「そんな……」

「伊達に士官学院の用務員を十数年続けていないよ。今程度の炎をかき消すなど、秋口の落ち葉を掃除するよりよほど容易い」

 容易さの基準がよくわかりませんが、用務員の仕事を続けると戦闘技能も向上することを初めて知りました。

「次はこちらの番、ということでいいのかな?」

 ざり、という足音を立てながら、ガイラーさんは未だ炎が燻ぶる地面を平然と歩き出す。

 熱で空気が屈曲して歪んだ視界の中、ガイラーさんの表情は読み取れないが、さっきから私の本能が警鐘を打ち鳴らしている。

「さ、させません!」

 この状況で駆動時間のあるアーツは使えない。ならさっきと同じように、魔導杖の力を利用して。

「……ほう」

 魔導杖の最大の利点は直駆動させられるアーツを扱えること。個人と魔導杖自体の機能で扱える技に差はあるが、これなら。

 導力に指向性を持たせ、五つの輝く剣を生成し、一斉発射。先ほど放った火球より一撃の威力は落ちるものの、速度と直進性は遥かに凌ぐ。

「面白い。君は機転も早く、意外に行動力もある。それがあの責めのある小説の根幹ということだね」

「違いますから!」

 あと攻めです。責めってなんですか。

 言ってる間に、光の剣がガイラーさんに迫って――

「うそ……」

 凄まじい速度で中空を舞い飛んだ五つの剣は、すべてガイラーさんをすり抜けた。違う、軌道を完全に掌握したガイラーさんが必要最小限の動きでかわしたのだ。あたかもすり抜けたと見紛うほどに。

「真っ直ぐだから読みやすい。君の文章と同じでね……おや」

 私は一瞬の隙を突いてその場から撤退する。今日のガイラーさんはいつもに増して変な感じだ。

 本校舎に向かって逃げるが「逃がさないよ」と呟かれた一語が耳朶を打ち、私はさらに足を速めた。

 フィーちゃんに勉強を教えに来ただけなのに、どうしてこんなことに。

 

 

 ――13:00 

「ど、どこか隠れられるところは……!?」

 本校舎の正面入り口をくぐり、左右に視線を素早く動かす。

 自由行動日だから入れる教室は制限されている。各クラスの部屋には入れない。となると特別教室、二階だ。

「エマ君」

「きゃあ!?」

 私の背後に、すでにガイラーさんが立っていた。相当距離を離したと思ったのに、見ればガイラーさんには息切れ一つない。

 逃げなきゃ、そう思う私の視界に、廊下の向こうから歩いてくる二つの人影が映る。

「いやー、ご飯おいしかったですね」

「ふふふ、そうですね。私はあまり食堂を使わないのですが」

 あれは、サラ教官とメアリー教官だ。何気に珍しい組み合わせのような。でも助かったかもしれない。

「サラ教官、メアリー教官!」

 二人に走り寄る。とりあえず、しばらくこの二人と一緒にいれば状況をしのげる。

「あらエマ、どうしたの? ていうか何で魔導杖持ってるわけ?」

「まあ、廊下を走ってはいけませんよ」

「あ、すみません、メアリー教官……じゃなくって助けてくだ――」

「おやおや」

 言いかけた私の言葉は、あくまで穏やかに発せられたガイラーさんの声に遮られた。

「これはこれは、花のあるお嬢様方がそろわれると、辺りが明るくなった気がしますなあ。これなら今日は蛍光灯の交換はいらんかもしれませんな」

 ガイラーさん、何を……? しかしサラ教官は「まあ、ご冗談を」と、あからさまに嬉しそうに顔に笑みを浮かべていた。

「冗談などではありませんぞ。しかし気をつけては頂きたいものですな。お二人がそろって歩かれるなど、男子生徒には目の毒でしょうから。学業に専念できなくなってもいけません」

「もー、ガイラーさんったらー」

「ふふ、お上手ですこと」

 サラ教官だけではなく、メアリー教官まで。いや、メアリー教官は社交辞令的なものとして受け取っているようだが、サラ教官は割と真に受けている。

 年上好きとは聞いていますが、さすがに守備範囲が広すぎます。

「さて……」

 ガイラーさんの目が私に向けられる。瞳の奥が妖しく光った気がした。

「う、いたたた!」

 突然、腰を押さえてうずくまる。驚いたメアリー教官が「どうしたのですか!?」とそばに駆け寄ると、彼は顔にあぶら汗を浮かべて、うめき声を漏らした。

「実は先ほど落ち葉を掃いていて、腰を痛めてしまいましてな」

「まあ……では早く保健室に」

「いえ、この後は二階の掲示板の張替をせねばならんのです。私がやらねば……たとえこの腰が砕け散ろうとも」

 演技ですよ、それ。騙されないでくださいね。というか落ち葉掃いてて何で腰を痛めるんですか。「くうっ」とか言いながらよろよろ立ちあがっていますけど、うそっぽいですからね。

「そんな、ガイラーさん!」

「あなたがこの学院の用務員であることを……誇りに思います」

 終わりました。

「しかし、だれか手伝ってくれる人がいれば……見ればお三方は楽しく談笑されていたご様子、他に誰か――」

「ああ、それなら大丈夫ですよ。私は授業準備、メアリー教官は吹奏楽部の練習準備があるんですけど、彼女とは今すれ違っただけですから。エマ、ガイラーさんのお手伝い頼めるわよね?」

「え!?」

 何という老獪な手口。

 教官達と私が関係ないことを知っておきながら、あえて知らない振りをして会話に入ってきた上に、いつの間にか正式な頼みごととして成立させている。

「素晴らしいですわ。さすがはⅦ組の委員長ですね」

 これ以上この場に留まっていると、どんどん状況が悪くなっていく。

「し、失礼します」

 ぎゅんと不自然なくらい素早く踵を返して、私は早足でその場を立ち去った。

「あら、もう二階に走って行っちゃったわ。さすがやる気ねえ」

「あ、廊下は走っちゃだめですよー」

 こうなったら、全力でガイラーさんを止めてみせる。

 そして、何が何でもフィーちゃんに勉強を。

 

 

 ――13:30 

「やあ、エマ君。掲示板の張替は済んだのかな?」

「どうしても諦めて頂けませんか?」

 二階、普通教室側の廊下で、私は魔導杖を構えてガイラーさんと対峙していた。逃げても追いつかれるなら、正面突破しかない。

「例えば手を伸ばせば、すぐ届くところに目的を叶える手段があったとして、君はそれを諦めることができるのかい」

「そうですか。なら――私も本気出しちゃいますよ」

 魔導杖が私の意志に呼応するように鳴動する。

 体前面を覆うように白銀の円陣が浮き立つと、その紋様から溢れ出た光の粒子が瞬く間に剣の形に凝固されていった。

 輝く大剣は全部で五本、私を守護するように周囲に展開して、その剣先をガイラーさんへと向ける。先ほど外で放ったものとは違う、正真正銘全力だ。

「導力の伝搬だけで大気を震わすか。敵意をもって向けられた剣圧も心地いい。しかし――」

 深い色をした瞳が静かに私を見据えた。

「それが君の本気かね?」

「それは……これからです!」

 エリオットさんのそれとは違い、左右非対称に設計された魔導杖の先端を、ガイラーさんに向かって勢いよく振り下ろす。

 明滅する残像を網膜に焼き付けながら、空気を切り裂く光の剣がガイラーさんに襲いかかった。

「先ほどより遥かに速い一撃、しかし変わらずの直線。一度見せた技で機先を制しようなどとは愚の骨頂――……っなんと!」

 彼の体捌きは一度見た。直線の攻撃は避けられる。だけどこの技は直進しかできない。だから、

「そう、時間差です」

 光の剣を一気に斉射せず、わずかな間隔をあけて、かつ狙いもずらしての連射。

 一撃目が右上方、二撃目は左下方、三撃目がフェイントと目暗ましを兼ねた、斜め上へと突き上がる胸部から頭上にかけての高低軌道。

 そして四撃目が仕留めの直線軌道!

 三撃目でバランスを崩しながらも、ガイラーさんは腰の回転だけで上体を捻り、四撃目をかろうじてかわしてみせる。

「見事! しかし残念、90点だ」

「いいえ、100点です」

 四撃目と同じ軌道で隠した本命の五撃目が姿を見せた。

 ガイラーさんなら命中させるつもりで放った四撃目も避けると思っていた。

 さらにバランスを崩したところからの不意の一撃。必中の間合い、位置取り、タイミング。絶対にかわせない。

 そして直撃、したはずだった。いや直撃自体は確かにしていた。

「点数を改めよう、エマ君。90点ではなく……」

 ガイラーさんが突き出した右の掌に阻まれ、剣先はそれ以上の進入を防がれていた。

「99点だ」

 その手が徐々に握り締められると、勢いのまま押し切ろうとする光の剣は、少しずつその威力を殺されていった。

 剣先から順に光は粒子となって爆ぜていき、行き場をなくした導力の残滓が、輝きを失いながら霧散していく。ほどなく光の剣はその形状を完全に崩壊させ、かき消えるように消滅した。

「あ、ああ……」

「さて。攻撃自体はともかく、いくつか減点対象がある。まず、外した最初の三撃だが、廊下と天井にそれぞれ傷を残し、四撃目に至っては直線だったから……見たまえ。中庭側の窓に突き刺さってガラスが割れてしまっているだろう」

 それは確かに私の失態だった。

 生徒がいないことは確認していたし、校舎内に当たる前には威力を減殺して消すつもりだったけど、そんな調節をしている余裕はなかった。

 そういえば、奥のガラスが割れた時、ガイウスさんとエリオットさんの悲鳴が聞こえた気がしたけど、それはきっと気のせいに違いない。

「……すみませんでした」

「なに、気にすることはない。私が後で片付けておこう」

 首を軽く回し、ぱきぱきと間接を鳴らしたガイラーさんは、私に向かって一歩足を踏み出す。薄く口元に笑みを浮かべ、妙に凄みのある声音でこう続けた。

「なぜなら私は、この学院の用務員だからね」

 

 

 ――14:00

 不吉が集まって人の形を成したような! 

 およそ普段柔和な一用務員さんに思うような言葉ではないけど、私の脳裏には先ほどの酷薄な笑顔が張り付いて離れなかった。

「こ、ここなら」

 私が今隠れているのは音楽室、ピアノの陰だ。

 あの後すぐにその場を駆け出し、一階へ行こうとしたのだが、途中で音楽室の扉が開いていることに気付いたのだ。

 さっきメアリー教官は吹奏楽部の練習準備があると言っていたから、もしかしてその関係で鍵が開いていたのかもしれない。

「今日のガイラーさん、本当にどうしたのかしら」

 なんというか、全開というか制御不能というか。いっそドロテ部長をこの場に連れてきたら、全てが円満に収まるのではないだろうか。

 そんな私の思考は、静寂の中に聞こえた一つの足音に中断された。

 ぱた、ぱた。靴裏で床を叩くような少し変わった足音は、用務員専用の屋内スリッパだとわかる。来た、ガイラーさんだ。

 息を潜めて、ピアノ越しに扉付近をのぞいてみる。足音は少しずつ近づき、扉前でぴたりと止まった。

 ――ガチャ……ガチャ、ガチャ。ドアノブを何回も回す音。大丈夫、入ったときに内側から鍵を閉めている。

 ガチャガチャ……ガチャ。ガチャガチャ、ガチャ!

 な、長い。そして無意味に怖い。

 しばらくすると、ようやくドアノブから手を離したらしく、足音は遠ざかり、再び静寂が戻ってきた。

 息を吐いて、わずかに緊張が解けた私は、ふとフィーちゃんのことを考えてみた。

「もし、あの後でフィーちゃんが来ていたら、……謝らないと」 

 そのまま来ていない可能性も大いにあるけど。フィーちゃんを探しに行くどころか、今となってはこちらが探されている身だ。

「そろそろ行っても大丈夫、よね?」

 ピアノから離れ、入口へ向かおうとした時だ。

 涼しげな風が吹き、私の髪をほのかに揺らした。汗もかいていたし、心地よい初秋の風――

 おかしい。窓はすべて閉まっているはずだ。鍵の確認までする時間はさすがになかったが、開け放しになっていた窓はない。

 嫌な予感を全身に感じながら、窓側に振り返ってみる。閉まっていたはずの窓の一つが開いていた。

 なぜ、まさか、そんな。

 単語でしか状況を問う言葉は出て来ず、思わず後じさった時、柔らかなバイオリンの音色が届いた。そして同時にあの人の声も。

「このバイオリンはいい。よく手入れされている。音楽に対する愛情を感じるよ」

 ガイラーさんバイオリンも弾けるんですね。もう許してください。

 いつの間にか椅子に座り、愛おしそうにバイオリンを奏でていたガイラーさんは私に視線を移す。

「狂詩曲を知っているかね? ラプソディとも言う。名とは異なり、その曲調は意外なほど自由だ」

「さ、さあ。音楽には疎いもので」

「ふふ、謙遜を。私はね、このラプソディが好きだ。狂詩曲とは狂った詩と書く。まるで君の小説のようではないか」

 ガイラーさん違うんです。私じゃないんです。何回も言ったじゃないですか。

「私も君と同じ狂宴の席に着きたくてね」

 そんな椅子に座った覚えはありません。もう、もう……

 バイオリンを脇に置くと、彼はゆらりと立ち上がる。

「さあ、宴の続きを」

「無理ですー!」

 その場の空気に堪え切れず、私は入口に走る。扉に手をかけるが開かない。そうだ、自分で鍵をかけたのだった。簡単なレバー式の鍵を私は二回も手から滑らせ、ようやくの思いで扉を押し開けると、脇目も振らずに駆け出した。

「角を曲がる時は気を付けたまえ。誰かにぶつかったら恋が始まってしまう」

 何の法則ですか。

 そんな言葉が遠ざかりながら聞こえたけど、多分またすぐに追いつかれてしまう。

 私は覚悟を決めた。

 

 

 ――14:30 

 屋上。その最奥に私は立っている。私がその位置についたのと間を置かず、ガイラーさんはやってきた。

「かくれんぼは終わりかね?」

「鬼ごっも終わりです」

 魔導杖を構えてガイラーさんを牽制するも、彼の余裕の表情は崩れない。

「いつになったら君の全力を見せてくれるのかな」

「ガイラーさんは勘違いされています。私はさっきまでも全力でした」

「それは違う」

 私の言葉を否定すると、改めて「それは、違うのだよ」と諭すような口調で繰り返した。

「私から見るに、君はまだ本気を出していない。無意識なのかそうでないのか、まるで何かを隠すように君はいつも一歩引いている」

 どきりと心臓が跳ね上がる。心の中心に杭を突き立てられたような衝撃に、私は反論する言葉すら失った。

「遠慮ではない。奥ゆかしさともまた違う。薄紙一枚隔てた先にいるのは果たして私が、いや君の仲間たちが知るエマ君なのかね?」

「あ、あ……」

「事情はそれぞれだ。聞き出す野暮も、無粋な詮索もしまい。ただこれだけは言っておこう」

 温和な瞳が、わずかに鋭さを帯びた。

「君が本気を出さないのなら、私の体に傷一つ付くことはない」

 鳥達が一斉に羽ばたいて、その場から飛び去っていった。まるで屋上だけ風が止まったように、しんと静まり返る。

 そうかもしれない。

 私はⅦ組の皆に隠し事をしている。それを薄々気付いた上で、皆は変わりなく私に接してくれている。

 甘えていたのかもしれない、皆の優しさに。

 全力を出していないつもりなんてなかった。でもそれは、あくまで隠し事に触れない範囲の中でだった。いつかは伝えよう、そう思いながら、居心地のいい今に慣れてしまっていた自分もいたのだ。

 ガイラーさんがそこまで詳細を知っているはずもない。

 ただ感じとったのだ。あくまで周りから浮き立たないように、目立たないように過ごす、どこか本当じゃない私の日常を。

 ここでまた自分を偽ることは簡単だ。そうしたら恐らくガイラーさんは諦めてくれる。でもそれはきっと、失望という形で。

「わかりました、ガイラーさん。――全力です」

「いい目だ。受けて立とう」

 全身全霊を賭して魔導杖にありったけの力を注ぎ込む。びりびりと学院全体を振動させて、力場が屋上に広がっていった。

 周囲に迸る力とは反対に、膨大な導力を御する為、心はさざ波一つ立てず深く集中する。

 ――解放。魔導杖を介して生み出される力と私本来の力。それらが合わさり、一つの力を成した。

 錯綜する輝きが、足元に光陣を生み出す。

「……すばらしい」

 ガイラーさんを囲むように、地面から轟音を響かせて立ち上る、鈍い光を帯びた五つの巨大な塔。

 顕現した巨塔の先端にエネルギーが凝縮されていき、レーザーのようにガイラーさんの頭上に照射された。五つの光軸は全ての塔の中心に集中し、何倍にも膨れ上がった光の塊が、その場に留まれる限界を越えて、閃熱と共に直下へと一気に降り注ぐ。

「ぬああああ!」

 咆哮。私が本気のように、ガイラーさんもまた本気だった。

 両の腕を頭上に突き出し、まるで大岩でも支えるかのように、凄まじい衝撃をその身一つで受け止めている。屋上全体が鮮烈な光に包まれた。

「押し返される!?」

 ガイラーさんから発せられる異常なまでの圧に、導力を送り続ける魔導杖が軋みの音を立てて、シャフト部分まで押し曲げられていく。

 勝てない。全力だったのに。

「まだだ」

 ガイラーさんの声が聞こえた。あたりは変わらず轟音が響いている。声なんて聞こえるはずがないのに、不思議とその時は妙にはっきりと聞き取れた。

「まだ力をセーブしているね。もっと踏み込むんだ」

「セーブなんかしていません! 私は本当にこれが限界なんです!」

 そう、これは嘘じゃない。

「エマ君。君は仲間が窮地に陥り、自分しかそれが助けられない状況だとする。それでも同じ言葉を言うのかい。限界だからと諦めるのかい?」

「そんなこと……」

「踏み込むんだ。たとえ皆に君の全てを伝えていなかったとしても、君が仲間を大切に思う気持ちは嘘じゃないだろう?」

 はっとして、魔導杖を握りなおした。押し曲がったシャフトをぐっと堪え、足で力強く地面を踏みしめる。

 そうだ。たとえ、まだ伝えられないことがあっても、気持ちまで偽ってはいけないんだ。

 まるで枷が外れたように、力が溢れ出してくる。

 徐々に収縮しつつあった力が再び大きく、明るく、強くなった。それまでとは比較にならない程、勢いと輝きを増した光の大瀑布。

「ぐおおおお!」

 さらに増大した威力は押し返せず、ガイラーさんの片膝が初めて地に着く。

「そうだ。限界を超えるんだ、そして――」

 ガイラーさん、あなたは私にそれを伝えるために。

「もっと踏み込んだ、規制ぎりぎりの激しい表現の小説を書きあげるんだ!」

「なんの話ですかあ!」

 私の叫びと一緒に、ついに暴威の閃光がガイラーさんを包み込んだ。

 弾ける衝撃、擦過する熱波、吹き荒ぶ暴風、激震する大気。

 やがて全てのエネルギーは放射状に四散していき、屋上には幾重にも折り重なった蜘蛛の巣状の亀裂と焦げ跡が残されていた。

 そこにガイラーさんの姿形は微塵もなく、屋上の端には彼の愛用した竹ぼうきだけが、物悲しく転がっているのだった。

 

 

 ――14:50

 屋上を後にした私はそのまま本校舎の外に出た。もう思考が追いつかない、というか考えること自体ができない。

 ガイラーさん、私が皆に隠している何かを、ああいう系の小説のことだと思ってたのでは。

 グラウンドから声がする。だれかいるのだろうか。

 足がもつれて何回かこけそうになりながらも、声のする方へふらふらと足を進めた。この行動自体も意味のあったものではなく、ただ何となくだ。

「あれはラウラさん……?」

 遠目にだがシルエットで分かった。他にグラウンドにいるのはガイウスさんとエリオットさん。あとは名前は知らないけど、多分同じ一年の女子が二人。

 一体どういう組み合わせだろう? 見慣れないジャージを着ているようだし、男子二人はどうも疲れきっているようだし……あ。

「……もしかして」

 機能停止していた思考が、のろのろとようやく回りだす。

 きっとラウラさんは私が貸したあの小説を読んだんだ。

 内容は青春スポーツ物。彼女が好みそうなストーリーだと思って勧めてみたのだけど、どうやら予想以上に感化されてしまって、その煽りをガイウスさんとエリオットさんが受けている、といった所だろうか。きっとそうに違いない。

「エリオットさん達に謝った方がいいかしら……」

「その必要はないだろう。これも彼らの糧となるのだから」

「だといいのですけど……え?」

 とても自然に会話に入ってきた初老の用務員は、当たり前のように私のとなりに立っていた。

「ガイラーさん!? い、いつの間に」

「屋上から飛び降りてその場を凌いだ、という発想はできないかね?」

 すみません。できません。

「ではエマ君。本題に入ろう」

 もうこれ以上は無理だ。しっかり事情を説明して、あれは私の小説ではないことを理解してもらう以外にない。

「ガイラーさん、はっきり言います。あの小説は――」

「これを受けとってくれたまえ」

 言い終わらない内に、ガイラーさんは懐から取り出した大きめの封筒を私に差し出してきた。促されるまま受け取るも、私にはよく意味がわからない。

「僭越ながら私の執筆した短編小説だ。君に読んでもらいたい」

「え、え? 今日ずっと私を追っていたのはその為……だったんですか?」

「もちろんエマ君の小説の続きも切望して止まないが、今回は私の小説を君に届けたかった。言っただろう?」

 いえ初耳ですけど。……まさか“私も君と同じ狂宴の席に着きたくて”というのはそのことを言っていたんですか。なんてややこしい言い回しを。 

「しかし良いものだ。二人の若き獅子が試練を乗り越えて成長していく様は。汗と涙と、そして芽生える友情。これがたぎらずにいられようか」

 ガイラーさんの熱い眼差しは、今にもグラウンドに倒れてしまいそうなガイウスさんとエリオットさんに注がれていた。湿った瞳が潤み、切なさを絞り出したような吐息を吐き出している。

「ひえっ……」

 時期外れの寒々しい風が、木の葉を舞い散らせた。

 今日ガイラーさんが異常な力を発揮し、妙に全開で全壊だったのは、もしかしてラウラさんの青春企画が要因? さらに元を辿ればラウラさんに小説を貸した私が原因?

「ふうう……」

 全身の力が抜け落ち、私はその場にへたり込んでしまった。

 もちろん楽しんで読んでくれたらしいラウラさんに、小説を貸したことを後悔したりなんてしないけど、回り回ってガイラーさんの覚醒に繋がってしまうなんて。

「では私は行くとしよう。仕事の途中なのでね」

「仕事、ですか?」

「うむ、焦げ付いた図書館前の道、二階廊下の傷跡、割れた窓、そして屋上の修繕。今日は残業かもしれんね」

 全部私のだ。さすがに申し訳なく思う。

「これが君たちの学院生活をサポートする私の役目だ。そんな顔はしなくてもいい。なぜなら――」

 再び風が吹き抜け、舞い上がった木の葉がほんの一瞬私の目を隠す。木の葉が視界から離れた時、もうそこにガイラーさんの姿はなかった。  

 しかし私は聞いた。風の音にかき消されて聞こえなかった言葉の続きを。

 彼は確かにこう言ったのだ。

 

 ――なぜなら私はこの学院の用務員だからね――

 

 同じ言葉のはずなのに、先に感じたような悪寒はそこになく、私にはむしろそれが何より誇り高い言葉に聞こえたのだった。……たぶん。 

 

 

 ――15:10 

 図書館に戻ってもフィーちゃんはいなかった。

 もしかして園芸部かもと思って花壇まで足を運んでみたけど、そこにもいなかった。

 園芸部部長のエーデル先輩がいたので、少し話を聞いてみるとフィーちゃんはまだ来ていないらしい。

 ぐるりと敷地を一周して今は講堂前だ

 フィーちゃんは一体どこに行ったのかしら。そもそも私は何でフィーちゃんを探していたんだっけ。

 勉強の為だ。危ない、その目的すらも頭から消えてしまうところだった。

 学院内はガイラーさんに追われて、計らずも走り回ることになってしまったし、中庭、屋上といったお昼寝スポットでも彼女は見つからなかった。

「こうなったら、トリスタの町まで行くしか……」

 なんだか意地になってきた。

 これでフィーちゃんが見つからなかったら、私の一日は用務員さんに追いかけられた挙句に、自作の小説を渡されただけで終わってしまう。

 そんな時、正門からこちらに向かって走ってくる小さな影が。

「……あれはルビィちゃん?」

 そのままルビィちゃんは私の横を走り抜けていった。

 あら、口に何か持っていたような? いえ、とにかく今はフィーちゃんのことを。 

 正門を出て坂を下る。力の戻りきらない体を魔導杖で支えながら、こけないよう歩を慎重に進めた。下り坂で転倒しようものなら、今は止まれる自信がない。

 杖をこんな風に使っているからか、急に故郷のおばあちゃんが懐かしくなる。元気かな。少なくとも今の私よりは元気に違いないだろうけど。

 ふと顔を上げると、坂を必死に駆け上がってくるマキアスさんが見えた。

 ずいぶん汗だくだけど、どうしたのかしら。

「マキアスさん。ずいぶんお疲れの様子で……」

「ああ、実は色々あって――ってエマ君!?」

 私の憔悴した様子に、マキアスさんは目を丸くして驚いていた。

 けれど事情を説明する元気は、私には残されていない。

「お気づかいなく……ところでフィーちゃん見ませんでした?」

 そう尋ねると、マキアスさんは少し戸惑いながらも「あ、ああ。さっき礼拝堂で見たが?」と後ろを振り返った。

 礼拝堂は坂を下ってすぐだ。すでに建物自体も見えている。

 フィーちゃんが礼拝堂というのは意外だったが、すぐにある事に思い至る。

 昨晩ユーシスさんから、日曜学校の先生役をやることになったので使えそうな参考書を貸して欲しいと相談を受けていた。その授業場所はトリスタ礼拝堂と聞いている。

「ああ、なるほど。盲点でした。うふふ、今行きますよ~」

「あ、エマ君、僕も一つ。ルビィを見なかったか?」

「ルビィちゃん? 見ましたよ。さっき何かくわえて走って行きました。本校舎の裏手に回ってたので、中庭辺りでしょうか?」

 ルビィちゃんはやっぱり何かいたずらをしてたようで、おそらくマキアスさんはその被害にあったのだろう。私にお礼を言うと、彼は一目散に走っていった。

 今日は私だけじゃなくて、みんな走り回っているのかしら。

 

 

 ――15:30 

 礼拝堂に入ってまず視界に入ってきたのは、たくさんの子供達と、彼らに体中しがみつかれたユーシスさんの姿だった。そして子供達に交じって騒ぐミリアムちゃんとフィーちゃんの姿も。

 私は後ろからそっと近づいて、フィーちゃんの肩にそっと手を掛けた。つもりだったのだが、心とは裏腹に私の手はがしっと音を立てて彼女の肩を掴んでいた。

「フィーちゃーん? 探しましたよ~、うふふふ」

 ユーシスさんが戸惑ったように「い、委員長?」とこちらに視線を向けた。

「あら、ユーシスさん、一日先生は順調ですか?」

 見たところ上手くやっているようですね。子供たちも懐いているみたいですし。昨日貸した本が役に立っていればいいのですが。

 話は後日聞かせて頂くとして、ひとまず私はこれにて失礼します。ようやく会えたフィーちゃんを、子猫みたいに掴みながら。

「うふふ、お邪魔しました」

 フィーちゃんはちらりと私の顔を見ると、観念したように目を伏せた。

「……つかまっちゃった」 

「ええ、つかまえました」

 さあ、お勉強の時間ですよ。

 

 

 ――17:30

「はい、じゃあ次の問題です」

「ちょっと休憩……」

「休憩は五分前にしましたよ?」

 私は《キルシェ》のオープンテラスでフィーちゃんの勉強を見ることにした。

 学院の図書館まで戻るのも時間が掛かるし、何よりまたガイラーさんに遭遇したらどうすればいいか分からない。

 意外とオープンテラスでの勉強は新鮮で、フィーちゃんも飽きずに付いて来てくれている。次回からは屋外も活用していこう。

「ん。そういえばガイウス達大丈夫だったかな」

「心配いりませんよ。ガイウスさんお兄ちゃんですし」

「……根拠になってないと思う」

 つい先ほど、ガイウスさんが迷子の兄妹を連れて私達の所にやってきた。今から学院まで行くらしいけど、彼の面倒見の良さなら心配はいらないだろう。

 日が傾き、夕焼けがトリスタの街を赤く染めていた。そろそろ頃合いだろうか。

「じゃあ、フィーちゃん今日はこの辺にしておきましょうか」

「了解」

 あ、ほっとしてる。最近は無表情でもフィーちゃんの気持ちが何となく分かるようになってきた。

「でもちゃんと復習して、同じ問題で間違わないようにするんですよ」

「了解」

 あ、面倒だと思ってる。

 フィーちゃんはこの後園芸部に用事があるらしく、学院に向かい、特に用事もない私は一人寮への帰路へ着いた。

 今日はゆっくり休もう。でも何か忘れているような――

 あ、ガイラーさんの小説読まなきゃいけないんだった。

 

 

 ――20:00

 せっかく寮に帰ってきたのに、今日はトラブルばかりのような。リィンさん大丈夫だったかしら。

 今しがたのリィンさんの様子を思い出して、少し不安になった。

 大丈夫よね、おばあちゃんの秘伝だし。

「ふう……」

 部屋の椅子に腰かけ一息つくと、机の端に置いたそれに視線を向けてみる。

 ガイラーさんから渡された封筒。彼の執筆したという小説。内容は予想が付くようで、実のところ全くの未知だ。

 正直に言えば、封筒を開けるのが怖い。とは言え、

「やっぱり読まなくちゃ」

 それがどのような内容であれ、精魂込めて書き上げたのなら読まなくてはならない。しかも今回は私に、ということなので尚更だ。

 意を決して開封する。

 封筒の中から桃色とも紫色とも付かないオーラが噴出している気がするが、それこそ私の先入観が生み出した幻覚だ。そうに違いない。

 中には小説の原稿が三十枚ほど入っていた。文章は手書きで、かつ達筆ではあったが読めないことはなさそうだ。枚数から察するに短編だろう。

「では……拝読させて頂きます」

 一枚、二枚とページをめくっていく。物語の舞台は学校。主人公はその学校に勤める用務員だ。

「……はい?」

 いや、これはこれで新しい。学園物なら普通は生徒か教師が主役だろう。それをあえて第三者である用務員を主役に置くことで、客観的、多角的に物語を展開する手法か。ガイラーさんらしい、むしろ彼にしか書けない物語なのかもしれない。

 五枚、六枚と読み進める内に奇妙な点に気付いた。

 女子生徒が一人も出てこない。おかしいな。男子校なんていう設定ではなかったはずだけど。 嫌な予感がする。しかし今のところ内容は登場人物紹介の段階だ。

 そして十ページ目。内容は急展開を迎えた。

「えっ?」

 困惑して前のページを読み直す。変だ。ページが飛んでいるとしか思えない。だけどページの通し番号は合っている。

 どういうことだろう。さっきまで言い争いをしていた主人公とライバル的位置づけの男子が、いきなり用務員の胸に抱きついて号泣している。俺たちが間違っていたとか何とか言いながら。

「……え?」

 何が、どうなって、こうなったんですか? さっぱりわからないんですが。

 そして意味の分からないままに話は進み、最終的には用務員をめぐってクラスの男子全員がバトルロイヤルを繰り広げる始末。

 そして優勝者はなぜか乱入してきた体育教師。脈絡なく大団円でまとまり、物語は終わった。

「………」

 シャロンさんに紅茶を入れてもらわなくてよかった。きっと残らず机の上に吹き出していただろうから。

 無言のまま原稿用紙を封筒に戻すと、全く無駄のない動作で引き出しの奥深くに閉まった。今の心情に最も則した言葉を使うなら、封印だ。

 虚ろな意識の中で、何気なく天井を見上げた。

 今日はフィーちゃんに勉強を教えるだけのはずだったのに、ガイラーさんに出会って相当な回り道をすることになってしまった。

 とはいえガイラーさんの言葉が、私の心のどこかにあった引っかかりを外してくれたのも事実だ。

「そう、なんですよね」

 彼のおかげで、ほんの少し心が軽くなった気がしている。“本当”を伝えられなくても、それは“嘘”ではないのだと、そう気づかせてくれた。

 フィーちゃんに勉強を教えようと思っていたことも、ガイラーさんに追いかけられて大変だったことも。

 Ⅶ組の皆と過ごす日常を、何より大切に感じていることも。

 間違いなく私の本当の気持ちなのだから。

 

 

 ~FIN~


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