最初に感じたのは寒さだった。
ひんやりとした空気が肌にまとわりつく不快感。せめて自分の体に両腕を回して暖を取りたいのにそれができないもどかしさ。皮膚がぷつぷつと粟立ち、歯がかたかたと震えだす。唇をきゅっと結んでいられない。ほ、と息を吐き、吸うたびに、寒いと吐かずには居られなかった。
そのうち、意識がふわりと浮いてくる。なにごとか囁きかわす声が聞こえた。
音は遠く近くを漂い、よく聞こえるかと思えばくぐもって、まるで海の中から聞いているようだった。
『トリオン……測定……器……』
『……このまま……耐える……』
『賛成…………しかし…………』
なにを話しているのだろう。
もしも近くにいるのなら、どうか毛布をくれないだろうか。寒くてさむくて堪らないのだ。
海。不意に鳥が頭の中で羽ばたいた。純白の鳥だ。新雪のように美しい鳥。けれどもどんな目をしていたか、それだけが分からない。こんなにも輪郭がはっきりしているのに。不思議だ。まるで──
──まるで作り物のよう──
そこで
侵攻。大規模な。戦闘。東との合流。解散。新型。基地。爆撃。ラービットたち。キューブ。ワープゲート。女。角。脚をやられて。誰に?
角の生えた男……!
身を起こそうとして、ガチリと引き戻された。台の上、人形のように寝かされて、首や腕を拘束されている。
寒いのも当然だった。火乃音は下着姿で寝かせられていたのだ。顔がかあっと熱くなった。
ふ、と視界に女が映った。ワープの女だ。標本の虫を見る目で火乃音を一瞥すると、一歩退いて男に場を譲った。
火乃音を白い鳥で攻撃した、あの男だった。
数秒、二人の視線が交錯した。
彼らの眼差しは対照的だった。火乃音は射殺さんばかりに爛々と輝く眼で睨め上げ、男は冷酷極まりない瞳で観賞している。観賞? そう、それはまさしく観賞だった。普段あまり目にすることのない珍しいものが手に入った時に人がする、あの眼だ。
(人をひん剥いて見世物みたいにしやがって)
もしもこいつが屈んだらその素っ首噛みちぎって殺してやる。
唸る火乃音の壮烈な殺気に気づいた男が含み笑った。
「ヴィザの言うとおり、豪胆だな」
「いかがいたしますか」
女の問いかけに、男は黙考した。
沈黙は数秒のことだったが、火乃音には永遠に感じられた。
この裸体は生身だ。トリガーはすべて取り上げられ、換装を強制的に解かれている。対する奴らは当然トリオン体だろう。生身で敵うはずもない。抵抗も逃亡も考えるだけ無意味だ。
殺されるならまだマシだった。だが、ただ殺すだけならこんな手間はかけるまい。捕虜か拷問か見せしめか……死より辛いことが待っているはずだ。想像に、寒さばかりではない震えが火乃音の心胆を脅かした。
男の指がそっと火乃音の右額に触れる。額から頬に掛けて、四年前の侵攻の折にモールモッドに斬られた傷だ。
トリオン体でいるときも、その部分は見たくなくて眼帯で覆うようになった場所。雨が降るたびに疼く古傷。「やめろ……っ!」おもいきり顔を背けて男の指から逃れた。
男が口を開く。
「楔を埋めよう」
「隊長、あれはまだ試作段階ですが……」
「だからいい」声にはどこか、楽しむ風情があった。
「上手くいけばよし、上手くいかなければまた別の手を試す機会を得る」
「畏まりました」
言って、女が小さなゲートを開けた。中から真紅の珠を取りだす。男に渡すと、今度は釘のような穴を生み出した。
「ごめんなさいね」
「? ────ッ!」
とす、とあえかな音を立てて、鋭鋒が火乃音の右目に突き刺さる。鮮烈な痛みに火乃音の背がしなった。
「が……っ!?」
釘が中で"かえし"になり、眼球をゆっくりと引き抜いていく。
灼熱の痛みが脳髄を焼き、全身を瘧のごとく震わせた。何も考えられない。痛い、いたい、いたい、いたいいたいいたい──っ!!
「挿れるぞ」
「ぎ、ぃあっ」
神経を捩じ切り、虚ろになった眼窩へ男が珠を押しこんだ。人知を超えた痛み。絶叫が迸る。
「あぁあああああぁあああああっ!!」
珠は眼球の奥に到ると、神経に根を張りはじめた。瞼の裏に五色の光がスパークする。激痛が頂点に達したとき、火乃音は再び失神した。
ぬる、と指を引き抜く。ハイレインに清潔なハンカチを差し出しながら、ミラは小首を傾げた。
「首尾よくいくでしょうか」
「さてな。他の誰もやったことのない実験だ。どう転ぶかは神のみぞ知ることだよ、ミラ」
半開きになった瞼の奥、紅玉が妖しく瞬いた。
あらゆる景色が浮かんではめまぐるしく回転し、跡形もなく消えていく。
映っているのはさまざまの人、あるいは建物、あるいは土地、またあるいは出来事だ。昨日のものから、とうに忘れ去っていた子供の頃まで、筋の通った物語などはなく、ただ気まぐれに繋ぎ合わされた断片集たち。
記憶のひとひらが織り成す夢幻の花火。泡沫の万華鏡。奈落に堕ちていくあいだ、それらは火乃音のそばで光り続けた。
火乃音は頭から落ちながら、見るともなしにぼうっと見やっていた。頭の中はからっぽで、どこまでも真白の空間が続いている。
ここはどこだろうか──心象風景? そうかもしれない。
ここはなんだろうか──夢とか幻といわれるもの? たぶんそうだ。
答えでもあるし、全くの間違いでもある気がする。
瞼を閉じている筈なのに、右目は花火のひとつひとつをよく見ていた。
黒い角の生えた男女が並んでいる。その景色が、奈落の終着点だった。
忘レルナ
声がする。
忘レルナ
誰の声だろう。
聞いたばかりの声のような。
忘レルナ
仕エル主ヲ
命ヲ賭シテ果タスベキ使命ヲ
使命。
そんなものが、あっただろうか。
右眼が疼く。掌で抑えたいのに叶わない。
瞳孔から溢れる紅い光が奈落の底に満ちていく。
光は花火を搔き消し、角のある男女を呑み込んだ。
覚エヨ
主ノ名ハ────
頬に伝わる振動に目が覚める。慌てて身を起こすと、アスファルトの欠片がぱらぱらと零れ落ちた。
火乃音は市街地の歩道にうつ伏せて倒れていた。ぐるりを見渡せば、そこかしこから煙が上がっている。
まるであのときの繰り返しのようだ。家族を失い、変わり果てたショッピングモールを彷徨いていた時の。
「……違うっ」
反射的に腰のポーチに手を伸ばす。トリガーホルダーの確かな感触が火乃音を奮い立たせた。
あの時とは違う。
何も知らず、無力だった頃とは。
「トリガー・
全身を換装する。黒のウエスタンハット、ボレロジャケットに、脚部のジェットパックを隠すベルボトムへ切り替わった。
鋼鉄入りのブーツを鳴らして、空に跳ぶ。
眼帯を指先でそっと撫でてから、不敵に笑った。
「待ってろ、近界民ァッ!」
咆哮する火乃音の脳裏には、なぜあそこで倒れていたか、それまで何をしていたかという、当然思うべき疑問の片鱗も見当たらなかった。
どころか、身体の芯から湧いてくる活力に小躍りすらしたくなる。
トリオンが無限に湧いてきて、何が来ようと負けるヴィジョンが浮かばない。いまなら人型近界民だろうと瞬殺だろう。
ジェットパックのなかでメテオラを起爆させ、文字通りの爆発的機動で街の中を駆け抜ける。
獲物はすぐに見つかった。逃げ遅れたC級隊員にラービットが殴りかかろうとしている。
振りかぶった片腕を、メテオラで速度を上げた蹴りが吹き飛ばした。
ヒビの入った顎を蹴り抜き、がら空きのコアを撃ち捲った。あっという間に物言わぬ屍となった敵を踏みつけ、声高らかに張り上げる。
「どんどん来いよ! 近界民ども! 愉しく地獄に送ってやる!!」
鋭い八重歯をのぞかせて、火乃音の
──結果からいえば、今回の防衛戦は大成功に終わったといえよう。
なにしろ、市民の死亡者はゼロ、重傷者も22人と、
4年半前の大規模侵攻を遥かに超える規模だったことを思えば、驚異的かつ神業的勝利である。
ラービット9体を倒した火乃音は、太刀川、三輪、天羽らに並んで特級戦功を頂戴した。
「でも、訓練生が何人か攫われたんだろ……? 貰っていいのかな……」
ぼやく火乃音の頭を、迅がくしゃりと掻き回した。
「貰えるものは貰っとけって。お前はほんとうに良くやったよ。ラービットの撃破数は太刀川さんに次いで2番目だぜ? 充分凄いって」
「……ありがと。でも髪ぐちゃぐちゃにすんなよな」
「ははは。ところで火乃音」
「んあ?」
振り仰いだ迅の瞳は、いやに真剣だった。
「おまえ、おでこになんかできてるぞ。体調は平気か?」
「なんだそれ」
言われて額を撫でてみる。たしかに迅の言う通り、眉頭と髪の生え際の中間あたりにひとつずつ、小さな膨らみがあった。
極小のたんこぶか何かだろうか?
痛みもないし、言われるまで気づかなかったくらいだが……
「ま、ヘーキだろ。なんもねーよ、って……ああ、そういえば」
二つ結びの毛先をくるくると弄りながら、火乃音がにやりと笑った。
「途中からさ、スゲー身体の調子よくなったんだよ。調べてみたらトリオン量がめっちゃ増えててさ。あんたを超える日も近いかもな!」
「──トリオンが、増えた……?」
「そっ。まあ成長期だし? アンタより強くなって引退させてやっからさ。楽しみにしとけよ! 今度はあたしが守ってやるから!」
笑って、火乃音が駆けていく。
迅は真顔で、彼女の背中を見つめていた。
見えなくなるまで、ずっと。
作戦室には誰もいなかった。
後頭部に手を伸ばし、眼帯の紐を解く。
あらわになった右顔は、左側と何一つ変わらなかった。
すべらかな額とそばかすの散った頬。前にはここに、火傷と深い傷痕があったはずなのに。
古傷がすっかり、消え失せている。
不思議だ、と思わないこともない。だが、誰かに言う気にもならなかった。
鏡から目を離すと、傷があったこと、その傷が消えたことも忘れてしまうのだ。
眼帯を取って鏡を見た時だけ、深層意識から疑問がぷかりと浮いてくる。
『傷は何処に行った?』
「──まあ、大したことじゃねえよな」
トリオン器官の成長が、肉体になんらかの変化を及ぼしているのかもしれない。トリオンもトリガーもまだまだ研究中の分野だ、有り得ないとは言いきれない。
「考えたところで答えが分かるわけじゃねーなら、考えるだけムダだな」火乃音は肩を竦めて独り言ちた。
ぺた、と鏡に手を置く。
紅い右眼が、鏡の中の火乃音をじっと見返していた。
to be continued