僕が魔獣を匿って数日が経った。
コーヒーによる水分補給とオーブメントによる導力補充によって、飛び猫とドローメは少しずつ回復の兆しを見せていた。
が、動けるようになればなるほど、家財道具は破壊されていく。
「うわあああ!」
今日も家の扉を開けるなり叫ばずにはいられない。
あちらこちらが傷だらけ。壁紙には鋭利な爪で引っかいたような、乱れのない三本のラインが幾重にも刻まれている。当然のように食器類は粉々で、白い破片が床に散乱していた。
おそらくドローメがアーツを使用したのだろう。キッチンの蛇口からまた水が噴き出したらしいが、その状態でガチガチで凍らされており、リビングからでも巨大な氷のオブジェが見て取れた。
なんだこれ。昨日よりひどいじゃないか。
「あ、あいつら!」
もはや恒例行事として、僕は二匹を探し回る。ゴソゴソという音ですぐに察した。またあそこ――階段横の物陰だ。
あの場所が定位置なのか、大体はそこにいることが多い。例にもれず、今回もそこで魔獣達と対面する。
「見つけたぞ。毎度毎度、やってくれるな」
僕がこめかみをひくつかせながら近づいて行くと、飛び猫が「シャー!」と牙を剥いてきた。
「おっと!? こ、こいつ……」
体力が戻ってきたらこれか。
やはり人には慣れず、共生などできない魔獣――だと思っていたが、この数日間、威嚇はしてくるものの直接危害を加えて来ることはなかった。ドローメも……相変わらずよくわからないが、敵意は向けて来ない。
普通の魔獣とは違う。僕がそう思うのも、問答無用で襲って来ないこの辺りの行動が要因だ。
とはいえ、こちらの言う事は全く聞かないのだが。
「うーん……」
困った果てに視線を向けたのは、あいつらが地下水道から這い出てきた時の物置の穴。
これ以上魔獣が増えるのは勘弁願いたいので、ベニヤ板を重ねて釘打ちし、簡単な補修を済ませておいた。
最終的にはあそこに帰すつもりだが、なるべく早くしたほうがいいのかもしれない。
次の日。
僕が食事を提供する存在だということは、どうやら理解しているみたいだ。
飛び猫にはコーヒー牛乳と生肉――何を食べるか分からないので、とりあえず生肉を食べさせている――を皿に入れてやり、ドローメには相変わらずオーブメントを使って導力補充をしてやる。
その間は二匹とも大人しいものだった。
「だいぶ回復してきてるようだが……そろそろ地下水道に帰してもいいだろうか」
なにより、これ以上家の物が壊されるとまずい。また音を聞いた保安部の人が来て、あろうことか家の中を点検でもされたら大変なことになる。
今日一日様子を見て、問題がなければ明日に地下水道へ。そうだな、そうしよう。
「また今日も片付けか……」
片付かないどころか、どんどん散らかっていく。それも明日までの話であるが。
ひとまず清掃開始だ。とりあえず見た目の体裁だけでも整えておこう。ちょっと整頓するだけでも、かなりの労力を使いそうだ。
諦め半分で足をリビングに向けた時、どこからか風が吹いた。窓は閉めてあるはずなのに、一体どこから。
「あ……!」
バサバサと音がしたので魔獣たちの方に振り返ると、背中の羽をばたつかせて飛び猫が宙に浮いていた。
「お前、飛べるようになったの――!?」
最後の「か」を言おうとしたら、あごに重い衝撃が走って、後頭部にまで痛みが響く。
「がっ!?」
猛スピードで頭突きをかまされた。
理解が追いついた時、僕の目には天井しか映っておらず、大きくのけぞりながら床に大の字で倒れ込んだ。
元気になって一番にやることが、恩人へ電光石火の一撃か。お前の思考回路はどうなっている。
「うう……い、痛い」
奥歯がじんじん痺れる。舌を噛まなくてよかった。
あごをさすりながら身を起こすと、その間にも飛び猫はリビング中を縦横無尽に飛び回っている。わずかながら無事に残っていたティーカップは残らず崩落し、唯一被害を受けていなかった天井にも引っかき傷が量産されていった。
「お、おい、やめろ」
やめるわけもない。
背後からはドローメが触手をムチのように使って、僕のふくらはぎにビシビシ攻撃を与えてくる。地味に痛い。なんだ、こいつら。まさか僕を始末しようとしているのか、あるいは元気になったアピールか? いや、それはないか。
「あ!」
ドローメの触手を振り払いつつ、飛び猫を捕らえようとしている最中、僕は気付いた。テーブル近くの床に、食器でも雑誌でもなく、見覚えのある四角い物が落ちていることに。
焦って近付き、急いで拾い上げる。
それは僕がこの家で一番大切にしているものだった。
「姉さんとの家族写真……!」
写真に複製はない。この一枚だけなんだ。もし傷ついていたりしたら僕は――
おそるおそる表面を確認してみる。
「よ、よかった」
額縁に小さな傷はついていたが、写真自体は無事だった。安堵すると同時に、湧いてくる怒り。そうだ、こいつらは魔獣。人が大切にしている物の価値なんてわかるわけがない。
額縁を持つ指先に力が入り、僕は二匹をにらみつけた。
「お前たち、いい加減にしないか!」
怒鳴ると、魔獣たちの動きがピタリと止まる。荒いだ声に反応したのか。どうせ言葉など通じない。でも僕は怒らずにはいられなかった。
「いいか、食器を何十枚割ろうが、壁紙をどれだけ破こうがかまわない。だけどこれは違う。壊れたら直せないし、買い替えることもできないんだ!」
魔獣にこんなことを言ってどうする。元を正せば、こいつらの事をかくまっておきながら、写真を出しっ放しにしていた僕が悪い。やり場のない憤りと、妙な居心地の悪さだけが胸に残る。
「どうせお前たちは明日、地下水道に戻るんだ……」
それは誰に対しての呟きだったのか。僕は手にした写真を自分の部屋に運び、扉をしっかりと施錠する。さすがに扉をぶち抜くまではしないだろうから、まずはこれで大丈夫だろう。
なんだかもう片付ける気がしない。沈黙したまま床に佇む二匹を残し、今日は早々に寮へと帰ることにした。
さらに次の日。
実家に向かう足取りがどことなく重い。足取りだけじゃなく、気分もだ。授業中も、昼休み中も、放課後も、列車に揺られる間も、そして今も。
導力トラムに乗ってオスト地区へ。少しばかり歩くと、間もなく家が見えてきた。
魔獣たちがあの状態だったら、地下水道に戻しても大丈夫そうだ。ベニヤ板を外して、物置の穴から二匹を下ろし、そしてもう一度床を修繕する。それで全てが元通り。
地下のバリケード類が破損している可能性もあるから、後で地下水道の住居区画の点検を保安部に依頼しようかと思ったが、一週間もしたら定期点検の時期だったので、この際の連絡はやめておくことにした。個人が依頼するのも変な話だし、点検の依頼理由をでっちあげるのも面倒だしな。
家に到着し、扉を開ける。玄関に入ると昨日と同じく荒れた室内。
まあ、そうだろう。昨日と変わっていないだけマシか。
そう思って、違和感を覚えた。昨日と変わっていないのだ。今までのことを考えれば、さらに雑多なことになっているはずなのに。
どうしてだ、今日は暴れなかったということか?
「あいつらはどこだ……?」
リビングにはいない。キッチンも同様。いつもの階段脇の定位置にもいなかった。一応物置部屋も開けてみたが、やはりいない。家から外に出た可能性もよぎったが、玄関扉の鍵は閉まっていたし、どこの窓も割れている様子がない。
「一階にはいない。二階か?」
焦燥感。探し回る内に息が切れる。何をした、というより、何があった、という気持ちの方が強い。この期に及んであいつらの身を案じているのか、僕は。
「くそっ」
悪態をついて階段を登り、僕の部屋の前でようやく見つけた。
威嚇するわけでも、暴れるわけでもなく、飛び猫とドローメはそこにいた。部屋の戸口の前で、ただ静かに僕を見返してくる。
「お前たち、そこで何をしているんだ?」
答えが返ってくるはずもなく、二匹はまた視線を扉へと戻した。
どことなく頭を垂れている感じだ。元気がないというか、人間の動作に置き換えるならしょぼくれているというか――そう、反省。反省しているように見える。
「まさか……」
動物にも感情は存在する。たとえば親に窘められたりした時などは、その傾向が顕著になると言う。ならば魔獣も然りか。だが仮に反省しているとして、何にだ? 僕の部屋に対して反省する事なんてあるわけが――
「もしかして、昨日のことか?」
昨日叱りつけて、そして僕の部屋に片付けた姉さんとの写真。
まさかこの二匹はそのことを気にしているのか。そんなことがあり得るのか。人間の、いや僕の大切にしている物がわかるというのか。しかもそれを壊しかけたことに対して反省の意を見せるなどと、そんなことが。
「あの写真は僕にとってかけがえのないものだ。お前たちにそのことが理解できるのか?」
改めて二匹の様子を窺う。やはり、そうとしか思えなかった。そうだ、今思ったばかりじゃないか。魔獣にも感情が存在すると。
ただそれは種族や集団として大まかで単純な、生存本能に基づく画一的なものだと、そう考えていた。
でもこいつらは違う。そう確信する。どういう理由で何が原因か、あるいは突然変異かも知れないが、この二匹はそういった枠組みから外れている気がする。
人間と同じ、というには些か乱暴だが、種として同じ姿を持ちながら、心は個別にそれぞれが違う形をしている。その一点においては、僕たちと変わらないんじゃないだろうか。
「……自分でも馬鹿馬鹿しい考えだな」
眼鏡を押し上げてから、二匹に背を向けて一階に戻る。
階段を下りる途中、僕は足を止めて言った。
「今日は……そうだな。インスタントじゃなくて本物のコーヒーの味を教えてやる」
それから「もう怒ってないからな」と付け加える。
程なくして、飛び猫とドローメはたどたどしく一階に戻って来た。
●
「待ってよ、マキアス」
授業を終えて、早足で正門へと向かう僕を呼び止めたのはエリオットだった。その横にはガイウスもいる。こうして並ぶと特に身長差が際立つコンビだ。
「どうしたんだ、二人とも?」
「あ、ううん。大したことじゃないんだけどさ」
そう前置きしてから、エリオットは続けた。
「最近マキアスって学院を出るの早いよね。でも寮に帰って来るのは遅いし、もしかして実家掃除が終わってなくてヘイムダルまで通ってるんじゃない?」
どきりと心臓が高鳴った。無意識に泳ぎかけた目を慌てて留めるが、それよりも早く「そうか。そうなのだな」と得心いったようにガイウスが腕を組む。
「すまなかった。やはりあの時に手伝っておけばよかった」
「い、いや、それは」
違う、と言いかけて、言葉を口中で濁す。言ったところで理由を問われたら、なんと返せばいいか、とっさには思いつかなかったのだ。
結果、肯定も否定もできず、曖昧な返答をすることになってしまった。
「そ、掃除はもうすぐ終わるんだ。だから、その……心配はいらない」
「だけど毎日大変そうだし、よかったら僕たちが今から手伝いに行こうか?」
それはまずい。気持ちはとてもありがたいが、しかし僕の家には魔獣がいる。二人があいつらを見てどのような反応をするかは想像に難くない。
「申し出は嬉しいんだが、エリオットはステージの演奏指導があるだろう?」
「それなら大丈夫だよ。今日を含めて三日間、どうしても放課後に演奏メンバーがそろわなくてさ。全体練習は寮に帰ってからすることになったんだ。って、その話になった時、マキアスも教室にいたよね?」
そうだったのか。そういえば昼休憩の時にそんな会話があったような。別の事を考えていたから聞き逃してしまったのか。別の事というのは、言わずもがなだが。
「すまない、うっかりしていた。それに片付け自体は大したことないんだ。夕の全体練習には間に合うように帰るつもりだから、心配しないでくれ」
僕とて仲間に隠し事などしたくない。だが今回は事情が事情だ。下手に話せば、余計に心配をかけることになる。
「なるべく早く戻る。大丈夫、ボーカルの練習は片付けながらでもやってるさ」
そう言って肩をすくめてみせたが、少しわざとらしかったかもしれない。
ガイウスとエリオットの表情がわずかに曇った。チェスで策を練ることは得意なのに、こういう隠し事はどうやら下手らしい。
これ以上ボロが出る前に、「悪いが列車の時間があるから、僕はこれで」と半ば強引に話を切らせてもらう。
言ってしまいたい。でも言えない。
葛藤を抱えたまま、トリスタ駅に向かう。全てが終わったらちゃんと話そう。その時にはきっと笑い話になっている。
そう、全てが終わったら――つまり、あいつらを地下に帰したら。
心の中でその言葉を呟くと、なぜか胸が詰まったような心地になった。
「ほら挽き立てだ。冷ましてはあるが気をつけて飲むんだぞ」
実家に着くや、僕は二匹の為にコーヒーを淹れる。今日からは手間をかけての焙煎コーヒーだ。
皿のコーヒーを一舐めした飛び猫は、一瞬渋い表情を見せたが、すぐに癖になったらしくグイグイ飲み進めていく。
その様子を見てか、ドローメが赤い一つ目を僕に向けてきた。
「わかっているさ。お前の分もあるぞ」
少し大きめのマグカップにコーヒーを淹れて、近くに置いてやる。するとドローメの触手がカップの中に伸び、ゴキュリゴキュリという脈動と共に、触手を通じてコーヒーが吸収されていった。
「はは、いい飲みっぷりだ」
ドローメの透き通るようなブルーの体表が、濃いブラウンに染まっていく。最初は心配したが、さしたる問題はないようだった。
「しばらくしたら元の色に戻るし、相変わらず謎の生態だよな……」
リビングのソファーに座り、家の中に視線を巡らしてみる。
問題というなら、一つの問題は改善した。
魔獣達が暴れなくなったのだ。
どうやら日中も比較的大人しくしているらしい。壁の傷まではさすがに未補修だが、新たに何かを壊すことは、もうなかった。
威嚇もしてこない。それどころか、あいつらから僕に近寄って来るほどだ。
「それじゃあ僕も頂こうかな。なんだ、お前たち。これは僕の分だぞ」
物欲しそうに僕のコーヒーカップを見つめてくる二匹。
仕方ないな、まったく。
「わかった。新しいのを淹れてやるから」
立ち上がり、キッチンにある豆挽き用のミルまで向かう
途中ふと思い立ち、僕は二匹に振り返った。いつまでもお前呼ばわりじゃ何かと不便だ。
「……そうだな、名前を付けてやるか」
魔獣達に交互に視線を往復させ、頭の中で色々と思案してみる。
こういうのは直感が大事だ。幸いそこまで苦心することなく、すぐに二つの名が浮かんだ。
まずは飛び猫から。
「よし。お前は毛並が黒いし、クロだ」
猫の名前としてもありだろう。続いてドローメ。
「そうだな。なんかこう、体がダルダルしてるし、お前はルーダだ」
うん、いい名前だと思う。二匹とも分かっていなさそうだったが、こいつらなら呼び続けている内にすぐに理解するだろう。
「ルーダにクロ。名前の記念だ。とっておきのコーヒーを期待していてくれよ」
待ちきれないのか、二匹は僕の後をついてくる。
よく見ればクロは愛嬌のある顔をしてるし、毛並はとても艶やかだ。ルーダのプルプル具合は至極の弾力加減だし、触手のしなやかさは他のドローメと一線を画すものがある。
「ふふ」
なんだろうな。なぜ僕が得意気になるんだろう。
●
寮に戻ればステージ練習。日中は厳しい学院カリキュラム。そして放課後にはヘイムダル。
忙しい。体はもちろん疲れている。だが不思議と気力は充実していた。
今日も今日とてあいつらの様子を見に行く。変わりはないだろうが、やはり気にかかるのだ。
「ルーダ、クロ。今帰ったぞ」
扉を開いて一声発すると、いつもの物陰から二匹が顔を出してくる。
「そうだな。いつも中挽きだから、今日は粗挽きコーヒーにしてみるか。ああ、わかっている。ルーダはブラックで、クロはミルクと砂糖多めだな」
もう好みまで分かるようになってきていた。
コーヒーを飲み終え、リビングで一服。
もう二匹ともすっかり元気だ。その気になれば、いつでも地下に戻すことができる。
だが……
もう少しくらいなら、ここに居ても大丈夫じゃないか?
悪さはしないし、家にいる分には誰かを驚かすこともない。だから、あとちょっとだけなら。
その時、チャイムが鳴った。
「だ、誰だ?」
まさかまた保安委員の人か。しかしここ数日は騒いだりしていないはずだが。
二匹をソファーの陰に隠し、慎重に玄関扉を開ける。
「あ、マキアスいたよ」
「思った通りだったな」
戸口の外に立っていたのは、エリオットとガイウスだった。
「ふ、二人とも……どうしたんだ、一体」
「昨日言ったでしょ。明日まで放課後の全体練習はないって」
「それで訪ねさせてもらったのだ」
何のために、と聞きかけたが、すぐに理解した。この二人がわざわざ足を運んでくれる理由なんて、一つしかない。
「押しかける形になってごめん。でも片付けを手伝うって言っても、マキアスは遠慮してるみたいだったから」
「い、いや、それは……」
声が上ずる。継ぐ言葉を探していると、「もしかして迷惑だったか?」とガイウスが困った顔を向けてきた。
「う、うう……」
もうだめだ。ここまで来てくれた二人を追い返すことはとてもできない。正直に話すしかない。
「わかった。家の中に入ってくれ……ただ何があっても驚かないでくれ」
「そんなに片付けが残ってるんだ? 掃除のし甲斐がありそうだよね」
「ふふ、まったくだ。気を引き締めよう」
そうじゃない。そういうことじゃないんだ。
穏やかに笑む二人を連れて、僕はリビングに進む。
頼むぞ、二匹とも。大人しくしていてくれよ。
そして、邂逅の時。
「ん、何か動いて……」
「……この気配」
なんら勿体ぶることもなく、当然のようにルーダとクロはソファーの陰から現れた。
目が点になった二人は、一拍の間のあと、
「まっ、まままま、魔獣っ!?」
気を動転させ、足を滑らせたエリオットが尻もちをついて、わたわたと後じさる。この辺のリアクションは最初の僕と同じだった。
一方のガイウスは一目散にキッチンまで走って、ほうきの柄に包丁を手早く括り付け、簡易の槍を作り上げていた。
「よし、いけるな」
君は何がいけると思っているんだ。
エリオットは体勢を戻すよりも早くアーツを駆動させているし、ガイウスはお手製の槍を構えて、じりじりと慎重に間合いを計っている。
「待つんだガイウス。エリオットも家の中でアーツはだめだ。とにかく二人とも落ち着いてくれ」
「で、でも!?」
「はあっ!」
問答無用でガイウスが跳躍。鋭い刺突がクロを狙う。
かろうじて槍先をかわしたクロは、宙を飛び回り反撃の体当たりを繰りだした。ほうきの柄で受け止めるものの、ガイウスは衝撃に押し負けて背後の戸棚に勢いよくぶつかった。
「ぐ、まだだ」
すぐさま体勢を立て直し、再びガイウスは槍を構えて特攻した。
「やめろ、やめるんだ!」
僕の叫びはどちらにも届かない。
ルーダも興奮していた。ゼリー質の体が発光し、アーツ駆動状態に入っている。
どうにかして収めなければ。僕は全員の中心に飛び出した。
「みんな動くんじゃない! ルーダもクロも落ち着け!」
「マキアス!?」
驚いたように目を開くガイウスだったが、ひとまず槍を引いてくれた。しかし強く警戒している。
「大丈夫なんだ、この二匹は。こちらから攻撃しなければ何もしてこない」
「その保証はない。相手は魔獣だ。……いや待て。その口ぶりからすると、その二匹のことを何か知っている様だな」
「説明させてもらう。だからとにかく一度槍を離してくれ」
「……わかった」
ガイウスから槍を受け取り、離れた壁に立てかける。
「いいか、この二匹は僕が――」
ベキリ。説明しかけたところで、そんな音がした。音に遅れて事態に気付く。
近くにあった戸棚が僕に向かって倒れてきている。ガイウスがぶつかったものだ。
何日か前にルーダたちが暴れ回ったせいで、相当ガタついていた戸棚。
応急処置としてつっかえ棒で固定していたのだが、さっきの衝撃でそれが完全に折れてしまっていた。
「う、うわあああ!」
「マキアス!」
「そこから離れろ!」
もう間に合わない。押し潰される。
頭だけは庇おうと身をすくめた時、青白い光が僕の周りに収束する。直後、床から丸太大の氷柱が勢いよく突き上がり、倒れてくる戸棚を一息に押し返した。
かき消えていく導力光の残滓の中で、ルーダが触手を揺らしている。
「い、今のドローメのアーツだよね。もしかしてマキアスをかばったの?」
「まさか……」
顔を見合わせるエリオットとガイウス。ほこりまみれになった服を払いながら、僕は立ち上がる。
「これでわかっただろう。この二匹は特別なんだ」
ひとまず場が収まった後はソファーに二人を座らせ、事の詳細を説明した。
「なるほどな」
「うーん、僕たちに言えなかったのも何となくわかるよ」
納得はしてくれたものの、さすがに手放しで警戒を解いてはおらず、エリオットとガイウスは何度も視線を魔獣に向けていた。
「このことは他言無用で頼みたい」
「で、でも」
「なにかあってからでは遅いのではないか。確かにあの魔獣たちはマキアスに危害は加えないようだが」
「そんなに長い期間にはならない。ステージ練習にも支障はきたさない」
無用な心配をかけることも承知している。特にこの二人は、色々と気を遣うことだろう。だけど今回ばかりは僕のわがままを許して欲しい。
「……わかった、そこまで言うならその通りにしよう」
「うん、でも何かあったらすぐに相談してよね。力になるからさ」
ガイウスがうなずき、エリオットも続く。
こうなるのなら、最初から打ち明けていてもよかったかもしれない。心がどことなく軽くなった気がする。
「二人ともありがとう。なるべく僕が何とかしようと思う。だから心配しないでくれ」
そう告げた直後、急に玄関の扉が開いた。
人の家をノックもしないでドアを開けるなんて、一体どこのどいつだ。
すぐに思い直す。そうなのだ。自分の家ならノックなどいらない。
「なんで鍵が開いているんだ……ん? ああ、マキアスが帰っていたのか。そちらはⅦ組の二人だね」
父さん、何てタイミングだ。
なぜ、その可能性を最初に考えておかなかったのか。
父さんはほとんど家には帰って来ず、政庁の宿舎で寝泊まりすることが多い。それでも時々は息抜きがてらに、コーヒーを飲んだりと小休憩に戻って来ることがあるのだ。
父さんにクロとルーダを見つかるわけにはいかない。絶対にだ。
「……エリオット、力になると言ってくれたよな。ガイウスも僕の言う通りにしようと言ってくれた」
押し含める口調で言うと、強張った表情のエリオットとガイウスはぎこちなく首を縦に振る。毒を食らわば皿まで。何とかしてこの場を凌がなくては。
「知事閣下。お邪魔しています」
「お、お久しぶりです」
「ははは、楽にしてくれたまえ」
立ち上がって硬く一礼したエリオットたちに、父さんは朗らかに笑いかける。
「いや、君らが寄ってくれているとは思いもしなかった。市内査察で近くを通りがかったついでに休憩にきたんだが、大した茶菓子の用意もなくて済まないね」
荷物を置き、父さんもソファーに腰掛けた。
僕たちはテーブルを挟んで、父さんと対面して座る。そして最悪な事に、クロとルーダは父さんが座るソファーの真裏にいた。
少しでも後ろを振り向かれたらアウトだ。
「最近は忙しくてね。帝国各地へ実習に赴く君たちほどではないかもしれないが」
「ご、ご冗談を」
「畏まることはない。どうか気楽にくつろいで欲しい。……おや?」
しばしの雑談の中、父さんが何かに気付く。その視線は戸棚に向いていた。
「マキアス、そういえば戸棚の食器がずいぶん少ないようだが」
「な、なにを言うんだ、父さん。前からあれくらいだったじゃないか」
苦しい言い訳だ。戸棚いっぱいに重ねてあったはずの皿が、今や数えるほどしか残っていないのだから。
「そうだったか? いや家の事を任せっぱなしにして済まないな。ところで、あの壁の傷も前からあっただろうか」
しまった。クロの引っかき傷だ。三本の爪痕がしっかり残ったままになっている。
「あれは、その、あれだ……なんだったっけ、エリオット?」
返答に窮して、つい左隣のエリオットに振ってしまった。
「え? えーと、あれは、ほらあれだよね、ガイウス?」
エリオットもとっさにはいい答えが出て来ず、助け船をさらに左のガイウスに求める。
「うむ。あれはだな、そう、俺たちの身長の伸び具合を測ろうとして刻んだのだ」
多分それノルドの実家で、兄弟の成長具合を柱に印付けるとか、そんな感じのやつじゃないのか。
「ああ、んん? ちょっとわからないな」
父さんの反応が正しい。なんで人の家で自分の身長をマーキングするんだ。しかし言ってしまった以上、突き通すしか道はない。
「実はそうなんだ。僕らの学院生活の思い出を残そうと思って」
「その年齢から急激に背が伸びることはあまりないと思うが……それは置いておくとして、あれはなんだ?」
父さんはリビングの隅を指差した。そこに立てかけてあったのは、先ほどガイウスが作ったお手製の槍だ。
「我が家にあんな攻撃的なほうきはなかったはずだが」
「あれは、あれは……なあ、エリオット?」
「うん、なんだったかな……ねえ、ガイウス?」
最終的にまたガイウスに振ってしまうが、それでも彼は応じてくれる。
「ネズミが出た時、駆除用にあると何かと便利と思ったのだ」
また変な事を言い出した。
そういえばガイウスは、僕以上に物事をごまかしたりするのが苦手だった。これが彼なりの精一杯なのだろう。
「あれで走り回るネズミを突き捕らえるのは至難の技と感じるが」
「ご安心を、知事閣下。技なら伝授しましょう」
父さんから笑みが失せていく。
エリオットの顔が青ざめた。それは父さんの心情を察してのことかと思ったが、そうではなかった。彼の視線を辿り、僕も理解する。
「……!」
父さんの背後、背もたれ越しに触手がちらちらと踊っているではないか。
ルーダ、今は大人しくするんだ。
伝えようにも声は発せられない。焦れた足が震え出す。
「三人とも暑いのかね? そんなに額に汗を浮かべて」
「それよりそろそろ戻らなくて大丈夫なのか?」
無理やり話題を変える。
せっかく休憩に帰ってきた父さんには申し訳ないが、下手に今振り返られたら、この後の公務に支障がでるくらいのショックを受けかねない。
「おお、もうこんな時間か。そろそろ行かなくてはな」
時計を一瞥しつつ、父さんは立ち上がる。
悟られないように一息ついて、僕達も見送りのために玄関先へと出た。
「それじゃあ私はこれで失礼するが、ゆっくりしていってくれたまえ。……思い出作りも程々にな」
あの壁紙は早めに張り替えておこう。
最後に一つ言い残して、父さんは歩き出す。まだ数歩も進まない内だった。
「シャー!」
家の中で、鳴き声が上がった。これはクロのコーヒーの催促だ。せめてあと十秒堪えてくれれば、何とかなったものを。
「ん、今……」
父さんが訝しげに振り返る。
『シャ、シャーッ!』
瞬間、三人そろって全力で叫び、クロの鳴き声をかき消した。
「……それはどういう意味かな」
「い、今学院で流行っているんだ。いってらっしゃいの挨拶みたいなものだから」
いってらっシャーッいとか、ニュアンスとしてはそんな感じだ。
「若い子の流行はよく分からんな。まあ、行ってくるよ」
再び歩き始めた父さんは「……レーグニッツの血。これも黒の宿命か」と、小さくつぶやいた。意味深だったが、意味は不明だ。
父さんの姿が見えなくなると、今までの気疲れがどっと押し寄せてくる。
僕達はその場にへたり込んだ。
そしてまた、一日が経った。
今日もトリスタ駅からヘイムダルに向かう。
揺れる列車の中には僕の他にもう二人――エリオットとガイウスが乗っていた。
実家に向かう本当の理由を知った二人だが、それでも同行を申し出てくれたのは、どうやら僕を案じてのことらしい。
再三に渡って心配はいらないと伝えたのだが、エリオット達は、せめて乱雑なままの部屋片付けくらいは手伝うと言って半ば強引についてきたのだ。
ヘイムダル駅まであと数分と近づいたあたりで、ガイウスが口を開く。
「それでマキアスはあの魔獣達をいつ地下水道に戻すのだ?」
「あ、ああ、そうだな」
正直を言えば、今すぐにでも可能だ。早いか遅いかだけのことで、いずれ離れなければいけないことは僕にだって分かっている。だが一度地下に戻せば、おそらくもう二度と会えないだろう。
それが心の引っ掛かりになって、決断を後伸ばしにさせていた。
出すべき答えは見えている。後は僕が心を決めるだけ。心の準備だけ。
「早い内に、とは思っている」
明確な日を口にすることが出来ず、僕はそうとしか答えられなかった。
その時は前触れなくやってきた。
オスト地区に到着すると、僕の家の前に一人の男性が立っていた。
「あの人は……」
ちょっと前に訪ねてきた保安委員の人だ。
「あ、レーグニッツさん」
彼は僕達に気付くと、足早に近寄ってくる。
「どうしたんですか?」
「近隣の方からまた連絡がありまして、なんでもレーグニッツさんの邸宅から魔獣の鳴き声がするとのことで」
動揺を面に出すまいと必死だった。僕がいる時が大人しかっただけで、日中に鳴いていることもあったのか。
「とはいえ勝手に家に入る訳にもいかず、様子だけ見に来ていたんです」
このタイミングで帰ってこられたのは幸運だった。父さんに連絡が入っていたら、かなりの騒動になっていただろう。
「一緒に家の中を確認させてもらっていいでしょうか? 万が一本当に魔獣が入り込んでいたら危険ですし、その場合は応援も要請します」
横の二人が息を呑むのが分かった。「……マ、マキアスどうするの?」と、エリオットが小声で聞いてくる。
どうもこうもない。来るべき時が来た。それも最悪の形で。責任は僕が取らないといけない。
「いえ、家の中の確認は僕達だけで行います」
そう言うと、彼は眉をひそめた
「待って下さい。本当に魔獣がいたら危険だと――」
「この家の主はカール・レーグニッツ。もちろん知っているとは思いますが、現帝都知事です」
相手の言葉を遮って続ける。それが何を意味するかは察したようで、彼は一瞬押し黙った。
「父の私室には外部の人間に見せてはいけない書類があると聞きます。どうかここは僕達に任せて下さい」
そんな機密書類を実家に持ち帰るような軽率な真似を、父さんがするわけはない。だが、こう言ってしまえばそれ以上の追及は出来ないだろう。少々品のない手段ではあったが。
「で、ですが」
「心配はいりません。同行する彼らは父と面識もありますし、こう見えても僕らは士官学院生です。戦闘訓練は受けている上、今日は戦術オーブメントも持っている。それに物置には護身用のショットガンもあります。仮に……仮に魔獣がいたとしても遅れを取ることはないでしょう」
僕はこんなに饒舌だったか。違う。言葉を発することで、頭の中を整理しようしているのか。
しばらく黙考していたが、不承不承といった様子で、結局彼は納得してくれた。
「分かりました。しかし私にも地区の保安を預かる立場がありますので、十分経ったら確認に参加させて頂きたい」
「構いません。ではここでお待ちください。行こうか、エリオット、ガイウス」
今日はもうあいつらの為に、コーヒーを淹れてやることが出来そうにない。
家の中に入り、室内灯のスイッチを入れる。二匹の姿は見えなかった。
「ルーダ、クロ?」
呼びかけにも反応せず、いつもの階段脇にもいない。変だ。僕が帰ってきたら、必ず顔を出してくるのに。
物置からガサリと音がした。
「……ここにいたのか」
物置部屋の扉を開けると、二匹は初めて会った時のように、棚下のスペースに身を隠していた。
もしかしたら、いつもと違う空気を感じ取っていたのかもしれない。
エリオットとガイウスは何も言わず、僕を見守ってくれている。
「僕たちに残された時間は十分。お前達を逃がそうにも、割としっかり穴は塞いでしまったからな。さすがに十分では板を取り外せない」
まごついていたら、保安委員が入ってくる。見つかったら駆除される。それがどのような方法でなのかは想像もつかないし、したくもない。
「……だったら」
壁にかけてある父さんのショットガンを手に取った。さすがに弾を入れたままにはしていないので、そばに保管してあった銃弾をケースから取り出して、手動で装填していく。
「マキアス!?」
「待て、エリオット」
慌てるエリオットを、ガイウスが制してくれる。それでいい。最後の決断は僕がしないといけない。
銃弾の装填を終え、セーフティを解除した。いつでも撃てる。
銃口を持ち上げるが、二匹は身じろぎもしない。ただ何も言わず、僕を見返してくる。
その目だ。その瞳を見て惑ってしまったのが、そもそもの間違いだったのか。
僕は眼鏡を外し、それを床に放り捨てる。カラカラと空虚な音が反響した。
「これで見なくて済む」
静かにショットガンを構える。
舌が乾く。喉の奥が締まるようだ。トリガーに掛ける指先が痺れてきた。引き金はこんなにも重いものだっただろうか。
クロとルーダが棚下から這い出ようとした。
「っ!」
引き金を引いた。激震する銃身。轟く銃声。吐き出される散弾。体全体に伝わる衝撃。
視界がぼやけて滲んでいるのは、きっと眼鏡がないからだ。
「エリオット。すまないが、外で待ってる彼に説明してきてくれないか。銃声を聞いて驚いていると思う。魔獣はいたが適切に……処理したと。色々突っ込まれるとは思うが、上手く説得して帰ってもらって欲しい」
「う、うん、がんばってみるよ」
「恩に着る」
エリオットは駆け足で玄関を出ていった。ガイウスが僕の背をぽんと叩く。
「それがお前の決めたことなら、そうするがいい」
「ああ」
一度キッチンに戻り、ある物を用意してから、僕は今一度物置の中に足を踏み入れた。部屋の中程には歪な穴が空いている。眼鏡もろともショットガンで床板を撃ち抜いた、地下水道に続く穴だ。
「……クロ、ルーダ。こっちに来るんだ」
大きな音に萎縮しているかと思ったが、二匹ともすんなり出てきた。
まずはクロの首に、さっきキッチンから持ってきたそれを引っかけた。小さな筒が付いた首掛けで、中にはコーヒー豆が入っている。同じものをルーダには片方の触手、その根元に括り付けてやった。
これでいつでもコーヒーの香りくらいは楽しめるはずだ。
「この穴から元いた場所へと戻るんだ」
身振り手振りで促すも、二匹は動かない。
「元気でな」
やはり動かない。
「さあ、行け。行くんだ!」
口調を強めても、それでも動こうとしなかった。
今日みたいなことがあった以上、どの道もうここにはいられない。昨日みたいに父さんが帰ってくることもある。僕も毎日はさすがに来られない。
全部の状況が、僕たちの関係に限界を告げている。
胸が痛い。心が軋む。
「僕は……っ」
どうすればいい。この期に及んで、打開策を探し続けている自分がいる。どうにもならないと分かっているのに、諦められない、認められない自分がいる。
嗚咽が漏れ、震える肩にガイウスが手を添えた。
「……俺とエリオットで一日考えてきたのだが、こんな案はどうだろうか?」
「え?」
ガイウスはある提案をしてくれ、同時、説得に成功したらしいエリオットが戻って来る。
彼らの話を聞き終わり、僕は目を丸くした。
●
街道の景色があっという間に流れていく。導力バイクのサイドカーに収まる僕は、風の音に負けないよう声を張り上げた。
「すまないな、リィン。助かるよ」
リィンがアンゼリカ先輩から譲り受けたという導力バイク。乗せてもらったのは初めてだが、この疾走感は中々のものだ。
「気にしないでくれ。運転練習も兼ねてるしな。トリスタまではもうちょっとだ。……ところで」
リィンがちらりと僕を、いや、僕の膝上の荷物を一瞥した。
「その大きな荷物は何なんだ?」
サイドカーの座席の半分が埋まるほどの、大きな麻袋を僕は抱えている。
「言ったじゃないか。実家から寮に運ぶ書籍類だって」
「それは聞いたが……さっきからその袋、何だかもぞもぞと動いていないか」
うん、まあ、動いているな。主に羽やら触手やらが。
「走行中の振動でそう見えるんだろう」
「いや、それにしては動きが激しいような」
「それは気のせいだな。眼鏡の度が合っていないんじゃないか」
「俺は眼鏡をかけていないが」
その後もリィンはちらちらとこちらを見てくるが、気付かぬふりで貫き通す。
次第にトリスタの町が見えてきた。
目指すは場所は、ただ一つ。
誰にも迷惑をかけず、元いた場所とさほど変わらない環境で、かつ僕とも距離が近い場所。
もうすぐ着くからな、お前達。
――後日談――
水路を流れる水音がごうごうと壁を反響し、ただでさえ先の見通せないこの場所を、余計に物々しい雰囲気に変えている。
旧校舎地下一階。薄暗い通路に複数の足音が響いていた。
リィン、ユーシス、ラウラの三人である。
「今更、地下一階などを調べる必要があるのか?」
道中、そんなことを言ったのはユーシスだ。応じるリィンは「ああ、一応な」と控えめの肯定を返す。
「下階層フロアが出来たら、上階層の構造も変わっているかもしれないし。念の為の調査だ」
「まあ付き合ってやろう。ところでラウラ、さっきから黙っているがどうかしたか?」
一歩後ろを付いてくるラウラに、ユーシスは目をやる。むすりとして、明らかに不機嫌な様子だった。
「……何でもないが」
そう言うが、言葉にはありありと険が盛られている。
元を正せば、リィンが旧校舎探索に誘ったのはラウラ一人だった。
ギムナジウム前で偶然出会ったことと、地下一階という生息魔獣のレベルの低さを鑑みて、二人という少人数での探索も可能と判断したのだ。
しかし旧校舎へ向かう途中、狙い澄ましたかのようにユーシスが現れ、「そういうことならば、俺も同行してやろう」と有無を言わさず探索メンバーに加わったのだった。
ラウラがご機嫌ななめなのは、例によって空気を読まずに割り込んできたユーシスと、それを迷いもせずに快諾したリィンの態度が原因だったりする。
無論だが、男二人には悪意も他意もない。だから余計に苛立たしいというのは、複雑な乙女心と言ったところか。
「男子同士、仲のいいことだ」
二人の背中を見て、小さくついたラウラのため息は、誰の耳にも留まることなく水音にかき消される。
しばらく道なりに進むと、分かれ道に突き当たった。
「この分かれ道は前もあったし、どうやら変わってないみたいだ」
「構造はそのままということだな」
「ではどうする。引き返すのか?」
ラウラの問いに、リィンは首を横に振る。
「せっかくここまで来たんだし、とりあえず一通り調べてみよう。まずは右の道から進んでみるか」
リィンが思案していると、ユーシスは反対側――左の道にすたすたと歩き出した。
「お前達は右側を行くがいい。俺は左側を調べてくる」
「まさか一人で行く気か?」
「その方が効率がいいだろう。このフロアの魔獣なら一人でも十分対処可能だ」
最初のオリエンテーションの際も、ユーシスはこの階で単独先行していた。あの時でも危なげなく魔獣を撃退していたし、さらに実力の上がった今なら、無用に案ずる必要もないのだろう。
「わかった。だが油断はしないでくれ」
「そちらこそな」
そう言い残すと、ユーシスは憮然とした足取りで、一人薄闇の中を進んでいく。
「じゃあ俺たちも行こうか、ラウラ」
「そうだな。そうしよう」
歩き出したリィンの後に、ラウラは続く。ほんの少しだけ、その顔は明るかった。
「やはり、特に異常はないようだな」
辺りを見回しながら、ユーシスは独り言ちる。
壁も通路も以前来た時のまま。そもそも構造が変わるというのが、未だに信じられない。どんな仕組みなのかは不明だが、ここが単なる古めかしいだけの建築物でないことは明らかだ。
「フロアが動く……などの兆候も見られないな」
この道をもう少し行くと、リィンたちが進んだ道と合流するはずだ。
ここまでは魔獣に遭遇せずやって来られたが、向こうは問題ないだろうか。
「問題があるとしたら、リィンがラウラを機嫌を損ねるくらいか。先ほどもおそらく、あいつが何かやらかしたのだろう」
朴念仁だからな。そう付け加えて軽く鼻で笑う。ラウラの機嫌の傾きが、半分は自分が原因であると思いもしないユーシスだった。
――ざわ、と周囲の空気が変わる。
「お出ましか」
騎士剣を構え、辺りに意識を巡した。
妙だった。すぐに襲って来ない。普通の魔獣なら、こちらの姿を視認するなり、一も二もなく襲い掛かって来るのに。だが間違いなく視線は感じる。何かを狙っているような、明確な敵意が――
最大限に集中したその時、カコーンと床に何かが落ちる音が響いた。
「そこかっ!」
音の方向に素早く剣を向ける。そこに魔獣の姿はなく、代わりに小さな筒のようなものがカラカラと転がっていた。
「……なんだ、あれは」
ユーシスの背後に、黒い影が躍り出る。中空を勢いよく滑空した影は、そのまま彼の後頭部に体当たりを見舞った。
「ぐうっ!?」
ゴスッと打たれ、ユーシスはよろめく。衝撃にぐらぐらと揺らぐ視界の中を飛び回るのは、一匹の飛び猫。
「不意打ちとはやってくれる。飛び猫風情がたった一匹で――なんだと!?」
急速旋回、急発進、急制動を織り交ぜながら、巧みに懐に迫ってくる。
ぶんと横に薙いだ一撃をかい潜って、飛び猫は速度を乗せた頭突きを、ユーシスの下腹に繰り出した。
「ぐっ」と詰まった声と一緒に、ユーシスは水路上に押し出される。
ぐらりと傾く体と視界。掴まれそうな物は近くにない。
せめて悪態の一つもついてやろうと、忌々しげに飛び猫を睨みつけた時、なぜか鼻先をコーヒーの匂いが掠めていった。
「今、ユーシスの声が聞こえたような気が……」
元来た道を振り返るリィン。
「ラウラは聞こえたか?」
「いや、大きな水しぶきの音しか聞こえなかったな」
「そうか、なら気のせいか」
「うむ、気のせいだ」
二人して納得し、改めて水路や壁面、果ては天井まで眺めてみる。以前と違うような構造にはなっていない。
「もう少し調べよう。俺はこっちの水路側を確認するから、ラウラはそっちの通路側を頼む」
「承知した」
区画によってはスイッチ一つで橋が繋がったり、離れたりといった仕掛けもあった。フロア全体の構造を変えるとなると、現実的ではないが、可能性がないわけでもない。この旧校舎は不明確な要素が多すぎるのだ。
ある程度調べ回ってみるも、そのような仕掛けや、その痕跡を発見することは出来なかった。
「そう簡単には見つからないよな……」
「いずれは下の階層も確認する必要があるだろうが、今日はこの辺で切り上げるか?」
「そうだな、ユーシスと合流して――いや」
言葉を止めて、リィンは鞘から太刀を引き抜く。
「魔獣の気配だ。どこから来るかまでは分からない。ラウラは後ろを警戒してくれ」
「ああ、そなたの背中を守らせてもらおう」
水路が近いせいで、魔獣の足音やうなり声などは聞こえない。この状況で頼りになるのは眼だ。二人は背中合わせになり、それぞれ前後に剣を向ける。
近くの物陰から、しゅるしゅると床を這う一本の触手。二人の視線をかわしながら、それはラウラの足元まで迫った。そこから触手の先が方向を変え、ゆるりと真上に伸びる。
「ひゃうっ」
「魔獣が来たか!?」
「い、いや、今そなたの手が……ええい、こっちを向くでない!」
リィンを押し戻し、再び警戒を厳に。触手はラウラの太ももをさするように、ゆらゆらと揺れ出した。
「リ、リィン、そのっ、もしかしてっ、わざとやっていないか……あうう……」
急にうつむき、身をすくめるラウラ。
「なんの話だ?」
きょとんとして聞き返すリィン。
「だから……ひっ!?」
触手がするるっとさらに伸び、ラウラから小さな悲鳴が上がった。
ぼっと火がついたように顔を蒸気させたラウラは、ぎゅるっと勢いよくその場で半回転。
「この……っ!」
「え?」
「痴れ者が!!」
振り返ったリィンの顔面に、全力の掌底。彼は吹き飛び、水路のど真ん中に頭から落ちた。
「し、痴れ者が」
吐息も荒く、ラウラはその言葉を繰り返した。ちょっと涙目である。
そんな彼女の背中を、触手がトンと突いた。
「な、なに?」
不意を突かれ、バランスを崩してしまう。そこにもう一本の触手が伸びてきて、ダメ押しの足払いを決められた。
完全に足をすくわれたラウラは、リィンの後を追うように水路に滑り落ちる。バッシャアと水柱があがった。
物陰から一匹のドローメが姿を見せる。そのドローメは勝ちどきを上げるかのように、いかにも誇らしげに二本の触手を交差させるのだった。
●
「ど、どうしたんだ君たちは」
マキアスが旧校舎を訪れた時、ちょうどリィンたちが中から出てきたところだった。
三人が三人とも頭までずぶ濡れで、ボタボタと大粒の水滴を滴らせている。ユーシスは不可解な、ラウラは不機嫌な、リィンは不条理を身に受けたような顔を、それぞれで浮かべていた。
「……お前こそ何をしに来た」
濡れて重くなった髪をかき上げて、ユーシスが言う。
「別に大した用事はないが」
ここに来た本当の理由など言えるわけがない。このことを知っているのはエリオットとガイウスだけだ。
「それよりなんでずぶ濡れなんだ? 三人して水路にでも落ちたのか?」
何をどうすれば、そんな事態に陥るのか。首を傾げるマキアスをよそに、彼らはぶつぶつと苦言をつぶやいている。
「あの飛び猫め……。俺を水路に落とすことに執念さえ感じたぞ。まったく解せん」
「ラウラ、俺が何かしたのか? 具体的に言ってくれないと謝りようもないんだが」
「いや、そなたのせいではないと分かった。……だが、その……とにかくこっちを見るでない」
とても腑に落ちない。そんな様子で三人はその場から去っていく。
「気になるが、まあいいか」
ぴちゃぴちゃと湿った靴跡を残して、遠ざかるずぶ濡れ貴族たち。『っくしゅん』と三人そろってくしゃみをする彼らの背を見送って、マキアスは旧校舎に向き直った。
肩に掛けたかばんの中には、挽き立てのコーヒーをたっぷりと入れた水筒が一つ。そして空のコップが二つ。
楽しそうに笑って、マキアスは扉を開いた。
「さあ、今日のコーヒーは自信作だ」
~FIN~
後編もお付き合い頂きありがとうございます。
まずタイトルについての説明を。
何故『レーグニッツ王国』かと言いますと、あれです。『ムツゴロウ王国』からです。魔獣達とのちょっとした触れ合いということで、そんなタイトルにさせて頂きました。ちなみに元タイトルは『僕と魔獣』。そのまんまですね(笑)
いつか魔獣部隊を結成し、真レーグニッツ王国なんてやってみたいものです。
では次回予告を。
割と穏やか(?)な話が続いたので、そろそろドタバタな平常運転に戻ります。次は温泉話と同様に三話でお送りする予定です。
全校生徒を巻き込んで、罠だらけの学院中を走り回るⅦ組一同。最年少二人組が主役のトラブル量産物語。生き残れるかな、全滅かな。
次回『ちびっこトラップ』
お楽しみ頂ければ何よりです。