《アリサ ~夢と現と》
「あ、この服かわいいじゃない」
ブティック《ル・サージュ》の前で、アリサは足を止めた。ショーウィンドウの中では、スラリと背の高いマネキンが赤いセーターを着こなしている。
「もう秋だものね。新しい服くらい買いたいんだけど……」
とはいえ制服ばかりで、あまり着る機会がない。いざ買ったところで、ろくに袖も通さないまま、来年の秋までクローゼットで眠らせてしまう可能性が大だ。
「まあ、私服なら実家から持って来た分があるし、うん。今は大丈夫」
自分に言い聞かせるよう口に出して、アリサは右手に持ったリードを軽く引いた。
「行きましょうか、ルビィ」
身を屈めていたルビィはすくりと立ち上がり、先に歩き出したアリサの後に続く。
今日の散歩当番はアリサだった。彼女の散歩は基本的に自分の行きたいところに行き、そこにルビィを付き合わせるというスタンスである。
夕方の散歩はローテーションを組んで、シャロンを除く第三学生寮の全員で行っている。ちなみにシャロンを除くのは、夕食の準備があることと、早朝の散歩を一人で受け持っているという理由からだ。
「んー、次はどこに行こうかしら」
適当に路地を歩いていると、急にルビィが歩みを止める。鼻先をくんくんと上下に動かし、一軒の民家に首を向けた。
「この家がどうかしたの?……あ、いい匂い」
民家の窓から柔らかな湯気が立ち上っている。時間が時間だから夕食の準備だろう。
この民家の住人のことは、アリサも知っていた。特別実習の朝に寮の外に出ると、高確率でその現場にはち合わすからだ。仕事に出る夫を甲斐甲斐しく妻が送り出すという、そんな現場に。
「……この前は旦那さんのほっぺにキスしちゃってたわね」
とっさに目を背けたものの、やっぱり気になって目を戻して、そして奥さんと視線が合ってしまったのだ。すごく気まずい空気が流れたのを覚えている。
けれど照れ隠しに笑うその顔は、とても幸せそうだった。
迂闊にも、その姿を自分と重ね合わせてしまった。未来の自分の姿として。
笑顔の絶えない明るい毎日。決して大きくはないけど、二人で住むには十分な広さの邸宅。いつかは二人じゃなくなるかもしれないが。
幸せと呼べる日々を妄想している最中で、はっと意識を戻す。
そして顔から火がでるほどに赤面した。空想の未来の自分のとなりにいた人物が、よく知った顔だったからだ。
「ち、違うのよ! そうじゃないのよ! 誰にも言わないでよ、ルビィ!?」
ぶんぶんと首を振って狼狽する。
一方のルビィはきょとんとして、アリサを見返すのみだが。
ようやく落ち着きを取り戻したアリサの鼻先を、先ほどのいい匂いがかすめていった。
そういえばラウラは料理に興味を持っているらしい。最近キッチンに立つ姿をよく見かける。
リィンが試食に付き合わされている光景もセットで。
「私も料理……覚えてみようかしら。深い理由はないけど」
誰に言うでもなくひとりごち、アリサは雑貨店へいそいそと歩を向ける。
その後、散歩を終えて寮に帰ったルビィは、ラウンジのソファーでくつろぐリィンの横に、そっとキュリアの薬を置いてくるのだった。
☆ ☆ ☆
《エリオット ~誤解と上塗りと》
「猛将と犬か。背徳的な組み合わせだ」
ルビィとの散歩中、エリオットは道のど真ん中でケインズと出くわした。
「ケ、ケインズさん」
エリオットはこの場を離脱する方法を考えた。しかし考えをまとめる間もなく、ケインズは胸元から何かを取り出した。
「今日はこれを渡したくてね」
「はあ、なんですか? それは鍵……?」
どこにでもありそうな普通の鍵である。だとしても、いい予感はしない。
「これは裏ケインズ書房の鍵さ。まあ店裏の倉庫のことなんだが。その中身は猛将ならお見通しだろう?」
「すみません、散歩中なので僕はこれで失礼します」
「まあ、待ってくれ」
足早に脇を抜けていこうとするエリオットをケインズは笑いながら止めた。
「いや、さすがは猛将、気が早い。だが今言った通り倉庫はこの鍵がないと開かない」
「倉庫に行こうとはしてませんから!」
「兵は迅速を尊ぶとはよく言ったものだ。さあ、受け取ってくれ」
「いらないですって! あ、ちょっと!?」
まるで話を聞いていないケインズは、その鍵をずいずいと押し渡してくる。受け取るまいと必死のエリオットは、ひたすらにそれをかわし続けた。
「あ、エリオット君とケインズさんだ」
そんなやり取りの最中に、いつものお団子頭が現れた。
「おお、ミント嬢」
「う、ミント」
ほがらかに応じるケインズとは反対に、エリオットは頬を引きつらせている。
ミントは訳知り顔でうなずいた。
「今日のエリオット君……猛将、だね?」
「いかにも」
それをなぜかケインズが肯定する。
「やっぱり。大丈夫、メアリー教官には内緒にしておくからね」
「その勘違い、早く何とかならないかな……」
ミントの視線がエリオットの足元に向く。
「あ、ワンちゃんだ。かわいいねー」
手を差し出そうとするも、早く散歩の続きをしたかったのか、ルビィはてくてくとミントの足の間を抜けていった。
「わわっ」とスカートを押さえるミントと、「ほう!」と目を輝かせるケインズ。
「よくしつけられた犬だ。これも猛将の指示だな?」
「そうなの!? エリオット君はエッチだー」
「ふふ、猛っているねえ」
ケインズが感嘆の声をあげる横で、ミントは「エッチだエッチだ」と叫び回る。背は低いのに、声はやたらとでかい。
「ちがっ……いや、ちょっと二人とも落ち着いて」
どうにか場を収めようとするも、二人の妄言は留まることを知らず、ありとあらゆる不穏なワードが入り乱れる。
「猛将の演奏、聞いてみたいものだ。さぞ荒々しく背徳的な音色だろう」
「うん。すごい上手だよ」
「極めた指使いの成せる技だな。常人ではそうはいくまい」
「間違いないよね」
「うむ。間違いない」
不毛な会話を続ける内に、それらは接続され、融合し、その果てにこんがらがった言葉として二人の口から吐き出された。
『荒々しいエッチな音楽を極めた背徳的なエリオット君の指使いはすごい猛将。間違いない』
最悪の組み合わせの上、思いきり名前を叫ばれてしまった。トリスタの町中に猛将エリオットの名が響き渡る。
「もう、やめてよ……」
あきらめ半分の懇願を聞き留めてくれる者はいない。
その時、ドサッと何かが落ちる音がした。コロコロと足元にリンゴが転がってくる。
「なにこれ?」
リンゴを拾い上げ、転がってきた方向に目を向ける。買い物袋を落としたメアリー教官が、青ざめた表情で立ち尽くしていた。
「エリオットさん……」
切ない声。すぐに走り寄って誤解を解かなくては。しかしエリオットとメアリーの間には、『猛将、猛将』と騒ぎ立てるケインズとミントがいる。
エリオットが声をかけるより早く、メアリーは走り去ってしまった。
「あ……」
震える手。持っていたリンゴが、ルビィの頭の上に落ちた。
☆ ☆ ☆
《フィー ~幸運と不運と》
「取っておいで」
弧を描いてボールが飛んでいき、それをルビィが追いかける。
人通りも少なく、アノール川に近い路地の一角で、フィーはルビィとボール遊びをしていた。
てんてんと跳ね転がったボールを一口で咥えると、ルビィは走って戻ってくる。
「ん、よし」
褒めてやってから、もう一度遠くに投げる。
また走るルビィ。眺めるフィー。
しばらくして、ルビィがボールと一緒に戻ってきた。
「よしよし……あれ?」
咥えていた物を受け取ってみると、それはボールではなかった。
「これ、ティアの薬かな」
回復アイテムである。ルビィが新たにボールを取りに行く様子はない。間違って拾ってきたのだろう。
「まあ、これでもいっか」
ボール代わりに、今度はそのティアの薬を思いきり放り投げた。
ルビィが帰ってくる。今度も何かを口に咥えていた。
「これ、ティアラの薬だ」
なぜかグレードアップしている。ならばと、もう一度投げてみた。
次に戻ってきたのは、ティアラルの薬だ。やはり質が上がっている。
「……よし」
どこまで格が上がるのか試してみよう。その後もアイテム投げを繰り返していくと、ティアラルの薬は今度はクオーツになって返ってきた。
まずは《妨害》。次に《混乱の刃》。その次が《死神》。そして最後にルビィが持って来たのはマスタークオーツ《バーミリオン》だった。
「ぶい」
かなりのレアアイテムに、Vサインのフィーである。
一方でルビィによって釣りを《妨害》され、予期せぬ襲撃者に《混乱》し、その果てに《死神》を幻視したとある男子生徒が、いつかギガンソーディを釣り上げた者に託そうと、大事に持っていたマスタークオーツを強奪されている事実など、フィーには知る由もなかった。
「ルビィはいい子だね」
戦利品片手に、フィーはルビィを抱きかかえた。
☆ ☆ ☆
《ガイウス ~家族と思い出と》
町からはそう離れていないトリスタの街道沿い。
近くに魔獣の気配がないことを確認したガイウスは、ルビィの首に繋がれたリードを外してやった。
「適当に遊んでくるがいい。あまり遠くには行かないようにな」
スケッチをするかたわらでルビィを自由に走らせる。これがガイウスの散歩スタイルだった。
さっそく辺りを飛ぶ蝶を追いかけ始めたルビィ。その様子を横目に見ながら、適当な路傍に腰を落ち着かせて、ガイウスはペンを片手にキャンバスと向き合った。
そこまで精細な風景画を描くつもりはない。最近は学院祭に出展する為の絵にかかりきりなので、散歩ついでの気分転換といった程度だ。
「ふむ……」
まっすぐに伸びる並木道と、その上に広がる青い空となびく白い雲。
そんな絵を描こうとしてペンを構えて、しかしガイウスは手を止めた。
「ルビィ、ちょっと来てくれ」
今度は木の上の小鳥に興味を示しているルビィを呼び戻すと、街道の真ん中で「待て」を指示した。
尻尾は振りつつも動こうとしないルビィにガイウスは言う。
「今日はお前をモデルにしようと思う。しばらく動かないでくれ」
いつ解かれるともしれない果てなき『待て』に、ルビィは辛抱強く従った。
それからおよそ三十分あまりの制止を経て、ようやく絵は完成した。
さすがに憔悴気味のルビィは耳を垂らし、舌を出してうつむいている。
「少し無理をさせたな。だがいい出来だ。見に来るといい」
重そうに首を持ち上げたルビィは、のそのそとガイウスに近づく。
「どのような経緯で学院に迷い込んだかは知らないが、お前にも親兄弟……家族がいたのだろうな」
ペンをケースに片付ける横で、ルビィはキャンバスを見上げる。
四角い枠の中では、風のそよぐ街道を数匹の犬が楽しげに散歩をしていた。
前を歩くのは体の大きな父犬で、その後ろにやんちゃそうな二匹の兄犬が続く。さらにその後ろで母犬にお尻を小突かれながら、兄たちの背についていくルビィ――そんな絵だった。
「どうだろうか。ふふ、まあ想像だがな」
膝の砂埃を払いながら、ガイウスは立ち上がった。
「そろそろ寮に――ん? どうした、ルビィ」
じっと絵を見つめていたルビィは、ふと街道の遠くに視線を移す。
そしてどこまでも届く大きな声で、力いっぱいに吠えてみせた。
☆ ☆ ☆
《ラウラ ~創造と破壊と》
「材料はこれとこれと、あとは……ああ、野菜も少し買っていこう」
《ブランドン商店》にラウラは立ち寄っていた。手元のかごの中にトマト、レタス、ニンジン、ピーマンが積み重なっていく。そこにいくつかの調味料も投入して、ラウラは会計台へと向かった。
その表情は明るい。
「今日は何を作ろうか」
作るものを決めてから買うものを選ぶのではなく、適当に目に付いた良さそうなものを買ってから、なにが作れるかを模索する。これが彼女のクッキングスタイルであり、そして想定外の魔物が生み出される理由でもあった。
「うん? 見たことのない食材だ」
レジカウンターに向かう途中、棚の一角に視線が留まる。
なにかが詰められたビンだった。一見するとハチミツ用のそれかと思ったが、近づいて手に取ってみるとそうでないことがわかった。
ビンの中では、丸まったタコの足のようなものが、謎の液体に浸けられている。
「ふむ。なんとも奇怪だな」
「なかなか目が高い」
買うつもりもなくそれを棚に戻そうとした時、店主ブランドンが感心したよう言った。
「それは東方から取り寄せた一品物でな。見た目は悪いけど良い出汁が取れるって評判で、臭いの独特さが逆に癖になるって話だ」
「ほう」
お嬢様の好奇心がくすぐられる。
興味はありつつも悩んでいると、ブランドンは商売人の売り口上を重ねてきた。
「いちどはまるとやみつきらしいし、なんなら気になる人にでも作ってみたらどうだい。喜んでくれるかもしれない」
「いや、そういう対象の人間はいないな」
言いながらも、ラウラはそのビンをかごに入れた。
「……だが、もらっていく」
「お、買ってくれるのか? だったら負けて、8000ミラにしよう」
「そうか、感謝する」
「調理中に臭いが衣類に着かないように、特性のエプロンと手袋のセットはどうだ。5000ミラだが」
「ふむ、もらおう」
「今ならそこに3000ミラをプラスするだけで、秘蔵のレシピがついてくるぞ」
「買いだな」
ぼったくられお嬢様。その他諸々の食材を合わせ、合計20000ミラを惜しげも無く支払い、ラウラは謎のタコ足を購入する。ブランドンが袋に品物を袋に詰める間も、彼女はうずうずと小さく足先を動かしていた。
一刻も早く未知の調理に挑みたいのか、あるいは作った料理をいち早く食べて欲しい誰かがいるのか。
「私の買い物に付き合わせて悪かったな。さあ、寮に帰ろう」
ずしりと重い袋を抱えて、ラウラは戸口で待つルビィに歩み寄る。異様な瘴気を放つ買い物袋を見て、ルビィは二歩三歩と後じさった。
ラウラは怯えるルビィを見て、優しげに言った。
「案ずるでない。ちゃんとそなたの分も用意しておこう」
袋の中に、ちらりとタコ足がのぞく。
鼻先から尻尾まで、ルビィはブルルと身震いをした。
☆ ☆ ☆
《ユーシス ~貴族と修道女と》
「事情はこんなところだ」
ルビィの散歩ついでに立ち寄ったトリスタ礼拝堂前。
花壇に囲まれた小さなガーデンスペースで、ユーシスは件の新しい飼い主探しについて説明していた。
この場にいるのはユーシスを除けば四名。玄関口の掃き掃除をしていたロジーヌと、そんな彼女をかまいに来た――もとい、かまってもらっていたルーディ、ティゼル、カイの三人組である。
話を聞き終わって、ロジーヌは困ったような表情をみせた。
「教会を通して、そのような保護団体に連絡を取ることはできると思いますが……ただ、教会で飼うのは難しいかもしれません」
「それはそうだろうな。お前たちはどうだ?」
子供たちも頭を抱えている。その中の一人、ティゼルが言った。
「うちは食品関係扱ってるし、多分無理かなあ」
うち、というのはブランドン商店のことだ。それは仕方ないと納得して、ユーシスはルーディに視線を移した。
「うーん、僕のところも両親に聞いてみないとわかりません」
「そうか。カイも無理か?」
最後に問いかけてみたカイは、なぜか勝ち誇ったようにふんぞり返っている。彼は「へっ」と吐き捨てるように笑った。
「ユーシス先生はさあ、犬一匹も飼えないんだろ。とんだカイショーなしだぜ。ロジーヌ姉ちゃんもそう思うだ――」
スパーンと鋭い一撃が、カイの後頭部に見舞われる。ティゼルの平手打ちだった。最近、彼女のカイに対する扱いが雑になってきているらしい。
「いってえ、ロジーヌ姉ちゃん、赤くなってないか見てくれよー」
これ幸いにとロジーヌに接近を試みるカイに、今度はルーディが首根っこをつかんだ。
喉を詰まらせて、その場にへたり込むカイ。
「ふふふ、みんな仲良しね」
ロジーヌは彼らのやり取りを微笑ましげに見守っている。女神的勘違いは健在だった。
ルビィの尻尾をわふわふ触って遊んでいたティゼルは、おもむろにこんな提案をした。
「いっそのこと、ユーシス先生とロジーヌさんでルビィちゃんの面倒みたらどうですか? ちょっとした空き家なんか借りちゃったりして」
「ティ、ティゼル? 何を言うの?」
耳まで顔を赤くするロジーヌ。そこに「あ、いいかも」とルーディが援護射撃を放つ。
うずくまっていたカイが、がばりと身を起こして「認めるかよお!」といきり立つが、飛んできた二発目の平手打ちによってあえなく撃沈させられた。
その折、ユーシスは腕組みして思案している。
「交代で世話をしに来るという事か。寮内で飼っているわけではないし、条件はクリアしているな。しかし良い空き家がそうそうあるものだろうか。これは一度全員に相談してみる必要が……」
「ユ、ユーシスさん!?」
割と真剣に考えているユーシスを見て、もうロジーヌはその場にいられなくなった。フードを深くかぶるや、礼拝堂内に駆け込んでしまう。
「一体どうしたのだ?」
「青春ですよ。ねー?」
それを迎えるにはまだ少し早いティゼルは、そう言うと同意をルビィに求めた。わかっているのか、返答代わりの一吠えでルビィは応じる。
「まあいい。背伸びも程々にな。ではルビィ、散歩の続きをするぞ」
失礼する、とさらりと言って、ユーシスはルビィを引き連れて歩きだした。
「ユーシス先生、やっぱりかっこいいよなあ」
「ねえ、憧れちゃう」
その毅然とした背中を見送り、ティゼルとルーディは息を付いた。しかしカイだけは四つん這いのまま、幼くして知った世の不条理に肩を震わせる。
彼はいつまでも顔を上げようとせず、地面を悔しげに握りしめていた。
☆ ☆ ☆
《エマ ~使命と宿命と》
輝きを散らせて光の大剣が飛ぶ。
一つ、二つ――計五つの切っ先が凄まじい速度で、乱立する木々の間へと吸い込まれていった。
「もっと……!」
続けざまに魔導杖を構えて、エマはもう一度光の剣を顕現させた。
学院裏の林。そこで彼女はひたすらに技を撃ち続けている。
そんな様子を離れた木の陰で眺めているルビィは、轟音が響き渡る度に耳をピクピクと動かしていた。
「ごめんなさい、ルビィちゃん。中々こういう時間って作れなくて」
一息ついたエマは、ルビィの元まで戻って来る。あご下を軽くさすってやりながら、ポーチから取り出したビーフジャーキーを鼻先に差し出した。
「秘密の特訓につき合ってくれたお礼です」
そう、これは特訓だった。あの天敵を撃退する為の。
今のままではガイラーから逃げることすらままならない。それを数日前のトラップ騒動で、嫌というほど思い知った。いまだにあの朗読が耳にこびりついて離れないのだ。
しゃがれた黒い囁き声が毒のように染み渡る。散らつく紫の影が心をじわじわと蝕んでいく。
悪寒に身を苛まれ、エマは自分の片腕をぎゅっと握った。
彼を止めるには、もはや戦って倒す以外にない。説得など無意味だ。
それは容易な事ではない。男子たちの青春を吸い漁り、無尽蔵の力を得ていく、あの狂い咲きの用務員。
果たして自分に彼を下すことができるのか。戦力、戦略。それらで彼を上回ることが出来るのか。
内なる問答も無用だった。できるできないではなく、やる。
「もう少し特訓を……」
――実にいいね。
反応ではなく脊髄反射。素早く周囲に視線を走らせるエマは、その手の魔導杖を強く握りしめた。ルビィも唸り声を鳴らし、エマの警戒に続く。
息を呑む。誰もいない。気配も感じない。今のは風のざわめきがもたらした幻聴だったのか。
思い返せば二ヶ月と少し前。
ルビィが同居人として第三学生寮にやってきたその日に、エマとガイラーの因縁は始まったのだ。
間接的にとは言え、彼のそれまでの価値観を破壊し、新たな世界を与えたのは紛れもない自分。ならばこそ、その幕引きも己の手で成さねばならない。それがどのような形になったとしても。
「……ルビィちゃん、今日はもう帰りましょう」
リードを首に付け、エマは足早にその場を後にする。
誰もいなくなった林道。
その木々の間で、風もないのに枯れ葉が不自然に揺れ動いた。
☆ ☆ ☆
《マキアス ~焦燥と競争と》
今日も今日とてトリスタ中を駆け回る。マキアスが散歩当番の時は大体こうだ。
どんなに警戒していても、ほんのわずかな隙をついてルビィは逃げ出してしまう。手からリードが抜け去るのを合図に、勝ち目のない強制レースが始まるのだ。
「くそ、どこに行った?」
肩で息をして、辺りに視線を走らせる。
いた。ガーデニングショップの前、ジェーンが花飾りをルビィに付けてやっている。こっちが必死に探し回っているのに、なんという奴だ。
ルビィの背後から徐々に距離を詰める。ピクリとその耳が動いた。こっちに振り向かれる前に全力疾走。
「もらったあ!」
飛びかかろうとした矢先にルビィは逃げてしまう。
方向転換しようとして果たせず、足がもつれ、マキアスはジェーンに突っ込んだ。
「きゃあああ!?」
手近な植木を胸前に掲げ、ジェーンは特攻眼鏡をガードする。
マキアスにとって最悪な事に、その植木はアロエだった。
一通りジェーンに謝罪した後。
傷だらけの顔面をさすりながら、ずれた眼鏡を押し上げる。今度はどこに行ったと周囲を見渡すと、《キルシェ》のオープンテラスで茶色の毛並が尻尾を振っていた。
「そこか……」
逃げると言っても、その後は自分で寮まで帰って来るのだから、無理に捕まえる必要もない。だが手ぶらで帰宅すると、「また逃げられたのか。犬は順位付けをするからな」と鼻で笑うユーシスが待ち構えている。わざわざそれを言う為にラウンジで待機していたのかというくらい、必ず控えているのだ。それも優雅に足を組み、紅茶の入ったティーカップを片手に。
面白くない。なので捕まえたい。リードで繋いだルビィを引き連れ、颯爽と寮の扉を開き、「ふふん、実にいい散歩だった」などと言い放ち、あの高慢な鼻っ柱をへし折ってやりたいのだ。
「あら、かわいい。ピザ食べるかしら?」
「どこの犬だろうな。リードなんか引きずって」
幸いというべきか、テラスに座っていたのはアランとブリジットだった。このポジションならアランと挟み打ちができる。
「アラン! そいつのリードを掴んでくれ!」
「マ、マキアス?」
全速力で走る。そして案の定つまづく。
前のめりにバランスを崩し、マキアスは二人が座るテーブル――その卓上の出来たてアツアツのピザに、アロエ同様またしても顔面から突っ込んだ。
「わっ!」
「きゃあ!」
「うあっちい!」
とろけるチーズが眼鏡のフレームにまとわり付き、輪切りのトマトがレンズにはまる。
奪われた視界。したたる高熱。眼鏡型に窪んだピザ。
もだえるマキアスの脇を通り抜け、ルビィはあっという間に遠ざかっていった。
☆ ☆ ☆
《ミリアム ~いじわると仕返しと》
「取ってこーい」
弧を描いてボールが飛んでいき、それをルビィが追い掛ける。
人通りも少なく、アノール川に近い路地の一角で、ミリアムはルビィとボール遊びをしていた。
てんてんと跳ね転がったボールを一口でくわえると、ルビィは走って戻って来る。
「あはは、えらいぞー」
ボールを受け取って、今度は空高くに放り投げた。
それを地面に落とさずに、ダイレクトキャッチ。
「すごいね、ルビィ。じゃあこれならどうかな」
次はふわりとボールを投げる。追いかけるルビィ。その着地点に突然現れたアガートラムがぶんと腕を振って、バットで打ち据えるようにボールを明後日の方向に吹き飛ばしてしまった。
「はい、ルビィの負け~」
にししとミリアムは笑う。
その後も投げる。追いかける。アガートラムパンチ。ミリアムが笑う。その繰り返しだった。
思い通りに遊べないルビィは、ご機嫌ななめで喉を鳴らしている。
「ふっふーん、じゃあ次が最後の一回にしてあげるよ」
思い切り振りかぶってのフルスイング。その時、服の袖が腰元に付けていたポーチに引っかかってしまった。ボールと一緒にポーチが飛んで行く。
「あ! その中には《ARCUS》が入ってるのに!」
焦って手を伸ばすが、もちろん届かない。
「ルビィ、お願い! ポーチ取って来て!」
軽快に走って行くルビィはポーチを見事にキャッチする。しかしミリアムの元には戻って来ず、どこかに走り去ってしまった。
「え、え、ちょっと待ってよ」
オロオロしていると、その内にルビィが戻ってきた。その口には何もくわえていない。
「ボクのポーチどこやったのさ! さては仕返しのつもりだなー!?」
ぷいとそっぽを向いて、ルビィは早々と寮に向かって行ってしまった。
「ううー、ルビィは悪い子だ」
草まみれになってポーチを探し回り、結局それを見つけてミリアムが寮に戻ったのは、完全に日が暮れてからだった。
☆ ☆ ☆
《クロウ ~半月と仮面と》
「ほらよ。半分ずつだ」
売店で買った骨付きチキンの片割れをルビィにやると、クロウはトリスタ中央公園のベンチにどっかりと腰かけた。
日の落ちかけた夕方。人通りはほとんどなかった。
「はっ、今日は俺が散歩当番でよかったな」
手に持った半分をあっという間に平らげ、丸めた包み紙を近くのダストボックスに投げ入れる。
狙いは外れて、紙屑は地面に転がった。
「あー、くそっ」
律儀に立ち上がり、落ちたゴミを拾って今度は直接放り込む。
ちょうどルビィも食べ終わったところだった。
「お前ももうすぐ誰かにもらわれちまうんだよな。そういえば委員長がお前の為に――っと、これは内緒だったな」
わざとらしく肩をすくめる。
「いい飼い主が見つかりゃいいがよ。ただ、まあ……お前を預かれる期限が、学院祭より前でよかったかもな」
学院の方向を一瞥してから、クロウは空を見上げた。
あかね色の空。燃えているかのようで、どこか物悲しい、そんな緋色。そのさらに上方では、薄く月が見え始めている。
満月と新月との間に見られる半月だ。左半分は光を放ち、右半分は影で見えない。まるで道化師の仮面の様に。
冷える風が、頬を撫でていく。
人差し指を顔の前に立てて、クロウは表情から笑みを吹き消した。
適当に放り投げた紙屑は入れ損なった。しかし明確な意志をもって送り込む“それ”ならどうだ。
立てた人指し指が、ゆっくりと折り曲がる。
「ああ。これを外すつもりはないぜ」
夕日よりも赤い瞳が、昏く燃える。
下弦の月の下、陽炎のように揺らぐその背中を、ルビィはただ静かに見つめていた。
☆ ☆ ☆
《サラ ~ビールとルビィと》
「昨日も今日も明日も、飽きもせず小言ばかり言って」
すでに明日も小言を言われる前提で、サラは深く息を吐き出した。
差し挟まれるハインリッヒ教頭からのお説教にそのたび手を止めながら、ようやく一日分のデスクワークを終わらして、本校舎を出たところである。
こんな日は冷えたビールで一杯やりたい。しかしそんなことを教え子たちに言うと、別にいつでも飲んでいるから同じだろうと、心無い一言が返ってくるのだ。
まるで分かっていない。同じ一日が二度ないのと同じように、その時の気分、シチュエーションによってビールの味も変わるのだ。
何より腹立たしいのは、シャロンまでがⅦ組勢の尻馬に乗って、自分を孤立に追い込んでくることだが。しかも楽しみながら、いや愉しみながら。
そんな時、自分に寄り添ってくれる味方は、いつもの一匹だけ。
「あら?」
正門前に、その“いつもの一匹”がちょこんとお座りしている。
サラの姿を見るなり、ルビィは立ち上がって一吠えした。
「あはは、やっぱり来てたのね」
サラが散歩当番の日は、ルビィも分かっているらしい。Ⅶ組の面々と違って、散歩の時間に間に合わないことも多いから、彼女が当番の時はルビィから学院へ迎えに行っているのだ。
ご丁寧に咥えてきたリードを受け取り、サラは笑った。
「よし、じゃあ帰ろっか。早くビール、ビールっと」
愛すべき言葉を連呼して、ふと思い出す。
「そういえばルビィの名前ってビールから付けたのよね。今更だけど、やっぱりあの子たちには言えないわ」
不思議そうに自分を見上げるルビィに、「なんでもないのよ」と優しげに言って、サラは歩き出した。
ルビィも続いたが、なぜかすぐにその足を止める。リードがぴんと張って、サラの方がぐいと引っ張られた。
「ちょっと、どうしたのよ?」
正門脇をじっと見据えるルビィ。遠くは見ておらず、その空間の一点に焦点が合っている。
「……別に何もないけど?」
しばらくの沈黙。ルビィは動かず、時折尻尾を振ったり、耳を立てたりを繰り返している。
サラが目を凝らしてみるも、やはり何も見えない。まるで、ルビィにしか見えない何かがあるかのようだった。
最後に小さく鳴いてから、ルビィはサラに向き直る。
「もういいの? 変なルビィねー」
そうして、一人と一匹は同時に正門をくぐった。
☆ ☆ ☆
《リィン ~赤と紅と》
散歩ついでに立ち寄ったアノール川で、リィンは釣糸を垂らしていた。
「……釣れないな。もうそろそろ一時間か」
さざ波さえ立たない水面。当たりはまだ一度もない。
とうとうその辺りの段差に釣竿を立てかけて、適当に腰を下ろす。かたわらで伏せていたルビィは首を持ち上げて、リィンを見上げた。
「つき合わせて悪いな。帰りに内緒でビーフジャーキーを買ってやるからな……内緒でだからな?」
あまり散歩先でおやつを買うと、シャロンにたしなめられるのだ。
「そういえば財布持ってきてたかな……」
ズボンのポケットを探ってみる。なかった。手に取った覚えもないから、部屋に置いてきたのだろう
「しまった。上着の内ポケットにもないよな……ん?」
財布ではないが、何かがある。取り出してみると、白い封書だった。
はっとして思い出す。昨日フィーたちに取られ、そして取り返したエリゼからの手紙だ。
もう失わないようその場で内ポケットにしまったはいいが、疲れていたからか部屋に戻ってすぐに寝てしまい、結局読めずじまいだったのだ。
うっかりしていた。エリゼの手紙は届いてから三日以内に返信するのが、破ることの許されない鉄の掟である。暗黙の内に定められた、数ある兄様ルールの一つだ。初日はシャロンから受け取った時間が遅くて読めず、二日目はフィー達に奪われていたから読めず、そして今日が届いてから三日目。
まだ間に合う。
「あ、危ないところだった」
焦る手つきで封を明け、中から手紙を取り出す。丁寧に三つ折りされた便箋を開き、内容にじっくりと目を通した。
内容はいつもの近況報告だった。定期試験でいい成績を収めたこと。育てている花が咲いたこと。背が少し伸びたこと。料理の腕が上がったこと。
そして、例の体育大会の応援が楽しみだということ。
「はは、元気そうでよかった。こっちも近況を書かなきゃな。何がいいだろう――え?」
一度目を離しかけて、最後の一文に視線を戻す。まぶたを擦り、もう一度見る。なぜか太陽に透かしてもみた。意味を咀嚼し、吟味する。やはり文字通りの内容だった。
『――体育大会の応援に、アルフィン皇女殿下も足をお運びになるそうです。お忍びですので、どうかご内密に願います』
「ええええ!?」
よたついて足がもつれ、立てかけてあった釣竿に引っ掛かった。そのままぐらりとバランスを崩し、リィンは川の中へと滑り落ちる。
派手に水しぶきが弾け、叫びはうねりの中にかき消されていった。
☆ ☆ ☆
《貴族組 ~特訓と猛特訓と》
温い風が吹き抜け、グラウンドの砂がさわさわとたなびく。秋にしては暑い日だった。
「くそっ、こんなことよりもっと実戦で使える連携の練習をするべきだ」
小さな声で悪態を付きながら、それでもパトリックは命じられたとおりグラウンドを走り続ける。
「同感ですわ……」
その後ろにぜえぜえと肩で息をするフェリスが続く。走り始めてまだ二周だが、彼女の体力は早くも尽きかけていた。
「大丈夫? もう少しペース落としてもいいんじゃないかしら」
フェリスと横並びに走るのはブリジットである。彼女はさほど苦しそうな表情をみせていない。
横目でブリジットを見て、フェリスは言った。
「ブリジットさんって運動が得意ですの? 確か吹奏楽部と記憶していますが」
「うーん? 最近トランペットも扱うようになったから肺活量が鍛えられているのかも。それよりもフェリス?」
そう呼ばれて、フェリスははっとした。
「さん付けはダメじゃなかったの?」
「あ、ごめんなさい。つい」
ここで鋭く笛が鳴り響く。二人はとっさに背すじを伸ばした。
「ほら、無駄口叩かないの。走る距離増やしちゃうわよ?」
コーチ役のフリーデルだった。フェリス達に並走してくるなり、笛を片手に笑いかけるが、それは冗談の笑みではない。
彼女は笑いながらどぎつい試練を与えてくるのだ。『一年生同士は“さん付け”禁止』を発令したのもフリーデルである。心が近くないと連携は成せないという、彼女の持論から転じた決まり事だ。
走る足は止めないまま、パトリックが不服を申し出る。
「部長の言うことはわかりますが、精神論だけでは勝負に勝てないでしょう。いまさら走り込みをするよりも、戦術や想定できるアクシデントへの対応法を――」
「ほいっ」
「いたっ!?」
ポクッとパトリックの頭を小突く。
「真剣勝負の場で流れを持って来るのは、いつだって強い気持ちよ。他者との連携だって技術だけで行うものじゃないわ。この走り込みも体力を付けるためにやってるんじゃないの」
「しかし……Ⅶ組連中の連携を無視するわけにはいきません。こちらも相応の戦術を身に付けなくては」
実際、フリーデルがコーチに付いてから特訓らしい特訓をしていない。
やることと言えば、今みたいにひたすら走り、それが終わると全員での雑談タイムに突入。その繰り返しである。雑談などいらないと、パトリックはフリーデルに食いかかったが、今はこれが必要なことだと応じてもらえなかった。
「そんなことを言っているようじゃⅦ組にはいつまでたっても勝てないわ。彼らの力の根底は、あの新型の戦術オーブメントを介した連携ではないのよ」
「……力の根底?」
「そう。今の私たちは小さな七つ。かたやⅦ組は大きな一つ。この差は大きいわ」
パトリックは眉根を寄せた。
「よく分かりませんが」
「教えられて理解するものじゃないしねえ。今は黙って走りなさいな。あんまり口答えばかりしてると、あっちに行かせちゃうわよ」
あっちと言われて、視線を向けた先では、
「お待ちになってええん!!」
「ひいいいい!!」
土埃の中をけたたましく走り回るヴィンセントとマルガリータ。まるで巨大な魔獣と非力な子ウサギである。
押し黙るパトリック。
「そう言えばケネスはどこですの?」
フェリスが言う。見回してみるが、先ほどまで一緒に走っていたはずの彼がいない。
風が吹いて土埃が晴れていく。例の巨大な魔獣に轢かれたらしいケネスが、無惨な風体でグラウンドに転がっていた。
「うう、ひどい目にあったよ……」
休憩中。息を吹き返したケネスは、上体を起こして全員の顔を見渡した。
「グフッ。ごめんなさいねえ。ほら恋は盲目って言うじゃない」
その湿った瞳が意中の男性に向く。ヴィンセントは「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、フェリスの背に隠れた。
「ちょっと、やめて下さいまし! マルガリータさんもお兄様が怯えておりますわ」
「もう、照れ屋さんなんだからあ」
「か、会話が異次元ですわ……」
なお『さん付け禁止令』だが、マルガリータだけはこっちの方がしっくりくるという理由で、さん付けが可となっている。
パトリックは、ケネスの上着からはみ出ている白い紙に気づいた。
「それはなんだ?」
「あ、忘れていたよ」
ケネスはそれを皆に広げてみせる。
「ハインリッヒ教頭から手渡されたんだ。これが体育大会の競技種目だって」
サラとハインリッヒが割り当て分ずつ、交互に自由に決めたというプログラム。
食い入るように競技の羅列に目を通す一同。
「なるほど、こうきたのね」
フリーデルは両手を打ち鳴らした。
「はーい、全員注目。今頃はⅦ組にもこのプログラムが渡ってると思う。ここからが正念場よ。明日からは実戦練習に移るわ」
パトリックが安堵の息をつく。
「ようやくですか。それでフリーデル部長、どのような特訓をするんです?」
「あら、明日からのコーチは私じゃないわよ」
「Ⅶ組に勝ちたいか、お前たち」
その時、固い声音がグラウンドに響いた。
砂塵にかすむ景色の中に、バタバタと黒いマントがはためいている。金髪碧眼。真一文字に結ばれた口元。質実剛健を体現したかのような憮然とした佇まい。
帝国軍第四機甲師団、ナイトハルト少佐その人である。
彼はざっざと地を踏み慣らし、乱れのない歩調で近付いてきた。パトリックたちの数歩手前で立ち止まると、ナイトハルトは言う。
「お前たち。いや、貴様たち」
鋭い目で一人一人の顔を眺め、ナイトハルトはその顔をさらに険しくした。
「たるんでいるな。貴様らは本当にⅦ組に勝ちたいのか? どうだ、レイクロード」
急に名指しされたケネスは、体を強張らせながらも「は、はい」と一言返答する。あまりの威圧感に足が震え出していた。
「馬鹿者! そんな気の抜けた返事があるか! もう一度問う! 勝ちたいか!」
「イ、イエス・サー!」
「全員で言え! 勝ちたいか!!」
『サー・イエス・サー!!』
「仮にも士官学院生。容赦はせん、当日まで軍隊式でしごいてやる。口答えは一切許さん」
戦慄する後輩一同に向けて、フリーデルは朗らかに微笑んだ。
「というわけだから。お忙しくしている中、無理を聞き入れて下さったのよ」
何をやらかしてくれたんだ、あんたは。
そんな視線が集中するが、彼女はどこ吹く風でプログラムをナイトハルトに渡していた。
「よし、では早速訓練を開始する。全員二十キロの装備を背負って、屋上まで十往復!!」
コーチが変わっても走らされる貴族組。むしろさらにハードになっている。
純白の学院服が泥まみれになるのを覚悟で、彼らはやけになって叫んだ。
『サー・イエス・サー!!』
☆ ☆ ☆
《帝国解放戦線 ~個性と記号と》
ノルティア州、ルーレ市郊外。
人通りもなく、ぽつりと寂れた一軒家――その地下で蠢く黒い影。
薄暗い空間の中、いくつかの導力ランプを囲んだ怪しげな男たちは、それぞれの手に持ったトールズ士官学院の見取り図を凝視している。
その中の一人が言った。
「非常用の物を含めて、あと十日余りで食料は尽きる。水もだ」
別の一人が、視線を見取り図から薄闇の一角へと移す。雑多に木箱の山が重なっていた。
「あるだけの武器をかき集めたが、リストに挙げてある通りだ。十分とは言えない」
別紙で用意されたリストには、ナイフ、ハンドガン、ライフル、手榴弾、長剣などがそろえられているが、数は人数分ぎりぎりといった具合で、残弾薬は少なく、刃物類は刃こぼれしている物も多かった。
「それでも使うしかない。やはり成功の鍵を握るのはあれだな」
全員がある一点に目を向けた。乱雑な物置場と違って、その場所だけは周りに何も置かれておらず、代わりに警戒を表す黄色のテープが張り巡らされていた。その中心にあるのは、厳重に封をされた金属製の箱が一つだけ。
「ちゃんと動くのか? 遠隔式なんだろ」
「信管を抜いた状態で動作確認は済ましている。問題はない」
爆弾である。ザクセン鉄鋼山退却の際に、かろうじて持ち出してきた発破用の爆弾。しかしその威力は折り紙付きだ。
「では作戦概要を説明するぞ。まず配置は――」
その後も討議は繰り返される。彼らの目的はアルフィン皇女の奪取。そして壊滅させられていないという一縷の望みに賭け、帝国解放戦線本隊に合流すること。はっきり言って成功の確率は低い。
いくつもの細い糸をより合わすように、綿密に策を練り上げ、目的を成さねばならないのだ。
まだまだ詰めることは多い。
一人が勿体ぶったような、妙に雰囲気のある声音で言った。
「同志《C》よ。当日の指揮系統も決めるべきではないか?」
この《C》というのも、幹部の真似をして、彼らが勝手にくじ引きで決めたコードネームである。ここには同志《A》から《Z》まで二十六人が揃っていた。
しかし話を振られた《C》は押し黙ったままだ。
「おい、《C》。返事くらいしたらどうだ?」
「え、俺に言ってるのか? 俺は《P》だぞ?」
「あ、悪い。《C》はお前だったか?」
「いや、俺は《T》だが。仲間のコードネームくらい覚えておけ、同志《B》」
「ちょっと待て。俺は《F》だ」
見当違いのアルファベットが飛び交う。騎士のフェイスプレートを模したようなハーフヘルメットに、全員統一された戦闘服。没個性を象徴したような出で立ちで、誰が誰かなど一見で分かるはずがなかった。
戦場で混乱するのはまずい。
何かいい方法はと思案し、やがて一つの提案が可決された。
「……やむを得ないな。それで相手にこっちが不利になる情報を与えるわけではないし。うむ、それで行こう」
二十六名全員のベルト――そのバックルにそれぞれのアルファベットが大きくマジック書きされる。
「……まあ、なんだ。悪くないな」
没個性脱出。
ちょっとだけかっこよくなったバックルが、暗がりの中で煌めいた。
☆ ☆ ☆
『Intermission ~お散歩と特訓と悪巧みと』
~FIN~
最後までお付き合い頂きありがとうございます。
一応時系列やカレンダーなどは気にしているのですが、今回の区間はノーブルメンバーズ~ちびっこトラップ前後までの幕間シーンでお届けしています。
タイトル通り、Ⅶ組勢はルビィとのお散歩を、貴族組は体育勝負に向けての特訓を、で、奴らは悪巧みを。
やっぱりショートショートは描いてて楽しいですね。
では次は、『アキナイ・スピリット』のおまけで予告していたお話です。そろそろ大詰め!
次回『クッキングフェスティバル』
また、お楽しみ頂ければ幸いです。