とある策士の外史旅(仮)   作:カツヲ武士

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蛇足ですね

ちょうど五千文字でまとまるように
しましたが・・・この人功績多すぎない?

中略しちまったよ

オリキャラのwikiですよー?



蛇足 司馬懿仲達 wiki

司馬懿仲達(しば・い・ちゅうたつ)

 

姓は司馬

字は懿

名は仲達  

 

晋連邦初代国王として知られ

当時を描いた伝記、四将伝

(司馬懿伝、公孫賛伝、孫堅伝、曹操伝)

における司馬懿伝の主役。

 

通称は至上王、または秦の始皇帝になぞらえ至高帝

 

 

 

後漢の混乱を纏め上げ晋国を建国した英雄である

 

晋は連邦国家で元首は議長だが

後漢からの脱却を宣言し、国の

礎を築いた司馬懿のみ国王とされる。

 

幼少の頃よりその利発さは知られていた。

それは姉弟や一門を合わせて司馬八達と

呼ばれていた中、彼女には司馬の鬼才と

言う通り名があったことが彼女の才が

余人を超越していた証と言える。

 

そんな司馬懿の人生の最初の転機は

九歳のとき。親と共に洛陽の学舎を

回っていた際に終生の師となる

楊修に出逢ったことであった。

 

楊修の智謀に触れた司馬懿は彼と同じ

学舎へ入門し、様々な教えを受けた。

 

洛陽の学舎で学ぶことが無くなった

司馬懿は、元服する前に楊修と共に

楊修の実家のある弘農へ行き

そこで後の議院七家の一人となった

李恢と出逢う。

同年代であり、共に秀でていた才を

認めあった二人は楊修の元でその

才を磨き、競い合って更なる成長を

遂げることとなる。

 

実務の経験を積むために楊修と共に、

李恢の実家の荘園で文官として働いた。

その手際は凄まじく、師弟の力で

人口は十倍、農作物の収穫も

十倍を越えるようにしたとされる。

 

また、このときに

議長徐州家の李厳。

議院豫州家の徐庶。

議院益州家の張任。

それらを支えた張松や

法正、徐晃、孟達、楊任、楊奉など

晋を支えた人材と交流し

文武に磨きをかけたと言われている

 

それからしばらくして、元服する事となり

洛陽への出仕を求められたときに、李恢

の遠戚とされる李儒とある契約を交わす

こととなる。

 

その内容は自らの手柄を譲る代わりに

洛陽からの風避けとなることであった。

(曹操伝)

 

現代ならこのような契約など、司馬懿には

なんの得も無いと思われがちである。

 

だが当時の洛陽は腐敗が酷く、

如何に才があっても元服したばかりの

司馬懿では老練な宦官や名家の者たちに

食い物にされる可能性があった。

 

そのため一応の名家であり、人畜無害な

李儒を風避けとすることで経験と功績を

積んだとされる。

 

第二の転機として知られるのは

涼州行である。

 

コレは当時の大将軍である何進が、

後の議院涼州家の馬騰とその義姉妹

の韓遂と謀り、敵対する宦官や

名家閥を滅ぼすための狂言であった。

 

はじめからソレを見抜いていた司馬懿は

武功の立て場であると主張し、渋る李儒を

連れて涼州へと入る。

 

途中寄った寒村にて、妹弟子にして

終生の友である姜維と出逢う。

 

この際李儒が姜維に教えを授けたと

されるが、その内容は基礎的な読書

算術と礼法であった。

この事から李儒は少なくとも司馬懿の

風避けになれる程度の知識を修めて

いたとされる。

 

涼州への援軍に来ていた長沙の孫堅とも

ここで面識を持ち、共に馬騰の狂言に

付き合い、武功を欲した孫堅に韓遂や

華雄との一騎討ちを行わせ

己は戦わずして武功を得た。

(孫堅伝)

 

このときに得た武功と褒賞金を使い、

売官制度を利用して李儒を九卿の

郎中令としたことが、司馬懿の

晋建国への契機の一つとなった。

 

武功を挙げた李儒を警戒した何進は

洛陽内に己より武名の高い者が

居ることを良しとせず、李儒を三品官

である安北将軍とし己の影響下と

しようとした。

 

このとき孫堅の三女である

孫尚香が人質として洛陽の李儒の

元に送られ、姜維と共に礼法を学んだ。

 

李儒を風避けとし、さらに

郎中令の権限を手にした司馬懿は

李恢の荘園の人間を役職につけた。

そして安北将軍としての権限を以て

将軍府を設立し、幽州や并州の

強力な将兵を纏め上げることとなる。

 

洛陽にて二年ほど経ったとき

何進は李儒に黒山賊の討伐を

命じることとなった。

 

これは大きな失敗をせずに勢力を拡大

しつつあった李儒を警戒した為であり、

黒山賊と鮮卑を利用して李儒を討とうと

した策であった。

 

その策を見抜いていた司馬懿は

黒山賊の中でも何進とは繋がりを

もたなかった者たちと接触。

助命と移住を条件に彼らを味方に

引き入れた。

 

また、涼州で縁が出来た羌族と交渉し、

鮮卑を敵視していた烏桓や匈奴を

説得。逆に鮮卑を囲む策を水面下

で遂行していた。

 

準備万端整えた司馬懿は官軍五千

(五百と言う資料もあるが、当時の

黒山賊は50万とも100万とも言われる

集団であり、現在では五百と言う数字

は有り得ないとされている)

を率いて出陣。

道中で後の幽州議長家当主となる公孫賛

率いる五千と、当時の并州牧董卓の配下

である張遼が率いる五千と合流。

 

一万五千の官軍と黒山賊の内通者を

以て、暗黒将軍による賊滅と言われる

殺戮劇が行われた。

 

当時は黒山賊の半数が殺され、半数が

埋められたとされたが

(これは白起の故事が引用されたとされる)

実際は半数以上が生き延び、長城を

越えた先で後の蒙州の都となる

新都を建設し移住していたのが

今では知られている。

 

黒山賊殲滅後は長城を越え、鮮卑の

殲滅をしようとしたが、司馬懿が

何かをするまでもなく羌や匈奴、

烏桓が長城の先で待ち受けていた

鮮卑を囲み殲滅をした後であった。

 

司馬懿を前にした騎馬民族達は馬を降りて

彼女を迎え、それに対して司馬懿は当然

のように一言『御苦労』と述べた。

(公孫賛伝)

 

何進が張った罠を喰い破り、漢の北方に

平安をもらたした司馬懿は、李儒と共に

その身を長城の北に置き何進や

宦官たちの目から外れる事に成功した。

 

そして師である楊修と李厳を手元に

呼び寄せ、李儒を隠れ蓑として

北方騎馬民族を纏め上げるように

依頼した。

 

当時の騎馬民族達は文字を持たず

力こそ法であると言う者たちであり、

李厳は力で、楊修は法でもって

彼らを纏め上げた。

(公孫賛伝)

 

司馬懿が北で暗躍しているとき、

漢では黄巾の乱と呼ばれる民衆に

よる一斉蜂起が発生していた。

(別記参照)

 

相次いで官軍が敗北し、各地の地方軍閥が

武装していくなかで何進は司馬懿に対して

黄巾賊討伐の勅令を下した。

 

これは李儒と司馬懿の仲を割くための

離間計であり、何進はこの時点で

彼らの関係を正しく理解していたと

されている。

 

黄巾賊討伐の命を受けた司馬懿は、

官軍三万、并州軍五千、幽州軍一万、

曹操が率いる三千の兵を以て広宗へ

進軍した。

(曹操伝)

このとき観戦武官として孫堅配下の

張昭と呂蒙が居た。

(孫堅伝)

 

孫堅こそ居ないが、四将伝の全員が

同じ勢力として一堂に会したのは

このときが最初で最後である。

 

戦に先立つ軍議において、

曹操が司馬懿に対して不敬を働き

罰を受けることとなった。

コレを不服とした曹操が司馬懿を

敵視したことが、

後の漢晋易姓革命へと繋がる。

(別記参照)

 

この戦において司馬懿は黄巾賊に

離間計を仕掛け彼らを同士討ち

させることに成功し、わずか二日で

広宗に居た賊は殲滅。この武功と

広宗に蓄えられていた莫大な資財を

漢へと納めたことで正式な

軍師将軍として任官された。

 

それから数年は李儒の名を使い

北方騎馬民族の統治政策に力を

尽くした。

(このとき、子である司馬師と

司馬昭が産まれているが父親が

誰かは知られていない。)

 

その後の何進の暗殺や

袁紹による宮中侵犯。

董卓による帝の保護といった

変事には関わって居ないとされる。

(曹操伝においては司馬懿の策と

されているが、このとき司馬懿は

第二子である司馬昭を産んだ後で

あり、洛陽の喧騒を嫌い幽州の

安北将軍府に居たとされている)

 

反董卓連合の結成前に袁紹と宦官の

讒言により、李儒は安北将軍から

免職されることとなった。

 

(実態はともかくとして)

安北将軍としての職務になんら

瑕疵はなかったにも関わらず

その職を奪われたと憤る李儒に対して、

元々傀儡なのだから分際を弁えるよう

諭したとされる。

この頃から李儒と司馬懿の間には

不信感が漂うこととなる。

(曹操伝)

 

反董卓連合が結成された際は

洛陽に赴いて孫堅と語り、戦ならば

董卓が勝つこと献帝が遷都を考えて

居ることを伝えた。

(孫堅伝)

 

洛陽の攻防戦においては

まだ本調子では無いのだからと

張任や李恢に止められ参戦を

許されず、虎牢関を守っていた

李厳の命を受けた孟達に連れられ

幽州へと送られた。

 

このとき曹操伝では虎牢関が空で

あったとされているが、これは

献帝が歴代の陵墓を移設するための

人員を求めたためであり、

その財を并州へと送るための軍勢に

司馬懿を預けたとされている。

 

 

その後、献帝の討死を知った司馬懿は

自らの不調を嘆き、連合が立ち去り、

荒らされた洛陽で途方に暮れていた姿が

確認されている。

 

・・・中略

 

 

曹操を討伐し、晋の地盤を固めた後に

己が決めた法に則り4年でその任期を

終え、師である楊修に議長の座を譲る。

 

その後は未だ安定していなかった西蒙へ

渡り、師に変わり姜維や呂布を支えた。

 

西蒙にて姜維により佩刀となる剣を献上

された際、至上と名付けた。

これが至上王と呼ばれる由来である。

 

自己顕示欲が薄かった司馬懿がなぜ

佩刀にそのような名を付けたかは

知られてはいないが、妹のように

可愛がっていた姜維からの贈り物に

対しての感謝の意とされている。

 

(俗論では己の立場を至上としソレを

宣言したとあるが、前記の通り司馬懿は

自己顕示欲が薄く、権力にも執着して

いなかったことはあらゆる資料によって

証明されているのであくまで俗説である。)

 

 

その後西蒙において十年に渡り戦と統治に

関わり続け、数多くの国や部族を制圧。

 

西蒙が安定すると晋の各地を巡り、

内部の不正や緩みを確認したとされる。

 

晋では不正をすれば司馬懿が来ると

され、内部においての不正の監査は

厳しく。監査員が不正をした場合は

国主にまでその追求が及んだ。

 

司馬懿は権力や財に溺れることなく

不正を糺すことで内部崩壊の芽を摘み、

自らが法を遵守し守らせることで

晋の千年国家としての礎を築いた。

 

通常、若くして国を築く英傑は内政を

軽視する傾向が強いため、

(家臣に武断派が多くなるので

内政よりも軍事に力を注ぐために

内政を重視できない場合が多い)

武力で築いた国は早期に崩壊するのが

常である。

しかしながら司馬懿は武力でもって国を

築いたにも関わらず、法と内政を重視し

外に敵を用意することで国内を纏めた。

 

若くして国を築いた英傑の中にあって

唯一の存在であると言えることから

後世の議長により至高帝と呼ばれる

ようになった。

 

 

外見は容姿端麗で知られ身長約160センチ。

髪の色は黒で肩にかかる程度の長さであった。

その美貌だけでも国を落とすとまで評され

西蒙や晋でも婚姻の話は幾度も出たが

全てを袖にして子の司馬師と司馬昭を愛した。

 

性格は冷静沈着。何時如何なる時もその感情を

顕にすることはないとされるが、師である

楊修や李厳、徐晃や姜維と言った友人たちの

前では表に出すこともあった。

 

また己に対する侮蔑は笑って流すだけの

度量はあるが、師に対する侮蔑には怒りを

隠そうともしなかった。

南陽にて長安からの使者が無礼を

働いた際、南陽全体が悲鳴を上げるほどの

威圧を受けたとの記録が数多くある。

(孫堅伝・公孫賛伝、その時南陽に居た

黄敍の日記にも残されている)

 

武術についても非凡な才を持ち

司馬懿と打ち合えたのは師である

李厳と同門の徐晃のみであり、

西蒙で猛将として知られた姜維や

呂布はもちろん。

漢最強の将軍と言われた公孫賛ですら、

騎馬を率いての戦ならまだしも

一騎打ちでは勝てないと公言していた。

 

弓を用いては水の上に立って的を射る。

槍を用いては突きで城門を破壊し

剣を用いては河の流れを変えたとも

言われ、至上を用いた際は師の李厳

すらをも上回ったとされる。

 

(それ以外では李厳が勝つのだから

武神がどれほどの武を持つのかは

想像すらできないが、弓の技や

城門の破壊は事実行われていたと

資料があるので剣以外の逸話での

虚偽の可能性は薄い)

 

文武に優れ、欠点と言える欠点の無い

存在と思われがちであるが楊修や

李恢からすれば真面目すぎて遊びが

少ないのが欠点だと言われており、

司馬師と司馬昭に対する教育は

楊修が率先して行ったとされる。

 

 

常に大局を見据え、最期まで滅私の

精神で国の維持に務めたことは、

その死に際し己の死後は大袈裟な

葬儀も大きな墓もいらぬ。

その金を施政に回すように。と命じ

己を佩刀の至上と共に領内の

林の中に作った小さな墓に入れるよう

厳命したとされることでも知られる。

 

当時の儒教にまみれた慣習を悪しき

ものと断じ、己の死すら利用して

その慣習を打ち消す策としたのである

 

司馬懿は最期まで自分が楊修の弟子で

あったことを誇りとしていたとされる

 

享年52才であった

 

 

 

 

 




逸話で判断した場合の運命的なので言えば
セイバーとアーチャーとランサーと
ライダーとキャスターとバーサーカーですかね

セイバーはまぁセイバーでしょう
王様だしアーチャーもできますね
ランサーは・・・まぁほかの人が
交じるんじゃない?って感じで

この時代の武将はみんなライダーですよね。

キャスター?陣地作成EXですよ?国作ってるし
千里眼あったらキャスターでしょ?

バーサーカーは不敬を許しませんからね
素手と鍼と剣ですよってお話


文才が上がって、もっとちゃんと
書けるようになったら
加筆修正するかもしれません

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