虹の軌跡   作:テッチー

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A/B 恋物語(前編)

 

――9月13日、月曜日。

 それは日曜学校の先生をやったり、チェスの駒を探して走り回ったり、用務員に追いかけ回されたり、猛将に仕立てあげられたり――Ⅶ組の面々が様々なトラブルに見舞われた次の日のこと。

「あれ、誰もいないのか」

 放課後。Ⅶ組の教室に戻ってきたマキアスは閑散とした教室を見渡した。

 この時間であっても誰かいることの方が多いのだが、今日はそうではないようだ。

 Ⅶ組の誰かに用事があったというわけではないので、それで別段困ることはないのだが。

 第二チェス部に顔を出したものの、部長のステファンは今日来られないらしく、それで何とはなしに教室まで戻ってきただけである。

「まあいいか。今日は早めに寮に帰って――うわっ!」

 廊下に振り返ると、いつの間にかマキアスの後ろに一人の男子生徒が立っていた。

「すまない。驚かすつもりはなかったんだ」

 驚いて声をあげるマキアスに、男子生徒は申し訳なさそうに謝った。

「あ、ああ、いやこちらこそ済まなかった。ええと……」

 ずれかけた眼鏡の位置を正し、マキアスは彼を見返した。

 真っ直ぐな瞳に、さっぱりとした短髪。第一印象では、実直で生真面目そうな性格に見える。緑服なので平民生徒だろう。

「教室にリィンいるかな?」

「リィンの知り合いか。教室には今誰もいない。それにリィンは体調悪そうだったから、もう寮に帰ったみたいだぞ」

 リィンは今日一日体調不良だった。気力で授業を乗り切ったようだが、さすがに体力は尽きていたのだろう。ガイウスとユーシスが肩を借し、リィンを寮まで連れて帰るところをマキアスは見ていた。

 多分、川に飛び込んだせいだ。

 マキアスだけはリィンが風邪を引いた原因を知っている。しかし川にダイブした理由は未だに不明のままだ。

 さらにどういうわけかリィンに警戒されているらしく、詳細を聞こうにも近づけない雰囲気だった。ちなみに警戒していたのはアリサもだが。

「そうなのか……なら仕方ないな。また出直すことにするよ」

 男子生徒は心なしか肩を落としている。

「何か相談ごとだったのか?」

「ああ、まあちょっとした――」

 なぜか言い淀んでいる。相談ごとというか悩みごとだろうか。

「よかったら話ぐらい聞かせてくれないか。少しは力になれることがあるかもしれないし」

 男子生徒は驚いた表情を浮かべている。初めて話す相手がそんなことを言ってくるとは思いもしていなかったようだ。

 一方のマキアスも自分の発言に驚いていた。

 深く考えもせず口から出た言葉だったが、よく知りもしない相手に対して、自分はここまでお人好しだっただろうか、と。

 知らずの内にリィンの影響を受けている。思い至り、マキアスは心中で苦笑した。

 男子生徒は一瞬戸惑っていたようだったが、マキアスの顔を見て、それが興味本位などで発した言葉ではないことを理解した。

 偶然ではあったが、彼のマキアスに対する印象も“実直で生真面目そう”だった。

 自分と同じ匂いというのか、多少の親近感を感じた彼は、ややあって口を開く。 

「ちょっと長い上に、その……恥ずかしいことでもあるので、口外はしないで欲しいんだけど」

「その点については任せて欲しい。どこかの諜報部員よりは固い口を持っているつもりだ」

「諜報部員ってなんだよ? あ、そう言えば自己紹介がまだだったな」

 思い出したように彼は言う。

「俺はⅣ組のアラン。よろしく頼むよ」

「僕はⅦ組のマキアス。こちらこそよろしく」

 互いに名乗り、軽く握手を交わす。

「立ち話も何だし、食堂にでも行かないか? コーヒーでも飲みながら話そう」

「賛成だ。アランはコーヒーはいける口なのか?」

 根元の部分で似た者同士なのか、早くも打ち解けつつある二人は、学生会館へと向かった。

 

 マキアスとアランがその場を離れて五分も経たない内に、Ⅶ組の教室前に一人の女子生徒が立っていた。

 流れるようなセミロングの髪に白いカチューシャ。カチューシャと同色の白い学院服は貴族生徒のものだ。

 優しげな瞳の持ち主だったが、今はどこか陰っている。彼女はそわそわしながら、Ⅶ組の教室前を往復していた。

「Ⅶ組の誰かに用事か?」

 そんな彼女に声を掛けたのは、偶然通りがかったラウラだった。

「あ、えっとごめんなさい」

「いや、謝る必要はない。それでどうしたのだ?」

 ラウラが尋ねると女子生徒は言った。

「あの……リィン君いる?」

 控え目な声。かすかに潤んだ瞳。

 これは、まさか。

「リィンは今日、体調不良でな。もう寮に帰ったようだが」

「そ、そうなんだ。はあ……」

 残念そうな表情、深いため息。

 ラウラは一瞬で推測する。

 これはあれなのではないか。リィンがいつも無自覚に吐く天然な台詞を、この女子生徒は正面から食らったのではないか。

 朴念仁と思いきや、いやむしろ朴念仁だからか、心を揺さぶるような、言わば勘違いしてしまうような歯の浮く台詞を、さも当然のように言い放つことがある。

 うかつな事に、この自分でさえも赤面させるくらいなのだ、あの男は。

 赤面させられたと言えば、昨日リィンは私の胸を――

 思い出しかけたその光景を振り払うように、ラウラは首を左右に振った。

「えっと、大丈夫?」

「いや、問題ない。そなたはリィンにどのような用事があって来たのだ?」

「それは……」

 口ごもる女子生徒。

「すまない。不躾な質問だったようだ。答えなくて構わない」

 焦ったようなラウラの様子を見て、彼女は頬を緩めた。

「大丈夫よ。実は以前に一度リィン君に相談した悩みがあって、今日はその続きということになるかしら」

「なるほど、そうだったか」

 わずかに安堵した自分がいた。その理由も分からないままに。

「でも体調不良ならお願いはできないもの。また改めて伺うことにするわ」

 彼女の話しぶりや態度から察するに、小さな悩みというわけではなさそうだ。

 背を向けようとした彼女を、ラウラはとっさに引き留めた。

「よければ相談に乗らせてもらえないだろうか。リィンのように力になれるかはわからないが」

 行きがかり上とはいえ話を聞かせてもらったのに、消沈の色が見える彼女をそのまま放って置くことはラウラには出来なかった。

 そこにもう一つ理由を加えるなら、現在体調不良の真っ只中のリィンのことである。

 彼が風邪を引いた――というかその症状が悪化したのは、自分にも原因の一端があることをラウラは理解していた。

 不慮の事故とはいえ、反射的に壁に吹き飛ばしたりもしたし。エマとアリサと一緒に元気の出る一品を提供したら、食材や薬品同士の予期せぬ融和反応が起き、謎の効力が生まれ、リィンは一連の記憶まで失ってしまったようだし。

 責任を取ると言うほど大げさなものではないが、リィン不在の穴埋めは自分がやっておくべきだと思ったのだ。

「で、でも」

「気にしないでほしい。もっとも言いにくい話なら無用に踏み入るつもりはない。出過ぎた提案だったのなら申し訳ないと思うが……」

「そんなことないわ。……じゃあ少しだけお話に付き合ってもらってもいいかしら?」

「ああ、もちろんだ」

 遅まきながら、二人は自己紹介をする。

「Ⅱ組のブリジットです。よろしくね」

「Ⅶ組のラウラだ。尽力させてもらう」

 上品に微笑んだブリジットに、ラウラも柔らかな笑みを返す。

「よかったら《キルシェ》まで足を伸ばさない? 話を聞いてもらうんだもの。紅茶くらいはご馳走させて欲しいわ」

「嬉しいお誘いだ。ならば私は話を聞かせてもらうのだし、菓子でも注文させてもらおう」

 貴族子女ならではの優雅なやり取りを交わしつつ、二人は町へと向かった。

 

 

 《☆☆☆A/B 恋物語☆☆☆》

 

 

「ふうむ、なるほどな」

 学生会館、一階食堂。アランから詳細を聞くと、マキアスはコーヒーを一口すすった。

「笑わないのか?」

「人の悩みを笑うわけないだろう」

 マキアスが聞いたアランからの相談内容はこうだ。

 アランにはブリジットという幼馴染がいて、小さい頃からずっと仲も良かったそうだ。成長し、貴族としての振る舞いを身に付けながら、良識も持ち合わせ、平民蔑視をすることもなかったという。

 士官学院に入学後、アランはフェンシング部に入るが、そこで同じく入部してきたハイアームズ家の三男――パトリックに大敗してしまう。

 パトリックの余計な煽りもあって、アランは劣等感を抱き、同時に強くなりたいと思うようになった。そうでなければブリジットのそばには居れないと。いる資格がないと思い込む。

 結果としてそれは、彼の態度を頑ななものにしてしまい、あわやブリジットと仲違い寸前までいったのだが、そこをリィンが立ち回って互いの誤解を解き、関係の改善に至ったという運びだ。

 問題はここから。

 関係も改善し、以前のように気軽に話も出来るようになったが、どうも最近ブリジットの前に立つと緊張してしまうらしい。顔も正面から見られないし、フェンシングの稽古中も身が入らないとのことだ。

 アラン自身にもどうしてそうなるのかわからない。

 マキアスはもう一口コーヒーを飲んだ。

 舌の上に程よい苦味が広がるが、アランの話を聞いた後だからか、どことなく甘い風味も感じられた。

 カップを口許から離したマキアスは「それって、つまり……」と本当に分かっていなさそうなアランを嘆息交じりに見やった。

「君はそのブリジットさんが好きなんだろう?」

「ぶっ!」

 それはチェスで例えるなら、強固に組んだ陣形をたった一つの手で崩壊させられるようなものだ。全く予期していなかった一撃にアランは口に含んだコーヒーを吹き出した。

「す、すす!? な、何言ってるんだ、マキアス!」

「いやだって、僕ですらわかるぐらいだぞ」

 マキアスとて恋愛沙汰や、その辺りの空気感に鋭い方ではない。さりとてこの状況を理解できないほど鈍くもない。

「ブ、ブリジットは幼馴染でっ、友達でっ!」

「それがいつの間にか異性として気になっていたんじゃないか?」

「―――っ!?」

 さらに考えれば、パトリックに負けて強くなりたいと思ったことも、態度を硬化させたことも。

 そばにいる資格だのと動機付けしているが、話はもっと単純で、気になる子に恰好の悪いところを見せたくなかっただけではないのか。話を聞くに、アラン自身は無自覚だったようだが。

 しかし仲違いの一件で余計に彼女を意識してしまい、知らずの内に抑えていた感情が、今になって表面化したということではないのか。

 それを指摘された今、アランの顔は恥ずかしさと居たたまれなさとが合わさって、どうしようもないほど真っ赤になっていた。

「大丈夫か? 顔がにがトマトみたいになっているが」

「わあああ! 俺を殺せ、殺してくれマキアス! 散弾銃持ってるんだろ、楽にしてくれよ!」

「ぶ、物騒な事叫ぶな。他の学生もこっち見てるじゃないか。落ち着くんだ、アラン」

「マキアスが俺を殺すーっ!」

「は、はあっ!?」

 ざわめき、喧騒が広がっていく。気が付けば自分に対してテーブルが立てられ、周囲にバリケードが張られていた。

 何人かの学生は、ほふく前進で食堂から逃げ出そうとしていて、カウンターからは「生徒会に連絡を! 教官方にも応援を頼んでえっ!」と必死の救援要請が聞こえてくる。

 アランがマキアスの肩をわし掴む。

「俺はどうすればいいんだ!」 

「僕が聞きたいくらいだ!」

 マキアスはアランの手首を握り返して、自分の肩から引きはがし、何とか落ち着かせようとする。その様子を見たカウンターの女性が絶叫した。

「誰かあ! 罪のない少年が眼鏡の殺人鬼に捕まったわ!」

「誰が眼鏡の殺人鬼だ!? もう逃げるしかないぞ」

「俺はもうダメだっ」

 マキアスはその場にくずおれそうなアランの手を引いて、食堂から全力で走り出る。後ろから「少年が拉致されたわ!」などと誤解も甚だしい悲鳴が飛んできたが、振り返る余裕も、事情を説明する猶予もマキアスにはなかった。

 

 

 学生食堂で一騒動起きた頃、喫茶《キルシェ》。

「ふうむ、なるほどな」

 ブリジットの悩み事をあらかた聞き終わり、ラウラは紅茶を口にする。

 《キルシェ》のオープンテラスには二人だけだ。

「だから原因がわからないの」

「確かに。むずかしい話のようだ」

 ラウラがブリジットから聞いた話はこうだ。

 ブリジットにはアランという日曜学校時代からの幼馴染がいて、互いの身分に違いはあったが、年を重ねても疎遠になることもなく、ずっと仲が良かったらしい。

 つい最近のこと。アランの様子がおかしくなり、ブリジットに対して突き放すような態度を取ることがあった。その時もブリジットは悩んだそうだが、依頼を受けたリィンが気持ちの行き違いを修正し、二人は以前のような仲に戻ったのだという。

 問題はここから。

 しばらくは普通に会話もしていたのだが、近頃またアランの様子が変になってきた。

 以前のように冷たい態度を取るわけではないが、目線を合わせなかったり、急に黙り込んでしまうことがあるとのことだ。

「せっかく前みたいに仲良くなれたと思ったのに……私、何かアランに嫌われることしたのかなぁ」

 気丈にも笑ってみせたブリジットだが、語尾は消え入りそうに震えていた。彼女はうつむき、紅茶に映る自分の顔を眺めている。

「……そう落ち込むでない」

 この後に及んでも、アランがそうなった原因を自分の中に見つけようとしている。ブリジットが本当に優しく、気立てのいい女性であることが、この短時間の中でも十分に感じられた。

 だからこそ、力になりたい。

 色々考えてはみたものの、そもそもラウラはアランを知らないのだ。ただブリジットの話を聞くに彼の性格は、真っ直ぐで、努力を惜しまず、そして誠実だと思える。

 確信を持ってまでは言えないが、別にアランはブリジットのことを嫌っていないのではないか。

「聞きたいのだが、そなたはアランのことをどう思っているのだ?」

「もちろん大切な幼馴染よ。ちょっと意地っ張りだけど、真面目で優しい男の子ね」

「関係とか印象ではなく……何というのか、そなた自身がアランに抱く気持ちの話だ」

「私の……?」

 思いに馳せるようにブリジットは目を閉じる。

「小さい頃から遊んでいたし、そばにいるのが当たり前みたいな感じかしら。昔は考えてることもわかるぐらいだったんだけど。そういえば最近はお互い部活もあるし、寮も違うし、一緒に出掛けることもしてないわね……」

「ふむ……」

 もしかしてこの辺りに原因があるのではないだろうか。言葉の通りブリジットは大切な幼馴染としてアランを見ている。それはきっとアランも同じはずだ。

 だけど、もし彼がただの幼馴染としてではなく、彼女を一人の女性として意識していたとしたらどうだろう。

 実直ゆえに不器用ということもありうる。あるいは自分の気持ちに気付いていない可能性も。上手く感情を整理できずに態度がおかしくなっているとしたら。 

 向き合う二人の視線に、ずれが生じてしまっているのではないだろうか。

「……予想だし、なんとも言えんな」

「ラウラさん?」

 そう、あくまでも予想。今まで剣一筋。レグラムに同年代の男子は少なかった。恋愛の機微には疎いと自覚している。……興味がないわけではないが。

 ただ自分の性格はブリジットよりもアランに近い気がした。だからこそ想像ができたのだ。もし同じ状況になったら自分とて似たような反応をするのではないか、と。

 もっともそれを思い浮かべるのは、それなりに気恥ずかしいことではあったが。

「すまない。あまり力にはなれなかったようだ」

「ううん、話を聞いてくれてありがとう。少し気持ちが楽になったわ」

 その折、《キルシェ》横の通りを数人の学生が血相を変えて走り過ぎていく。

「眼鏡の殺人鬼が出たらしいぞ!」

「罪のない学生が被害にあったってよ」

「修羅だ! ショットガンを持った修羅眼鏡だ!」

 そんなことを口走りながら。

「何やら穏やかではないな。そろそろ私達も行くとしようか」

「ええ、そうね」

 腰元のホルダーから電子音が鳴り響いた。《ARCUS》に通信が入ったのだ。

「すまない。少し待っていてくれ」

「大丈夫よ。話には聞いていたけど、それがⅦ組専用の戦術オーブメントなのね」

 ラウラは《ARCUS》を取り出しながら、その場を離れた。

「ラウラさん、いい人ね……あ」

 ふと公園に視線を移したブリジットは、小さな声を出した。

 一人の男子学生がまっすぐに、ぎこちなく彼女に向かって歩いてくる。

 胸が締め付けられるような心地の中、ブリジットは彼の名を口にした。

「……アラン」

 

 

 少し時は戻る。

 学生食堂を出たマキアスとアランは、そのまま正門も抜けていた。

「まったく、あんな場所で取り乱さないでくれ」

「す、すまない」

「もう落ち着いたのか?」

「まあ一応は……」

 そうは言うものの、アランの動悸は未だ収まらずという感じではあったが。トリスタへと伸びる坂を下りながら、何回も深呼吸をしている。

「それで、俺はどうしたらいいと思う?」

 何とも要領を得ない質問だが、それが精一杯の問いだったのだろう。

 マキアスは難しい顔で腕を組む。

 どう答えるべきなのか。気持ちを伝えてこいなどと言うのは簡単だが、それは自分から首を突っ込んだ割に無責任というものだ。

 第一相手がアランの事をどう思っているかは分からない。好意はあるだろうが、幼馴染としてなのか、友人としてなのか、あるいは異性としてなのか。

 そうか、ならば――

「一つデートにでも誘ってみたらどうだ?」

 そんな提案をしてみる。

 聞けば最近は一緒に遊びに行くことも無いという。

 昔のように気心を知った仲になるには、やはり行動を共にすることだ。そうすることで、改めて見えてくる気持ちもあるかもしれない。 

 アランはあからさまに狼狽していた。

「そ、そんなことできるかって! デ、デートだなんて……」

「重く考えなくていい。デートというか、そうだな。一緒に出掛けるくらいに思ってくれ」

「誘うとかどうすればいいか分からないぞ、俺は」

「すまないが僕もそんな経験はないので、正直そこに関しては気の利いたアドバイスができそうにない。ただ――」

 語調を強めて言う。

「君は今、彼女の前に立つだけで緊張しているぐらいなんだろう? 少なくてもそこを直さないと現状は変わらない。また彼女に誤解を与えることになるかもしれないじゃないか」

「そ、それは……そうかもしれないが」

「まずは自然に話せるようになることだ。少し前まで普通に出来ていたんだから、必ずやれるはずだ」 

「……マキアスって見た目とは逆にけっこうお節介なんだな。ありがとう」

「どういう意味だ、それ」

 話しながら歩いている内に、いつの間にか公園にまで来ていた。

「あ」

 そこでアランは気付く。《キルシェ》のオープンテラスに見知った後ろ姿があることに。

「……ブリジットだ」

「あの子がそうなのか?」

 横目に見るアランの顔は、緊張しているように見えた。マキアスはその背を叩く。

「よし、行ってくるんだ」

「む、無茶いうな! 急すぎて心の準備もできてないって」

「そんなことを君は明日も明後日も言うつもりか? 幸い今、彼女は一人のようじゃないか。今日と同じシチュエーションが明日も来るとは限らないぞ」

「自分だって経験がないくせに、なんでそんなに自信に満ちたセリフが言えるんだ」

「逃げて後悔するより、当たって砕けろだ」

「砕けたらダメだろ!?」

 アランから離れたマキアスは公園の木の陰に隠れた。

「僕はここから見守っている。ちょっと出掛けるのに誘うだけだ。落ち着いて行くんだ」

「わ、わかった」

「上手くいかなかったらピザでもおごらせてもらおう」

「……ドリンクもつけろよな?」

 軽口を叩く余裕を見せてから、アランはブリジットに向かって歩き出した。 

 

 

 そして相対するアランとブリジット。

「あ、アラン……どうしたの?」

「その……ブリジット……」

「………」

「………」

 無言が続き、沈黙が辺りに染みていく。

 夕焼けの照らすオープンテラスを秋風が抜け、木の葉の揺れる音が遠くから聞こえた。

 乱れた髪を直しながら、ブリジットはアランが口を開くのを待つ。

 鉛のように重たくなった口を動かし、アランはどうにか一言を絞り出した。

「何してるんだ?」

「少し知り合いに話を聞いてもらっていただけよ。アランこそどうしたの?」

「別に……何でもない」

 再び訪れる沈黙。

 ブリジットはアランの向こう、公園に視線を移した。そこには子供達の遊ぶ姿があった。

「昔はあんなふうに一緒に走り回ったわね。楽しいことも悲しいこともたくさん話した」

 彼らの笑い声が、とても遠い場所から聞こえてくるようだった。

「覚えたばかりのピアノ。弾き間違えたのに、アランは上手だって拍手してくれた。嬉しかったけどなんだか申し訳なくて、あれから一生懸命練習したの。あなたに上達した演奏を聴いて欲しかったから」

 立ち上がって、アランに背を向ける。彼女の手も足も震えていた。

「ブリジット?」

「ねえアラン。私のこと嫌いになったんなら無理して話さなくてもいいよ?」

「な、何言ってるんだ?」

「せっかくまた前みたいに話せるようになったのに、私何かいけないことしたの?」

 抑えていた不安が溢れ出す。ブリジットの瞳から雫がこぼれ落ちた。

「言いたいことがあるならちゃんと言ってよ……アランなんて、アランなんてもう知らない!」

 その場から駆け出そうとするブリジット。その背中に向けて、とっさにアランは叫んだ。

「今度の日曜、一緒に出かけないか!?」

「……え?」

 言われたことの意味が分からず、一瞬静止する。目をぱちくりとさせたブリジットは、振り返ってアランの顔を見つめた。

 二つの視線が重なる。

「……出かけるって、私と?」

「そう言ったつもりだ」

「私の事嫌いじゃないの?」

「き、嫌ったりなんてしないから」

「………」

「………」

 三度訪れる無言。今度の沈黙は長く続かなかった。

「……ふふっ」

「なんだよ?」

 一転して、ブリジットは満面の笑みを浮かべた。

「うん、次の日曜ね。楽しみにしてるわ。ちゃんとエスコートしてね?」

「ちょっと出かけるだけだって」

「わかってるわ」

「わかってないだろ」

 アランも笑顔を見せる。

 屈託なく笑い合うアランとブリジット。それは幼い頃と変わらない、お互いに見慣れた笑顔だった。

 

 

「聞いてくれ、マキアス。今度の日曜にブリジットと出かけることになったぞ」

 ブリジットと別れて公園に戻ったアランは、木の陰に隠れていたマキアスを引っ張り出した。

「よかったじゃないか。これで問題解決だな?」

 しかしアランは急に口をつぐんでしまう。目線を逸らしたまま合わそうとしない。

「まさか君、出かける日の事を何も考えていないのか?」

「急だったんだから当たり前だろ。完全に勢いで誘ったけど、この後はどうしたらいいんだ……」

「まあ、確かにそうなるよな」

 マキアスは考え込んだ。炊きつけたのは間違いなく自分だが、その後の案があったわけではない。

 問題解決というなら、その日曜を越えてからだ。

 今のアランにデートプランを考える程の余裕があるとは思えない。いや、自分とてそんなことを考えたことはないが、力になると決めた以上、やれることはやるべきだ。

 マキアスは実行可能な案を、頭の中で何通りもイメージしてみる。

「出掛けるというのなら、トリスタではなくヘイムダルだろう。町並もきれいだし、店は多いし、雰囲気のいい公園もある」

「なるほど、帝都か」

「それにヘイムダルは僕の地元だ。当日のプランを考えるのに、多少はアドバイスも出来ると思う」

 次の日曜までは六日ある。準備期間は十分だ。

 チェスにおける戦略のように、完璧で、無駄がなく、論理的に組み上げられた行動経路を見つけ出してみせる。

 マキアスはくいと眼鏡を押し上げた。

 

 

「まったくフィーは。課題の範囲を聞く為だけに《ARCUS》の通信を使って――」

「聞いて、ラウラさん! 今度の日曜にアランとお出かけすることになったの!」

 戻ってきたラウラが席に着くのを待たず、ブリジットは彼女に駆け寄った。

「どういうことだ? いつの間に?」

「たった今よ。アランが誘いに来てくれたの。よかった……私、嫌われてたわけじゃなかったんだ」

 ブリジットはとても嬉しそうだ。

「それは何よりだ。私も安心したぞ」

 しかし。

 ラウラは思い直した。些細な事からすれ違いに至ったブリジットとアラン。

 現状でアランの心中が分からない以上、また彼女が困る事態が起こるかもしれない。

「でも二人で出掛けるなんて久しぶりだし。ちょっと緊張しちゃうかな。ふふふ」

「ふむ」

「服は何がいいかしら? あ、でも学院生だから制服じゃなきゃだめよね――あら、どうかした?」

「いや……」

 せっかく笑顔になったのだ。先ほどのような沈んだ顔はもうさせたくない。

 安心するのは次の日曜を越えてからだ。お節介なのは承知の上だが、自分にやれることはまだあるはず。

 ラウラは夕焼けに暮れた空を見上げ、人知れず決意を固めていた。

 

 

「エマ君の力を貸してほしい」

「私の力、ですか?」

 第三学生寮に戻ったその足で、マキアスはエマの部屋を訪れていた。

 ヘイムダルのデートプランは、後日アランと一緒に考えるとして、彼に内緒で計画しておきたいことがあった。

 今日は何とか普通に話すことができたが、アランのこと、当日はどうなるかわかったものではない。色々考えた末、やはり彼の場合は言葉ではなく態度で示すべきだと思ったのだ。

 策自体はシンプルである。

 巻き起こる様々なアクシデントから、アランにブリジットを守らせるというものだ。

 その身を挺して彼女を守れば、少なくとも大切に想っていることは伝わるだろう。今はそれで十分のはずだ。

 問題は“巻き起こるアクシデント”が思いつかないことだった。

 わからないのだ。そのようなシチュエーションで起こる効果的なトラブルというものが。やりすぎてアランに対処できなければ意味がないし、抑え過ぎて仕掛けが地味になっても同様だ。

 参考になるのは恋愛小説などの、言わばベタな展開。しかし本は読むものの、そっちのジャンルを手にしたことは今までほとんどない。

 ならば、読んでいそうな相手に聞けばいい。

「デート中に起こる定番のアクシデント……ですか?」

 不思議そうに聞き返すエマ。要領を得ない質問の内容とは逆に、マキアスの顔は真剣そのものだ。

「何かあったんですか?」

「すまないが僕の口からは何も言えないんだ。漠然とした内容でもいいので教えてくれると助かるんだが」

「正直気になっちゃいますけど……マキアスさんがそこまで言うのなら」

 詳細の口外はしないというアランとの約束だ。

 それ以上は特に聞き出すこともせず、エマはマキアスの質問に答えた。

「そうですね。例えば……ガラの悪い不良にからまれるだとか」

「それだ!」

「ひえ!?」

 マキアスの勢いにエマはのけぞった。

「ありがとう、エマ君! もうそれだけで十分だ」

「今のでいいんですか? あの、とりあえずがんばって下さい……?」

 エマの部屋を出て、階段を駆け下りる。 

 いきなりいい案が出るとは思わなかった。さすがはⅦ組の委員長。

 からんでくる悪漢をアランが撃退すれば、ブリジットを守るに加えて男らしさも見せられる、まさに一石二鳥の策だ。

 しかし自分がその役をやるのか? 

 もちろんアランの為に一肌脱ぐことはやぶさかではないが、今一つ迫力に欠けるような気もする。できれば数人で徒党を組む不良を演じられれば、リアルさも出せると思うのだが。

 頭を抱えながらラウンジにおりると、話し声が聞こえてきた。

「つまりエサの配合にも秘訣があるのだな?」

「そうだ。毛並みの色つやがまったく違う。あとは走らせ方だが――」

 どうやらリィンを部屋まで送った後、ユーシスとガイウスは馬談議に花を咲かせていたようだ。

 寡黙ではないにせよ、はしゃぐイメージもない二人だが、その目はいきいきと輝いている。

 そんな彼らをじっと見つめるマキアス。

「俺たちに用事か?」

 その視線に気付いたガイウスが、マキアスに顔を向けた。

「そんな場所に突っ立っていられると目ざわりだ。チェスをしたいのなら自室でやるがいい」

 相変わらずのユーシスの物言いにも構わず、マキアスはこう言った。

「君達、僕と一緒に不良になってくれ」

 

 

「エマ、そなたの力を貸して欲しい」 

「……今日は頼られる日なんでしょうか」

 マキアスに続き、ラウラもエマの部屋を訪れていた。

「どうかしたのか?」 

「いえ、大したことではありませんけど」

 ブリジットの為に自分が出来ることを考えてみたが、残念なことにそう多くはなかった。

 何より優先しなければならないのは、件の日曜日を何事もなく終え、二人が以前のように気兼ねなく話せる間柄に戻れることだ。

 とはいえ何事もなく――というが、そのような時に起こる何事かが思い当たらなかった。

 ならば知っていそうな相手に聞けばいい。

「男女が二人で出掛ける時に起こるアクシデントですか?」

「小説の中の話でよいのだ。教えてくれると助かるのだが」

「皆さん今日はどうしたんでしょうか」

「皆? すまないが細かい事情は伝えられないのだ。許して欲しい」

 ブリジットに口止めはされていないが、みだりに外にもらしていい話でもない。

 さすがのエマも気になった様子だったが、それでも詳細は聞かず、その問いに答えてくれた。

「あの……例えば、ガラの悪い不良にからまれる、だとか……?」

「それだ!」

「ひええ!?」

 エマは本日二度目になるのけぞりを見せた。

「確かにそなたの言う通りだ。やっかみ混じりの悪漢が害をなしてくることは考えられる」

 アランとブリジットが平穏に一日を過ごす為、降りかかる火の粉を払う。それが自分に出来ることだとラウラは確信した。

「とても参考になった。礼を言わせてほしい」

「いえ、お気になさらず……?」

「しかし待てよ。ということは……」

 二人のそばに控えながらも、こちらに気付かれない手段が必要である。

 果たしてそんな方法があるのか……?

 

 

 日付は変わり9月14日の火曜日、その放課後。

 質屋《ミヒュト》に、陳列された商品を眺めるマキアスの姿があった。

「何かあればいいんだが……」

 目当ての物は二つ。

一つはアクシデントの種になりそうなもの。もう一つは自分達の見た目を“ガラ悪く”するものだ。

 自分達というのは、ガイウスとユーシスを含めてのことである。

 昨晩に不良の誘いを申し出た後、彼らには事情を説明した。が、やはり細かな経緯などは説明していない。

 アランとブリジットが次の日曜日に出掛けるので、その仲を取り持つ力添えをして欲しいことだけを、大まかに伝えてある。

 ガイウスはともかく、ユーシスからは「余計な事ではないのか」との反論も出た。今の二人には必要な事だと説得したところ、最終的には何だかんだで力を貸してくれることになったが。

 もしかしたら貴族と平民というペアに、少なからず思うことがあったのかもしれない。

 ともあれガイウス達の協力を得て、マキアスは入用になりそうなものを探しに来ていたのだった。

「お、こんなのいいかもしれないな」

 棚の奥にあったネズミの玩具を手に取ってみた。導力式ではなくゼンマイ式で自走もできるようだ。

 カウンターで新聞を読むミヒュトがおもむろに言った。

「そいつは東方の骨董品でな。2000ミラだ」

「こんな玩具が2000!?」

 珍しい型だからなあ、と付け加えたミヒュトからそれ以上の説明はなかった。しかし使えそうな一品であることには間違いなかった。

 断腸の思いでマキアスは購入を決める。他にも――

「毛虫のインテリア? なんかリアルな弾力だな。まあ驚きはするか」

「素材がレアでな。3000ミラ」

「この髪用のワックスは使えそうだな」

「リベール王室御用達の品だ。5000ミラ」

 財布を持つ手がわなわなと震え出した。

「ぼ、ぼったくりだ!」

「人聞きの悪いこというんじゃねえよ。適正価格だぜ」 

 ネズミと毛虫と髪用ワックスで、総額10000ミラである。

「なんて横暴な店だ。監査でも入ったら絶対あの人しょっぴかれるぞ……ん?」

 ふと一つのサングラスが目に留まる。フレームがシャープで、スタイリッシュなデザインだ。

 自分の変装用にも何か買わねばと思っていた。サングラスなら強面にも見えるし、いいかもしれない。

 ただ値段が気になるが。

「そいつは10000ミラだな」

「やっぱり。さすがに買いませんよ」

「そりゃまあ、あのヴィータ・クロチルダが使ったと言われるもんだからな」

 それを棚に戻そうとしていた手が、ピタリと止まった。

「ク、クロチルダが? このサングラスを!?」

「興味出てきたか?」

 頬を笑みの形にするミヒュト。客をカモと見るような、明らかに含みのある笑顔だが、興奮するマキアスは気付きもしない。

「それは本当なんですか!?」

「使ったと言われる、だ。確証はねえな。ただ有名人なんだし、お忍びで動く際に変装くらいしててもおかしくないだろ?」

「それはそうですが……10000ミラか……」

 安物のサングラスなど、それこそ5000ミラ以下で十分買える。しかしもし本当にクロチルダが使ったのなら、はっきり言ってその十倍の値段でも釣り合わないくらいだ。

 ミヒュトが息をつく。

「お前、クロチルダが好きか?」

「もちろんです」

「彼女もよ。どこの馬の骨とも知れない奴にサングラス貰われるよりは、お前さんみたいな熱心なファンに買って欲しいんじゃねえかな」

「なにを馬鹿なことを……」

 カモはカウンターにサングラスを置いた。

「これはレーグニッツ家の家宝にする」

「まいどあり。他の商品と合わせて20000ミラだ」

 商品を受け取り、風通しのよくなった財布をポケットにしまったところで、マキアスはその人物に気がついた。

「珍しいじゃないか。一人なのか?」

「そなたもな。聞いていればずいぶん買い込んでいたようだが」

 いつの間にか店内にいたのはラウラである。

「見られていたか。って君こそなんだ、それは」

 ラウラは灰色の大きな毛だまりを抱えている。

「これは内緒だ。ミヒュト殿、会計を頼もう」

「まさかそいつを買う奴がいたとはな。30000ミラにまけといてやるぜ」

「そうか、感謝する」

「いやいや、高すぎるだろ! いったい何買ったんだ!?」

「内緒だと言ったぞ」

 金額に驚くマキアスとは逆に、気にする様子もないラウラは上機嫌で財布を開いている。

 買い物を終えや二人は店の外へと出た。

「君の買ったものは気になるが、お互い目当ての物が手に入ったようだな」

「ああ、納得いく物が見つかって良かった」

「じゃあ僕は学院に戻る用事があるからこれで」

「私も今日は寮に戻ろうと思う。それでは失礼する」

 マキアスとラウラはそれぞれ別方向に歩き出した。

 次の日曜日まで、残すところあと五日。

 正反対に歩を進めながら二人は強く思った。

 ――あらゆるアクシデントを駆使し、必ずアランの力になってみせる。

 ――あらゆるアクシデントを駆逐し、必ずブリジットの力になってみせる。 

「僕に」

「私に」

 意志は違えど、二人の声は揃う。

『任せてもらおう』

 

 

~後編に続く~

 

 

 

 

 

 

 

☆前編、おまけ ~その後のリィン☆

 

 

「っくしゅん! ごほっ」

 くしゃみが止まらない。咳も続いている。完全に風邪だ。

 しかしなぜだろうか。風邪を引いた理由が思い出せない。そもそも昨日の出来事があいまいで、記憶も不鮮明だ。

 シャロンさんに何かを言われて、寮をアリサと一緒に飛び出したところまでは覚えているんだが。

 言われた何かを思い出そうとする度に、頭にノイズが走って記憶が錯綜してしまう。

 散らばるチェスの駒、光る眼鏡、黒光りするショットガンといった光景が断片的にフラッシュバックするが、それが何を意味するのかまったく意味不明なのだ。

「うう……何だか寒くなってきたな……」

 熱がぶり返してきたのかもしれない。

 ずれていた毛布を胸元に引き上げた時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「アリサよ。入るわね?」

 部屋にやってきたアリサは枕元まで歩み寄ってくる。

「どうしたんだ?」

「体調の具合を見に来たのよ。どうなの?」

「まあ、見ての通りだ」

「もう……けど私にも風邪を悪化させた原因はあるわけだしね」

 原因とはなんのことだろう。訊き返そうとして、気付いた。

 彼女が持つ小さなトレイに、湯気の立つ器が乗っている。

「昨日はちゃんと食べさせてあげられなかったから、その……今日もお粥を作ってきてあげたのよ」

 そう言ってアリサは器の中身を見せてくれた。

「昨日……? いや、気を遣わせてすまない――……え?」

 ……お粥? 米が見えないが。というか器の中が血の池のように真っ赤なんだが。

「ちょうどよかったわ。さっき寒いって聞こえたから。今日は体が温かくなるお粥にしたのよ」

 赤い液体からシューと謎のガスが噴き出して、続いて特大の気泡がボコンと弾けた。

「お、落ち着けアリサ。話せば分かる」

「なにが?」

 アリサはすでにお粥をスプーンですくっていた。金属製のスプーンの先端が、熱でぐにゃりとへしゃげた。

「や、やっぱりちょっと恥ずかしいわね。でも仕方ないか。仕方ないもの。仕方なくなのよ?」

 仕方なくない。今なら引き返す道もあるはずだ。

「はい、あーん」

「やめっ」

 湾曲したスプーンの先端が口の隙間から滑り込んでくる。赤い液体と一緒に。

「ぐああっ!」

 瞬間、体が燃えた。

 炎が体内を巡り、血が沸騰していくのがわかる。

 温かくなる? そんな生易しいものじゃない。俺の全てが灼熱している。

「っ!?」

 身を襲う苦痛と共に、心の底に沈殿していた何かが浮かび上がってきた。これは何だ? 俺の……記憶?

 ――剣の稽古をして、エリオットと話して、アリサに引っ叩かれて、チェスを崩して、寮から逃げて、トワ会長に会って、ミヒュトさんに襲われて、釣りをして、マキアスに襲われて、川に飛び込んで――

「そ、うか……」

 ユーシスに謝って、寮に帰って、寝て、起きて、胸を触って、また部屋に戻って、アリサがお粥を持ってきて、委員長が薬を持ってきて、ラウラがはちみつレモンを持ってきて、トワ会長が泣いて、シャロンさんが笑って――

「お、もい、だした……」

 何という一日だったのだ。ようやく全ての記憶が一致した。

「はい、あーん」

 同時に赤い二撃目が口中に注がれる。

「がっ!」

 完全に油断していた。吐き出そうにもそれは、すでに喉を焼きながら胃へと流れ落ちている。

 再び渡された煉獄への片道切符。

 途絶える意識。ようやくそろった記憶のピースが、またどこか遠くに散らばっていく――。

 

 

☆ ☆ ☆

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
このような感じで、マキアスAパートとラウラBパートの視点から進むA(アラン)/B(ブリジット)の恋物語前編でした。
ちなみに当小説の時間軸の進行具合はミスティ回の時点で、九月中旬を過ぎたあたりなのですが、今回は時間を巻き戻してのストーリー開始となります。後編終了時点で最新の時間軸に追いつく形ですね。

次回はトリスタを離れ、ヘイムダルが主な舞台となります。そういえば前回の10年前ストーリーを除けば、トリスタ以外の街がメインになるのは初でしょうか。あまり帝都で騒動を起こさないで欲しいですが
アランとブリジットの淡い想いはどこに向かうのか、そしてマキアスとラウラの過ぎた気遣いはどこに向かうのか。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。

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