もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈8〉今年のコンクール体制

 フルート、クラリネット、サックス、ファゴット、オーボエ、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、パーカッション。学校中の至るところから様々な楽器の音が聞こえてくる。それは吹奏楽部のある学校ならもはや定番と言って良い、放課後の光景の一つかも知れない。彼らはロングトーンや基礎練習を通して己の音を磨いていたり、楽曲をさらいながら吹けないところを吹けるように練習していたり、もっと奥深く細やかな表現が出来るように試行錯誤を重ねていたり……と、その目的は十人十色だ。時には息抜きと称して短い曲を皆で合わせて楽しむことだってあるだろう。ここ北宇治でも、そういう光景を目にすることが無いではない。

 でも、自分たちの目標は一つ。全国で金賞を獲る。

 春に誓い合った通り、北宇治吹奏楽部はそこに向かって自分たちの音楽を突き詰めようとしていた。少しでも綻びがあれば、それは他との差になってしまう。特に全国出場を目指す上で、その前に立ちはだかる関西大会では明静工科、大阪東照、秀大附属、の三校が毎年必ずと言っていいほど揃い踏みする。通称『三強』と呼ばれる彼らは全国大会でも金賞常連校であり、ということは北宇治にとって絶対に負けられない相手となる。たった三枚しかない全国への切符を勝ち取るためには今よりももっともっと、自分達の音を高めなくてはいけない。そんな中で刻々と過ぎ去る時間を無駄に費やすいとまは、これっぽっちもありはしないのだ。

 そのことをしかと肝に銘じつつ、練習に没頭する日々は次第に速度を増していく。気付けば五月のカレンダーもすっかり塗りつぶされ、あとは今日一日を残すのみとなっていた。

「鈴木。今の場所、音がもつれて不安定になってる」

「後藤先輩、それってどっちの鈴木ですか?」

「……悪い。さつきの方」

「はい」

 我らが低音パートの練習は卓也主導の下に行われている。それは春からずっと続いていた。今年のパートリーダーは卓也であり主役はあくまで『本来の』三年生なのだから、とのあすかの判断には久美子を始め、パートの面々もすっかり同意している。あすかもあすかで今年はコーチ役として吹部全体の指導に関わる立場となっている事もあり、パート練習の時間には不在なことも多かった。それでも今日は時間に余裕があるらしく、今は久美子や夏紀と一緒に椅子を並べてパート練習の輪の中に加わっている。

「ユーフォは久石が、全体的にちょっと走ってる。もっと周りの音聴いて」

「はい」

「それじゃもう一回、課題曲を頭からやろう」

 三、四、と卓也が合図するのに合わせ、全員で音を鳴らしていく。まだコンクール曲の楽譜が渡されてから数日しか経っていないが、少なくともパート内では躓かずに最後まで通せるぐらいにはなってきた。明日には課題曲と自由曲を初めて合奏で通すことになっており、部員たちの練習にも余念は無い。もし不出来なところがあれば、あの滝によって合奏中に散々こき下ろされるのは目に見えている。そこにトラバサミがあると分かっていれば誰だって迂回しようと考える。それが人間の心理というものである。

「……うん、今の感じで良いと思う。それじゃちょっと休憩挟んで、そのあと自由曲」

 ぷはあ、とユーフォのマウスピースから口を離し、久美子は楽器を膝の上に横たえた。ついさっきまで自分の息が吹き込まれていたせいで、金色に光る管体は微かに温かくなっている。それを指でついとなぞってから、譜面台の楽譜を課題曲から自由曲のものへと差し替えていく。

「それにしても滝先生、結構ばっさりカット入れて来たなあ」

「しょうがないですよ。全部フルに通せばニ十分ぐらいはかかる曲ですから」

 それはそうなんだけど、と久美子は緑輝に仏頂面を返した。目の前の楽譜はあちこちが大きく×(バツ)で潰されていて、工事中の区間を表す路面地図みたいになっている。それを一通り眺め、久美子はもう一度息を吐いた。

 昨日の夕方、帰りのミーティングの最中に滝から発表されたのは、自由曲である『リズと青い鳥』のカットに関するものだった。吹奏楽コンクールでは規定上、一団体の演奏時間は課題曲と自由曲を合わせて十二分以内と定められている。他にも人数は五十五人までとか色々規定はあるのだが、違反した団体はその場で失格となってしまう為、どの団体も規定をしっかり守って本番の舞台に臨む必要があるのだ。

 このうち課題曲に関しては楽譜通りに演奏することが求められる為、曲のカットおよびテンポを不自然に上げて早回しするなどの行為は一切認められない。となるとカットを掛けることが出来るのは必然的に自由曲、ということになる。複数ある課題曲から今回滝が選んだ『ラリマー』は、今年の課題曲の中では最も短いものではあるのだけれど、それでもどう見繕っても三分は掛かる曲だ。ここから逆算すると自由曲に掛けられる時間は九分未満となり、合間の準備や本番でのテンポの揺らぎなどを考慮すれば、出来れば八分三十秒くらいまで落とし込みたいところである。今しがたの緑輝の説明通り、本来はニ十分かかる曲をそこまで削る以上、曲の全編に及んでかなり大胆なカットが行われるのも仕方の無いことではあったし、久美子にだってそのぐらいは推測できていたのだった。

「そうは言っても第一楽章と第四楽章のとこにあるユーフォのソロ、まるまる削られちゃったんだよ。なんか残念」

 うんうん、と梨子も久美子に共感するように頷く。

「久美子ちゃんがそう思うのもちょっと解るよ。私もカットされちゃった第一楽章の後半、結構好きだったもん。チューバソロがあるとかじゃないけど、陽気で楽しい感じだったから」

「ですよね。それと第二楽章の後半も、低音が主役っぽいトコあって良いなって思ってましたし。どっちも削られちゃいましたけど」

 今回のカット、大半は曲の主題がハッキリ見える部分を掬い上げる形となっている。ただ切り落とされた部分にもそれなりに旨味があり、いくらコンクールの為とは言え勿体無いような気持ちもある。いつの日かこの曲を全編通して聴衆の前で披露する機会があって欲しいものだ。それも出来れば、三年生が引退してしまう前に。

「まあまあ良いじゃん久美子。『ラリマー』にもユーフォソロあるんだし、そっちで頑張れば」

 盛り下がった久美子を見かねてか、葉月がフォローの声を掛ける。

「それはそうなんだけどさ。私けっこう『リズ』のソロも良いなーって思ってたんだよ。特に第四楽章のヤツ」

「分かるぞー久美子黄前。あの朝日に向かって飛び去る青い鳥を見送るリズ、っていう雰囲気のところはユーフォの最高潮の見せ場ね。そこで入ってくるオーボエのハイトーンも合わさって強い情感を演出するところだし。あと中盤にもフルートソロに繋がるところもあるんだけど、あそこの解釈はねえ……」

「ちょちょ、ちょっとあすか先輩。その辺の話はまた今度ゆっくりお願いします」

 拳を振って演説を始めようとするあすかを、久美子と葉月は二人掛かりでどうにかなだめすかす。この人が本腰で語り出したらゆうに十分間は練習が止まってしまう事になりかねない。

「でもこの曲って、改めて見てみるとホント、オーボエが主役って感じだよねえ」

「あ、梨子先輩もそう思ってたんです? 実は私も」

「梨子先輩や葉月先輩がそう思うのも当然だと思いますよ。実際カットされた後の楽譜を見てると、いちばんの主題を吹いてるのがオーボエで、そこに寄り添うようにフルートソロが並行していく構成になってますし」

 美玲の説明を噛み砕くような仕草で、さつきがほうほうと頷く。その最中に突如「ふわぁぁ」と求が大きな欠伸をした。その退屈げな様子を見た梨子が気を配るように、求へと声を掛ける。

「そう言えば、求君は前にこの曲やったことがあったんだっけ。今回のカットについてはどう思う?」

「はあ、まあ特には。いいんじゃないですか、こんな感じで」

 応える求の声色はいかにもどうでも良さげで、けんもほろろ、といった具合だった。彼は基本、緑輝以外のほぼ全員にこんな態度を貫いている。奏とは別の意味で扱いづらい存在だと感じていた久美子は昨今、彼への対応を緑輝にほぼ丸投げしていた。恐らく求にとってもそのほうが居心地良いに違いないという、つまりは久美子なりの配慮のあり方というやつだ。

「やっぱり今年の課題曲って、鎧塚先輩と傘木先輩に合わせて選ばれたんですかね」

「葉月先輩もそう思いますか? 私もこの曲は、そこを意識して滝先生が選んだのかなーって考えてました。鎧塚先輩も傘木先輩も、どっちもすごく上手いですもんね」

「さっすがさっちゃん、話を分かってくれるぅ!」

「葉月先輩!」

 意気投合した二人はひしと抱き締め合う。その光景は微笑ましい、というよりはどこか滑稽で、隣で見ていた美玲も小さく苦笑を洩らしていた。

「参考演奏のCD聞く限り、第三楽章のオーボエソロなんてほぼ全編だもんねえ。最後にはカデンツァもあるし、確かここはカットされてなかったよね?」

「だな」

「これはみぞれ大変そうだなー。まぁあの子なら、平気な顔してサラっと吹いちゃうんだろうけど」

「あはは、確かに」

 夏紀達三年生組の談笑を眺めながら、久美子も想像してみる。確かにみぞれならば、あんな譜面であっても事も無げに吹き切ってしまうのだろう。そこに沿うフルートのソロも、希美の力量を思えば全く問題は無いと言える。あれほど情感豊かなこの曲のソロを、みぞれたちはどんな風に吹くのだろう。この曲はどんな形に仕上がるだろう。それを思うと今から胸が期待に沸き立つような心地だった。葉月たちの言う通り、今回の選曲はみぞれと希美のため、と言うべきものなのかも知れない。

「本当にそう?」

 意表を突くその一言に、「え?」と全員があすかを注視する。

「ざっとスコア見ただけだけどさ、この曲ってけっこう木管主体って感じじゃん」

「それはまあ、そうですね」

「ソロの部分も確かに大事だけど、曲ってのは他のパートも含めて構成されるわけで、『リズ』はそこの難易度も高いと思うよ。基本的に穏やかな場面が多い分、表現も緻密に絞っていく必要もあると思うし」

 ふむ、と美玲が口元に手を当て一考する。あすかの説明はなおも続いた。

「そこで木管の表現力が弱かったり金管やパーカッションとのバランスが悪かったりしたら、この曲が描こうとしてるものがぼやけたり霞んだりするワケよね。要は個人の力量だけがどんなに高かろうが、トータルでの演奏力が問われるコンクールでは通用しないってこと。滝先生が『リズ』を選んだのは、まあ私の推理でしかないけど、北宇治全体のレベルがこの曲をこなせるところまで上がって来てるって、そう判断したからじゃない?」

 なるほど。これには久美子も思わず唸らされる。本当のところは滝しか与り知らぬところではあるのだろうが、それでもあすかの分析には一定の筋が通っているように思えた。幾人かの技術がどれだけ抜きん出て高かろうとも、他の人達の音がそこへ追い付けなければ全体で良い音にはならず、音楽としてもチグハグなものになってしまう。それが集団音楽、そして吹奏楽というものだ。

「私も別に、みぞれちゃんや希美ちゃんの演奏技術を考慮しなくていいとか思ってるワケじゃないけどね。二人につられて他の子が腕を上げてる部分もけっこうあると思うよ。特にフルートパートは全体的に、去年よりも随分レベル上がってるし」

「あー、それは私も一年生の子達を指導してて思いました。経験者が多いからってのもありますけど、何より上手い子が多いですよね。今年のフルートって」

「黄前ちゃんの言う通りだね。二年の子もそれに負けてられないと思って練習頑張ってるのもあるんだろうけど、パート全体がどんどん上手くなってるのはやっぱり、希美ちゃんのおかげかな」

「傘木先輩が、ですか? パートリーダーじゃないのに?」

 真ん丸に開いた目をくりっと上目遣いにしながら、さつきは小首を傾げてあすかに尋ねる。

「表向きパートを取りまとめしてるのは調(しらべ)ちゃんだけど、練習中に意見出したりして中心的に指導してるのは希美ちゃんの方だろうね。後輩の子らも、希美ちゃんにはかなり信頼寄せてるみたいだし」

 調ちゃん、とはフルートのパートリーダーを務める三年生、井上(いのうえ)調(しらべ)のことだ。一度退部して昨年復帰した希美とも彼女は仲良くやっているようで、現在のフルートパートは一見して和気あいあいと日々の練習に取り組んでいる。その様子を久美子も度々見かけてはいた。

 ただ調の演奏技術に関して言えば、本人には申し訳無いが、希美のそれと比較するには余りにも差があり過ぎる。希美は吹部を離れていた間は一般の楽団に籍を置いていたらしいが、その去年の時点ですらフルートパートの誰よりも希美の方が上手い、と感じるほどだった。

「確かに希美ちゃんって元から練習熱心だし、音楽のことにも詳しいもんね。指導役にピッタリって感じ」

 梨子の見解に、そうだね、と夏紀も同意を示す。

「上手くて詳しい人に教えてもらうのって上達の近道だからね。私が言うのも何だけど、今年のフルートの練習体制って結構理に適ってると思うよ」

 それに、楽器の上手い人が必ずしもリーダーを務めるとは限らない。人望。コミュ力。几帳面さや責任感。リーダーに求められるそれらの資質は勿論、希美だって十分に兼ね備えている。けれどひょっとしたら、当の希美が調をパートリーダーに推挙したのかも、と久美子は推察していた。

 何しろ調は希美と違って三年間、部に在籍し続けているという実績がある。もしも希美が部を辞めることなく在籍していたとしたら、彼女がパートリーダーになっていた可能性はかなり高かっただろう。だがそうではなかった希美が遠慮してリーダーの座を辞退した結果、調がパートリーダーに就任したという可能性は大いにある。いずれにしてもその辺りの経緯など、部外者である自分にはおよそ分からぬ話ではあるのだが。

「フルートパートが急激に上達してるから、その分クラとかサックスも引っ張られるようにしてどんどん上手くなってますからね。緑は今の吹部の状態、すごく良いなって思ってます」

「そうそう、そういうことよサファイア川島」

「緑ですよぉ」

 あすかに本名をイジられ、緑輝のほっぺがプクーっと風船のように膨れる。針でつついたらパンと弾けてしまいそうで、そうしてみたい衝動に駆られた久美子の指先がチリリと小さく疼いた。

「上手くなったと言えば、夏紀もだよね」

「え、なにさ急に?」

 唐突に名を呼ばれ、はたと夏紀は梨子を見やる。

「春からかなり上手くなってるなーって。ね、後藤君もそう思うよね?」

 梨子は卓也にも話を振る。彼はしばらくの間、どぎまぎしている夏紀をじっと凝視していた。やがて一つ息をつき、それから卓也は掛けていた眼鏡を指で押し上げる。

「うん」

 真摯な面持ちで卓也が肯定すると、それに夏紀は息を呑んだ。

「うわー、ホントやめてこういうの。苦手なんだって、私」

「照れなくてもいいって。夏紀がここんとこ一人で練習頑張ってたの、もうみんな知ってるし」

「私も思ってました、夏紀先輩どんどん上手くなってるーって。みっちゃんだってそう言ってたんですよ」

「ちょっとさつき、そこで私の名前出さないでよ」

「えーどうして? 本当のことなのに。最近の夏紀先輩メッチャ上手くなってるから、自分も負けないように練習しなくちゃって言ってたじゃん」

「だからそれを皆の前で言わないでってば」

 茹でダコみたく真っ赤になった美玲の慌てぶりがあまりに物珍しくて、一同はどっと笑いに包まれる。その輪の中で、夏紀はまだ照れくさそうに鼻の頭をぽりぽりと掻いていた。それを見ていた久美子の心にも、コトリと温かいものが転がり落ちる。

 先日の密談の後、夏紀があすかとどれだけの秘密特訓を重ねてきたことか。久美子には何となく想像出来るところではある。日々の練習と並行して、かつ他の人たちの目を忍んで行われる特訓を一日とて欠かさずにこなすのはいかに大変だっただろう。けれどその甲斐あって、近頃の夏紀の腕前はこうしてパート内で音を合わせていてもまるで遜色が無いばかりか、時に久美子ですら夏紀の奏でる音の綺麗さに脅威を覚えることまであった。

 無論それは久美子にとって、大いに歓迎するところだ。例え先輩であろうと負けるわけにはいかない。今の自分が越えるべき壁は、それよりずっと高い所にある。仲間同士で切磋琢磨し、より良い音楽を作り、全国金賞という遥か高みを全員一丸となって目指す。そのプロセスはきっと、自分の目指す『特別』へと至ることにも繋がっていく筈だ。それに夏紀の努力を陰ながら知っていた身としては、その苦労がこうして報われるのは純粋に喜ばしいという気持ちもあった。

 そう。自分はそうだ。でもあの子にとってはどうだろう。久美子は気取られぬよう、夏紀の隣に座る奏へと目を向ける。俯き加減な奏の表情は、ちょうど陰鬱さを退屈で割ったようにうっそりと翳っていた。いたって無機質にユーフォのピストンをカタカタと指でいじるその仕草からは、彼女の内側でふつふつと煮え滾る苛立ちが噴きこぼれているような、そんな印象すら受ける。

 奏の孤立は日を追うごとに、目に見えて深まっていた。久美子の中では「先輩としてどうにかしなければ」と逸る気持ちと「迂闊に手を突っ込んではいけない」という本能的な危機感とが、まるでアクセルとブレーキを同時に踏み込むが如く相反している。美玲の憂鬱と比べても奏のそれは闇が深く、底が知れない。このまま放っておけば彼女の歪みはどんどん悪化してしまいそうだったが、かと言って己の内面を他者の手で強制的に暴かれる事を、奏は良しとはしないだろう。最悪そのまま永遠に心を閉ざしてしまいかねない、そんな予感さえある。

 いっそ美玲の時のように、奏が感情を爆発させてくれたら。その方が久美子にとってはまだマシだった。『雨降って地固まる』ではないけれど、一過性の問題として露出した方が場を執り成しやすく傷痕も残りにくい。奏の場合、もはやそれは傷ではなく病巣と言えるほどに膿んだ段階。そしてそれによって蝕まれるのは他ならぬ奏自身なのだ。その膿は既にジワジワと、しかし確実に、奏と周りの者たちへ浸潤しつつあった。

「そろそろ練習始めよう。それじゃ自由曲、今日は第二楽章から――」

 卓也の一声で練習は再開され、久美子も楽器を構える。奏の抱えるユーフォのベルから放たれた音は今日もどこかゴワゴワと、形容しがたい濁りを孕んでいた。それは皆の音と馴染むことなく、水の上に浮いた一滴の油のように、所在無さげにはみ出ていた。

 

 

 

「麗奈」

 露天の渡り廊下へと出る扉のところで麗奈の姿がそこにあるのに気付き、久美子は扉を開けながら声を掛けた。こちらに気付いた麗奈の髪が風になびき、さらりとたなびく。

「久美子も練習上がり?」

「うん、でももうちょっとここで個人練しようと思って。麗奈も?」

 麗奈の手に構えられたトランペットはちょうど、山際に沈もうとする太陽と同じ黄金色をしていた。キラリと眩く反射するベルが、空に向かって音を放つように正面の角度を保っている。

「私は何となく、かな。家に帰る前にもう少しだけ、吹いておきたくて」

 ふうん、と相槌を打ちながら、久美子は抱えていた譜面台を麗奈の隣に並べる。麗奈の父親はトランペットのプロ奏者で自宅にはトレーニング用の防音室もある、と以前に聞いたことがあった。単に練習したいだけならそっちでやった方がよほど能率が良いに違いない。自宅なら周囲に何の気兼ねも無いし、それに余計な雑音も少ない筈だ。

「何かあったの?」

 それとなく探りを入れてみると、麗奈はきゅっと唇を噛むように押し黙った。ほぼ水平の位置にあったベルがおもむろに下がり、完全に下を向いたところでようやく、麗奈が口を開く。

「パート割りのことで、さっき優子先輩と話し合ってて」

「先輩とケンカしちゃったとか?」

「別にケンカじゃなくて、ただの意見交換だけど」

 意見交換。その取って付けたような麗奈の言い回しに、久美子は洩れかけた苦笑を寸でのところで堪える。優子と麗奈はどちらも似た者同士というか、自分の信念をまっすぐ貫き通すタイプの人間だ。互いに絶対譲らないということも無いのだろうが、あの二人が一旦話し合いの席に着いて穏やかに話が進む光景はどうにも想像しにくい。こちらの沈黙をどう捉えたか、それには構わず、麗奈は続きを語り出した。

「パートの一年に、すごい上手な子がいてさ。難しいフレーズも吹けるし高い音も綺麗に出せるから、私はあの子がファーストトランペットを吹いた方がいいと思ってる。でも先輩は、その子をサードにするって決めたの」

「どうして?」

「本人がファーストをやりたがらないから」

 くだらない。そんな感情の籠る溜息を麗奈が吐く。愁いを帯びる彼女の長い睫毛が零れる夕陽を梳いて、ぱちりと翻った。

「優子先輩は本人の意見を尊重してそうした、って言うんだけど、でもそれっておかしいことじゃない? 実力があって適性もあるなら、そういう子がファーストを吹く方が良い。北宇治が全国でもっと上を目指すなら、そうするべきだと思う」

「それはそうだね」

「でしょ? だから私、先輩に言ったの。実力重視で選ぶのならあの子は絶対ファーストになるべきだって。でも優子先輩はどうしても本人次第だから、って譲らなくて」

「なるほどねえ」

 こうして聞く限りだと、麗奈の言い分と優子の言い分、どちらにもそれぞれ一理あるように思える。実力のある人間が相応のポジションに就くことは麗奈の言う通り、何も間違ってはいない。全体のサウンドに関わる部分でもあるし、その方が音楽的により向上を望めるというのなら、実力主義を掲げる北宇治としては是が非でもそうするべきだろう。

 けれど、本人のやる気という問題もある。どんな事情か知らないが、その子自身が嫌がっている状況で無理強いをしても良い演奏が出来るとは限らない。そこを優子が重視しているのだとすれば、全体に破綻をきたさぬように、という彼女の意図もまるっきり無視することは出来ないように思える。

「その子って、どんな子なの?」

小日向(こひなた)(ゆめ)さん。久美子も知ってるでしょ」

「あー、えっと、経験者の子だっけ? 指導係で教えたこともあったような」

 突然出てきた名前と顔がなかなか一致せず、取り繕うようにそんなことを口にしてみる。それに対して麗奈は、何言ってるの、と言わんばかりに呆れた表情を向けてきた。

「それより前に、私たちと同じ北中吹部の後輩だってば。もしかして忘れてる?」

「えぇ、居たっけそんな子」

 そう言われたところで、その子の人相などこれっぽっちも浮かんでこない。そりゃあ麗奈にとっては中学時代から直属の後輩だったのだろうし、顔も名前も覚えていて何ら不思議は無いだろう。けれど久美子にしてみれば、他のパートの子のことなんて殆ど記憶に無い、というのが正直なところだ。実際本人に面と向かってみれば『ああこの子か』と思い出せる可能性も無くは無いのだろうが。

「とにかく、ひとまず小日向さんにはこのままサードで頑張ってもらうってことで、優子先輩に押し切られた」

「麗奈が折れちゃったんだ、珍しいね」

「別に折れてない。さっきの話し合いじゃ結論も出なかったし、まさかパート割りが決まるまで練習しないってワケにもいかないからあくまで暫定の話。私はまだ納得してないし」

「だろうね」

「久美子だってそう思わない?」

「そうだなぁ……」

 これは確かに悩ましい問題ではある。多分、麗奈と優子のどちらが正解ということも無い。何よりもまず、その子がファーストをやりたくない、という消極的な姿勢なのが一番の根っこだ。小日向夢は何故ファーストポジションを嫌がるのか。そこがハッキリしなくてはどうにも手の打ちようが無い。

 こんな時、あすかならどうするだろう。久美子は無意識のうちにそれを考えていた。きっと去年のあすかだったら、鼻で冷笑してこう言い放つに違いない。

『別にいいんじゃないの? 本人がサード望んでるんだから、サードにしとけば』

 でも、今年のあすかはコーチ役だ。部全体の音をチェックしていく立場にあるし、それに何より去年とは部員たちとの関わり方が少し違っているような、そんな気がする。夏紀に徹底マンツーマン指導をしたり、昨年レギュラー落ちした葉月にも篤く目を掛けてあげていたりと、色んな意味で先輩らしい振る舞いをしている姿を見かける機会が格段に増えている。今のあすかならひょっとして、こういう問題にもきちんと先輩らしく対処してくれるかも知れない。

「わかった。じゃあ今度、その小日向さんと直接面談してみるよ」

「久美子が?」

「私だけじゃちょっと不安だから、あすか先輩にもお願いしてみる。それにあすか先輩の言う事だったら優子先輩だって聞かない訳にいかないでしょ? 小日向さんから直接話を聞いてみて、どっちが良いかって解ったら、あすか先輩から優子先輩に話を通してもらう方がスムーズなんじゃないかな」

「それは、あるかも」

「そこですぐ結論は出ないかもだけど、その小日向さんも麗奈たちには言いにくい事もあるかも知れないし。とにかくまずは本人と直接会って話してみる。あすか先輩には私から話しておくから、麗奈は優子先輩や小日向さんに時間作ってもらえるよう頼んでみて」

「分かった」

 頷いた麗奈の表情がほろりと綻ぶ。その捉えどころの無さに、どうしたの、と久美子は麗奈に尋ねた。

「久美子のそういうところ、私じゃ絶対真似できないなって思って」

「何それ。もしかして、悪口?」

「そうじゃなくて」

 へそを曲げかけた久美子をなだめるように、麗奈はそこで小さくかぶりを振った。

「私はこういう時、自分で何とかしよう、ってすぐ考えちゃうから。優子先輩もそういうところあって、それで今回はお互いぶつかっちゃったけど、でも久美子は今みたいに他の解決策を思いついたり出来る。何にも考えてないようでいて、実はちゃんと冷静に周りを見てて。そうやっていつの間にか他の人を結びつけるのを見てると、久美子は人に取り入るのが上手だなって、いつも思う」

 はにかみながら、麗奈が手を差し伸べる。それに導かれて、久美子も自分の空いた手を差し出した。そっと握られた麗奈の掌は少し冷たくて、けれど、とても柔らかかった。

「やっぱり悪口じゃん」

 軽口を叩きながら、久美子も麗奈の手を握り返す。自分の温もりが麗奈に伝播して、二人の温度はぴったりと一致した。くすりと吐息を零す麗奈の微笑みは、燦然と雲霞を焦がす夕陽にも負けぬほど美しく輝いていた。

「ところで久美子はどうするの?」

「どうするって、何を?」

「あがた祭り。今年は塚本と行くの?」

 麗奈に言われるまですっかり忘れていた。五月が今日で終わり、明日からは六月になる。それはつまり、あがた祭りの日がもうすぐやって来ることを意味していた。

 

 

 

 

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