虹の軌跡   作:テッチー

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ユミルの温泉事情(後編)

 ちょっとした騒動があった。

 十月の初旬だというのに、辺りは一面雪景色である。

 昨夜から突然降り出した季節外れの大雪。そして、鳳翼館に届いた謎の手紙。

 彼らは手紙の内容に誘われるまま、今日の午前にユミル渓谷へと赴くことになる。

 そこで予期せぬ邂逅があったものの、無事に異変を解決し、ようやく大雪は降り止むのだった。

「せっかくの旅行だったのにな」

 ユミル渓谷から鳳翼館に戻ってきたⅦ組メンバーは、共用ロビーにて思い思いに体を休めている。

 適当なソファーに背中を沈め、深く嘆息をついたのはアリサだ。

「あの怪盗、空気を読まないにも程があるわ」

 これには全員同意である。今回の一件は怪盗Bこと、ブルブランが仕組んだものだった。予期せぬ邂逅――とは言いつつも、手紙の文面を見た時点で嫌な予感はあったのだが。

 ともかく事態は収拾した。

 積雪は残るものの、すでに雲の切れ間からは陽光が差し込み始めている。もっとも、予定していた観光はできそうになかったが。

 雪は止んでいるが、ケーブルカーはまだ復旧していない。どの道、トリスタに帰るのは明日である。昨日と同じく午後は館内でのんびり過ごすことになった。

「うう、足が痛いです。温泉宿なのがせめてもの救いですね」

 昨日から歩き通しだからか、疲れた様子でエマは足をさすっている。

「温泉の効能には、疲労回復と血行促進、あと筋肉痛の緩和もある。今日はみんなでゆっくり浸かるとするか」

 リィンが提案すると、アリサとラウラがじとりとした――いや、ぎろりとした目を彼に向けた。

「ねえ、リィン。“みんな”っていうのは男女別よね」

「そうだな。そなたの言葉の真意を確かめておこう」

 表情を変えないままの、ひどく平坦な口調だった。

 リィンはぎこちなくうなずいた。

「あ、当たり前だろ。男女別だ。は、はは」

 またリィンが何かやった。そんな視線が集中する。

「みんな、そんな目で俺を見るのはやめてくれ。違うんだ。これは違うんだ」

 特に女性陣から訝しむ目を向けられて、リィンはひたすら首を横に振る。

 彼らの予想通り、昨晩の夜にリィンはやらかしていた。湯に浸かりに行ったら、アリサとラウラと風呂でバッティングするという、極めて遺憾なハプニングを発生させていたのだ。しかしこれに関しては、混浴の時間を把握していなかった彼女達にも非はあったりする。

 ただ混浴の時間と知りながら、迷うことなく風呂場へ突入したリィンもリィンであるが。

 唯一気にしていなさそうなミリアムが、ぐぐーっと体を伸ばす。

「渓谷は寒かったし、早く温泉に浸かって、おいしいものを食べて、ゆっくり休みたいよ」

 全員の希望を取りまとめた言葉だった。

 同意を返す面々の中、眠たそうにあくびをしたフィーが、「あ、温泉に入るんだったら」と、まぶたをこすりながら口を開く。

「せっかくだしエリゼも誘ったら?」

 いいよね。と付け加えて、リィンに目を向ける。うなずいて、「ああ、ぜひ誘ってやってくれ」と応じたリィンは心なしか嬉しそうだった。

「女学院ではそういう機会もなさそうだし、きっと喜ぶと思う」

「ほんとはリィンと入りたいのかもしれないけどね」

 冗談交じりのフィーの言葉を、リィンは軽く笑って否定する。

「はは、一緒に入ってたのは十歳くらいまでだからな。さすがにもうないだろう」

 一変した場の空気に、マキアスとユーシスが揃って呆れ顔を浮かべた。

「君という男は……」

「何回言ったか分からんが、朴念仁も大概にするがいい」

 意味が分からない様子のリィンの両脇を、無言のアリサとラウラが歩き去っていく。すれ違いざまに、雪が視線で蒸発する程の、強烈な流し目をくれながら。

 たじろぐリィンの後ろで、エリオットとガイウスは何やら話し込んでいた。

「僕も姉さんとは十歳くらいまで一緒にお風呂に入ってたけど」

「俺もだ。士官学院に入学するまでは、よくリリの体を洗ってやっていたものだが」

 二人して壁に背を預けながら、兄弟談議に花を咲かせている。この手の話は兄弟持ち同士だと、なかなか盛り上がったりするものだ。 

 程なくまばらに解散し、各々の部屋に戻っていくメンバー達。

 閑散とした共用ロビーには、二人だけが残っていた。

 アンゼリカとクロウ。彼らはロビーの壁にかけられている一枚の絵画を眺めていた。

 絵の中では幾羽もの白い鳥が群れをなして、連なる山塊を背景に大空を羽ばたいている。眼下に見えるのはユミルの町だ。雄大な構図だった。額縁の下部には絵のタイトルも表記されている。

 表題に目を落とし、アンゼリカは微笑を浮かべた。

「いいタイトルだ。絵の構図もメッセージ性に富んでいる。青い空と緑の山々を対比させているのかな」

「山を障害物とも見れるぜ。羽のあるやつだけが労せず空を渡れるって意味かもな」

「皮肉も度が過ぎると笑えないな」

「皮肉じゃなかったら笑えるのかよ」

 アンゼリカは再び視線を白い鳥達に戻した。

「いつまでも空を飛べるのは絵の中だけだ。いつかはどこかで地上に降り立ち、休息を取らなければならない」

 絵から目を離さないまま、密やかに告げる。

「今宵、麗しの小鳥達が羽を休めるようだ」

 うなずいて、クロウは天井を見上げた。いや、見据えているのはさらにその先か。

「羽があれば山の向こうに行ける、か。……なあ、ゼリカ」

 向き直って、彼女に問う。

「羽がなければ、山を越えることはできないと思うか?」

 アンゼリカは首を横に振った。

「羽はなくとも足がある。いかなる艱難辛苦も乗り越えるこの足が。歩き続けてさえいれば、いつかは必ず目的地に辿り着く」

「ああ、そうだ。だから俺達は行くんだ。たとえそれが、どんなに険しい道でも」

 クロウは絵画の中のユミルの町に指を這わした。つつと動いた人差し指が、ある地点でピタリと止まる。その位置はこの鳳翼館。否、さらにその限定された一点を指し示していた。

「やはりこの絵の題目は皮肉ではないな。私達を鼓舞しているようだ」

「違いねえ」

 その会話を最後に、二人はそれぞれ反対方向に歩き出した。離れゆく二つの背中に挟まれて、静かに佇む一枚の絵。

 タイトルにはこう表記されていた。

 『――未来への可能性――』

 

 

 日が暮れた。

 女性部屋がにわかに騒がしくなる。バッグを開け閉めする音や、ぱたぱたした足音が忙しなく聞こえてきた。

 部屋の中では女子達が入浴準備に勤しんでいるところだ。

「フィーちゃん、ミリアムちゃん。着替えは持ちましたか? シャンプーと石鹸はありますね。あ、おやつは持って行っちゃだめですよ」

「ん、大丈夫」

「えー、おやつだめなの?」

 エマがフィーとミリアムの手荷物チェックをする横で、先ほど屋敷から到着したばかりのエリゼは所在なさげに立っている。

「あの、本当に私もご一緒していいのですか?」

「もちろん」

 遠慮がちにエリゼが問うと、かばんの中から着替えを取り出していたアリサは笑顔を見せた。

「せっかくユミルまで来たんだもの。夕食も一緒に取りましょう」

「い、いえ。そこまでは。そもそも今回は私達がもてなす側ですので」

「少しくらいならいいじゃない。リィンも食事はここで取るって言ってるし」

「それじゃあ、あの……少しだけ」

 照れを隠しながらエリゼは言った。

 扉が開いてラウラが入ってくる。

「先輩方を誘いに行ってきた。トワ会長はお付き合い下さるそうだが、アンゼリカ先輩はさっき入ったばかりだから遠慮するとのことだ。一応サラ教官にも声を掛けたのだが、部屋の中からいびきが聞こえたのでそっとしておいた」

 呆れたようにアリサは言う。

「サラ教官……どこにいてもやること変わってないじゃない」

「むしろ堂々と羽目を外せる分、いつもより飲んでいるようだ」

 引率役であり、監視役ではない。というのはサラの弁である。信頼の下に発した言葉であると願いたいが、こうなってくると自由に酒が飲みたかっただけではないかという疑念も沸いてくる。

「ほんとにもう……あれ?」

「どうしたんですか、アリサさん」

 かばんからタオルを取り出そうとしているアリサだが、中で引っ掛かってるようで手こずっていた。

「えーと、これですか?」

 エリゼも手を添え、加勢する。『せーの』で力いっぱいに引っ張ると、その瞬間に引っ掛かりが取れたらしく、勢いそのまま二人は後ろに倒れ込んだ。同時に、かばんから飛び出したそれらが中空に舞い踊る。

「あいたた……え?」

 二人の視界いっぱいに広がったのは、色取り取りの下着が大量に降ってくる光景だった。他の女子達も目を点にして、色彩豊かに四散する下着の山を呆然と眺めていた。

「な、なっ!?」

 一番驚いているのはアリサである。かばんに入れた覚えもなければ、こんなど派手な下着を購入した覚えもない。刹那遅れて脳裏に浮かんだのは、シャロンのいつもの笑みだった。直感で理解した。おそらく出発前のわずかな隙に仕込まれたのだ。シャロンが言う所の“目を疑う程すごい一品”とやらを。ただし一品どころではないが。

 どうりでかばんが膨らんでいたわけだと納得したのもわずか、散乱した下着がフィーの肩やら、エマの腕やら、あげくエリゼの頭やらに乗っかっているのを見て、アリサの狼狽はピークに達した。

「あ、あ。違うのよ。それは、シャロンがね、そ、その」

 しどろもどろに弁解するアリサをよそに、彼女達は落ちたアリサの下着類を拾い上げながら、口々に感想をもらしている。

「攻撃的なデザインだな。これを身に付けるのは……少々勇気がいるな」

「こっちのは装飾が凄いですね。あ、いえ、アリサさんなら似合うと思いますが……」

「……すけすけ」

「見ないで!お願いだから!」

 涙目になって下着を押収するアリサを見ながら、エリゼはショックを受けていた。

「こ、これが大人の下着……やっぱりあの時、姫様の申し出を受けておけば……」

 必死に誤解を解こうとするアリサ。興味深げに下着を物色するその他の面々。

 しばらくしてトワも合流し、意気消沈のアリサを引き連れて、一同は浴室へと向かうのだった。

 

 

 少し時は遡る。

 夕闇を雲間から覗く月明かりがわずかに晴らしている。冷たい夜風がそよぐと、雑草がかすかにささやき声をもらした。

「なんてこった」

 苛立ち交じりの声が、闇の中で悪態をつく。クロウの隣で、アンゼリカも立ち尽くしていた。

 鳳翼館裏手の山。昨日下見までしてルートの選定を行ったのに。さらに言えば、少しでも保護色になるように普段の赤服ではなく、わざわざ緑服に着替えてきたのに。

「ちくしょう……!」

 だんと近くの木の幹を叩くと、枝葉から雪の塊がばさばさと音を立てて落ちてきた。

「これは想定外だったな」

 手近な木にもたれかかり、アンゼリカは山の奥を見据えた。

 一面の雪景色である。昨晩から降り続いた雪のせいだ。町中の雪はすでに半分以上溶けている。しかしこの裏山は、うっそうと生い茂る枝葉が影になって陽光が届かなかったのだろう。ほとんど雪が溶けておらず、足首が埋まるくらいの積雪が残っていた。中腹部に入るともっとかもしれない。

「くそ……どうする」

 整備などされていない自然の山道。見れば昨日木に塗ったマーキング用の蛍光塗料は、雪解け水に流されてほとんど効果を発揮していない。光源はわずかな月明かりだけ。それが雲に隠れれば、闇の中で立ち往生をする羽目になる。山の周りに導力灯でも立てているのか、魔獣の気配こそなかったが、それでも天然のトラップはあちこちに散在しているはずだ。

 目的地である温泉の裏手に出るには、最短ルートでおよそ二十分。昨日は昼の進行であっても、決して楽な工程ではなかった。

 この状況で慣れない山道を抜けるのは、自殺行為に等しい。

「……はっ」

「……ふっ」

 あざけるように笑い、二人は同時に足を踏みだした。サクッと雪を踏む小気味よい音が辺りに響く。

「何やってんだ、ゼリカ。危険すぎる。お前は戻れ」

「聞けない相談だ。君こそ退いた方がいい」

 アンゼリカが腕を組み、クロウは髪をかきむしる。

「慣れない闇夜の雪山道、下手すりゃ死ぬぜ」

「……昨晩、リィンに私の退学のことを伝えた。あと導力バイクを託す旨もね。心残りはないよ。いや――」

 言いかけて、アンゼリカはかぶりを振った。

「ここで引き下がる方が未練が残る。あの橋の上で君には言ったはずだ。私は学院生活を締めくくるにふさわしい達成感が欲しいんだ」

 小さく舌打ちをした後、クロウは投げやりに言った。

「今はっきりわかったぜ。俺のダチはどうしようもねえバカだってな」

「その言葉はそのまま君に返そう」

 顔を見合わし、失笑を交わす。

「彼女達は入浴の準備をしている頃だ。時間に余裕はない」

「上等。本気で行くぜ」

 パンと互いの手の平を打ち合わせ、クロウとアンゼリカは白銀の山間へと駆け出した。

 

 木々の間を縫うように疾駆する二つの影。

 雪の積もり方や、微妙な斜面から瞬時に元の地形を把握し、足をつける地点を決定する。

 クロウはクロスカントリーの応用で、巧みに環境を利用しながら縦横無尽に山中を駆ける。大雑把な動きに見えて、その実、効率的なルートを進んでいた。

 一方のアンゼリカは武道の体捌きの応用で、背骨を軸に体幹をぶらさず、前に倒れ込む力を前進する力に変換し、必要最小限の力で着実に歩を進めている。

 宣言通り、今まで培った全てのスキルを総動員しての、全力全開、全身全霊の山道攻略であった。

 山の奥に進むごとに、やはり雪は深くなる。場所によっては膝下まで埋まる場所もあった。それでも彼らは止まらなかった。視界を遮る枝葉を振り払い、雑草をかき分け、積雪を踏み慣らし、ただ懸命に走る。

 今、彼らが身命を賭す理由は、褒められるものではないのかもしれない。だが。

 “歩き続けていれば、いつかは必ず目的地に辿り着く”

 その言葉を胸に刻み、ひたすらに、ひたむきに、足を前に出し続ける彼らを、一体どうして責められよう。

 それは邪念であると、心無い誰かが言うのかもしれない。

 しかし彼らは胸を張ってこう答えるだろう。そこに雑念はないと。

 それは不純であると、心無い誰かが言うのかもしれない。

 しかし彼らは臆することなくこう答えるだろう。混じり気のないこの真っ直ぐな思いが、純でなくて何なのかと。

 不純な邪念などではない。これは純粋な一念だ。

 心の内から押し寄せる、御し難いこの情動。崇高な目的を完遂せよと、自分の何かが熱く叫んでいる。

「おおおおっ!」

 裂帛の気合が、木々の合間を反響した。

 が、大自然に人の想いは通じない。それどころか、時として嘲笑うかのように牙を剥く。

「なっ!?」

 今がまさにそうだった。速度に乗ったクロウの出鼻を挫くように、その足に蔓を絡ませたのだ。

「クロウ!」

 アンゼリカが叫ぶが、すでに彼は体勢を大きく崩していた。縦に横に不規則に回転しながら、ごつごつした山道の上を転がり、あげく茂みを突き抜けて、その先の崖から転落してしまった。

「がはっ……」

 落差は五アージュ程だったが、うまく雪がクッションとなり、幸いにも打ち身で済んだ。しかし体全体を強く打ち付け、動くたびに激痛が走る。おまけに視界もかすんでいた。自分のうめき声が、わんわんと頭蓋の中を反響する。

 アンゼリカが崖を迂回して、仰向けに倒れるクロウへと歩み寄った。

「クロウ、無事か」

「はは、ヘマやっちまったぜ」

 クロウは力なく頬を笑みの形にした。それは彼の精一杯の強がりだった。

「立てるか? いや、立てなくてもいい。私が君を背負っていく」

「このままだと俺は足手まといだ。お前一人で行け」

「ダメだ。置いてはいけない」

「……もう三十分は経ってる。さすがにあいつらも風呂に入る頃だ。時間切れになる前に早く行け」

 月明かりが銀世界を薄く照らし、光が二人の輪郭を際立たせている。風と共に舞う粉雪が月光を反射し、輝く粒子を宵闇に咲き散らせた。

 雪上に横たわるクロウと、寄り添うアンゼリカを幻想的な光景が包む。

「悪くない最後かもな」

「これを越える光景が、手を伸ばせば届く所にある。意識をしっかり保つんだ」

「くそ、いけねえ、視界がさっきよりかすんできやがった……」

「悪態をつく気力があるなら、まだやれるだろう。大体視界なら私だってかすんで……」

 同時に『ん?』と辺りを見回す。

 この視界の悪さは粉雪ではない。仄かな温かみを感じる。これは――蒸気だ。

「ま、まさか」

 クロウは勢いよく上体を起こす。あばらの何本かに痛みが走ったが、そんなことはどうでもよかった。

 這うようにして、蒸気の濃くなる方へ向かう。

 呼吸が荒い。吐く息が白い。手の平が氷のように冷たい。それなのに体の芯は燃えるように熱い。

「はあっ、はあ……」

 クロウは立ち上がる。傍らにはアンゼリカも立っていた。

 眼前には昨日見た竹の壁。辺りに漂う蒸気は、硫黄の匂いを孕んだ紛れもない温泉の湯気。

 二人はついに、約束の地に辿り着いた。

 

 

「まだ女子達の声が聞こえねえ。セッティング急げ!」

「わかっている」

 ここからも迅速に動かねばならなかった。

 昨日の内に運んでいた脚立を竹壁に立てかけ、足元を固定する。ちなみにこの脚立は鳳翼館の資材置き場に放置されていたものを、クロウが無断借用してきたものだ。

「ギシギシ言ってるな。大丈夫だろうか」

 試しにアンゼリカが脚立の一段目に足をかけると、ベキッと軽快な音を立てて、容易く足場が踏み抜けてしまった。

「……ゼリカ」

「不幸な事故だ」

 信じられない物を見るようなクロウの目を、さらりと受け流す。

「相当古いもんだったみたいだし仕方ねえ。こうなりゃ雪で足場を作るぜ!」

「了解だ」

 目的が明確な人間は立ち止まらないという、最たる例である。起きたトラブルをあまねく受容し、即座に次の手を弾き出す柔軟かつ強靭な思考力。

 クロウとアンゼリカは辺りの雪をあくせくとかき集め、押し固めて足場を高くしていく。さすがの二人も疲労の色が見えていたが、息切れする頃には一アージュ強の高さの雪塊をこしらえていた。

 だが、竹の壁は三アージュ近い。もう少し雪の高度がいる。

 重たい足を引きずり、さらに雪をかき集めようとしたところで。

 ――ガラガラ

 浴室の扉がスライドして開く音が聞こえた。徐々に大きくなるかしましい声。

「きやがったか!」

「やむを得ない。クロウ、この雪の台座の上で私を肩車するんだ」

「はあ!? それだと俺が見えねえだろうがよ」

「後で交代する。時間がない、早くするんだ」

 一考の余地さえなかった。「ちゃんと代われよ!」と焦れた声で言い放ち、クロウは先に雪の台の上に乗る。その首元に身軽な跳躍でまたがるアンゼリカ。

「これはこれで君も役得だと思うのだがね」

「黙ってやがれ」

 毒づき、アンゼリカを担ぎながら、クロウは腰を上げた。

「ふ、ふふふ」

 壁の上部に手をかけ、アンゼリカは頭をぬっと持ち上げる。

 至高の瞬間がやってきた。

 

 冷え込んだ外気の影響もあり、視界は蒸気で白く覆われていたが、それでも浴場を見通せない程ではなかった。

 一番に戸口をくぐってやってきたのはアリサだった。

「ふう、やっぱり温泉って気持ちいいわよね」

 白い柔肌。滑らかで均整の取れたボディライン。ブロンド髪を揺らし、ついでに色々揺らしながら、彼女は足元を滑らせないよう慎重に歩いてくる。普段の言動に成りを潜めてしまうが、彼女も間違いなくお嬢様であり、然るべき教養と立ち振る舞いを身に付けている。ツンの中に見えるたおやかな挙動。それは甘い毒となり、紳士達の脳を麻痺させる。つまりは落差。ギャップというスパイスが、彼女の魅力を余すことなく引き出すのだ。それはここ、浴場においても変わらない。お嬢様ボディというのはもっと粛々として然りなのに、その激し過ぎる主張は何なのか。惜しむらくは体にバスタオルを巻いていることだが、アンゼリカの心眼の前では、そんな布きれなど薄紙ほどの意味もなさなかった。これぞラインフォルト社でも製造不可能な、完全オーダーメイドのツンデレーション・ボディ。

「うむ。今日はゆっくりと浸かるとしよう」

 アリサに続いてやってきたのはラウラだ。

 髪の結いは解き、長いロングストレートの透けるような青髪はとても美しかった。普段から鍛えているだけあって、引き締まり無駄の無い完璧なスタイル。さりとて、筋肉質というわけではなく、十分に女性らしさを感じるシルエットである。言うなれば、何人も触れること叶わぬ国宝級の彫像。レグラムの町のど真ん中に彼女の銅像を建造して、その入浴風景の優美さを讃えるべきであろう。蒸気に撫でられ、つややかな光沢を放つ肌は、もはや芸術。他の追随を許さない、威風堂堂のアーティスティック・ボディ。

 その二人を一瞬の内に堪能したアンゼリカは、『ぶー!』と鼻血をアーチ状に吹き出した。

 鮮血が半円の軌跡を描き、直下のクロウにボタボタと滴り落ちる。

「おまっ! ちょ、ゼリカ!? ぶーすんな、ぶーを!」

「うう、済まない。おもわずドラゴンぶーストしてしまった」

 攻撃力増し増しのアンゼリカである。

 鼻血を垂らしながら、尚も彼女は壁の向こうに頭を伸ばす。

 続けざまに、三人目、四人目が入ってくるところだった。

「ん、やっぱり寒いね」

 てくてくと普段と変わらない足取りで、洗身場に歩を進めるのはフィーだ。

 その身軽さが示す通り、彼女には一切ぜい肉と呼べる物がなかった。ラウラとは違うベクトルで引き締まった体と言うのか、小柄ながら洗練された肉体である。しかしながらほのかに膨らんだ胸と、なだらかに湾曲するヒップは未だ成長過程であり、それは子供から大人へと変わる限定された期間でしか垣間見ることのできない奇跡、そして神秘と言えよう。数年後、彼女がどのような成長を遂げるのか。想像するだけで悶絶必死の、夢と希望を内包するポッシブル・ボディ。

「私も温泉は久しぶりです」

 四人目。楽しみだが、はしゃぐまいと自分を抑えている様子のエリゼだ。カラスの濡れ羽のような、しっとりとした黒髪はユミルの宝と評しても過言ではない。

 普段の楚々として可憐な佇まいは、ここ浴室においても一切乱れることがなかった。一糸纏わぬあられもない姿であっても、その凛とした姿勢を崩さないのは、貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)の精神が彼女にも息づいているからであろう。控え目に膨らみを見せる、フィーと同じく成長過程のボディラインは、慎ましく開花の時を待つ初春のライノの花と形容すべきか。その潜在能力はいまだ未知数のハイポテンシャル・ボディ。

「ごふっ、ごぶふっ」

 アンゼリカが激しくむせ込んだ。

 何と限りない夢が詰まったつぼみ達だろうか。というか彼女達をどう表現したらいいのか。自分は最も適した言葉を知っている気がするのだが。

 唐突に脳裏に映像がよぎる。山塊を飛び越える白い鳥の群れ。そうだ、あれだ。

「“未来への可能性”……!」

 ぐっと拳を握りしめ、あの絵のタイトルを口にする。

 リビドーが加速し、連動するように鼻の双穴から血が流れ出した。

「ゼリカァ!」

 下のクロウなどお構いなしだ。

「うう、まだ頭が痛いかも。お酒のせいだよ……」

 続き浴室に現れた五人目はトワだった。必然、アンゼリカの鼻息も荒くなる。

 フィーに負けじ劣らずの小柄な彼女だが、その体型はエリゼに似ている。が、十八歳と言う年齢にしては幾分未発達の部分が目立つ。しかし、先の二人のように可能性をその身に秘めているわけではない。彼女はすでに可能性の先にいる。そう、これが彼女の終着点であり、最終形態なのだ。どのように発育をしようとも、個人差があるのは致し方なく、残酷で辛辣で冷徹な事実である。身長と胸は、見えない何かに押さえつけられているのかと思う程、伸びないし、大きくならない。昨年、寄せて上げて身にまとった学院祭のステージ衣装が、涙ぐましくもささやかな努力と受け取られ、一部のファンの目を滲ませたことは記憶に新しい。だが、彼女は気付いていないのだ。それがすでに完成された至高のものであるということを。それ即ち、一部の人達の一部の人達による一部の人達の為の、ある意味パーフェクト・ボディ。

「あはは、温泉だー!」

 快活な笑い声と共にやってきたのは六人目、ミリアムである。バスタオルなど持ちもせず、恥じらいもなく、生まれたままの姿であちらこちらを駆け回っている。

 ツル、ペタ、ストーン。

 その擬音が彼女の全てだ。なにもないが故、全てがそこにある。屈託なく笑顔を見せる彼女だが、その未発達未発育の体は、非常に難解な哲学を有している。一たびその議論に足を踏み入れたなら、太陽が三度昇り沈みを繰り返すまで、抜け出すことはできないだろう。何より十三歳というその年齢が禁断の果実である。アガートラムと法律により守られた不可侵的存在。邪な意思を持って手を出す者は、肉体的、社会的制裁を容赦なく受けることになる、一罰百戒のクライムアンドペナルティ・ボディ。

「な、なんと……っ!」

 胸を穿たれるような衝撃に、アンゼリカは思わず仰け反った。

 トワの裸身を見る機会は今までにもあった。最後に見たのは昨年の水練の授業の時、ギムナジウムの女子更衣室だったと記憶している。あれから約一年。何も変わっていないではないか。ゼロだ。変動がゼロだ。うら若き十八歳の成長期の乙女に、そんなことがあり得るのか。これはもう、人知を超える力が働いているとしか思えない。一方のミリアムはどうだ。これもゼロだ。何もないという意味でのゼロだ。しかしこの二人から生み出される破壊力たるや。

 無という概念から生み出される衝撃。静と動の極地。これぞまさに、

「ゼロ・インパクトッ!!」

 ぶぶぶー! と噴水のように鼻血が真上に飛ぶ。あたかも壊れた水道管から水が噴出するように。

 もれなく真紅の血雨が直上から降り注いだ。

「ゼェーリィーカァー!!」

 下で何やら吠えているが、全ては些事だ。なぜならこの後に来るであろう、最後の一人は――

「ミリアムちゃん、走ったら危ないですよー」

 ついにやってきたⅦ組の誇る最終兵器。国士無双のダイナマイト委員長。

 この時点で凄い。何だかもう凄い。当然ながら眼鏡は外し、三つ編みおさげも解いている。緩やかに拡がる波打つ髪は、雄大な海原を連想させた。その海原に君臨する双丘は、もはや一枚のバスタオルには収まりきらず、溢れんばかりにせめぎ合っている。一歩踏み出すごとに二つの爆弾は上下に揺れ、辺りに滞留する空気を無遠慮に押し退けていく。リンゴ? スイカ? メロン? 果実で例えるなど愚の骨頂だ。そんな陳腐なものではないのだ。この筆舌に尽くしがたい、唯一無二の宝玉をどう例えたらいいのか。生命の母たる海か、繁栄の父たる大地か、女神の御許たる空か。いや、足りない。そう、言うなればそれら全てをその身に宿す“星”。この星そのものだ。天地開闢の奇跡を体現する爆発力、空前絶後のエクスプロージョン・ボディ。

「ぐはあっ!」

 一トンの鉄球をみぞおちに直撃させられたようだった。しかし、アンゼリカは耐える。これ以上鼻血を出し続ければ、意識を失いかねない。意識を失えばこの光景は消えてしまう。冷静になるのだ。クールダウンだ。想像しろ、悲しい出来事を。萎えろ、萎えろ、萎えるのだ。

 その時、強い風が吹いた。

「きゃっ」

 エマの短い悲鳴。紳士の突風が彼女のバスタオルを吹き飛ばしてしまった。月明かりの下に晒された豊満な肢体が身じろぎする。

「ドッ、ドラグナーハザードゥーッ!!」

 コンマ一秒で臨界突破。吹き荒れる闘気と悶気が融合し、象られし龍が天へと昇る。

 瀑布のごとき鮮血が、ドボドボとクロウに襲い掛かった。緑服が瞬く間に赤服に染まっていく。

「てめえ、ゼリカ! 早く変わりやがれええ!」

「死んでもいい、もう死んでもいいっ……!」

 変われと叫ぶクロウの声など、もはや意に介す必要はない。もう一度、この楽園を目にしなければ。次は一度に全体を視界に入れてみよう。あまりの威力に今度こそ死ぬかもしれないが、それならそれで別にいい。本望だ。

 そう思い、再び竹壁の上に顔を上げようとした所で、

「アンゼリカ・ログナー」

 今までのがなり立てるような声音から一変。地の底から響くような、冷たい声が鼓膜を震わした。

 初めて聞く声音だった。胃の腑が波立つような、低く重い声。少なくとも自分の知るクロウではないように思えた。

 鼻血を被った前髪から、赤い液体が滴り落ちる中、クロウは静かに続けた。

「ゼリカ……俺にも我慢の限界ってあるぜ」

 そう言って、クロウは緩慢な動作で、ホルスターから片手で銃を抜き放った。ぎらりと光る銃身は狂気を纏っている。

「こいつには弾が二発入ってる。一発は自決用。もう一発は裏切り者の粛清用だ。どっちの銃弾も使うつもりはなかったが……」

 どんどん低くなるクロウの声。反して高鳴るアンゼリカの鼓動。

「俺の心はフリーズバレットで凍結中だ。おまけに頭はカオストリガーで混乱と悪夢に満ちてやがる。悪いが自制が利く状態じゃねえよ。なあゼリカ……俺にもよ――」

 クロウが上を見上げた。血よりも赤いその瞳が、静かにアンゼリカを捉えている。

「俺にもドラゴンぶーストさせてくれや?」

 本気だ。ここで応じなければ、この男は自分を撃つ。うすら寒い確信を覚えて、アンゼリカはクロウの肩から降りた。

「ったく最初からそうすりゃいいんだよ。つーか叫び過ぎだ。湯の音で聞こえなかったみたいだから助かったけどよ」

 肩をすくめるクロウはいつもの彼だった。今の得体の知れない重圧感は、すでに消え失せている。

「ほら、次はお前が肩車する番だぜ」

「何を言うんだ。女の私が君を担げるわけないだろう」

「てめえ」

「冗談だよ」

 ひょいとクロウを肩に乗せたアンゼリカは、苦もなく彼を持ち上げた。

 壁の向こうからは「ちょっと凄いわね」とか「大きくて丸い……」だとか、もう色々な想像をかき立てる声が聞こえてくる。

「へへ。何が出るかな、ワイルドカードっと」

 口元をあらん限りに歪まして、クロウの視線が壁の向こう側へと伸びる。

 一番最初にそれが視界に入った。というかそれ以外は目に入らなかった。

 すべらかで、丸みがあり、艶のある肌。背から肩、腕、腰にかけての申し分ない肉付き。いじらしくもバスタオルで前を隠しているが、濡れたそれが張り付いて、穢れのない体表を薄く透かしていた。照れているのだろう。皆の視線が居たたまれないようで、恥じらいもあらわに顔を隠す動作が何とも女子らしい。

「ΠЁΘΠ§Ё///」

 なまめかしくグィングィン稼動音を響かせる銀の乙女(シルバーメイデン)――アガートラムさんのお目見えである。

「なんだそりゃああああ!!」

 魂の咆哮がユミルの夜空を突き抜けた。

 喉が破けんばかりに放った大音声が、ついに浴場へと届いてしまう。

「な、なに!?」

「まさか、誰かいるのか?」

 女子達に気付かれた。ざわざわとどよめきたち、慌ただしくなる浴場内。

「いかん、クロウ。撤退だ」

 ぎりぎりと歯を軋り、血涙を流すクロウを半ば強制的に地面に降ろす。

「ちくしょう……いや、だめだ。ここをやり過ごしたところで、調べられたら俺達にアリバイがないことがばれる」

「だが、どうすれば」

「へっ、こうすんだよ!」

 にっと笑ってクロウはそれを取り出すと、地面の上に力強く置いた。

 

 

 一方、浴場内は不気味な静寂と緊張に包まれていた。

 女子達はとりあえず、湯に肩まで沈み込んで体を隠している。声らしきものは聞こえたが、まだ誰かがいるという確証がないのだ。

 そんな中、沈黙を破ったのはアリサだった。

「ちょっと、誰かいるんだったら返事しなさいよ。のぞきなんて最低よ!」

 応答はない。依然として静寂。時折、風が木々を揺する音がするだけだ。

「………」

 辛抱強く待ち、気配を察しようとする女子達。

 やはり気のせい、動物の鳴き声でも聞き間違えたのだろうか。

 彼女達がそう思いかけた時だった。

『チェックメイト』

 竹壁の向こうから、涼やかなマキアスの声が響き渡った。

 

「こ、これは……?」

 アンゼリカが驚くのも無理はない。存在は知っていたが、ここまで小型化した物は見たことがなかったのだ。

「これはスピーカー内蔵式の導力録音機だ」

 立方体型で前面にはスピーカー部が、背面には細かなボタンがやたらとついている。よくよく見てみれば、『リィン①~⑥』『エリオット①~④』といった具合に、Ⅶ組男子の名前と、それぞれに割り振られたスイッチがあった。

 クロウが今し方押したのは『マキアス③』のボタンだ。

 意図を察したアンゼリカが問う。

「まさかこれに男子達の声を録音しているのか? 昨日今日でそんな時間はなかったはずだが、一体いつの間に……」

「これをジョルジュから受け取った日だ。放課後、あいつらを構いに行った時にな」

 マキアスとチェスをし、エリオットとガイウスと走り込み、ユーシスと乗馬をし、リィンと旧校舎探索に行ったあの日である。クロウはその際に交わした会話の中で、使えそうな内容の言葉を密かに録音していた。もっと正確に言えば、彼らがそういう言葉を使うように仕向けていた。

 男子達があずかり知らぬ内に、惨劇の序曲は始まっていたのだ。

 

「マ、マキアスなの? あなたって人は!?」

 アリサが驚きの声を上げるが、間髪入れずに、

『だいぶ引き締まってきたようだな』

 そこはかとなく明るいユーシスの声が届いた。誰のどこを見てそう言ったのか、女子達の身が固くなる。

「ユーシスまで!? 何考えてるのよ」

 アリサが憤りを見せるも、彼はさも当然のように『言っておくが他言はするな』と付け加えた。

 それはあの日、馬術部以外の人間を馬に乗せたことを口止めする言葉であったが、そんな事に及びもつかない女子達は開口絶句である。

「なっ……」

 何を言っているのだ。のぞきに来たことを他言するなとは。そんなノーブルオーダーがまかり通るわけがない。

 エマが立ち上がり、彼らが身を潜めているであろう竹壁の向こうを見た。

「あ、あの。何か事情があるんでしょう? お二人に限ってそんな――きゃっ!?」

 健気にも弁解の猶予を与えようとするエマだったが、またしても間の悪い突風が吹き、彼女のバスタオルをはためかせた。

『今日はいい風が吹いているな』

 同時、清々しさを感じさせるガイウスの一声。穏やかに笑む彼の表情がありありと浮かぶ。

「ガ、ガイウスさん……?」

 まさかガイウスまでいるとは。しかも、爽快感のある物言いをしているのはどういうわけだ。

 未曾有の事態にエマが後ずさった時、『クイーンが逃げ回るなんていけませんよ。もう諦めたらどうですか』と、その動きを制するようにマキアスが言った。どこか鼻にかかる、余裕を感じさせる敬語でだ。まるで自分がそこに立っていることが、絶対の正義であるかのように。おそらく彼は壁の向こうで、らんらんと光らせた眼鏡をいつものように押し上げているに違いない。

 あの男子達がのぞきに来るなど、正直考えにくいことだったが、現に彼らはそこにいる。

 そうだ、Ⅶ組の良心であるエリオットは何をやっている。この暴挙を止められなかったのか。

 女子達が思いかけた時、彼の声も浴場に届いた。

『はあ……はあ……僕もう無理だよ』

 息も荒々しく、何かを耐えるような不気味な声音に女子達はぞっとした。しかもそんな彼を『がんばれエリオット。もう少しだ』と、力強くガイウスが励ましている。

 何がもう少しだ。何の応援だ。そんな友情があるものか。

 いや、ここにこの四人が揃っているということはおそらく――

「リィン、あなたもいるの!?」

「に、兄様?」

 むしろ、いない方がおかしい。すると案の定、リィンの声も聞こえてきた。

 場違いなほど、しみじみとした哀愁を漂わせて彼は言う。

『あの時のままだ。何も変わらない』

 それは本来、数か月ぶりに妹にあってどうだったという、クロウの問いに対する答えであったが。

「なっ!?」

「兄様っ!?」

 “あの時”。

 アリサにとっては半年前、リィンをその胸で下敷きにした時。

 エリゼにとっては数年前、最後に兄とお風呂に入った時。

 それぞれで該当する時こそ違うものの、色んな意味で激昂に足る言葉だった。

「な、何を懐かしむように言ってるのよ!?」

「あの時と変わらないわけがないでしょう!?」

 女子風呂は混乱のるつぼだ。

 

「くく、これで俺達に矛先は向かねえのさ」

「なんというか、君はダメな先輩だな」

 楽しげに録音機を操作するクロウの横で、アンゼリカは呆れ口調だ。

「万が一の為だって言ったろ。最悪の場合、ゼリカは言い逃れできるが、俺はまず無理だからな」

「何を言う。私だって万が一の備えは持って来ているぞ」

「よく言うぜ。……ん……あれ、なんだよ? 反応が……」

 クロウが怪訝顔で録音機の再生スイッチをガチャガチャ押すが、スピーカー部からのノイズ音が大きくなるだけで、次第に操作を受け付けなくなってきた。

「おい、なんでだよ」

 焦るクロウの横で、アンゼリカが気付く。

「待て、クロウ。そういえばさっきからその録音機、雪の上に置いているだろう」

 はっとして録音機を持ち上げると、排熱のせいで周囲の雪が溶けだして、内部機構に水が入り込んでいた。

「や、やっちまった。だけどもう十分だろ。潮時だし、撤退するぜ」

「了解だ。帰り道わかるのか?」

「大体の方向しか分からねえが、適当に走ってりゃ何とかなるだろ」

 二人はその場から元来た道へと駆け出した。

 ガガッと異音を散らす録音機スピーカーをその場に残したまま。

 

 使用者を失っても、録音機の機能は完全に損なわれてはいなかった。

 好き放題に、録音されたセリフをオート再生している。

「ほ、ほんとにこんなことしちゃだめだよ。あとでサラ教官に報告するよ」

 年長として、女子として、生徒会長として、トワが強い口調で告げる。規律の範たることが彼女の使命だが、今や規律どころか秩序さえ崩壊しかかっていた。

 そんな彼女の警告を無視する形で、マキアスが不敵に言い放つ。

『お望み通り、揉んで差し上げましょう』

 オブラートの欠片もない剛速球。

「そ、そんなこと望んでないよ!」

 即座に胸を押し隠すトワだったが、そこに思案するようなエリオットの声が重なった。

『うーん、扱いやすいから、小さい方が僕は好きだけどね』

 これは楽器の話である。しかしその場におられる“小さい方々”にとって、恐怖を煽る以外の意味は持たなかった。その上、“扱う”と来たものだ。

 トワはもちろん、フィーでさえも「エリオット、最低」と身を低くし、エリゼはただ顔を蒼白にしている。

「そなた達、悪ふざけも大概に……」

 ついにラウラの口調にも棘が立ったところで、

 ザザッ、ザ、ザザザ……ザザザザ!

 不快な音が辺りにざわめき立った。スピーカーがいよいよ不調を来たし、ノイズ音を激しくさせているのだ。だが壁越しに聞こえるその音は、彼女達にとって別の想像を促した。

「ちょっと待って……まさか」

「こっちに来る気か!?」

 それは草木を踏み分け、闊歩する足音。乱れも迷いもない、雄々しい行軍が迫り来る。

「み、皆さん、逃げましょう……!」

『逃がしませんよ。このフィールドはすでに僕のものです』

 エマの焦りをマキアスが一笑に伏す。眼鏡の死神が嘲笑い、乙女達を絶望の淵へと追い込んだ。

 それでもアリサは負けじと、男子達がいるであろう位置を睨み返した。

「できる訳がないわ。その壁を乗り越えるって言うの? それとも壊すとか? 馬鹿げてる。さ、湯冷めする前に出ていくわよ、みんな」

 エリゼやトワは怯えているようだし、ラウラやエマには戸惑いが見える。アリサとて平静ではなかったが、少しでも気丈に振る舞うことで、止まっている全員の足を動かそうとしたのだ。

 意図が伝わってか、

「そうだな。早々に出ていこう」

「ん、賛成」

 順々にアリサの言葉に続く。

 その間、男子達は沈黙していた。

 ようやく諦め、自分達の行動がいかに軽率であったか噛みしめているのだろう。そう思う、いや、そう思い込みたい女子達だったが、不意に不穏な空気を感じて、動かしかけた足を止めた。

 またザザ……という音が聞こえてくる。しかもさっきより大きい。

 そして再び音が止まる。

「……?」

 なんだ、何をしている。嫌な空気をその身に感じながら、女子達は生唾を飲み下す。

 そして――

『この手で道を切り開く!』

 リィンの力強い宣言が、静寂を打ち破った。

「きゃあああ!」

 女子達の大絶叫。もう無理だった。なりふり構わず、一目散に脱衣室まで逃げる。その背に向かって飛んでくる男子達の声。

『も、もう耐えられない……』と何やら限界間近のエリオット。

『ハイヤー! ハイヤー!』と必死に叫ぶユーシス。

『ハイヤハイヤハイヤハイヤッ! ハイヤーッ!!』とさらに全力で連呼するガイウス。

 スピーカーが最後の力を振り絞り、大音量のノイズと男子達のセリフを撒き散らし、その上一部にはリピート再生まで加えていた。

『ヒィアッーハーッ!』 

 フィナーレをマキアスの歪んだ笑い声で締めくくると、録音機はボンッと黒煙を吐き出して、全ての機能を停止した。

 同時、勢いよく閉まる脱衣室の扉。浴場には誰もいなくなった。

 

 

 男子部屋は平和だった。朗らかな笑い声が絶え間なく聞こえていた。気の置けない仲間達と共に過ごし、穏やかに流れる時間だった。

「よし、僕の勝ちだな!」

「ふん」

 窓際の席でチェスをするマキアスとユーシスを、リィン、ガイウス、エリオットが囲んでいる。

「はは、やっぱりマキアスは強いな」

「うむ」

「ほんとだよね。勉強もできるし、さすがだよ」

 上機嫌なマキアスに、ユーシスは「人間一つくらいは取り得があるだろう」と冷ややかに言う。が、別段機嫌が悪いわけではなさそうだった。

 男子達は笑っている。

 その折、一階から二階へと続く階段が、ギシギシと小さく軋みの音を立てていた。

「よし、次は誰が相手だ。今日の僕は絶好調だぞ」

「じゃあ、俺が行かせてもらおうか」

「がんばってよ、リィン」

 ――ギシ、ギシ。

「リィン、俺が横からフォローしてやる」

「なっ、ずるいぞ」

「ふむ、俺もルールを覚えて早くやってみたいものだ」

 ――ギシッ、ギシッ、ギシッ。

「そういえばクロウ、どこ行ったのかな?」

「あ、さっきから見かけないな。まさか一人で温泉にでも浸かりに行ったとか」

「帰ってきたら先輩にもチェスに付き合ってもらおう」

「お前の頭にはチェスの事以外ないのか?」

 全員の笑い声が重なった。

 ――ズンッ!

 突如部屋の中に響いた重い衝撃音に、全員の笑い声が止まった。

「………え?」

 音の方向に目がむく。扉のドアノブ付近から、何かが突き出されている。見覚えのある鋭利な剣先。

 大剣がギリギリと唸りながら半回転した。力任せに抉られ、破孔が押し広げられていく。

 剣が引き抜かれた。ぱらぱらと床に落ちる木片。

「………」

 男子達は、その様を呆然と見つめていた。

 続けざま、銃弾が何十発と絶え間なく扉に撃ち込まれた。おびただしい数の弾痕が、扉いっぱいに大きな円を描く。

「………」

 穴だらけになった扉の向こうで何かが光った。次の瞬間、燃え盛る炎が扉を瞬時に黒炭に変える。炎の残滓が燻りつつも、何とか扉としての体裁は保っていたが、それも巨大な銀の拳に打ち据えられるまでの、ごくわずかな間のことだった。

 轟音と共に木っ端微塵に弾け飛ぶ扉。すでに炭化していたそれは、中空を舞いながら灰塵と成り果て、漆黒の粉雪を部屋の中にぶちまけた。

 黒い塵の向こうに見えたのは、廊下に揃い踏む女子達。その手には各々の得物が携えられている。

 二階全体に充満する猛烈な殺気。突然に共用ロビーのソファーが弾け、壁に亀裂が入り、掛けられていた絵画が床に落ちた。“未来への可能性”が落ちて、割れた。

「……何を謝ったらいいんだ?」

 リィンが問う。生命の危機を察知した体は、自分の意志とは関係なく震え出していた。

 アリサが乾いた笑みを浮かべた。

「自分の胸に聞いたら?」

 感情のない声だった。

「トワ会長なんて部屋に閉じこもっちゃったのよ」

「トワ会長が? なんで……」

「自分の胸に聞いたらって言ったわ」

 感情のない声に、徐々に怒りの火が灯る。男子達は状況を飲み込めないままに理解した。

 逃げなくては、やられる。

 エリゼが横合いから歩み出る。

「エリゼ。これは一体どういうことなんだ」

「兄様の、兄様の……」

 リィンの声などすでに聞こえていないようだった。

「兄様のっ、バカーッ!!」

 その言葉を合図に、惨劇は始まった。 

 

 無抵抗に逃げ回る男子と執拗に追い回す女子。一方的な蹂躙だった。

「今日はいい風が吹いているそうですね」

 エマがガイウスの前に立ちはだかる。魔導杖と丸眼鏡が光った。

「な、何を委員長? ぐああああ!」

 雷撃の閃光がガイウスを包む。

 そのすぐ横をアガートラムに吹き飛ばされたユーシスが、ごろごろと勢いよく転がっていく。

「み、みんな、どうしちゃったのさ!? やめてよ!」

 必死で停戦を呼びかけるエリオットの眼前を鋭い斬撃が走った。ラウラが緩慢な動作でエリオットににじり寄る。

「ひっ」

 たたらを踏んだエリオットは足をもつれさせ、背後の荷物置き場へと倒れ込んだ。

 散乱した荷物の一つを近くにいたフィーが拾い上げる。

「……これ、エリオットのかばんから出てきたよね」

 フィーの手にした一つの雑誌。挑発的なお姉さんが表紙の卑猥な雑誌。

 ラウラが諦めのような、確信を持ったような、悲しげな声で言う。

「やはり血は争えんか。猛将の子は猛将ということだな」

「な、なんのこと!?」

 逃げようとするエリオットの襟首を、フィーがぐいと掴む。

「逃がさない」

 双銃剣のぎらつく刃に、ガタガタと震えるエリオットの横顔が映っていた。

「くそ、こんなところで!」

 剣林弾雨をかいくぐりながら、マキアスは眼鏡を外した。

「割られてたまるか!」   

 眼鏡を外せば視界は悪くなる。捕らえられるのも時間だろう。それでもマキアスは窓の外めがけて、眼鏡を思い切り放り投げた。優先すべきは自分の命ではないのだ。

「お前だけでも逃げろ!」

 闇の中に消えていく眼鏡。

 これでいい。何かをやり遂げた男の笑みを浮かべた時だった。

 窓の外に向かって眩い光軸が伸びる。アガートラムのビームだ。理解した時、戦域から離脱させたはずの眼鏡は、すでに閃熱の中に飲み下されていた。その形状を一秒と保つこともできず、眼鏡は瞬く間に溶解し、成す術なく消滅する。

「僕の眼鏡があ! ぐふっ!?」

 打ちひしがれるマキアスの背に、さらに銀の拳がめり込んだ。

 末期の時を悟った男子達は、口ぐちに叫ぶ。

「行け!」

 その言葉はリィンに向けられていた。

「だが……っ!」

 リィンはとっさに判断出来なかった。組み伏せられ、縄で縛られていく仲間達をどうして見捨てられよう。

 後ろ手に拘束され、横たわるユーシスが声だけ飛ばす。アルバレア家の人々が見れば、白目をむいて卒倒するような光景だ。

「この事をシュバルツァー卿に伝えて救援を頼め! お前が……お前だけが希望だ」

 男子達は意識も虚ろながら、唯一まだ動けるリィンに最後の望みを託す。

「リィン……お願い」

「行け、行くんだ……」

「ぼ、僕の眼鏡……」

 リィンは決意し、拳を握りしめた。

「必ず戻る。死ぬな、みんな。俺達は生きてトリスタに帰るんだ!」

 窓に向かって駆け出す。二階だが、飛び降りれない高さではない。

 躊躇なく跳躍し、着地した瞬間だった。

 地面が陥没して、リィンはいきなり開いた大穴に落ちた。

「お、落とし穴? フィーの仕業か。早く抜け出さないと――!?」

 うめきながら上を見上げると、視界を埋め尽くすほどの大きな丸太が、頭上に降ってくるところだった。

 悲鳴をあげる間もなく、リィンは凶悪なトラップの餌食になった。

 

 

「あんた達いい加減になさい! 貸し切りだって言っても限度がある……わよ」

 あまりの喧騒に耐えかねて、サラが男子部屋に押し入ってくる。

「……なによ、これ」

 その気勢は部屋の惨状を見て、すぐに削がれた。

 まずあるべき扉がない。部屋の中は荒れに荒れた無法地帯。男子達はささくれだった荒縄で縛られ、部屋の隅に固められている。

 サラはこの光景を知っていた。これは凄惨な争いのあとに生まれる光景だ。捕虜達にはあらゆる権限がなく、無力を痛感し、絶望と恐怖に身を苛まれ、未来の一切を奪われる――そんな救いのない光景なのだ。

 よもや旅行先でこれを目にすることになろうとは。

「……何があったの? 誰か説明して」

 女子達から詳細を聞いたサラは思案顔を浮かべる。話途中、男子達が何か訴えていたが、猿ぐつわを噛まされている為、言葉として届くことはなかったが。

「………」

「サラ教官?」

 何かに思い至ったようで、サラは頬を軽く引きつらせた。

「ねえ、クロウはどこにいるの?」

 辺りを見回すが、彼の姿はいない。この手のことなら、先陣に立って指揮を取りそうなものだが。

「浴場で聞こえた男子達の声の中に、クロウの声はあったの?」

 女子たちに少しずつ冷静な思考が戻ってくる。

 竹壁の裏に到達するには山道を行かねばならない。自分達が着替え、ここに来る前に、男子達はあの場所から戻って来れるのだろうか。何より、一番あの場所にいそうなクロウがいなかったのはなぜだ。

「……まさか」

 エマが声をもらす。もう全員の中に答えは出ていた。彼女たちは無言で部屋から出ていく。

 全ての黒幕に制裁を。

 それを合言葉に、山狩りが開始された。

 

 

 一方、クロウは山の中を彷徨っていた。

「ちくしょう、どこだよ、ここは!」

 走り回る内にアンゼリカともはぐれてしまった。雪の山中をかれこれ一時間近く歩き回っている。

 疲れ果て、近くの木に寄り掛かった時だった。

「あれは明かりか?」 

 視線の遥か先、木々の向こうで小さな光が明滅した。

 ようやく街明かりを見つけたクロウは安堵するが、すぐに違和感に気付いた。赤い光が増えて、だんだん大きくなっていく――

「あ、あれは! やべえ!」

 クロウが横っ飛びに回避するのと同時、炎を灯した矢じりが飛んできた。

 それも一本ではない。何本も何本も、射線を変えながら、これでもかと放ってくる。その内の数本が、クロウが隠れている木の幹に深く突き刺さった。これはアリサの矢だ。

「ばれたか! いや、こっちの位置までは気付いていないのか」

 遠くから聞こえる女子達の声は『かがり火を焚け』とか『包囲して蜂の巣よ』とか『死よりも苦しい最後を』だとか、うら若い乙女が口にする言葉ではなかった。

 少し離れた場所では、アガートラムが双腕を振り回し、巨木をことごとく薙ぎ倒して荒れ狂っている。

「俺は結局アガートラムのボディしか見てないっつーの! ……だとしてもアガートラムがキレる意味は分かんねえけど!」

 忌々しげに吐き捨てて、その場から離れようとした時、上空に巨大な光陣が浮かび上がった。

 雲海を散らしながら、無数の光弾が尾を引いて地上に降り注いだ。

 そこかしこで爆音が響く。一瞬で雪が蒸発し、土くれが盛大に爆ぜた。

「委員長のアーツか!? あいつら山一つ消し飛ばすつもりかよ!」

 攻勢の手は緩まない。フィーは銃身が焼けつくほどにトリガーを引き続け、ラウラは手当たり次第に近くの木を切り倒している。導力が溜まる度にアリサはジャッジメントアローで山肌を焼きつくし、エマは二発目のアルテアカノンをぶっ放したところだ。

 身を隠す場所が瞬く間に消えていく。

 史上でも類を見ない凶悪な山狩りだ。

「クロウ、こっちだ!」

 頭に被った砂塵を払った時、アンゼリカの声が耳に届いた。 

「ゼリカ、無事だったか」

 擦過する矢や銃弾に気を付けながら、クロウはアンゼリカに歩み寄る。

「やべえぜ、こりゃ。生きて山を抜けられるかどうか――」

「クロウ、済まないな」

 言葉を遮ったアンゼリカの拳が、クロウのみぞおちに炸裂した。正真正銘のゼロ・インパクトだ。

「ぐっ、ゼリカ……てめえ……?」

「私も万が一の備えを持ってきていると言ったね。心底済まないと思っているよ」

「ぐ……」

 腹に響く重い衝撃に、クロウの意識が遠のいていく。

 アンゼリカが声を張り上げた。

「おーい、クロウはここにいるぞー」

 すぐさま足音が集まってくる。

 最後の力を振り絞り、クロウは首を持ち上げた。

 視界いっぱいに迫り来る禍々しい得物の数々。それが意識を失う寸前に彼が見た全てだった。

 

 ●

 

 ――数日後。

 激動の小旅行は終わった。

 めでたく男子達の不名誉な誤解、そしてエリオットの猛将疑惑も何とか晴れ――後者に関してはまだ半信半疑と言ったところだが――いつもの日常が戻ってきていた。 

 昼休み、Ⅶ組の教室。

「今日の教室掃除の当番、代わってあげるよ」

「授業で分からないところはありませんか?」

「うむ。遠慮なく言うがいい」

 誤解が解けて以来、蹂躙の負い目からか、女子達は男子勢に優しく接している。しかし彼らに刻まれたトラウマは相当の物だったようで、

「う、馬の世話があるので失礼する」

「僕はチェスの駒を磨かなければ」

 露骨に回避行動である。

「なあ、アリサ。次の学院祭ステージのことなんだけど」

 そんな中、リィンだけが女子に対して自然な立ち振る舞いだった。

 いくつかアリサと会話を交わしてから戻ってきたリィンに、エリオットとガイウスが感心したように言う。

「さすがリィンだ。堂々としたものだな」

「ユミルであれだけのことがあったのにリィンは凄いよね。僕なんて未だに夢に見るよ」

 そんな二人を見て、リィンは首を傾げる。

「ユミル? いつ行ったんだ?」

 記憶がまた抹消されていた。

 

 

 正門前にて、アンゼリカは校舎を見上げていた。

「うん、見送りはここまででいい」

 視線を正面に戻すと、目を赤く泣きはらしたトワと、少し無理をしたいつもの笑顔のジョルジュ、そして正門の柵に張り付けられているクロウの姿があった。

 前回のユミルの一件で、クロウにはしばらく行動制限がつくことになった。移動時は紐で繋がれ、その場に留まるときは何かに括り付けられるという、恥ずかしのペナルティだ。背中には『罪人』の張り紙までされている。

「ア、アンちゃん……ふえっ」

 今にも泣き出しそうなトワに、アンゼリカは言う。

「泣かないと約束したじゃないか。笑って送り出して欲しいな」

「う、うん。そうだよね」

 目元を拭うトワの横で、ジョルジュは穏やかな口調で言った。

「学院祭は来れそうなのかい?」

「何とか親父殿を説得してみせるさ。Ⅶ組のステージ、楽しみにしているよ」

 その視線が張り付けのクロウに向く。

「へっ、このザマじゃあいつらにステージの指導なんてできねーだろーが」

「それは自業自得だろう」

「てめっ!」

 しれっと言ってみせたアンゼリカにクロウは悪態を付くが、それを両脇の二人が諌める。

「もう、クロウ君が悪いよ! 私まだ怒ってるんだからね」

「僕の録音機を悪用して……しかもユミルに置いてきたっていうし」

「だーから、俺はアガートラム以外見てねえんだよ!」

 そんな三人を視界に収めて、アンゼリカは笑う。

「君達と過ごした時間は楽しかったよ。ああ、とても楽しかった」

 ほんの少し何かを思い出すように、彼女は目を伏せた。

「僕もだ」

「私も!」

「……俺も、ってことにしといてやらあ」

 もう一度微笑を浮かべてから、アンゼリカは学院の外へと歩き出した。

 やっぱりトワは我慢できずに泣いていて、ジョルジュは何かを言おうとして結局言えなくて、クロウはただその背を見送っている。

 歩みも止めず、振り返りもせず、最後にアンゼリカはこう言った。

「また会おう」

 

 

 ~FIN~

 

 




久しぶりにリミッターが外れた感がありました。銀髪灼眼になってキーボード叩きながら「シャアア!」とか言ってた気がします。

お詫びすべきことがあります。中編を執筆している最中は、ユミルの描写は閃Ⅱの公式の一枚絵と、閃の回想録山歩きシーンを参考に、出て来ていない場所に関しては想像で書いていました。
しかし中編を描き終えた後で、ユミルの全体図を発見。要所の描写が、実際の町の作りと異なっていることに気付きました。
 例えば中編で彼らは山歩きでユミルの町までたどり着きましたが、本来はケーブルカーじゃないとまず着けない感じです。
徒歩だと最後の方でロッククライミングをすることになります。そして鳳翼館の温泉に面しているのは、山じゃなくてなんと崖。鉄壁すぎる陛下。
ただここに関して、肝心ののぞきとその後の逃亡シーンは、話の通りに実現可能な地形をしていた為、ギリギリセーフです。

そんなわけで実はクロウではなく、ゼリカさんの送迎話でした。前編を読み返すと、クロウが男子達に色々なセリフを言わそうとしているダメっぷりが際立ちますね
無事(?)ユミルの悲劇は終了しました。三部に渡りお付き合い頂きありがとうございました。

次回は外れたリミッターを付け直す為、ユーシス先生が主役の柔らかいお話にしてみます。お楽しみ頂ければ幸いです。

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