虹の軌跡   作:テッチー

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Intermission~ルビィと彼と

 眠たくなったので目を閉じる。外はもう真っ暗だ。

 リィン達も今日は遅くに帰ってきたかと思ったら、早々に自分達の部屋に戻ってしまった。

 僕はこの場所が好きだ。陽だまりのように暖かくて落ち着く。どんどん眠たくなってきた。もう首を上げるのも億劫だ。たまらず大きく口をあけてあくびをしてみる。

「あら、ルビィったらおねむの時間? まあ、あの子たちも今日は学院長からのお達しで、夜の学院調査とかやって帰ってきたし。今頃いい夢みてるのかしらね」

 僕の名前を呼んで、頭をなでてくれた。うん、やっぱりサラの膝の上が一番落ち着く。そういえば、僕に名前をくれたのもこの人だった。

 眠ってしまう前に思い返してみた。ほんの数日前の事だけど、僕にルビィという名前がついた日のことを。

 

 

《☆☆☆Intermission~ルビィと彼と☆☆☆》

 

 

 物心ついた頃にはケルディックっていう町で暮らしていた。

 暮らしてたって言っても勝手に住み着いていただけだけど。でも色んなお店がたくさんあったから、適当に歩き回っているだけでも、ご飯にはあまり困らなかった。

 僕にはお兄さんが三人(僕らの数え方は”匹”っていうらしいけど、まあいいか)いて、お母さんもいた。

 でもお父さんのことは覚えていない。僕らのご飯を街道に探しに行ったまま帰ってこなかったらしい。

 ある時、雨がたくさん降って、お店もやっていない日が続いた。だからか、その日は母さんがとってきたご飯が少なくて、お腹を空かしていたのを覚えている。

 だから、みんなで街道にご飯を探しにいった。でもやっぱり行くべきじゃなかったんだ。父さんが帰ってこなかった理由がわかった。

 僕たちはそこで怖いものに襲われた。僕より一回りも二回りも大きい獣。

 唸り声が聞こえたと思った時にはそいつは牙を剥いて、僕の方に走ってきていた。逃げなきゃっていうのは分かってたけど、足がすくんで動けなかった。

 でも兄さん達と母さんが前に飛び出して、僕をかばってくれた。

 母さんが、逃げなさいと大きな声で叫ぶ。

 どこへ? どうやって? 聞くことも出来ず、とりあえず僕は反対側へ、道が続く限り必死に走った。

 ずいぶん走ったところで後ろを振り返ると、あの怖い獣は追いかけて来ない。安心して僕はその場所で母さん達を待つことにした。でもどれだけ待ってもみんなが僕の所に来ることはなかった。

 戻ろうか? 迷っている内に、今度は別の怖い獣が襲ってきて、僕はまた走る羽目になった。

 どんどんケルディックの町から遠ざかってしまう。休まる時はなかった。襲われるたびに、物陰や草木に隠れたりを繰り返して何とか逃げ続ける。

 怖い獣は僕に追いつけない。そういえば兄さんに、お前は末っ子だけど一番足が早いと褒められたことがあった。

 どれだけ走ったかも覚えていない。朝から走って、昼を過ぎた頃。街道を抜けた僕は知らない街に来ていた。

 落ちついた雰囲気の町。ずっと住んでいたケルディックの町は、市場から聞こえる人の声がうるさいくらいだったけど。

 市場……で思い出す。今日は朝から何も食べていないんだった。

 お腹は減っているけど、どこで食べ物を手に入れたらいいか分からない。

 ふらふらとあてもなく歩いていると長めの坂に差し掛かって、道の先に視線を向けると、大きな建物と門が見えた。

 何か食べるものがあればいいな。

 門をくぐって、しばらく道なりに進んでみる。

 人間はそれなりに多かった。みんな同じような年頃で、同じような服を着ているけど、よく見ると服の色が違う。

 一番多いのが緑色で、次が白色。なんだか遠くで荷物を運んでいる人がいるけど、その人は他と違って赤色の服を着ている。でもやっぱり見つかるのは怖いから、僕は隠れながら進むことにした。

 しばらくすると、とても大きくて開けた場所に出た。そこは今まで通ってきた石畳じゃなくて、一面砂だ。

 ここは今ほとんど人がいない。少し休みたかったので、適当な木陰を探していると、後ろから誰かの気配を感じた。

 一瞬びくりとして、とっさに振り返る。だけど言葉が耳に届いたのは、その動きよりも早かった。

(何だお前、迷い込んだのか?)

 耳、というより頭に直接届いた感じだ。

 改めて声の主を見上げると、緑色の学生服をきた男の子が、僕のそばに立っていた。短い髪と真面目そうな顔立ち。腕には何か腕章のようなものが巻かれている。

 普通の人間に見えたけど、僕にはわかった。

 ”彼”はもう、この世界に生きていない。

 

 ● ● ●

 

(俺も犬と話したのは初めてだ)

 僕が人間と話したのは初めてだと言うと、彼はそう答えて笑う。笑顔を見て、不安が薄れていくのを感じる。

 この人は怖くない。

 でもどうしてここにいるの? そう聞くと彼は、

(俺はこの学院から出られないんだ。やり残したことがあって。でも、もうどうにもならないって分かってるんだけど、それでもこの場所に居続けている。まあ、面白い奴らがいるし、とりあえず退屈はしていないが)

 彼の言うことはあまり理解できなかった。でも彼が望んでここにいるわけじゃないと感じた。

 そんな時、彼はふと何かに気付き、(ほら、面白い奴らの一人だ)と視線を別の方に向けた。

 あれはさっき荷物を運んでいた赤い服の人だ。何だかこっちに慎重に歩いてきている。

(俺の姿は見えていないからな。お前を捕まえようとしてるんじゃないか?)

 捕まえる。じゃあ、あの人は怖い人だ。もう近くまで来ていたこの赤服の人は、変な構えを取ったまま目を閉じてブツブツつぶやいている。

(な? 面白いだろ。次にそいつが目を開けたら、思い切り吠えてやれ)

 言われた通り、目の前の人が目を開けたのと同時に吠えてみた。すると驚いたみたいで、相手の動きが一瞬だけ止まった。

(今だ。走り抜けろ!)

 彼がそう言い、先に走り出す。僕もすぐ後に続いた。後ろから「……っ! しまった。不意を突かれて――」という声がしたけど、すぐに遠ざかって聞こえなくなる。

 そこから僕は彼が言うところの、『学院』の中を走り回ることになってしまった。

 

 ● ● ●

 

 さっきの広い場所を抜けて、今は違う建物の前にいる。怪しい赤服の男の子は追って来てはいないみたいだ。とりあえず喉がカラカラだ。そう思う僕の耳に、ぱしゃんと水の音が聞こえた。よかった、水が飲めるんだ。

(おい、そっちは……まあいいか)

 彼が扉を開いてくれる。と言ってもドアノブに手をかけることなく、彼が視線を向けるだけで扉は勝手に開いていった。不思議だ。

 そのまままっすぐ進むと開けた場所に出る。視界いっぱいに広がる一面の水があった。

(プールだ。お前まさか泳ぎたいのか?)

 泳ぎたくなんかない。水が飲みたいんだ。さすがにこんなには飲めないけど。

 プールの外には長い髪の女の人が、水の中で泳ぐ別の人に「いい感じだな、モニカ。もっと力を抜いて泳ぐといい」と声を掛けている。まだ僕には気付いていないので、そっと回り込んで静かに奥に進む。

 この辺りでいいかな、さっそく飲もう。この水、少し変な臭いがするけど、まあいいか。

(あ! その水は飲むな!)

 舌をつけようとした時、彼が慌てたようにそれを止めた。驚いた僕は、足を滑らせ水に落ちてしまう。

(おいおい、大丈夫か!? プールの水は消毒液入ってるから、飲んだら腹壊すぞ?)

 先に言っておいて欲しい。とりあえず、落ちたところからは段差がありすぎて上がれないから、プールの端側――段差が少なくなっているところを目指して泳ぐ。

(はは、頑張れよ)

 こんなに泳いだのは初めてだ。結構しんどい。さっき扉を開けたような力を使って、僕を浮かすこととかできないのかな。あ、でもそんなことしたらあの人達に見つかっちゃうか。

 そんなことを考えた時「って、あれモニカじゃないから! 犬だから!」と声が響く。結局見つかったらしい。早くここから逃げなきゃ。

「あたしに任せて!」

 ブロンド髪の女の子が、プールから上がったばかりの僕に走ってくる。

 濡れて重くなった体を振って、水を飛ばそうとした時、(もうちょっと待て)といつの間にか横に立っていた彼が言った。

 そんなこと言ってたら捕まっちゃう。女の子はもう正面に回り込んでる。

「よーし、観念なさい」

 両手が迫る。(今だ、水を弾け)と彼が叫び、僕は激しく体を震わした。

 体中の水滴が勢いよく飛んで、女の子を水まみれにすると、彼女は悲鳴を上げて尻もちをついた。

 その隙に僕は走り、続けてやってきた男の子の足をすり抜け、出口へと向かった。今度はさっきの青髪の女の子が道を塞いでいる。

(よーし、今度も思い切り吠えてやれ。さっきよりも大きくな?)

 さっきから彼の言う通りにしていると上手くいく。僕は大きく息を吸って強く吠えてみる。

 青髪の女の子は「きゃっ」と叫んで体を逸らした。道が開け、出口までは一直線。一息に走り抜ける。

 どこにいても追いかけられてしまう。でも今回も彼のおかげで逃げ切れたみたいだ。結局水は飲めなかったけど。 

 

 ● ● ●

 

 疲れた。お腹減った。喉も乾いた。

 いつもならこの時間は午後のお昼寝タイムだったり、兄さん達に遊んでもらったりしている。

 みんな今頃何してるんだろう。心配してるかな。ううん――もう僕にも分かってた。

 多分、二度と会えない。

 急に悲しくなって、寂しくなって、鳴きたくなった。

(お前、腹減ってるんだろ? 少し進んだら学生会館ってとこがあるから。厨房にでも入って適当なもん持ってきてやるよ。だから、顔上げて歩きな)

 もしかして、元気づけようとしてくれたのかな。

 ありがとうと伝えると、彼は(元生徒会長のやることじゃないよな)と苦笑いを浮かべていた。

 さっきの建物を出て、ほんの少し進んだところで、ちょっとした休憩場所を見つけた。木陰もあってベンチもある。ベンチの下なら見つからずに休めるかも。

 そう思ったけど、ダメだった。

 二つあるベンチに向かい合うように座って、ちっちっと舌打ちを鳴らし合っている男の子が二人いる。

 怖い。二人の雰囲気も最悪だ。木の上の小鳥さん達が困って、みんな空に避難しちゃってるよ。

 小鳥会議が聞こえる。数分後に上空から、フンの一斉投下を行うみたい。それまでにここから動けばいいんだろうけど、大丈夫かな? 

「あ、犬だ」

 反対側の花壇のそばから、そんな声が聞こえた。振り向くと銀髪の女の子が僕を見ている。

 見つかったと思って少し焦ったけど、彼女は僕を追って来ようとはしなかった。とりあえず、ほっとして足早にその場を去る。

(はは、あいつらも面白いだろ?)

 彼はそう言って笑うけど、何が面白いのかわからない。そういえば、今の人たちもみんな赤服だった。

 気のせいかな。彼は笑っているけど、その表情はどこか悲しそうに見えた。

 

 

 彼の案内で、僕は学生会館という建物の一階、食堂の片隅に隠れている。

 明日から「なつやすみ」とかいうのがあって、今日は人が普段よりだいぶ少ないらしい。

 おかげで誰にも見つからずにここまでこれた。ここに来る途中、脇道もあって、そっちの方が静かな感じだったから行こうとしたら(旧校舎か。ここには入らないほうがいい)と彼が強く止めたので、そのまま真っ直ぐ来ることになった。

 多分僕一人だったら、そっちに入っていたと思う。道が封鎖されてたので、どのみち入れはしなかったのかもしれないけど。

 彼は厨房に入って、何か食べるものを探してくれている。でも間が悪いことに、

「ふっふっふ。ワンちゃん、みーつけーた」

 見つかってしまった。

 顔を見ると、プールで水びたしにした女の子だった。やっぱり怒ってる。

 口は笑ってるけど、目が笑っていない。後ろには赤服の怪しい男の子と、さっきベンチに座っていたブロンド髪の男の子もいた。

 あっという間に、また追いかけっこが始まった。女の子の足の間を潜り抜けると、「きゃあ!」と叫び、僕をキッとにらむ。

「リィン! 捕まえるのよ、早く!」

 言うが早いか、残りの二人が同時に飛びかかってきた。

「この犬っ!」

「相変わらず素早いな……」

 でも捕まらない。その場から素早く動いて二人をかわす。僕の逃げ回り方もだいぶ上手くなってきたみたいだ。

 赤服の三人は、机や椅子を動かしながら僕の逃げ道を塞いでいく。さっきかわしたブロンド髪の男の子は「――俺はグラウンドから馬を用意してくるぞ」なんて言っていた。

 どんどん逃げ道がなくなってくる。まだ、抜けられる隙間を見つけて僕はそこに向かう。二階に続く階段だ。

「な、なな、なんですか、これは」

 僕の行く手を遮るように、階段から一人の女の子が降りてきた。眼鏡をかけて、おさげ髪で、やっぱり赤い服を着ている。

 何で赤服の人達は邪魔をするんだろう。僕はただご飯が食べたいだけなのに。

「わわん!」

 今までみたいに大きな声で吠えると、眼鏡の女の子は「ひゃっ!?」と怯んで、手に持っていた紙を一枚はらりと落とす。反射的にその紙をくわえると、階段を上ることはあきらめて、僕は出口に向きを変えた。でもドアは閉まっている。これじゃあ出られない。

 気が付いたら、ドアのそばに彼が立っていた。

(騒がしいと思ったら、そいつらまた追ってきたのか)

 彼はつぶやくと、扉を開いてくれた。

 ようやくその建物から無事に出ることができた。僕がご飯を食べられるのはいつになるんだろう。

 

 ● ● ●

 

(それで、このあとはどうするんだ)

 彼はそんなことを聞くけど、僕にだって分からない。

 追いかけられてばかりのここには、もういたくなかった。

 さっきの食堂を出て、道なりに少し進むと最初に入ってきた門が見えた。どうやら一週して戻ってきたらしい。

 もう帰ろう。そう思って近づいていくと、門は閉まっていた。どうしよう、これじゃ外に出られない。

 後ろを振り向くと、やっぱり赤服の集団が追いかけてきている。……なんだか、数増えてない?

(こっちに来い)

 彼は正面の一番大きな建物に向かった。

(本校舎だ。……あいつら別にお前を悪いようにはしないと思うぞ。多分、助けようとしているんじゃないか?)

 そんなの嘘だ。僕はもう一人なんだ。助けなんかいらない。

 彼が本校舎と言った建物、その正面の扉は開いていた。

 入口の横には、気難しそうなおじさんが立っていたけど、僕には気付かなかったみたいで、すんなりその建物の中に入ることができた。

(ここからは生徒達に見つかっても仕方ないだろ。ところで、いつまでそれを持ってるんだ?)

 言われて気付いた。眼鏡の女の子が落とした紙を咥えたままだった。

(まったく……ああ、いい場所教えといてやるよ)

 何かを思い出したようで、彼が案内してくれたのは一階の階段。その横の奥まったスペースだった。

(変わってないな。ここは俺がこの学院に通っていた頃に見つけた場所でさ。何か気に入って、意味なく色んなものを隠してたよ) 

 懐かしむような口調だった。

(とりあえず、そこにそれ置いていけ。邪魔になるだろう)

 言われた通り、紙をその場所に置く。

 甘い香りが鼻先をくすぐった。匂いは二階からだ。

(ん? この香りは……多分調理室からじゃないか)

 やっぱり何か食べたい。連れて行って欲しいな。見上げると、彼は肩をすくめて少しだけ笑った。

(今日の俺は案内役だ。犬とはいえ、会話をするのも久しぶりだしな。お前の行きたいところに付いていってやるさ)

 なんだろう。こう思うのは間違っているのかもしれない。この人は優しくて、頼れて。兄さんみたいだ。

 

 

 調理室という場所に案内してもらって、確かにそこには食べ物、クッキーが見えたけれど、僕がそれを口にすることはなかった。鼻で臭わなくても、本能で分かる。あれは絶対に食べちゃだめだ。

「あらーん。可愛い子犬ちゃんね」

 野太い声が響いて、ズシンという足音と共にそれはやってきた。多分あの危険なクッキーを作った人で、そしてそのクッキーよりも危険だと感じる。

「……クッキーと一緒に子犬を包んだら、女の子らしくてかわいいわ。きっとヴィンセント様もお喜びに……」

 やたらと横幅が広いその女の子は「ムフォッ!」と口の端を吊り上げると、丸太のような腕を僕に伸ばしてきた。

(こ、こいつは本気だ。逃げろ!)

 初めて彼が慌てたような声を上げ、同時にそれが本当に危機であることを察して、とっさに一つ隣の部屋に逃げ込んだ。

 色んな絵がたくさん置いてあるところだった。隠れられそうなところはあるかな。

 部屋の中を見回すと、絵を描いている背の高い男の人に目が留まった。この人も赤い服を着ている。さっき追いかけてきた人達の仲間かもしれない。

 そうだ。仕返ししちゃえ。

「ん? 犬がなんでこんなところに――」

 こっちに気付いたみたいだけど、そんなのお構いなしだ。

 ピョンと飛び跳ねて、その手に大事そうにもっていた小さなチューブを前足ではたき落す。すぐにそれを咥えて、僕はその部屋を飛び出した。

「お、俺の調合したノルドグリーンが!」

(何やってるんだ。早く逃げろ)

 忘れていた。僕は追われているんだった。そして廊下で再び遭遇する。

「出てきたわね。さあ、可愛さだけを抽出してエッセンスにしてあげる」

 確かクッキーに僕を添える話だったはずだけど、いつの間にかクッキーの材料にされてない? 

 彼女は先を塞ぐように立っているので、もう調理室の方へ引き返すしかない感じだ。

 方向転換して、その場から逃げ出す。もちろん調理室には入らない。そこで捕まったらそのまま材料にされちゃう。

 そのまままっすぐ走り、突き当りの扉へ入った。

(って、こっちは音楽室だ。行き止まりだぞ)

 そんなの知るわけない。中には僕が初めて見る楽器がいっぱいあって、ちょうど数人で音楽を演奏しているところだった。

 また赤い服がいる。もうこうなったらついでだ。僕はそのまま中に走って、赤服の小柄な男の子の前まで行くと、またピョンと跳ねて、小さな台に乗っている紙の一枚を咥えた。先に持っていたチューブが落ちそうになったけどなんとか堪える。

「わっ!? い、犬が! あ、僕の楽譜!?」

 紙にはいっぱいおたまじゃくしの絵が描いてあるけど、なんだろうこれ。まあいっか。  

 部屋から出ると、あの女の子が追いかけてきていた。ズシン、ズシンと地鳴りのような足音を立てながら。

「ムフォッ、ムフォッ」

 すごい迫力。とりあえず一階まで戻ろう。僕は全力で走った。

 

 

 一階の階段横のスペース。さすがにあの女の子も気付かなかったみたいだ。ばるるる、と馬の鼻息みたいに激しい彼女の呼吸が、その場から遠ざかっていく。

(いや、危ない所だったな。今はあんな生徒もいるのか……)

 ほんとだよ。こわい所だねと言うと、彼は首を横に振った。

(いや、だから楽しいんだ。個性の違う奴らと、遊んで学んで、成長して、そしていつか卒業する。……俺が最後までできなかったことだ)

 なんで、彼は最後までそれができなかったんだろう。僕にはわからない。

(そうだな。やっぱり、少しうらやましい)

 気付いた。

(俺は自分がここにいることを……誰かに気付いてもらいたいんだろうな)

 彼の足元から、うっすらと黒い煙のようなものが立ち上っている。これは霧?

(どうして俺はあの時……教官も止めてくれたのに……)

 表情も強張って、さっきまで兄さんみたいに感じていたのに、まるで別の人みたいだ。

(俺は――)

 黒い霧が、彼の体を包んで、影のようになってしまった。

 今日ずっと一緒にいたのに、全然今までそんなこと感じなかったのに、今はこの人がすごく怖く感じる。

 ――逃げろ

 それは多分、霧に包まれる前に彼が言った言葉。

 体の全部が震えていたけど、僕はその言葉を聞いて、やっと動き出せた。ここから一番離れた所へ。

 こんなに走るのは今日が初めてだ。

 

 

 階段を駆ける。僕の体では一息に上るのはさすがに無理だったから、一段一段よじ登るようにして、ひたすら上を目指した。

 彼は一体どうしてしまったんだろう。一人になった途端、すごく心細い。

 全ての階段を上りきったら、扉があった。偶然にも開いていて外に出ることができた。

 太陽が照り、風が吹き抜ける。そこは屋上だった。これ以上はどこに行くこともできない。とりあえず隠れられるように隅っこまで歩いていく。

 屋上には誰もいない。

 しばらくすると、扉の辺りからひそひそと声が聞こえた。振り向かなくても、匂いで分かる。あの赤服の人達だ。一、二、三……全部で九人だ。

 とりあえず気付かない振りをしてみる。

 例えば、全員をかわして扉まで逃げたとしても、今度は下に降りないといけない。それは少しこわい。どうしよう。

 考えている内に、赤服の人達が先に動き出した。

 突然音楽が屋上に響き渡った。さっき音楽室でみた小柄な男の子だ。なんで急に楽器を弾くの? でも何だか落ち着く音だ。

 彼らは次から次に、僕の周りで何かを始める。

 眼鏡の女の子は何か食べ物を置いてくれた。食べていいのかな? でも同じく眼鏡をかけたお兄さんが横に置いた黒い飲み物は、怪しいから近づかないでおこう。

 そうこうしていると、僕に話しかけてくる人が増えていく。もう何が何だか分からない。

 でも不思議だ。何をしているのかは分からないけど、一生懸命に何かをしようとしてくれているのはわかる。

 あまり怖くない。もしかして、優しい人達、なのかな。

 足が赤服の人達に向きかけた時、僕は見てしまった。

 扉付近に立ち尽くす黒い影を。

 彼がそこにいた。

 だめだ。行けない。僕はまた飛び跳ねて屋上を囲っている段の上に飛び乗った。そしてそこから見えた景色に、僕の動きは止まった。こんなに高いところにきちゃってたんだ。足がすくむ。 

 普段なら、それでも大丈夫だったと思う。

 黒い影を見たから、怖くて、だから突然吹いた風にも負けて、体が外側に流された。

 今日一番最初に会った男の子が、わき目も振らず僕に向かって走ってきて、手を伸ばす。

 ああ、やっぱり彼の言った通り、僕を助けに来てくれてたんだ。

 伸ばした指の先が僕に触れたけど、間に合わず体は離れていく。

 その男の子の横をすごい勢いで駆け抜けた人がいた。屋上から飛び出ながら、僕を脇に抱きかかえると、その人はあっと言う間に体をひるがえして、屋上の中に着地した。

 視界はぐるんぐるん回りっぱなしだったので、正直何が起こったのかはわからない。

 屋上に戻った時、黒い影は扉の近くからいなくなっていた。彼の姿はどこにも見えない。

 僕を抱えたまま、その女の人は「ま、事情は後で聞くとして、とりあえずみんな頑張ったみたいね?」と笑顔を見せていた。

 この人の笑顔は安心する。まるでお母さんみたいだ。

 

 その日の夜から、赤服のみんなと同じ家で暮らすことになった。

 どれくらいぶりかもわからないご飯を食べさせてもらったあと、僕を屋上で助けてくれた人――サラの膝の上で一休みする。

 そして僕はサラからルビィという名前をもらった。

 

 ● ● ●

 

 目が覚めた。僕はいつの間にかサラの膝から下ろされて、ソファーで眠っていた。サラも自分の部屋に戻ったのかもしれない。毛布を掛けてくれたみたいだけど、多分これはサラじゃなくてシャロンかな。

 そうか、あれからもう三日か。今の穏やかな時間が嘘みたいに感じる。

 まだ夜中だし、もう一回眠ろう。

 そう思った時だった。寮の中では嗅ぎ慣れない匂いが、鼻先をなでた。いや、嗅ぎ慣れないだけで、知らないわけじゃない。

 この匂いは、彼だ。

 首を上げて、匂いの方向に視線を向ける。やはりいた。玄関に彼が立っている。

(三日ぶりか。ルビィって名前をもらったんだな)

 言いながら、彼は僕の所まで歩いてくる。一瞬どきりとしたけど、すぐに心配ないとわかった。彼を覆っていた黒い影はもうどこにも見えないからだ。

 あの時の、お兄さんみたいな彼だ。そういえば、学院の外には出られないんじゃなかったっけ?

(もう大丈夫だ。俺が縛られていたものを、彼らが振り払ってくれた。行こうと思えばいつでも女神の所へ行けるさ)

 彼は手に持った一枚の用紙に目を落とした。それは多分彼にとって一番大切なもの。

(今日はお前に謝りに来た。あの時は怖がらせて悪かったな)

 僕は彼に出会わなかったら、Ⅶ組の皆とも出会えなかった。謝られることなんて何もない。

 じゃあ、もう女神様のところに行っちゃうの?

(いや、まだ行かないことにした。俺は最後に彼らに恩返しがしたい。それを済ませてからだろうな)

 恩返し?

(まあ、今すぐってわけじゃないが。ただその時が来るまでは、あの学院を陰から支えようと思う。元生徒会長として、な)

 よくわからないけど、少しの間はここにいるんだね。僕もここにいられるのは少しの間だけだから。

 リィン達が話しているのを聞いたけど、僕はⅦ組の皆とは二ヶ月しか一緒にいられないらしい。

(そうか。先のことなんて誰にも分からない。この先、俺とお前がどうなるかなんて、余計にな。だから――)

 力強い口調で、彼は続けた。

(ここで過ごす時間を大切にするといい)

 そう言い残すと、彼は消えてしまった。きっと大事な場所へ――学院に帰ったんだ。

 彼の言う通りだ。

 この先何が待っていても、今を大切にしないと、きっと後悔してしまう。リィン達、サラ、Ⅶ組のみんなを取り巻く大勢の人。

 先の事を考えると、やっぱり不安だ。

 それでもいつか。何気なく、取り留めのない出来事が、いつか宝物に変わる日がきっとくる。その時まで――

 彼が導いてくれた、僕とⅦ組の日常は、まだまだ続く。

 

~FIN~

 

 


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