人が死ぬ描写があります。
家族を失った少女の決意とトラウマの片鱗。
四年半前、何の変哲もない一都市に過ぎなかった三門市は、突然化け物の大群に襲われた。
後に近界民と呼称される怪物達は我が物顔で街を焼き、蹂躙の限りを尽くした。
警察や自衛隊の武器は何一つ通用しなかった。勇敢に戦った彼らはあるいは怪物に喰われ、あるいは斬られ、あるいは踏み潰された。
市民は恐怖し、絶望した。
そのなかに、
アメリカ留学を終えて帰国したばかりの火乃音は、家族とショッピングモールに出かけている時に近界民に襲われた。
途中までは父と居たはずだった。しかし必死に逃げ惑ううちに、火乃音は家族とはぐれてしまった。
「おかあさん、おとうさん……!」
声を枯らして叫んでも誰にも届かない。気がつくと周囲に生きた人間は誰もいなかった。皆マネキンのように無感動に横たわり、胸から血を流して死んでいた。
火乃音はそれまで、人の死んだところを見たことがなかった。濁った目玉と目が合うたび、懸命に逸らした。焦げ臭いにおいが鼻をつく。あちこちで火の手があがっていた。瓦礫のなかを走り続けたせいで、身体中に生傷ができている。息が苦しい。胸が痛い。でも逃げなきゃ。だけど、どこへ?
そこに、化け物がやってきた。一体、二体──どんどん増えていく。ひとつしかない目玉をぎょろつかせて、火乃音をじいっと見下ろしていた。
膝の震えが止まらない。ぐるりをすっかり囲まれて、果たしてどうすればいいというのか。
「たす……たす……」
噛み合わない歯の間から絞り出すように助けを呼ぶ。だが、誰の耳にも届かないことは明白だった。
だって、ここには死んだ人しかいない。
そのうち火乃音も仲間になる。胸から血を流して、どろっとした眼で横たわる死体に。
気道がきゅーっと締まった。視界がふわふわと暗くなる。気絶する寸前、目の前の化け物が、突然バラバラに四散するのが見えた。
「……え」
化け物たちは次々に倒されていく。十体もの怪物に囲まれていたはずなのに、気がつけば火乃音は誰かの背中におぶわれていた。
「すまない。来るのが遅れた。もう大丈夫。君は私たちが助けるよ」
肩越しに振り向いた目が、力強く輝いている。
死体の目とは全然違う、気力と闘志に満ちた眼差し。
その目を見た瞬間、火乃音は悟った。
──ああ。もう、大丈夫だ。
この人がいるなら、平気だ。無条件にそう思える、力強い瞳だった。
それからのことを、火乃音は断片的にしか覚えていない。
救護所に連れていかれ、怪我の手当をされた。それから二日間眠り続け、起きた時にはもう街のどこにも化け物はいなかった。
色々な人から色々なことを聞かれた。警察、役所の人、近所の人、マスコミ、医者、とにかく色んな人から質問責めにあった。
そのどれにもそのとき適うかぎりの答えを返したと思う。詳しいことは、なにも覚えていないけれど。
そのなかで火乃音はぼんやりと、自分の家族はもう誰も生き残っていないことを知った。
アメリカの大学で学位をとり、意気揚々と帰ってきた娘をあたたかく迎えてくれた両親は、もうどこにもいないのだ。
不思議と涙は出なかった。あまりにも多くのことが一度に起こりすぎて、許容を超えたらしい。
日がな一日、ぼうっと過ごしているところへ、明るい茶髪の青年がやってきた。
青空のような目が綺麗だと思った。
彼は膝をつくと、ゆっくりと微笑んだ。
「やあ。俺は迅っていうんだ。はじめまして」
「……どうも」
「君は平 火乃音ちゃんだね?」
「……はい」
小さく頷く。
次に何を言われるのか、火乃音には大体予想がついていた。
かわいそうに。
お悔やみを申し上げます。
大丈夫?
つらかったね。……こんなところだ。
そして質問をする。
なにがあったの?
どこにいたの?
どんなことが起きた?
どうやって生き延びたの?
エトセトラ、エトセトラ。
誰も彼もが火乃音に話させたがる。ずっとそんな調子だ。十一歳で××大学を卒業した天才少女、厄災に見舞われる! 新聞にこんな見出しが踊ってから、ずぅううっと。
こいつもそんな類いの人間だろう。淀みきった目つきで見返し、自嘲気味に笑った。
けれど、迅と名乗った青年は、そんなくだらないことは一言も言わなかった。
どこまでも優しい瞳で火乃音を見つめながら、掌を差し出してこう言った。
「ボーダーに入らないか?」──と。
「……ぼー……だー……?」
オウム返しに呟く。迅は頷き、火乃音の手を取った。
あたたかい手だった。
「君を襲い、君の街をめちゃくちゃにしたのは近界民という存在だ。奴らはこの世界に穴を開けてやってくる。奴らにふつうの武器は効かない。俺達はそんな近界民を倒し、街の平和を守る組織を創る。もう誰も傷ついたり、死んだりしないようにね。その組織の名前が、ボーダーなんだ」
おだやかな声が、澄んだ瞳が、火乃音のすり減った心を解きほぐしていく。彼が嘘やでまかせを言っているわけじゃないことは、その態度で知れた。
「俺達は強いけど、まだまだ数は多くない。なるべく沢山の人に助けてほしいんだ」
「……でも……あたし、こどもだよ……?」
「そうだ。君はまだ十一歳のこどもだ。だけどボーダーにとって、とても重要な人なんだよ。俺のサイドエフェクトがそう言ってる」
「さ、さいど……?」
「まだ意味は分からなくていい。だけどこの話、よく覚えておいてほしい。そして、よく考えて欲しいんだ」
忘れないでくれ。俺は、俺達は、君を待っている。
最後に堅く握手して、迅は去っていった。
火乃音は混乱しどおしだった。近界民? ボーダー? 大学でも聞いたことの無い単語ばかりだ。
避難所には多くの人が過ごしているが、他にもこの話を聞いた人がいるだろうか?
明日、聞き込みしてみよう。そうして、また考えてみよう。
ベッドに転がり、毛布を被る。
事件から一週間、火乃音は初めて、悪夢を見ることなく眠りに落ちた。
一夜明けて、火乃音は朝食のスープをすすりながらまわりの話に耳を澄ませた。
どうやらあの話を聞いたのは火乃音だけではないらしい。何人かが難しい顔でボーダーだのなんだのと話している。
話しかけてみようか。でも子供の火乃音を話の輪に入れてくれるだろうか? 邪険に扱われるのがオチかもしれない。悶々としていると、ふっと影が差した。すぐそばに黒髪の男が立っていた。
「……隣、いいかい?」
簡易食堂の席はまばらに空いている。わざわざ火乃音の隣に来るということは何か話があるのだろう。どうぞ、と言うと、男はありがとうと律儀に礼を言って腰を下ろした。
「おれは東、東 春秋っていうんだ」
「……平です。平 火乃音」
「きみ、昨日迅ってひとからボーダーに誘われなかったかい?」
「!」
目を丸くする。東はその顔を見て得心がいったらしく、ひとり頷いていた。
「おれのところにも来たんだ。ボーダーって組織を創るから入ってくれないかってね」
「……なんだ。みんなに言って回ってるんですね」
「いや、それは違うと思う」
「なんで?」
「この話、聞いてない人の方が多いんだ。ボーダーって単語だけが独り歩きしてる。それがなんなのかまで知っている人は、多分おれと君と、あとほんの数人だけだ。迅くんはかなり誘う相手を絞ってるみたいだったよ」
東はじっと火乃音を見つめた。その目つきに、嫌な感じはしなかった。火乃音をひとりの人間として尊重し、敬意を払っている眼差しだった。
子どもだからと侮ったり、馬鹿にする様子は微塵もない。それが、火乃音の心を開かせた。
「あなたは──東さんは、どうしますか?」
「うーん……まだまだ分からないことだらけだけど、たぶん、入ることになると思う」
「どうして?」
「そうだな……」
とん、とテーブルを指先で叩く。長くて綺麗な指だと思った。
「次にこんなことが起きた時、自分に何も出来ないのは嫌だから、かな」
微笑んではいたが、瞳の奥は真剣だった。
彼も、この災厄で家族を喪ったのだろうか?
分からない。だが聞くのも野暮だ。意味が無い。
身内が死んでいようといまいと、あの日三門にいた人たちの人生は大きく変わった。
火乃音もそうだ。
家族を喪い、家を失って、どこに行くあてもない。
だけど、火乃音は生き延びた。
なら、まだ何かやれる。
凛とした眼で、東を見返した。
「あたしは、入ります。ボーダーにはいって、戦います」
東はその言葉を予期していたかのように、しっかりと頷いた。
「なら、俺と君は同志で、同期だな。よろしく」
「よろしく」
東の大きな手と、火乃音の小さな手が握手を交わす。
このとき東は21歳、火乃音は11歳。
十も歳の離れた男女が無二の仲間になった瞬間だった。
「……
呟き、目を開ける。窓の外はまだ暗い。朝というには早すぎ、夜と言うには遅すぎる時間だった。
迅と、そして東と。火乃音の行く末に大きな転換をもたらした男達の顔が浮かぶ。
四年の月日が流れても、あの瓦礫と死体の山を忘れることは出来ない。
でも、胸の痛みは少しずつ小さくなっている。
寝返りをうち、目を閉じた。
仕事までもうひと眠りしよう。今度は、幸せな夢が見られるように。
数分後、寝室に、おだやかな寝息が流れ始めた。
正隊員はわりあい忙しい。
通常の防衛任務に加えて他県へのスカウト、市民との交流、地域巡回と、仕事が多岐に渡るからだ。
メディア対策室長・根付のおかげでボーダーに対する批判的な意見は少ないが、まったくのゼロというわけでもない。市民の皆様に目をつけられないよう、慎重な振る舞いを要求されることもしばしばだ。
市民との交流や近界民が出た時の避難指導などは広報担当の嵐山隊が担ってくれているが、圧倒的に人手が足りていないのが実情である。
「かといって、テキトーな人を捕まえてくるわけにもいかないのよね」
そう零すのはA級六位の加古隊隊長、加古 望だ。
弱冠二十歳ながら妖艶な美貌をもつ彼女は、つやのある毛先をくるくると弄びながら嘆息した。
「いいなって思った人はトリオンが足りないし……トリオンの強い人は性格に難があるし……どっちも満たしているひとはボーダーの仕事を怖がるし……スカウトって難しいわあ」
珈琲をすすりながら、火乃音も苦笑する。
ボーダーは基地に備えつけた誘導装置によって世界中の近界民を三門市に喚んでいる。裏を返せば、三門市以外に近界民は出ない。それゆえ、三門市の外に住む人々にはいまひとつ、近界民の恐怖やボーダーが戦うべき理由が伝わっていないのだ。
……いってしまえば、彼らにとって近界民など、対岸の火事に過ぎないのである。
欲を言うならトリオン器官の成長が見込める未成年に戦闘員として来て欲しいところだが、保護者の強硬な反対にあうことがほとんどだ。子を思う気持ちを考えれば無理からぬことなので、強いるわけにもいかない。
もちろん組織そのものを運営していくスタッフも人手不足だ。オペレーター、人事、営業、エンジニア……潤沢な人材に恵まれている部署など無いといっていいだろう。
ボーダー創立から四年。人員の確保は喫緊の課題であり、頭痛のタネだった。
昼時を過ぎた食堂に人気はない。入ったばかりのC級隊員に聞かせる話でもないのでほっとしながら、火乃音が訊ねた。
「加古さんがスカウトできたのって何人くらい居る?」
その火乃音はスカウト任務からは除外されている。未成年に説得される大人はそう多くないからだ。
加古は顎に指をあて、しばし悩んでから、
「大していないわねえ……三人か四人、ってとこかしら」
「なるほど。キビシ〜」
「それに、みんながみんな戦闘に慣れるわけじゃないものねえ」
「そ〜れなんすよね〜」
ふう、と悩ましげな息をつく。いくらトリオン体に換装するからといって、斬られたり撃たれたりすることに平気でいられる人間ばかりではない。
よしんば仮想戦闘訓練で上手くできても、実際に近界民と戦ってみたら怖くて動けなかったり、手足を斬られる感触が忘れられなかったりと、せっかくスカウトしても辞退してしまう人は一定数いる。
まれにオペレーターやエンジニアに転向して残り続けてくれる人もいるが、いかんせん少数派である。
近界民の出現回数は四年前からじわじわ増え続けている。何週間か前の、ゲートを開ける小型近界民ラッドの掃討作戦が行われたことで一時期よりは落ち着いているが、それもわずかな間のことだろう。
「近々大規模侵攻もあるらしいし、気が抜けないわ」
加古の言葉に、火乃音が肩を震わせた。
自然、目つきが険しくなる。
「……本当に?」
加古はひょいと肩を竦めた。
「迅くんが言ってたわ。彼が言うなら、そうなんでしょうね」
「…………」
ぐ、と拳を握りしめる。未来予知のサイドエフェクトを持つ迅が言うなら、間違いないだろう。
脳裏に瓦礫と死体がよみがえる。
あの時とは、違う。四年かけて強くなった。
今度は誰も死なせない。街の人も、仲間たちも、みんな。
「ちょっと、迅に会ってきます」
席を立つ。本人の口から確かめたい。加古はひらひらと手を振った。
「またね、かのんちゃん。今度は私の行きつけのカフェに行きましょ」
「あざっす!」
ぱたぱたと駆けていく小さな後ろ姿を見ながら、加古は細く息を吐いた。
「あんまり思い詰めないといいんだけれど」
迅は玉狛支部の人間で、本部に来ることは滅多にない。だから直接支部に向かおうとしたところで、向こうから歩いてくる迅と出くわした。
「迅!」
驚く火乃音に迅がへらりと笑う。
「よう。元気そうだな」
「……なあ、聞きたいことがあるんだけど」
「おっと急だなあ。急ぎの話か?」
「もうすぐ大規模侵攻があるって──ほんとか?」
迅の笑みが小さくなった。
「聞いたのか」
「加古さんから。本当なのか?」
迅はすぐには答えず、じっと火乃音を見下ろした。
火乃音も急かそうとはしない。長い付き合いで彼の癖は把握している。迅の顔は、何を言って何を言わないでおくか、考えているときの貌だった。
「──本当だよ。もうすぐ来る」
「どれくらい?」
「十日かそこら、って感じかな」
「前と同じくらい? 多い? すくない?」
「多い、と思う」
火乃音は、一番聞きたかった質問をもういちど頭の中で反芻した。緊張で口の中が乾いていく。
でも、聞かずにはおれなかった。
「……だれか、死ぬのか?」
迅は少しの間、身動ぎもしなかった。
彼がようやく口を開いたとき、火乃音は心臓が肋骨を突き破って表に飛び出しそうだった。
「──お前の大事な人は、誰も死なないよ。
俺のサイドエフェクトがそう言ってる」
数秒、あるいは数十秒見つめあい。
火乃音は、詰めていた息をほうっと吐き出した。
「……そっか。ありがと!」
「どういたしまして。おまえ、たまにはウチにこいよ。レイジさんが美味い飯作ってくれるからさ」
「うん。今度おじゃまするわ」
張り詰めていた気が緩んで、肩がすこし軽くなった。迅が言うなら、大丈夫だ。
怖いことは、何も起きない。
安心したら急に眠くなってきた。作戦室で一眠りしてから帰ろう。迅に手を振り、踵を返す。
火乃音が見えなくなってから、迅がぼそりと呟いた。
「いまのところは、な──」
未来はほんのちょっとしたことで変わる。
何が誰にどう作用してどんなふうに変わるのか、その全てを見透すことは迅にも叶わない。
だから、いま視えるなかで一番いい未来を伝えた。
そのことは、墓場まで隠し通すだろう。無数に抱えたほかの秘密と同じように。
嘘も方便。だが、嘘であることに変わりはない。
「ごめんな、火乃音」
誰にも届かない謝罪を飲み込んで、迅は静かに歩き出した。
to be continued