虹の軌跡   作:テッチー

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そんなⅦ組の一日 ~てんいやーずあごー

 

 ~七耀暦1194年~

 時にそれは10年前、まだ幼い彼らの何気ない一日。

 

 

――リィン・シュバルツァー(七歳)

 

「ふえええ」

「エリゼ、ごめんってば」

 ユミル地方、その山間に建つシュバルツァー邸。屋敷の一室からは少女の泣き声と、少年の焦る声が廊下にまで響いていた。

「にいさまがっ、あたしのお人形さんを……こわしたあ」

「わ、わざとじゃないんだ」

 二人の足元には、白いドレスを着た可愛らしい人形が落ちている。人形の片腕は肩部から折れてしまっていた。

 エリゼはひっくひっくと嗚咽交じりに泣き続けている。泣き止む気配は一向にない。

 そもそもの発端はエリゼがままごとで遊んでいる近くで、リィンがボール遊びを始めたことからだった。

 五歳になったばかりのエリゼの面倒を見ながら、リィンもリィンで部屋の壁にボールを当てたりして遊んでいた。

 しかし、適当に投げたボールが予期しない場所にあたり、あさっての方向に跳ね返り、見事狙ったかのようにエリゼの持つ人形を直撃してしまったのだ。

 驚いたエリゼは手にしていた人形を床に落としてしまう。しばし呆然としていたが、折れた人形の腕と自分と同様に固まった兄の顔を見ると、思い出したようにわんわん泣き出したのだった。

「ふええ! 手が取れちゃったあ~」

「エリゼ、ごめんな」

 泣き続ける妹と謝り通す兄。

「お、おいしいお菓子を取って来ようか?」

「うえええ~!」

「好きな絵本を読んであげるぞ」

「お人形さんがあ~!」

 リィンも何とか泣き止ませようとあらゆる手を尽くしたのだが、全ては徒労に終わり今に至っている。

「エリゼ~、頼むから泣き止んでくれよ……」

 リィンは汗だくだ。こういう時に頼りになる母親は今日に限って外出している。父親はいるが書斎で仕事をしているので、あまり邪魔はしたくない。そもそもエリゼを泣かしてしまったのは、他でもない自分。

 妹をなだめなるのは、兄の役目なのだ。

 小さな決意を固めたリィンは必死に考える。どうすればエリゼは泣き止むのか。

 原因は分かっている。壊れた人形だ。では人形の腕が直ればエリゼは泣き止むのではないか?

「よ、よし」

 リィンは人形を拾い上げた。取れた腕の部分を見てみると、樹脂で加工された材質で弾力性もあった。落ちただけで手が取れるとは思えないが、おそらく長く遊んでいる間に少しずつ痛んでいたのだろう。

 しかしそんなことを今のエリゼに言っても火に油を注ぐだけだ。とどめを刺したのは間違いなく自分なのだから。

「エリゼ、俺がこの人形の腕を直すよ」

 その言葉を聞いて、ようやくエリゼの泣き声が小さくなった。

「ほ、ほんとう?」

「ああ、任せてくれ」

 あれがあれば何とかなるかもしれない。

 リィンは部屋を飛び出すと、母親の部屋めがけて駆け出した。

「母さんはまだ帰っていないよな」

 母の私室の扉を開けて、そっと中に入る。

 目当てのものは棚の上にあった。だがリィンの身長では届きそうにない。引き出しを階段状にして登り、さらにそこから背伸びをして、ようやくその小さな箱を手にした。

 引き出しから降りようとした時、

「わ、わわ?」

 体重で棚が手前に傾き、引き出しの中身を床にぶちまけながら倒れてしまった。化粧品やアクセサリーなどの小物類が、床に勢いよく散らばる。

「………」

 ……誰も来ない。音には気付かれなかったようだ。一応屋敷内に使用人はいるが、父の意向で最小限の人数に留めている。

 基本的に母も家事や雑務を任せっぱなしにはしていない。だからこそ、この部屋に目当てのものがあるのだ。

「棚はあとで片付けよう。エリゼのところに行かないと」

 部屋に戻るとエリゼは泣き止んでいた。しかし、ぐすぐすと涙ぐんでいるのは相変わらずだ。

「……兄さま、それなあに?」

 エリゼがリィンの手にある小箱に目を向けた。

「母さんの裁縫道具だ」

 自分にできるかはわからないが、エリゼの為にはやるしかない。

 苦心しながら針に糸を通し、リィンは見様見まねで腕の接合を試みる。不安げに見守るエリゼ。

 だが人形の細腕を糸で繋げるなど七歳の、しかも初めて裁縫の真似事をするリィンに上手くできるはずもなく、

「あ」

 針が人形の腕を貫通する。

「ふえっ……えええん」

 泣き止んでいたエリゼが再び泣き出してしまった。

「だ、大丈夫だ、エリゼ。まだ方法はあるから」

 次にリィンが持ってきたのはテーブルランプだった。すでに火がついている。

「ぐすっ、兄さま、なにするの?」

「父さんに前教えてもらったんだ。壊れたところを少し溶かしてまたくっつけるんだ。“ようせつ”って言うんだって」

 リィンは人形の折れた断面を火に近づけてみる。すぐに熱が回り、炙った表面がぽこぽこと膨らみ始めた。

「ふえっ!?」

「だ、大丈夫だ。エリゼ、少しあっち向いていてくれ」

 人形をあくまで人間と認識しがちな五歳の少女にはやや刺激が強い。とりあえずエリゼの視界に入らない様にしながら、リィンは腕の溶接に集中する。

 今回は意外にも上手く行きそうだ。溶けた部分同士がくっつき始めている。接合部の継ぎ目やふくらみは冷えてから削れば、それなりの形にできそうだった。

 問題はストレートだった人形のブロンドヘアーが、熱で丸まって所々パンチパーマになっていることだが。

 最初からパーマだったぞ、で納得してくれるだろうか。

「いや、無理だ……」

「……兄さま?」

「な、なんでもないよ」

 とりあえず腕の修復は上手くいった。髪はくしで解かしてみるとして、一度エリゼに見せてみよう。

「エリゼ、ほら人形の腕直ったぞ」

「ほんと? やっぱり兄さますごい……え?」

 人形を受け取ったエリゼは違和感に首を傾げ、その原因に気付いた時、また瞳が潤みだした。

「髪なら大丈夫だ。シャンプーで洗えばきっと元に戻る」

 エリゼの視線は人形の髪には向いていなかった。腕の結合部よりさらに下。エリゼに合わせてリィンも目線を下げていく。すぐに分かった。腕の向きが逆になっている。関節上ありえない方に手が向いているのだ。

 断面に集中するあまり、気が付かなかった。繋がってはいるものの、これはこれで折れているのと同じだ。

 いけない。エリゼが泣く。

「ご、ごめん、エリゼ。俺が父さんや母さんの手伝いして、新しい人形を買ってもらえるように頼んでみるよ」

 エリゼは涙をこらえて、首を横に振った。

「いいの、兄さまいっぱいがんばってくれたから……あたしも泣いてごめんなさい」

「エリゼ……」

 リィンはエリゼの頭を優しく撫でてやった。

「えへへ」

 エリゼはやっと笑顔を見せる。丁度その時、自分達を呼ぶ母の声がした。

「リィン、エリゼ。今帰ったわ。お菓子を買ってきたからお茶にしましょう」

 その声を聞いて、二人はぱっと顔を明るくした。

「母さんが帰ってきたみたいだ。人形のこともお願いしてみるよ」

「兄さまありがとう」

 二人が部屋を出た所で、母親の絶叫が屋敷中に響き渡った。

「わ、私の部屋が? 棚が倒れて!? ちょっとリィン……こっちに来て話を聞かせなさい」

 ……忘れていた。

「エリゼ、人形の話はまた今度だ」

「兄さま?」

 今度は自分が泣く番だ。

 幼心に理解し、リィンは肩を落としたのだった。

 

   ●  ●  ●

 

 

――ガイウス・ウォーゼル(七歳)

 

 エレボニア、その北東方面にある高原地帯。かのドライケルス大帝が挙兵した地としても知られるノルド高原。

「ガ、ガイウスあんちゃん、高いよお……」

「すぐに慣れるさ。ほらしっかり手綱を持て」

 そこに暮らす遊牧民の集落、厚手の布で作られたテント式の住居のそば。ガイウスが四歳になる弟のトーマを馬に乗せていた。

「わ、動かないでよ」

「馬は動くものだ。走っている時はもっと揺れるんだからな」

「ひえ~」

 夕刻。羊と馬の世話も一通り済まし、空いた時間でガイウスはトーマの乗馬の練習に付き合うことにしたのだった。

 移動、運搬、その他を含めてノルドの民の生活は、馬がなくては成り立たない。ゆえに幼い頃から馬に慣れ、それを乗りこなすことは不可欠となってくる。

 とはいえ馬の世話をするのと、その背に乗るのとでは、同じようにというわけにはいかない。

「俺も初めて馬に乗った時はこうだったかな。ああ、あの時は父さんが付いてくれていたっけ」

「あんちゃん、もう下ろしてよお」

 涙目で訴える弟に肩をすくめ、ガイウスは体を支えながらトーマを馬の背から下ろしてやる。

「こ、こわかった。もう乗りたくないなあ……」

「そんなことを言っててどうするんだ。シーダが大きくなったらお前が馬の乗り方を教えてあげるんだぞ」

「そ、その頃には乗れるようになってるよ」

 どうだか、とガイウスは苦笑した。シーダというのは二人の妹で、今は夕餉(ゆうげ)の準備をする母親の背におぶられて眠っている。

「それよりもさ、ご飯まで槍の稽古に付き合ってよ」

「仕方ないな。じゃあ俺に勝てなかったらもう一回馬に乗る練習をするんだ」

「え、ええ~、ぼくがあんちゃんに勝てるわけないって~!」

 そんな兄弟のやりとりの最中、「遊んでいるのか?」と精悍な声が後ろから聞こえてきた。

「あ、父さん。馬と羊の世話はもう終わったよ」

 二人の父、ラカンが近付いてくる。

「あんちゃんに槍の使い方を教えてもらうんだ」

「そうか、よかったなトーマ。ただ騎馬槍術だから馬に乗っていることを前提とした技が多いぞ」

「やっぱり馬に乗る方が先だな」

 うええ、とトーマはうなだれた。

「トーマは母さんの手伝いをしてくるがいい。ガイウスには少し話がある。馬を用意してきなさい」

「……? わかったよ、父さん」

 程なくして、ノルド高原に二頭の馬の足音が響いていた。

 馬たちは尾をなびかせ、風を切って走る。前方を行くのがラカンで、その後にガイウスが続く。

 落ちかけた夕日が高原を黄金色に染め、北に連なる山脈の輪郭が淡い橙色に輝いている。澄んだ空気が肺を満たし、空を見上げると、まだ薄くはあったが星々の瞬きが見え始めていた。

 いつもと変わらず、いつも通りの、そして見飽きることなどない雄大な景色。

 ガイウスは馬を走らせながら、前方の父の背を視界に入れた。

 逞しく、大きく、力強い。トーマはいつも自分に勝てる訳がないと言う。でもそれは自分だって同じだ。父を超えるどころか、その背に追いつくことさえ、今はまだ遠いのだ。

(それでも、いつか……)

 ガイウスは馬の速度を上げ、ラカンに並んだ。

「父さん、三角岩まで競争しようよ」

「ほう、いいだろう」

 どこまでも続くノルド高原を疾駆する親子の影は、やがて大きな影が前へと抜き出た。

「ふふ、私の勝ちだな」

「……父さんには敵わないな」

 三角岩に先に着いたのはラカンで、少し遅れてガイウスが追いついた。

「いつか私もお前に抜かれる時は来る」

 その日を楽しみにしている、と付け加えながらもどこか寂しげに見える父の横顔を、ガイウスは訝しげに見つめた。

「父さん、話っていうのは?」

「……ガイウス。お前はノルドの民として誇りを持っているか?」

 誇り……と言われてもピンとこない。生まれた時から自分はこの地に暮らしている。ただ、確かに言えることは一つ。

「誇りっていうのは分からないけど、ノルドの大地は好きだな」

「そうか。――あれを見るがいい」

 父の視線の先をガイウスも見据えた。あれは知っている。カルバード方面を監視する塔だ。

「ノルドの地は広大だ。しかし地理的にいくつもの問題を抱えているのも事実。いつかそれが災いの元になるかもしれん」

 ガイウスは黙って父の話を聞く。耳ではなく、直接胸に届くような深い声音だった。

「今は分からずともいい。お前が大きくなった時、誇りの意味を知った時、ノルドの地を、民を――お前の弟と妹をしっかり守ってやって欲しい」

「難しくてよくわからないけど……トーマとシーダは俺が守るよ」

 ラカンは目元を緩めてうなずいた。

「それでいい。真っ直ぐに生きていれば、お前の力になってくれる友人にもいずれ恵まれよう。それに、弟妹がまた増えんとも限らんしな」

「うん、父さん」

「話はそれだけだ。さあ帰ろうか。夕餉の支度も出来た頃合いだろう」

 来た時とは逆に、今度は集落に向けて馬を走らせる。帰りはずっと父との並走だった。

 いろんな話をした。父の子供の頃の話、母との出会い、自分が生まれた時の話。自分の知らないことの全てがとても大きく感じた。

 さっき父はまた弟妹が増えることもあると言った。ふと思う。そういえばこれは聞いたことがなかった。

「父さん。どうやったら弟や妹は増えるんだ?」

 さっきまで色んな話を聞かせてくれていた父が、急に無言になった。

 馬の足音だけが、辺りに響き渡っている。

「父さん?」

 ガイウスが再び呼びかけると「それは……」とラカンの口が重々しく開いた。

 目は前に向けたままで父は言う。

「……風が運んでくるのだ」

「えっ?」

「ハイヤーッ!」

 馬を()り、凄まじい速度でラカンは高原を駆け抜けた。あっという間にその背が小さくなっていく。

「……父さん、どうしたんだろう。まあいいか、夕餉の時に母さんに聞こう」

 腹がぐうと鳴った。いつの間にかずいぶんと空腹になっていたらしい。さあ、自分も早く家に帰ろう。家族で囲む食事ほど美味いものはないのだから。

「ハイヤッ」

 ガイウスは手綱を手に、父の背を追いかけた。

 

   ●  ●  ●

 

 

――フィー・クラウゼル(五歳)

 

 どこかの国のどこかの川縁。紛争の火種は燻れど、戦火はまだ届いていないこの地。 

 それはまだ彼女が猟兵王に拾われる少し前のこと。

「くぁ……」

 目が覚めた。最初に視界に入ったのは青い空。聞こえたのは川のせせらぎ。草花の匂いが鼻から抜けていく。

 あくびをしてから、フィーは短い手足をぐっと伸ばした。

「んん……ねてたみたい」

 今日は何をしていたのだったか。ああ、そうだ。いつものように一人で川岸まで来ていたのだ。

 適当にその辺りに穴を掘ったり、意味もなく水路を引いて池だまりを作ってみたり、何となく木の枝を束ね合わせてみたり。そんなことをして時間を潰していたら、いつの間にか木陰で眠ってしまったのだ。

 まあ、それもいつも通りではあるのだが。

「……おなかへったな」

 川にはちらほら魚影が見える。魚を見ると余計に空腹感を感じた。

「おさかな、ほしいな」

 ちゃぷりと手を川に入れてみる。魚はあっという間にどこかに行ってしまった。さすがに五歳の少女の、しかも素手に掴まってくれるほど呑気な魚などいない。

 しゃがみ込んで、じっと水面を眺めていたが、フィーは結局あきらめることにした。

「……もう、行こうかな」

 そう呟いて立ち上がった時、

「すごいや! さすが兄さんだね」

 そんな声が耳に届く。

 視線を対岸に向けると、そこには見知らぬ兄弟が釣りをしている姿があった。どうやら今しがた魚を釣り上げたところらしい。

「こんな所まで足を伸ばした甲斐があったな。ケネスはどうだ?」

「僕はまだかからないや」

 その兄弟も子供だが、二人とも自分よりは年上に見えた。

 ちなみに兄が釣り上げたという魚は中々の大物だった。

「いいなあ」

 その言葉は魚を指して言ったのか、あるいは兄弟を見てのことだったのか。

「兄さん、見てよ!」

 ここで弟の釣竿にも当たりが来たようだ。

「よし、ケネス。落ち着いてリールを巻くんだ」

「う、うん」

 水面に激しく水しぶきが上がる。

「そうだ。そこで一気に引き寄せろ!」

「こ、こうかな?」

 しばらくの格闘の後、弟も魚を釣り上げた。先ほど兄が釣った魚には負けるが、それでも立派な大きさだ。

「さすがケネスだ。いつか僕の夢を手伝って欲しいくらいだ」

「兄さんの夢?」

「将来僕はレイクロード家を継いで、釣りの素晴らしさを世の人に広めていこうと思っている」

 頭をかいて少し照れくさそうにするが、弟は目を輝かせて、尊敬の眼差しを兄に注いでいだ。

「やっぱり兄さんはすごいや! 僕も大きくなったら兄さんの手伝いをするよ!」

「ああ、ケネスが手伝ってくれるなら百人力だ。二人とも釣れたし、そろそろ帰ろうか」

 釣り具を片付けて二人は川沿いに歩き出す。遠目にも仲のよい兄弟だった。

「……あ、そっちは」 

「なああああ!?」

 前を歩く兄の姿が突然地中に消えたのは、フィーがあることを思い出したのと同時だった。

「兄さん!?」

 そういえば、昨日は向こう側の川岸に穴掘りをしたんだった。

 そうだ。あれは“適当に掘った穴”の一つだ。

「な、なんでこんな所に穴が? しかも深いぞ! ……うわあ! 水がっ、水が流れ込んでくる?」

 そうだそうだ。何かが穴に落ちると、石で押さえていた栓がはずみで外れて、“意味もなく作った水路”から川の水が流れてくるんだった。

「まずい! ケネス、紐か何か掴まれるものを持ってきてくれ!」

「そ、そんな急に言われても――あっ! あったよ、兄さん。そばの木からロープがぶら下ってる!」

 弟はロープを手繰り寄せ、穴の中へと投げ入れた。

「助かった。これで! ……ん?」

 ぐいとロープを引っ張ると、急に手ごたえが弱くなる。

「くっ、紐が切れたか?」

 一瞬焦り、頭上を見上げた兄の視界に映ったのは、丸太程の大きさに寄り集められた枝の束。それが自分に向かって落ちてくる光景だった。

「ぎゃあああ!」

 うん、それであってる。紐を引っ張ると、“何となく木の枝を束ね合わせたもの”が落ちてくるんだった。

 メシャ、という音を最後に兄の声は聞こえなくなった。

「うわああ、兄さあん! だ、誰か呼んで来なきゃ」

 弟が急いで走り出す。

「あ、そっちも」

「うわあああ!?」

 あれは一昨日掘った穴だ。

「水がっ! 水が流れてくるよお! あっ、紐がある。これで……ぎゃああああ!」

 沈黙。そして静寂。

 辺りに聞こえるのは、鳥の声、風が木の葉を揺らす音、あとは川を流れる水の音だけだ。

「ん、しずかになった」

 対岸に兄弟の姿はもう見えないが、魚入れのボックスが置き去りのままになっている。

 確か大きめの魚が二匹入っていたはずだ。あんな所に置いたままだと魔獣が持って行ってしまうかもしれない。自分が適切に保護しないと。

 うん。今日はごちそうだ。

「……ぶい」

 

   ●  ●  ●

 

 

――ユーシス・アルバレア(七歳)

 

 クロイツェン州の中心都市、バリアハート。

 貴族の為に発展してきたと言われる洗練された町並みは、別名、翡翠の公都ととも呼ばれる。

 上流階級が集まるこの都において、さらにその上に位置するのが、この地方を治める領主――アルバレア公爵家だ。

 広大な敷地を誇る公爵家城館の、隅々まで整備が行き届いた中庭に、木剣の打ち合う音が響いていた。

「どうした、ユーシス。剣先が下がってきているぞ。もう疲れたのか?」

「そ、そんなことありません!」

 兄、ルーファス・アルバレア、十七歳。弟、ユーシス・アルバレア、七歳。

 それは兄が弟に剣の指南をしている光景だった。

 ルーファスは受け手に徹しており、ユーシスがひたすらに攻めている。

 稽古を開始して一時間あまり、未だユーシスの剣はルーファスに届かない。

「剣の流れが途切れているな。宮廷剣術は格式と伝統も兼ね備えている。ただ敵を倒すだけの蛮剣ではないぞ」

「はい、兄上!」

 ぐんと踏み込み、ユーシスはレイピアを模した木剣をルーファス目掛けて突き出した。

 しかしその一撃は容易く打ち払われる。

「あっ!」

 ユーシスの剣は手から離れ、くるくると回転しながら後方へと弾き飛んでいった。

「参りました……やっぱり兄上には届きません」

「そんなことはない。受け手の私が攻撃に回らざるを得なかった。ずいぶん上達しているではないか」

「い、いえ。そんな」

「ふふ、照れるでない」

 ルーファスは傍らに控える使用人に言う。

「ユーシスに汗を拭うものを。あと飲み物も持ってきてくれ」

 ユーシスは気付く。兄は汗もかいていない。

「では私は行くとしよう。このあと少し用事が入っていてな。そなたはゆっくりしていくといい」

「あ……はい。兄上、ありがとうございました」

 ユーシスが今日この屋敷に来たのは、母に連れられてのことだった。

 ルーファスとユーシスはいわゆる異母兄弟だ。本妻であるルーファスの母が暮らす屋敷に、妾腹の子であるユーシスとその母が住むわけにもいかず、現在二人はバリアハートの別宅で暮らしている。経済的な援助は十分なので、生活に困ることはない。むしろ裕福な方だ。

 世間体もあってか、さすがに放りっぱなしと言うわけにはいかないのだろう。月に一度程度、形式的な近況報告の場を設けられ、ユーシスと母は父であるアルバレア公爵に“謁見”を行うことになっている。

 ユーシスにとってはまったく気の進まない行事ではあるが、唯一の救いは兄であるルーファスにも会えることだった。

 本格的ではないにせよ、剣術や作法の心得を手ほどきしてもらうのが、ユーシスのささやかな楽しみになっていた。

 父への顔合わせを済まし、近況報告は母が行う。その間ユーシスは中庭で待っていて、そうしているとルーファスが声を掛けてくる、というのが通例の流れだ。

 兄は行ってしまったが、母はまだ来ない。今日はいつもより長いようだ。

「……馬舎の様子でも見に行こう」

 木剣を片付け、屋敷の裏手へと歩先を向ける。

 馬舎に着くと、ユーシスは一頭ずつ話しかけながら馬の顔を見て回った。

「この前見た時よりも今日は調子良さそうだな」

 次も。

「毛並が悪いな。ちゃんとエサを食べてるのか?」

 その次も。

「そろそろ蹄を切る時期だな。大人しくしてるんだぞ」

 ユーシスは馬が好きだった。自分を見返してくる目に曇りがないからだ。ここにいる自分をそのままの姿で捉えてくれている、そんな気がしていた。

 使用人の中には慇懃な態度こそ崩さないものの、明らかに自分を見る目が、他のアルバレア家の人間を見る時と異なっている者もいる。

 時折、父でさえもその目を自分に向けることがあった。

 そんな視線と目を合わせるのは苦痛だった。母に心配はかけまいと気付かぬ振りを貫いてはいるが。

「ユーシス、またここにいたのね。もういいの?」

 その声に振り返る。楚々とした佇まいで自分に近づいてくる一人の女性。

「兄上はもう出かけられるとのことで」

「そう、では私達ももう行きましょう」

「はい、母上」

 彼女はユーシスの手を取り、屋敷の外へと向かった。

 大きな門を抜け、バリアハートの市街へ出る。執事のアルノーが車を手配してくれてはいたが、母はそれを丁寧に断った。

「車に乗って帰りたかったかしら?」

「いえ、歩く方が好きです」

 短い言葉のやり取りの中に、互いを想う気持ちがある。ユーシスの方はいささか不器用ではあったが。

 手をつなぎ、白く舗装された石の道を歩く二人。

「そうそう。帰りに《ソルシエラ》に寄るわね。いいハーブが入ったそうよ」

 伯父のハモンドがオーナーを務めるレストランだ。ユーシスはそれを聞いて、心なしか嬉しそうな様子だった。

「あのハーブチャウダーが頂けるのですか?」

「ユーシスも連れていくって言ったら、腕によりをかけて作るって」

「それは楽しみです」

「そうね。お散歩がてらゆっくり行きましょう」

 道中。噴水のある中央広場に差し掛かった辺りで、ユーシスの目線がふと逸れた。

 噴水の周りで子供達が輪になって遊んでいる。おそらくは平民の子供達だ。

 すぐに視線を前方に戻したユーシスに、母が優しげな声音で問う。

「ユーシスはお友達欲しくないの?」

 少し考えた後、ユーシスは答えた。

「……多分、できないと思います」

 欲しくない、とは言わなかった。

 平民の血が入っているとはいえ、アルバレア家の者として生まれたのだから、傅く者も、畏まる者もいる。

 しかし同じ立場、同じ目線で気負うことなく話し、時には仲違いするくらいの、友人と呼べる存在が果たして現れるのだろうか。

 己の立場と、その難しさをユーシスは幼いながら知っている。

 それでも母は言う。半分は願いも込めて。

「いつかできるわ。きっとね」

 

   ●  ●  ●

 

 

――マキアス・レーグニッツ(七歳)

 

 帝都ヘイムダル、オスト地区。

 整備された大通り、緋色が印象的な街並みとは変わり、このオスト地区は下町を思わせる作りが未だに残っている。

 どこか懐古的な雰囲気のオスト地区の一角に、周囲のそれと比べるとやや大きな民家があった。

 レーグニッツ邸。帝都庁役人であるカール・レーグニッツと、その息子のマキアスが住む邸宅だ。作りが大きいとは言っても豪奢なわけではなく、むしろ内装に関しては簡素と表現する方がしっくりくる。

「父さん、まだかなあ」

 リビングのソファに腰かけるマキアスは、読み終えた本を横に置いた。

「もうそろそろだと思うわ。テーブルの上、片付けておいてね」

 独り言のつもりだったが、キッチンから応答が返ってくる。

「わかってるよ、姉さん」

 姉さんとは呼ぶが、近くに住んでいる父方の従姉だ。よく面倒を見に来てくれ、マキアス、カールにとっては家族同然の付き合いだった。ことマキアスに関しては彼女を実の姉のように慕っていた。

 “姉”は言う。

「それにしてもマキアスはいつも本ばかりねえ。同い年くらいの子と外で遊べばいいのに」

「時々は遊んであげてるよ。でもあんまり騒ぐの好きじゃないし」

 別に遊ぶ相手がいないわけではない。彼らの様にボールを追いかけ回し、転げ回るのが性に合わないのだ。

 かといって冷めた子供と言うわけでもなく、一応ボール遊びにもかけっこにも付き合いはする。しかし今一つ、皆と同じ様に騒げないのも事実だった。

 本を読む方が楽しい。姉と話す方がもっと楽しい。

「遊んであげてるとか言っちゃだめよ。まったくもう」

 姉は呆れ顔でマキアスをたしなめる。

 そんな話をしていると、玄関が開く音がした。父が仕事から帰ってきたのだ。

「お帰りなさい、父さん」

「お邪魔していますね」

「ああ、君もきていたか。いつも助かるよ」

 カールはネクタイを緩めながらマキアスのとなりに座ると、ビジネスバッグを目の前のテーブルに置いた。

「父さん、それなに?」

 ソファーの横に立てかけられた白い包み袋。

「はは、これでも隠してたつもりなんだが。マキアスへのおみやげだ」

 出張していたわけでもないのに、父がみやげとは珍しいことだった。

「ねえ、開けてもいいかな?」

「もちろんだ。気に入ってくれるといいんだが」

 丁寧に包み紙を開けていくと、箱のパッケージが見えた。真四角のボードに、色々な造形の駒がイラストされている。

「えっ……と、チェス……?」

 聞いたことはあったが、それを目にするのは初めてだった。もちろんルールも知らない。

「そうだ。ボードゲームの一種なんだが、戦術や駒の動きもあって中々奥深いんだぞ。まあ、詳しいことはルールブックが入っているから――」

 カールが言い終わらない内に、マキアスは説明書をめくり、食い入るように読み込んでいる。

「おーい、マキアス?」

「ポーンが一マスだけ前進、ビショップは斜め移動ができるのか。あと細かいルールは――」

「ふふ、もう聞こえていないみたいですね。コーヒーでも淹れてきましょうか?」

「ああ、頼むよ」

 最後のページまで読み進めたマキアスが、説明書をパタリとたたんだ。

「ルールと駒の動きを覚えたからチェスやろうよ。僕は白の駒を使うから」

「もう覚えたのか? よし、いいだろう。私が黒の駒だな」

 それから間もなく、盤上に駒を指す音が響く。

 黒が攻め、白が守る。白が攻め返し、黒が退く。

 黒と白の応酬の中、互いの駒の数が減っていく。

「ふうむ……」

 カールは驚いていた。

 先程ルールを覚え、初めてチェスを指す子供が、拙いなりに戦略を立て、戦局を変えようとしていることに。

 しかし結果は当然、

「チェックメイトだ」

「あっ!」

 白のキングが、黒のナイトとルークに進路を阻まれている。どう動いても逃げられない。

「私の勝ちだな」

「も、もう一回!」

「楽しそうね、マキアス。でも続きは夕飯を済ませてからにしたらどう?」

「ええー……わかったよ……」

 姉にそう言われて、マキアスは渋々ながらチェス盤を片付ける。

「マキアスは負けず嫌いだからな」

「そんなことない……と思うけど」

「友達でも誘ってやってみたらどうだ?」

「できそうな子はいないかな、多分」

 カールはふと気になり、マキアスに問う。

「マキアスにはケンカするぐらい仲のいい友達はいないのか?」

「ケンカするのに仲がいいの? いや、友達はいるけどケンカなんてしないよ」

 言葉の意味が分からず、マキアスは首を傾げた。

「ふーむ……」

 先のチェスにもその一端が垣間見えたが、マキアスは子供ながらに論理的な思考を持ち合わせている。

 だがそれは柔軟さを欠けば、頑なさにも繋がるものだ。

 対等の立場で言葉を交わし、時に感情を荒げるくらいに物を言い合い、自ずと見識を広げてくれる友人がいずれ必要になるのではないか。カールはそう思った。

「い、いや。そもそもそんな相手とマキアスが友人になるという前提が難しいか……」

「父さん?」

 チェス盤を片付け、皿の準備を手伝おうとしていたマキアスは足を止め、何やら頭を抱える父を見やった。

「ふふっ」 

 朗らかに笑いながらキッチンから姉が出てきた。

「心配症ですね。マキアスなら大丈夫ですよ」

 マキアスに寄り添うと、そっと肩に手を置いて彼女は言う。

「いつかできるわ。きっとね」

 

   ●  ●  ●

 

 

――エマ・ミルスティン(七歳)

 

「はあ……」

 読み終えた本をぱたんと閉じる。うっとりとして、エマはため息をついた。

 読んだばかりの本を抱えたまま、部屋のベッドにころんと寝転んでみる。

「ふう……」

 二度目のため息。彼女が手にしている本は恋愛小説だ。

 部屋の本棚には様々な種類の本がある。絵本もあれば図鑑もあり、娯楽小説もあれば、文芸小説もある。さらには難解な学術書まで置いてあった。

 もちろん全てを彼女が購入したものではない。買ってもらった物もあれば、譲ってもらったものもある。

 これだけ多様な本があっても、恋愛小説と呼べる本は今手にしている一冊だけだった。さきほどエマが書店で購入してきた、この一冊だけ。

 以前からずっと気になってはいたのだが、買うことはできなかった。なんだかそれが、とてもいけないことのように感じていたから。

 さかのぼること数時間前、ついにエマは意を決する。読んでみたい気持ちが少女の背徳感を押しのけ、その足を書店へと向かわせた。

 やたらと小難しい文芸小説二冊の間に、お目当ての恋愛小説をサンドイッチのように挟み込むと、知り合いがいないか慎重に店内を確認しながら、それをカウンターまで持っていく。

 馴染みの店主が、どことなくにやついた顔をしているのは分かったが、ひたすら下を向いたまま会計を済ました。そして本を受け取るや、全力で店の外に走り出した。

 家に入るときはシャツをめくり、服の中に本を隠した。そこから自分の部屋まで足音を立てずに進み、部屋に入ると慎重に、そして素早くドアを閉める。

 早まる鼓動の中、いそいそと机に向かって椅子に座る。しかし本を取り出すのはまだ早い。ちょっとした参考書とノートを脇に用意してからだ。勉強するのではない。不意にドアを開けられた時のカムフラージュの為だ。

 そうして全ての準備が整い、一つ姿勢を正して、エマはお腹に隠した恋愛小説を取り出したのだった。

 ――数時間後、現在。

「はあー、まだドキドキする」

 読み終えた結果。ため息はまだ止まらない。感想を一言で述べるなら、すごく良かった。

 こんなに素晴らしいものがあったなんて。いつか自分もそんな経験を……思いかけて顔が熱くなる。自分と小説のヒロインを重ね合わせるなど、年端も行かぬ少女には気恥ずかしいことだった。

「この本は宝物にしようっと」

 それでも気に入った。ちょっと背伸びした感もあるが七歳にもなれば、このくらいは読んでもいいだろう。いいはずだ。いいに違いない。

 しばらく恋愛小説の余韻に浸っていたエマだったが、唐突にあることに気づき、ベッドから跳ね起きた。

「この本どこに置こう……」

 それが問題だった。身内にはもちろん見られたくないが、困ったことに自分の部屋には鍵がついていない。時々祖母が不意打ちで入ってきたりもする。

 本棚みたいに目立つ場所には置いておけない。

 となれば、

「……隠さなきゃ」

 どこかにいい隠し場所はないかと、部屋の中を見渡してみる。

「ここはどうかなあ」

 ベッドの下は……ダメだ。定番過ぎる上に、ほうきで掃かれたら一撃だ。まあ、おばあちゃんはあまり掃除をしないけど。

「んー」

 ならば枕カバーの中に……これもダメだ。というか頭がごつごつしてさすがに眠れない。

「うー」

 木を隠すには森の中、あえて本棚に置いてみる。うん、目立たない。多分気づかれないと思う。

「……」

 しかし異様に気になる。五分と部屋を出ていられない。まったく落ち着かない。

 ここもダメだ。

「どうしよう。……あ、そうだわ」

 エマは本棚から一冊の本を取り出した。以前読んだ推理小説だ。犯人が証拠の品を、あらゆる場所に隠蔽するのが印象的だったのを覚えている。これを参考にすれば、いい隠し場所が作り出せるかもしれない。

 全ては大切な宝物を守るためだ。

 エマは推理小説をペラペラとめくりながら隠し場所を考えた。

 あれやこれやと、試行錯誤を重ねて一時間。

「こ、ここなら見つからないかな」

 満足気に額の汗を拭う。

 様々な方法を試してみたが、最終的な隠し場所はここにした。

「机の引き出しの一番下の段……のもう一つ下」

 机の引き出しを取り外すと、床と引き出しの下部との間にわずかなスペースができる。ここなら通常の掃除でもまず開かない。さらに小説をそのまま置くことはせず、辞書の保護カバーの中に入れておくという隙のない二段構え。

「うん! できたっ」

 これで秘密は確実に守られる。隠し場所としては完璧だ。きっとセリーヌにもわからない。

 安心したエマは小説を取り出して掲げてみた。表紙を見ただけで思わず頬が緩んでしまう。

「いつか私もこんなお話を書いてみたいなあ」

 ふと少女が抱いた小さな夢。

 私だったらどんなお話を作るだろう。

 魔法使いの女の子とかっこいい騎士様のお話なんてどうかな。

 そんな物思いにふけりかけた時、扉が半開きになっていることに気付いた。

「あ、いけない。ちゃんと閉めとかないと……――!?」

 半分開いた扉の先から、祖母が立ってこちらを見ている。がっちり目が合った。見た目の年齢は自分とそう変わらないおばあちゃん。

 薄闇の廊下にたたずむ祖母――ローゼリア・ミルスティンはにやりと笑みを浮かべた。

「い、いつからいたの? こ、これは違うのっ」

「ほう、なにが違うんじゃ?」

 絹のような金髪をくるくると弄びながら、ローゼリアは言う。その声も見た目同様、可愛らしい少女の声音だ。赤い瞳がエマの抱えた小説に向けられている。

「あのっ、えとっ、だからっ、つまりっ……」

「ほうほう。(わらわ)に内緒でいかがわしい書籍を購入したと?」

「いかがわしくないから!」

「いつの間にやらませたのー。おませさんじゃのー。どれ、ヴィータにも教えてやるかの」

「や、それはダメ!」

「午後の修業に遅れるでないぞ。ふふん」

 エマの抗弁に聞く耳持たず、ローゼリアは足取り軽く去って行ってしまった。

 その場にぺたんとへたり込むエマ。午後にどんな顔をして修行場に行けばいいのだろう。絶対集中できない。

 しばらく一人で悶々としていると、扉の外でどさりと重い音がした。

 ショックの抜けきらない体のまま、ふらふらと部屋から出てみる。廊下に読み古された年代物の恋愛小説が山積みで置かれていた。

 思う存分に読むがいいということだろうか。

「あうう……」

 嬉しいけど、やっぱり恥ずかしい。エマはさらに顔を赤らめた。

 

  ●  ●  ●

 

 

――エリオット・クレイグ(七歳)

 

 帝都ヘイムダル。アルト通りに面した邸宅の一つから、柔らかなピアノの音色が聞こえていた。

 リビングに設置されているグランドピアノ。そのしなやかな指が鍵盤を叩くと、音の連なりが一つの曲となって、流れるような旋律を奏でている。

 エリオットも、姉のフィオナも、母の演奏が大好きだった。

 エリオットはバイオリン、フィオナはフルートで、即興でピアノに合わせて演奏を始める。親子の三重奏が、アルト通りに響かない日はなかった。

 ふとピアノの音が止まる。

「お母さん?」

 エリオットはバイオリンをあご当てから離して首をかしげた。

「いけないわ、もうこんな時間、今日は――」

「あ、お父様が帰ってくる日!」

 フィオナが言った。今日は父親がガレリア要塞での勤務から戻ってくる日だ。

 オーラフ・クレイグ。強面で体躯も大きく、初対面の相手はまず緊張するであろう風貌をしている。

 もっとも実の所は、妻を愛し、娘を愛し、息子を愛する、家族想いな一人の父親なのだが。

 少なくとも子供たちにとっては威厳はあれど、怖い父親というわけではない。むしろ優しい、ともすれば甘いくらいだった。時折頑固なところもあるにはあるが。

 数少ない父の帰宅は、エリオットもフィオナも楽しみな日として指折り数えている。

「お母さんは駅まで迎えに行ってくるわね。二人はどうする?」

「僕は一緒に行く――」

「私とエリオットはお留守番してる!」

 エリオットが言いかけて、フィオナがかき消す。

「え、僕……」

「お父様が帰ってきたら驚かすの。だからエリオットは私とお留守番するのよ」

「あら、そうなの? ふふ、お父さんも喜ぶと思うわ」

 おろおろとするエリオットをよそに、手早く身支度を整えた母は、急ぎ足で玄関から出て行った。

 家の中には姉弟の二人だけだ。

 母を見送った後、エリオットはフィオナに訊いた。

「ねえ、お姉ちゃん。お父さんを驚かすって何するの?」

「久しぶりに会うんだもの。まずはおめかししないといけないわ」

 フィオナは自分の部屋に戻るなり、よそ行き用の服を引っ張り出しては何着も着替え直していた。その都度エリオットに「ねえ、これはどうかしら」などと意見を求めながら。

「う、うん。いいと思う」

「でもこれじゃないわ」

 エリオットがいくら肯定の感想を述べても、フィオナは納得しない。しばらくあれやこれやと召し変えたあと、結局お気に入りの服に落ち着き、鏡の前でくるくると回っている。

「ねえ、エリオット。これはどう思う?」

「……それがいいと思う」

「私もこれがいいと思うわ」 

「だよね」

 ようやくフィオナの“おめかし”が終了する。

 やっと終わった。肩の力を抜いて、エリオットはピアノに立てかけていたバイオリンへと向かった。

 お父さんが帰ってくるまで何か弾こう。そんなことを思っていたエリオットに、背中からフィオナががしっと抱き付いてくる。服が決まって上機嫌なのか、頬ずりまでしてきた。

「お、お姉ちゃん、やめてよお」

「かわいいエリオット。お姉ちゃんがもっとかわいくしてあげる」

 嫌な予感。しかし抵抗はできない。まるでぬいぐるみにそうするかのように、むぎゅーと抱きしめられているのだ。

 エリオットはそのまま二階、フィオナの部屋に連れ去られてしまった。

 部屋の中からは、どたばたと騒々しい音が続いている。

「逃げちゃダメよ」

「や、やだよお」

「これをこうして」

「うわーん、お母さーん」

 ――三十分後。両親がそろって帰ってきた。

「お父様、お帰りなさい!」

 フィオナはパタパタと階段を駆け下りて、父の胸に飛び込んだ。オーラフは豪快に笑い、愛娘を抱きかかえる。

「おお、フィオナ! 元気だったか。うーん、前に会った時より美人だぞ」

「あなたったら、フィオナに会う度に言ってますよ」

「お父様、おひげくすぐったいよー」

 オーラフはそっとフィオナを床に下ろすと、きょろきょろと辺りを見回した。

「んん? エリオットはどうした?」

 あごをしゃくったオーラフに、フィオナはいたずらっぽく笑いかけた。

「エリオットー、出ていらっしゃーい」

 そう呼ぶと、フィオナの部屋の扉が静かに開く。しかし開いただけで誰も出て来ない。

「もう、エリオットったら」

 フィオナは二階に駆け上がり、部屋の中のエリオットの手を引いた。

「やっぱり、嫌だよお」

 首を振りながらも、エリオットは部屋の外へと引っ張り出される。

「なんと……!」

「あ、あなた……!」

 その光景に両親は目を丸くして、口を開いたまま静止していた。

 エリオットは子供用の白いカジュアルドレスに身を包み、橙色の髪には青いリボン、前で組んだ手にはフィオナ愛用の小物入れを、恥ずかしさを紛らわす為か、ぎゅっと掴んでいる。しかしその動作は逆に愛くるしさを引き立てていた。

「て、天使……」

 オーラフはまばたきさえも忘れて、まるで女神に祈る様に両手を高く掲げている。

「フィオナ、素晴らしいわ。そういえばお化粧道具が引き出しに……」

「ねえ、エリオット。次はこのスカートにしてみない?」

「うわあああん、やだよおお」

 音楽と愛に包まれた温かい家庭。

 まだ幼いエリオットに、その愛は深すぎたのだった。

 

   ●  ●  ●

 

 

――アリサ・ラインフォルト(七歳)

 

 ノルティア州領内、ルーレ市。

 お気に入りのワンピースに身を包み、町中を歩くブロンド髪の少女。その足取りはどこか活気がなく、表情も明るいとは言えない。

「ここ……どこなの……?」

 一人不安気につぶやく。

 ルーレは街そのものが、いくつかの層に分かれた巨大な建造物と見ることができる。住み慣れた住人でさえ一つ道を脇に逸れれば位置感覚がわからなくなるほどだ。

 それが子供となれば尚更のこと。

 ブロンド髪の少女――アリサ・ラインフォルトは例によって迷子になっていた。

「だいじょうぶ。うちのビルは街の真ん中にあるんだもの。それに見えてるし」

 不安を払うように、自分に言い聞かす。

 迷子になるのは初めてではない。だからこういう時の対処法も心得てはいる。

 幸いというべきか、彼女の家はかのラインフォルト本社――その最上階のフロアが住居スペースだ。だから基本的に街のどこにいても、目印となる家は見えている状態である。

 だが今回は普段と勝手が違っていた。

「あ、あれ?」

 視界に映る巨大なビルを目指して直進する。しばらく道なりに進んでみるも、行き止まりにぶつかってしまった。

「もー、なんでこんなところに壁をつくるの?」

 コンクリートの壁をぺしぺし叩いたあと、アリサは来た道を引き返す。別に他の道を探せばいいだけだ。

「むー、おかしいわねー」

 来た道を引き返しただけなのに、見たことのない風景になっているような。

 何度も確認するが目印は見えている。しかしそこを目指そうとする度、道は曲がりくねって自分を予期せぬ方向へと誘うのだ。

 かれこれ一時間は歩き続けただろうか。近づくどころか、遠のいている気さえする。

「……ぐす」

 泣いちゃいけないと思って上を向く。涙がこぼれないようにするにはこれが一番だ。

 霞んだ空。くすんだ雲。太陽が隠れてしまっているから少し肌寒くも感じる。 

「今日はいい日のはずなのに……」

 何日も前からカレンダーに印をつけて、とても楽しみにしていた日。それがちょっと遊びに出ただけでこんなことになるなんて。

「……知らない人には道を聞いちゃいけないし」

 ラインフォルトグループの令嬢。幼いなりに自分の立場は分かっているつもりだった。

 基本的に本社周りの一帯は顔見知りの人達が多い。だが少し離れた下請け工場側に行くと、そうとは限らない。

 問題になるのは、自分が相手を知らなくて、相手が自分を知っていることだ。

 物心つく頃にはすでに誘拐の危険性と、自分にその可能性があることを教えられていた。

 だから一人で遊ぶ時は部屋の中。外に出ても本社周りだけ……だったのだが。

 ――もしかしたら今日は浮かれていたのかもしれない。

「くしゅんっ」

 寒い。誘拐の一語を思い出してしまい、背筋もうすら寒くなった。

 周りは装飾の欠片もない無機質な趣きの工場ばかり。さらに人通りもない裏路地。鋼鉄を加工する機械的な音だけが妙に大きく響き、心の中をざわつかせる。

 ガタンガタン。ドンドン。ぐるるる。

 機械音に混じって聞こえた、明らかに生物の唸り声。

「えっ?」

 どきりとして後ろを振り返る。少し離れた所に、歯茎を見せながら牙を剥く犬が見えた。首輪はしておらず、体は煤けて灰色に薄汚れている。

 野犬だ。ルーレに? いや、あり得る。裏路地は領邦軍の見回りも甘い。街道から餌を求めて紛れ込んだのか。

「あ、あ……」

 野犬が自分を見ている。中型犬。しかし少女にとっては大型犬と言っても差支えない大きさだ。

 恐怖を押し込め、震える足を抑え、荒い息を整え、アリサはワンピースの裾をぐっと掴んだ。

「あ、あたしはアリサ・ラインフォルト。犬なんかこわくないもん。あ、あっちにいきなさいよ!」

 再び唸った野犬は身を屈めた。後ろ足に力を入れているのが分かる。

 飛びかかって来る気だ。

「や、やだ……だれか……」

 この期に及んでも、“助けて”の一言が吐き出せない。環境が育んだ気丈さが、知らずの内に見えない枷となって彼女を縛っていた。

 ふとユミルで出会った彼のことを思い出した。雪道で迷って泣いていた自分に声をかけてくれたあの黒髪の少年。

 あなたになら助けてと言うことができるかもしれないのに――

 犬が地面を蹴って跳躍した。大きな牙が迫ってくる。

「やあああ!」

 アリサが固く目を閉じた時、バキッと鈍い音が聞こえた。続く野犬の悲鳴。

 両の肩を誰かに掴まれた。強張りながらも恐る恐る目を開ける。

「あ……!」

「大丈夫なの、アリサ! ケガは!?」

 普段の凛とした様子からは想像できないほど狼狽し、自分を強く抱く自分と同じブロンド髪の女性。

 近くには手の平大の石が転がっていた。

「だ、だいじょうぶ。ありがとう、かあさま」

 母、イリーナだ。

 彼女は野犬に向き直る。石をぶつけられた野犬は怯むどころか、敵意をあらわに太く低い唸り声を上げていた。

 怯えるアリサを自分の後ろに隠し、イリーナは腕を組んで野犬を見据えた。

「うちの娘に手を出そうなんて、頭の足りないワンちゃんね」

 冷気を孕んだ鋭い視線が野犬を射抜く。

「ほんと、呆れるわ」

 かつかつとヒールの踵を打ち鳴らし、イリーナはゆっくりと野犬に近づいた。

 圧倒的なプレッシャー。

 それが何を意味するのかは分からなかったが、その野犬には確かに見えていた。この女性の背後に数百とも言える戦車が隊列を組み、その砲塔が全て自分に向けられている光景が。

 野生の本能が告げる。逆らうな、ただ逃げろ、と。

「うちの工場のベルトコンベアーに乗せてあげましょうか。ラインを一週する頃には多少は従順になっていてよ?」

 ダメ押しの一撃。『きゃん!』と細く鳴くと、それこそ大砲で発射されたような勢いで、野犬は街道側へと走り去った。

 戻ってきたイリーナは、アリサの手を優しく握った。

「ダメじゃないの、こんなところまで一人で来たら」

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 涙声で謝るアリサを一撫でし、イリーナは「ほら」と視線を道の先へと向けた。

 遠くに笑みを湛え、眼鏡をかけた優しげな男性が手を振っている。

「あ! とうさま!」

 一転して笑顔になったアリサを見て、イリーナは嘆息をつく。

「今日は仕事を早めに終わらして、家族で一緒に食事をするって約束でしょう。ほら、父様の所に行く前に顔をお拭きなさい」

 ハンカチで泣き顔を拭うが早いか、アリサは大好きな父の元へと走った。

 左手は母に、右手は父に、しっかりと握ってもらったまま、アリサは満面の笑顔を浮かべた。もう寒さなど少しも感じなかった。

「というかあなた。アリサが危なかったんだから、走るくらいはしたらどうなの?」

「君がすごい勢いで走るものだから気圧されてしまってね。何と言ったかな、あれ。ああ、そうだ、ラクロスの選手みたいだったよ」

「あはは、らくろす~!」

 アリサは両親の間でぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「もう……アリサのお目付け役に専属メイドでも欲しいわね。いい人がいればだけど」

「そういえば、おじいさまは?」

「もう店で待ってるわよ。店員の女の子にちょっかいかけてなければいいけど」

「あまりお待たせするのもいけないね。さあ、早く行こうか」

「うん!」

 いつまでも心に残る幼い頃の思い出。

 何気ない日常の一ページを、彼女はこの先も忘れることはない。

 

  ●  ●  ●

 

 

――ラウラ・S・アルゼイド(七歳)

 

 帝国南東部、エベル湖の湖畔にある小さな町、レグラム。

 湖畔に面した丘陵の上に建つ屋敷が、この町を治めるアルゼイド子爵邸だ。

 時刻は夜中の二時。屋敷の人間は使用人も含めて寝静まっているこの時間。廊下にひたひたと小さな足音がしていた。

 まだ襟首までしかない後ろ髪をくくって、普段の稽古着に身を包んだその手には、練習用の木剣が握られている。

(今日こそは……)

 ラウラ・S・アルゼイド。アルゼイド家の息女であり、彼女もまた剣を学ぶ身である。

(父上に一太刀いれるのだ)

 父の名はヴィクター・S・アルゼイド。その実力は帝国内でも三指に入ると謳われ、“光の剣匠”を冠するアルゼイド流の筆頭伝承者である。

 当然ではあるのだが、ラウラは父に対して一本を取ったことはない。

 そもそも唯一まともに切り結べる執事のクラウスでさえ、父に決定打を与えたところを彼女は見たことがないのだ。

 父は言った。私に隙があればいつでもかかって来て構わない、と。

 ラウラは思った。ならば、遠慮なく。

 しかしヴィクターに隙はなかった。

 日常の中で何気なく背後を取ってみるも、背に目がついているかのように油断の欠片さえ見えない。

 趣向を変えて、『父上、肩をお揉みいたします』と接近を試みてみたが、『ならばまず背に隠してある木剣を置くがいい』と一瞬で看破されてしまったこともある。

 とにかく敵わない。だが生来の気性もあってか、諦めるという考え自体、ラウラの頭に浮かぶことはなかった。

 あれこれ一生懸命に考え、出した結論――すなわち、もっとも隙が出来るであろうタイミング。それが、

(父上だって眠っている時は隙があるはず)

 今回の奇襲作戦はクラウスにだけ伝えてある。話してみたところ、存分にお試しなさいと笑って承諾してくれた。もっとも承諾などなくともラウラは実行するつもりではあったが。

「……んー」 

 普段ならばラウラとてとっくに眠っている時間だ。

 一応稽古の合間を縫って昼寝はしたのだが、やはり眠い。重たいまぶたを一擦りして、足音を立てぬよう父の寝室を目指す。

 寝室の前に着き、扉に耳を当ててみる。寝息が聞こえた。間違いなく眠っている。

 そっとドアノブを回し、扉をゆっくりと開けた。部屋の奥にベッドに父が寝ている。

(し、慎重に)

 武道の足運びは拙いながらも心得ている。重心を崩さない様に、後ろ足で前足を押し出すようにして歩くのだ。

 一歩、一歩。わずかな物音はもちろん、呼吸もなるべく抑えて、平常心を保つ。父のこと、こちらの攻撃的な気を感じて目を覚ますかもしれない。

「むう……」

 ヴィクターがベッドの上で身じろぐ。ラウラはびくりと肩を震わした。起きたか? ……いや、大丈夫。まだ寝息が聞こえる。

 もう少しで一足一刀の間合い。

「ふっ、ふはは」

「……!?」

 急に笑い声を上げたヴィクター。

 つい木剣を落としそうになったが何とかこらえる。

 しばらくするとまた寝息が聞こえてきた。今のも寝言だったのか。父の寝言など初めて聞いたが、何と豪快な。さすがは《光の剣匠》、就寝中でさえも威厳に満ちている。

(いけない、今は――)

 そんな父を誇らしく思うが、しかし今は真剣勝負の最中だ。雑念を吹き消し、ラウラはさらに一歩踏み出した。 

 入った。自分の間合いだ。あとは勢いで――!

「父上かくごーっ!」

 構えた剣を力いっぱい振り下ろす。剣先はばふんと音を立ててベッドを叩いた。

「え!?」

 今の今まで眠っていたはずの父がいない。

「ふふ、奇襲で掛け声はよくないぞ」

 稽古着の首根っこを掴まれ、ひょいとラウラは持ち上げられた。

「ちっ、父上? どうして……」

 どんな体捌きを使えば、こんな至近距離で悟られずにベッドから身を起こすことができるのだ。

「中々いい作戦だったが、まだまだだな」

「んんー」

 持ち上げられたまま、それでもラウラは四肢をじたばたと振って何とか木剣を当てようとする。それを難なくかわしながら、ヴィクターはラウラに言う。

「まず振り上げてから剣先の初動までが遅いな」

 じたばた。

「あと踏み込みが雑だ。しっかりと後ろ足を使って体を前進させよ」

 じったばった。

「あと気が急いて姿勢が崩れておったな。あごを引き、背筋を伸ばすのだ」

 じったんばったん。

「ええい! 少しは落ち着くがいい!」

「うぅ……」

 また届かなかった。あんなにいっぱい考えたのに。遅くまで起きてがんばったのに。

 幼いなりの悔しさと情けなさが込み上がって来て、視界が滲んでいく。

「む! ぬうう!?」

 突然ヴィクターの顔が険しくなり、ラウラを掴む手を離した。

 よく分からないが、なぜか解放された。泣きそうになったから? いや、父に限ってそれはない。

 ぱっと飛び退き、木剣を構え直したラウラの視界に暗がりから父の両足首をつかむ二本の腕が見えた。

 ぬっと、ベッド下からクラウスが顔を出す。彼は平然とした口調でこう言った。

「こんなこともあろうかと」

 さすがに意表を突かれたらしく、ヴィクターは自分の股下から顔をのぞかせる老執事を見下ろした。

「クラウス、そなたいつから忍んでおった!?」

「おそれながら、旦那様が夕食を召し上がっておられる時分にはすでに。ベッド下にて気配を殺し続けてはや六時間、ついにこの時が参りましたな」

「どうも姿が見えんと思えばそういうことか……!」

「皆の者。お嬢様の力になるのです」

 扉から木剣を構えた門下生たちが、雄叫びをあげて押し入ってきた。クラウスからラウラの夜襲の話を聞き、その力添えに名乗りを挙げた者達だ

「行ってまいります!」

「命を賭して隙を作りますゆえ!」

「我らの屍を踏み越えていきなされい!」

 口ぐちに勇ましく叫んで特攻する男たち。

「そなたたちにかんしゃを!」

 彼らに続くべくラウラも気持ちを引き締めた時、先陣を切った門下生達が束になって、自分の左右、そして頭上を吹き飛びながら戻ってきた。

「おさらばでございます!」

「命ここに尽き果てたゆえ!」

「とりあえずお踏み下されい!」

 通り過ぎ様、そんなことを口走りながら。

「なにしにきたのだ、そなたたち……」

 呆然としていると、ずりずりとクラウスを引きずりながらヴィクターが近付いてきた。大きな手がラウラの頭めがけて伸びる。

「っ!」

 身を固くしたが、父の手の平は優しく自分の頭を撫でていた。

「そなたは誰からも好かれているのだな。嬉しく思うぞ」

 ヴィクターはラウラを両腕で抱きかかえると、床に伏したまま呻き声をあげる門下生たちに告げた。

「今回の件は不肖の娘に力添えしただけのこと。今から朝まで練武場の掃除をすることで不問に致そう。さっそく取り掛かるがよい」

 未だ足腰の立たない門下生達は、這うようにして部屋から出ていく。

「クラウス、そなたもだ」

「謹んでお受けしますぞ」

 足元で答えたクラウスは落ち着いた動作で身を起こし、丁寧に一礼すると自らも練武場に向かった。

「ち、父上。その……わたしも練武場の掃除に」

「ふむ。そういえば最近一緒に寝ていなかったな。たまには父娘水入らずで過ごすのもよかろう」

 ヴィクターはラウラを抱えたままベッドへと戻る。

「父上……ラウラはもう七歳ですので……は、恥ずかしいのですが」

「七歳で父離れなどと、寂しいことを言うでない」

「ですが……」

 しかし温かい毛布が掛けられると、急に眠気がやってきた。神経が張っていたから気付かなかったが、本当はものすごく眠たかったのだ。

「ん……」

 やっぱり今回もダメだった。次はどうやって一本取ってみようか。やはり地道な稽古が一番の近道なのかもしれない。

 ヴィクターの腕の中でいつの間にかラウラはうつらうつらと舟を漕ぐ。

 目を覚ませば、また厳しい稽古が待っている。別に辛いとは思わない。自分の意志でやっているのだから。

「……父上……」

 それでも彼女はこの束の間、剣の事を忘れることにした。

 うん。こんな時くらいは父に甘える娘でもいいだろう。

 

   ●  ●  ●

 

そんなⅦ組の一日~てんいやーずあごー 

~FIN

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
まずですが、本編で亡くなっている方々、十年前ほぼ全員ご存命です。加えて何名かの背景説明を。
リィン……シュバルツァー男爵に拾われて二年が経過。本人の談より、その頃はすでにエリゼも懐いている。
ユーシス……母存命。本人の談より、アルバレアの屋敷には住んでいないが(母が亡くなってから引き取られた)一応交流はあった。なので、あのような設定になりました。
エマ……町なのか村なのかも不明。でも本屋くらいはあるよね? 
アリサ……父存命。シャロンはまだラインフォルト家には来ていない
フィー……唯一出来事の年代が不明確。ただ傭兵王に拾われる一枚絵のフィーはさすがに五歳以上。本人の談より「両親のことは覚えていない」。しかし五歳が一人で生きていけるとは考えにくいので、孤児院などの施設にいたのではと推測。そんな背景の中での話です。
{IMG114700}
マルガリータ嬢の話が激しかったので、前回の部活紹介はほんわかしたのをと思っていたら、ミスティさんが主役だった為、予想以上に妖しい雰囲気に。なので今度こそ柔らかい話を――というコンセプトでした。
一つでもお気に入り頂けた話があれば嬉しい限りです。

次回もお楽しみ頂ければ幸いです。

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