虹の軌跡   作:テッチー

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ユミルの温泉事情(中編)

 Ⅶ組メンバーとトワとアンゼリカ、そして引率役のサラを乗せ、列車はユミルへ向かって走っていた。

 ユミルまではルーレで乗り換え、さらに北へと向かう必要がある。半日以上は軽くかかるので、出発は早朝からだった。

「こ、ここでミラーを出されるとは……!」

「油断したな」

 しかし彼らに疲れは見えない。年齢相応の笑顔をのぞかせながら、鉄路の旅を楽しんでいた。

 特別実習と同様に、ブレードで時間潰しをしているのはマキアスとガイウスである。

「もう一勝負だ!」

「付き合おう」

 にわかに白熱しだす二人の向かいの席では、エリオットとリィンが雑談に興じている。

 早朝ということもあってか、この車両には士官学院勢しか乗っていない。浮かれて騒ぎ立てるようなメンバーではないが、気兼ねなく過ごせるのは何よりだった。

 一方、女子の座席では、

「あ、トリートメント忘れたわ!」

 肩を落とすアリサに、エマが笑いながら言う。

「大丈夫ですよ。私が持って来てますから」

「ごめん、助かるわ」

「あと頭痛薬、酔い止め、胃薬、その他調合してきた薬もありますから。入用の時は声を掛けて下さいね」

「こ、こんなに。駅員さんに見つかったら確実に取調べ受けるわよ?」

 怪しげな薬が大量に詰まったエマのバッグを見て、アリサは頬を引きつらせる。

 その横ではミリアムが「ゴーゴー、ユミル!」などと上機嫌に窓の外を眺めながら、リュックに詰まったお菓子にぱくついていた。

 さらに少し離れた席では、シートに座るなり一瞬で眠ってしまったユーシスと、同じく睡眠時間に突入したフィーが、肩を並べて仲良く寝息を立てている。もっともフィーに関しては、ユーシスのように寝不足というわけではないが。

 ラウラはラウラで一つの席を陣取って、ごそごそとかばんの中から荷物を取り出している最中だ。

 そして教官、上級生の座席では、

「サラ教官! 昼前から、しかも列車の中でお酒は止めて下さい!」

「他に乗客いないし、いいじゃないのよー」

 案の定、ワインボトルを取り出したサラを、隣に座るトワが必死に制する。引率役であるサラ――のお目付け役がトワだった。

「そういう問題じゃありませんから! ナイトハルト教官に言いつけちゃいますよ?」

「あらあ、言うじゃない。でもあんたも飲んじゃえば同罪よね」

「え?」

 サラの瞳が怪しく光り、「んふふふー」と邪悪な笑みを浮かべながらトワににじり寄る。

「ええ? ちょ、ちょっともう酔ってるんですか。ア、アンちゃん助けて、アンちゃーん! むぐっ!?」

 車両後方から届く悲痛な声に、クロウは楽しげな笑みを浮かべた。

「いいのかよ。愛しのトワが助けを求めてるぜ」

 クロウの横に座るのはアンゼリカである。彼女は困ったように肩をすくめてみせた。

「酒に酔って乱れるトワ、というのも悪くないんじゃないだろうか」

「あいつの場合、酔っても色気は出せそうにねーな」

 気の置けない談笑を交わしていたが、不意に二人同時に表情から笑みを吹き消した。

 目線を正面から動かさないまま、クロウ小さな声で言う。

「実行は二日目の夜だ。いいな」

「逸る気持ちは抑えられないが、やむを得ないだろう」

 列車の音にかき消され、その会話は誰の耳にも届かない。仮に聞こえたとしても、悟られることのないよう決定的な言葉は伏せてある。

「一日かけて目標周りの構造を把握だ。あらゆる角度、高度からベストポイントをピックアップする」

「あとは周辺地形の掌握だな。進行、及び撤退ルートの算出。風向きや天候も調べる必要があるだろう。万が一朝風呂になった場合にも備えて、逆光にならないよう日の出の時間と方角も頭に入れるべきだ」

 ぼそぼそと続く不穏な会話。熟練のスナイパーが獲物を照準(エイム)する時のような、静寂を湛えた緊張感がそこにあった。

「女子達の動向はお前が逐一つかめ。ユミルは《ARCUS》の通信範囲外だ。情報伝達は暗号を使う」

「アルファベットと数字の組み合わせでいくかい? 定番だがトワなら感付かないとも言い切れないな」

「ああ、だから組み合わせの法則を入れ替えた変則暗号を作ってきた。ついでに隠語を織り交ぜながら、集団の中でも状況を伝え合えるようにするぜ」

 ポケットから取り出したメモ紙をアンゼリカに渡す。

「それが変則暗号表だ。暗記したら、その紙はルーレ駅で捨てていく。ルーレまではあと一時間てとこだが、いけるか?」

「五分あれば問題ない」

 あふれ出るリビドーが、アンゼリカのスペックを限界以上に引き上げていた。凄まじい集中力で、膨大な数字と記号の羅列を頭の中に叩き込んでいく。

 そして五分後。

「終わった」

 アンゼリカはクロウにメモ紙を返した。

「すげえな。本当に記憶したのかよ」

「苦でもない」

 クロウはメモ紙を受け取ると、その場で細かく破り、開いた窓の外に投げ捨てた。秋風の中、季節外れの花吹雪が宙に舞う。

 準備は着々と進んでいる。後はその時を待つだけ――

「お二人とも」

 突然声をかけられた二人が肩を強張らせたのは、わずか一瞬のことだった。焦りは毛ほども見せず、即座にリラックス体勢に移行してみせる。

 声の主はラウラだった。その手に弁当箱らしきものを抱えている。

「出発の際にシャロン殿から頂いたものです。そろそろ腹も空く頃かと思いまして」

「気が利くな。腹減ってる。すごい減ってるぜ」

「おや、これはすまないね。ありがたく頂こう」

 適当な軽口で流しながら、二人は差し出された弁当を受け取り、悟られないように一息つく。

「てっきりラウラ君が作ってくれたのかと思ったよ。ははは、いつか君の手料理も食べたいね」

「それが皆の分を作る時間まではなく、とりあえずリィンの分だけ――い、いえ何でもありません」

『ほーう』

 含みのある視線を向けられていることに気が付いたラウラは、焦った様子で踵を返す。

「青春だねえ」

「まったくだ」

 他のメンバーにも弁当を配りに回る彼女の姿を眺め、にやつきながら二人はぼやく。

 まもなく全員に弁当が行き渡った。

 エマの号令で『いただきます』の声がそろい、眠りこけるユーシスとフィーを除く全員が、一斉に弁当箱を開けた。

 直後、ズドンと重い爆発音が車両内に響き渡った。

 丁度そのタイミングで、見回りの為に乗務員がやってくる。

 車両に足を踏み入れたばかりの乗務員が見たのは、黒煙に巻かれながら激しく天井に打ち据えられるリィンの姿であった。

 旅路は順調である。

 

 

 ルーレで乗り換え、そこからユミル方面へ約一時間半。

 窓から見える景色が、徐々に紅葉と緑葉が織りなす山々へと移っていく。

 時刻が十四時を回った頃、トリスタを出発しておよそ七時間。ようやく彼らはユミルの地に降り立った。

「んー、いい空気ねえ!」

 ぐっと伸びをしたサラのとなりで、トワはふらついていた。酔拳と見紛うほどの千鳥足だ。

「きょうかん~、おさけはあ、らめれすからあ」

 ろれつも回らず、倒れそうなトワをとっさにリィンが支えるが、そんな彼もあちこち焦げついていたりする。

「ト、トワ会長、大丈夫ですか?」

「リィンくんもぉ、せつどはまもりなさぁい……ていっていっ」

 えへへと笑いながら、トワはリィンの額にチョップを繰り返していた。

「学園きっての才媛が……もしかしてお酒を飲まされたんじゃ……」

 マキアスが疑惑の目を向けると、視線を回避するようにサラはそっぽを向いて「乗り物酔いでしょ」と口笛を吹き鳴らしていた。

 がっちり睡眠を取り、見事復活を果たしたユーシスが言う。 

「それでリィン、ここからどうするのだ。見たところ町は見当たらないようだが」

「ユミルの町は山間部にあるんだ。歩いてもそんなにかからないが、この麓の駅からケーブルカーも出てる。景色を楽しんでもらう為に歩く予定だったが……」

 ふらふらで笑い続けるトワを一瞥する。

「ケーブルカーを使った方がよさそうだな」

 もたれかかるトワに肩を貸すリィン。そんな彼にアリサとラウラの半眼が刺さる。

「トワ会長には優しいのね」

「紳士なことで何よりだ」

「そ、そうか?」

 冷ややかな空気にリィンはたじろぐが、その折、トワはリィンの肩をするりと抜けて、一人山間に続く道へ歩き出していた。

「あ、トワ会長。危ないですよ!」

「ゆみるがぐるぐるまわるー」

 リィンの制止も聞こえないようで、彼女は右に左にヨタヨタと歩を進めている。

 その時、ガタガタとレールが軋む音がした。

「あ、ケーブルカー出ちゃったねー」

 ミリアムが緩やかに動きだすケーブルカーを指さした。

「次の便は往復を待たないといけないから四十分はかかるな。……大した距離じゃないし、仕方ない。山道を少し歩くけどみんな構わないか」

 元々が歩く予定だったので、リィンの提案に異を唱える者はいなかった。

 ひとまず茂みに頭から突っ込んで、足をじたばたと動かしているトワの回収にリィンが向かおうとした所で、

「そっちは私達に任せておきたまえ」

「そういうことだぜ、朴念仁」

 アンゼリカとクロウがリィンを押しのけて前に出た。空気を読むことに長けた先輩二人のファインプレーである。

「ほれ、色々見えてんぞ」

「そんなトワも新鮮だがね」

 せーので茂みから引っ張り出されたトワは、枝葉だらけになりながらも「えへえへ」と楽しそうに笑っている。

「こいつ笑い上戸だな」

「かわいいよ、トワ。今日こそは必ずベッドに潜り込んで……ふふ」

「とりあえず、よだれ拭けよ」

 二人に両脇を抱えられ、その場に持ち上げられるトワ。彼女の足は地に付いておらず、宙ぶらりんの状態である。

「野放しにしたらどこに突っ込んでいくか分からねえし、もうこのまま行こうぜ」

「同感だな」

 足をぶらつかせるトワをそのまま連行するような形で、クロウ達は山道を行く。

「あ、道案内は任せてくれ」

 リィンは早足で二人の背を追い、さらにその後を“トールズ士官学院、1年Ⅶ組一同”と書かれたお手製の旗を持って、ガイウスが追い掛けるのだった。

 

 

 歩き始めて、早一時間。エリオットとアリサはすでに半死半生状態だった。

「これのどこが『大した距離じゃない』のよ。どこが『少し歩く』なのよ」

「遠い、長いよ……」

 道としてはそれなりに整えられているものの、起伏が激しくゴツゴツとした山道は予想以上に体力を奪っていく。

「二人ともがんばれー」

 ミリアムがからからと笑いながら、肩で息をする二人を宙から応援する。

「アガートラムに抱えられてるのに何言ってるのかしら……というか私も乗せなさいよ」

「んー、アリサが乗ると重量オーバーかも」

「な、なんですってー!?」

「あ、元気になった」

 憤るアリサの後ろでは、エマが魔導杖を地面に突き立てながら、のろのろと歩いていた。

「帰りはケーブルカーにしましょう。ええ、絶対に」

「委員長、大丈夫?」

「あ、フィーちゃん。手をつないで私を引っ張って下さい」

「恥ずかしいからやだ」

 息も絶え絶えな後衛組に、先頭を行くリィンが声を張った。

「みんなもう少しだ。ミリアムはアガートラムを隠してくれ。あと、なんというか……ガイウスもその旗をしまってくれ」

「これは旗ではないのだが」

 言いながらも応じるガイウス。見てくれは完全にガイドのお兄さんである。

 曲がりくねった道を行き、いくつかの坂を越えたところで、ようやく見えてきた。

 山間にかかる横幅の広い橋。その向こうにあるのは、連なる山塊に囲まれて悠然とたたずむ街並み。暖色系で統一された木造建築の家屋が立ち並び、大自然の景観と調和している。街のあちこちには蒸気が揺らぎ、風に乗る硫黄の匂いが鼻孔をくすぐった。

「お待ちしておりました」

 雄大な景色に目を奪われる面々の耳に、澄んだ声が届いた。

 橋を渡った先、背の高い二つの導力灯の間に、一人の少女が立っている。

 清楚な衣服を身にまとい、長い黒髪をなびかせたその少女――エリゼ・シュバルツァーはスカートの裾を持ち上げ、上品な一礼で彼らを出迎えた。

「ようこそ。“温泉郷”ユミルへ」 

 

 

 再会の挨拶も程々に、エリゼの案内で一同は宿泊先である逗留施設を訪れていた。

 皇帝からの言付けを受けた宿泊客、しかも領主の子息であるリィンも招待されているということで、出迎えは従業員総出という盛大なものだった。繁忙期ではないとは言え、彼らが宿泊する間は貸し切りという優遇ぶりである。

「こちらが皆さんが宿泊する『鳳翼館』になります」

 領主令嬢のエリゼによる、ほぼ顔パスのチェックインを済ますと、部屋への案内も彼女が務めた。

「その昔、時の皇帝陛下から恩寵されたという、由緒正しい逗留施設です」

 二階へ続く階段を登りながら、エリゼは鳳翼館の簡単な説明を行う。

 まもなく開けた共用ロビーに出た。

「皆さんのお部屋はこの二階に用意してあります。今いる共用ロビーを挟んで左側が男性、右側が女性のお部屋になります。上級生の皆さんやサラ教官にも別室を用意させました」

「俺は上級生にカウントされねえのかよ」

「いや、まあ。当然でしょう」

 クロウの異議にマキアスが冷静に応じる中、リィンが一時解散の号令を発する。

「この後に学院祭のステージ打ち合わせもあるから、三十分後にまたここに集合してくれ」

 まばらに返事をしながら、まずは各々、荷物を置きに部屋に散っていった。

 

 

 時刻は十六時。

 ステージの打ち合わせは無事終了し、今は夕食までの自由行動時間である。ステージにおける曲目と担当が発表され、当然のように一悶着はあったわけだが、とりあえずは全員の承諾を得て、あとは練習を残すのみとなった。

 観光は明日にということで、ほとんどが部屋で足休めの最中であったり、体力の残っている者は備え付けの遊戯室でビリヤード等に興じていたりする。

 そんな中、この二人だけが鳳翼館の周囲を歩き回っていた。

「――で、トワはどうよ?」

「先ほどベッドに寝かしてきた。時々思い出したように『えへへ』と笑っているが、一応眠っているようだ」

 クロウとアンゼリカである。

「ったくサラにも困ったもんだぜ」

「私はサラ教官は好きだよ。自由奔放だが、ああ見えて思慮深い人だ」

「どうやったらそう見えんだよ。今も部屋で酒飲んでんだろ」

 名目上は散歩であるし、一般人にもまずそのように映るだろう。が、訓練を受けた者が見ればわかる。彼らの挙動には一切の無駄がなかった。

 会話を交わしつつも、油断なく視線を巡らし、この辺りの地形や建物構造などを頭の中にマッピングしているのだ。

 鳳翼館の温泉は外部に面した露天風呂である。無論だが、どのような角度からも見えないように、湯場全域を囲う竹製の壁がある。壁の高さはおよそ三アージュと言ったところだが、この際壁の高さや硬度などは問題ではない。

 必要があれば脚立を用意すればいいし、それが叶わなければ壁をぶち抜くだけだ。幸い竹製ならば、アンゼリカの拳を数発見舞えば容易く破砕できる。

 問題はそこではなかった。

「どのポイントから目標を補足するか……だな」

 これなのだ。

 セオリーのポイントとして、高い位置を選定したいが、周辺にそのような場所はない。そもそも町の内部にそんなポイントがあるのなら、愛すべき紳士達の手によってすでに開拓され、そして当の昔に露見し潰されているだろう。

 可能性があるとするなら、遥か遠く、白雲を穿ちながらそびえ立つあの山々だ。雲の上からの高精細望遠鏡による超長距離照準(ロングレンジエイム)なら、やれるかもしれない。

 だがそれを成す為には、襲い来る魔獣を退けながら、ベストポイントを維持しつつ、加えて雲に切れ間ができる一瞬を狙って、途方もない距離のわずか一点を捉えなければならない。

 この人類史上類を見ない神業(のぞき)をやってのけるには剣聖クラスの実力が必要になる。理に至るか、あるいは修羅に堕ちねば、実現は不可能だ。

「なんつー二択だ……」

「逆に考えたまえ。剣聖や修羅でなければのぞきが出来ないのではなく、のぞきをする為に剣聖や修羅になるとしたら?」

「なるほどな。辛い修行に耐えられるわけだぜ」

「業の深い話だがね」

 リィンやラウラが聞いたら、卒倒ものの会話内容である。

 とはいえ、やはり現実的ではなかった。装備も不十分なまま雲の上まで登山できるわけもなく、望遠鏡などさすがに持って来ていない。そして往復時間諸々の様々な条件がそれを許さない。反対に条件さえ整っていれば、やりかねない二人ではあるが。

「……となると」

 クロウとアンゼリカの目が同時にそこを向く。

 鳳翼館裏手、おそらくは露天風呂にも面しているであろう、山間の一部。

 二人は無言でうなずいた。

 

 

 その頃、女子達の部屋。

「本当、いい景色ねー」

 部屋の窓を開け放ち、アリサはめいっぱい空気を吸い込んだ。山特有の澄んだ空気が肺に満ちていく。

「でも、なんだか屋根が尖った建物が多いわよね。山の景色と合ってるから別にいいんだけど、何でなのかしら?」

「ああ、それはですね」

 その問いにはエマが答えた。彼女は先の山歩きの疲労を残さない為、ラウラにストレッチを手伝ってもらっている最中だ。

「この辺りは豪雪地方なので、雪の重みで家屋が倒壊しないように屋根の傾斜が急なんですよ」

「へえ、そうなんだ。ルーレでは考えられないわね」

 感心するアリサに続き、ラウラも驚いた様子だ。

「なんと、雪で家が潰れるのか。レグラムでも雪は降るが、そこまで積もることはないしな」

「ええ、そうなんです。というか、あの……ラウラさん、もう少し、や、優しく」

 足を伸ばして床に座るエマを、ラウラは背中側からぐいぐいと押して前屈させていた。力を入れる度に、エマの口から「う゛、う゛」と苦しそうな声が漏れ出してくる。

「ん? ちょっと強かったか」

「う、そうですね。そのくらいがいいです」

 フィーがそっとラウラの後ろに回り、いきなり脇腹をくすぐった。

「ひゃっ!?」

 素っ頓狂な声と一緒にのけぞるラウラの下で、エマが「う゛!?」と短い悲鳴を上げた。

「何をするのだフィー!」

「ちょっといたずら」

「まったく。思わず力を入れ過ぎてしまったではないか……あ」

 エマは前屈の姿勢のまま沈黙している。ぐったりとして、ぴくぴくと手足の指先が震えている。

「いかん。アリサ、体を開くのを手伝ってくれ」

「何やってるのよ。あなた達」

 二人掛かりでエマの体勢を戻す横で、ミリアムとフィーは持ってきたお菓子をリュックから取り出していた。

「シャロンに見つからなかったら、もっと持って来れたのにねー」

「まあ、半分持って来られただけでもラッキーかな」

 お菓子をリュックに詰めたところをシャロンに見つかった際、ささやかな抗弁を試みたところ、旅行ということで一部の持ち出し許可は下りたのだった。

「……なんか少なくなってない?」

「列車の中でちょっと食べたから。半分くらい」

「食べ過ぎ」

 フィーがミリアムの両頬をぎゅーっと引っ張る。

「ひたた! フィーが寝てるのが悪いんだよー!」

「起こしてくれたら食べたのに」

「ひたいー!」

 そんなこんなで、女子班はいたって平和であった。

 

 

 一方、男子達の部屋。

「ビリヤード、チェス、ブレード、絵画、読書。今ある物で時間を潰せそうなのはこれくらいだな」

 リィンが適当にリストアップしたものを挙げてみる。

「チェス盤を持って来るやつがいたとはな。ここまで来ると呆れを通り越して尊敬する」

 いつも通りの嫌味を前口上にして、ユーシスはマキアスに目をやった。

「う、うるさいぞ。備えあれば憂いなしだ」

「何に備えているのだ、お前は」

 場所が変わっても、この二人は変わらない。

 二人を諌めながら、ガイウスが言う。

「しかし全員で時間を潰せるものとなると限られてくるな」

「だよね、ビリヤードもチェスもブレードも二人一組だし、絵画や読書は一人だしさ」

「待て、エリオット。全員で円になりお互いの肖像画を描き合えば、この場の五人同時に時間を使うことができるぞ」

「えっと、それって楽しいの?」

「……楽しくないのか?」

 全員での観光は明日ということにしている。今は皆でできる時間潰しを考えているのだが、特にこれと言ったものが見つからなかった。

「枕投げをしよう」

 最終的にリィンが取りまとめた案はこれである。最初に同意したのはマキアスとエリオットだった。

「なんというか意外だな。君の口からそれが出るとは。だが僕は構わないぞ」

「鉄板だよね。日曜学校の時のお泊り会を思い出すなあ」

「どうせ貸し切りだし、こんな時くらい羽目を外してもいいかと思ってさ」

 首を傾げているのはガイウスとユーシスだ。

「聞いたことのない名前だ」

「枕投げ? 枕を投げてどうするのだ?」

 しかし山歩きで失った体力は戻っておらず、枕投げは夕食後に行うことになった。

 そんなわけで、結局今の時間はそれぞれで過ごすことになる。

 やいやい言いつつも、ユーシスとマキアスはチェスを。

 ガイウスは窓縁で風景画のスケッチを。

 エリオットはその辺に寝そべり、「うー」などと唸りながら足をマッサージしている。

「さて俺はどうしようかな。実家に顔を出すのはもう少し後でもいいし」

 思案していたリィンは、思い出したように言った。

「そういえばエリオット、本を持って来てたよな。今読まないなら少し借りても構わないか?」

「いいけど、リィンが読んで面白いかはわからないよ。かばんの右側に差し込んでるから開けて取って」

 うつ伏せのまま、エリオットは自分のかばんを指さした。

「時間潰しになるなら、なんだっていいさ。えーとこの袋だな」

 エリオットのかばんを開け、黒い袋から一冊の本を抜き出しかけて、リィンの手がぴたりと止まった。

「………」

 タイトルは『週刊・貴公思男(きこうしだん)』。表紙にはやたらと面積の少ない軍服を着た、高圧的な表情を浮かべたお姉さまが扇情的なポーズを取っている。どことなく容姿が《S》――スカーレットに似てなくもない。

 煽り文句には『昨日の軍曹、今日は猛将』と意味不明な文言が付けられており、さらにその下にはコラム紹介だろうか、『君の戦車にヒートウェイブ』などの全くもって理解不能な文字の羅列も見えた。

「……エリオット?」

「なに? やっぱりリィンには合わなかったかな。完全に僕の趣味だしね」

「ああ、いや、その、あれだ。なんて言ったらいいのか。……こういうのよく読むのか?」

「ヒマさえあればそればっかりだよ。部屋の本棚なんてもういっぱいで、置き場所も無いくらいなんだ」

「そ、そんなにか!?」

 驚愕に思わず後じさるリィン。

「色々と参考にもなるし、同じ吹奏楽部のミントやブリジットにあげようかとも思ってるんだけどね」

「な……?」

 リィンは震える手から本を落としかけた。

 なんということを画策しているのだ。年端行かぬ少女達に何を教えようとしているのだ。さらにこの雑誌は週刊ではないか。週一でエリオットの部屋にこれが増え続けているというのか。それは本棚もキャパシティオーバーするに決まっている。

 もう色んな意味で容量超過だ。

「い、いや、だけどエリオット、それは……」

 何とか声を絞り出すリィンに、エリオットは笑いながら言う。

「中々捨てることも出来なくってさ。時間をかけて読んでるから、一ページ毎に思い入れがあるんだよね。もういっそ実家に送って、姉さんに片付けてもらってもいいんだけど」

「それはダメだ!」

 顔中に脂汗を浮かべて、リィンは声を荒げた。送られてきた段ボール箱を開けて、フィオナが凍結・石化の状態異常に陥る瞬間が、まざまざと目に浮かぶ。

「き、急にどうしたのリィン。冗談だよ。そういうのは自分でちゃんとやるってば」

「それならいいんだが……」

 言いながら、リィンは雑誌を黒袋の中に押し戻した。見れば中にはもう一冊本が入っていたようだったが、そのタイトルまで確認する勇気は、もうなかった。

「あれ、結局読まないんだ。読み始めると止まらないんだけどなあ」

「ああ……先に実家に顔を出してくるよ。エリゼももう帰ったみたいだし」

 リィンはおぼつかない足取りで廊下に出た。扉を閉める前、彼は背を向けたままで言う。

「俺はエリオットを仲間だと、友人だと思っている。それはこの先も変わらない」

「改まってどうしたのさ。あはは、何だかむずがゆいよ」

 照れたように微笑するエリオットに振り返ることなく、リィンは廊下を駆け出して行ってしまった。

 男子班は一部をのぞき、平和であった。

 

 

 鳳翼館に隣接する裏手の山は、見た目以上に険しかった。

 そもそも人は立ち入らないのだろう。道らしきものはどこにもなかった。

「こいつは予想以上だぜ」

 ルートを見失わないよう、木にナイフでマーキングを入れながら、クロウは辺りを見回した。

 同じ景色が続き、方向感覚さえ定まらなくなってくる。

「だが、ここを越えねば目的は果たせない」

 夜の進行に備えて、アンゼリカはクロウのマーキングの上から蛍光塗料を塗っている。

 露天風呂は鉄壁のガードに囲われているが、唯一守りが薄い可能性があるのがこの裏山側だった。

 誰も来ないだろうという気の緩みが、普段の管理をおろそかにし、自然の要塞が侵入者を阻むだろうという根拠のない傲慢が、心理的にも物理的にも隙を生み出す。

 そんなアリ一匹も通れない程の小さな亀裂が、時として状況を覆す要因になることを、二人は経験から学んでいた。

 希望。偶然。奇跡。呼び方は何だっていい。そこにわずかでも可能性があるのなら、彼らは決して歩みを止めない。

 草木を分け入り、歩を進める最中、クロウはアンゼリカに今一度問う。 

「……ゼリカ。お前は堂々と女子風呂に入れるんだ。どうしてこんな回り道をする?」

 かぶりを振って、アンゼリカは答えた。

「間違っているよ、クロウ。ただ見るだけでは意味がない。無防備かつ自然体、そしてスリルと苦労の果てに得られる光景にこそ意味があるんだ」

 一切の迷いがない、真っ直ぐな言葉だった。

「なら、なぜ俺に協力するんだ? その光景を独り占めしたいとは思わなかったのかよ?」

「思いはしたさ。だが一人でこのミッションを行うのは無謀だ。そこで君と組めば成功確率が上がると考えた。いや、このメンバーの中では君以外にいなかった。そして君も私と同じことを考えているという確信があった」

 アンゼリカは続ける。

「クロウの作戦立案はいつだって多角的で無駄がないからね。意味無く見えることでも、必ずどこかに繋がっている。信頼に値する能力だ」

「そりゃ過大評価だろ」

「それに私にとっては二度とない機会かもしれない。……もしかしたら、一緒に馬鹿をやる相棒が欲しかったのかもしれないな」

 クロウは一瞬押し黙るが、すぐに口を開いた。

「……任せとけよ。持てる力の全てを尽くすぜ」

「ふっ、同じくだ」

 揺るがない結束を確かめ合ったところで、二人はついにその場所へと到達した。

 生い茂る草木に覆われながら、露天風呂を囲う竹製の柵。ここに台座や脚立を用意すれば、悟られることなく崇高な目的を果たすことができる。

「作戦決行は予定通り明日の夜だ。今日は鋭気を養う為、不信感を与えない為におとなしく過ごすぜ」

「了解だ。あくまでもおとなしくトワに襲い掛かる」

「おい」

「冗談だよ」

 軽口を叩くアンゼリカは、ふと思案顔を見せた。

「万が一の為に撤退ルートも確保せねばな。見つかったら八つ裂きでは済まないだろう。特にクロウは」

「心配はいらねえ」

 断ずる口調でクロウは告げる。

 彼の手には、あるものが携えられている。両の手の平に収まる程度の、四角いあるもの。

 これはユミルに行く前日にジョルジュから受け取ったものだ。まさかジョルジュもこのような使い方をされるとは夢にも思っていないだろう

 仕込みはすでに済んでいるのだ。

「これがある限り、俺達が捕まることは絶対にない」

 クロウは不敵に笑った。

 

 

 ~後編に続く~

 

 

 

 

 

 

 

 ★おまけ★

 

 天井の導力灯がいくつか切れていた。

 カン、カン、と薄暗い部屋にそんな音が響く。

 金槌で硬い物を叩く音。振り下ろされる度に、徐々に薄く、形状を変化させていく金属片。

 オイルの臭い。鉄の臭い。どこからか入り込んできた羽虫が目の前をちらついた。

 売店で買ってきたコーヒーは、一口もすすらないまま冷めきっている。

 金槌を振り下ろす手は止めない。雑念を払うように。邪念をそそぎ落とすように。汗が滴り、眼下に落ちても、それを拭うことさえしなかった。

「………」

 今回のユミル旅行は、ザクセン鉄鋼山の一件で、尽力した者達に対して、皇帝陛下から直々に賜った厚意である。

「……どうして」

 薄暗い技術棟に一人、ジョルジュ・ノームは小さくつぶやいた。

 彼のバックアップなしでは、鉄鋼山攻略はもっと困難なものになっていただろう。影の功労者と言っても過言ではない。

 だというのに。

「どうして、僕はユミルに行けなかったんだ」

 ようやく手を止め、彼は汗を拭う。

 目元のそれが本当に汗だったのかは、誰にも分からなかった。

 

 

 

 

 ☆おまけ☆

 

 夕食後、男子部屋にて。

「さあ、枕投げだ」

 リィンが告げると、メンバーは部屋の両端に分かれた。

「お手柔らかにね」

「ふふ、年季の違いを教えてあげよう」

 Aチーム。エリオット、リィン、マキアス。

「やるからには負けねえぜ」

「ルールは把握した」

「ふん、くだらんな」

 Bチーム。クロウ、ガイウス、ユーシス。

 その手に枕を携え、各々にらみあう両チーム。

 ルールはドッジボールとほぼ同じ。両陣営から枕を投げ合い、当たったり、取りこぼしたりしたらアウト。相手チームを殲滅した方が勝ち。ちなみに顔面はセーフ。負けた側のペナルティはトリスタに戻ってから、寮の共用部清掃となっている。

「それじゃあ行くぞ、よーい」

 リィンが右手を掲げ、一同身構える。

「はじめ!」

 号令と同時、入り乱れて飛び交う枕の応酬。

「どーりゃあ!」

 クロウが放った大振りな一発が、リィンに目掛けて一直線に飛ぶ。リィンはそれを『わしっ』と片手でキャッチしてみせた。

「怒ったエリゼから投げつけられる枕を、俺がどれだけ受けてきたと思ってるんだ」

「やるじゃねえか、リィン兄様」

 その横でガイウスの長身から繰り出された、天から降り落ちるような軌道の隕石枕(メテオ・ピロー)がエリオットの脳天を直撃した。

「ふむっ!?」

「おおっと」

 が、落ちかけた枕をマキアスが間一髪キャッチしてセーフ。たたらを踏むエリオットの腹部に、さらにクロウの追撃、弾丸枕(バレット・ピロー)がめり込んだ。

「はうっ!?」

「任せろ!」

 が、これも枕が床に着く前に、リィンがスライディングキャッチした為セーフ。

 次々にエリオットに枕が襲い掛かるが、リィンとマキアスがこぼれ球を全てキャッチするので、ことごとくセーフである。

「いや……も、もうアウトにして……」

 早くも満身創痍のエリオット。

「このままでは防戦一方だ。僕が活路を開く!」

 手近な枕を力強くわし掴み、マキアスは眼鏡を押し上げた。きらりと光る視線の先に捉えたのは、言わずもがなこの期に及んで涼しい顔をした宿敵である。

 今日は晴れて敵同士。ここぞとばかりに溢れ出す日頃の鬱憤。手加減も容赦も必要なし。

 マキアスは体を極限までひねり、全ての力をこの一投に総動員した。

「ユーゥシィィスゥーッ! だああーっ!!」

 顔の造形が崩れる程に絶叫し、オーバースローから繰り出された眼鏡枕(グラス・ピロー)がぎゅるんぎゅるん回転しながらユーシスに迫る。だが、その狙いは上に外れていた。

「ふっ、どこに向かって投げている」

 しかし右斜め上方に逸れていったはずの枕が、突然その軌道を変えて急降下。抉るような軌道で、ユーシスの顔面を直撃した。

「レーグニッツ投法セカンドフォーム、《デスサイズ》の味はどうだ。顔面セーフなのは幸運だったな。いや逆に不運とも言えるが」

 ずるりと顔面から枕がずり落ちると、ユーシスは無言で踵を返し、スタスタと部屋の隅の荷物置き場へと向かった。

 珍しく勝った心地のマキアスは、上機嫌な様子だ。

「臆したと見える。いい教訓だったろう。今後は枕投げを侮らないことだ。僕のレーグニッツ投法をまた味わいたくなければな」

 依然沈黙したまま、かばんの中にゴソゴソと手を入れていたユーシスは、ゆっくりとそれを取り出した。

 それこそ収まっていたかばん程の大きさはあろうかという純白の枕だった。

 馬やら獅子やら、金の刺繍が施された絢爛豪華なその意匠。もし枕博物館などと言うものがあれば、警備員が四方を固め、強化ガラスの中に展示されるような、この世に二つとない格式高い枕である。

 ふかふかもふもふ、ユーシス様ご愛用の貴族枕(ノーブル・ピロー)が、ついにその姿を現した。 

「許さん」

 こめかみを脈打たせ、貴族枕が投げ放たれる。空気力学の概念も取り込まれているのか、中空を駆けるごとにグイグイと速度を増していた。

「ちょっと、あんた達。なーに騒いでんのよ!」

「ダメだよ、宿の人に迷惑が掛かっちゃうよ」

 そこに片手にワインボトルを持ったサラと、酔い潰れから復活したトワが男子部屋に入ってくる。

『あ』という男子たちの声と「むぎゅっ!?」というサラの声は同時だった。

 貴族枕が彼女の顔面を直撃し、その手にしていたワインボトルが宙を舞う。くるくると放物線を描いたボトルは、たまたま上を向いたトワの口にがぽっと収まった。

「む? むぐー!?」

 なみなみと流れ込むアルコール。トワはそのまま壁に背を預け、ずりずりとその場にへたり込んでしまった。

 ピクピクと頬を引きつらせるサラ。

「いい度胸ね、あんた達。元A級遊撃士の力を見せてあげるわ」

 パリパリと雷撃の筋が枕を覆う。

 紫電の枕(ライトニング・ピロー)をその手に従え、サラはずいと前に出る。

 赤い顔で笑い続けるトワをよそに、男子たちの悲鳴がこだました。

 

 ☆END☆




やはり中編となりました。またもお付き合い頂きありがとうございます。

ちなみにこの数時間後に、ドラマCDの事件があるわけですが、さすがにそこはがっつりカットする予定です。

何気にユミル編に入る前に、公式でユミルの町の一枚絵が出ていたので、描写の上でだいぶ助かりました。雰囲気良さそうな街でしたね。リィンの知り合いとかやっぱ多いのかな?

後編もお楽しみ頂ければ幸いです。
ご感想も随時お待ち致しております。

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