馬酔木の花   作:あばちみゃかむ

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第1話

「補習に懲りたら真面目に授業へ出ろ、いいな?」

 

 教材を抱えた教師は呆れ交じりに言い残して去ってゆく。

 数十名の若者を収容可能な教室に残るのはただ一人のみ。この一人の為に休日を使って授業の補習を担当することになれば流石の教師も愚痴を零したくなるもの。

 尤も、補習を受けた当人は気にした素振りも見せない。腰を据えて話を聞く座学の授業は性分に合わず、普段から気分次第で平然と授業を抜け出していた。

 実技科目は抜け出すことなく参加している。身体を動かせることや、鬼道など未知の経験を積める為だ。

 放課後や休日に組まれる補習も律儀に受けている。流石に補習を受けねば留年する可能性が大きいという、不純な動機を持っていたが。

 真央霊術院は尸魂界(ソウルソサエティ)の各所から死神を目指す若者たちが集う学び舎だ。生徒の数だけ個性が溢れるとも表現できる。

 流魂街出身者も、貴族出身者も、等しく死神を目指すという目標がある。性格や生まれ育った環境などから授業に対する得手不得手こそあれ、授業を受けない、抜け出すといった不真面目な生徒は存在しない。

 ただ一人の気分屋を除いて。

 

 

 ▽

 

 

「もうお昼になっちゃうっ! お婆ちゃんきっとお昼ご飯作ってるよねっ」

 

 慌ただしく顔を洗い、私物の着物へと袖を通す。愛用の髪紐で二つに髪を結い、備え付けの鏡の前に立つ。目の下に薄く隈が浮かび上がっていたが、他に変な個所は見受けられない。

 身支度を整えた雛森桃は駆け足で寮の自室を後にする。

 澄み渡る蒼穹に太陽が爛々と照り輝き、風に紛れて寮の食堂から香ばしい匂いが漂ってきた。

 休日の寮は学業から解放された生徒たちが多い。鍛錬場に向かう途中なのか制服を身に纏った姿も散見されるが、大半は私服姿だ。

 死神を養成する真央霊術院に入学して三か月が経つ。死神を目指す級友たちと学業に打ち込む日々を送っているが、休日は流魂街の実家に帰省するのが雛森の休日の過ごし方だった。

 

「流石に夜遅くまで勉強やりすぎたかなぁ」

 

 休日明けに座学試験が控えており、根が真面目な雛森は夜遅くまで試験勉強を続けていた。結果として寝坊してしまい、慌ただしく身支度を整えてから流魂街へ向かう現在へと至る。

 普段ならば既に実家へ帰り付く頃合いだ。祖母と慕う人物はいつもと同じく昼食の準備をはじめ、弟のような幼馴染みも雛森の帰りを待っているはず。

 道行く人々は雛森の必死さが伝わったのか、自然と道を空ける。だが曲がり角から現れた人影は雛森の存在など知るはずもなく、雛森もまた僅かに反応が遅れてしまう。

 

「うわっ、とっとっと」

 

 幸い追突することはなかった。だが足を止めようとした反動で雛森は盛大に尻もちをつく。砂埃が舞い上がり、聞き慣れぬ声が続く。

 

「えぇっと、大丈夫か?」

「うわぁっ」

 

 頭上から突如かけられた声に驚き、思わず飛び上がってしまう。

 小柄な雛森より頭一つ分大きい、同い年らしき少年がいた。鍛錬場にでも向かう途中なのかその格好は制服姿であり、霊術院から貸与された斬魄刀(ざんぱくとう)浅打(あさうち)を携えていた。

 困惑と呆れが入り混じった表情を浮かべながらも、親切に雛森の着物に付着した砂埃を払い落してくれる。

 

「わるい、怪我とかしてないか?」

「あ、うん、大丈夫。あたしこそごめんなさい、気づくのが遅れちゃって」

 

 急ぎのあまり注意散漫になっていたと非を詫びる。呆れた口調で嘆息され、気を付けるよう注意を受ける。

 

「ほら、急いでたんだろ? 俺もアンタも怪我はしなかったんだし、結果良ければ何とやらだ」

「うん、ほんとにごめんなさいっ」

 

 去り際にもう一度謝罪をし、雛森は真央霊術院の出入り口に向けて駆けだした。

 

 

 ▽

 

 

「あれが学年で一番の鬼道の使い手、なぁ」

 

 意外だとばかりに呟く。

 成績上位者のみが集められた特進学級、一組の雛森桃は抜きん出た鬼道の才能を持つと有名だった。直接話したのは今が初めてだが、その姿は合同授業で遠巻きながら目にしたことがある。

 その性質上、特進学級は授業内容が一歩も二歩も進んでおり、合同授業を除いて他の学級と交流を持たない。故に特進学級に在籍する者たちは閉鎖的になりやすく、噂なども断片的にしか伝わらない。

 鬼道の天才という評判から、雛森桃は生真面目で融通の利かない人物だと勝手に思い描いていたがどうやら違うらしい。駆け抜けて行った姿は小動物を彷彿とさせた。

 

「って、財布落としてんじゃん」

 

 もう喋る機会は訪れないだろうと鍛錬場へ足を向ければ、明らかに地面とは違う硬質の感触。視線を下ろせば可愛らしい桃色の財布が落ちている。

 十中八九、雛森の持ち物だろう。先ほど尻もちをついた時に落としたらしい。

 財布を片手に真央霊術院の出入り口まで駆け抜ける。だが雛森の姿は見当たらず、何処へ向かったのかも当然ながら知る由もない。

 流魂街で暮らしていた頃ならば運が良いと財布の中身を抜き取っていた。しかし、僅かな間とはいえ言葉を交わした相手が持ち主だと分かっているし、女の子の財布から中身を抜き取る趣味は持ち合わせていない。

 休日明けに返せばいいだろうと結論付け、踵を返す。

 

「人は見かけによらないって言うけど、鬼道の天才があんな風に抜けてるところあるなんて思えないよな」

 

 斬魄刀を片手に、誰が聞いてる訳でもないのに呟く。

 一陣の風が吹き、まるで同意するように心地良く肌を撫でつけた。

 

 

 ▽

 

 

 連絡事項を伝え終えた担任の教師が去ってゆき、放課後が訪れた。教室の至る所から試験の出来やこの後の予定を話し合う声が聞こえてくる。

 

「うぅ、夜遅くまで勉強するのやめよ……」

 

 机の上に突っ伏した雛森は弱々しく呟く。目の下には黒い隈ができており、疲労が色濃くにじみ出ていた。

 試験の手ごたえは確かに感じていた。流魂街の実家から寮の自室に帰ってからも、夜遅くまで試験勉強を続けたのだ。おかげで寝不足、頭は鈍い痛みを発し、全身を倦怠感が覆っている。

 

「財布も見つからないし、散々だなぁ」

 

 休日、実家に辿り着いてから手元に財布がないことを気付いた。寮の自室に忘れたかもしれない淡い期待は非常にも打ち崩され、貴重なお小遣い、そしてお気に入りの財布はもう二度と手元に戻って来ることはないはず。

 実家まで駆け足で向かっていたから道中で落としてしまったのだと容易に察せられた。

 寝不足と財布の紛失、二重の意味で消沈している雛森へ声がかけられる。

 

「よう雛森、どうした? お前にしては珍しく試験の結果に自信ないのか?」

 

 同じ特進学級でも仲の良い男子、赤色の奇抜な髪型が特徴的な阿散井恋次だった。

 

「俺は吉良のおかげで赤点は免れたと思いたいが、もし追試を受けることになったらその時は一緒に頑張ろうぜ」

 

 恋次の声を聞いていた何人かは雛森へ同情的な視線を送り、或いは内心で呟いていただろう。雛森をお前と同列に扱うな、と。

 斬術など身体を動かす実技に関しては優秀な恋次だが、頭を使うことが苦手なため座学や鬼道の成績は散々な結果を叩き出している。対する雛森は鬼道は言わずもがな、その他の実技や座学も優秀な成績を収めている優等生だった。

 

「阿散井くん、ちょっと静かにして……あたし遅くまで勉強して寝不足なの」

 

 顔を上げる気力すら残っておらず、半ば濁ったような声音で告げれば恋次は軽く頷いた。

 

「お、おう。そいつは悪かった、ちゃんと寝ろよ?」

 

 恋次の気配が遠のいてゆく。

 鉛のように重い身体を動かす気力は沸かない。暫く教室で休んでから寮の自室へ戻ろうと決める。

 やがて教室から声や気配が消えてゆき、遂には雛森一人が残される。少しだけ顔を持ち上げれば、窓の向こう側から茜色の夕陽が差し込んでいた。

 このまま教室に留まれば夜を迎えてしまう、鈍い頭でそれだけ考えると老婆のように弱々しく身を起こす。

 殆どの生徒が校舎を後にしたのだろう、廊下は静寂に包まれていた。

 寮へと続く道のりが果てしなく感じ、階段が地平線の向こう側へ消える錯覚に襲われる。

 試験を控えた休日は流魂街の実家に帰省するのはやめて、大人しく試験勉強に費やそう。そうすれば今日みたいに寝不足になることもないはず。

 身体を揺らしながらも階段へ辿り着き、一歩を踏み出したその瞬間。限界が訪れた雛森の身体から力が抜ける。

 

「ぁ……」

 

 地に足のついた感覚が消失する。身体が虚空へと投げ出され、全身を束の間の浮遊感が包み込む。

 視界一杯に広がる階段の踊り場はしかし、柔らかな白へと移り変わった。

 背中へと回される温もりと、耳朶を叩く鼓動。

 

「あっぶね、また急いでたから前方不注意なのか?」

 

 焦りと皮肉を込めた聞き覚えのある声が降りかかる。どこで聞いた声だろうか。特進学級の級友ではないはず。

 

「ほれ、歩けるか? あぁ、無理そうだな、うん」

 

 漸く思い出す。流魂街の実家へ帰省する途中に少しだけ会話をした人物であることに。

 遅まきながら気づく。名も知らぬ異性によって抱きかかえられていることに。

 仄かに頬が熱くなる。それを熱があると勘違いしたのか、小柄な雛森を軽々と抱きかかえた件の人物は短く一言。

 

「救護室に連れてくから」

 

 僅かに触れ合う肌の温もりが思いのほか心地よく、意識が朦朧するのも相まって身体を任せ続ける。

 

「二組の朝霧っす、具合悪い子がいたんで連れてきました」

 

 意識を手放す寸前に聞こえたのは、恩人の名前だった。

 

 

 ▽

 

 

 翌日の放課後、雛森は羞恥心に苛まれながら悶々としていた。昨日、階段から倒れそうになったところを助けてくれた人物が原因だった。

 

「二組の朝霧くん」

 

 辛うじて記憶に残った名前を口に出す。途端に思い出す肌の温もりや鼓動の響き。その全てがはじめての経験で、雛森の脳裏に強く焼き付いていた。

 救護室で目を覚ませば、片手に馴染み深いある物が握ってあった。紛失したと思い込んでいた愛用の財布で、恐らくは朝霧が拾ってくれていたのだろう。財布の中身も記憶と変わらなかった。

 当の朝霧は救護室の教師曰く、雛森を運んでからすぐにその場を後にしたらしい。

 疲労が溜まっていた、休日はちゃんと休むようにと救護室の教師から有り難い小言を貰って昨日は寮の自室へと帰った。

 

「ちゃんとお礼を言うべきだよね」

 

 恩人を探すべく二組の教室へと向かったが、少し後悔していた。特進学級の人間が珍しいのか、幾人もの生徒から視線が集中している。恋次や吉良などの友人がいればその身長に隠れることも可能であるが、生憎今は一人。

 更にもう一つ。流魂街出身の雛森にとって友人と呼べる間柄は特進学級の級友たちに限られていた。合同授業でしか他の学級とは交流を持たず、そして雛森自身は特進学級の友人と行動を共にしているため、当然ながら二組に友人などいない。

 

「あっ、ルキアさんがいた」

 

 友人ではないが、恋次の幼馴染みであるルキアとは顔見知りだった。会釈をする程度の仲だが、他人よりは距離が近い。朝霧という少年と取り次ぐよう頼むのも、幾分か気が楽だった。

 件の人物はちょうど、二組の教室から姿を現した。

 

「むっ、雛森さん、だったか。何か私に用か?」

「えっと、用っていうか。あの、二組の朝霧くんって今いるかな?」

「あ、朝霧か?」

「もしかして、朝霧くんっていない?」

 

 思い返せば二組とだけ口にしていた。同い年だと思い込んでいたがそうとは限らないのだ。上級生の教室も窺う必要があるのかと考えるが、幸いにもルキアによってそれは否定された。

 

「確かに朝霧は二組にいる。ただ、な」

 

 言葉を選ぶように逡巡し、呆れたように続ける。

 

今日も(・・・)教室に顔を見せていない」

「今日も? 朝霧くんって普段から授業を受けていないの?」

「気分屋と言うべきか、座学の授業は抜け出すことが多い」

 

 授業を抜け出すなど根が真面目な雛森からすれば考えられない。だが同じ二組のルキアがそうだと断言しているのだから、事実なのだろう。

 

「あぁ、別に人格破綻者だとか恋次のようにどうしようもない馬鹿というわけではないぞ? 気分屋で掴み所のない男ではあるが」

 

 その朝霧にどのような用件があるのかと問われ、些細な縁があって礼を告げたいと返す。

 

「もし朝霧くんが教室に顔を見せたら伝えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」

 

 

 ▽

 

 

 教材を包んだ風呂敷を左手に下げ、浅打を携えた右手で器用に欠伸を噛む口元を覆い隠す。

 夜遅くまで勉強を、或いは実技の自主練習を行って疲労が溜まっているわけではない。単純に早起きの習慣が身に染みていないのだ。普段のこの時間は寮の自室で横になるか、目を覚ました頃合いだ。

 朝礼が始まる前に校舎へ足を運ぶのは一週間ぶりだった。前回は確か、実技科目が朝礼の後に控えていたから登校したはず。

 窓の外から風と共に運ばれた小鳥の囀りによって目が覚めた。見遣れば木の枝で羽休めをしており、小鳥を見習って座学の授業で腰を落ち着けてみようかと思い立つ。

 現実は非常に厳しい。身なりを整えて校舎へ足を運んでいるが、幸福な夢の世界へ誘う睡魔の幻聴が響く。

 欠伸を噛み殺しながら二組の教室へ辿り着いても尚、睡魔は纏わりついて離れなかった。

 

「おはようさん」

 

 扉を開け、手近な席に腰を下ろした級友へ挨拶すれば、口を大きく開けて呆けたような表情を浮かべる。まるで死者が目の前にいるとばかりの反応だった。

 二組の教室は通夜を彷彿とさせる静寂に包まれた。だがそれも一瞬。

 

「あ、あ、あ、朝霧が朝からいるぞっ!?」

「おい、最初の授業って何の実技だ? え、座学?」

「今日は風が強いと思ったが嵐が来るのか……」

「ってか雛森さんと一体どんな関係なんだ」

 

 驚愕や疑念の入り混じった声、更には天災の前触れだと散々な扱いである。

 周囲の反応など気にせず殆ど人の座らない、つまりは自然と定位置と化した場所へ腰かければ人の近づく気配を感じる。振り向けば猫のような瞳が特徴的な女子生徒、ルキアがいた。

 

「朝霧、少しいいか?」

 

 何度か話したことはあるが、逆に言えばその程度の間柄。良くも悪くも同じ二組の級友でしかないルキアから話しかけてくるのは珍しい。

 

「ん、どうしたよ?」

「伝言を頼まれていてな」

「もしかしてまた補習か? 勘弁してくれ、一昨日も補習を受けたばかりなんだけど」

「ならば真面目に授業を受ければよいだろう。っと、そうではない。実はな」

 

 

 ▽

 

 

 珍しく朝礼から顔を見せたことに教師からも驚愕された一日が終わる。

 待ち望んだ放課後を嬉しそうに堪能する生徒たちが溢れる廊下を、目的の教室へ向かって進んでゆく。

 距離が近づくほど雰囲気が硬質なものに変わってゆき、不躾な視線を向けられる。

 飄々とした態度で気にすることなく歩を進めれば程なく特進学級の、一組の教室へ辿り着いた。

 

『お礼が言いたいから一組の教室で待ってる、確かに私は伝えたぞ』

 

 伝言を残した雛森の気持ちを無下にする薄情者ではない。気分屋ではあるけれど。

 幸いと言うべきか、放課後に補習は組まれていなかったため、こうして一組の教室へ赴いた。

 訪れた一組の教室からは部外者に対してあからさまな視線が向けられる。

 

「なぁ、雛森いるか?」

 

 教室の入り口付近にいた女子生徒へ声をかける。まるで声を掛けられること自体が心外だとばかりに目を見開いた女子生徒は、次いで胡乱な表情を浮かべた。

 首を傾げ、今度は傍らを通り過ぎようとした男子生徒へ声をかけるが鼻を鳴らすだけで相手にされない。

 成績上位者はその過半数が貴族出身者で占められる。流魂街出者と異なり、親族に死神がいる者も多く、恵まれた教育環境が与えられた貴族出身者の比率が成績上位者に多いのは必然的と言えた。

 学び舎での立場は対等だ。しかし、流魂街出身者と貴族出身者では環境の違いから微妙な空気が流れるのはよくあること。一組の人間は特に閉鎖的なのか、劣等生は鬼道の天才と取り次いでもらえないようだ。

 嘆息し、また日を改めて出直そうと踵を返す。

 

「もしかして朝霧くんだよね?」

 

 鈴の音を転がしたような可憐な声だった。背後を振り向けば、小動物を彷彿とさせる小柄な少女が駆け寄ってくる。

 尻もちをついて財布を落とし、寝ながら階段を下りようとする鬼道の天才、雛森だった。

 顰めき合う声が漏れ聞こえる。雛森との関係を憶測する類のものだろう。

 

「あのね、ちゃんとお礼を言っておこうと思って」

「あぁ、うん、とりあえず場所を変えないか?」

 

 周囲を窺うように目だけを動かす。数瞬遅れて、一組の人間から好奇の的になっている事実を雛森も気づいたようだ。

 殆ど利用されることのない階段へと場所を移し、改めて向き合う。

 

「ここなら大丈夫だろ。それで、お礼って?」

「あたしを助けてくれたこと、あともう一つ」

 

 そう言って雛森は桃色の可愛らしい財布を取り出す。休日に拾い、救護室に運んだ際に掌へ握らせた物だった。

 

「財布を拾ってくれたのも朝霧くんだよね? だから、ちゃんとお礼を言いたいって思ったの」

 

 幼さの残る風貌で屈託なく、嬉しそうに、満足そうに口元を綻ばせる雛森。

 艶やかに花が咲いたような笑顔に、思わず見惚れてしまう。胸中で暖かな感情が風となって吹きはじめたが、己を落ち着かせるよう短く返す。

 

「ん、そんなの普通だろ」

「そうかもしれないけど、朝霧くんがいなかったら階段から倒れてたし、お小遣いも戻って来なかったはずなの。だから本当にありがとうっ」

 

 腕を振り、飛び跳ねるようにしながら頭を下げる雛森。

 元々、拾った財布を返そうと雛森の下へ向かうつもりではあった。しかし自業自得ながら補習に拘束され、解放されたのは放課後も遅い時間。ダメ元で一組へ向かう途中、疲労のあまり雛森が階段から倒れ込んだところへ偶然居合わせただけ。

 幸運に味方された形だが、こうして雛森が感謝を示すならば黙って受け取っておこう。

 

「でもちゃんと授業には出なきゃダメだよ? 死神になるために霊術院に入ったんでしょ? 卒業できなかったら元も子もないよっ」

「けど俺、腰を落ち着かせるの趣味じゃないんだよなぁ」

「それでもちゃんと授業を受けなきゃダメですっ!」

「……もしかして説教されてんの、俺」

 

 己を指差して聞き返せば当然だとばかりに慎ましい胸を張る雛森。先ほどまで礼を言われてたはずなのにと首を傾げれば、その様子が面白かったのか雛森は口元を抑えつつ肩を震わせる。

 

「笑うなよ、雛森こそ階段で寝ようとしただろ」

「あ、あれは遅くまで勉強して寝不足だったから」

 

 途端に縮こまり、目を逸らしながらも反論される。言葉と裏腹に申し訳なさを感じさせる雛森の態度に、小動物が叱られている様子を重ねてしまい噴き出す。

 

「だったらお互い様ってことでいいだろ。ま、なんにせよ礼は有り難く貰っとく。それじゃあな」

「あ、ちょっと待って」

 

 背中を向け、けれど顔だけは振り返って続きを促す。

 

「朝霧くん、よかったら名前を教えてくれてもいいかな?」

 

 鬼道の天才という肩書を持ち、尻もちをついて財布を落とし、寝不足のあまり階段で寝ようとする。

 

「ゆうき、朝霧祐輝(ゆうき)

 

 小動物のように可憐で表情が変わりやすい少女、雛森桃との出会いだった。

 

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