「あらあら、今日はいそがしいわね」
穏やかな表情でありながらも、ベアトリクスの迅速な手の動きが緩むことはなかった。
三十分刻みで搬送者は増えていき、今や苦しげなうめき声で保健室は溢れかえっている。審判という使命を全うし、力尽きた人々だ。ベッドがまったく足りないので、何人かは床に敷いた厚手の毛布の上に寝かされていた。
「もう一度テレジアとラクロスをしたかったな……」
「最後に一枚、シャッターを……」
「さらばだ、マッハ号……」
「私が芸術……ふっ、ふははは……」
「兄ちゃんがいなくても強く生きるんだぞ……」
口々に末期の言葉を吐いて、覚醒と昏睡を繰り返す部長の皆様方。
「ふふ、話せる内はまだ大丈夫ですよ」
ベアトリクスは笑顔のままだ。患者の容態を観察して、自らの定めた優先順位に徹し、乱れぬペースで淡々と処置を済ましていく。
やがて静寂が戻る保健室。
落ち着いたと思ったところで、今度はグラウンド側が騒々しくなってきた。
「今日は休めなさそうねえ」
ベアトリクスは追加の毛布を取り出してから、凝った首をほぐした。
●
「これだけあればいけるか?」
にんにく、ベーコン、ミルク、生クリーム、卵、黒コショウ、粉チーズ。
そろえてきた食材を調理台の上に並べながら、マキアスはメンバーの二人に訊いた。
「量は十分だと思う」
「うん。あとは作るだけね」
アランは調理器具をそろえ、ブリジットは底の深い鍋で湯を沸かしている最中だ。
Aブロック準決勝。調理テーマは麺。赤チームが選んだのはパスタである。
ミートソース、ペペロンチーノ、ボロネーゼ、その他諸々。一口にパスタと言ってもその種類は多いが、その中で彼らが作ろうとしているのはカルボナーラだった。
「私はにんにくとベーコンを切るから。二人はソースの準備をお願いできる? お湯が沸いたらパスタも茹でてね。お塩加減を間違えたらだめよ」
言いながら包丁を取り出すブリジットは、もたもたと足を動かす男子たちに要領よく指示を飛ばした。
マキアスとアランはカルボナーラの調理工程を知っているわけではない。都度ブリジットに質問しながら、不慣れな手際で一つずつの作業をこなしていく。
「ブリジットさん、動きに無駄がないな」
卵黄をボウルでかき混ぜつつ、マキアスはミルクの計量をしているアランに耳打ちした。
「だろ。手伝うって言っても一人の方が早いからって、いつも断られるし」
「勝手に物の配置を変えたりすると怒るタイプと見た」
「それって、どちらかといえばマキアスじゃないのか?」
「待て待て。手伝いを申し出る? いつも? そんなに彼女に料理を作ってもらう機会が増えたのか?」
「ち、違うぞ。試作品の味見をして欲しいって言うから。俺から頼んでいるわけじゃない」
「そうか、よかったじゃないか」
「違うって言ってるだろ!」
からかわれた照れ隠しか、アランは顔前で手を振り払う。下から上へと動いた手が、マキアスの眼鏡のフレームに引っ掛かってしまった。
宙に跳ね上げられた眼鏡は、鮮やかな放物線を描いて沸騰した鍋の中へと落下した。
「ぼ、僕の眼鏡が!?」
ぷくぷくと気泡を上げて沈んでいく魂の片割れ。すぐさま救出しようとするマキアスだったが、煮えたぎる熱湯がそれを頑なに拒んでいた。
「パスタとかどうかしら?」
奇しくも同じ選択だった。アリサはパスタ麺の束を手にして、フェリスに言う。
「それしかありませんわね」
「よね?」
麺の主流は東方料理だ。しかしレストランより屋台式で食べる物の方が多い。二人にとって、あまり馴染みのある料理とは言えなかった。麺と言われて思いつくのはパスタぐらいだったのである。
「あとはどんなパスタにするかね。うーん、スープパスタとか」
「悪くないと思いますけど。せっかくですし、シーフード仕立てにしてみたらどうでしょう?」
「それもおいしそう。でも魚や貝って用意されていたかしら」
「ふふん。こっちですわ」
あらかじめ目星をつけていたらしく、フェリスはアリサを先導する。食材置き場の一角に、大きな活魚用水槽が設置されていた。
水槽に顔を近づけて、アリサはじっと魚を眺めた。
「泳いでるじゃない」
「泳いでますわね」
水槽の中では小から中型の魚が自由に行き交っている。
「どうやって捕るの?」
「手づかみ?」
「無理よ」
「同じくです」
鮮度を保つための運営側からの配慮だったが、お嬢様には混乱を煽る以外の効果は生まなかった。
「困ったわね。時間もないし……」
「パスタの具が……ちょっと逃げないで下さいまし!」
水槽を上から覗いてみたり、小突いてみたり。四苦八苦しているうちに、アリサは水槽にすくい網が立てかけられていることに気づいた。
さっそくそれを使ってみる。
「な、なにこれ。全然すくえないんだけど」
「早く早く! 右ですわ! やっぱり左――右!」
「どっちなのよ!」
水槽のど真ん中で泳ぐ魚を捉えるにはコツがいる。第一は隅に誘導することだが、アリサを急かすフェリスが、ばんばん水槽の側面を叩くので魚は逃げてしまっていた。
奮闘むなしく、成果は底に生えていた海藻を少しと、動かない貝を数匹捕れた程度だった。
「はあ、ただ疲れただけじゃない。あら?」
その場にへたり込むアリサは、水槽の横に置かれた小さな箱を見つけた。
これも生け簀のようだが、ガラス張りではないので外からだと中身がわからない。
なにげなく中を確認して、アリサは悲鳴を上げた。
「きゃあ!?」
「ど、どうしましたの。ひゃあ!」
後ろからのぞき込んだフェリスも目をむく。
わさわさとひしめき合うそいつらは魚ではなかった。小さな六本足。一対の大きなはさみ。全身を覆う赤い殻。
反射的に抱き合う形となった二人は、同時に顔を見合わせた。
『……ザリーガ?』
トングを使って眼鏡を救出したマキアスは、それを使用していない皿の上に置く。
熱せられたフレームから湯気が立ち上り、とても顔にかけられるような状態ではなかった。
「あちち」
「悪かったよ。まあ煮沸消毒したと思えば」
「ピザ二枚だ」
「うっ」
謝罪の意はピザで示す。いつの間にかそういうペナルティができていた。
「もう二人とも。パスタもそろそろ茹で上がるのに何してるの?」
ブリジットが呆れ口調で言った。
「いや、アランが僕の眼鏡を――」
「元はと言えばマキアスが変なことを言うから――」
「こういうのはどっちも悪いの」
ズパッと両成敗の捌きが下される。二人は押し黙るしかなかった。
「そっちは私がやるから、アランはソース見てて。マキアス君は人数分のフォークを出してくれるかしら。お願いね?」
最後の一語の圧力には従う以外になく、二人はすごすごと場所を移動した。
「確かにブリジットさんって、料理中は妙な迫力があるな」
「だろ? 見ろよ、あれ」
ブリジットは手早くパスタを引き上げると、ほとんど手元を見ないでパスタ麺を皿に盛りつけていく。目測とは思えないほどきっちり三等分だ。
マキアスはアランに視線を戻す。言われた通り、彼は黙々とソースを温めていた。
「アランは将来尻に敷かれるタイプだな」
「はあ? マキアスは眼鏡を割られるタイプだろ」
「どんなバイオレンスな奥さんだ……」
審判はステファン、ミリアム、マルガリータだ。一年生二人は部長ではないが、主催側の調理部のメンバーとして、試合に負けた場合はその後の審判も務めることになっていた。
まごついている青チームはよそに、完成した赤チームのカルボナーラが審判席に並べられていく。
「わあ、カルボナーラだ!」
ミリアムが目を輝かせた。ステファンも揺らぐ香りを吸い込み「うーん、なんてまろやか匂いなんだ」と、まだ食べてもいないのに幸せそうな表情をしている。
「まあ、私が作った方がおいしいと思うけどお。ぐふっぐふふっ」
腹の底が震えるような重低音を響かせて、マルガリータはフォークを手にした。
「ん! やっぱりおいしいよ!」
口の周りがソースで汚れるのもかまわずに、さっそくミリアムが勢いよく食べ進めていく。
「アクセントの黒コショウが引き立つね。これは脇役ではなく伏兵。ポーンではなくビショップだ」
ステファンはそれっぽいコメントを光らせた。チェス部らしいというべきか、よくわからない例えだったが。
「じゃあ、わたしもお」
鼻の一息で立ち昇る湯気を吹き飛ばし、マルガリータは細まった目で皿を見下ろした。食事より捕食と言ったほうが似合う光景だ。
観客席から息を呑む音が聞こえる中、マキアスは調理台の近くをうろついていた。
「変だな。見当たらないぞ、僕の眼鏡。この辺の皿の上に置いて冷ましていたはずだが。そういえばここで最後に作業をしていたのはブリジットさんだったような……」
ザスッと鋭い音がした。そちらに目をやると、マルガリータがカルボナーラにフォークを刺し入れたところだった。ぼやける視界だが、さほど距離はないので何とか見える。
「いちいち豪快だな。……いや、さすがにあんな音するか? 皿を貫通したわけでもないだろうに」
フォークがぎゅるりと回転すると、皿の半分以上のパスタが塊となってすくいあげられる。
そこにマキアスは見た。こんもりとひとかたまりになったパスタ球の中に、魂の片割れが銀の輝きを散らせている光景を。
ぎらつくフォークの先端が、パスタにまみれる眼鏡をレンズごと串刺しにしていた。
「ぎゃあああっ!」
それを視認した瞬間にシンクロしたのか、マキアスは胸を押さえて苦しんだ。
ブリジットもその事態には気づいたようで、蒼白になった顔で駆け寄ってくる。
「あ、あのね。私、台の上に並んでたお皿にパスタを盛り付けていったの。アランにお皿を用意してって頼んでたから」
それはマキアスも見ていた。手元を見ない手際がすごいと感心したものだった。
だからだ。盛ったパスタを整える時くらいはさすがに視線を向けただろうが、軽く取り分けるぐらいではわざわざ皿など見なかったのだ。
その結果、眼鏡はパスタに埋もれ、料理の一部として運ばれ、そして今貫かれた。
「ご、ごめんね。なんで痛がってるのかはわからないけれど」
「いや、いい。そもそも無造作に皿に置いた僕が悪かった。台の端にでも置いておけば良かっ……ぐはあっ」
「吐血!? え、衛生兵の方~!」
「いるわけないだろ」
アランが冷静にツッコむ。
最悪の事態は進行中だった。マルガリータの大口の中に、パスタごと眼鏡が消えようとしている。
「やめろおおあ!!」
絶叫するマキアス。時はすでに遅く「はぐむうっ」と、ばくりといかれた。
ゴリゴリ、パキパキ、モシャモシャ、ガタンゴトン、キュイィィーン、ギャリギャリギャリ、ジャキンジャキーン!
工場でスクラップを圧砕するかのような凄まじい破壊音。
「ぐあっ、おうっ、ごはっ、オウッ! オウッ! アオウッ!!」
咀嚼されるたびに、マキアスは地面をのたうち回る。裏側にひっくり返した昆虫のような動きだった。ブリジットは目を背けている。とても正視に耐えないらしい。
「いい歯ごたえだけどお……んんー?」
ぷっと吐き出された小さな銀色が、物悲しく地面を転がった。
マキアスは息も絶え絶えに這い進み、その欠片をそっと拾い上げる。どこまでも報われない男の眼鏡が報われないことになった。
「あ、ああ……僕の……」
それ以上は言葉にもならない。
本当に小さなレンズのひと欠片だった。
「僕は何度失えばいい。何度悲しみに暮れればいいんだ……。誰か教えてくれよ」
答えられるはずもなく、ブリジットとアランは沈黙を返すのみだった。
赤チームがカルボナーラを出して八分が経過。あと二分以内に青チームも料理を出さなければ、自動的に負けが決まってしまう。
だがアリサたちの調理台ではアクシデントが発生していた。
「下にいったわ! そっちにもいる!」
「無理、無理ですわ!」
時間も無かったので、ザリーガを生け簀ごと二人がかりで調理台まで運んで来たのはよかったが、最後の最後でフェリスが足を滑らせて、生け簀を横転させてしまったのだ。
ぶちまけられる水と大量のザリーガ。
捕まえようとしたが、この赤い奴らは活きがよかった。動き回るわ、飛び跳ねるわ、おまけにはさみがあるから迂闊に手も出せない。
パスタは茹で上がって皿に乗せているものの、まだ一切の味付けをしていない。仮にザリーガを捕まえたとしても、調理する時間はすでになく、そもそも調理法自体見当もついていなかった。
「だいたいアリサ、どうしてザリーガをパスタに入れようと思ったんですの!?」
「だ、だって見たことあったのよ。パスタの上に大きなエビが殻つきでそのまま乗っかってるのを」
「それは私も知ってますけど、これザリーガですわよ」
「代用はできると思ったの!」
珍しくフェリスに詰められるアリサは、半分泣きそうになりながらザリーガを追いかける。
あと一分。
そこに見かねたブリジットがやってきた。
「えーと、フェリス。よかったらこれ使う?」
そう言って差し出してきたのは、鍋からマキアスの眼鏡をつかみ取ったトングだった。
「いいんですの?」
「ええ、さあ早く」
あと二十秒。フェリスは片っ端からザリーガをトングで捕獲して、皿の上にぼんぼんと乗せていく。
「お待たせしました!」
ラスト五秒のカウントダウンが始まったタイミングで、アリサがぎりぎり卓上に皿を滑り込ませた。
「ザ、ザリーガパスタです」
息を切らして料理名を告げると、ステファンの表情が絶望に染まった。
望まぬ実食が始まる。ただ望んでいないのはステファンだけらしく、調理部の二人は平然とフォークを用意していた。
「あはは、ザリーガが乗ってる」
ミリアムはパスタに絡まるザリーガを皿から助けだすと、テーブルの上で遊ばせていた。
「ふん! ふうん!」
一方でフォークを逆手に構えたマルガリータは、逃げ回るザリーガを捕食しようと躍起になっている。フォークが狙いを外すごとにテーブルに穴が空き、ズドンズドンと轟音が辺りを揺らしていた。
「やっぱり食べなきゃダメなのか……」
ステファンはフォークでパスタをかき分けていく。
パスタがもそもそ動いていた時点で想像はしていたが、やはり中にはそいつがいた。
しかしそのザリーガの殻は赤ではなく青色だ。体表は美しく輝き、身も一回り大きい。
「これって、ブリザリーガかな?」
蒼耀石を体内に取り込んだザリーガの変異種で、それゆえの輝きと冷気をまとっている。
ひとまずブリザリーガを皿の端に避けようとした時、フォークの先端ががっちりとはさみこまれてしまった。
「うわ、ちょっと……ひっ!?」
急に体がこわばる。はさみを介し、フォークを通り、凄まじい冷気がステファンに伝わっていた。
一気に血管が収縮し、筋肉が動かせなくなる。フォークを手離すことさえできず、ビキビキと凍結していく体組織。
遠のく意識の中で、彼は巨大なチェス盤の上に立ち尽くしていた。同じ盤上に乱立する駒の数々が、彼を睥睨している。お決まりのイメージの世界だ。
「ここは……? うわああ!?」
地響きを立てて、ポーンが前進してくる。続いて予想だにしていない位置からナイトが跳躍してきた。転げ回るようにそれらを回避したが、残った逃げ道を直進してきたルークに塞がれる。
明らかにステファンを追い詰めてきていた。
「まさかこの駒たちにとって、僕は敵陣のキングなのか……!?」
囲まれて、足を止めたマスの対角線上にクイーンが控えていた。もうどこにも逃げ場はない。
自嘲気味に肩をすくめてみせる。
「チェックメイトされてしまったよ。ふっ……絶望しかないな」
猛スピードでクイーンが盤上をスライドしてくる。悪態をつく暇もなく、女王の一撃がステファンを屠った。
ステファンは凍りついて動かない。
審判はミリアムとマルガリータで行うことになったが、ミリアムは先のカルボナーラでお腹がいっぱいで、アリサたちのパスタには手をつけずにザリーガと戯れてばかりだった。
その為、判定はマルガリータが一手に担う。
「おバカさんねえ。審判の意味分かってるのお?」
「だってカルボナーラがおいしかったんだもん」
「むふん、最初からまともな判定なんて期待してないけどお。まあ、確かにおいしかったのはカルボナーラねえ。ザリーガには結局逃げられちゃったし」
マルガリータは勝利チームのボタンを押す。カルボナーラの赤ではなく、ザリーガパスタの青を。
「な、なんでだ!」
「納得いかないな」
「うそ、味は良かったはずよ」
憤る赤チームの三人に、マルガリータは物憂げなため息をついてみせる。強烈な風圧に、彼らは足を引かずにはいられなかった。
「だってあなた達の料理、中に異物が入ってたじゃない。あんなのを食べる人に出したらダメよお」
クッキーに得体の知れないものを混入させる女が、腹立たしいくらいの正論を吐く。
しかし眼鏡を混入させた経緯を正当化させる理由などあるはずもなく、マキアスたちは悔しげに下を向く。
三人の視線の先で、のそのそとザリーガが歩いていた。
●
「おいおい、マキアスたち負けちまったぜ」
「まずいな。異物混入とか言ってたが」
「遺物の間違いだろ」
青チームのリィンとクロウは選手控え席から立ち上がる。
対戦相手は赤チームのエマとフィーだ。緊張している様子はなく、一回戦で感覚をつかんだのか、むしろ落ち着いているくらいだった。
「油断はできねえな。うし、調理台に向かうか」
「いずれにせよ全力で行くだけだ」
審判は園芸部のエーデル、釣皇倶楽部のケネス、文芸部のドロテだ。
エマたちも調理台についたのを確認して、トワが試合開始を告げる。
「それじゃあ、Bブロック準決勝始めるね。テーマは“魚”! ……なんだけど」
手元の進行表に目を落としつつ、トワは続けた。
「この試合はちょっと特別な趣向があるみたい」
ほどなく中庭の池に釣り糸を垂らす対戦メンバーの姿があった。
「釣れないな」
「釣れねえ」
「釣れませんね」
「釣れないね」
それぞれが口々にぼやく。適当にばらけて釣竿を構えているが、誰一人として当たりは来ない。
これが“特別な趣向”だった。食材置き場の水槽はすでに撤去されていて、お題の魚は自分たちで釣らなければならない。
さらにシビアな追加条件もあった。最初に釣り上げた魚だけしか料理に使ってはいけないというものだ。
たとえばカサギンを釣ってしまったら、それで審判三人分をまかなわなくてならない。かなり運に左右されるルールである。
クロウが言った。
「お前は釣りが得意じゃねえのかよ」
「そう言われても、こればかりは魚次第だからな」
かぶりを振るリィン。その直後、釣り糸の先の浮きがぴくぴくと動いた。水面に細かな波紋が拡がっていく。
「お、来た!」
「マジか! 絶対離すなよ!」
竿を構え直すリィンは、慎重にリールを巻いていく。
引っ張り引っ張られを繰り返した果てにようやく釣れたのは、背びれも尾ひれもない、一見すると蛇のような細長い魚だった。
「こ、これイールだ」
「また変なもん釣っちまったな。ま、どうとでも調理してやろうぜ。じゃあな、お二人さん」
まだ当たりのないエマたちにわざわざそう言って、クロウはグラウンド側へと戻っていく。
フィーが不機嫌そうに、その背中を一瞥した。
「性格悪いよね」
「今に始まったことじゃありませんから。でも困りました……」
赤チームの釣糸は動かない。
この趣向はその場で得た食材をどう捌くかという即応力が試される。即興料理のお題としては秀でている反面、運が悪ければ容易くタイムオーバーしてしまうところに難点があった。
「リィンたちが手のかかる料理を作ってくれればいいんだけど」
「見慣れない魚でしたから、多少は手こずるかもしれませんが……」
「結局こっちが釣れないと意味ないしね。……ねえ、銃撃ってみようか?」
「さすがに魚には当たらないと思いますよ。それに驚いた魚が逃げちゃいます」
「そうじゃなくて。池周りの石段とかに当てるだけ」
「ああ、なるほど」
着弾で生まれた強烈な振動を水中に伝わらせることで、魚たちの動きを一時的にマヒさせようというのだ。実際の漁で行うことはないが、川遊びの類としてそういうものがあるとはエマも知っていた。
「でもルール違反になるような……」
「銃弾を撃ち込んじゃダメってルールはないと思うよ」
「それはそうでしょうけど。うーん」
エマが悩んでいると、すでにフィーは双銃剣を水面に向けていた。
「ち、ちょっと待って――えっ? きゃあああ!?」
発砲の寸前で、エマの竿に反応があった。ピクリと浮きが動いた次の瞬間、糸がちぎれんばかりの勢いで釣竿が引っ張られる。
「フィーちゃん手伝って下さい!」
「了解」
二人がかりで竿を持ち、持って行かれまいと必死にこらえる。
劣勢と見るや、すかさず銃口を池に向けるフィーをその都度なだめつつ、奮闘することしばし。
エマはようやくリールを巻き切り、かかった魚を引き上げることに成功した。
その魚を見て、二人は目を丸くする。
「で、どうやって捌くんだよ?」
「いや、これは俺にもわからない」
バケツの中でうねうね動くイールを眺めて、二人の動きは止まっていた。
そもそも捌こうにも、まな板の上に乗せることすらままならない。体の表面がぬるぬるで、全くつかめないのだ。
厄介なものを釣ってしまったと困り果てる二人の耳に、忙しない足音が聞こえてきた。
エマとフィーだ。二人してバケツの取っ手をつかみ、大急ぎで調理台へと走ってくる。
「ちっ、来やがったか!」
「委員長たちは何を釣り上げたんだ……あっ!?」
それはひょこりとバケツから顔を出していた。つぶらな瞳に透き通るような青い体表。両端が上がった大きな口は愛嬌さえ感じられる。
「オ、オオザンショだあっ!」
忘れようもない、あの悲劇。苦過ぎる記憶がフラッシュバックし、リィンは絶叫した。
審判席ではケネスも頭を抱えてうなだれている。
「まずいぞ、まずいぞ……!」
「大丈夫だ。あんな大物はあいつらだけじゃ捌けねえだろ」
「そうか、それはそうだな。だけど俺たちも早く調理に取りかからないと」
しかし二チームそろって調理は難航していた。
「これは触れませんね。どうしましょう」
「委員長に任せるよ」
「任されても……」
バケツのオオザンショに手を伸ばし、また引っ込めるを繰り返す赤チーム。
「いちいちヌメヌメしやがって」
「ダメだ、つかめない」
イールのぬめりに打ち勝てず、お手上げ状態の青チーム。
「ふむ、困っているようだね」
このまま膠着が続くかと思われたその時、深く穏やかな声が染み渡る。いつの間にか、学院の用務員が双方の調理スペースの間に立っていた。
「ガ、ガイラーさん!?」
「やあ、エマ君」
エマの狼狽はよそに、ガイラーは気やすい挨拶をした。二チームをそれぞれ見比べると、にたりと薄く笑う。エマにとってその笑みは不吉の象徴だった。
「見れば魚の調理に手こずっている様子」
「いえ、あのっ!」
「無論、君の力になるのはやぶさかではないし、元々そのつもりだった。しかし状況が変わった」
「状況?」
ガイラーはゆったりと歩き出す。歩先が向いた先は赤チームではなく、青チームの調理台だった。
リィンたちの前まで来ると、ガイラーは再びエマに振り返る。
「エマ君の成長のため、私はあえて君の敵となろう」
ケインズ同様、ガイラーもリィンたちのエントリー用紙に、勝手に自分の名前を書き込んでいたらしい。二人の言及も巧みな話術でかわし、すんなりとアドバイザーとしてのポジションを手に入れている。
「さあ、リィン君。存分につかみたまえ」
「いや、ヌルヌルでやはり取れませんが」
「ヌルヌルかね?」
「はい」
そこはかとなく満足そうなガイラーは、今度はクロウに言った。
「クロック。君もやりたまえ」
「さっきからやってるっての。ていうかクロックってなんだよ」
クロウも結果は同じだった。イールは手の中をぬるりと抜けていく。
「どうかね?」
「だからヌルヌルで取れねえって」
「ほう……」
自然な動作で、ガイラーは二人の間に割って入った。
「実にいい。では三人がかりでつかもうじゃないか」
「最初からそうすりゃいいだろうが。やるぞ、リィン」
「わかってる。呼吸を合わせよう」
バケツの中に三人の手が伸びた。
必然それぞれの横幅は狭まり密着する形になる。リィンとクロウの双方からぎゅうぎゅう押されるガイラーは、切ない声をもらしていた。
「おお……エーックス……エーックス……」
不健全ど真ん中の恍惚の表情で、妖しく身悶える。道を踏み外した用務員の姿がそこにあった。
熱い吐息が吐き出されるのを直視したエマは、がっちりとフィーの目を手で押さえ込む。教育上不適切とのマザージャッジだ。
「えと、見えないんだけど」
「フィーちゃんは見なくて大丈夫です。ガイラーさん……やはりそれが目的でしたか」
「それ、とは何かね?」
イールを捕まえながら、ガイラーは横目をエマに向ける。この衆人環視の中で明言できず、彼女は声を詰まらせた。
「まだ君は自分を偽るのかね。素晴らしい才能を持っているというのに」
「だからそれは勘違いです」
「やれやれ」
しわ深い指が指し示したのは、フィーの目を覆うエマの手だ。
「見えなければ無かったことになるのかね。視界を隠せば消えたことになるのかね。違う。それはいつだってそこにある。認めるか、認めないか。それだけなのだよ」
「ですからですね。もうどこから説明すれば……」
「隠し事に後ろめたさを感じるのは理解できる。だがいつかは打ち明けなくてはならない。大丈夫。艱難辛苦を共に乗り越えた仲間たちなら君を受け入れるはずだ」
見当違いのくせに、この用務員はなぜか真に迫る言葉を吐く。
「ふふ、書く仕事が隠し事とは、洒落が利いているじゃないか」
「上手いこと言えてませんから……」
ガイラーの腕に力が入った。
「さあリィン、クロック。大詰めと行こうじゃないか」
二人にそう告げ、一息にバケツから両腕を引き出す。計六本の腕ががっちりとイールをつかみ上げていた。
「う、うそ」
「一歩リードということでいいのかな?」
「フィーちゃん、こっちも負けていられませんよ!」
「んー……んー……」
ぎゅーと手に力がこもる。目元を覆われたままのフィーは苦しそうにうめいた。
やはり料理を先に出したのは青チーム。万能と称していいのか、料理にも熟達していたガイラーの協力もあり、どうにかイールを調理することができたのだった。
「これがイール? すごくいい匂いだね」
ケネスは物珍しげに、運ばれてきた料理を眺めていた。釣りはするものの、その場で食べることはまずないので、イールを口にするのは実は初めてである。
「イールのかば焼きだ。食べてみてくれ」
リィンが自信ありげに言う。
開きにしてタレを塗りながら、炙り焼きにした一品だ。
「うん、おいしいよ。脂の乗り具合も最高だ。イールがこんなにおいしいなんて知らなかったな」
舌鼓を打つケネスに、ガイラーが歩み寄る。
「その魚は今が旬だからね。味わい深いのは当然だよ」
君と一緒でね、と付け加えられた一語に、ケネスは戦慄を覚えた。調理者ではなく捕食者の目をしたのも一瞬、「お嬢さん方も遠慮なく食べて欲しい」と穏やかな笑顔をドロテとエーデルに向ける。
「あら、おいしいわねえ」
それを口に運んで、おっとりとエーデルは微笑んだ。彼女の場合、何を食べてもこの反応が返ってきそうだ。
その横でドロテは、なぜか怪訝そうな顔を浮かべている。
「どうしたよ。口に合わねえか?」
「いえ、ただ。盛り付けが気になって……」
「変か?」
クロウが皿をのぞくと、少し長めにそろえられたイールの切り身が二つ、交差するように盛り付けられている。
「……この盛り付けをしたのは誰?」
「誰ってそりゃあ――」
リィンとクロウの視線がガイラーに注がれる。
「用務員さんでしたか。どうしてこの形に盛りつけたんですか?」
「お気に召さなかったかな。特に深い意味はないが」
「……この魚をバケツから取り出す際、あなたはある言葉をつぶやいていました。どうしてその言葉を口にしたんですか?」
「絆の刻印だからね」
「えっ」
ガイラーは審判席に背を向けた。
「さて。ここから私の出番はないようだ。君たちの健闘を祈っているよ」
「ま、待って下さい! あなたは――」
がたりと椅子を倒し、勢いよくドロテは立ち上がる。しかしすでにガイラーの姿はそこになかった。
「うそ……そんなことあるわけが……でも、まさか」
状況が理解できず、呆然とするリィンとクロウ。そんな二人はよそにして、一陣の風がドロテの頬を撫でていく。
一方のエマたちは、未だオオザンショをバケツから出せないでいた。時間だけが刻々と過ぎていく。
「リィン。俺らが料理を出してから何分経った?」
「もうすぐ七分になる」
「てことはあと三分で俺らの勝ちが確定だな。もう調理の時間は残ってないし、あの訳のわからん実験器具を使う時間も無い」
「ああ、そうだな……いや、待ってくれ。気になることがある」
あの日。とある九月の調理室。生きたままのオオザンショが皿に乗せられ、眼前に運ばれてきたあの日。さすがに生では食べられないと理由付け、皿を引き下げてもらったが、その直後にエマは何をした。
煮るでも、蒸すでも、茹でるでもなく、時間のかからない調理方法がまだ残されているではないか。
悪い予感が電流となって背を走り、バケツから顔をのぞかせるオオザンショを見た。
つぶらなその瞳と目があった。きょろりと動いた黒目が何かを訴えて――
――タスケテ
「や、やめっ」
それは幻聴だったのか。とっさに差し伸べた手の先で、ごうと火柱があがった。制止の声を発しかけた時には、オオザンショはバケツごと激しい炎に巻かれていた。
エマの丸眼鏡が陽炎に揺らぐ。
――ワタシヲタスケテ
「あ、あああ!」
今度は確かに聞こえたその声。もう全てが遅いと分かる。それでも、と前に出ようとした体を、クロウが羽交い絞めにして止めた。
「ダメだ! お前まで巻き込まれるぞ」
「だ、だけどオオザンショが助けを求めてる」
「あいつはもう助からない。助からないんだ」
言い聞かすような口調で告げ、拘束の力を強くする。クロウの手も震えていた。
二人が悔しげに見守る中、オオザンショの魂は遠いところへ消え去っていった。
ついに赤チームの料理が運ばれてきてしまった。
主審席に収まるケネスは、眼前の黒い塊をまじまじと眺める。
これは何なのだろうかと、皿を一回転させてみたが、すでにどっちが前で後ろかも定かではない。
「その、料理名を聞きたいんだけど」
「えっと……焼きオオザンショです」
エマのあまりにもあんまりなネーミングに、ケネスは二の句を継げなかった。ドロテも困惑しているようで、さらに問う。
「エ、エマさん? これは一体?」
「……焼きオオザンショです」
繰り返されるその言葉。
一方、この後に及んでもエーデルは困り気味に微笑んで、焼きオオザンショをフォークでぷすぷすとつついている。
「フィーちゃん、これどこから食べたらいいのかしら?」
「どこからでも」
ケネスは生唾を飲み下した。
食べたくなどない。だが責任の放棄はできない。一年とは言え、自分も間違いなく部長。
さらにレイクロードの名を背負う以上、それがどのような形式であっても、魚絡みの勝負から逃げ出すことなどあってはならない。このオオザンショを魚という括りにしていいのかが、果てしなく微妙であったとしても。
「とりあえず、食べようか」
「そうですね」
「わかりました」
三人同時にスプーンを口元まで運ぶ。
震えていた手のせいか、ケネスのすくった黒いブツだけが皿の上にこぼれ落ちてしまった。
それをすくおうとしている内に、左右の二人が先にブツを一口食べた。
ドロテの背がびくんとのけぞる。
「男子が、いっぱいの男子が。く、く……くんずほぐれつ……うふ、うふふ」
空を振り仰いで、何やら嬉しそうに笑っている。瞳孔が開いて、焦点も定まっていない。
「ふふ……きれいなお花畑。これフィーちゃんが育てたの? そうなの? がんばったわねえ。あら、あっちの川の向こう岸にもきれいなお花畑が……」
ぶつぶつとひとり言をもらしながら、エーデルも笑っている。ここではないどこかに旅立っていた。
二人そろって、意識が飛んでいる。
ケネスの額から大量の汗が噴き出す。
こんな状態を目にした後で、これを食べることはできない。そもそも食べなくてもいい。食べ比べるまでもなく、リィンとクロウの青チームの勝ちだ。
「ケネス」
ケネスの指先が青いボタンに伸びかけた時、フィーが彼を呼び止めた。彼女は抑揚のない声音で言う。
「ケネスも食べて」
「は、はい」
それは条件反射。許された返事はイエスのみ。従うしか選択肢はない。嫌なはずなのに、しかしどこか心の高揚を感じながら、ケネスはスプーンを口に入れた。
ドクンと心臓が高鳴り、急速に意識が薄れていく。
「あ……う……」
はっと気づくと、ケネスは水の中にいた。水底は深く、水面は遠い。息は苦しくない。ただ流れがあるようだった。
漠然とここは川だと理解した時、視界の端に大きな影が映り込んだ。凄まじく巨大な、魚の影。
悲鳴を上げて、その場から逃げようとする。しかし泳ごうとするも、体が思うように動かない。ふと背中に違和感を感じて、腕をうしろに回してみる。何か細いものが水面に向かって伸びていた。
糸。これは釣り糸だ。
先ほどの巨大な影がまた迫ってきた。大口をあけて、一直線に。
「う、うわああああ!」
自分が餌になるというおぞましい幻視の中で、ケネスは暗い闇の中へ吸い込まれていく――
「あ、あ、ああ……」
うつろうケネスの手が、得体の知れない力に誘われ、赤チームのボタンへと伸びていく。
「ケネス! 気をしっかり持つんだ!」
叫ぶリィンの声で、わずかに手が止まったが、それも一瞬のことだった。再び手が動き出す。
「の、呪いじゃねえか、こんなもん」
クロウが言う。
エマは肩を落とした。
「やっぱり焦がし過ぎましたか。おいしくはないですよね……」
「でもケネス、こっちのボタン押そうとしてるけど」
焦がしただけでこうはならない。確実に負の物質変化が起きていた。
ケネスの手が赤いボタンに触れる刹那、
――ソッチハチガウ
ケネスの体をすり抜けた小さな意志が、末期の言葉を彼の心に伝える。
びくりと指先が震え、つかのまにケネスの瞳に色が戻った。
「あ、あうう」
力を振り絞り、腕の軌道を無理やりに変え、命がけで青チームのボタンを押し込んだ。
「ケネス……!」
「男だぜ、お前は」
目を見開いたまま気を失っているケネス。そっとそのまぶたを閉ざして、二人は厳かに黙祷を捧げた。
●
A、Bブロックそれぞれの準決勝が終わり、あとは決勝を残すだけとなった。
これまでに行われた試合の顛末を、屋上で見ている者たちがいた。あの黒づくめの二人だ。
喧騒の絶えないグラウンドを見下ろすのをやめると、二人は互いに目配せをする。
会話はなかった。身振り手振りのジェスチャーもない。ただうなずき、黒づくめたちは踵を返した。まもなく決勝戦が開始されようとしてる。
観客のざわめきが止まらない。
それは決勝を前に気が高ぶるとか、そんな理由ではなかった。試合数を重ねる毎に激化していく料理対決。審判たちはことごとく違う世界へと旅立って行く。料理を実食するわけではないとは言え、果たして自分たちはここに座ったままでいいのか。こんなに近くにいて大丈夫なのか。
そんな感じのざわめき――というよりはどよめきである。
「やるぞ、リィン」
「ここまで来たからには必ず勝つ」
確かな実力と危なげない料理によって、見事勝ち進んできたリィン、クロウ組《バレット&ソード》
「なんか緊張するわね」
「がんばりますわ」
謎の強運と危うい料理によって、審査員をのきなみ煉獄送りにしてきたアリサ、フェリス組《特攻お嬢様》
ついに両チームが相まみえた。
ギャラリーに蔓延する不安を払拭するかのように、無理やりに声を張ったトワが決勝のラウンドコールを行う。
「決勝戦の審判は教官方にお願いしています。どうぞ!」
審判席についたのは、サラ、ハインリッヒ、そしてナイトハルトだった。
「……あんた達、頼むわよ。ほんと頼むわよ」
「ふん、もったいない自由行動日の使い方をしおって」
「学院長との打ち合わせに来ただけなのに、なぜこのようなことになったのだ……?」
そんな審判たちに申し訳なさそうにペコリと頭を下げたあと、トワはマイクを掲げた。大きく息を吸って、彼女は声高らかに宣言する。
「それではこれより決勝戦を開始します。料理テーマは――」
~後編に続く