9月12日(自由行動日) 12:00 マキアス・レーグニッツ
僕は静かな一時が好きだ。
風の音、鳥の声。心が落ち着く。そしてもっと好きなのが、静寂の中に響くチェスを指す音。
平らかな駒の裏側が、盤上にストンと落ちる瞬間。極限まで研ぎ澄ました思考による至高の一手。
己の心音が大きく感じ、駒を持つ手が脈動しているとわかる。
チェスの面白いところは一人でも楽しめることだ。白と黒の駒をどちらも自分が動かすのだが、もちろん簡単ではない。
要は対局する自分が二人いて、かつ思考を共有していると考えると、決着などつくはずがないだろう。
しかしそれは突き詰めると思考力の向上につながる。より先を見据えた駒の展開が可能になってくるということだ。
「で、次はこうだ。すると、こうなるから――」
第3学生寮、1Fラウンジ。
ソファーに座って、僕は休日を趣味に費やして過ごしている。今日は寮にあまり人がいないらしい。休日はインドア派のエリオットとガイウスも、先ほど外出したところだ。そろって浮かない顔をしていたが、何かあったのだろうか。
ともあれ、人が少なければ、それだけ静かなわけで。
「集中してチェスができるな。次の一手は……と」
さすがは僕だ。そう簡単に切り返せる一手じゃないな。いやいや、そこは僕だ。思いもよらぬ手で逆転してみせる。うむうむ、楽しいぞ。
しかし至福の時間は、突如終わりを告げた。
階段を降りてくる足音が二人分。しかも何やら口論している。
「それで? 昨日ロジーヌさんから何言われてたのよ?」
「いや、今日礼拝堂で子供達に授業してくれないかって。結局断ったんだけどな」
例によってアリサとリィンのペアだ。経緯はさっぱりだが、朴念仁のリィンが彼女の怒りを煽ったのだろう。どうせ自覚もなく。
「何で断ったのよ? ロジーヌさんかわいいのに」
「あ、あの? いや今日は予定があって……トワ会長と」
言ってしまった。露骨にアリサの目つきが鋭くなる。
「あ、あなたって本当に節操がないというか……!」
騒々しい、騒々しい。僕の姿も目に入っていないようだ。
ああ、そうだ。今の内に部屋に戻ってチェスの指南書でも取ってこよう。その間に二人の痴話げんかも収まるかもしれないし。
「ふう、まったく」
ソファーから立ち上がり、自室に戻った僕は愛用している指南書の一冊を手に取った。ずいぶん使い古したが、読み直す度に新たな発見や気付きがあるいい本だ。
すぐにラウンジに行っても状況は変わっていなさそうなので、適当な頃合を見計らって再び一階に向かう。
「よし。アリサもリィンもいないな。ようやく静かに――ん?」
ソファーまで戻り、チェス盤に目を落としたところで違和感。
さっきまでこんな駒の配置だったか? 所々違うし、それに何か変だ。
「あ!? 白のナイトがない!?」
さっきまで確かに盤上にあったのに。
机の下、ソファーの下、雑誌の裏、果てはポストの中まで。探せど探せど見つからない。もちろん予備の駒は持っているのだが、それを使うつもりはない。
あちこち探し回ったところで、
「うふふ、マキアス様。何かお困りでしょうか?」
涼しげな声が厨房から聞こえてきた。
ラウンジまで出てきたシャロンさんが、変わらずの佇まいで一礼してくれる。
「あ、どうも。騒々しくしていてすみません。食事の仕込み中でしたか?」
「今日はお出かけの方が多いので、厨房の片付けをしておりました。マキアス様はお昼はこちらで済まされますか?」
「じゃあお願いしようかな。……じゃなくて、チェスの駒が一つ足りないんですが、シャロンさん見ていませんか?」
「ええ、見ましたよ。白い駒ですね」
あっさりとそう言った。
「え!? どこでですか?」
「ずいぶん前にルビィがくわえて、外に持って行ってしまいましたが」
それなら早く教えて下さい。僕の様子を見て、察しくらいはついていただろうに。この人は本当に何を考えているのかわからない。アリサもかなり振り回されたに違いない。
いや、そんなことよりも。
「だったら急がないと! すみません、探しに行ってきます」
「どうぞお気をつけて、行ってらっしゃいませ」
粛々と頭を下げたシャロンさんは、微笑んで僕を送り出してくれるのだった。しかしどこか含みのある笑顔のような。
この人、絶対楽しんでるだろ。
――13:00
第3学生寮を飛び出した僕は、とりあえず見える範囲で視線を巡らしてみた。
やはり近くにはもう見当たらない。手掛かりはないので聞き込みから始めるしかなかった。
そういえば腑に落ちないことがある。
ルビィが駒を取ったのなら盤上はもっと荒れているはずだが、ずいぶん整っていた。そして所々入れ替わっていた駒の配置。どういうことだろう?
「ひとまず手近な所からあたってみるか」
この辺りからだと、雑貨店や公園か。まずは雑貨店に行ってみる。少し歩けば目的地はすぐだ。
扉を開くと、からんころんと音がした。扉に鈴をくくりつけてあるらしく、音に気付いた店主が「いらっしゃい」と声をかけてくる。
「何かお求めで?」
「いえ、犬を探してるんです」
「うーん、犬は取り扱ってないなあ。帝都のペットショップに行ってもらえると」
「そういう意味じゃなくて! うちで預かってる茶色い毛並の子犬を追ってるんです。さすがに店内には入って来てませんよね?」
「ああ、ルビィちゃんのことか。今日は来ていないな。逃げちゃったのかい?」
待て待て。なぜ雑貨屋の店主がルビィの名前を知っている。それに今日はとは、どういう意味だ。
「最近よく遊びに来るんだよね。尻尾振られるとついつい売れ残った果物とかあげちゃうんだ」
「はあ、そうだったんですか。どうりで……」
最近、一階ラウンジの隅にルビィ専用の昼寝スペースができたのだが、その周りにやたらと食べ物が潤沢にあったのはそのせいか。てっきりみんなが甘やかしているとばかり思っていた。色んなフルーツが集まりすぎて、リゾートみたいになっているのだ。
なんにせよ、ここでは目撃情報は得られなかった。
「すみません、お邪魔しました……ん?」
戸口に向き直ろうとしたところで、店の奥に覚えのあるツインテールが見えた。アリサだ。
彼女も寮を出ていたのか。誰かともめているようだが、今度はリィンじゃない。
薄紫の豊かな髪に赤いリボン、貴族用の白い学院服。確かⅠ組のフェリス・フロラルドだったか。アリサと同じ、ラクロス部だと記憶している。
「こんなのがいいんじゃない?」
「だからこれじゃないですわ!」
あまり関わらないほうがいい気はしたものの、それでも一応声はかけてみる。
「君達、何をやっているんだ」
『きゃあ!?』
二人そろって、体に電気が走ったみたいな悲鳴を上げた。
そこまでびっくりしなくてもいいだろう。女子に悲鳴を上げられると、基本的に男子は傷つくんだぞ。
「マ、ママ、マキアス? どう、したの?」
いやに歯切れが悪い。むしろこちらが聞きたいぐらいだ。
「ちょっと探し物を。そうだ、ルビィを見かけ――」
「っ! あー、早く買い物の続きをしなくちゃ、行くわよフェリス。おじさんお会計!」
「あ! 袖を引っ張らないで下さいな!」
不自然なくらいに急ぐアリサ。
支払いを済ますと二人は足早に店から出て行ってしまった。
一体なんだったんだ?
――13:20
雑貨屋を出た僕は、町中央の広場に足を運んでみた。
ここから見渡せば大体の場所は視界に入るのだが、ルビィの姿は依然として見つけられない。
可能性は二つ。屋内に入っているか、屋外でもここから見えない場所にいるか。
自分で言ってて悲しくなってくる。可能性は二つでも捜索範囲広すぎだろ。結局は町全体だ。しかも学院捜索の時と違って、今回は自分一人なのだ。
とりあえず屋外は一通り洗っておこうと、家屋が立ち並ぶ路地に入る。
憶測は外れて、そこにもルビィはいなかった。
せっかく足を運んだんだ。情報収集がてらに、路地の並びにある一件の店に入ってみる。
「こんにちは」
「おう」
カウンターにいた男性が無愛想な応答で出迎えてくれた。
質屋《ミヒュト》。そして店主のミヒュトさんだ。
「なんか入用か? 手早く済ませろよ」
およそ客にする対応ではないが、ここで購入、交換できる物品は希少価値の高い逸品が多い。正直なところ、かなり助かっている。
ミヒュトさんって口は悪いけど、これで結構面倒見のいい人なんだよな。あと謎の情報網持ってるし。
「ちょっと寮で預かっている子犬を探してまして」
「ちびなら今日は来てねえよ」
ここでもか。あいつの行動範囲はどうなっているんだ。
「あのちび犬、ちょいちょい顔出しにくるんだよ。どこで拾ったのか結構な素材を持ってきやがるから、何気にお得意様なんだぜ?」
「……まさか」
「もちろん、相応のもんと交換させてもらってる。こないだはレアクオーツ持っていってたな。あと中古の戦術オーブメントも」
「うちの犬に変なもの持たすのやめてもらえますか」
「品物を持って来る以上、客には違いねえからな」
「その理屈はおかしいですよ……」
「はっ、ジンゴのとこの犬は店番もするんだ。おかしいことはないだろうよ」
「ジンゴ……?」
知らない名前だ。商売仲間なのかもしれない。犬に店を任せるという発想がある時点で、すでに普通の人ではない気がする。
とにもかくにもルビィの昼寝スペースに、フルーツに交じって見慣れないクオーツがあった理由がようやくわかった。
どんなフルーツがあるのかと覗きに行ったことがあるのだが、いきなり凄まじい数の光軸が防護壁を展開して、あと一歩踏み込んでいれば僕は塵になるところだったのだ。その瞬間にユーシスが舌打ちをしたことを、僕は一生忘れないだろう。
それにしても、ルビィの昼寝スペース、危険すぎる。セキュリティー高すぎる。
しかもサラ教官が近づいた時には、しっかり駆動解除してあるし。したたかな奴め。
犬がアーツを駆動させられるとは知らなかったが、実際に使用してくる魔獣もいるあたり、そこまで無茶な話でもないらしい。
話を聞くに、ルビィは多くの近所の人に知られているとのことだ。その内に僕らよりいい暮らしをしてそうだが――それはともかく。
必ず返してもらうぞ、僕のナイト!
――14:00
一度、中央広場まで戻る。
屋内の線は消して、屋外に集中しよう。それなりに知られているなら、必ず誰かが見ているはずだ。
道行く人に尋ねてみるが、中々情報は得られない。
ルビィは隠れたり、誰かに見つからずに目的地にたどり着く術に長けていた。狙っているのか、天性なのかはわからないが。
あと広場の様子を確認できていそうな人といえば――あの人だ。
「ルビィちゃんなら見ましたよ?」
ガーデニングショップの店主ことジェーンさんが、うんうんとうなずく。ビンゴだ。
園芸部関係らしく、フィーと話している姿を時折見かける。よく街頭で花の世話をしているから、彼女なら広場の様子は目につきやすいと思ったのだ。
「それでジェーンさん。あいつがどこに向かったかわかりますか?」
「学院の方に走っていったわ。ついさっきのことよ」
「ついさっき?」
シャロンさんが言うには、ルビィは僕よりだいぶ早く寮を出たそうだが、ここを通ったのはついさっきなのか?
まあ、どこかで遊んでいたのだろう。ようやく距離が縮まってきた。
「ルビィってこの店にもよく来たりするんですか?」
「私のお話相手にね。お礼に花飾りをあげたりするのよ」
頭にきれいな花の輪をつけて帰ってきたり、フルーツが花でやたらとデコレーションされていたり、あいつのライフスタイルが彩りにあふれ出したこの頃だが、そういう背景があったのか。
ラウンジの片隅がどんどんリゾート開発されていく。
「ありがとうございました。僕は学院まで行ってみることにします」
「そうだわ。ちょっと待って」
彼女は何かを思い出したようで、店の奥から少し長めの黒い筒を持ってきた。
「今から学院に行くのよね? これを園芸部のエーデルさんまで届けてくれないかしら」
「かまいませんが、これは?」
「この筒の中に苗木が入っているの。エーデルさんに頼まれてて。というか昼頃にフィーちゃんが取りに来るはずだったんだけど、中々来ないのよね」
いつものことだけどと笑って、ジェーンさんは肩をすくめた。
「わかりました。確かにお届けしますよ」
手間ではないし、そのくらいはお安いご用だ。
ふとリィンのことを思い出す。彼もこうやって人と話す内に、頼まれごとが増えていくんだろうな。
――14:30
リィンのことを考えたからなのか、僕は彼の姿を見つけた。
学院に行く途中の橋を渡った辺り。川縁でリィンが釣りをしている。
「やあ、リィン。釣れるか?」
声をかけたが、距離があった上に川音もあって、リィンは僕に気づかない。
そういえば昼ごろアリサと口論していた時に、今日はトワ会長と用事があるとか言っていなかったか?
リィンがこっちに気づいた。
軽く手をかかげ、何気ない返事をしたつもりだったのだが、その瞬間――いや正確にはかかげた手に持っていたジェーンさんから預かった黒い筒を見た瞬間、リィンの表情は強張り、青ざめた。
何か叫んでいるようだが、やはりうまく聞きとれない。
「え……おい!?」
そして彼は、川に落ちた。自分から飛び込んだようにも見えた。
実際、落ちた場所からは上がってこず、なぜか対岸まで泳ぎ出している。しかも必死の形相で。
先のアリサといい、リィンといい、僕が何かしたのか? 身に覚えは全くない。
理解に苦しむが、別に溺れているわけでもなさそうだ。手は貸さなくても大丈夫だろう。事情はまた今度聞くとして。
「ん? あ……!」
リィンの行方を目で追っていたら、視界の端で小さな影が動いた。
さっきまで彼が釣りをしていた場所の木の陰だ。あの茶色の毛並み、間違いなくルビィだ。
「ルビィ、僕のナイトを返せ!」
ルビィに駆け寄りながら叫ぶ。その口にくわえていたのは間違いなくチェスの駒――白のナイトだった。
「いい子だ。そのまま動くんじゃないぞ」
ルビィはとにかく足が速い。ここからは慎重に、と思った矢先。一吠えすると、伸ばした僕の手を素早くかわして、脇を走り抜けてしまった。
「しまった!」
ここまで来て逃がすものか。
追いつけないのは目に見えているが、走らないわけにはいかない。右に左に逃げるルビィを僕はひたすら追いかける。
道を戻って、再び中央広場。
ルビィがベンチの下をくぐり抜ければ、僕は植木を突っ切ってショートカット。
さらに《キルシェ》のオープンテラスの丸机を挟んで、互いにグルグルといたちごっこを繰り返す。
果てはガーデニングショップにむかって疾走するルビィ。こちらも全力で追うが、あいつは店先のジェーンさんの前で直角カーブ。
危うくジェーンさんの胸に特攻ダイブするところだった。とっさにジェーンさんは魔獣みたいな食虫植物を突き出してガードしていたが、そのまま止まれなかったら僕はどうなっていたんだ。そもそも、なんでそんなものが店にあるんだ。
「はあっはあっ! くそ!」
見失った。それでも学院の方へ行ったまでは確認できたから、追いかけることはできるが……
ルビィの目的は一体何なんだ?
――15:00
学院に行く前に一応ここも見ていくか。ルビィの行動範囲は予測できない。
「扉は普段から閉まっているし、さすがに礼拝堂の中には入っていないと思うが」
中から誰か出てきた。その人物を見て、僕は今日一番の困惑をする。
「って君は何をしてるんだ!?」
ユーシス・アルバレア。礼拝という柄ではなさそうだが。
しかし大勢の子供達にしがみつかれているのはなぜだ。後ろにはフィーとミリアムの姿も見える。というかフィー、ジェーンさんとの約束忘れてるだろう。
ユーシスも僕に気付いていたようで、露骨に嫌な表情を浮かべていた。
出会って一秒で不快にさせてくれるよな。目がもう語っている。何も聞くな。早く行け、と。
腹は立つが、こっちも急ぎだ。口論など時間がもったいない。
「今は君に関わっている場合じゃない。ルビィを見なかったか?」
「どうした? 大方何か取られたんだろう? お前は色々なところが抜けているからな」
なんと嫌味な。しかも的を射てるので、とっさに言い返せない。
「な、何だと!? いや、今はいい……くそっ、覚えておくといい」
自分でも気の利かない捨てセリフを吐いてしまった。
ここはもういい。早く学院に向かおう。
礼拝堂を過ぎると、学院の正門はすぐだ。
門に向かって伸びる最後の坂を、肩で息をしながらひた走る。半分くらい進んだところで、坂を降りてくる人影が見えた。あれはエマ君だ。
「あら、マキアスさん。ずいぶんお疲れの様子で……」
「ああ、実は色々あって――ってエマ君!?」
いやいや。どう見ても彼女の方が疲れている。もはや憔悴と言ってもいいだろう。立っているのが精一杯じゃないか。何がどうなったら、休日の午後にここまでの事態になるのだろうか。
魔道杖を老婆が使うそれのように地面に突き立て、うふふと力なく笑っている。もう目が死んでいた。
「お気づかいなく……ところでフィーちゃん見ませんでした?」
「あ、ああ。さっき礼拝堂で見たが?」
彼女の眼鏡がギラリと光る。
「ああ、なるほど。盲点でした。うふふ、今行きますよ~」
よく分からないが、フィー逃げた方がいい。もしかして逃げた末にあそこにいたのかもしれないが。
「あ、エマ君、僕も一つ。ルビィを見なかったか?」
「ルビィちゃん? 見ましたよ。さっき何かくわえて走って行きました。本校舎の裏手に回ってたので、中庭辺りでしょうか?」
「そうか! ありがとう!」
相変わらずふらつく彼女は気にかかりつつも、エマ君と分かれた僕は、正門に向かう足を早めたのだった。
――15:30
「うわあああ!」
「ぐおおおお!」
耳をつんざくような悲鳴が鼓膜を震わした。今日は一体どういう日だ。
正門をくぐった僕の目の前を、エリオットとガイウスが絶叫しながら走り去っていく。ロープで腰にくくられた導力車のタイヤを引きずりながら。
さらに二人は馬に追い駆けられているではないか。騎乗している女子は馬術部の一年、ポーラだ。同じ馬術部のユーシスとの小競り合いを見たことがあるのでよく覚えている。
そのポーラが手にしているのは乗馬用の鞭ではなく、いわゆる女王様がお使いになられるような、漆黒で長くしなるムチだ。
ピシィ! パシィ! と乾いた音を立てて地面を叩き、口汚いセリフを揚々と発しながら、ポーラ様は片口の端を吊り上げた素敵な笑みを浮かべ、僕の親愛なる友人達を情け容赦なく追い立て回す。
だめだ。理解力が限界突破してしまっている。
手に持っていることさえ忘れていた苗木の筒を落としかけた時、もう一頭の馬の足音が響き、固まっていた僕の思考は動き出した。
「さすがポーラだ。任せてよかった。……うん、そこにいるのはマキアスか?」
やってきた馬に乗っていたのはラウラと、彼女と同じ水泳部のモニカだ。二人ともなぜかジャージを着用している。
それ、学院の指定ジャージか? 見たことがないぞ。
馬上から僕を見下ろして、ラウラは言った。
「ふむ、よかったらそなたも走るか?」
開口一番がそれか。もっと他に言うことないのか。
事情を聞く気にもなれず、遠くから聞こえ続ける二人の叫び声を背後に、僕は無言で首を横に振った。
「そうか、残念だ。まあ、気が変わったら声をかけるがいい。――ハイヤッ!」
ラウラの掛け声で、馬は再びエリオット達を追走した。朝に二人が浮かない顔で寮を出て行ったのは、これが原因なのだろうか?
何にせよ、早くこの場から離れなければ。巻き添えを食らうのはごめんだ。
――15:50
ようやく裏庭まで来れた。途中一周してきたエリオットとガイウスとすれ違ったが、僕は彼らにかける言葉を持たなかった。
「ん、あれは、サラ教官と……ハインリッヒ教頭?」
中庭の前の道で口論している。しばらくするとハインリッヒ教頭はふんと鼻を鳴らして、どこかに行ってしまった。
その背中に向かって、サラ教官は「いーっ!」と自分の頬を引っ張り、精一杯の反撃をしている。恥ずかしいからやめて下さい。
「あの教頭覚えてなさいよー。勝つのは絶対Ⅶ組なんだから!」
よくわからないが、一つだけ言えることがある。知らない内に僕らは何かに巻き込まれたようだ。
「……あの、サラ教官」
声をかけると、教官は「あ、あら、マキアスどうしたの?」と焦りながら振り返る。
「ハインリッヒ教頭どうかしたんですか? 何か言い合っていたみたいでしたが」
「あー、君たちには関係ないことよ? 安心なさい」
嘘だ。勝つのはⅦ組うんぬん言ってたくせに。
「はあ、まあそういうことにしておきます。ところでルビィ見てませんか――ってああ!?」
僕は思わず声を上げた。サラ教官の手に握られているのはナイトの駒だったからだ。
「何よ、大きな声出して? ああ、これ。さっきルビィが私のところに持ってきたんだけど、あなたのだったのね。ルビィったらどういうつもりだったのかしら」
サラ教官から駒を受け取った僕は、それを陽光にかざしてみる。
ずっと使い続けて、刻み込まれた細かな傷痕。汚れた表面。これなのだ。僕が駒の代替えをしない理由。
ずっとキングを守って戦ってきた証。仲間と共に。
想いが連なって意味を成している物は、簡単に挿げ替えることはできないのだ。それは物であっても、人であっても。
「良かった、本当に」
「ふふ、まあ大事にしなさい。」
結局ルビィの行動は謎のままだったが、心底安堵する僕の様子を見て、サラ教官はにこりと笑ってくれたのだった。
――16:00
目的は達したが、もう一つやることがあった。
ジェーンさんから預かった苗木を届けなければ。といっても園芸部の活動場所である花壇と、中庭は目鼻の距離だ。
すでにエーデル先輩のトレードマーク、麦わら帽が草花の間に見え隠れしている。
「あの……エーデル先輩」
「あら? 確かフィーちゃんのお友達の」
穏やかな口調で僕に振り向くエーデル先輩。さすがに名前までは出てこないか。
「Ⅶ組のマキアスです。ジェーンさんから頼まれて苗木を持ってきました。フィーの役目だったらしいですが」
今頃はエマ君に捕まっているだろう。無事ならいいが。思いながらも、黒い筒ごと苗木を先輩に渡した。
「ありがとう。フィーちゃん遅いなあ」
ずいぶんのんびりした部活だ。
花壇の奥にまだ二人、女子生徒がいる。じゃれあいながら作業しているようで微笑ましいが――同じ顔!?
「あ、ああ。あの二人か」
一年の双子コンビ、リンデとヴィヴィだ。
園芸部なのはどっちか一人だったと思うが、また何かやっているのか。
用を終えた僕はその場を後にする。
今日はずいぶん走りまわった。そろそろ帰ろうか。
「マキアス君!」
勢いよく名前を呼ばれ、足を止める。
「お疲れ様です、ステファン部長。せっかくの自由行動日にどうしたんですか?」
第二チェス部の部長、ステファン先輩だ。
チェスへの情熱は見事なもので、僕とコアなチェストークができるのはこの人くらいなものだ。
聞けば今日は空いた時間を使って部室の清掃をしてくれていたらしい。さすがというか、声をかけてくれたら僕だって手伝うのに。
「ところでマキアス君、時間は空いているかい。よかったら一戦お相手できないかな?」
「もちろん。僕もちょうど用事が終わったところです」
一人でやるチェスも好きだが、やはり誰かと対局してこそ。
眼鏡をくいと押し上げ、部室のある学生会館へと歩を向けた。その手にようやく取り戻した白いナイトを、しっかりと握りしめて。
色々振り回された一日だったが、結局のところ僕の一日は、チェスに始まりチェスに終わるらしい。
~FIN~
最後までお付き合い頂きありがとうございます。
一日シリーズ、二回目はマキアスでした。ルビィの日常を垣間見ながら、取られたチェスの駒を取り返すだけの話なんですが、彼の話だけ少し他のⅦ組メンバーの一日と異なっています。チェスの駒を取り返す過程で彼は色んな人と出会いました。そのほとんどの行動はまだ意味がわからないものですが、これから他のメンバーの日常の中で徐々に経緯が明らかになってきます。一体誰が事の発端だったのでしょうか。
そんなことも考えながら続くメンバーの話をお楽しみ頂ければ幸いです。
それでは次回の『そんなⅦ組の一日』は、男子が続いたので女子の誰かです。
ご感想お待ちしております!