虹の軌跡   作:テッチー

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ガールズクッキングⅡ(後編)

「見つけたわ!」

 本校舎をあらかた探し回り、正面入り口から外に出たところで、ポーラ達は学生会館側へと歩くリィンを見つけた。

「見つけたのはいいけど、このあとどうするの?」

 モニカが言う。ブリジットも困っているようだ。

「そうね。自然にトリスタまで誘導できたらいいんだけど」

 露骨に『ラウラがお弁当を持って橋の上で待っている』などとは言いたくない。あくまでも自分達が介在していることは伏せておきたいのだ。

 当然、このまま何もしなくてもリィンは寮に帰るために橋の上を通るだろうが、いつ帰るのかが問題だった。暗くなってからではお弁当を食べる時間を逸してしまう。

 それにリィンのことである。あんな風に歩いているだけで、いつ頼まれ事が舞い込んでくるか分からない。

 思うそばから、一人の女子生徒がリィンの背に向かって小走りで近付いていく。

「まずいわ……!」

 あれはⅣ組の女子生徒、コレットだ。雰囲気的に何か依頼の予感がする。もしリィンが彼女の頼まれ事を受けたら、確実に日が暮れてしまう。先に声を掛けられたらアウトだ。

 思ったが早いかポーラは駆け出し、同時にコレットが陽気な声を発する。

「あ、リィン君。お願い事があって――むぐっ」

 いきなり後ろから羽交い絞めにされ、口元を押さえられたコレット。状況もわからないまま、近くの茂みまでずるずると後退させられる。そして――

 キュッ

 と、何かを締める音。

 茂みからはみ出して、じたばたともがいていたコレットの足が、やがて動かなくなった。

 額の汗を拭いながら、茂みからポーラが出てくる。

 衝撃の光景を目の当たりにしたモニカとブリジットは、絶句して固まっていた。

「だ、大丈夫なの。コレットさん、なんか反応ないんだけど」

「ど、ど、ど、どうしたらいいのかしら。う、埋めるの、埋めたらいいの、こういう場合……? アラン、私、もうあなたに会えないかも……」

 ブリジットの狼狽の方が激しい。

 動揺をみせる二人に、ポーラは落ち着いた態度で告げる。

「しばらくしたら目を覚ますわ。彼女の依頼なんて、食べ歩きに付き合ってとかそんなのよ。きっと」

「それは偏見だと思うけど……」

 そんな折、リィンは「誰かに呼ばれたような気がしたが」ときょろきょろ辺りを見回すと、改めて学生会館へと歩き出していた。

「いけない! 先に回り込まないと。ほらブリジット、しゃんとしなさい!」

「ええ、大丈夫。あとで教会で懺悔するから。ロジーヌさんに罪を告白するから」

「やめたほうがいいと思うよ。蒼白になったロジーヌさんの顔が目に浮かぶし……」

 屍と化したコレットは放置して、彼女たちはまた走り出した。

 

 

「……モニカだよな。何をやってるんだ。こんな所で」

 学生会館前でリィンは足を止めていた。彼の見下ろす目線の先、モニカは扉を塞ぐように寝そべっている。

「ク、クロールの練習だけど?」

 足をばたつかせ、腕を回す振りをしながら、上ずった声でモニカが答える。彼女にも苦し過ぎる言い訳であることは分かっていた。

「できればプールでやって欲しいんだが……」

「水のない所で泳げて一人前だって、クレイン部長が言ってたから」

「どういう意味なんだ、それは。とにかく生徒会室に行きたいから、そこをどいてくれないか」

「何しに行くの?」

「トワ会長に何か手伝えることがないか聞きにいくんだ」

 まさか自分から依頼をもらいにいくとは。なおさらこの先に進ませるわけにはいかない。

「ええと……リィン君がトワ会長にしてあげられることは何もないよ。そんなに役にも立たないと思うし、早く寮に帰った方がいいんじゃない?」

「なっ!?」

 痛烈な一撃。しかしリィンは折れなかった。

「こうなったら悪いが上をまたがせてもらうぞ」

 リィンが足を上げようとして、

「だめ!」

「うわっ!?」

 鋭い声を上げ、泳ぎ真似をクロールからバタフライへと変えた。

 びったんばったんと、地面の上で跳ねるモニカ。まるで水揚げされたばかりの魚のようだった。ちなみに彼女はまだバタフライは泳げないので、クレインやラウラの見様見真似である。

 ぜえぜえと肩で息をしながら、リィンを横目で見上げる。

「これでっ、通れっ、ないよねっ!?」

「も、モニカ?」

「無理にっ、通ろうとっ! したらっ! あたしっ、泣くから!」

「どういう状況なんだ、これは……」

 すでに涙目。ここまでなりふり構わず何かを貫き通したことは、おそらく初めての事だった。子供の頃、両親に駄々をこねた時でも、ここまで全力全開ではなかった。

 全ては大切な友人の為、モニカは色々なものを捨てたのだ。恥とか外聞とか、概ねそんな感じのものを。

 それでも膠着は続いたが、結局、

「……わかった。今日はやめておくよ」

 リィンが折れる形で、その場を凌ぐことに成功する。

 元来た道を引き返す彼の後ろ姿を見て、モニカはぐったりと四肢を伸ばした。

 

 

「水泳部の練習って厳しいんだな」

 見当違いの事を独りごちながら、リィンは正門とは逆方向に進んでいる。

「今日は中庭の池で釣りでもするか」

 間が悪い。

 彼の後をこっそり追うポーラとブリジットはそう思った。

 どうせ釣りをするなら、アノール川に行けばいいのに。

「今度は私が行くわ。釣りをさせずに、正門側に誘導すればいいのよね」

「頼んだわよ、ブリジット。私も先に行くから」

 ポーラはグラウンドに向かい、ブリジットは校舎内を抜けて中庭へと先回りする。

 リィンが中庭にやってきたのと、彼女が到着したのはほとんど同時だった。

「はあ、はあ。リ、リィン君奇遇ね。どうしたのかしら? こんなところで」

「ちょっと時間潰しに釣りでもしようかと思ってさ。ブリジットこそどうしたんだ? そんなに息を荒くして」

「トランペットには肺活量も必要なのよ……」

 持っていたトランペットをかかげる。ここに来る途中、全力疾走で二階の音楽室まで行って、とりあえず手近にあったトランペットを調達してきたのだった。本来、彼女の担当楽器はピアノである。

「音楽室じゃなくて、中庭で練習してるのか?」

「ええ、大自然の中で奏でる音色は澄み渡ってとても綺麗なの」

 トランペットを吹いてみせると『ぷふぉ~』と、空気の抜けたような音が池の水面を揺らした。

「それ澄み渡っているのか? 俺にはよく分からないが。あと大自然ってほどじゃないし」

「ト、トランペットは練習中なの。それに自然は雰囲気が大事なんだから。そういうわけで、ここで釣りは出来ないわ。ごめんなさい」

「どんなわけなんだ? 別にうるさくはしないし、邪魔にはならないと思う」

「とにかくダメなのよ!」

「ダメな理由が分からないんだが……」

 リィンは中々引き下がらない。ブリジットは右に左に花壇を動き回り、リィンの進入を阻止し続ける。しかしあまり時間はかけられない。

 モニカはラウラの為に体を張って学生会館への道を塞いだ。

 自分とてやらなくては。この場を死守しなければ。何とかして釣りをしようとするリィンの気を削がなければ。

 そうだ。最近読んだ小説を参考にしながら――

 決意を固め、ブリジットは顔を伏せた。

「ねえ、リィン君。釣られるお魚さん達のことを考えたことある?」

「え?」

「おいしそうなご飯があると思って食べてみたら、実は鋭い針が隠れてて、いきなり住処から引きずりあげられるの……」

 薄暗い声。悲しそうな目。悲壮感を漂わせながらブリジットは続ける。

「あなただって嫌でしょう。夕ご飯の料理の所々にホッチキスの針が見え隠れしていたら」

「そ、それは嫌だが……」

「きっと魚にだって親兄弟もいたはずだわ。それをリィン君は自分の愉悦を満たす為だけに引き離してきたの。想像してみて? 昨日あなたが釣ったサモーナのことを。彼女には将来を誓い合った恋人がいたのよ。でもその日、少し泳いでくると言って家を出たきり、二度と帰ってくることはなかったわ。そう、あなたが釣り上げたばっかりに。それも意気揚々と楽しみながら」

「お、俺は昨日サモーナなんて釣っていない……!」

「恋人のサモーナは今も水底で打ちひしがれているわ。彼女は忘れない。大切な彼を奪ったあなたのことを。二人で住んでいた巣は狭かったはずなのに、今ではとても広く感じてしまう。リビングに立てかけてあった二人の写真だけが、今はただ切なくて――」

 もう何が何やら。

 しかしリィンはその場にがくりと膝をついた。

「……なんだか俺が悪かった気がする」

「ここでの釣りは諦めてくれる?」

「ああ、サモーナに謝りたい気持ちでいっぱいだ」

「よかった。サモーナも許してくれると思う」

 ブリジットはにこりと微笑んだ。

「あ、そうそう。アノール川ならいっぱい釣れそうな気がするし、今日はそっちに行ってみたらどうかしら?」

「なんでこの流れで釣りを勧めてくるんだ!」

 

 

 今日は変な事が多い。どこか腑に落ちないものを感じながら、リィンはグラウンドまでやってきていた。さっきから行きたい場所になぜかたどり着けない。

「ちょっと、フェリス。パスのタイミング遅いじゃない!」

「アリサの立ち位置がずれているせいですわ!」

 グラウンドではラクロス部が練習していた。アリサとフェリスの言い合いが聞こえてくる。もめているのは試合中のコンビネーションについてのようだ。

「あなた達、そんな事で前言ってた『フェリサハリケーン』とかいう必殺技できるの? エミリー、伸び悩む後輩達の為に、私達のコンビ技『エミジアデストロイ』を見せてあげましょう」

「そんな技はこの世界に存在しないわ」

 場を収めにやってきた上級生二人も迷走している感がある。 

 時間潰しにのぞいていこうかと思った矢先、

「この浮気者」

 背後から低い声音。振り返ると蔑むような目付きをしたポーラと、彼女をその背に乗せ、荒々しい鼻息を噴く茶色い馬がいた。

「ポ、ポーラ? なんでこんなところで馬に乗って――」

「おだまり」

 一声でリィンの言葉を遮り、馬上から競技用の鞭ではなく、女王様仕様の長い黒色ムチが振り下ろされる。

 地面を叩いたその先端が『ピッシィ!』と乾いた音を響かせた。

 今の彼女はポーラではない。氷の瞳を湛える絶対的支配者、ドミネーション・クイーンことポーラ様だ。

「だいたい浮気者って何のことだ」

「………」

「俺に何か用があったのか?」

「………」

「そ、その、なんで何も言わないんだ?」

「私はおだまりと言ったわ。誰があなたに発言の許可を与えたの?」

 馬が身じろぎし、頭をかがめた。ポーラはムチを振り上げる。

「ま、待て。落ち着くんだ」

「さあ、追いかけっこよ。先に正門から出ればあなたの勝ち。私が追いついた場合は……分かってるわね?」

「分からないし、なんで正門なんだ!?」

「問答無用!」

 再び宙にムチが踊り、リィンに向かって馬が跳躍する。絶叫がこだました。

 

 

 ラウラは驚いていた。

 本人には何も伝えず橋の上まで誘導すると聞いていたが、本当にやってきた。しかもこの短時間で。一体どうやったのだろう。

 橋の欄干に寄りかかり、汗だくのリィンは呼吸を整えている。

「はあっ、はあっ! さすがにここまでは追ってこないか……」

「……リィン、大丈夫か?」

「あ、ラウラ?」

 声をかけて、ようやく気付かれた。汗だくの顔を向けてくるリィンは、ずいぶんと疲弊している。

「そんなに走ってどうしたのだ?」

「ちょっと馬に追いかけられて……なんでそうなったのかは俺にも分からない」

「馬?」

 まさかポーラが? いや、さすがにそれは考え過ぎだ。

「ラウラも帰りなのか? 俺も今日はもう帰ろうと思う。なんだか学院から追い出されたような感覚があるが」

「そ、そうなのか」

 彼女らには後で色々聞かねばなるまい。

 それはそうと、ここからどう切り出せばいいのか。何と言えばいいのだ。弁当を作ってきた、でいいのだろうか。しかしそれではあまりにも台詞が簡素ではないか。

 別に言葉を飾る必要はないし、普段通りでいいはずだ。

 だというのに、なぜかそんな些細なことが気にかかって仕方がない。リボンは曲がっていないか、髪は乱れていないか、そんな取るに足らない小さなことさえも。

「その、だな……うむ」

 言いあぐねていると、先にリィンが口を開いた。

「ラウラも帰りだったら、一緒に帰らないか?」

「いいのか? いやいや、そうではなくてだな……」

 他愛なく何気ない言葉が胸に心地良かった。

 しかし帰ってはダメだ。渡すものがある。必死に言葉を探した。だけど見つからない。

「違うのだ。実は今日は……あぅ……」

 そもそも言葉は探すようなものだっただろうか。やはりおかしい。自分らしくない。

 手にした小さな手提げ袋を、ぎゅっと握りしめる。

「それ、なに持ってるんだ?」 

 どきりと心臓が跳ね上がる。一瞬頭の中が真っ白になる。後はもう勢いだった。

「空腹ではないか!? そなたは今、空腹ではないのか!?」

「え? ああ、走り通しだったから結構減ってるな」

 ぎこちない動作で、ラウラは袋を持ち上げた。

「実はそなたの為に弁当を作ったのだ。あの時、ヘイムダルの地下水道でかばってくれた礼としてだ。よかったら食べていかないか。……食べて……欲しいのだが……」

 最後は失速。それでも言うべきは言った。

「礼だなんて気にしないでくれ。もしかして、ずっとここで待っていてくれたのか?」

「ち、違う。偶然、そうこれは偶然だ。復唱するがいい。これは偶然だと!」

「なんで俺が復唱するんだよ……」

「なんでもいいのだ。ここではなんだし、とりあえず場所を変えるとしよう」

 二人は橋の脇にある階段を下り、川岸の木陰へと向かう。

 手提げ袋の中にはビニールシートも入っていた。ポーラ達の気遣いに感心しつつ、奥の弁当箱を取り出そうとしたところで気付く。 

「む?」

 なぜか弁当箱が二つ入っている。

 自分用など作っていない。となると、成功作の弁当と間違って失敗作も入れたのだろう。彼女らの慌てぶりからして、想像できることだった。

 それにしてもどちらが成功作なのだ。

 容器は同じ。中身は開けないと見えない。とはいえリィンの前でわざわざ失敗作かもしれない弁当など開けたくはない。

「どうかしたのか?」

「あ、ああ。しばし待つがよい」

 逡巡の末、ラウラは直感で選ぶことにした。先に手が触れた弁当箱を取り出す。

「……では開けるぞ」

「ああ、楽しみだ」

 ゆっくりと弁当箱を開く。

 中に入っていたのは、大きな三角おにぎり。彩り鮮やかなサラダ。サクサクに揚がったとんかつ。

 成功した弁当だった。

「へえ。おいしそうだな。全部ラウラが作ったのか?」

「ところどころ友人に手伝ってもらったがな。遠慮せずに食べて欲しい」

「それじゃ、さっそく」

 リィンは手に取ったおにぎりを、口いっぱいに頬張った。

 

 

 そんな二人の様子を、橋の上からこっそりと見守っている影が三つ。

 合流したポーラ達である。

「よかった。お弁当うまく渡せたみたい」

「まったく、手間取ったわ」

「ええ、あとはラウラに任せましょう」

 そう、ここからはラウラ次第。これ以上の手出しは、余計な介入である。

「……でもね」

「……そうね」

「……だよね」

 含みを持って目配せし合う。彼女達にはまだやることが残っていた。

 ラウラはともかく、リィンはやたらと間が悪い。彼のせいではないのかもしれないが、トラブルを呼び込むというのか、何かしら横槍が入ってしまうことが多々あるのだ。

 彼女達のやること――それは“余計な介入”を防ぐことだった。絶対にあの周囲に人は近づけさせない。 

 依然として、奮闘は継続中だ。

 

 ●

 

 川縁は平和である。

 落ちかけた夕日が、景色を赤く染め始めていた。

「このおにぎりうまいな。塩加減もいいし、握り方も絶妙だ」

「そ、そうか! まだあるぞ。水も飲むがいい」

 おにぎりを一つをたいらげたリィンを、ラウラは嬉しそうに眺めている。

「口もとに米がついているぞ」

「すまない。つい急いで食べてしまって。これで取れたか?」

 口を拭うリィンだが、まだ取れていない。

「動くでない、私が取ろう」

 ラウラはリィンの口もとに、白く細い指を這わせた。

 川縁は平和だった。 

 

 所変わって橋付近。

 ポーラ達はまばらに散開して、周囲に気を配っている。

 しばらくすると案の定やってきた。間の悪い人たちが。まるで何かに引きつけられるように。

「たまには川で水練してみるか」

「はあ、この時期だとさすがに冷たいですよね」

 水泳部のクレインとカスパルである。二人はすでに水着姿だ。

「流れに逆らって川上めざして泳ぐんだ。いい練習になるぜ」

「がんばります。モニカも誘えばよかったかな――ってモニカ?」

 二人の前にモニカが立ち塞がった

「丁度よかった。モニカも水練するか?」

 カスパルの誘いにかぶりを振る。

「ここは通せないの。クレイン部長、カスパル。引き返して」

「どうしたんだ。今日は流れも早くないし、たまには川で泳ぐのもいいもんだぜ?」

「ダメなんです」

 先輩であるクレインの言葉にもモニカは応じない。そんな彼女にカスパルは苛立っているようだ。

「モニカが泳がないのはいいけど、俺達が泳ぐのは自由じゃないか。いい加減にしないと――」

「力ずく?」

 強い眼差しがカスパルを捉えた。一瞬、虚を突かれたカスパルだったが、すぐにモニカを睨み返す。

 クレインは見た。二人の闘気が膨れ上がり、何かを(かたど)っていくのを。

 小さなハサミを振り上げたシュラブと、小さな背びれを立てたカサギンが、敵意を持って相対している。

「えーと、お前らやめとけ。な? モニカがそこまで言うなら無理には泳がねえし。カスパルも落ち着けよ」

 年長のクレインがその場を収めようとするも、臨戦態勢に入った二人はもう止まらない。

「クレイン部長、見ていてください。今道を開きますから」

「ふんだ。カスパルなんてすぐにやっつけちゃうんだから」

「言っとくけど手加減しないぞ。練習で身に付けた技を遠慮なく使わせてもらうからな」

「私だって!」

 モニカとカスパルは同時に腕を構える。渋面のクレインが「お前らな……」とこめかみを押さえるが、二人にはもう見えていなかった。

 静寂が満ちていく。

 遠くからラウラの楽しそうな声が聞こえる。みんなで苦労して作りあげた大切な一時。嫌がらせ以外の何物でもない男たちの水練で、あの雰囲気をぶち壊すわけにはいかないのだ。

 橋の下で水がはねた。

 カスパルが地を蹴る。腕を振るいながらの特攻。

「くらえ! 『カサギンの一閃・セカンド』!」

 クロールの要領で、左右から時間差で繰り出される鋭い手刀。

「えい! 『シュラブのオープン・ザ・カーテン』!」

 中心から左右に開く平泳ぎの腕の動きそのままに、モニカは二対の手刀を巧みに捌いた。

「やる……! だけど、まだだ!」

 クロール式で振り回す腕の動きが逆回転。まるで背泳ぎのように大きくしなる腕が舞い戻ってきた。

「はあ! 『レインボウの尾びれ』!」

「きゃっ!?」

 虹が生み出す七色のように、派生の瞬間が捉えにくい打撃だった。ほとんど反射で、モニカは後ろ跳びに距離を取る。

「今のはエビの跳び方……『バックステップ・オブ・ザリーガ』か。まさか習得していたなんてな」

「私だって遊んでいたわけじゃないから」

「それでも技数は俺の方が多い。もう終わらせる!」

 再びカスパルがモニカに肉薄する。

「見切れるかよ! 奥義『サモーナック・バターソテー』!」 

 複雑怪奇な構えから繰り出される、予測不能の連撃がモニカに迫る。その動きは変幻自在の千変万化。

 回避は出来なかった。迎撃する技ももうなかった。歯を食いしばり、固く目を閉じる。

 脳裏に浮かぶのは、はにかんだラウラの笑顔。お弁当を作り上げた時のラウラは、本当に嬉しそうだった。

 いいのか。こんなに簡単に台無しにされてしまって。突如現れた半裸の男たちに、あの領域への侵入を許してしまっていいのか。力が及ばない。たったそれだけの理由で。

 いいわけがない。絶対に。

 モニカは目を見開く。すでに体は動いていた。

「やああっ!」

 両腕が大きく弧を描き、左右同じタイミングで、勢いよく肩上から突き下ろす。それはバタフライの腕の動きに酷似していた。カマキリが獲物を捕らえるがごとく、鋭い二つの軌跡がカスパルへと伸びる。

「がはっ……!」

 ピンと張り、そろった指先が、カスパルの両鎖骨に『ずむっ』と食い込んだ。身を穿つ衝撃にガクガクと膝を折り、彼はその場にくずおれる。

「……シュラブが……クインシザーになったのか……」

 それが彼の末期の言葉だった。

「……とりあえず、コレットさんの横にでも寝かしとこっと」

 意識の途絶えたカスパルを、モニカはずりずりと学院まで引っ張っていく。

 その後ろ姿を見て、クレインは「泳ぎの教え方……俺、間違ってたのか?」と深く肩を落としていた。

 

 

 川縁は平和である。

 木の上からは小鳥達のさえずりが聞こえていた。

「このサラダもいけるな」

 レタスのシャキシャキ感とトマトの酸味がマッチし、そこにドレッシングが合わさることで味が一つにまとまっている。シンプルな素材ながら、奥深い味わいだった。

「何よりだ。レタスの仕込みにひと手間かけた甲斐があったというものだ」

「ラウラって実は料理できるんだな。ほら、この前の一件があったから、正直不安なところもあったんだ」

「あ、あの時の事は忘れるがよい。私だって日々努力しているのだ」

 頬を赤くして、ラウラは目を逸らす。

「はは、悪かった。気にしないでくれ」

「まったくそなたは……ん? ドレッシングが口についているぞ」

「え、どこだ?」

「動くでない。私が取ろう」

 ラウラはハンカチを取り出して、そっとリィンの口もとを拭った。

 涼やかな微風が、二人の前髪を緩やかに揺らしていく。 

 川縁は平和だった。

 

「あれって、ラウラとリィンかな? 何してるんだろう」

 橋の上に来訪者が一人。寮に帰る途中のエリオットである。

「おーい、二人とも――」

 プォー!

 彼の声をかき消すように、太い音が鳴り響いた。

「エリオット君……どうしてここに来たの」

 悲しげな声。トランペットを手にブリジットが近付いてくる。

「あれ、ブリジット? トランペットなんて持ってどうしたの? 今日部活なかったよね」

「ねえ、エリオット君。今を何しようとしたの」

「いや、あそこの二人に声をかけようと――」

 プォー!

「な、なんでトランペット吹くのさ。というかブリジットはピアノ担当なのに何でトランペットを――」

 プォー!

 三たび鳴ったトランペット。それなりに吹けるようになってきていた。

 理由も分からず戸惑うエリオットに、ブリジットはトランペットを向けた。銃口さながらの威圧感をもって、ゆらりと持ち上がる金管楽器。

「ごめんなさい。ここを通すことも、あの二人に声を掛けさせることもできないの」

「なに言ってるのかわからないんだけど……」

 逆光でブリジットの顔が黒い影に塗り込められる。清楚な彼女には似つかわしくない、妙な凄みがあった。

「知ってる? たとえば大きな音とかで三半規管が揺れるとね。バランスが取れなくなって少しの間立てなくなっちゃうんだって」

「え?」

「許してね、エリオット君。明日になったら、私の事いくらでも怒っていいよ」

「ええ!?」

 突き付けられたトランペットの意味を理解したエリオットは、戦慄に一歩足を引いた。すかさず一歩前に出るブリジット。

 さらに一歩下がるエリオット。もちろん一歩踏み出るブリジット。

 だんだんとその感覚が狭まってきて――

「う、うわあああ!」

 緊張に押し負けたエリオットは、踵を返して逃げ出した。その背をブリジットが追い掛ける。担いだトランペットは迫撃砲のようだった。

「ブリジット、おちっ、落ち着いてよ! うわっ」

 足がもつれて転倒するエリオット。無防備な耳元にトランペットが添えられた。

「ほんの少し揺らすだけだから」

「い、嫌だよおー!」

 太い音色が響き渡った。

 

 

 川縁は平和である。

 川のせせらぎが柔らかな音色を奏で、自然と心が落ち着いてきた。

「このとんかつもいいな。衣はサクサクだし、ボリュームもたっぷりだ」

「そうであろう。男子ならとんかつが好きと聞いてな」

 どんどんと少なくなっていく弁当箱の中身に、ラウラは満足気な様子だ。

 手渡されたお茶を飲み欲し、リィンは息をつく。

「まだ食べたりないくらいだ」

「そなたさえ良ければ、また作っても構わない……が」

 控えめな上目つかいでリィンを見るラウラ。

「はは、それはぜひお願いしたいな」

「……まったく、簡単にそんなことを言うから。ん、口の周りに衣がついているぞ」

「またか。……これで取れたか?」

「いや、私が取ろう。動くでない」

 ハンカチを取り出し、優しげな手つきでリィンの口もとにハンカチを添える。

 身を乗り出していたラウラの体勢が、不意に崩れた。

「あっ!」

「ラウラ!?」

 とっさに彼女の体を支えるリィン。細い腰に手が回り、ラウラの身が完全にリィンに抱きかかえられる形になった。

「リ、リィン……っ!?」

 草花がそよ風になびく。木々から鳥達が一斉に飛び去っていく。二人のそばを蝶がひらひらと舞う。

 川縁は平和だった。

 

 その最中、すたすたと乱れぬ歩調で、橋の上を通る学生が一人。

 下校中のユーシスである。

「ん? あれはリィンとラウラか? ここからではよく見えないが」

 二人に気付いた彼は方向を変え、川岸に下る階段へと近付いた。

 ヒュンヒュン、ピッシィと鋭い音。

「な、なんだ?」

「来ると思っていたわ。空気を読まない男」

 待ち構えていたポーラが現れた。『読めない』ではなくて『読まない』という辺り、彼女もユーシスの性格をよく捉えている。

「なんだ、いきなり。顔を合わす度に突っかかってくるのも大概にするがいい」

 この見透かしたような、上から物を言うような、傲岸不遜な態度が気に入らないのだ。最初からである。

「それはユーシスもじゃない。口を開けばちくちく嫌味ばっかり言って。あんた将来ハインリッヒ教頭みたいになるわよ」

「俺はあんなヒゲなど生やさん」

「そこじゃないのよ。なんで時々会話がずれるのよ。やっぱり天然だわ」

 四大名門アルバレア家子息と知って、ここまで明け透けに物を言うのは、同年代でⅦ組以外ではポーラくらいのものである。

「元はと言えば、あんたに原因があるのよ。のこのことヘイムダルまで付いていくから……。だから今になってこんな遠回りをすることになっているのよ」

 ムチを持つ手がわなわなと震える。

「何のことだ」

「説明してもわからないわ。とりあえず、百叩きの上で川流しの刑に処す」

「なんでお前に処されねばならんのだ!」

 ムチの一振りが空気を裂いた。

 横っ飛びに黒い一撃を避けるユーシスだったが、ポーラ様の追撃は緩まない。手首を巧みに返して、まるで生き物のようにムチをしならせた。

 かろうじて二撃目もかわしたユーシスに、ポーラ様は嗜虐的な目を向ける。

「ほら、街道まで遠乗りに行くわよ」

「さっきから何なのだ? そもそも馬がどこにいる」

「私の目の前にいるじゃない」

 ひゅんひゅんとうなるムチが、地面を強く叩く。土くれがユーシスの目線の高さまで弾け飛んだ。

「さあ、ひざまずいて馬におなり!」

「俺が何をしたというのだ!」

「教えてあげるわ、その体に! 刻んであげるわ、その心に!」

 逃げるユーシスをポーラ様は執拗に追いかけ回した。

 

 

 川縁は平和である。

「あ……リィン。すまなかった」

 耳まで真っ赤にしたラウラは、体を戻して元の位置に座り直した。心臓の鼓動はまだ収まらない。

「顔も赤いし、熱でもあるんじゃないのか?」

「だ、大丈夫だ」

「それならいいんだが」

 弁当はもう空である。リィンは軽く伸びをした。

「だけど本当にうまかった。やっぱり少し食べたりないな」

「そこまで気に入ってくれるなら、もう少し作っておけばよかったな」

「また頼むよ。――ん、それは?」

 脇に置いてある手提げ袋。その中にあるもう一つの弁当箱にリィンが気付いた。

 ラウラは焦ったように弁当箱を袋の奥に押し込む。

「これは違うのだ。何というか、その、あまりうまく作れなかったのだ」

 ストレートに失敗したとは言えなかった。

「そんなことか、俺はそんなの気にしないが」

 しかしラウラは首を横に振る。

「おにぎりの形は悪いし」

「はは、そんなことか」

「サラダのレタスはちょっと固めだし」

「あごの運動には丁度いいさ」

「とんかつは、少し揚げ過ぎたようだし」

「香ばしさだと思えば、なんてことないだろう」

 半ば根負けのラウラは弁当箱を取り出し、しぶしぶリィンに手渡した。

「むう、味の保証はしないが、それでもいいなら」

「もちろんだ」

 さっそくリィンは弁当箱を開く。

 川縁の平和は終わりを告げた。

 

 丁度その時、ポーラ、モニカ、ブリジットが戻ってくる。

 橋の上で合流した三人は、川縁に目を向けた。

 そこにはラウラしかおらず、リィンの姿は見えなかった。彼女は何かを叫びながら、空を見上げている。

 ラウラの視線に合わせて、首を上げてみた。そこで彼女達は目撃する。

 赤い夕日を背景に、ぼろぼろになったリィンが、きりもみしながら中空に打ち上がる姿を。

 

 

 ● ● ●

 

 

 翌日の昼。

『ごめんなさい!』

 ポーラ達は声をそろえてラウラに謝った。学生会館の一階食堂である。

「まさか失敗のお弁当を一緒に入れてたとは思わなくて」

 モニカが罰悪そうに、しゅんと肩を落とした。

「私がちゃんと確認しなかったから……」

 その隣でブリジットも目を伏せている。

「私が急かしたからよ。ごめんね」

 珍しくポーラも殊勝な様子だった。

 そんな三人にラウラは言う。

「そなた達が謝ることは何もない。十分に尽力してくれたし、おかげでリィンにもあの時のお礼ができた」

「でもリィン君がひどい目にあったみたいだし」

「大丈夫だ。今日も授業に出ていたしな。……まあ、食欲はないらしいが」

 ちなみに現在、教室でリィンが口にしている昼食は、水とパンを少量である。

「で、でも。せっかくの機会が」

「弁当を食べてもらう機会などいくらでもあろう」

「そういうことじゃなくて……」

 三人はまだ謝り足りないらしい。

 ふむ、と腕組みするラウラは、何か思い立ったようにポーラ達を見回した。

「だったら、これからも私に料理を教えて欲しい。いつか一人で色々なものを作れるように。リィンに食べてもらうのは、それからでも遅くはない」

 きょとんとして顔を見合わせるた後、彼女たちは口々に言った。

「私は泳ぎ方を教えてもらってるお返しだね」

「私はヘイムダルで助けてくれたお返しいうところかしら」

「私は何にしようかしら。そうね、楽しい日々を提供してくれてるお返しってことで」

 わざとらしく適当な理由を並べ立てて、協力を約束する三人。その様子がラウラにはおかしかった。

「私はいい友人を持った」

 小さく笑って、ラウラはそう言った。

 

 

 ~FIN~

 

 

 

 

 

 

 

 ~おまけ~

 

 学院敷地内、図書館に近い茂みの中でコレットは意識を取り戻した。空はすでに薄暗い。

「ん……いたた」

 上体を起こすと、かけられていた枝葉がばさばさと落ちた。

「何やってたんだろ、私……確かリィン君にお願い事をしようとして――」

 だんだんと記憶にかかる(もや)が晴れていく。

「え、と。そうだ、リィン君に近づいたら、いきなり誰かに後ろから羽交い絞めにされて……」

 そこで記憶は途切れている。

「今何時なんだろ。時計――」

 視線を虚ろに巡らして、彼女は気付いた。

 となりにもう一人誰かがいる。同じクラスのカスパルだった。自分と同じく木の葉に埋まって横たわっている。

「ちょっと、カスパル。大丈夫?」

 コレットが声をかけると、カスパルはすぐに目を覚ました。

「ん……あれ、コレット? ……モニカは……?」

 鎖骨あたりをさすりながら、カスパルはよろよろと立ち上がった。彼の体からも木の葉が舞い落ちる。

「カスッ……!?」

 カスパルは半裸だった。

 固まるコレット。自分の姿に気付くカスパル。全ての時が止まった。

 コレットの着衣は乱れている。カスパルの着衣はこれ以上乱れようがない。

 落ちかけた夕陽が、引き締まったカスパルの肉体を赤黒く照らした。

「きゃあああ!」

「うわあああ!」

 二人の絶叫が重なる。

「な、な、な、何やってるの、カスパル! わ、私に何をしたの!?」

「ち、ち、ち、違うんだ、コレット! 俺はまだ何もしていない!」

「これからするつもりだったのね!?」

「何でそうなるんだ!」

 慌てに慌て、焦りに焦り、どもりまくる二人。

「聞いてくれ、コレット。俺も思い出すから、落ち着くんだ。俺は確か最後、モニカに『サモーナック・バターソテー』を――」

「さもーなっくば……? さ、さもなくば……!? 私を脅迫する気なの!? 見下げ果てたわ、カスパル!」

「は、はあ!?」

 コレットはそばに落ちていた大きめの石をわし掴んだ。

「近づかないで! それ以上こっちに来たら、カスパルの頭に三段アイスみたいなたんこぶを量産してやるんだから!」

「量産はやめてくれ!」

 コレットを落ち着かせる為に足を引こうとしたカスパルだったが、モニカから受けたダメージは抜けきっていなかった。

 足がもつれ、逆に前のめりに倒れ込んでしまう。

「うわっ」

「ひっ!?」

 それこそバタフライのように、大きく水をかく腕の動きで、カスパルは勢いよくコレットに覆いかぶさっていく。

「ケダモノーッ!」

 突き出されるコレットの右手。握った石が、カスパルの額に『ゴッ』と鈍い音を立てて直撃した。

 ずるずると地に落ちるカスパル。石を片手に立ち尽くすコレット。

 遠くから聞こえるカラスの鳴き声だけが、物悲しく空に響いていた。

 

 この日、水泳部の一年二人は、幾何かの代償を支払い、そろってバタフライを習得した。

 かたや、乙女の危機を救った『異様に硬い謎の石』が、コレットから依頼を通じてリィンに渡ることになるのは、まだもう少し先の事である。

 

 

 ~END~

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございました。

リィンの爆散と引き換えに、彼女達の仲はさらによくなりました。

クッキング系の話はこれで終わりではありません。お忘れの方もいるかと思いますが『アキナイ・スピリット』の後日談で予告していたアレです。
どちらかと言えばあれがガールズクッキングの正当後継だったりします。タイトルは『クッキング・フェスティバル』。そちらもお楽しみ頂ければ幸いです。

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