『ええええ!?』
寮内全域に響き渡った
ぼんやりと視界に入るのは、見覚えのない天井。横になっていたベッドからむくりと上体を起こすと、胸までかけられていた毛布が滑り落ちた。
首を巡らしてみる。整頓された机にたくさんの書籍、あとはハーブや、雰囲気のある小物類が見える。
「私――えっと……」
だんだんと記憶が鮮明になってきた。
休日を利用してトリスタまで来て、兄様とお散歩に出かけて、Ⅶ組の皆さんが歓迎会を開いてくれて、シャロンさんの計らいで寮に泊まることになって――
「ここはエマさんのお部屋?」
昨夜、彼女はリィンの部屋に泊まることになっていたのだが、せっかく来たエリゼと親睦を深めるためにと、食事後にエマの部屋でちょっとした女子会が開かれた。
その内容はお菓子や飲み物をつまみながらのおしゃべり会のようなものだが。
女学院のことを話したり、士官学院のことを聞いてみたりと、他愛もない話で盛り上がっていた。しかし二十二時を過ぎたあたりで、まずミリアムが寝息を立て始め、続きフィーが舟を漕ぎ、その辺りからエリゼの記憶も曖昧になっていた。
「いつの間にか眠っちゃったんだわ……」
何時ごろに眠ったのかはわからないが、こうして自分がベッドに寝かされているなら、少なくともこの部屋の主であるエマは、ここでは休んでいないということである。
「私ったら……エマさんに謝らないと」
ベッド上のシーツをきちんと整え、毛布をきれいにたたむ。
手早く身だしなみを整えて、部屋の戸口へと向かった。
ふと棚の上にある時計に目をやると、針は九時を指し示している。普段からすると寝過ぎたほどだ。
にわかに焦り、エリゼは廊下に出た。
階段を下りる最中にも、話し声が聞こえてくる。
「またそんな事を勝手に。僕らは関係ないじゃないですか」
「困ったことになりましたね」
「決まったことならやるしかないが、しかし――」
などと言った具合である。
エリゼがラウンジまで下りると、Ⅶ組総員が半円の人垣を作っており、その囲いの中心にはサラがいた。状況は掴めないが、とりあえず彼女が非難されていることはエリゼにも理解できた。
近づいていくと、人垣の後ろにいたエマがエリゼに気付く。
「あ、起こしちゃいましたね。ごめんなさい、騒々しくしていたから」
「すみません。ベッドお借りしていたみたいで……」
申し訳なさそうに、二人同時にぺこりと頭を下げた。
「私なら大丈夫ですよ。昨日はフィーちゃんの部屋で一緒に寝ましたから」
「ん、狭かった。あと大きかった」
何やら赤面するエマの傍ら、フィーは寝たりないのかあくびをし、重そうなまぶたをこすっている。
「よく眠れたか?」
続いてエリゼに気付いたリィンが人垣から抜け出してきた。
「エマさんのベッドをお貸し頂きまして。……ところでこの騒ぎは一体――」
「ああ、これはだな……」
鼻柱をかいて、リィンはサラを見た。
人垣の奥はエリゼの身長では見通せなかったが、最前列にいるマキアスとユーシスの声はよく聞こえる。どうやら何らかの異議申し立てのようだ。
「せめて一言くらい相談して欲しいのですが。学院祭のステージ練習だってあるんですよ」
「まったくだ。なぜ教頭との小競り合いに俺達が巻き込まれるのだ」
二人は声をそろえて言った。
『Ⅰ組対Ⅶ組の体育大会など!』
体育大会。聞きなれない言葉ではなかったが、それが騒動の原因らしい。
リィンの説明によると、事の発端はおよそ二週間前。
ハインリッヒ教頭のお小言がきっかけで、サラは彼と
売り言葉に買い言葉の応酬は、やがてどちらも退けないレベルにまでヒートアップ。
その果ての収拾案として出されたのが、互いの受け持つ生徒達による全力本気の体育大会勝負だった。
要はハインリッヒ教頭の受け持つⅠ組――生徒総数が違う為、Ⅰ、Ⅱ組合同の選抜貴族生徒という形だが――と、サラが受け持つⅦ組の全面対決である。
昨日のルビィに関するミーティングの後で、サラが言いかけていたことはこれだったのだ。
「し、士官学院は大変なんですね」
「それだけなら良かったんだが……」
歯切れも悪く、渋面のリィンはこめかみを指で押さえた。
焦ったようなサラの声が飛ぶ。
「成り行きとはいえ相談しなかったのは悪いと思うけど、今回ばかりは協力して欲しいのよ。だってⅦ組が負けたら私、水着で学院掃除しなきゃいけないのよ!」
リィンが補足説明をした。勝負にあたり、担当教官もそれ相応の責任を持つという理由から、互いに“勝った方の言うことを何でも一つ聞く”というリスクを背負っているという。
問題はこれのようだ。
呆れ顔のマキアスが「自業自得です」と、にべのない一言で息をつく。
「で、逆にⅦ組が勝った場合、教官はハインリッヒ教頭に何をさせる気なんです」
「あれよ。教頭の恥ずかしい秘密をばらまくことになっているわ」
しん、と静まり返るラウンジ。キッチンでシャロンが皿を片付ける音だけが空虚に響く。
「それは教官方がやるようなことではないと思うのだが……」
ラウラが固い声音を重ねると、さすがのサラも罰悪そうな様子で、
「あの時は勢いもあったし、ついね。一応反省はしてるのよ?」
しかし果たし状を叩きつけたのはサラからであったし、もう後には引けない状態なのだ。
まったく乗り気ではない教え子達に、サラは咄嗟に思いついた提案を挙げてみる。
「じゃあこんなのはどう? Ⅶ組が勝ったら教頭側からも、ルビィに関しての様々な便宜を図ってもらうっていうのは?」
「便宜?」
「例えばだけど、飼い主募集の力添えをしてもらうとか、ルビィを預かれる期間を融通してもらうだとか」
考え込む一同。
そもそもルビィ関連の約束を交わしたのは学院長とである。
それについて教頭に決定権はないはずだが、彼から学院長に口添えと、不承不承ながらも自分達に力添えをしてくれるなら、時間切れの手詰まりと言う最悪の状況だけは回避できるかもしれない。
「けど、それは最後の手段だな」
リィンが言い、他のメンバーも同意した。
約束は約束である。出来うる限り、自分達でやるべきだ。
とはいえ、いくつかの案はあるものの見通しが立っていないのも事実だった。ことさら今回はルビィの今後がかかっている。万が一の保険となる手はあった方がいい。
「やむを得ないか。もう決定してしまったことだし、せめて条件を有効に活用しよう。やるからには勝つぞ」
「だね」
「ふむ」
「しゃーねーな」
などと、それぞれの反応を返す中、サラは満足そうに言った。
「そう言ってくれると思ってたわ。いやー、持つべきものは愛すべき教え子ね」
白々しく目じりを拭ってみせたサラに、全員が目を細くした。元凶が何を言うのだと訴える目だった。
「な、何よ。今日はトリスタと学院を回ってルビィの飼い主探しするって言ってたでしょ。早く先に行きなさい。あ、他の学生は授業してるから、学院内へは昼休みに入るのよ」
サラに急かされるがまま、リィンたちは寮の外へと押し出された。
第三学生寮前の通り。
とりあえず班分けと担当区域を決める話になった。
「お役に立てるかは分かりませんが、私も協力させて下さい」
事情を聞いたエリゼの申し出で、彼女もルビィの飼い主探しに加わることとなる。
リィンは例によってくじを取り出した。
「またくじ引きでいいか? 今回はそこまで班分けにこだわらなくてもいいだろうし」
「俺達は構わないが、彼女はリィンと同じ班がいいのではないか?」
ガイウスがエリゼに目をやる。
「お気遣いありがとうございます。ですが、せっかくお手伝いさせて頂くのですから皆さんと同じくじ引きでお願いします」
「エリゼがそう言うなら問題ないだろう。どのみち班別で動くのは午前中だけだろうしな」
トリスタ市街はともかく、学院の中では手分けして知り合いを当たる方が効率的である。
くじ引きの結果。
A班、アリサ、エマ、クロウ。
B班、エリオット、フィー。
C班、マキアス、ユーシス、エリゼ
D班、ラウラ、ミリアム、ガイウス。
ちなみにリィンは『全班のサポート』兼『ルビィと一緒に待機』といった役回りだ。
全員からの報告を待ち、興味を持った人がいればルビィを一度見てもらいに連れていく。その場にルビィがいた方が、話も進めやすいだろうという考えがあってのことである。
「私はC班ですか。よろしくお願いします」
『ああ』
ユーシスとマキアスは同時に返事を重ね、むっとした目を互いに向け合う。
「二人とも……頼んだからな。本当に頼んだからな」
もはや懇願のリィンである。
「任せるがいい」
「僕がいるから大丈夫だ」
心配性の兄の弁に、二人は自信に満ちた声音で即答した。
一抹の不安を胸に抱えながら、四つの班はそれぞれの担当区域へと分かれる。
「犬を飼う気はないか?」
店に押し入るなり問答無用でユーシスが問う。
前置きのなさにも動じず、カウンターに収まるミヒュトは、読んでいた雑誌から目を離しもせずに「ない」と即答した。
その憮然とした背中を眺めるマキアスは呆れ顔だ。
「き、君は物の頼み方を知らないのか?」
「……えーと」
エリゼも継ぐ言葉が見つからなかった。C班が足を運んだのは質屋《ミヒュト》である。
「犬っていえば、お前らの所で預かってるあいつだろ」
「そういえば時々ここにも来るって、前に言っていましたね」
以前ルビィにチェスの駒を奪われてここを訪ねた時、マキアスはそんな話を聞いていたことを思い出した。どこからか良質な素材を調達してきて、それなりの物品と交換していくのだとか。
「おう、あれはあれで中々のお得意様だが。ただ飼うとなると話は別だ」
ペラペラと雑誌をめくるミヒュト。取り付く島もない。
それでも食い下がるユーシス達の後ろから、エリゼが控え目に口を開いた。
「番犬代わりに、というのはいかがでしょうか?」
「ここいらじゃ見ねえ顔だな。……番犬だと?」
「見ればお一人でお店を切り盛りしているご様子。たとえば外出するときなどは、番犬の一匹がいるだけで安心感も違うのではないでしょうか」
「まあ、出かけることは多いけどよ。考えてみりゃ確かに人件費はいらねえし、あいつの場合、しつけも手間かからなさそうだな」
慣れない弁舌でルビィを勧めるエリゼに一考の態度を見せたミヒュトだったが、そんな彼女の努力を水泡に帰したのは前の二人だった。
「こんなさびれた店に番犬はいらんだろう」
「お、おい。思っていても口に出して言うんじゃない」
悪びれなく言うユーシスに、無自覚に同意してしまっているマキアス。
ミヒュトのこめかみがぴくりと動いた。さすがに怒っている。
重い空気を察して、エリゼは身を固くする。しかしユーシス達は気付きもしない。
「あ、あのお二人とも……」
ミヒュトの雑誌を持つ手がわなわなと震えている。
エリゼは焦って仲裁の口を開きかけるが、遅かった。
「お前ら、出ていきやがれー!!」
怒声が響き渡り、三人はまとめて店の外へと叩き出された。
「予想通り」
「あはは、見に来て正解だったかな」
転びそうになりながら店外に飛び出したエリゼの前に、フィーとエリオットが立っていた。
「その様子だと失敗したっぽいね。そんな気はしてたけど」
フィーが淡々と告げる横で、エリオットは苦笑していた。ユーシスもマキアスも不満気だ。
「ふん、短気な店主だ。もう二度とこの店は使わん」
「極端な結論はやめたまえ。まあ、ミヒュトさんに飼ってもらうっていうのは元々望み薄だったしな」
それなりに話はまとまりかけていましたが、と言いかけてエリゼは口をつぐんだ。
「それでお前たちは何をしに来た?」
ユーシスが問うと、フィーはエリゼを見た。
「二人のケンカに巻き込まれたらかわいそうだから、エリゼはやっぱり私達の班に入れることにした。いいよね」
「別に問題は起きていないぞ」
「彼女がよければ僕たちは構わないが……」
フィーは戸惑うエリゼの袖を掴んで、さっさと歩き出す。
「じゃ行こっか」
「え、あの?」
エリゼは申し訳なさそうにユーシス達に振り返る。彼らは外に出てきたミヒュトに、店前から追い払われるところだった。
そういうわけでB班、フィー、エリオット、エリゼの三人は行動を共にする。
「気にしなくていい。あの二人いつもあんな感じだから」
「最初に比べると、小競り合いも少なくなったけどね」
「そうなんですか。ただ先ほどは別にケンカをしたから店を追い出されたわけでは……」
エリオットとフィーは、あの二人が店内で諍いを起こしてミヒュトを激昂させたと勘違いしていた。
「で、エリオット。私達はどこから当たってみる?」
「うん。教会はどうかなって思うんだけど」
さすがの教会でも犬は飼えないだろうが、教区長やシスターなら話くらいは聞いてくれるはずである。上手く話が運べば、情報提供という形で力になってくれるかもしれない。
「いいかも」
《ミヒュト》から道沿いに進み、中央公園を突っ切れば教会はすぐ見えてくる。
その途中、エリオットは不意に視線を感じ、足を止めた。
少年がこちらを指さしている。彼はエリオットを見るなりこう叫んだ。
「父ちゃーん、あの人が来たぜ!」
「え?」
すぐそばには書店。気付いた時には遅かった。その場を離れるよりも早く、店内から一人の男性が飛び出してきた。
「猛将じゃないか!」
《ケインズ書房》店主ことケインズである。エリオットの頬が引きつる。
「最近なかなか店に寄ってくれないから心配していたんだ。クロスベル経由で入荷した新作があるんだけど見ていかないか。ふふ、猛将が気に入ってくれればいいが――」
「ちょ、ちょっとケインズさん」
言葉の端々に挟まる不穏なワードに焦るエリオット。その両脇の少女二人には意味がわかっていない。
「猛将……ですか?」
「エリオットって猛将なの?」
小首を傾げるエリゼ達を見て、ケインズはエリオットに耳打ちする。
「そのお嬢さんたちは猛将の……アレかい?」
「は、はい?」
「いや、まさか二人とは恐れ入る。さすがは猛将、常人には真似できない豪胆さだ」
ケインズはニヤニヤと笑い「今日も猛ってるねえ」などと言いながら、肘でエリオットの胸をつんつんと突く。
横からフィーが言った。
「よく分からないけど、この人にもルビィのこと聞いてみたら?」
「うん、そうしよう!」
早急に話題を変えたかったエリオットは、半ば強引に話を持ち掛けた。
「あのケインズさん。実は犬の飼い主を――」
瞬間、雷に撃たれたようにケインズは大きくのけぞった。
「い、いたいけな少女達を犬呼ばわりするとは……背徳の極みだ」
大げさに空を仰ぐ。その目じりから一滴、涙の筋があごへと伸びた。
「次元が違う。器も違う。やはり私の目に狂いはなかった」
何の感激だか、ケインズはむせびないている。
「君の行く末、私に見届けさせて欲しい。君の作る新たな世界を私に見せて欲しい」
「二人とも、先に行ってて。お願いだから」
「なんだか分からないけど、了解」
応じたフィーはエリゼの袖をつかんで先へと歩き出す。
彼女たちがいなくなってもケインズの暴走は止まらない。
それでもエリオットはどこかで誤解が解けると信じて、健気にルビィの説明を続けた。
「ですから行儀のいい犬ですので――」
「猛将のしつけはさぞ激しかろう」
「もちろん首輪やリードも全てお付けしますし――」
「そこまで極めたお散歩を!?」
しかしどんな言葉も、余計なフィルターを通してでしか彼に届かないようだった。
「エリオットさん、どうしたのでしょうか?」
「私にもわからないけど、大丈夫だと思う」
エリゼとフィーは学院の正門まで続く登り坂を歩いていた。
当初の予定なら教会に行くはずだったのだが、以前ユーシスが教会で臨時教師を行ったことを思い出し、そっちの交渉は彼に任せることにしたのだ。
「もう昼休みの時間にはなってるし、学院で聞き込みをしようと思うんだけど。とりあえずエーデル部長を探してみようかな」
「部長? 部活に入ってるんですか?」
「園芸部。ハーブが育ったらエリゼにもあげるよ」
そんな会話をしながら正門をくぐった時、
「きゃあああ!」
絶叫が響き渡る。図書館側からこちらに向かって、全力疾走してくるエマの姿があった。ついでにその後ろから彼女を追い回す用務員もセットで。
「聞くんだ、エマ君。いいことを思いついたのだ」
「私にとってはきっと悪いことです!」
「勘違いしてはいけない。まずはこれを読んでみたまえ」
ガイラーは懐から大きな封筒を取り出した、封筒には『ライノの散花はリィンと共に』と太い文字で筆書きされている。
「リィンが散る時が来たのだよ」
「やっぱり悪いことじゃないですかー!」
「散ると咲くは、時として同じ意味になると覚えておいた方がいい」
「意味がわかりません! あ、フィーちゃんとエリゼちゃん!?」
正門前のフィー達を見つけたエマは「二人とも逃げて下さい!」と悲鳴交じりの声を上げて、さらに走る速度をあげた。
意味も分からないまま、エマの逃走に加わる二人。
「あ、あの、今何か兄様の名前が聞こえたんですが。散るとか咲くとか」
「気にしちゃだめですよ! 振り返ってもダメですから」
「委員長、なんで追われてるの?」
講堂前、グラウンド横を駆け抜け、ギムナジウムまで来ても執拗な追跡の手は緩まなかった。
「グラマラスの新作もそろそろ読みたいね。今度は誰と誰にするのかな」
「誰と誰にもしませんから!」
まとわりつくような悶気が背後に迫る。
エマの両脇を走るフィーとエリゼは、不思議そうに声をそろえた。
『グラマラス?』
「わ、忘れて下さい」
前方、道の真ん中を白服の生徒が歩いている。
「すみませんが、道を開けて下さいー!」
エマが叫ぶと、その生徒は振り返る。みるみる内に彼の表情が硬直した。
「あ、ケネスだ」
「うわあああ!」
白服の生徒――ケネス・レイクロードはその光景を認識するが早いか、全ての力を脚部に集結させ、一目散に駆け出した。
力強い両腕のストライドは、さながらスプリンターのようだった。もっともストイックにコースを駆け抜ける選手とは異なり、首を振り乱し、気を取り乱しながらの疾走ではあったが。
「なんで、なんで、なんで!」
それ以上は言葉にならないケネス。なぜならば。
顔を合わせる度にろくなことにならないフィー。前回池に落ちるきっかけを作ったエマ。そして池に飛び込んでくるなりアレコレと魔の手を繰り出してきたガイラー。今回はその三人全員に追われる形なのだ。
「ほう……」
エマのさらに先、逃げるケネスの背を見たガイラーは、にたりと頬を歪めた。
そして勢いそのままに跳躍。身の内に秘めた、ほとばしる情動を推進力にするかのように、彼は中空を高々と舞い飛んだ。
一瞬大きな影が地面に映り、訝しげに思ったエリゼは空を見上げる。
それは初めてみる光景だった。体を大の字に開いた初老の男性が、自分の頭の上を高速で飛んでいくというのは。
もしこれが夜で、満月を背景にその光景を目にしていたなら、確実に死神を連想していただろう。
獲物に襲い掛かる精悍な猛禽のように全員の頭上を滑空し、ガイラーはケネスの前にすたんと降り立った。
「やあ、昼休みを満喫しているかね」
「う、あ、あ」
皮肉にも以前と同じ、中庭付近での邂逅だ。遅れてエマ達が彼に追いつくが、時すでに遅し。
女性がお気に入りのバッグを脇に抱えて上機嫌に微笑むように、ガイラーは沈黙したケネスを脇に抱えて扇情的な笑みを顔に張り付けている。
「実にいいね」
それだけを言い残すと、ケネスを抱えたまま跳躍。
校舎の壁面、わずかな窪みや突起に足をかけ、苦も無く垂直の壁を登り切り、屋上へとその姿を消した。
「た、助けないと。フィーちゃん、力を貸して下さい!」
「いいけど。ルビィの飼い主探しは?」
「人命救助、というか彼の尊厳の保護が最優先です」
エマの剣幕に、さしものフィーも圧され気味だ。
「とりあえず了解。エリゼはどうするの?」
「連れていくわけには行きませんね。下手をすれば一生もののトラウマを負いかねません」
「……だったら私も行きたくないんだけど」
エリゼは事態に頭が追いつかず、呆然としている。
中庭から本校舎をつなぐ扉が開き、ガイウスがやってきた。
「騒がしかったから様子を見に来たのだが、委員長達だったか。三人とも聞き込みは順調か? というかエリゼはユーシスたちの班では――」
「ちょうど良かったです。エリゼさんをお願いします!」
言うだけ言うと、エマはフィーを引き連れて本校舎の中へと走って行ってしまった。
「……何があった?」
「その……わかりません」
状況を飲み込めない二人の間を、乾いた風が吹き抜けた。
近くに落ちていた竹ぼうきがカラカラと転がり、そばの壁に立てかけてあった釣竿にこつんと当たる。
倒れた釣竿に、竹ぼうきの穂先が嫌な感じに絡まった。
「とりあえず俺も部活の先輩に聞いてみようと思う。少々不安ではあるのだが」
美術室の前で立ち止まったガイウスは、扉を開ける前に一間置いた。
「ガイウスさんって美術部なんですか」
「そうだが、似合わないか?」
「いいえ、そういうわけでは……すみません」
「謝る必要はない。絵は故郷で描いていてな。ただ独学だったから、トールズへの入学を機に学ぼうと思ったのだ」
「あ、女学院でも絵画の授業はあるんですよ」
「ほう、そうなのか?」
兄のいるエリゼと妹のいるガイウス。互いの立場が違和感なく馴染み、自然と気兼ねない会話ができていた。
「絵画の授業か。色々と話を聞きたいところだが、今は飼い主候補を探すのが先だな」
「不安があると仰っていましたが、何か問題があるのですか?」
「うむ……」
じわりとガイウスの額に汗がにじむ。
「美術部のクララ部長は少し気難しい人なのだ。まあ、普通にしていれば問題ない」
扉を開け、ガイウスは中へと入る。その後ろにエリゼも続いた。
美術室特有の油絵具と粘土の匂いが、鼻孔をくすぐる。
立ち並ぶキャンバスの向こうに、椅子に座る女子生徒がいた。彼女は眼前の彫像を難解な面持ちで見つめ続けている。
「失礼します。クララ部長、実は相談があって――」
キャンバスの間を抜けながら、ガイウスはクララに近づいていく。その足がぴたりと止まった。
クララのそばのキャンバスに隠れるように、一人の女子が床に打ちひしがれている。
「リ、リンデ? どうしたのだ」
「ガイウス君、見ちゃやだあ……」
しくしくとすすり泣くリンデ。彼女の制服ははだけて、あられもない姿になっていた。
ふん、とクララが鼻を鳴らす。
「そいつの体を彫像の参考にしたかったのだが、いかんせん肉付きが良すぎてな。もう少し小柄な方がよいのだ」
「ひ、ひどいです。うぅ」
「……ん?」
クララの視線が彫像から動く。肉付きがあまりなく、もう少し小柄な、一人の少女に。
「……え?」
エリゼはうすら寒いものを感じた。クララが無言で立ち上がる。
その目的を察したガイウスが叫んだ。
「いかん、逃げろ!」
「な、なんでしょうか?」
「早くするんだ! 脱がされるぞ」
「脱がす!?」
初対面の女性の服を脱がすなど、そんな横暴がこの世に存在していいはずがない。だが、にじり寄る目付きの悪いこの女子生徒は、確かにそれを実行しようとしている。しかも躊躇なく。
少女の本能が逃走を選択した。
「逃がさん!」
「部長、落ち着いて下さい」
「邪魔だ、ウォーゼル! 貴様から脱ぐか!?」
エリゼは廊下に出て、後ろ手で扉を閉める。振り返る余裕はなかった。
「脱げえっ!」
「ぐあああ!」
ガイウスの断末魔。続いてキャンバスや画材の崩れ落ちる耳障りな音が耳朶を打つ。
燃え盛るような芸術の狂気に、エリゼはただ戦慄した。
トラブルは止まらなかった。美術室を出た途端、轟音が響き渡る。
「こ、今度は何?」
音は長廊下の突き当たりの階段からだ。ドタドタドタと足音が近付いてくる。息せき切って廊下に飛び出てきたのは、ラウラ、ミリアム、アリサ、クロウの四人だった。
「ミリアムが余計な事言うからよ!」
「えー、ボクのせい?」
「まいったぜ、ちくしょう」
「迂闊な……」
おそらくこの四人も学院で聞き込みをしていたのだろうが、なぜこんなにも必死の形相で――
「ムフォオッ!」
その答えはすぐに現れた。アリサ達の背後から雄叫びをあげて襲来するデンジャラス肉玉。
鼻から灼熱の蒸気を噴出し、原生林の大木のような豪腕を振り上げた麗しのグランローゼ、マルガリータが追い迫る。
「ミィリアムゥー! よくも私のラブクッキーを『犬の餌にもならない』なんて言ったわねえ!」
「違うよー、ボクは『マルガリータのクッキーはルビィも食べない』って言ったんだよ」
「同じことよお! グフォオーッ!」
マルガリータが走る度に、廊下に面するガラス窓がバリンバリン割れていく。
「なんで俺達まで巻き込まれてんだ」
「それは我らがミリアムの逃走経路にいたからだな」
「ついてないわ――って、いけない!」
アリサが廊下の真ん中で立ち尽くすエリゼに気付いた。同時にラウラが急転回。荒れ狂うマルガリータに向き直る。
「食い止める! アリサは彼女を連れて逃げろ。ミリアムとクロウは私とここに残れ!」
「まじかよ」
「おっけーだよ!」
「分かったわ!」
一人先行したアリサが、エリゼの手を引いて走った。
「な、なんなんですか?」
「逃げるわよ。私達に任せて」
不敵に笑い、クロウは拳を鳴らす。
「いつかのリベンジだ。こないだは油断したが今日は違うぜ!」
女子に拳を振るうという倫理的観念を捨て去った、正真正銘の全力本気パンチ。
対するは、羽虫を払う程度のマルガリータの平手。
その一秒後。撃ち出された大砲の弾のように、クロウは窓を突き破って青い空の中へと一直線に消えていった。
彼の安否など気にしている余裕もなく、ラウラは怒声を飛ばした。
「ミリアム、アガートラムだ!」
「え、でも校舎内じゃ出しちゃダメだって」
「構わん! 彼女に傷一つでもつくことがあれば、私はリィンに合わす顔がない」
「りょーかい!」
景色が歪み、アガートラムが現れる。銀の双腕がマルガリータと組み合った。
「グムッ……フォオオオ!」
「ΣΠΛδШ」
拳の乱打が壁面を砕く。レーザーが廊下を焼き削り、ガラス窓を飴細工のように溶かす。あらゆる破壊が二階廊下を蹂躙した。
「やっちゃえ、ガーちゃん!」
「∃ΛΘΕΛΞ‼」
「ムフォオオッ!!」
「ふふ、何やら騒々しいようだが、僕を讃える歌でも小鳥達がさえずっているのかな?」
混沌の戦場に一人の男子生徒がやってきた。ヴィンセント・フロラルドである。天性の間の悪さだった。
「光よ! 僕を讃えるがいい!」
いつも通りのオペラ口調で言った次の瞬間、彼は凶暴な光にさらされた。
誰の目にも耳にも留まることなく、人知れずヴィンセントは極太ビームに飲み下されていた。
「大丈夫? もう少しだから」
「は、はい。大丈夫……です」
階段を登って屋上へと向かう二人。アリサの気遣いにそう返したものの、エリゼの体力は尽きかけていた。
「士官学院というのは毎日このような感じなんですか?」
「そ、そんなわけないじゃない。多分、違うと思う……けど」
アリサも自信なさげである。
「まあ、でも大変だけど楽しいところよ。ええ!」
話題を無理やりまとめようとしたところで、屋上の扉が勢いよく開いた。
「回収完了」
「早くベアトリクス教官のところへ!」
エマとフィーだった。二人して担架を引っさげ、バタバタと階段を下りてくる。
救護用の担架にぐったりと収まっているのは、言わずもがなケネスである。ぴくぴくと痙攣を繰り返し、死んだ魚のような瞳を天井に向ける彼はもはや半死半生だ。
「急病人? すれ違ったのに私達にも気付かなかったみたいだし」
「……私には分かりません」
屋上に出ると秋風が心地良かった。走り通しの体を丁度良く冷ましてくれる。
「ここまではマルガリータさんも追ってこないと思うわ。今回のターゲットはミリアムだったみたいだし」
「今回?」
「安心して大丈夫ってことよ」
にこりと頬を緩めたアリサは、乱れたエリゼの黒髪を柔らかな仕草で整えた。
「これでよし、と」
優しい手つきだった。まるで兄が自分にそうするような――
脈絡もなく、姉という言葉が頭に浮かぶ。
「しばらくここで休んでましょう。私も走り疲れちゃったわ」
屋上の片隅にあるベンチに二人は腰かけた。緩やかに形を変える雲をしばらく無言で眺める。
『あの』
二人同時に口を開いた。
「あ、ごめん。先にいいわよ」
「すみません、アリサさんからどうぞ」
顔を見合わせて、二人はすぐに笑みをこぼす。
「じゃあ私から聞くわね。昨日聞きそびれたんだけど、リィンって故郷じゃどんな感じだったの?」
「困っている人は見過ごせなくて、自分から手を差し伸べる人。……でもどこか自分の事を後回しにしてるような……そんな感じでした」
「そうなのね」
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「何となくよ」
アリサは屋上の一角にあるフェンスを指差した。
「そういえば初めてルビィに会った日のことなんだけど、あそこのフェンスからルビィが外に落ちそうになったの。結局助けてくれたのはサラ教官だったんだけど、私達の中で一番に駆け出したのは、リィンだったわ」
二人は同じタイミングで、空を見上げた。
「多分、ユミルにいた頃とそんなに変わってないんじゃない?」
「ですね。きっと、そうです。でも少し変わったところもある……気がします」
どこが、とは明確に答えられない。それこそ“何となく”である。
「あ、でもね。まったく変わってないところもあると思うわ」
「それは私にも分かります」
二人は大きく息を吸い、『せーの』でその言葉を口にする。
『朴念仁!』
「っくしゅん! ……少し冷えたかもしれないな」
鼻をすすり、リィンはひとりごちる。
川に垂らした釣り糸に反応はなく、ゆらゆらと流れのままに浮きが漂っていた。生け簀代わりのバケツは空っぽである。
仲間からの連絡を待つこと数時間。通信は来ないし、魚も来ない。
リィンは水面を眺めながらあくびをするルビィに目をやった。
「……そろそろ集合時間だし切り上げるか。いい飼い主が見つかればいいんだが。少し寂しくなるけどな」
一吠えしてみせたルビィは腰を上げる。
「ああ、帰ろう」
釣り具を片付けながら、リィンは学院を見上げる。校舎の鐘楼塔が視界に映った。どうも鼻がムズムズするのはなぜだろう。
「っくしゅん! ……風邪がぶり返したかな」
● ● ●
「わざわざ見送って頂いてありがとうございます」
「また遊びに来てくれ。みんなもそう言ってるしな」
ヘイムダル行きの列車を待つエリゼとリィン。見送りを彼一人が務めることになったのは、周囲の気遣いである。
「でも次は兄様が会いに来る番ですからね?」
「そうだな。近い内に遊びに行くよ」
「もう、本当ですよ」
駅の時計を見る。列車到着までもう少しだ。
「ところでルビィちゃんの飼い主候補は見つかったんですか?」
「結局当たり無しだ。こればかりは地道に探すしかないさ」
エリゼはわざとらしく咳払いする。
「私からも屋敷で飼えるようお父様に掛け合ってみます。ただ兄様が言った通り、バドもいるので難しいとは思いますが……」
「いや十分だ。あとは最後の手段として、今度の体育大会に勝たないとな」
「ああ、例の――」
言葉の途中で列車到着のベルが鳴る。
「来たみたいだな。じゃあエリゼ、気をつけてな」
「はい、兄様も」
改札を抜けてからエリゼは振り返る。
「そういえばその体育大会というのは、いつ開催されるんですか?」
列車の轟音にかき消されないよう、リィンは大きな声で言った。
「10月17日。日曜日だ」
● ● ●
――後日談――
聖アストライア女学院。
校舎を出て正門へと続く道に、肩を並べて歩く二人の女学生の姿があった。
「――と、そのような休日を過ごしてきました」
「まあ楽しそう。その体育大会というのも女学院ではなじみの薄いものだし、士官学院は色々なことをするのね」
エリゼの話をいかにも楽しげに聞く少女は、顔中を笑顔にして軽やかな足取りだ。波打つ豊かなブロンド髪が歩くたびにふわりと揺れる。
「それにしてもエリゼったら、本当にトリスタまで行くだなんて」
少女はいたずらっぽくエリゼの顔をのぞき込んだ。
「姫様があんなこと言うからじゃないですか!」
「あんなことってどんなこと?」
「そ、それは……知りません!」
「あら、怒らせちゃったかしら」
姫様と呼ばれた少女――アルフィン・ライゼ・アルノールは、そっぽを向いたエリゼの前に回り込んだ。
「私は『リィンさんは素敵な方だから、きっと周りの女性が放っておかないと思うの。そういえば以前お会いしたⅦ組の女生徒さんは、みんな美人な方々だったわ』としか言ってないわ」
「ですから! もう! 姫様!」
一言一句間違えず言い直せる時点で、事前に用意されていた台詞のようにも感じるが、さりとて追求する気にはなれなかった。エリゼは吐き出した嘆息と共に、いつもの笑顔の謝罪を受け入れる。
「それで、どうだったの?」
「とてもいい方々でした。突然押しかけた私にも良くして下さいましたし」
「じゃあその中の誰かが、エリゼにとって将来のお義姉様になっても問題ないってことかしら」
「な、なんでそういう話になるんですか!」
「違うの? わたくしだって次こそはダンスのお相手をリィンさんに引き受けて欲しいと思っているのだけど」
アルフィンはその場で可憐に一回転。優雅なターンを披露する。
「またそのようなことを……」
「あら、これでも本気なのよ」
「え――」
小走りのアルフィンは、エリゼより先に正門を抜けた。
「敷地内で走ると先生方に怒られますよ!」
言いながらエリゼもアルフィンの背を追う。
なだらかな下り坂の先、大通りに面した道路に黒塗りのリムジン型導力車が停まっていた。ドアの前には護衛らしき男性が二人、油断なく直立している。
アルフィンの姿を見ると「お帰りなさいませ、皇女殿下」と慇懃な一礼の後、一人の護衛が後部ドアを開けた。
「バルフレイム宮に帰るだけで、いつも大げさなんだから。一人で導力トラムくらい乗れるのに」
「姫様はもう少しご自身の立場を重んじて下さい。二ヶ月前だって危うくさらわれるところだったんですよ」
「さらわれかけたのはエリゼも一緒なのに。でも気を付けるわ」
アルフィンは離れた道沿いを通りすがる、身なりのいい紳士に目を留めた。
「ふふ、例えばあの方が悪い人でないという保証もないものね」
「冗談でも失礼ですよ、姫様!」
焦るエリゼをよそに、アルフィンは車に乗り込む。
「あ、そうそう、エリゼ」
「なんでしょうか」
「私行くことに決めたわ」
「どこにですか?」
ごく当たり前のように、さらりと言った。
「トールズ士官学院に例の体育大会を見に。確か10月17日と言ってたかしら」
「え?」
「エリゼも行くのよ。一緒にリィンさん達を応援しましょう」
「え?」
「それではまた明日。ごきげんよう」
バタンとドアが閉まり、車が動き出す。遠ざかる導力車を呆然と眺めるエリゼ。
皇女殿下のお言葉を反芻してみた。何度考えても言葉通りの意味である。
「ええええ!?」
エリゼの叫びが、帝都の空にこだました。
● ● ●
それから数時間後。場所は移り、ノルティア州、ルーレ市郊外。
人通りもなく、どこか不気味な静寂が漂うその一角に、ひっそりと佇む寂れた家屋があった。雨漏れし、すきま風が吹きそうな、一見して廃屋と呼ぶ方がしっくりとくるような、小さく古びた建物。
窓のカーテンは閉まっており、外から中の様子を伺うことはできない。
この廃屋。行政の登録上は空き家である。家主も亡くなって久しく、相続人もおらず、しかし立地の悪さも相まって買い手もつかず、長年半ば放置されていた。
家の中も当然手入れされた形跡はなく、棚は虫にやられボロボロ、一歩踏み出せば、埃だらけの床から頼りない軋みの音。
止まったままの壁掛け時計が、物悲さを際立たせる。寂れた外観に相応しい荒れた内観、と言ったところだろうか。
一つ違和感があった。
床一面に堆積する埃が、一部分だけ薄くなっている。玄関から奥のリビングまで、まるで何度もその場所を往復し、踏み均したかのように。
白汚れの道は、リビングにある机まで続いていた。
注意深く凝視するとかろうじて分かる程度だが、机の四脚を線で結ぶように、一メートル四方に渡って、不自然な切れ込みが入っている。
素人目にはまず分からないが、ここには地下がある。
廃屋の地下。それなりに広さはあるが、光源は一帯の中心に置かれた小型の導力灯ただ一つ。
その薄明りを囲むようにして、そこらの段差に、手頃な空き箱に、あるいは地べたに座る、人影の数々。
総勢は二十五人だ。
「《C》は確かに死んだのか?」
「《S》と《V》はどうなった。消息は掴めたのか?」
「連絡はまだこないのか。そもそも俺達がここに身を潜めていることを仲間は知っているのか」
ひそひそと外に漏れ出さない程度の声で、不穏な質疑が交わされる。
「仲間は――帝国解放戦線は本当に壊滅してしまったのか……?」
彼らは先だってザクセン鉄鋼山を占拠した帝国解放戦線の、言わば残党である。
大部分はあの時に捕まったのだが、ごく一部の人員は軍の包囲網からかろうじて逃れ、ここに身を隠していたのだった。
事の全てを語るなら《C》は死んでいない。
帝国解放戦線は壊滅しておらず、幹部達も首尾よく戦域を離脱している。
それは最後の一手を打つ為の布石。革新派筆頭、ギリアス・オズボーン宰相を討ち、クーデターの開始を告げるトリガーに指を掛ける為に。
「くそ、俺達はどうすればいい!?」
だがその肝とも言える作戦の全容を、戦線の団員全てが知らされていたわけではない。
例えば《S》、《V》を始めとする幹部、機甲兵の操縦者、あらかじめ他区域での配置を済ませていた者は、続く作戦に備えている真っ最中である。
しかしいわゆる戦線の運営中枢に関わらない、末端の戦闘員には事前の情報が伝えられていなかった。
理由は作戦行動中に捕縛された場合、もしくは内偵が紛れ込んでいた場合に、情報の漏えいを防ぐ為である。
切り捨てられたわけではない。前線で戦う歩兵達にも、然るべき時、適正と判断されたタイミングで、情報は上から伝えられる。だとしても生存不明となった十数人を、わざわざ警戒区域に赴いて回収するようなリスクを、本隊が背負うことはありえない。
それは彼らにも分かっていた。
ならばこちらから行動を起こし、存在を知らせる他ない。それも自分達を保護する価値があると思わせる手段でだ。
それは賭けである。今や唯一の情報源となった導力ラジオからは、解放戦線は壊滅したとニュースで告げられている。どのように行動しようとも、肝心の本隊が本当に潰されていたとしたら、全ては徒労に終わるのだ。同時に自分達の命運も。
薄闇の中に、コツコツと足音が響いた。
「帰ってきたのか」
「すまない、念の為に尾行がいないか注意していたら遅くなってしまった。だがいい情報を手に入れた。離れた場所から集音器で会話を拾うのには苦労したが……」
“身なりのいい紳士然とした男”が言った。
「アルフィン皇女が動くぞ。しかも会話内容から察するに非公式でだ。護衛も最小限しか連れて行かないはずだ」
小さく歓声が起こる。
まさに僥倖。かつて失敗した“皇女の誘拐”。それを自分達が成したとすれば。
それこそ本隊が自分達を迎えに来るには、十分過ぎる功績だ。
とはいえそれは思い立って実行できるほど容易いことではない。武器弾薬も残り少なく、おそらく運も求められる。成功させるためには、何重にも策を考えねばならなかった。だが、諦めるという選択肢はもはやない。
策は当日までに練り上げるとして。
一人が口を開く。
「まずコードネームがいるんじゃないか?」
「ああ、それはそうだな。人数が多いから分かりやすいのがいいか」
作戦中に名前を呼び合うわけにはいかない。
誰かが言った。
「さっき一人帰ってきたから、この場にいるのは二十六人だよな……それってさ」
偶然にもアルファベットの数と同じである。
「同志《A》から《Z》まで、決められるよな?」
「……!」
遠慮がちの提案が、周囲を驚愕させた。
いいのか、それ。やっちゃっていいのか俺達が。戦闘員A、B、Cの俺達が《A》、《B》、《C》になれるのか。本物の《S》にお仕置きされないか。いやそれはむしろ望むところなのだが。などといった具合にどよめきが広がった。
いくつかの議論の果てに『どのみち、この作戦の間だけだし』という理由でその案は採用された。
ここからは人類共通、くじ引きである。もちろん今回は《C》がリーダーというわけではないが、
「よし、俺が《C》だな!」
やはり人気アルファベットだった。ちなみに一番人気が無かったのが、
「うっ、《G》引いちまった。嫌な予感がするぜ……」
男気を見せたのに、不遇の死を遂げた彼のコードネームである。
そんなこんなで二十六人、全員のコードネームが決定した。
「トールズ士官学院の詳細地図を手に入れる必要があるな」
「残った武器のリストを作れ。全員に分配して、役割を決めるぞ」
「教官共が厄介だな……学生を人質に取れるか?」
にわかに活気を盛り返してきた帝国解放戦線残党。燻る戦禍の火種は、まだ潰えていなかった。
彼らの目的はただ一つ。
「俺達はアルフィン皇女をさらう。場所はトールズ士官学院。決行日は――」
くしくも、くじ引きで決まった仮初の《C》が告げた。
「10月17日だ」
~Intermission 後編 END~
『虹の軌跡・ラストストーリー・10月17日』へ続く
後編もお付き合い頂きありがとうございます。
というわけで、エリゼがやってきたのはアルフィン皇女殿下の差し金でした。兄様の日常トラブルをちょっと体験してみました的な感じですね。おかげでリィンは一日平和に釣りができました。
以前にもどこかの後書きで告知しておりますが、この『10月17日』が最終話となります(タイトルは異なりますが)
では次回予告です。
十月一発目は、あの四人の奮闘記『ガールズクッキングⅡ』です。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ちしております。