コンコン、と戸を叩く音が室内に広がる。
「どうぞ、入っていいよ」
久美子が声を掛けると「わひゃい!」とへんてこな返事がして、ゆるやかに引き戸が開けられた。
「あなたが、小日向夢さん?」
「は、はい。そのぅ、すみません。私なんかが先輩方の貴重なお時間を潰してしまって」
「あー、別にいいよ。私いちおう新入生指導係だし、そんなのは気にしなくても。さ、とりあえず座って」
「すみません、お気を遣わせてしまって。あのう、それじゃ、失礼します」
おずおずと家庭科室に入って来たのは、自分よりも一回りほど小柄な女子だった。眼鏡をかけ長い髪を三つ編みのおさげにしている彼女の容貌には、こうして実物を目の当たりにしてみてもやはり全く見覚えが無い。麗奈いわくは北中時代の後輩らしく、ということは久美子も彼女と二年間は一緒に同じ吹部で活動していた筈なのだが、どういうわけだかこの後輩に関する印象はこれっぽっちも自分の中に存在していなかった。
その一年女子、小日向夢はどうやら相当に気弱な子のようで、カタカタと微かに震えながら教室の一角に設けられた面談用の席へと歩み寄っていく。その先ではあすかが足組みをして腰掛けに肘をつき、不遜な態度で後輩の着座を待ち構えていた。まるで寝ぐらにひそむ熊と、そこへうっかり踏み入ってしまったウサギみたいな恰好だ。念のため『ただいま面談中』と大きく書かれたホワイトボードを入口の戸に掛け、それから久美子も席へ向かう。
「あ、あのぅ。本当にすみません。私のせいでこんなことになってしまって。皆さんに迷惑ばっかりお掛けしちゃって、どうしようもないって自分でも分かってるんですけど」
「そんな大げさな話じゃないって。それと『すみません』って言うの、もう三度目だよ」
「うあぁ、そうですね。謝ってばかりですみません」
こちらの指摘も虚しく、夢は同じ謝罪の語句を繰り返す。そうしてペコペコと頭を下げる夢の姿が久美子には何だか哀れに見えてしまう。状況的に見ても、先輩二人を前にあれこれ聞かれるというのは、当人にしてみれば圧迫面接のようですらあるのかも知れない。そういうつもりは無いんだよ、ということを態度で示すために久美子はあえて夢の隣の椅子を引き、あすかと対面する位置を選んだ。
「時間が勿体ないし、始めよっか」
「はっ、はい。よろしくお願いします、えと、田中先輩」
「えーっと、じゃあ夢ちゃんって呼ばせてもらおうかな。早速だけど夢ちゃん、なんか悩み事とかはある?」
「悩み事、ですか。えっと、特には無いです。自分があまりにもダメ過ぎて、他のかたにご迷惑をお掛けしてるってことぐらいで」
「充分悩み事だよ、それ」
そう喋ってから、しまった、と久美子は口を押さえる。また自分のうっかりが口をついて出てしまった。
「あっ、そうですよね。本当、黄前先輩の仰る通りです。こんな風にどうしようもないダメ人間で、私」
「いや別に、私は小日向さんのこと詳しく知らないし、ダメ人間とは思わないけど」
「いいんです、気を遣っていただかなくて。自分がダメなのって自分で一番良く解ってますから」
何だろう。とりつく島もない、というのはこういう状況を言うものなのだろうか。夢の口から出てくるのはどれも自己否定の言葉ばかりで、一向に話が前に進む気配が無い。こんな子が本当に、演奏技術に関しては麗奈の言うような達者ぶりだというのか? 夢の一連の挙動を見ていると、俄かには信じがたいものがある。
「んー。こりゃ和やかに雑談から入っていくよりは、さっさと直球いっちゃったほうが良さそうかな」
あまりの煮え切らなさにか、あすかも鼻からフン、と息を吐く。
「じゃあ夢ちゃん。ズバリ聞くけど、ファーストやりたくないって言ってるんだって?」
「あっ、ハイ。ええと、」
「どうしてなの? 夢ちゃんが練習してるとこ私も何度か見てるけど、フツーに上手いじゃん」
「いえ別に、私なんて上手くも何ともないですから」
「ハイ、その自虐ネタは以後禁止。それよりさっさと理由を説明してちょうだい。ホラホラ」
「それはですね、あの。私みたいにダメなやつがファーストみたいに目立つポジション吹くのなんて申し訳なくて。それに、失礼ですし」
「失礼? 誰に?」
「それは、他の先輩方とか、周りの皆さんとか」
宣言通り、あすかは夢に次また次と直球を放っていく。それに一つずつ夢が答えを返すことで、さっきまで足踏み状態だった会話は玉を転がすようにどんどん進行していった。二人の様子を傍で聴きつつ、久美子は黙って唾を呑み込む。同じことを自分がしても同じようには出来る気がしない。それも全てはあすかの手腕なればこそ、と言うべきなのだろうか。
「そんなの誰も気にしないと思うよ? 少なくとも今の吹部はみんな実力主義でやって来てる子達ばかりなんだし。先輩だろうが後輩だろうが上手い子が吹く、っていう考え方でオーディションも選ばれるんだから、夢ちゃん一人がパート割りなんか意識したってしょうがなくない?」
「それはそうかも知れませんけど、でも私が気にしちゃうんです。それに高坂先輩と吉川部長もそのせいでケンカしちゃったりして。それもこれも全部、私のせいで」
「麗奈は別にケンカはしてない、って言ってたけど」
久美子が横から口を挟んでみたものの、そんなこと無いです、と夢は物凄い勢いで首を振る。
「こんなやつだから、私にはファーストなんて到底ムリなんですよ。でも高坂先輩は絶対に私をファーストにした方が良いって言うんです。私がこう言ってる以上無理にファーストにはさせられない、って部長は言って下さったんですけど、そしたら高坂先輩が『本気で全国金獲るつもりあるんですか』って部長に噛みついちゃって」
夢の吐いた息は場を染め抜くほどにどんよりと青白い。そのあまりの重苦しさは、つられてこっちまで溜め息が出てしまいそうなほどだった。
「私なんか居なければ良かったんです。私が無能なせいでお二人が揉める原因作っちゃって、そのせいでパートの人たちもビックリしちゃって、しばらく練習になりませんでしたし。……きっと皆さん、あいつさえ居なければって、今頃そう思ってます」
「そうだね」
あすかはきっぱりと夢に言い放った。ちょっと先輩、という久美子の窘めも意に介さず、彼女は続けて夢に問う。
「で? 夢ちゃんはどうしたいの。目立つのなんて申し訳ないって言ってたけど、もしも滝先生にオーディションで選ばれちゃったら、ポジションがどこであれコンクールに出ることには変わりないよ。それとも辞退でもする?」
「辞退、ですか」
そこで夢は、ふ、と乾いた笑みをこぼした。
「そうですね。私なんかが皆さんの席を奪うなんて許されないですし、それだったらいっそ辞退した方が、」
「ふーん? 自分のことダメだダメだって言う割に、自分が選ばれるのには自信があるんだ?」
あすかの指が机の上に円を描く。唐突な一突きを食らって、夢の両肩がギクリと跳ねたのが久美子にも解った。
「あ、いえあのその。決してそんなつもりじゃ、」
「謙遜なんかしなくてもいいって、実際上手いんだもん。確証は無いけど、夢ちゃんぐらい上手い子だったら滝先生がコンクールメンバーに選んだっておかしくないと思うよ」
「そんなんじゃないんです。私、人が見てるところで吹くとあがっちゃって、全然まともに吹けなくなるんです。ですからその、オーディションだってきっと落ちちゃうと思うし」
「それが本音か」
あ、と吐息を洩らした夢の顔から一瞬にして血の気が失せていく。
「つまり夢ちゃんがファーストをやりたくないって言ってるのは、あがり症な自分が目立つところを吹いて本番でミスするのが怖いって、そういうことでしょ」
白く照り返る眼鏡のレンズ越しに、あすかの鋭い眼光が顔面蒼白の夢へと突き刺さる。肝を無理矢理引きずり出されカクリとうな垂れてしまった夢には、蚊の鳴くような弱々しい声で「はい」と返事をするのが、どうやら精一杯のようだった。
その無遠慮な一撃に震え上がったのは夢本人ばかりではない。鋭い洞察力。巧みに回答を引き出す話術。時に理詰めで言いくるめ、時に相手の言い分をいなし、かと思えば及びもつかぬところから急激に仕掛ける誘導尋問の手管。それらを可能にする頭の回転の速さ。これこそがあすかの本領なのだ。がくがく、と背骨を揺する怖気を堪えるように身を縮こまらせつつ、久美子はあすかの言葉の続きを待つ。
「落ち込んでるトコ悪いんだけど、私からしてみればさ、夢ちゃんのそういう気持ちって全然分からないんだよねえ。私はユーフォ吹くの大好きだし、暇さえあればずっと吹いてたいってぐらいだし、腕にも自信たっぷりだから。人前で吹くなんて朝飯前すぎて、ちょろいちょろい」
先輩ならそうでしょうね、と久美子は内心呆れ返る。この傲岸不遜ぶりと夢の自虐癖を足して二で割ったらちょうど良いぐらいだ。
「だから夢ちゃんがあがり症で自分に自信無い事に関しては、私にはどうにもしてあげられない。でもね、いざとなったら辞退すればいいって思ってるんだったら、それは考えが甘いよ」
「甘い、ですか?」
「そう。甘いっていうか、はっきり言って舐めてるね」
艶めいたあすかの唇が、つるりと滑らかに微笑の弧を描く。
「仮に先輩だろうが一年の子だろうが、みんなコンクールに出たいって思って必死でやってる。自分の手で全国金賞を掴み取りたい、その舞台に立ちたい、ってさ。そう思って臨んだオーディションで、そういう子達が落ちて夢ちゃんが受かる。なのに夢ちゃんが自信無いから辞退しますーなんて言いだしたら、その子達はどう思うだろうね」
夢がスカートの裾をギュッと握り締める。その手は緊張と不安で小さく震えていた。
「そういうの、想像してみたことも無かったでしょ? だから舐めてるって言ったの。自分よりも実力のある人間が自信が無いってだけの理由でやらないなんて言い出したら、他の人達からしてみればふざけんなって話よ。私の見る限り、夢ちゃんの一番ダメなのは、そういうコトが分かってないところ」
いたって普段と変わりなく、あたかも国語の教科書を音読するかのような口ぶりで飄々と吐き出されるあすかの言葉が、容赦なく夢を切り刻んでいく。今あすかがしているのは安直に問題解決を図る事ではない。彼女は今、夢の心の弱さに対して、徹底的に逃げ道を塞ごうとしているのだ。
「自分に自信が無いのは結構。そのせいで周りに迷惑掛けてるって自覚がある事までは良い。けど自分の行動で誰がどんな気持ちを抱くのか、どういう感情を向けて来るのかって事にはまるっきり無頓着。で、その結果が逃げの一手ってのは、流石に卑怯じゃない?」
卑怯。その一言に夢の肩はわなないた。幾ら何でも今のはまずい。そう感じた久美子が話を遮ろうとしたところで、夢がぽつりと声を洩らす。
「そうですよね。卑怯、ですよね」
そこでようやく夢は顔を上げた。だが彼女の二つの目はまだあすかを正面には捉えられないらしい。しばらく宙を泳いだ視線はやがて、組まれたあすかの指先あたりに留まる。
「そうなんです。私、自分が怖いからって逃げてばっかりで、それで他の人を怒らせてばっかりの卑怯者なんです。でもこんな私でも、高校に入ったら何か変われるかなって思って。活躍してる先輩たちの元で頑張ってみようって。そう思って北宇治に入ったんですけど、それでもやっぱり私はどうしようもないゴミで」
夢のその言葉を聞くと同時に、久美子の身体から緊張がするりとほどけた。それはようやく合点が行った、というような心境だった。夢は、変わりたかったのだ。それまでの情けない自分から、新しい何かに。けれどそう思って入った高校の吹部でもやっぱり変われなくて、いつしか彼女はそんな自分自身をますます卑下するようになっていったのかも知れない。でも変わりたいという気持ちは、きっと今もそこに在る。その発見は久美子にとって、四方真っ暗闇の只中に差す一筋の光明だった。
「変われる。きっと変われるよ、夢ちゃんも」
「あ、ひゃ! 黄前先輩、」
気付けば久美子は立ち上がっていた。こちらの突飛な行動にすっかり委縮してしまった夢に構わず、彼女の手をスカートから引き剥がして固く握り込む。
「私だって、北宇治に来たのは何となく変わりたいって思ってたってぐらいで、でもいざ入ったから何かしようとしたワケじゃなかった。けど去年一年間で色んなことがあって、色んな人達と出会えて、それで沢山のものを貰えたって思ってる。夢ちゃんだってきっとそう。今すぐには変われないかも知れないけど、麗奈だって、優子先輩だって加部ちゃん先輩だって、きっと夢ちゃんに色んなものをくれると思う。そうしたら夢ちゃんも変わっていけるよ。ちょっとずつ、今までと違う自分に」
早口でまくしたてたせいか、夢はもう一つこの状況が飲み込めぬまま目を白黒させていた。はたと我に返った久美子は夢の手を離し、そして今一度、夢の隣に腰を下ろした。
「とにかく。夢ちゃんはこれを自分を変える最初のキッカケって、そう思ってみたらどうかな?」
「キッカケ……ですか?」
「そう。何でもいきなりは難しいから、まずはオーディションに向けて麗奈の言うようにファーストで練習してみるの。それでオーディション受けてみて、もしあがっちゃってダメだったらその時は仕方無いよ。受かっても辞退するつもりだったんだし、それならどっちみち結果は変わらない、って考えてさ」
「それは、そうかもですけど」
「でももし受かったら、その時は自分が一歩変わったってことにして、今度はもう一歩がんばってみようよ。そうやって一歩一歩、少しずつやっていったら、卒業するまでには夢ちゃんは今とは全然違ってるかも知れない。せっかく変わりたいと思って北宇治に来たんだったら、やらなきゃ損だと思う」
「で、でも私、もう吉川部長にもファーストやりたくないって言っちゃってますし」
「それは大丈夫。優子先輩だって、夢ちゃんが自分からファーストやってみるって言えばきっと分かってくれるよ。何だったら私やあすか先輩からもフォローするし。決めるのは勿論、夢ちゃん自身だけど」
矢継ぎ早にこれでもかと久美子の口が畳みかける。この糸口を逃してはならないと、そういう思いで頭が一杯だった。夢の表情には未だ困惑と逡巡が見て取れる。でも。だって。どうせ。そんな言葉を一つでも吐かせまいと、久美子はしっかりと夢の瞳を凝視し続ける。
「……分かりました」
とうとう根負けしたらしく、夢は不承不承ながらも頷いた。それを見てようやく久美子は一息を吐く。ふとあすかを見やると、彼女もまた穏やかな眼差しで夢の様子を眺めていたが、久美子の視線に気付くとこちらに親指を立てた。久美子もそれに同じポーズで返したかったけれど、流石に夢の目の前でそれをやるのはなんだか失礼な気がして、代わりにこっそりと小さな頷きをあすかに返したのだった。
どうなるか分かりませんけど、がんばってみます。
そう告げて家庭科室を後にする夢を見送ったあと、突如それまでの疲労がどかっと降りかかってきた久美子は「うはぁ」と教卓に突っ伏していた。
「いやぁ、さっすが黄前ちゃんだねえ。あんな難問もアッサリ解決しちゃうとはこの田中あすか、おみそれしましたぞ」
「茶化さないでくださいよ」
顔を上げた先では、あすかが満面の笑みでパチパチと手を叩いている。いよいよ馬鹿にされているような気がして、久美子はあすかに思い切りしかめっ面をしてやった。
「それにあの熱い語り、夢ちゃんもきっとあれに心打たれたんだね。本当に黄前ちゃんってば、女を殺す方法が良く解ってるぅ」
「そんなこと無いですってば。それに、夢ちゃんの悩みの原因を引っ張り出したのはあすか先輩じゃないですか。私はそれに乗っかっただけっていうか」
「私なんて、全然大したことしてないよん」
あすかの謙遜はあまりにわざとらしくて、久美子は肯定も否定もする気になれなかった。クツクツ、と愉快そうに喉を鳴らしつつ、あすかが机の一角に腰を預ける。黒タイツに覆われた形良い彼女の脚が、ちょうど久美子の眼前に投げ出される。
「あの子、ちょっと晴香にタイプ似てるでしょ」
「あー、言われてみればそうですね。ネガティブなとことか」
「ああいう子って自分のことダメなやつとか言って、周りに予防線張ってるんだよね。そのくせ実はこう思ってたりするの。他の人に『お前はダメだ』ってハッキリ言って欲しい、って」
「そんなもんですか?」
あすかの説が久美子には到底信じがたい。普通はそう言われたくない故に、そして誰かに『違うよ』『そんなこと無いよ』と擁護してもらいたいが為に、先んじて自分で自分を卑下するものじゃないのだろうか。
「言って欲しい、ってのはちょっと語弊があったかな。まあ要は、夢ちゃん本人が自分に自信を持ててないから、ああやって自分自身をこき下ろして居心地良いところに落ち着こうとしてるんだよ。だから幾らこっちが持ち上げたとしても、あの子は自分から勝手にずり落ちていっちゃう」
「はあ。まあ確かに夢ちゃん、最初のうちは励ましても励ましても梨のつぶてって感じでしたけど」
「そういう時はいっそ、言われたくないことをバシッと叩きつけられた方がいいのよ。そしたら嫌でも自分の本音と向き合わないといけなくなるでしょ? 普段自分の事をネガティブ思考で覆い隠して見えなくなってるものが、そこで露わになる。今回の場合だと夢ちゃんが本当はどうしたいのか、どうなりたいのかってところだね」
ふうむ、と久美子は久美子なりに難解な理屈の羅列を咀嚼しようと努める。
「つまり下手な慰めだとか、どこをどう改善すべきかなんて不毛な話をしてても時間の無駄。そんなのよりもサッサと耳の痛い事実を突きつけられた方が、本人にとってはどうするべきかが見えやすくなるの。夢ちゃんみたいにいちいち予防線を張りまくる子って、他人に否定されるのを怖がってるフリして、内心ではそうなるのを求めてるってワケ」
「求めてる、ですか……」
あすかの説明は小難しいところもあって、久美子には今一つ要領を得ない部分もある。けれどちょっとだけ解る気がするのはきっと、昨年のあすかと晴香のやり取りを目の当たりにしていたからだろう。
斎藤葵が退部を宣言したあの日、己の無力を嘆く晴香に久美子が掛けた慰めの言葉は一切通用しなかったばかりか、却って彼女の激昂を招いてしまった。そんな晴香にぶつけられた「あすかが断ったせいで自分なんかが部長になってしまった」という激情を、あすかはたったの一言でザクリと抉ってみせた。
『だったら、晴香も断れば良かったんだよ。違う?』
あの一言が晴香に何をもたらしたのか、それは久美子には分からない。分かっているのは晴香が翌日の部活を休んだ事。そして明くる日、顔を出した彼女がもうすっかり立ち直っていた事。それだけだ。けれどその後の晴香は今にして思えば、部長として人間として随分逞しく成長していったようにも思う。あの時のあすかの言葉を、彼女の恐ろしいほどに冷たい笑みを、久美子はとても残酷だと思っていた。けれどもし仮に、最短で急所を突かれたことによって晴香が弱い自分自身と向き合い、それで立ち直るキッカケを得られたのだとしたら? そう考えてみると、さっきの夢の姿にあの日の晴香が重なるような、そんな気がする。
「まあ私もコレ、とある人から教えてもらった事なんだけどね。ある意味受け売りみたいなもんかな」
「へえ」
何となくの相槌に、何故かあすかは苦笑を浮かべた。何かおかしな返事でもしただろうか? と訝しんだものの、あすかはそんな久美子に特に構うこともなくするりと話を切り替える。
「とは言え、単に私がほじくっただけじゃあこんなに早く話がまとまることも無かっただろうね。夢ちゃんの本心を掬い上げて背中を押してあげたのは、紛れもなく黄前ちゃんの手柄だよ。ホント、こんな立派な後輩を持てて私も鼻が高いってもんよ」
「あんまり実感無いですけどね。むしろ夢ちゃんのことうまく言いくるめちゃったんじゃないかなぁって気もして、正直ちょっと胸が痛いですし」
「そこも、ああいう子だからね。自分一人じゃなかなか踏ん切りつかないってこともあるでしょ。初めて自転車に乗る時と同じで、誰かに後ろから押してもらって、それでようやく漕いでみる気になったってことよ」
「なるほど」
「そういうのも全部含めて、『卑怯』ってことなんだけどね」
あすかが目を細める。その冷たく光る弧に、久美子は背筋がぞわりとなるのを感じた。
耳の痛い事実。先ほどあすかはそう言っていた。それはつまり夢に放ったあすかの言葉の数々が、決して相手を揺さぶる為だけの出任せや根拠のない誹謗では無かったという事だ。果たしてあすかはあの僅かな時間の内に、どこまで小日向夢という人物の本質を見通していたというのだろう。夢の言葉の端々から彼女の本音に繋がる鍵を、どれだけ拾い集めていたのだろう。この時改めて、久美子は『田中あすか』という怪物の恐ろしさを直視したような心境だった。
「あすか先輩は本当に、凄いですね」
「どしたの急に?」
「いえ、ただそう思っただけです。凄いなぁ、って」
「ふぅん?」
立ち上がるなり体を傾けジロジロと、あすかはまるで何かを見透かそうとするかのような態度で久美子の顔を覗き込んできた。急に何ですか? と狼狽える久美子に、彼女はニヤリと意味深な笑みを投げ掛けた。
「私は黄前ちゃんの方こそ、よっぽど凄いと思うよ」
「何がですか」
「それはヒミツ」
そのうち気付くといいねぇ。そう言ってカラカラ高笑いをするあすかに、久美子は何だかばつが悪くなって身を起こした。
「さあて、そろそろパート練に戻るよ。あんまり長いこと二人きりでデートしてたら、練習頑張ってるみんなにも悪いからね」
「デートって、……まぁ、はい」
颯爽と身をひるがえしたあすかに続いて久美子も席を立つ。入口に掛けておいたホワイトボードは誰かが触れてしまったのか、面談中、の文字が掠れて横に伸びていた。それを手に取り、久美子は廊下の先を行くあすかの背を追っていった。
「――っていう事があったわけ」
『そりゃあ大変だったな。んで、その後のことはどうだったんだ?』
「んー、どうかな。一応優子先輩と麗奈にも報告はしたし、ひとまず夢ちゃんにはファースト吹かせてみるってことで落ち着いたみたいだけど、後は本人とトランペットパートの問題だと思う」
『それもそうだな。とにかく今回はお疲れさん』
ありがと、と久美子は秀一のねぎらいの言葉を素直に受け取る。今回は本当にくたびれた。練習が終わって家に帰ってからすぐにシャワーを浴び、母親の用意した夕食をもそもそと平らげ、自室に戻ってからは宿題すらも手につかず、ずっとベッドの上でぐったりしていた。これで秀一から電話が掛かってこなければ、恐らくそのまま寝落ちしてしまっていたことだろう。
『にしても久美子も、すっかり先輩が板についてきたよな』
「それ、こないだも似たようなこと言ってたけど、何その上から目線」
『別にそういうつもりじゃないって。俺もたまに後輩から相談受けたりするけど、なんか上手いこと返せなくてさ。結構ナアナアだったりするんだけど、それに比べて久美子はしっかり答えてやってんだなあって思って』
「大したことは、何もしてないけどね」
気恥ずかしさをごまかそうと、久美子は鼻柱をぽりぽりと弄る。それに自分のしたことがそれほど大きな影響を与えられたという実感も、正直を言えばほとんど無かった。仮にこれをキッカケに夢が大きく変わっていったとして、それは夢自身の意識改革と努力によるものだ。自分が自慢げに手柄顔をするような事じゃない。
「それはそうと、秀一はどうするの?」
『どうするって、何の話だよ?』
「だから、もうすぐじゃん。あがた祭り」
『あ、ああ。おう』
何故かそこで電話口の秀一がどもった。自分からけしかけたみたいな恰好になってしまい、久美子もなんとなく気まずさを覚える。
『実は今日は、それで電話したんだけど。あがた祭り、一緒に行かね?』
秀一の声色が跳ね上がる。向こうの緊張がこっちにまで伝播してくるような、そんな心地だった。吸い込んだ息がうまく出ないような感じがして、どうにももどかしい。
『あ、もし高坂と先に約束してたんなら、俺の事は別に――』
「行く。秀一と、あがた祭り」
向こうが言い切るより早く、久美子は返事をした。
『ホントか?』
「うん。麗奈にも言われたし。せっかくなんだし、今年のあがた祭りは二人で行きな、って」
それは本当のことだった。先日渡り廊下にて麗奈にあがた祭りの話を振られた時、久美子はまだ何の予定も入っていない事実を麗奈に白状していたのだった。
『本気で? 塚本と付き合ってて、一緒に行く約束もしてないの?』
それは色々と忙しかったからだとか、向こうにも何か用事があるのかもとか、久美子も一生懸命言い訳をしたのだけれど麗奈にはどれもまるで通用しなかった。すっかり呆れた様子の麗奈は塚本とあがた祭りに行くことを強く奨めてきて、とうとう折れる形で久美子が首肯したところで、その代わりにと一つだけ付けられた条件が、
『祭り終わって時間あったらうちに来てよ。りんご飴で手を打ったげる』
「……とまあ、こういう話になったわけで」
一通りの事情を久美子が説明し終えると、ハア、と受話口から半分納得した時のような吐息の音が流れた。
『そっか。なんか気遣わせちまったな、高坂に』
「麗奈は特に気にしてないと思うけどね。とにかくそんな事情で、どうせりんご飴買わないといけないし。ついでに一緒にお祭り見に行こうよ」
『ついでって、ひでーなお前。どっちがメインだか分かんなくなってるぞ』
二人で軽口を叩き合い、二人で笑い合う。こんな時間が久美子にはとても心地良かった。恋人同士と言っても何ら縛られることの無い、けれど今までよりもほんの少しだけ距離を詰めた、本当にただそれだけの関係。その境界の曖昧さに、久美子は時おりゆらゆらと幻惑される。果たしてそれは秀一も同じなのだろうか。これを聞き出そうという気持ちには、ならなかった。もしも内に秘めたる望みを秀一に告げられたと仮定して、彼の求めを自分は拒まず受け入れる事が出来るのか? それが、怖かったから。
『それじゃ当日は家帰ってからマンションの玄関に集合、ってことで』
「うん。楽しみにしてるね」
『俺も。それじゃおやすみ、久美子』
おやすみ、と返事をして秀一との通話を終える。最後に秀一が呼んでくれた自分の名前。それに撫でられた耳が、いつまでもくすぐったかった。久美子はそのまま携帯の操作を続け、画面上に天気予報のサイトを開く。
六月五日、雨。降水確率六十%。
示された予報は残念ながら去年のような晴れ模様ではなかった。画面をオフにし、久美子は寝返りを打って仰向けになる。天井の蛍光灯は少し黄色くぼやけていて、それをぼうっと見つめていると、何だか胸が締め付けられるような感覚に襲われ始めた。
秀一のこと。
麗奈のこと。
二人の顔が、交互に浮かんでは消えていく。自分が交わした二つの約束。結果としてどちらも選ぶ形となってしまったことに、ひょっとして自分は欲張りなのだろうか、という気持ちがむくむくと鎌首をもたげる。
本当にこれで良かったのかな。身体はとっくにくたびれ果てている筈なのに、妙に胸がズキズキと疼いて、その夜はちっとも眠れそうな気がしなかった。