十月の初旬。
日々忙しいのは士官学院生として当たり前のことだが、今日は放課後に少し時間が取れた。
そこで前々からやろうと考えていた実家の掃除を、今日の内に済ましてしまうことにした。
僕より遥かに多忙な父さんが実家で過ごすことはほとんどなく、あっても寝泊まりや休憩に使うくらいなので、どうしても家の管理がおろそかになってしまう。
そんなわけで、僕はヘイムダルの実家まで出掛けることにしたのだった。
「うーん。思った以上に汚れがたまっているな。一日で終わればいいが」
ぼやきながら雑巾をしぼり、今一度部屋の中に視線を巡らしてみる。部屋の隅には視認できるほどに肥大化した埃の塊が散見され、それだけで今日の清掃が長丁場になりそうなことを予感させた。
まったく、一人で来なくてよかった。
「ねえマキアス、これはもう捨てていいかな?」
とりあえずテーブルから拭こうとした時、雑誌を両腕に抱えたエリオットが近付いてくる。
「帝国時報だけは置いててくれ。父さんが読み返すかもしれないから」
その類の情報誌は帝都庁に一揃いしているとは思うが、念の為だ。
「これは手強いな。洗剤はどこだ?」
「下の戸棚を開けてくれ。そこにあったと思う」
キッチンではスポンジたわしを片手に、ガイウスが水垢と格闘している。
「二人とも助かるよ。僕一人だったら一日では終わらなかったかもしれない」
改めて二人に礼を言う。
昼時に何気なく実家の掃除に行くことを会話に出したら、エリオットとガイウスが手伝いを申し出てくれたのだ。
持つべき者は親友だ。嫌味たっぷりに「せいぜい頑張るのだな」などと言ってのける、どこぞの鼻持ちならない男とは大違いだ。
「気にしないでよ、僕もこのあと実家に顔を出すつもりだしね」
「俺もクララ部長から画材の買い出しを頼まれていてな。ついでのようなものだ」
本当に気がよくて穏やかな二人だ。全人類がエリオットとガイウスになれば、世界はきっと平和になるだろう。
しばらく三人で手分けしてあちこち清掃していたのだが、思ったより時間が掛かるものだ。物を動かして配置換えしたりと、だんだん大掃除のようになってきていた。
窓の外を見てみれば、すでに日が傾きかけている。もともとついでの手伝いだったんだ。これ以上二人を付き合わせることは出来ない。
「ここらで一旦切り上げよう。あとは僕一人で大丈夫だ。二人とも助かったよ」
「まだ結構やること残ってるし、遠慮しないでよ」
「うむ、中途半端になってしまう」
エリオットもガイウスもまだ続けてくれるつもりらしい。素直にありがたいと思うが、好意に甘えてばかりいるのも、やはり申し訳なかった。
「二人とも用事があるんだろう。画材屋が閉まってもいけないし、遅くなったらフィオナさんと過ごす時間も減ってしまうぞ?」
「まだ店が閉まるような時間ではないと思うが……」
「姉さんは学院祭にも来てくれるし、話す機会はあるからさ」
僕は首を横に振る。
「だったら時間が空いた時にでもまた手伝ってくれないか? 定期的に来ないと元通りに汚れてしまうしな。それで十分助かるんだ」
それでも掃除途中だという事を気にしていたようだが、結局は二人ともうなずいてくれた。
「ありがとう。この埋め合わせはいずれさせてもらう。そうだな、とっておきのコーヒーでもごちそうさせてくれ」
ガイウスとエリオットを送り出して、僕は一人片付けに戻るのだった。
《☆☆☆レーグニッツ王国★★★》
「ふう、大雑把には終わったな。細かなところはまた明日の放課後にやるとしよう」
凝った首を回しながら、リビングのソファに背中を沈ませる。
あの二人のおかげで、ずいぶんと早く一区切りができた。
「……少し休んだら二階も見ておくか。今日はここに泊まればいいし」
実家掃除に赴くにあたっては泊りがけになるかもしれないので、すでにサラ教官に外泊届を手渡している。
寮生が外泊するには届出を数日前に提出する必要があるが、サラ教官は『はいはーい、気をつけてね』と二つ返事で、当日に手渡したそれを簡単に受理してくれた。
良く言えば融通が利き、悪く言えば適当。今更という所ではあるが、今回はそれが功を奏している。
朝は三〇分も列車に揺られればトリスタに着くわけだし、授業に遅れる心配はない。
実家でくつろぐのが目的ではないので、あまりゆっくりするつもりもないのだが、それでも一息つけるというか、安心するというか。
気持ちが落ち着いたせいか、小腹が空いている自分に気が付いた。
「もうこんな時間か……」
時刻は午後八時過ぎ。冷蔵庫や戸棚を確認してみたが、缶詰やちょっとした菓子類しかなかった。それはそうだ。僕も父さんも中々家には帰れないのに、生ものを置いておけるはずがない。
「外に食べに行くしかないか。下手なレストランより、シャロンさんの作るご飯の方がうまいんだけどな」
最近舌が肥えてきた気がする。学生会館の食堂メニューも悪くないのだが、しかし彼女の腕には及ぶべくもない。一宿の為に寮での夕飯は食べ逃すわけだが、それが今になって惜しくなってきた。
まあ、仕方ない。
どこに行こう。大通りに出るか。トラムに乗ってちょっと遠出してみるか。そんなことを思いながら、財布を手にソファーから立ち上がる。
その時だった。
――ガサリ。
どこかから音がした。気のせいにするには聞き逃せないほどの、確かな物音。
「……なんだ?」
二階じゃない。この一階からだ。リビングに素早く視線を走らす。
何もいない。キッチンでもない。別室はいくつかあるが、先の掃除で大体は部屋の確認をしている。
そういえばと視線を向けたのは、階段の陰にある一つのドア。物置代わりに使っている部屋だ。乱雑さ加減は三人掛かりでも手に負えないだろうと、今日はまだ開けてすらいない。
「な、なにかいるのか?」
脳裏を巡るのはいくつかの可能性。
可愛い方から挙げれば、例えば近所の猫が侵入しているとか。可愛くない方を挙げれば、知事である父さんのスキャンダルを掴もうと、何物かが潜入しているとか。
小さく息を飲んで、ゆっくりとそこに近付く。
途中、テーブルにあった置物を手にした。いつだったか、父さんが出張先で買ってきたお土産だ。陶器製で重量感もある。ささやかだが今はこれを護身用の武器にするしかない。
「誰かいるのなら返事しろ! こっちには散弾銃もあるんだぞ」
無い。そんな物は無い。特別実習じゃないんだ。手続きもなく、危険物を所持して列車に乗れるものか。
一応家の中には父さんの散弾銃があるにはあるが、最悪な事に保管場所はあの物置の中だった。
声を荒げても反応はない。
気味が悪いくらいの静けさの中、僕はドアノブに手をかける。意を決して勢いよく扉を開けた。
「っ……!」
手に持った置物を振り上げて部屋に踏み入り、辺りを素早く警戒する。
部屋の中は薄闇でよく見えない。慎重な手探りで天井灯のスイッチを入れた。
照らし出される室内。雑多な物置なのは相変わらずだったが、すぐにある異変に気が付いた。
部屋の中心近く、床がぼろぼろになって穴が空いている。子供一人が通れるかどうかといった小さな破孔だが、いつの間にこんなことになっていたんだろう。
「床が腐食して底が抜けたのか?」
雨水が漏れ出したわけでもなさそうなのに、腐食なんてあるのだろうか。それに穴周りの木屑がやけに多いような。
かがみこんで、損傷具合を確認しようとした時だった。視界の端で何かが動いた。
もぞもぞと棚下の隙間にうごめく、黒い何かと、青い何か。
「だあああ!?」
それを目にして、叫ばずにはいられなかった。
後じさって壁に背を強くぶつけ、手から落ちた置物がつま先を直撃し、蹴躓いてさらに横転する。
上に下に目まぐるしく回転する視界の中で、そいつらは確かにそこにいた。
小さな唸り声を上げて、物陰からぬっと現れたその“二匹”。色々な亜種が各地に生息しているから、何度も見たことがあるし、実際に襲われたことだってある。
獣型で黒い毛並に覆われ、背中に小さな羽を生やした方は《飛び猫》。
透き通るように青く、ぶよぶよとしたスライム状の体の中に、瞳のような赤い球体を泳がせているのが《ドローメ》だ。
つまりは魔獣である。
「な、ななな、なんでこんなところに!?」
この穴から出てきたのか? 地下水道を通って? 確かに水道内には魔獣がいるが、居住区画には入り込めないようにバリケードやネットが張り巡らされている。どこかに綻びがあったのか? いや、そんなことは後回しだ。
動揺は収まらない。体勢を戻そうとして果たせず、さらに足をもつれさせて、僕は尻もちを付いた。
二匹の魔獣が動く。
まずい。武器はない。《ARCUS》でアーツを使用するしか。
こいつらに対しての効果的な属性は何だったか。普段から攻撃アーツなど使い慣れないからとっさには思い出せない。
まごついている間に、魔獣が近付いて――
「……っ!?」
近付いては来なかった。
身じろぎしたかと思ったら、二匹ともその場に力なくくずおれてしまった。目線だけはこちらに上げて来るものの、襲ってくる気配はない。
「弱っている……のか?」
僥倖だった。軍に通報するべきか。その前に地区の保安部への連絡が先か。あるいはここでとどめを刺す方が早いか。動けないのなら安心してアーツの駆動準備に入れる。
この二匹は今、自分に敵意を向けていない。衰弱が激しくその気力もないのだろう。
だからこれは、わずかな気の迷いだったのかもしれない。
今まで戦ってきた魔獣は、どんなに体力を削っても最後まで牙を立ててきた。だから敵という認識は崩れなかったし、引き金を引くことにも躊躇いはなかった。
だがこいつらは何だ。種族も違うくせに、互いが互いを庇うように寄り添い合っている。まるで同じ苦難を乗り越えた――そう、仲間みたいに。
微かに震え、見返してくるその瞳。
僕はどうしてもアーツを駆動することが出来なかった。
肩の力を抜いて一つ息を吐き、踵を返してキッチンに向かう。
それがどういうリスクかも分かっているつもりだったし、万が一の可能性も度外視したわけでもない。自分で馬鹿な事をしている自覚もある。
「さあ、飲むんだ」
それでも僕は、彼らに水を差し出した。
次の日の昼休み。僕は図書館に足を運んでいた。
目当ての本は魔獣図鑑とか魔獣大全とか、そんな感じのだ。探してみるとそれなりの関連書物が見つかった。
「これは『進化の系譜』に『生物分類学』か。こういうのじゃないな」
とはいえどこに参考になる情報があるか分からないので、一応の流し読みはしてみる。
しばらく目を通していると、興味深い記述はいくつかあった。
動物と魔獣の違いについてだ。例えば猫は動物、飛び猫は魔獣と呼ばれる。だが実の所は“生物”という一括りであって、厳密な線引きがあるわけではないらしい。
魔獣と言う名は、環境や食習慣など様々な要因から人間と共生できない害獣を指しての総称で、一般に呼び名が定着しているが正式名称ではない。
数は少ないが、生態が判明している一部の個体に関しては、科目の分類も徐々になされてきているそうだ。まあ、実体がない系や魔法生物みたいなやつは、さすがに既存の枠にははまらないようだが。
魔獣についての研究が進んできたのはここ最近のことで、その生態や行動原理には不明点も多いのだが、現時点での大多数の傾向としては以下のものが挙げられる。
➀特性上、人に懐くなどの行為は見られず、飼育に成功した例は未だ報告されていない。
➁飼育ではないが、
➂七
意外に面白いな。人と共生できれば動物、できなければ魔獣か。
大雑把な括りだが、ある意味分かりやすい。学問として成立してくれば、もう少し理論的な大別の定義も生まれてくるのだろうが。セピスに対する執着反応というのもキーポイントになりそうだ。転じてそのような行動を促す体内器官でも見つかれば、それが魔獣と動物を決定的に分ける要因にも――
「あら、マキアスさん?」
流し読みのつもりだったのに、いつの間にか集中していたらしい。声を掛けられるまでまったく気が付かなかった。
我に返って振り向くと、エマ君とその後ろに控えるラウラとユーシスが視界に入る。なんだか珍しい組み合わせだ。
「導力学のレポートで、参考になりそうな本をお二人に紹介しに来たんです。マキアスさんも課題関係の本を探しに来たんですか?」
「あ……いや、僕は」
つい返答に窮してしまう。対魔獣戦闘の対策だとか適当な事を言えなかったのは、心に秘密事を抱えていたせいか。
いつも通り「ふん」とユーシスが鼻で笑う。相変わらず一秒で不快にしてくれるな、この男は。
「知識を溜め込むのはいいが、使いどころで発揮できなければ意味がないぞ」
第一声が嫌味とはこの上なく苛立たしい。その横からラウラも「そうだな、識って扱えて初めて会得と言うのだ」と尻馬に乗ってくる。
彼女に悪気はないのだろうが、なぜか責められている心地だ。
「見たところ図鑑ではないか、課題には関係なさそうだが――むっ?」
卓上に開いていた本をのぞき込むなり、ユーシスの表情が渋くなった。
「魔獣図鑑に生態学か。これはまた珍しい――なっ?」
続いたラウラも同じような反応を見せる。エマ君は別に普通だ。この二人だけどうしたんだ?
「……なぜそのページを開いている」
「ああ。聞かせてもらいたい」
「なんだ君たち。このページがどうかしたのか?」
図鑑のページはもちろん飛び猫とドローメだ。こちらの事情を知らなければ、別に気を留める内容ではないはずだが。
二人の動きがぎこちなくなり、何となく歯切れも悪くなる。
「別に大した理由じゃない。たまたま開いたページがここだっただけだ」
そう答えると、ラウラとユーシスは顔を見合わせて『ふっ』と安堵したような笑みを見せた。
「まあ、そうだろうな。紛らわしい真似はよすがいい」
「そのようなページを開くなどと、時と場所を考えた方がよいぞ」
「なんでだ!?」
僕の問いに、二人は異口同音に言う。
『気にするな……うむ』
リンクしているのかと思うほどの連携ぶりだ。最後の『うむ』など芸術的とさえ思えるシンクロ具合だったぞ。
エマ君から本を紹介してもらうと、二人は足早に図書館から出ていってしまった。
一体何だったんだ?
放課後、僕はまた実家に足を運んでいた。
学院祭のステージ練習もあったりで、本来ならこの時期にここまで自由には動けない。しかし幸か不幸か僕の担当はボーカルだ。いずれはもう一人のボーカルであるユーシスとの歌い合わせが必要になってくるのだが、今は歌詞やメロディ暗記を含むソロパートでの練習がメインだったりする。
つまり演奏組と違ってボーカル組は全体練習にまだ参加しなくていい分、余裕が無いなりにも多少の時間は作れるのだ。
そういうわけで昨日と同じくヘイムダル、家の玄関扉前に僕は立っている。
目的は掃除の続きもあるが……それ以上に、あの二匹だ。
「一応ケージに入れておいたから大丈夫だとは思うが……」
物置にあった小さな柵や針金を組み合わせて、簡易のケージをあの二匹の周りに作っておいた。手作りなので幾分心許なさはあるが、あの憔悴ぶりなら十分だろう。
結局、昨日あの二匹は水を飲まなかった。飛び猫はともかく、ドローメが水分を必要としているかは不明だが。図鑑には魔獣の詳しい生態までは乗っておらず、その辺りの事は分からないままだ。
とりあえず鍵を回し、慎重にドアを開く。
「なっ……!?」
そして絶句。
リビングのテーブルや床は傷だらけ。キッチンの水道は根元が折れて、噴水のように水が噴き出している。
食器類はことごとく砕け、お気に入りのコーヒーカップはかろうじて取っ手だけ発見することができた。
父さんの為に残しておいた帝国時報は無残に引き裂かれて、あちらこちらに散らばっている。
「なあああ!!」
なんだ、この惨状は。あいつら動けないんじゃなかったのか。
僕は仮にもお前達を助けてやろうとしたんだぞ。少し回復したら、せめて地下水道ぐらいには戻してやろうと思っていたんだ。
だというのに、何をしてくれたんだ。許さん、許さんぞ。やはり昨日通報しておけばよかった。
怒りに全身を震わせ、鋭くなった視線を部屋の隅に置いていたケージに飛ばす。案の定、ズタズタにされている。
「どこだ!」
ドタバタと家中を探し回る。もう魔獣に対する怯えだとか、竦みだとかは一切ない。というか一生懸命掃除したばかりなんだぞ。一体どうしてくれるんだ。いや、むしろどうしてくれようか。
机下、棚上、物置、キッチン、果ては戸棚の中と荒々しく探し回り、最終的に階段の物陰で奴らを発見した。
「見つけたぞ、覚悟しろ!」
ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、びしりと指を指してやる。
しかし、そいつら二匹を視界に収めるや、僕の怒りは急速に萎えていった。
飛び猫は床に突っ伏したまま、もう僕を見上げても来ないし、ドローメはくたびれたように触覚を垂らし、体躯も昨日より一回り小さくなっている気がする。
「……自業自得だろう」
ケージから出ようとして、あるいはこの家から出ようとして、なけなしの力を振り絞って暴れたんだろう。
飲まず食わずでそんなことをして、さらに弱ってるじゃないか
飛び猫の目が微かに動き、僕を見た。呼吸がどんどん小さくなっていく。
「くそっ!」
僕はなにをやってるんだ。気付いた時にはまた小皿に水を用意して、飛び猫の前に置いていた。
「早く飲むんだ。少しでもいい」
もう水をすする力もないのか。舌の乾き具合からして脱水は明らかだ。そうだ、だったら手拭いを水に浸して口元に直接当ててやれば。
「ちょっと待ってろ。手拭いはどこだったか、えっと……痛っ!」
焦る気持ちが視野を狭めたのか、手拭いを探しに行く途中で、手を戸棚に引っかけてしまった。いくつかのお菓子や食器、コーヒー粉の入った瓶がけたたましい音と一緒に床に散乱する。
インスタントのコーヒー粉があるのは意外だった。父さんも僕もコーヒーは挽きたてを好む。多分、豆を挽く時間のない時用に買って、そして買ったことすら忘れたものだろう。
結構な音を立てたので、二匹を刺激していないか気になって振り返ると、魔獣達は小さな反応を見せていた。
動けないまでも飛び猫はヒクヒクと鼻先を動かし、ドローメも触手を微震させ何かを探っているようだった。
辺りに立ち昇る香ばしい匂い。鼻先と触覚は確実にその方向を向いている。
「ま、まさか、コーヒー……なのか?」
どうせ水は飲まないんだし物は試しにと、少しミルクを混ぜて冷ましたコーヒーを飛び猫の皿にいれてやった。
驚いた。最初は先ほどと同じように鼻をヒクヒク動かしていたが、少しすると自分から顔を近づけ、コーヒーに舌をつけたのだ。一口、二口と続き、徐々に皿の底が見えてくる。
意外だった。コーヒーを好む魔獣がいたなんて。もしくは僕の淹れたコーヒーの味が、種族を越えて魔獣にも伝わったということだろうか。
とにかく水分を取れるならまずはいい。問題はもう一匹の方だ。
「ドローメか。こいつはそもそも水を飲むのか?」
さっきから水分には興味を示さないし、コーヒーには反応を見せたが、どこから飲ませたらいいか分からないし。頭からかけてみるのもいいが、それで怒らせたら厄介だしな。
「うーん……あ」
悩んでいると、ふと今日読んだ資料の一文が頭に浮かんだ。
“――種によっては捕食行動をせず、導力自体を活動源とする個体も認められる――”
だとすれば、直接導力の補充をさせてやればいいのかもしれない。たとえば導力を詰めたカプセル――《EPチャージ》なんて使えないだろうか。
……それは難しい。あれはオーブメントにセットして導力を伝搬させる類のものだ。外の充填ケースをそのままで、中身の導力だけ吸い取るなんて無理だろう。
「なら、これでどうだ?」
適当なアーツを駆動させる。《ARCUS》を淡い光が包み、それを待機状態のまま、そっとドローメに近づけてやった。
「何もしないからな。……驚くなよ」
ドローメの赤い一つ目が僕に向き、頭部から生えている二本の触手がゆらりと動く。背に冷や汗が流れ、思わず体を引きそうになったが、そこは何とか踏み止まった。
触手の先がほのかに輝き、オーブメントの光を吸い取っていく。《ARCUS》の燐光は薄れていくが、反比例するようにドローメの体表は艶やかさを取り戻していった。
飛び猫もコーヒーを飲み終え、首を持ち上げるくらいには気力を回復している。
どうにか二匹の命を繋ぎ止めることができた。力が抜けて、その場にへたり込む。
「よかった」
自分の口から出た言葉に驚いた。こいつらを助けられて、僕は安堵したのか。
その時、家のチャイムが鳴った。
家の惨状を見られると色々まずいので、少しだけドアを開いて隙間から素早く外に出る。結構な怪しい挙動だったと思うが、玄関先に立っていた男性は特に何も言わなかった。
中年くらいの男性だ。私服だったが、胸に見覚えのあるバッジを付けている。これは確か地区の――
「私は地区の保安委員の者なのですが。レーグニッツさんのお宅ですね?」
保安委員というのは地区毎に担当があって、例えば町内会の一役職と置き換えれば分かりやすいだろうか。
町ではなく地区だから担当規模は広くない。区の治安維持が主な目的で、軍とは関係ない民間自警団のようなものだ。
「どうかしましたか?」
「いえ、昼過ぎ頃からずいぶん大きな音がしていると連絡を受けまして、それで伺わせてもらったのですが」
あいつらが暴れていた時か。
「ああ、それは――」
ちょうどいい。彼に魔獣の事を言って引き取ってもらおう。瀕死の状態は脱したし、そうすれば――
「あ……」
「レーグニッツさん?」
そうすれば、どうなる。
魔獣だぞ。犬や猫とは違うんだ。保護になんてなるわけがない。おそらくその場で処分される。しかしここで匿ったとしても、いつまでもあの二匹を家に置いておける訳がない。もっと回復すれば、今日みたいに暴れるかもしれない。
言うか、言うまいか。
どちらの選択が正しいかなんて分かり切っている。言うべきだ。
だけど……あの二匹は普通の魔獣とは違う気がする。なぜかは分からないが、そう感じる。
思い込みかもしれない。気のせいかもしれない。少なくとも、まったく論理的じゃない。
でも、僕は――
「それは僕が大掃除していた音ですね」
「大掃除?」
「父との二人暮らしなんですが、僕は寮住まいで中々家には戻れなくて。それで時間を見つけて掃除に足を運んだんです。ですが近隣の方の迷惑になったようですね。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げると、彼は得心いったようで「そうでしたか、いえ、それならばいいんです」と朗らかに笑った。
「最近何かと物騒でしてね。これは失礼しました」
「い、いえ」
やってしまったという、焦りにも似た感情が去来する。まだ前言撤回は可能だ。逆に今言わないと、後で問題になった時に弁解の余地さえない。
「それでは私はこれで」
保安部の男性は帰ろうとする。
「あ、あの!」
とっさに呼び止める。
「まだ何か?」
「……その、気をつけてお帰り下さい」
笑みを返して、遠ざかっていく背中。
彼の姿が見えなくなってから、額と手の汗を拭う。
「これは、とんでもないことになったな……皆に相談するか、それとも――」
いずれにせよ、もう引き返せない。退路は自分で絶ってしまった。
家の中ではゴソゴソと奴らが動き始めた音がしている。
「とりあえず家の片付けだ! 父さんが帰ってきたらどうするんだ、これ!?」
こうして僕と魔獣との、騒々しい付き合いが始まった。
~後編に続く~
前編をお付き合い頂きありがとうございます。
今回もまた異色のお話で、主役はマキアス。何かと報われない彼に、またトラブルが舞い込んできました。
元を正せば、ユーシスとラウラの魔獣スローイングが原因なのですが、当然マキアスがそれを知るはずもなく、がっつり巻き込まれた形ですね。
話は変わりますが閃Ⅱに続々パーティ参戦のようですが、リンク戦闘する以上、皆《ARCUS》を持っているんでしょうか。エリゼとか特に。その辺りも気になる所ですね。
そしてポーラ様がカレイジャスに乗ってる……しかも、その後ろには馬が。なるほど、ユーシスが新Sクラフトで使う馬はあそこから投下されるのか。同じ部活のコンビネーションというやつですな。うんうん、二人が仲良くなってよかった。そして馬に合掌。
話を戻しまして。
結構RPGにおけるモンスターの定義って気になってたりします。自然生物なのかどうか。その辺りの設定がある作品は好きです。
ではでは、マキアスと二匹の魔獣の物語はどこに行き着くのか。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。