☆後日談・おまけ☆
『そんなⅦ組の一日 ~リィン』より
後日談――《記憶はクッキーと共に砕けて》
あれから一週間後。
記憶を失ったり、取り戻したりを繰り返した結果、ようやく全てのピースがそろった。
うっかり胸をさわってしまったことをラウラに謝り、チェスをバラバラにしたことをマキアスに謝り、何かと面白がっていたシャロンさんに苦言を呈し、俺はあの日に起こった事件の清算を一通り済ました。
もっともラウラには『もういいから決して人に言うな。あと絶対に思い出すな』と何回も念を押されたが。
前者は守れるが、後者はちょっと自信がない。
――それはさておき。
一通りの清算はしたのだが、一つ、まだ解けていない誤解があった。
それを解く為に、今俺は学生会館――生徒会室前に立っている。
「トワ会長、いるかな……いるな」
気配を感じる。間違いなく生徒会室にいる。どうやら一人だ。
軽く深呼吸してから、コンコンとドアを軽く叩いた。
「トワ会長、今よろしいですか? リィンですが」
返事がない。
「………」
まだない。
「………」
永遠とも思える沈黙の果てに、
「……どうぞ」
トワ会長の声が聞こえた。声音はやや低い。
「し、失礼します」
緊張を感じながら生徒会室に入り、後ろ手でドアを閉める。正面の会長専用机に、書類の束を両脇に置いたトワ会長の姿が見えた。
「どうしたの? リィン君」
「あの、トワ会長。以前寮を訪ねてくれた時の事なんですが」
忙しなく動いていたトワ会長のペンが、ピタリと止まった。
「実はあれは――」
「あはは、私びっくりしちゃったよ。でも節度は守らないとダメだよ?」
トワ会長は笑顔で言う。しかし違和感があった。何というか、その笑顔がこわい。
「あれは不可抗力といいますか……決して他意があったわけでは」
「……どういう不可抗力が働いたら、ベッドに寝ているリィン君の上に女の子が三人も乗り掛かるのかな?」
そう、これなのだ。解きたい、いや、解かねばならない誤解は。
あれから一週間。あの日の記憶が曖昧だったこともあって、トワ会長とまともに話をするのは、今日が初めてだったりする。
しかし声音を聞くに、どう考えても怒っている。いや、そこまで露骨ではないが、ご機嫌はよくないようだ。
「いえ、説明すると非常に長くなるのですが……やむを得ない事情というか、不幸が重なったというか」
「そうなんだ。じゃあ仕方なかったのかな」
「そ、それは」
言葉に詰まる。はい、仕方なかったのです、と答えていいのだろうか。いや、よくない。絶対によくない。それくらいは俺にだってわかる。
考えろ、考えるんだ。トワ会長は何にご機嫌ななめなんだ。
「その……」
謝るべきはなんだ。不可抗力か、不幸な事故か、不注意で風邪を引いたことか、それとも何か、別の何か――
その時、唐突に脳裏をよぎったのは、床に落ちた小さな包み袋。
咄嗟だった。考えもせず、気付いた時には口に出していた。
「せっかく作ってくれたトワ会長のクッキーを、食べられなくてすみませんでした」
な、何を言ってるんだ、俺は! これ以上怒らせる前に早く前言の撤回を!
「あ、いや、今のは違――」
「ふふっ」
焦り、言葉が切れ切れになる俺を見て、トワ会長は口の端から笑みを吹きこぼした。
「別に怒ってなんかないよ。だって風邪引いてたんだよね。後からシャロンさんに聞いたの。それでも女の子三人に介抱してもらうのは、手厚すぎる気がするけど」
「いえ、それは」
「不可抗力?」
「ええと……はい」
「むー」
ぷくりと頬を膨らましたトワ会長は、席から立ち上がって戸棚へと向かった。何かを持って俺の前までやってくる。
「はい、リィン君」
促されるままに手を差し出すと、トワ会長は俺の手の平に、小さな包み紙をちょこんと乗せた。
「これは、あの時のクッキー?」
「ううん、新しく焼いたの。この前渡せなかったからね」
「わざわざまた作ってくれたんですか?」
「やっぱり渡せなくて残念だったし。というかリィン君からクッキーのことを言ってくれるなんて思わなかったよ」
「トワ会長のクッキーは楽しみにしていましたから」
「えへへ、ありがとう」
にこりと微笑んで、トワ会長はティーカップを二つ用意した。
「お仕事も一段落したし、少しお茶にしようかな。リィン君もほら座って」
「ええ、ご一緒させて頂きます」
こうして胸のつかえも取れ、俺はトワ会長のクッキーにありつくことが出来たのだった。
味も文句なしに美味かった。
淹れてくれた紅茶も飲み終わり、クッキーもあっという間になくなり、雑談の最中――
「でも風邪なんて大変だったね。倒れ込むなんてよっぽどだよ?」
心配そうにトワ会長が言った。
「いえ、あれはラウラに突き飛ばされたので」
ん、どうして俺はラウラに突き飛ばされたんだ?
「え、ラウラさんに? またどうして……」
えーと、なんでだったか。ああ、そうだ。
「うっかり胸をさわってしまって――」
言ってから気が付いた。そして全てが遅かった。
「……リィン君?」
「ち、違います。トワ会長、違うんです」
彼女は笑顔をみせた。
「不可抗力?」
「もちろんです」
だらだらと背に冷や汗が流れる。
トワ会長はカップを机に置き、ふうと一息つく。どうやら分かってくれたらしい。
「トワ会長、それで」
「そんな不可抗力ないんだからーっ!」
俺の言葉を大声でかき消し、泣き叫びながらトワ会長は生徒会室から走り去ってしまった。
「ふええ! リィン君のばかー!」
「ト、トワ会長! 待ってください」
後を追おうと生徒会室から走り出る。
学生会館二階で活動している文化部の面々が、部室から総出で顔を出し、訝しげな表情で俺を見つめていた。
写真部のレックスは、固まる俺をバシャバシャとカメラに撮り、オカルト研究会のベリルは、その様子を水晶玉越しにニヤニヤとのぞいてくる
廊下の奥では、文芸部の委員長とチェス部のマキアスが肩を並べ、ダブルで眼鏡を光らしていた。
「ふ、不可抗力なんだ」
改めて言葉にすると、何とも空しい響きだった。
残念だ。こういう時に限って、記憶は飛ばないらしい。
☆END☆
『グランローゼの薔薇物語』より
後日談――《ネームオブローズ》
とある日の放課後。
学生会館二階、第二チェス部の部室にて、ユーシスとマキアスが机を挟み、対面して座っている。
珍しいことに、マキアスのチェスの相手をユーシスが務めていた。
今日は部長のステファンは来られず、対局相手を探していたマキアスは、食堂で出くわしたユーシスに望み薄ながら声をかけたのだが、たまたまヒマだったのか意外にもすんなりと応じてくれた、という流れだ。
ちなみにマキアスが黒、ユーシスは白の駒である。
チェスを始めて、およそ二十分。室内には早くも不穏な空気が漂い始めていた。
「君も分からず屋だな」
黒のルークが三マス前進する。
「その言葉はそのままお前に返してやる」
白のビショップが、右斜め前に四マス動いた。
「だから違うと何度も言っているだろう」
黒のポーンが一マス前進。
「どう違うのか答えろと言っているのだ」
白のキングが一マス後退。
さっきからこんな調子である。駒を動かす度に、お互いに苦言を呈し合っている。それでチェスを指す手が鈍らないのは、双方さすがと言ったところか。
諍いの原因は一つ。
「あいつの名前はマルマリータだ」
「ガリガリータだと何回言えば分かるんだ」
これである。
先日のマルガリータ騒動のことだ。二人は彼女の名前を間違って覚えてしまったのだが、ふとしたことからそれを指摘し合い、加えて指摘を認めないことに端を発する――まあ、いつもの小競り合い、意地の張り合いだった。
「やつのどこがガリガリなのだ。どう見ても丸まっているだろう。マルマリータだ」
というユーシスに対し、
「見た目で名前を決めるんじゃない。それに、なんだか木材とかでもガリガリ食べそうじゃないか。ガリガリータだ」
などと言って引き下がらないマキアス。
「お前こそ偏見ではないか」
「君ほどではない」
チェスの勝負と同じく、議論は平行線をたどっていた。雰囲気的にチェスに勝った方が正しいという空気にもなりかけている。
にわかに白熱しだす白黒の応酬。
「冷静さを欠いたな。そのポーンは討ち死にだ。マルマリータに特攻したお前のようにな」
「ふん、そのビショップに退路はないぞ。ガリガリータに追い詰められた君のようじゃないか」
「マルマリータだ!」
「ガリガリータだ!」
二人の勢いそのままに、敵陣に攻め込む駒と駒。戦局は攻撃特化の殴り合いに発展していた。
唐突にぬっと黒い影が二人を覆い、急に視界が暗くなった。
訝しげに、視線をチェス盤から影が伸びてきた方へ移す。
「あらああん? 名前を呼ばれた気がしたからやってきたんだけどお?」
いつの間にか机の横に立っていたその人物を見るなり、マキアスとユーシスはそろって絶句した。
驚愕、戦慄、畏怖が二人の背を走る。
「グフフ。私の名前をそんなに情熱的に呼ぶなんて……困るわああ」
ビリビリと腹の底に響く野太い声。窓ガラスが微震し、駒がカタカタと揺れた。
肉々しくたたずむ巨いなる肉塊――麗しのマルガリータ嬢が二人を見下ろしている。
「なに……!?」
「う、うわ……」
言葉にならない絶望感。あらん限りに頬を引きつらせる二人など意にも介さず、マルガリータは懐から何かを取り出した。
真っ赤にペインティングされ、バラの意匠を施されたクイーンの駒。
「でも、二人とも間違っているわあ。教えて差し上げてよ。私の名前は――」
彼女は口の両端をにたりと持ち上げた。扇情的に、色気たっぷりにその名を口にする。
「マルガリータよお」
同時、チェス盤のど真ん中に振り下ろされた赤きクイーン。ずどんと衝撃が走り、他の駒はことごとく部屋中に吹き飛んだ。唯一、かろうじて盤上に残っていたのは、お互いのナイトだけである。
「ぐああ!」
「がはっ!」
駒と同様に吹き飛び、背後の壁に叩きつけられるユーシスとマキアス。
肺の空気が絞り出され、嗚咽交じりに顔を上げた二人が見たものは、邪悪に口元を歪めるマルガリータが、ズシズシと近付いてくる姿だった。
「んふふふう。ヴィンセント様ほどじゃないけど、よく見たらあなた達も結構いい男ねえ? 特に眼鏡のあなた」
乙女の熱視線がマキアスを射抜いていた。
「そいつは今絶賛売り出し中だ。好きにするがいい」
「お、おい!?」
「グフフッ」
肉厚の二枚貝から、よだれが滴った。
「俺は馬の様子を見に行かねばならん。大至急の最優先事項だ。では失礼する」
「な、今日は用事はないって言ってたじゃないか!?」
「明日の昼は俺がおごってやる」
「待て! 答えになっていないぞ!」
ユーシスは毅然とした態度でスタスタと部屋を出る。扉を閉めると、足音は駆け足で遠ざかっていった。
残されたマキアスとマルガリータ。
「やめろ、やめるんだ」
マキアスの懇願など風と受け流し、マルガリータは身を屈める。
「ムーッ……」
と溜めて、
「フォッ!」
で跳躍。
「うわああああ!」
そして絶叫。
盤上の赤いクイーンが倒れ、黒いナイトに覆いかぶさる。
彼らは恐怖と共に刻み込まれた彼女の名前を、この先二度と間違えることはなかった。
☆END☆
『A/B 恋物語』より
後日談――《雨音のセレナーデ》
その日は午後から雨だった。
「困ったわ。傘持って来なかったし……」
本校舎、正面エントランスの中から、ブリジットは降りしきる雨と、灰色がかった景色を眺めていた。
雨足はだんだんと強くなり、降り止む気配は一向に感じられない。
「困ったわ」
もう一度呟き、辺りを見回してみる。吹奏楽部の練習後で、時間は十九時前。
受付のお姉さんも含め、周りには誰もいない。遠くで用務員のガイラーが、各教室や窓の施錠確認に回っているくらいだ。
急な雨だったので、傘を持っていた吹奏楽部の仲間は一人としておらず、エリオットとミントも先ほど、ずぶ濡れを承知でそれぞれの寮に走って帰っていった。
「仕方ないか。……うん」
ブリジットも覚悟を決めた。正門を出て坂を下り切れば、貴族生徒専用の第一学生寮はすぐだ。もっともこの雨では寮までの距離など大した問題ではない。十秒も外に出れば、あっという間に濡れネズミである。
息を吸って、
「えいっ」
掛け声と一緒に、外に飛び出ようとした瞬間、
「ブリジット?」
背後から名前を呼ばれて、ブリジットは足を止めた。
「あ、アラン」
振り返ると、いつの間にかアランが立っていた。相変わらずの真っ直ぐな眼差しで、ブリジットを見返している。
「アランも今帰り?」
「さっき部活が終わってさ。ブリジットもか?」
「ええ、でもこの雨だから困ってたの。フェンシング部の人達は大丈夫なの?」
「ロギンス先輩とフリーデル部長は濡れながら帰ったよ。パトリックのやつは執事の人に傘持って来てもらってたな」
「ああ、セレスタンさんね」
面白くなさそうに、アランは肯定した。
「あいつも濡れて帰ったらいいのにな」
「また、そんなこと言って。でもアランも傘持ってるじゃない」
ブリジットの視線が、アランが持っていた黒い傘に移る。
「教室に置き傘してたの思い出して取りに行ってたんだ」
「そうなんだ。じゃあすぐ帰れるね」
「ああ」
じっとアランを見つめるブリジット。
「………」
「………」
しばしの沈黙。ややあって、
「その……入っていくか、一緒に。俺の傘」
「うん、正解」
にこりと微笑んだブリジットは、アランの隣に移動した。
「しっかりエスコートしてね」
「すぐそこまでだろ」
開いた傘の下に二人で収まり、アランとブリジットは外に歩き出す。大粒の雨が傘を叩く音だけが、妙に大きく聞こえた。
「すごい雨だね」
「そうだな」
正門を抜け、長い坂を下りる途中、ブリジットは気が付いた。
「ちょっとアラン! あなたの体、半分傘の外に出てるじゃない!」
「い……いや、そんなことないって」
「そんなことないことないわよ。肩とか濡れてるじゃない!」
逆にブリジットはほとんど濡れていなかった。
「えーと、ほら。ブリジットの制服は白だろ。汚れたら目立つし、その点俺は緑だから――」
「アランのばか」
怒ったような一声と一緒に、ブリジットはアランの顔を見た。
とっさに目を逸らしながら、アランは言う。
「そこまで大きな傘じゃないんだし仕方ないだろ」
「だったらこれでいいじゃない」
言うが早いか、ブリジットはアランを傘の中に引き寄せ、自分もさらに半歩中心に寄る。
「ばっ……!」
「これで二人とも濡れないわ」
小さな傘の下、二人はほぼ密着する形になった。柔らかな香水の匂いが、アランの鼻先をくすぐった。
二人は無言で歩き続ける。どこかその歩調は緩やかだった。
しかし、どんなにゆっくり歩いても必ず目的地には到達する。やがて下り坂は終わり、分かれ道のある開けた場所に出た。
右の道に入れば、貴族生徒の第一学生寮。左の道に入れば、平民生徒の第二学生寮。ここでお別れである。
「じゃあ、気をつけてな」
「うん、傘ありがとう」
別れの言葉を口にするものの、二人の足は中々動かない。
「また明日学院でな」
「そうね」
まだ動かない。
「………」
「………」
少し身じろぎしてから、不意にブリジットが言った。
「ねえ、私お腹が空いたわ。アランは?」
「練習後だし、そりゃ減ってるけど」
雨音が辺りに響く中、ブリジットは静かに言葉を続けた。
「ね、夕ご飯《キルシェ》で一緒に食べない?」
「ああ、いいかもな」
ブリジットは頬を緩め、アランは照れたようにそっぽを向いた。
ようやく二人の足が動く。
右の道でも、左の道でもなく、アランとブリジットは真ん中の道を歩いていった。
☆END☆
『ちびっこトラップ』より
おまけ――《それでも僕らは》
それは不幸な事故だった。不遇のアクシデントだった。
あの日、なぜか彼はモニカと戦う羽目になり、奮戦の甲斐なく敗北した。
そして、意識を失って次に目を醒ました時、同級生であるコレットの隣に半裸で寝かされていた。
半裸と言うのも、水泳部用の水着である。元々アノール川で水練をするつもりだったのだ。別におかしいことではない。しかしその事情がコレットに伝わることはなかった。
盛大に勘違いされた上、彼は思い切り石で殴打され、再び地に沈められることとなる。
女子の情報ネットワークの伝達速度は、導力式のそれよりも早かった。次の日登校した彼を待っていたのは、同じⅣ組の女子達が向けてくる冷ややかな視線と、“ハッスルしたカサギン”などという不名誉な称号であった。
誤解を解こうにも、あからさまに警戒されていてコレットに話しかけることさえできず、あれから十日以上経って尚、未だに状況は改善されていない。
そして今現在、彼――カスパルはまたしても危うい局面に立たされている。
他に誰もいないⅣ組の教室で、コレットと二人きりだった。
「………あの」
「………なに」
淡白で短い応酬は、二人の心の距離そのものだ。
彼は今日、日直である。黒板消しや教台拭きなどをしなくてはならないから、いつもより早く登校したのだ。
(なんでコレットしかいないんだ……?)
そこまで早く来たわけではない。コレットだけしかいないことに違和感があった。
だが誰もいないというこの状況は、彼にとって好機でもあった。
弁明と釈明をするまたとない機会。そう思った時には口を開いていた。
「聞いてくれ、コレット。この間のことは誤解なんだ」
「何が誤解よ! 私、いまだに半裸のカスパルに追いかけられる夢を見て、うなされて夜中に目を覚ますんだから!」
「な、何だよそれ」
他にも空を泳ぐカスパル、冷蔵庫の中にカスパル、まな板の上のカスパル、果ては蛇口をひねればカスパルなど、様々なバリエーションがあったと言う。コレットにとっては悪夢以外の何者でもない。ちなみに登場する彼は、すべて半裸だったらしい。
カスパルが一歩前に出ると、コレットは一歩後ろに下がった。露骨に警戒されている。一定に保たれた距離のまま、カスパルは彼女の誤解を解こうと試みた。
「あの時のことは悪かったと思ってる。だけどわざとじゃないし他意もなかったんだよ」
「だ、だって。あんな恰好でいるなんておかしいじゃない」
「あの時は先輩に泳ぎを教えてもらうつもりだったからさ。水泳部だし水着でいたっておかしくないだろ」
「え……水着?」
きょとんとして、コレットはカスパルを見返した。
その様子を見て理解する。彼女はあの時の自分の恰好を、パンツ一丁だと思い込んでいたのだ。ひどく狼狽していたし、こちらを直視できる状況でもなかったのだろう。なるほど、それは変態扱いされるわけだ。
だがそうと分かれば、あとは事情を伝えるだけでいい。
「ああ、アノール川で泳ぐつもりだったんだけど、同じ部活のモニカに邪魔されて、結局川には入れずじまいで。その上、不意打ちを食らって意識も昏倒して、気付いたらあの場所に寝かされてたんだ」
不意打ちではなく、堂々と対面してからの勝負。昏倒ではなく、完膚なきまでの気絶。なのだが、ありのままを伝えるのはさすがにちょっと恰好悪い。思春期男子の些細な見得だった。
それはともかく。
「え、うそ……? だ、だったら私カスパルにひどいこと――」
誤解が解けかけたまさにその時、教室の扉がガラリと開いた。
『おはよー』
と同じ声音が重なって響く。戸口には揺れる薄ピンク色の髪が二つ――双子姉妹のリンデとヴィヴィだった。同じ顔をしているが、三つ編みを二つ括っているのが姉のリンデで、ストレートが妹のヴィヴィだ。髪以外で見分けるとしたら、ヴィヴィがいつも浮かべているいたずらっぽい笑みくらいか。
そんなヴィヴィは、教室の中のコレットとカスパルを見るなり、その笑みをさらに濃いものにした。
「あれー? カスパル、またコレットに何かしようとしてるの?」
にやっと口の端を緩めるヴィヴィ。せっかく収まりそうだった事態を混ぜっ返そうとしている。悪意ではない。単純に状況を面白そうな方に転がすつもりなのだ。
「い、いや!」
「ヴィヴィ、お前な!」
例の“ハッスルしたカサギン”を命名し、その上、拡散させたのは他でもない彼女だったりする。
トラウマが戻って来るコレット。焦るカスパル。「もう、そういうこと言うのダメだから」とヴィヴィをたしなめるリンデ。どこ吹く風で「んふふ~」とにやつくヴィヴィ。
「違うんだ、コレット! 俺は本当に」
「来ないで!」
たたっと、コレットは背後の窓際まで後退してしまった。一度縮みかけた心の距離が、再び遠ざかっていく。
「今日はやけに騒がしいな」
再び教室の扉が開く。
朝一で眠たげな表情ではあったが、芯の強そうな瞳は変わらない。先の四人と同じく、幸運にもトラップに引っ掛からず、そしてその存在にも気付かずにⅣ組の教室に辿り着いた一人――アランである。
自分の席にカバンを置いたアランは、妙な距離感で静止している四人を見た。
「……何をやってるんだ?」
「ア、アランか。助けてくれ」
カスパルの救援を断ち切るように、ヴィヴィが言う。
「聞いてよアラン。カスパルったらコレットと二人きりなのをいいことに、黒い欲望を爆発させようとしていたのよ。私達が一歩遅れていたら、彼女は肉食カサギンの餌食になっていたわ。んふふ、間違いないわ」
「黒い欲望が何の事かはわからないが、カスパルはそんな奴じゃないぞ」
「アラン……!」
お前と同じクラスでよかった。そう思うカスパルだったが、アラン一人が味方になっても、状況は好転しない。
味方と言ってもアランは状況を飲み込んでいないし、ヴィヴィは虎視眈々と次なる混沌への運びを模索しているし、リンデは軽く注意こそするものの、あまり踏み込んでは来ないし、肝心のコレットは自分への疑いの目を強めている。
そしてその四人の中心で、どこを向けばいいのか分からず、カスパルはただ視線を揺らがせる。
ここに偶然の産物が生まれた。各々の立ち位置である。それをある物に例えるなら、
奥窓付近に立つコレット――エレボニア帝国。
教室斜め後ろの机に腰掛けるアラン――リベール王国。
入口前部ドア近くにいるリンデ――レミフェリア公国。
後部ドア寄りにいるヴィヴィ――カルバード共和国。
そしてその中心にいるカスパル――クロスベル自治州。
西ゼムリア大陸における大国の位置である。
さらにその心境は、歴史の転換点、西ゼムリア通商会議の縮図とも言えた。
「でも、朝に二人ってなんだか……ねえ? カスパルもずいぶん息荒かったし」
小さくせせら笑うカルバードは、腹の底で次の手を思案している。
「本当は何考えてるのよ、カスパル。……許せない」
エレボニアが疑惑に満ちた声を発する。だんだんと声に怒りが乗ってきていた。
「ちょっとヴィヴィ、コレットも落ち着いてよ」
なだめ付かせるレミフェリアだが、強い介入は行わない。
「クラス同士で仲違いしてどうするんだ。まずは落ち着いて話合えよ」
リベールが不戦条約を掲げる。しかし状況の全てを把握していない為、明確な打開案が出せない。
「違うんだ、俺は。ただ泳ごうとしていただけで、何度もそう言って――」
追い詰められるクロスベル。
不意に教室に備え付けてある放送用のスピーカーにノイズが流れた。
聞こえてくるのは息も絶え絶えな、かすれた音声。
『ぐっ……二年のアームブラストだ。端的に今のっ……状況と打開策だけ伝えるっ……!』
ややあって、終始苦しそうな声のまま放送は終了した。何でも白いカードを見つけたら、Ⅶ組の誰かに渡して欲しいとのことだ。
またⅦ組が何かやったのかの訝しむ傍ら、ここに他のクラスメート達が姿を現さない理由を、カスパルはおぼろげながら理解した。
“今の状況と打開策”を伝えてくれるなら、むしろ自分のこの状況を打開して欲しい。
そんなことを考えるカスパルの目に、何かが留まった。
「あれって……」 、
教卓の端に小さなフックがかけてあって、そこに白いカードがぶら下がっている。これが先ほど放送で言っていたカードなのだろうか。放送はこの場の全員が聞いていた。あのカードをⅦ組に届けてくると言えば、ひとまずはこの場を抜けられるかもしれない。
カスパルは動いた。
これ以上ここで話していても、ヴィヴィがいる以上、状況が混ぜ繰り返される。一度全員が落ち着く必要があった。その白いカードはその為の口実にうってつけだ。
教卓に近付き、カードを取る。
「うわっ!?」
急に足元が滑った。床が濡れているようだったがこれは水ではない。ドロドロしてやけに滑る液体。
それの正体に思考を巡らすよりも早く、カスパルの体は大きくバランスを崩していた。体勢を戻そうとはするが、余計につるりと滑ってしまい、前のめりにこけそうになる。
「きゃ!?」
体が向かう先にいたのはコレットだった。絶対に突っ込んではいけない。今度こそ誤解という理由が通用しなくなる。
踏ん張るカスパル。その制服の前側のボタンに、教卓横のフックが引っ掛かっていた。
ボタンが耐え切れなくなり、ブチブチと音を立てて止め糸がちぎれる。制服が勢いよくはだけて、水泳で鍛えた肉体があらわになった。ツルツルとさらに滑る両足。咄嗟に手をかけられる場所を探したが見つからず、激しく動き回る両腕。
アラン、ヴィヴィ、リンデは見た。ハッスルしたカサギンが、コレットに襲いかかる様を。
「い、いやああ!!」
悲鳴を上げながら、コレットは制服の内ポケットから何かを取り出した。
黒みがかった大きな石。カスパルの特攻をかわしつつ、その額目掛けて石のフックカウンターを見舞う。
勢いづくクロスベルに、エレボニアの列車砲が撃ち込まれた。
やたらと硬いその一撃。メコッと響く痛々しい音。そのまま派手に窓を突き破って、カスパルはⅣ組の教室から消えていく。
砕け散る細かなガラス片の中に、
☆END☆
『ちびっこトラップ』より
おまけ――《老獅子へ捧ぐレクイエム》
「ぬううありゃああ!」
豪快な掛け声と共に、ヴァンダイクは力任せに椅子から立ち上がった。
かような接着剤など何するものぞ。凄まじい気勢に、机上の花瓶がビリビリと振動し、花びらの何枚が弾け散った。
やはり花瓶を尿器にするなど出来ない。出来るわけがない。自分の物ならいざ知らず、これはベアトリクスからの贈り物である。齢七十を越えても、帝国男子の意地は衰えていない。女性の厚意を無下にすることなどあってはならないのだ。
尊厳は守るべきものだが、義に殉じる事こそが人の道。
今、ヴァンダイクの背中には、雄々しい筆書きで『漢』の文字が浮かび上がっている――気がしないでもない。
「ぬふうっ!? いかんわい!」
こうしてはいられない。早くトイレへ行かねば。
急ぎ足で廊下に出て、まずその惨状に愕然とした。
愛すべき学院生達が壁や床に貼り付けられ、不気味なオブジェと化しているではないか。「た、助けて……」や「いっそ楽にしてくれ」や「おかあさーん!」だとか、悲痛な叫びがあちらこちらから飛び交っている。
「必ず戻る。それまでは耐えるのじゃ」
助けたいのは山々。しかし、諸々の限界が近い。先に用を済ましてからでないと、救出作業さえ満足に行えそうになかった。
ヴァンダイクは走る。
剣林弾雨の中を駆け抜けたこともあった。斃れた軍友達の背の上を跨いだこともあった。それは辛いことだった。
だが、教え子達の差し出した手を握れないことは、彼にとってそれ以上に辛いことだった。
そして臨界間際の膀胱も、それと同じくらい辛かった。
その二つを同列で比較対象にしていいのかはともかく、鍛え上げられた鉄の肉体でも、研ぎ澄まされた鋼の心でも、こればかりは耐え切れない。
「ぬうう!」
教官室を過ぎ、保健室を越える。
例えるなら、それは決壊寸前のダム。刻一刻とその時が近づいてくる。死神の足音が次第に大きくなっていくのが分かる。
踵を浮かし、背をピンと張った。重心を丹田より上へ。カチャカチャとベルトを緩めながら、バレリーナのように爪先立ちで長廊下を直進するご老体。
「もう少し……!」
見えた。
――パシャ。
焦燥の一歩を踏み出した時、靴裏でそんな音がした。何かを踏んだという感覚がある。足元に視線を落とすと、靴の横から白い液体がはみ出ていた。
「なんじゃ?」
よく見ると、生卵くらいの大きさの白い球が、無造作に辺りに転がっている。それもかなりの量だ。どうやらこれを踏んでしまったらしいと理解したのも一瞬、ヴァンダイクは足が床から動かないことに気が付いた。
初めて見る物体だったが、理屈よりも早く直感が告げる。
これは接着剤だ。
衝撃を受けて割れると中身がぶちまかれ、それが空気に触れて凝固するという仕組みか。貼り付けになった生徒達は、この接着玉の餌食になったのだろう。
「ぬうああああ!」
咆哮が窓を震わせた。
接着剤? だから何だと言うのか。それがどれだけ強固であろうと、足を止める理由になどならない。
床に張り付いた靴はその場に捨て置き、猛々しい一歩を踏み出す。
――パシャ。また踏んだ。
次は靴下が接着する。構うものかと靴下を引きちぎりながら、さらに力任せの一歩を踏み出す。
――パシャ。また踏んだ。
とうとう素足だ。何かを脱ぎ捨てることは出来なくなった。
ならば廊下を破砕してでも前進あるのみ。
「かああああっ!!」
闘気が立ち昇り、両下肢に力が宿る。足元がビキビキとひび割れ、床に稲妻のごとき亀裂を走らせた。
修羅一歩手前。白髪の鬼がそこにいた。
「朝から騒々しいですね。あら、学院長?」
ガラリと保健室のドアが開き、ベアトリクスが顔を出す。
「おお、廊下に出てきてはいかんぞ。貴女まで巻き添えに」
振り返ることが出来ないので、ヴァンダイクは背中越しに言った。
「………」
ベアトリクスからの応答はない。
「どうしたのかね。まさか貴女も何かの罠に?」
「……これが罠というのなら。まさにそうでしょうね」
ひどく冷ややかな声。ヴァンダイクは冷気を感じた。いや、比喩ではない。実際に冷えるのだ。
尻がスースーする。
「な、なんと!」
後ろ手で触って理解した。無い。ズボンが尻の部分だけ破れている。ついでに下着もだ。
なぜ、と考える必要もない。椅子だ。立ち上がった際にズボンの一部を持って行かれたのだ。接着剤が染み込んでいたのだろう。パンツも一緒にだ。
「これは違うのじゃよ」
早くトイレに駆け込みたい。膀胱も理性も限界。しかし彼は森林を抜ける薫風のように、静かで穏やかな声を発した。焦ればそれだけ怪しい目で見られる。窮地こそ平静であれ。これぞ年月を重ねた歳の成せる業。
筋骨逞しい桃尻が、キュッと音を立てて引き締まった。
「ふふ」
微笑を残して、ベアトリクスは保健室へと引き返す。扉がピシャリと閉められた。
「ふう。後で誤解を解かねばならんな」
再び足元の床を砕かんと力を入れた時、保健室から『カチリ』という音が聞こえた。
カチリ、カチリ、カチャリと何かが手際よく組み上げられていく音。
これは……ライフルだ。
「待つのじゃ。話し合う余地は残っておる」
それでも落ち着いた声音で告げる。
音が止まった。安堵して冷や汗を拭う。しかし次の瞬間、
ジャッコン!
勢いのいいポンプアクションの音が響き渡った。
そして『コツ……コツ』とゆっくり廊下に戻って来る足音。死人返しが自分を死人にしようと迫ってくる。
トイレまであと少し。しかし足は動かない。保健室の扉が開く。
――いい人生だった。
全てを悟り、全てを受け止め、彼は安らかに笑う。
応じるように女神が微笑み、天上の門が開き、眩い光が身を包み込み――ヴァンダイクの意識は遠い場所へと旅立っていった。
☆END☆
カサギーン! おじーちゃーん!