しん、と静まり返る部室に一歩、足を踏み入れる。
当然のことだがそこには誰もいない。一番初めに鍵を開けたのは私達だったから。自分の席に向かい、椅子の脇へ鞄を置く。そしてファスナーを開け、中から黒いファイルを取り出す。様々な楽譜が収められたファイル。それを譜面台に置き、中身をめくっていく。幾つかの思い出深い曲目を見送りながら、ある楽譜のところで、その手はぴたりと止まった。
『リズと青い鳥』
第三楽章、と添えられた副題の下には黒い形の音符が幾つも綴られている。その一つひとつを指でなぞりながら示された形通り、頭の中にメロディを描く。
とても美しくて、優雅で、儚げな、音。けれど想起されるイメージは、そんな音とは全くかけ離れたものだった。
――まるで、悲痛な泣き声みたい。
「みぞれ」
空気が、震える。我に返ったみぞれは彼女の声がする方へと顔を向けた。
「良かったね、今回の自由曲。フルートとオーボエのソロたっぷりで」
「うん」
みぞれが頷くと希美は嬉しそうに口角を上げた。淡い朝日の光に包まれて、彼女の笑顔はキラキラと輝いていた。それがあまりに眩しくて、みぞれは思わず目をすがめてしまう。
いつだってそうだった。みぞれの目に映る希美は、みぞれの思い描く希美は、どんな時でも光に満ち溢れていた。
「でね、うちのパートの後輩が言ってたんだけど、この曲って同じ名前の童話があるらしくて、それを元に作曲されたんだって。みぞれは知ってた?」
希美の問いに、みぞれはふるふると首を振る。
「どんなお話なのか気になるよねー。うちの図書室にあるかな? もしあったら借りてみようっと。みぞれはどうする?」
「私は、いい」
「えー。読んでみない? 曲の元になったお話も分かっといた方が、演奏する時にイメージしやすいかもだしさ」
そんなの、興味無い。みぞれにとって大事なのは、この曲のソロがフルートとの掛け合いによって成立すること、そのフルートのソロを吹くことになるのはきっと希美であるということ。ただそれだけだった。俯いて黙りこくってしまったみぞれに、しょうがないなぁ、と希美は吐息を零す。
「それなら、一緒に読まない?」
「え?」
「だから、その童話。なんてったって、この曲の主役は私とみぞれなんだし。二人のイメージを揃えといた方が絶対良いって思うんだよね。だからみぞれも読もうよ、私と一緒に」
ね? と向けられる希美の眼差しはどこまでも優しかった。じっと見つめられ、みぞれの胸はじわりと熱くなる。
読みたい、なんて気持ちは全然無い。もっと言えば、そんな童話なんてどうでも良かった。何よりみぞれ自身、曲を演奏する上でそういう情報を必要なものだとはこれっぽっちも感じていなかったから。
だけど、希美が読むなら。一緒に読もうと、希美が、そう言うのなら。
「……それなら、読む。私も」
さえずるようにみぞれは呟く。決まりね、と希美は親指を立て、それから自分の譜面台にカタカタと楽譜を並べ始めた。
「にしてもさ、ホント良い曲だよねえこれ。早く合奏で合わせてみたいなぁ」
「うん」
それは頭で考えてした動作ではなかった。けれど、それで良い。希美がそう思っているなら、私も。今の首肯はそういう意味合いのものだった。
「ねえ、今からちょっと吹いてみようよ。第三楽章のとこ、二人で。初合わせってことでさ」
希美と一緒に吹けるのなら。希美からの誘いを断る理由など、どこにも無かった。再び頷いたみぞれは手に提げていた楽器ケースを椅子の上に置き、ファスナーを開く。中にあるハードケースのロックをパチンと外して蓋を持ち上げると、そこには黒々と艶を放つオーボエが分割された姿でゆったりと収まっていた。
オーボエは、自分と、希美を、繋ぐもの。
それは二人にとっての象徴でもあり、希美のフルートとみぞれのオーボエが音を重ね合うひと時の中で少しずつ織り成されてきた事実でもある。みぞれと希美、二人の間にはいつも音楽があった。そして今、みぞれが手にするこのオーボエには、希美との思い出がたくさん詰まっている。それらは決して他の何にも代えることは出来ない。
だから、これはとても大切なものだ。目の前に希美が居てくれるから。希美が自分と一緒に居てくれる、その証なのだから。ずっと一緒に居られるのなら、それはきっと、これからも、ずっと。
「いい?」
「大丈夫」
「それじゃ、頭から始めよう。みぞれからどうぞ」
希美に促され、みぞれは楽器を構える。こんなひと時が永遠に続けばいい。そんな風に想いを込めて吹き込んだ息はリードを震わせ、音色に換えられてベルから解き放たれた。空っぽの部室にオーボエの響きが柔らかく沁み渡る。闇に向かってひとり翼を広げるみぞれの音に続いて、そっと寄り添うように羽ばたく希美のフルートの音色。絡み合い、飛び交う、二つの音。他に誰も居ないこの刹那の世界を、二人は一つになって舞っていた。
ずっとずっと、一緒だと思っていた。
この時は、まだ。