十月初旬。昼休みのことである。
クロウは技術棟を訪れていた。
「よう、ジョルジュ。連絡ありがとよ」
「頼まれていたもの。やっとできたよ」
工具を片手に、ジョルジュは汗を拭う。今しがた完成したという物は、すでに小さな箱に収められていた。
「助かるぜ」
クロウは箱を受け取ると、無造作にかばんの中に押し込んだ。
「扱いは慎重にね。急に入用になったって言うから慌てて完成させたけど、まだ試運転もしてないんだ」
「それは俺がやっとくから構わねえよ。手間取らせて悪かったな」
クロウの言葉にジョルジュは小さな違和感を覚えた。
「君は最後まで言わなかったけど、それを何に使う気なんだい?」
「……悪い、言えねえ。言えばお前まで巻き込むことになっちまう」
罰悪そうに目を背ける。
その態度でさえも、普段の彼とどこか違う気がした。なぜ、いつものように飄々とごまかさない。ただ理由も告げず謝るなんてことが、今までに一度でもあっただろうか。
「僕がそんなことを気にすると思うのかい。そこまで浅い付き合いじゃないはずだろう。力になれることがあるなら、協力は惜しまないつもり――」
「もう十分、協力してくれたぜ」
ジョルジュの言葉を静かに遮り、クロウは踵を返した。かばんを手に、扉へと向かう。
どこが、とは言えないが、やはり何かが違う。
形容し難い不安を覚えたジョルジュは、その背に聞いた。
「どこに行くんだ?」
要領の得ない問いだった。それこそ、どうにでもごまかした返答が出来てしまうような。
しかしクロウは何も答えなかった。
ただ無言で右手を振って見せる。
「……クロウ」
振り返ることさえせず、遠ざかっていく背中を眺め、ジョルジュはその名を呼ぶことしか出来なかった。
●
「僕とチェス勝負……ですか?」
「おう、一つ揉んでやってくれや」
放課後の学生会館二階、第二チェス部。
マキアスは驚いていた。クロウがチェスの相手を申し出てきたのだ。
今までに何度か、マキアスはチェスの対戦をクロウに頼んだことがある。しかし何かと忙しい上、チェスでの一勝負は時間がかかるからと、結局今日までずっと流れていたのだが。
「てっきりブレードの相手でもさせられるのかと思っていました」
「それでもいいんだけどよ。ま、たまにはお前とチェスでもやってやろうかと思ってな」
さっそく対面して座ったクロウに、マキアスは訝しむ目を向けた。
「……先輩、何かあったんですか?」
「何もねえよ。あ、いや一個あるな」
わざとらしくクロウは付け足した。
「俺が勝ったら、たまってるレポート仕上げてくれや」
「なんだ、そういうことでしたか。でもお断りします。そもそも負けませんよ」
不敵に言い放ち、マキアスは肩をすくめる。
「お、言うねえ」
「お望み通り、揉んで差し上げましょう」
マキアスはくいっと眼鏡を押し上げ、白のポーンを一マス前進させた。
「チェックメイト」
開始から三十分と経たず、マキアスが涼しい声で告げる。
「おいおい、まじかよ。ってことは、こう動かしたらどうだ」
「逃がしませんよ。このフィールドはすでに僕のものです」
「だったら、こっちで!」
「クイーンが逃げ回るなんていけませんよ。もう諦めたらどうですか」
黒のキングが、白のナイトとビショップに退路を阻まれている。一見して逃げ場はなく、これにて勝負ありである。
「ふふ、レポートはご自分でどうぞ」
「あーあ、ちくしょう。……あ、そういえば」
思い出したようにクロウが言った。
「お前、このあいだ屋上でなんか叫んでたよな?」
「何のことで……あ」
言われてマキアスも思い出した。例のアランとの一件で、不良になる練習をした時だ。あの時マキアスは屋上で不良笑いの習得に努めていた。
「あの笑い方、も一回やってくれよ。今ここで」
「ええ? そ、それは無理ですよ。大体なんでこんな所で――」
「頼む」
今度こそマキアスは驚きを隠せなかった。クロウが頭を下げたのだ。
「え! ちょっと!? 顔を上げて下さい、先輩」
「お前があの笑い声を聞かせてくれるなら、今すぐにでもな」
「わ、わかりましたよ。やりますから! 何なんですか、まったく……」
訳もわからないまま、結局応じることになってしまった。
「じゃあ、やりますよ」
「ああ」
こほんと咳払いを一つしてから、彼はあの時のように揚揚と笑いあげた。
「ヒィアッーハーッ!」
ハー、ハー、ハーと廊下にまで残響がこだまする。
なお文芸部の部室で、小説を執筆していたエマのペンがピタリと止まったが、それはマキアスに及びもつかないことだった。
「こ、これでいいですか。もう二度とやりませんからね……あれ、先輩?」
いつの間にかクロウは立ち上がっていた。
「安心した。お前は真面目過ぎるからよ。たまにはそんくらい砕けてみるのもいいと思うぜ」
「何を……」
「ささやかなアドバイスってやつだ。じゃ、俺はたまってるレポートでも片付けに行くとするか」
作ったような困り顔を浮かべて、クロウは部室を出ていった。一人残されたマキアスは呆然と立ち尽くすのみだ。
「一体どうしたんだ?」
目的の見えないクロウの行動に違和感を覚えながら、マキアスは盤上に目を落とす。
気付いた。今のゲームは完全に詰んでいない。黒のキングが逃れる道はまだあるではないか。
クロウが見落とした? 違う。あの人はそんなイージーミスはしない。むしろ巧妙に生存ルートを探しだし、反撃してくるタイプだ。
「……先輩?」
廊下に出て、辺りを見回す。クロウの姿はもうどこにもなかった。
黒のキングが静かに盤上に立っている。
物言わぬその佇まいが、マキアスにはなぜか不吉を孕んでいるように見えた。
「よお、お二人さん。今帰りか?」
帰宅途中、正門を出ようとしたガイウスとエリオットをクロウが呼び止めた。
「今日は部活ないのかよ?」
軽い足取りで、二人に近づいて行く。
「ああ、美術部はない」
「吹奏楽部もね」
少し黙考した素振りをみせてから、クロウは言う。
「お前ら、ちょっと俺に付き合えよ」
少しして、三人はグラウンド周りのトラックを走っていた。
「文化部だから体がなまっていいわけじゃねえぞ。特にエリオット、もうへばってんのか?」
先頭を走るクロウが背後に声を飛ばす。息切れするエリオットの荒い呼吸が聞こえてきた。
「はあ……はあ……僕もう無理だよ」
「がんばれエリオット。もう少しだ」
速度を落としたガイウスがエリオットに並ぶ。かれこれ、もう七周目だ。
「クロウも何だって急に、俺と一緒に走れなんて言い出したのかな」
「それは俺にもわからないが、とりあえずあと三週したら終わりだ」
「も、もう耐えられない……」
一方、クロウのペースは落ちる気配もなく、一定の速度を保っている。
「遅れんじゃねえぞ! ほれ、もう少しだ」
二人を鼓舞するように、クロウはぶんぶんと腕を振る。
ガイウスとエリオットは互いの顔を見合わせた。軽薄な口調こそ相変わらずだが、どことなく無理に明るく振る舞っているようにも感じるのだ。
「うーん……」
「ふむ……」
何なのだろうか。胸中の疑問に答えはでない。二人は前を行くクロウの姿を、揺れる視界の中に入れる。
クセのある銀髪が風に揺れ、トレードマークのバンダナが汗に滲んでいた。
グラウンド十周を走り終え、エリオットは片隅でへたり込んでいる。さすがのガイウスも地面に腰を落としていた。
「ほい、お疲れ。お二人さん」
そんな二人にクロウは冷えたドリンクを手渡した。今しがた売店で買って来てくれたものらしい。
「あ、ありがとう」
「感謝する」
カップを受け取って、一気に飲み干すエリオットとガイウス。水分が喉を潤し、体中に染み渡っていく。ようやく生き返った心地だった。
「何だか珍しいね。クロウがドリンクまで用意してくれるなんてさ」
エリオットはクロウを見上げた。
「おいおい、俺をケチ扱いすんなって。同じクラスとは言え、一応これでも先輩なんだからよ」
「そういえば、そうだったな」
ガイウスが笑うと、クロウは肩を落とす。
「お前まで言うか。ったく」
「それで、どうして急に走り込みを始めたのだ?」
「そりゃーあれだ。十月の半ばに、サラが勝手に取りつけやがった体育大会もあるし、体力は付けといた方がいいだろ」
「ああ、だからか」
ガイウスは納得したようだった。
「体育大会の後は学院祭もあるしな。忙しくなるのはこれからだぜ?」
「そうだよね……やっぱりまだ不安だけど。楽器は用意できるんだけどさ」
橙髪が不安げに垂れる。Ⅶ組の出し物としてバンドステージを行うことになったのだが、まだ詰めるべきことは多い。
当然だがエリオットは楽器演奏の指導役だ。ちなみにクロウは演出担当である。
「楽器って言っても色々あるよな。でかい楽器の方が音の迫力があるのか?」
「そうとも限らないよ。やっぱり演奏の仕方次第かな」
「なるほどな。しかしまあ、お前の体躯で、身の丈ほどの弦楽器を弾けるのは大したもんだぜ」
「扱いやすいから、小さい方が僕は好きだけどね」
苦笑するエリオットの肩をぽんと叩く。
「ステージの成功は俺らの指導にかかってくる所も大きい。頼りにしてるぜ、エリオット」
「う、うん」
ジョルジュやマキアスと同じく、エリオットも違和感を感じた。
調子が悪いようにも見えない。機嫌はむしろいいくらいだ。なのに拭えない小さな引っ掛かり。すぐ近くにあるはずの心が、何かに覆われていて見通せない――そんな気がした。
「お、あんなところにも」
その折、クロウの視線は馬舎へと向いていた。ユーシスが馬の世話をしている。
「あいつにも声掛けるか。ガイウス、悪いがもう少し付き合ってくれ。エリオットはまだ休んでな」
「俺は構わないが」
ガイウスを引き連れ、クロウは馬舎へと向かう。
「今日のクロウ、変なものでも食べたのかな……?」
空のカップを意味もなくすすり、エリオットは怪訝顔で二人を見送った。
「だいぶ引き締まってきたようだな」
白馬の後ろ足を軽くさすってやるユーシスに、クロウとガイウスが歩み寄る。
「よっ。楽しそうにやってんな」
「いつ見ても見事な毛並だ」
振り返るなり、ユーシスは意外そうな目をクロウに向けた。
「お前達か。ガイウスはともかく、クロウが馬舎に来るとは珍しいな?」
「まあな。お前さんこそ一人なのか? ランベルトや、あのポニーテールのお嬢ちゃんはどうしたよ」
「今日は馬術部の活動日ではないが、馬の世話は部員で分担して毎日行っている。今日は俺の担当日だ」
ユーシスの傍らには、バケツに入ったエサや、馬舎掃除用のモップ。その他手入れ用具などが一通りそろっている。
「食事や体調の確認、ボロの処理などやることは多い。手は足りていないが、
「違いねえ」
「それで」
ユーシスは手を止めて、改めてクロウに向き直った。
「お前は何をしに来たのだ? まさか馬の世話の手伝いにきたわけでもあるまい」
「何言ってんだ。その馬の世話を手伝いに来てやったんだよ」
「だろうと思っていた。冷やかしなら早く去るが――」
ピタリとユーシスの動きが止まる。彼の手にあった馬の体調管理張がばさばさと地面に落ちた。
「この枯草はこっちにまとめたらいいのか?」
「あ、ああ。そこでいい」
ユーシスは戸惑いを隠せなかった。あのクロウがわざわざ手間のかかる馬舎の清掃を申し出てくるなど。
何らかの罰を受けているのかとも考えたが、それにしては積極的だし、今のところ手を抜く様子も見られない。
「馬のブラッシングはあらかた終わったぞ」
根ブラシ、毛ブラシ、専用のゴム櫛を手に、ガイウスが馬舎へと戻ってくる。
「さすがだな。手早いものだ」
「子供の頃からやっていたからな。久しぶりに馬と接することができて俺も嬉しい。そっちはどうだ?」
「馬舎の中もこの通りだ」
ユーシスが視線を転じる。枯草まみれになりながら、汗だくのクロウが床をモップでこすっているところだった。
「ふむ。なんと……」
「もう切り上げてもいいだろう。――クロウ、あとはその袋で一まとめにしてくれ」
腰をとんとんと叩きながら、クロウは顔を上げる。その表情は晴れやかなものだった。
「ふいー。もう終わりでいいのか?」
「ああ、お前たちのおかげで早く済んだ。感謝しよう」
「いいってことよ」
モップを横に置いて、軽く伸びをする。
「代わりと言っちゃなんだが、ちょっと頼みたいことがあるんだが」
「何かと思えばそういうことか。まあ……助かったのも事実だからな。とりあえず言ってみるがいい」
クロウはにっと笑った。
「馬に乗りてえんだ。お前らと一緒にな」
軽快な足音を立てて、三頭の馬が街道を走る。
「ひゅー、最高だな!」
「言っておくが、他言はするな。特にマッハ号はランベルト部長の馬だからな」
「クロウは乗馬も出来たのか」
上機嫌に手綱を繰り、速度を上げるクロウ。その後ろにユーシスとガイウスが続いた。
「今日はいい風が吹いているな」
「ふん、部長に知れたら説教物だ」
「済まないな。俺まで付き合わせてもらって」
「いや、礼のつもりだ。お前は気にしなくていい」
流れていく景色。身を撫でる清涼な空気。馬の足を通じて伝わってくる振動と、心地良い疾走感。
ユーシスと並走して、ガイウスは言った。
「今日のクロウ、変だと思わないか?」
「変なのは普段からだが、まあ確かにな」
馬に乗りたいのなら、わざわざ回りくどい手伝いなどせず、『馬に乗りてえんだけど、構わねえよな。悪いようにはしねえからよ』くらいのノリで来て、必要のない不安を煽っていくくらいが、普段のクロウなのだ。
「何かあったのだろうか?」
「考えて分かることでもあるまい」
クロウの背中が遠ざかる。本当にどこかに行ってしまいそうだった。自分たちの知らない、どこかへ。
「それはそうと、乗馬において俺達は一日の長がある。いつまでもあいつに前を走らせておいていいのか?」
「ふふ、付き合おう」
二人は同時に前傾に身を屈め、足に力を入れて手綱を握り直す。
『ハイヤー!』
重なる掛け声と共に、二頭の馬は街道を駆け抜けた。
「周囲に気をつけろよ。普段より人数が少ないからな」
薄暗い旧校舎地下を歩く二つの人影は、クロウとリィンだった。
「ああ、しかし珍しいな。旧校舎探索を兼ねて実戦練習に付き合ってくれだなんて」
「意外かよ。これでも士官学院生だからな。鍛錬は欠かしちゃだめだろ」
「いいことだと思うけど、クロウの場合、先にレポート課題を提出した方がいいと思うぞ。ただでさえ卒業の単位が足りてないんだからな」
「卒業……ね。どのみちできねえよ」
呟かれたその言葉はリィンの耳に届かなかった。
地下を流れる水道の音と、小さく響く自分達の足音だけが静かに耳朶を打つ。
「そういえばお前と二人でここに入るのは、あの時以来だな」
「エリゼを助けるのに力を貸してくれた時か? あの時はパトリックもいただろ」
「ああ、忘れてたぜ。こないだもあの嬢ちゃん、お前に会いに来ただろ。兄様は好かれてるねえ」
どこか悪戯っぽく言い、クロウは頭の後ろで手を組んでみせる。
「やっぱ久しぶりに会うと、変わってたりするもんか?」
「そんなことないさ。久しぶりって言っても、数か月しか経ってないんだしな」
リィンはかぶりを振って、小さく笑う。
「あの時のままだ。何も変わらない」
どこか安堵するような優しげな口調は、妹を案じる兄のそれだった。
クロウの歩みが、心なしか遅くなった気がした。
「変わらないか……だけどな、リィン。変わっていくものもあるぜ」
一瞬、普段の軽薄さが薄れた。その目もどこか遠くを見据えている。薄暗い通路のさらに奥、見通せない闇の向こうに、彼は何を見ているのか。
「……クロウ?」
「わりい、ガラにもなかったな。だが、お前は迷うんじゃねえよ。いつも自分で言ってるじゃねえか――」
言いながら、クロウはリィンの右腕を強く掴んだ。
「この手で道を切り開くんだろ?」
手の平が熱かった。何を伝えたいのかはわからない。暗に含んだように言うが、意図はやはり判然としない。
ただ、その目に曇りはなかった。
真っ直ぐに自分の瞳を捉えるクロウに、リィンもまた目をそらさずに応じる。
「頼んだぜ。Ⅶ組のリーダー」
その言葉に、一抹の不安を感じた。それはⅦ組への編入期間が終わるから、あえて告げた言葉――ではないように思えた。
「なあ、クロウ。一体――」
「待て」
リィンの言葉を鋭く制し、クロウは一対の銃を取り出した。
「お出迎えだ。数が多いな」
気配を察したリィンも、すらりと白銀の刀身を引き抜く。
「六、七……いや、物陰にも二匹いるか」
ざわざわと蠢き、敵意を向けてくる魔獣の影。腹に響く低い唸り声。
「逃げるか?」
「あの数なら追いつかれるだろう。突破しよう。俺とクロウならやれるさ」
「ったくお前は。だが、まあ。同感だ」
二人の意志に呼応し、《ARCUS》が淡い光をまとう。
繋がるリンクの光軸が薄闇を裂いた。
銃口と切先が同時に持ち上がり、揺るぎなく魔獣を捉える。
「俺が援護する。後退はないぜ、わかってるな」
「ああ」
柄を両手で構え直し、リィンは力強く地を蹴った。
「この手で道を切り開く!」
●
「まあ、こんなもんだろ」
正門を抜け、長い坂を下りながら、クロウは一人ごちた。
ふと足を止め、空を見上げる。
ずいぶんと放課後で時間を使ったので、すでに日が落ちかけている。
赤く染まる空に流れる雲は刻々と形を変え、やがて風に散っていく。かすれた白い軌跡が、あかね色の中に薄く伸びていた。
「変わらないものはない、ってか」
自嘲の笑みを浮かべ、クロウは再び歩を進めた。
教会を横目に通り過ぎ、アノール川にかかる橋の上まで来た時、正面から誰かがやってくる。
細面ながら凛々しい顔立ち。夕日に照らされる濃紺のバイクスーツ。凛とした佇まいは崩さず、男装の麗人と言う形容が誰よりも似合う、その女性。
アンゼリカ・ログナーが毅然とした足取りで近付いてきた。
歩調を緩めるでも、挨拶を交わすわけでもなく、クロウも彼女に歩み寄る。
目線も合わさずにすれ違い、一歩進んだところで、互いに同時に足を止めた。
背中合わせのまま、二人は無言だった。
遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。
しばらくして、先に口を開いたのはクロウだった。
「……学院、辞めるんだってな」
肩を落とすでもなく、アンゼリカは平然とうなずいた。
「先日のルーレでの一件でね。親父殿の反感を買ってしまった。名目は休学だが、実質は退学だな」
「悪いと思ってる」
「君が謝る必要はない。ザクセン鉄鋼山でⅦ組に加勢したのは、紛れもない私の意志だ」
「……ああ、そうだったな」
二人は反対の道を見据えたまま、言葉を交わす。下校時間から外れたせいか、辺りには誰もいない。
アンゼリカが息を吐き、クロウに問う。
「仕込みは?」
「済ませた」
主語も述語もない問いに、クロウは一言そう答えた。
「首尾は?」
「上々」
「裏切ることになる。あるいは失うことにもつながる」
「承知の上で俺はここに立ってるんだぜ。……逆に聞きてえ、お前はいいのか?」
「何がだ」
「お前は女だ。あえて危険を冒す必要はないだろ」
アンゼリカは楽しげに言う。
「クロウがフェミニストだったとは意外だな」
「ゼリカ……! 俺は」
「わかってる。わかってはいるんだ」
言葉を遮って、アンゼリカは目線を落とした。
「これは私のわがままだ。ささやかな夢と切実な願い。叶えること自体は容易いのかもしれない。だが百万ミラを拾う事と、百万ミラを稼いで手に入れることでは意味合いが違う。私が欲しいのは達成感だ。この学院での生活に相応しい締めくくりという、ね」
「……は。大貴族のご令嬢の言葉とは思えねえな」
「らしくないだろう。センチメンタルだと笑うかい?」
「いや、らしいと思うぜ」
再びの静寂は長く続かず、すぐに二人の笑い声が重なった。
「オリヴァルト殿下もいいタイミングで計らって下さった」
「そうだな」
アンゼリカは目線を上げた。クロウの瞳にも、すでに強い光が宿っている。
ぐっと拳を握りしめ、猛々しく声を張り上げた。
「征くは!」
「ユミル!」
「目指すは!」
「温泉!」
「目的は!」
同時に振り向き、がっと勢いよく腕を交錯させる。
強く、激しく、高らかに、彼らは宣言した。
『のぞきだ!!』
悲願、宿願を胸にして、困った先輩達による最高難度のミッションが幕を開けた。
――中編に続く――
《出発前夜》
☆マキアス☆
「忘れ物はないな。うん……もう一回チェックしよう」
この手の事前準備は性格が出る。彼の持ち物確認はこれで四回目だ。
「むう。やはり酔い止めの薬は取り出しやすいようにもっと上に……おっと頭痛薬も忘れてはいけないな。あ、胃薬も持って行かないと。飲み水は今から白湯を沸かして――」
すでにかばんはパンパンだ。しかし見事に整理されているのはさすがと言うべきか。一分の隙間もなく、正解が他にないパズルのように完璧な布陣であった。
「よし! 終わり!」
ファスナーを締め終わったところで彼は気付いた。忘れ物があったのだ。決して忘れてはいけない、あるものが机の上に出しっぱなしだ。
「しまった。チェス盤を入れなければ」
今は気分が高揚しているからいいが、向こうで落ち着けばヒマを持て余すかもしれない。
絶望に駆られ、成す術もなく、しりとりを始めかけるメンバーの前で颯爽とこれを取り出すのだ。『仕方ないな、君達は。いい物があるぞ?』などと言って。
あまりの先見の明に、皆の驚く表情が目に浮かぶ。
「ふふ。頼りになる副委員長とは僕の事だな」
眼鏡を押し上げ、かばんのファスナーを開く。
チェス盤を入れるスペースを確保する為、再びあくせくと中の荷物を取り出すのだった。
☆アリサ☆
「お嬢様、どうぞ」
丁寧に折り畳まれたハンカチを、横からシャロンが差し出してくる。
「子供じゃないんだから、準備くらい自分でするわよ」
言いながらも受け取って、アリサはそれをバッグに入れた。
「明日から二泊三日でご旅行ですものね。私はルビィとお留守番ですわ。お嬢様と離れ離れなんて、さみしくて泣いてしまいそうです」
「よく言うわよ……」
出てもいない涙を拭うシャロンに、アリサはげんなりとした口調で言う。
「ところでお嬢様。ユミルはリィン様の故郷でしたわね」
「ええ、そうよ」
「ということは、リィン様のご両親と対面する可能性もあるわけですね」
「それはまあ、挨拶くらいはするでしょう」
「挨拶……なるほど」
こほんと咳払い。
「ご両親の前ではリィン様のことは呼び捨てではなく『リィンさん』とお呼び下さい。あと片時もそばを離れず、甲斐甲斐しくお世話をするのです。そしてどこかのタイミングで、うっかりを装ってシュバルツァー男爵閣下を『お父様』と呼び間違えるのです。はにかんだように照れながらですよ」
「な、なんなのよ、それは!」
赤面するアリサをよそに、シャロンは続ける。
「旅はお互いを開放的にさせるもの。いい雰囲気は突然やってくるものです。ですので――」
「ですので、なに?」
「下着はこちらの方が宜しいかと」
「きゃあ! ちょっと、引き出し勝手に開けないでよ!」
わたわたと焦るアリサ。うふうふと笑うシャロン。
「何でしたら、今から用意して参りますわ。“目を疑う程すごい一品”を」
「い、いらないわ! どんなのよ、それ! とりあえずもう大丈夫だから出てってよ!」
一息にまくし立て、シャロンを部屋から追い出す。
アリサは息も荒いまま、準備に戻る。
「……別に深い意味はないけど。棚に戻すのも手間だし。ついでだし」
誰に言うでもなくつぶやいて、アリサはシャロンの取り出した下着を、そっとかばんの底に忍ばせた。
☆ガイウス☆
彼は悩んでいた。旅行の準備は滞りなく終わったのだが、一つどうしても入らない物がある。
それは眼前のキャンバスだった。
「ユミルは景色がいいと聞く。合間を見つけて、ぜひ下絵だけでも書きたいのだが……」
しかしどうやってもこれはかばんに入らない。
それでも諦めきれなかったガイウスは、縦、横、斜め、果ては裏返し、何とかかばんに押し入れようとした。案の定無理だった。
これが自然の摂理か、いや物理か。などとどうでもいい思考が巡る中、彼は思いついた。
「紙だけ持って行き、置台は諦めよう。これなら何とかなる」
現実的な譲歩案だったが、それでも絵画用の紙は大きい。たたんで折り目は付けたくないし、巻いてみても縦幅的にかばんには収まらない。
「……これは試練だ」
あぐらをかいて沈思黙考。
やがて彼は閃いた。折り畳まず、丸めず、かつ自然に紙を持って行く方法を。
「風の導きだな。今日は冴えている」
しばらくの後、それは完成した。
彼は部屋の中心で、天井に向けた槍を満足気に携えている。槍の穂先には開いた状態の紙を括りつけてあった。
風にはためく様は、さながら軍旗のようでもある
「これならいいだろう。士官学院生らしい」
ふと思い立つ。
「しかしこれではどこの学生か分からないな。帝国は身分に敏感だ。俺達が何者か一目で分かるようにしなければ」
ガイウスはキャンバスの裏側に何やら文字を書き足した。
「うむ。明日が楽しみだ。できれば先頭を歩かせてもらおう」
“トールズ士官学院、1年Ⅶ組一同”
ガイドのお兄さんの誕生である。
☆ラウラ☆
「何を用意したらいいのか……」
ラウラは困っていた。腕組みをして、壁にもたれかかる。
衣類は入れた。路銀も問題なし。
「……あとは何だ?」
他のメンバーのかばんを横目に見た感じだと、皆はち切れんばかりに荷物がいっぱいである。
特に女性陣はその傾向が顕著に表れていた。
だというのに、自分と来たら。
「スカスカではないか。その気になればミリアムを詰められるぞ」
特にかばんが大きいわけではない。入用なものは入れてある。
ならば、それでいいはずなのだが、何だか落ち着かない。
“乙女たるもの、荷物多くあるべし”
自ずとそんな格言が頭によぎる。
「ううむ……何を入れたらいいのだ。みっしぃの着ぐるみでも入れてみるか?」
見えない何かに追い詰められ、そんな暴挙に出かかった時、ラウラは思いついた。
ユミルはルーレよりも遠い。時間も当然かかる。騒げばそれなりに腹も空こう。
「よし、弁当を作って持って行こう」
顔を明るくして、ラウラは厨房へと駆け出した。
☆エリオット☆
「うん、これでオッケーかな」
まったくノーマルな準備だった。多過すぎず、少なすぎず、しかし必要なものは揃っている。
強いて言えば、バイオリンとしばらく離れないといけないのが少々心残りなくらいか。ケースに入れて持って行けなくはないが、そこまではさすがにできない。
「マキアスだってチェスを持って行くなんてことはしないだろうしね、はは」
軽くぼやいて、かばんの中をのぞく。まだ結構スペースがあった。
「本くらいは持って行こうかな。まだ買ったきり読んでない音楽史の本があったんだ」
机棚からまだ袋に入ったままの本を手に取り、そのままかばんの脇に差し込んだ。
最近では本一つ買うのにも一苦労するようになってしまった。
トリスタに一つしかない本屋。《ケインズ書房》。必然、学院外で書籍を購入するとなると、そこを頼る以外にないのだが、エリオットはなるべく《ケインズ書房》に立ち入らないようにしていた。
先日、この本を買った時もそうだった。
恐る恐る店内に入った瞬間に『猛将じゃないか!』と店主のケインズは立ち上がり、向けられる他の客の目線がいたたまれない程痛かった。
さらに目当ての本を探す間、後ろからケインズが付け回してきて『ほーう、今日のカムフラージュはそれですか?』とか『本当に用があるのはこっちのコーナーだろう?』とニヤニヤ笑いかけてくるのが、どうにも胃に悪い。
そして狙っているのか、そのタイミングで必ずミントがやってきて『今日のエリオット君は猛将だー!』とか叫んでいくわけである。
「勘弁して欲しいな……」
深くため息をついて、かばんのファスナーを締める。
この時は気が付かなかった。
今しがた入れた中身の見えない黒い袋。書籍の入ったビニール製の袋。
エリオットは失念していた。ケインズ曰く“黒い袋は紳士専用”だという事を。
袋の中には本が二冊入っている。
一冊は購入した、音楽史。
もう一冊はケインズが密かに混入させた、禁忌の書。
「あー、明日楽しみだなあ」
エリオットは朗らかに笑った。
☆エマ☆
「聞いたよ。小旅行でユミルに行くんだってね?」
「……はい」
夜。街灯の下、エマはガイラーと対峙していた。
「君達の功績を考えれば、ささやかすぎる労いだ。楽しんできたまえ」
「……はい」
何ということだろうか。誰かが入用になるかもしれないと、酔い止めの薬を雑貨屋に買いに出かけたら、あろうことか帰宅途中のガイラーと出くわすとは。
「ユミルは温泉が有名だね。湯治がてら私も何度か足を運んだことがあるよ」
「そうでしたか」
「……で、いつから行くのかな?」
「……言えません」
言ったら確実に付いてくる。列車の天井に張り付いてでもやってくる。
そして何食わぬ顔で温泉に現れ、男子達を思うさまに餌食とするだろう。平穏な旅行を守る為、Ⅶ組委員長として絶対に口を割る訳にはいかない。
「ふふ、その毅然とした態度。実にいいね。まあ、君の土産話だけでも私は十分なのだが」
「お土産話ですか。それくらいなら、もちろん構いませんが……」
少し安堵する。何が何でも付いてくるつもりはないらしい。
しかしガイラーは目はらんらんと輝いていた。闇の中で怪しく光るその瞳。
「そうそう。次の新作のテーマが決まったのだ。『温泉ミラクル・酒☆池☆肉☆林』というタイトルでね」
「やっぱりお土産話もダメです!」
即座に踵を返して、寮に向かって全力疾走する。
一切の躊躇もなく、ガイラーはエマを追いかけ回した。満月を背景に、彼は鮮やかに宙を舞う。
「きゃああ!」
叫びながらエマは思う。
頭痛薬と胃薬を追加購入しなければ。
☆フィー&ミリアム☆
「旅行たのしみだねー」
「だね」
フィーとミリアムは二人で明日の準備を進めていた。
エマから渡された持ち物リストを参考に、リュックサックの中にあれやこれやと詰め込んでいる。
「準備完了」
「えー、まだだよ」
フィーがリュックを締めようとすると、ミリアムが不満げな声を発した。
「なんで? もう何もないと思うけど」
「おやつが入ってないよ!」
それにはフィーも同意だった。
「忘れてた。いっぱい持って行かないと」
「でしょー。おやつはいくらまでとか決まってたっけ?」
「プライスレス」
そんなわけで一階の戸棚から大量のお菓子が、アガートラムによってフィーの部屋に運び込まれてきた。
寮内のお菓子はこの二人が食べ尽くしてしまうので、普段は彼女らの手の届かないところにシャロンが格納していたりする。
「わー、すごい量! シャロンが一階にいなくてラッキーだったね」
「ぶい」
目を輝かせる最年少二人組。
「よいしょ、よいしょ」
「ん……ん」
詰めて、詰めて、なお詰めて。あっという間にリュックはパンパンである。それでも入りきらないお菓子はまだまだ残っている。
「余っちゃった分はどうしよっか?」
「適切に処理」
「だよねー!」
「まあ、お二人とも。何をされているのでしょう」
静かな声が割って入り、宝の山に伸ばしていた手の動きがピタリと止まる。
わずかに開いたドアの隙間から、シャロンが半分顔をのぞかせていた。目も口許も笑顔であるが、それが逆に怖かった。
山積みのお菓子を体で隠しながら、フィーとミリアムはずりずりと後退する。
時すでに遅し。
ギイィィと音を立てて、扉が開かれていく。
「うふふ……」
笑むシャロンが楚々とした足取りで部屋に入ってくる。
ちびっこ達に退路はなかった。
☆ユーシス☆
「ふっ」
と不敵に笑う。準備に一切の手抜かりはなかった。
実を言えば、このような旅行など初めてだったのだが、それはそれ。つつがなくユーシスは全ての用意を済ましていた。
それも五日も前から。
「洗面用具は入れたな。留守にする間の馬の世話は、部長とポーラに変わってもらったし、他の講義のレポートも残っていない」
完璧である。
「目覚まし時計は朝六時から十分置きに三回鳴るようにセットした。これで……いや――」
いそいそとショルダーバッグを開く。
「寝巻きも入っているな。枕は朝起きてから入れればよかろう」
バッグの上にでかでかと『枕忘れるべからず』と書いたメモを張りつけると、ユーシスはベッドに横になった。
「体調は万全にしておきたいからな」
時刻は二十一時。疾風の就寝タイムだった。
その一時間後。
「寝れん」
体を起こす。寝るには時間が早すぎるのだ。眠れるわけがない。
何とか寝付こうと努力してみる。
その二時間後。
「まったく寝れん」
自分は遠足を楽しみにしている子供ではないのだ。第一、旅行など別にそこまで期待していない。ちょっと温泉に浸かって、ちょっと郷土料理をつまんで、ちょっと宿に泊まって帰ってくるだけなのだ。
楽しみというには少々大げさだ。
そもそも温泉など入ったこともないのに。
温泉など――どんな感じなのだろうか。癒されるのか? どんな風にだ? 気持ちいいのか? 普通の湯と違うのか? ユミルの郷土料理とはなんだ? 寒い地方だから鍋か? 鍋なのか? 鍋だとして何鍋だ? 事前にリィンに聞いておけばよかった。今から聞きに行くか? ユミルの鍋とは何なのだ、と。
「はっ!」
気付けばさらに二時間が経っていた。
夜中の二時である。一睡もしていない。これはまずい。非常にまずい。何が何でも寝なければ。しかし寝ようと思う程に眠れない。
妙に時計の音が大きく感じる。隣の部屋のエリオットが咳をした。向かいのガイウスの部屋から風の音がする。窓を開けているのか。こんな夜中に風を感じなくてもよかろう。真上はラウラだが、なんだか異臭が漂っている気がする。
「くっ!」
なぜ今日に限って眠れないのだ。
「白馬が一頭、白馬が二頭……」
これぞ古来より伝わる最終奥義。これならさすがに眠れよう。
ユーシスは安らかに目を閉じた。
その四時間後。
「……白馬が一万七千六百五十二頭……」
朝六時。目覚ましが鳴った。
☆サラ☆
「私もユミル行きかー。教官冥利に尽きるってもんよねえ」
部屋で荷物をまとめていたサラは、二本目のワインを開けたところだった。
「にしてもナイトハルト教官ったら失礼しちゃうわ」
だん! と酒瓶の裏を丸机に叩きつける。
「なーにが、『あくまで引率者として同行するので、節度ある行動を心掛けて頂きたい』よ! わーってるわよ。ていうかそれって生徒にいう言葉でしょうに」
酒も回ってきたのか、とろりとした目を引き下げて、かたわらのバッグを開く。遊撃士時代から愛用しているバッグで、小振りながら収納性能が高く、何かと重宝していた。
「このとーり、準備だって万端なんだから。むにゃ……」
ベッドに突っ伏して、サラはそのまま寝息をかく。
開いたままのバッグには未開封の酒瓶が、ぎっしりと詰まっていた。
☆トワ&アンゼリカ☆
「アンちゃん、いよいよ明日だね」
第二学生寮の自室にて、トワは《ARCUS》の音声口に向かって言う。
『ああ、しっかり寝てくれよ。愛しのトワが目の下にクマを作ったところなんて、見たくはないからね』
そんなアンゼリカの応答が返ってくる。
このような会話で、あまり《ARCUS》の通信機能を使ってはいけないのだが、今日は特別ということにトワはした。
ユミルへの小旅行が終われば、アンゼリカとこのように話す機会はなくなってしまう。二度と会えないことはないだろうが、それでも彼女の立場を考えると、気軽に会えなくなるのは間違いないだろう。
「……アンちゃん」
『そんな声を出さないでほしい。学院祭には顔を出せるよう、親父殿に掛け合ってみるつもりだ』
「だけど……」
『せっかくのご厚意で、私とトワもユミルへ旅行に行けるのだ。楽しもうじゃないか』
トワの心情を察してか、アンゼリカはそんなことを言った。
「うん、えへへ。でも温泉楽しみだよね」
アンゼリカからの返答がなかった。
「……アンちゃん?」
『ああ、ちょっとよだれが……いや何でもない。ちょっと小腹が空いていてね。豊満な果実が旬で、もぎたてで、熟れてなくてもそれはそれでよくて』
「ア、アンちゃん。やっぱり辛いんだよね? ごめんね、力になれなくて……」
ぐすりと涙ぐむトワ。
『……いいんだよ、トワ。離れても私達は友達だ』
「うん。二泊三日もあるし、いっぱい思い出作ろうね」
『そうだな』
音声口の向こう、彼女が今どんな表情をしているか、トワに伺う術はない。
アンゼリカは言った。
『忘れられない思い出を作ろうじゃないか』
☆リィン☆
「えーと、着替えは入れたか。あとは……」
リィンはバッグの中身をもう一度見直していた。いよいよ明日から故郷、ユミルへの小旅行である。
「半年振りか。まだ戻るつもりはなかったけど……父さん達元気かな。宿泊先まではエリゼが案内してくれるらしいが」
エリゼも自分達の来訪に合わせて、実家に帰っているらしい。
なんにせよ皆を故郷に案内できるのは嬉しい。今頃は俺と同じで色々準備してるんだろうけど。
ふと顔を上げる。
何やら騒々しい。向かいはクロウの部屋だ。
「クロウも準備中か?」
それにしては、やけに騒がしいような。訝しげに思い、廊下にまで出てみる。
やはり音源はクロウの部屋からだった。ノックしてみるが応答はない。
「おーい、入るぞ?」
ドアノブに手をかけた所で、
「ふははは! やったぜ。完璧だ。あとはこのルートで、退路はこうで。はーっはっは! 待っていやがれユーミルーゥ!」
高々と笑うクロウの声。
「……クロウも楽しみにしてるんだな。そっとしておこう」
リィンはドアノブから静かに手を離し、部屋へと戻るのだった。
前編もお付き合い頂き、ありがとうございます。
というわけで今回の主人公はヤツらで、舞台はユミル!
ドラマCDのあれですね。がっつり楽しんできてもらいましょう。
今回は本編とおまけが半分半分という変な比率になってしまいました。
では次回、困った先輩二人が闇を駆ける!
中編もお楽しみ頂ければ幸いです。