〈10〉開け! 黄前相談所
あがた祭りも終わり、秀一と、そして麗奈とのひと時を過ごした久美子は、またいつもの日常へと還っていた。
「夏休み以降のスケジュールについては以上です。各自この日程を念頭に置いて、これからの期間を過ごしましょう。それとあすか先輩のパート練チェックですが、希望者が殺到しているのでちゃんと予約順を守ること。どうしても見てもらいたいってパートは、お互い日程がバッティングしないよう調整し合ったり合同で見てもらうようにして下さい」
「はい」
部員たちは優子の指示にしっかりと返事をする。六月に入り衣替えの時節となって、音楽室内には白い色の制服がだいぶ目立つようになっていた。
コンクールに向けての練習は今後ますます熱を帯び、時には部員同士で火花を散らしながら腕を磨いていくことになる。何しろ北宇治吹部九十名のうち、コンクールの舞台に立てるのは五十五人と限られているのだ。その席からこぼれた人はレギュラーメンバーをサポートする係に回ることになる。昨年の葉月や夏紀、そして友恵らはその立場にあったわけだが、今年こそは彼女達もレギュラーの座をと心に誓っていることだろう。特に今年が最後のチャンスになる夏紀達三年生にとって、その思いはひとかたならぬものがあるに違いない。ぴりりと冴える部室内の空気に、久美子もまた背筋の伸びる思いがする。
「それじゃ最後に二つ、みんなに大事なお話があります。まず一つは、友恵」
事務連絡のついでのような流れで、優子はサラリと友恵を呼んだ。はいはい! と元気良く手を上げて友恵が席を立つ。何だろう、という部員たちのどよめきをよそに、友恵は集団の前へと進み出ていった。そこに待つ優子と立ち位置を入れ替えるようにして、友恵が指揮台に登壇する。
「じゃあ友恵、いい?」
何故かためらいがちに問い掛ける優子に、当たり前でしょ、とでも言うかのように両手を広げ、友恵はおどけた表情を覗かせた。そして部員たちを一度壇上から見渡し、スウと深く息を吸ったあと、友恵は朗らかに語り始めた。
「私、加部友恵は吹奏楽部の奏者を辞めることになりました! オーディションにも参加しません」
「なんで加部ちゃん先輩、突然あんなこと言い出したんだろう……」
三年三組、パート練習の場である教室の一角で、久美子は一人さめざめと青息を吐く。考えていたのは勿論、先ほどの一件についてである。友恵の口から述べられた衝撃の報告、それにより部室は一時騒然となった。ミーティングが終わってすぐ久美子は友恵を探し回ったが、彼女の姿はどこにも見当たらず、「ともすれば夏紀なら何か事情を知っているのでは」と思い至った頃には夏紀もまた部室からいなくなっていて、結局どちらからも話を聞くことは出来ず終いだった。
途方に暮れ、やむを得ず楽器を手に教室へと来てはみたものの、久美子の気分はもう一つ晴れずにいる。友恵は何か悩みでも抱えていたのだろうか。同じ指導係である自分に一言でも打ち明けてくれなかったのは何故か。そんな苦々しい思いをせめて当人にぶつけてやりたかったのに、それすら出来ないもどかしさが頭の中をぎっしりと埋め尽くしているようで、どうにもやるせない。
「でも加部先輩、別に部を辞めるわけじゃないって言ってましたし。私はちょっと安心しました。マネージャー、っていうのがどういう仕事をするのかは、良く分かりませんでしたけど」
美玲の口調が普段よりも幾分たどたどしい。それはきっと、落ち込んでいる自分への彼女なりの慮りなのだろう。そんな美玲の初々しさに、しかし今は上手に応えることができず、ただ「うん」としか返せない自分のことが久美子はたまらなく情けなかった。
「まぁまぁ、きっと友恵ちゃんにも何か事情があったんだろうし。それにマネージャー職って、つまりは部内のスケジュール調整とかあっちこっちへの手配とか、今まで部長や副部長が全部やってたような雑務を引き受ける役割ってことでしょ? 私も去年副部長だったから分かるけど、幹部の仕事ってそういうのまでやらなくちゃいけなくてかなり大変なもんだし。それを肩代わりしてくれるっていうんなら、優子ちゃんにとっては大助かりだと思うよ」
言葉足らずだった友恵の説明のを、あすかは的確に噛み砕いて皆に伝える。実のところ、北宇治の部長職は他と比しても多分に仕事量が多いものだ、とは久美子も思っていた。いかに部長と言えども基本的にいち部員であることには変わらない。にもかかわらず、役職に就いたがために日々の練習時間が諸々の幹部業務で圧し潰されてしまったのでは実に本末転倒だ。そういった仕事を主として引き受ける役割がいてくれるのだとしたら、どれだけ優子たちの負担が軽減されるのかは想像に難くない。それは確かにそうなのだけれど。
「そういう話じゃないですよ。大体、私が怒ってるのはあすか先輩に対してもなんですから」
「えぇー? 私がどんな罪を犯したっていうのよん」
「とぼけないで下さい。どういうことですか、先輩もオーディションを辞退するって」
その発表は、友恵の奏者引退宣言と同時に優子の口から為されたものだった。
「コーチ役の田中あすか先輩ですが、先輩本人の意思として、今年のコンクールオーディションには参加しないという事になりました。友恵もそうだけどあすか先輩にも相応の事情があるって事で、これは滝先生や私たち幹部も認めた事です」
あっさりと告げられたその決定を、久美子はまだ承服し切れてはいない。ただ心のどこかに、ひょっとしてそうなるのでは、という予感が以前からあったのも確かだ。あの時は目を逸らすことで無理矢理にその予感を掻き消していたのだが、しかしいざその予感が現実のものとなってしまった今、久美子の胸中には失望にも似た憤りと、それを遥かに上回る
「まぁ、それは何となく分かるでしょ。私は去年も出てるし、全国の舞台で思いっ切り吹けたし、コンクールに思い残しなんて何も無いからね。それに本来ならとっくに卒業してる立場の人間が限られたレギュラーの席を奪っちゃうのは、あまりにも罪深いと思わない?」
それは、とまで言って、久美子は口をつぐまざるを得なかった。他の者達も一様に、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙してしまう。あすかの辞退理由。それは何も低音パートだけに限った話では無い。レギュラーになることを夢見て三年間頑張ってきた部員は他のパートにだっている。一、二年とレギュラーになれず、今年こそはという思いを秘めていたのにその限られた席の一つを留年した人物に奪われる、というのでは確かにたまったものではないだろう。
もちろん選考の基準が実力重視である以上、本人の力量がその域に達していないのであれば論外だ。けれどあすかはそういう一般的な括りとは全く無関係と言っていいほどに、超越的な技能とキャリアを兼ね備えている。この部内に今もって、あすかに正面切って太刀打ち出来る者など誰も居やしないのだ。故に留年生のあすかがオーディションを受けることはそれ即ち、本来受かる筈だった現役生の誰かが確実に蹴落とされてしまうことを意味していた。
「でも、先輩もコンクールに出れなくはないんですよね。規定上は」
え、と全員が一斉に視線を向けた先にいたのは、件の発言者である緑輝だ。
「そうなの、緑?」
「確実では無いですけど、緑、ちょっと気になって調べてみたことがあったんです。コンクール全国大会の出場規定には『学校に在籍している生徒』とだけあって、しかも年齢は問わない、っていう風にも書いてありました。それならあすか先輩にも出場資格はあるんだなって思ってたんですけど」
そんな規定があるだなんて、露ほども知らなかった。葉月と久美子は同時に感心の溜め息を洩らす。
「だったら問題無いじゃないですか。今年こそ一緒に吹きましょうよぉ、あすか先輩」
「こらこら加トちゃん、だからそういう問題じゃないんだってば」
「ふごぇ、」
食い下がろうとする葉月の鼻っつらを、あすかの人差し指がグイと押しのける。
「言っとくけど、その規定は前もって調べてあったし。それに辞退するのも別にみんなに遠慮して言ってるんじゃないからね。去年全国で吹けて、私はホントに満足できたの。だから今年のコンクールに未練は無い。黄前ちゃんだったら、分かってくれるかも知れないけど」
「それは、分かってますよ。もちろん」
いかにも謎めいた、二人にしか分からぬやり取り。他の人達が怪訝そうに久美子の顔を覗き込む。しかして久美子はそれに応じない。このことは、秘められたあすかの真実についてだけは、他の誰にも喋りたくなかった。それはきっと、これからも、ずっと。
「そんなワケで、今年のコンクールに出ないつもりだってのは、実はとっくの昔に滝先生や優子ちゃんたちと話して決めてた事だったんだよね。今年の私の役割は奏者としてじゃなくコーチとして吹部を盛り立てることだから、って」
「そんな……」
梨子が目頭に浮かべた涙をふっくらと柔らかそうな指で拭う。
「私、今年もあすか先輩と一緒に吹きたかったです」
寂しげにそう洩らしたきり、梨子は打ちひしがれてしまう。隣に座る卓也は彼女にどう声を掛けていいものか分からず、かと言ってあすかに当たる気にもなれないようで、ただただ肩身狭そうに俯くばかりだった。
「ホラぁ、しんみりしない! 私だって友恵ちゃんと同じで今日を限りに部を引退するわけじゃないんだし。それに私の場合はコンクール以外の演奏会でなら、まだ皆と吹くことだってあるんだから」
パンパンと打ち鳴らされたあすかの拍手に、しょげかえっていた全員がおもむろに顔を上げる。けれどそこに浮かぶ表情は未だどれも複雑そうなものばかりだ。それを窺う久美子の胸中もまた、寂しさでいっぱいだった。
でも、落ち込んでばかりはいられない。あすかがコンクールに出ないのであれば尚更、今自分に出来ることは極限まで演奏力を高め、あすかを全国の舞台へと連れていくことだけ。そしてそこで金賞を獲る。それこそが唯一、昨年全国大会の会場で副部長としてのあすかが下した最後の命令に、その想いに応えるための手段なのだ。卓也達も同じ結論に達したのか、その表情には今まで以上の決意が漲っている。あの日の誓いを今年こそ、必ず。より一層膨らんだ想いを確かめるように、久美子は胸元で手をきつく握り締める。
と、ガラリと戸の開く音。そこには夏紀が居た。普段から雑にまとめてある彼女のポニーテールが今日は一段と乱れている。そんな彼女を見て反射的に、久美子は席を立っていた。
「夏紀先輩。ちょっとお話、いいですか」
「久美子ちゃん……」
「どうしても今、先輩に聞きたいことがあるんですけど」
しばしの沈黙。物憂げな視線を投げ掛ける夏紀はもしかして、自分と会話するのを嫌がっているのかも知れない。ことによっては拒絶されてしまうかも。そんな怖れを歯を食いしばって黙殺し、久美子は毅然として夏紀に視線を合わせ続ける。ふう、と息を抜いた夏紀は何かを観念したように目を伏せると、親指で廊下の向こうを指し示した。
「いいよ。ここじゃ何だから、場所変えようか」
「話ってのは、友恵のことだよね」
「はい」
夏紀が久美子との対話場所に選んだ校舎裏の一角、奇しくもそこは久美子がいつも個人練を行っているお気に入りの場所だった。それともひょっとして、夏紀はあえてこの場所を選んでくれたのかも知れなかった。友恵の件で動揺している久美子がせめて少しでも落ち着けるよう、彼女なりに配慮してくれたのでは。そう考えることで、それまでふつふつと煮え滾るようだった久美子の脳内も次第に冷まされてゆく。
「さっきまで先輩が出掛けてたのって、加部ちゃん先輩から直接事情を聞いてたからですよね」
「うん」
「どうしてなんです? なんで加部ちゃん先輩、奏者辞めるなんて言い出したんですか」
その質問をした途端、夏紀の翳りが一層濃くなるのが見て取れた。片手をゆるりと上げた夏紀がその手で自身の頬を二度、指し示すようにはたく。
「コレ、だってさ」
「コレ?」
「いわゆる顎関節症ってやつ。友恵が言うには、五月の半ばぐらいにハッキリおかしいって判ったんだって」
それを聞いて、地面を踏みしめていた己の足から力が抜けていく。顎関節症はその名の通り顎の関節にまつわる病気、その症状のことだ。これを発症すると顎を大きく開くことが出来なくなったり、力を込めると周辺に強い痛みが走る、開閉の動きに伴ってゴキンと骨が外れるような音が鳴るなどの異状が発生する。
あまり詳しいことは久美子にも分からないが、知っていることも幾つかあった。例えば顎周りへの負荷が蓄積しがちな管楽器奏者がこれに罹りやすいこと。治療の上で特効薬や歯科手術といった即効性のある治療法が存在しないこと。そして発症後は患部にそれ以上の負荷を掛けないよう、原因と考えられる行動や習慣を避けて療養する必要があること、などだ。
「……それで加部ちゃん先輩、奏者を辞めるって、そういうことだったんですね」
「おかしいって感じてすぐに病院で診てもらったんだけど、その時点でドクターストップ。何より痛みでまともに楽器吹けない、って友恵自身が判断したから、だからトランペットを辞めるって決心したみたい」
「優子先輩は、知ってたんですかね」
「さあ。でもさっき友恵が宣言した時、アイツはビックリしてなかったし、知ってたんじゃない? 聞かされたのは直前だったのかもだけど」
夏紀は、何も聞かされてはいなかった。その事実を彼女の言葉からは汲み取ることができる。真一文字に結ばれた夏紀の唇はわなわなと、強い感情に打ち震えていた。
「友恵と私、去年はレギュラー落ちして『チームもなか』でサポートやってたでしょ。そん時さ、『もなか』のメンバーみんなで約束したんだよ。来年は絶対みんなで一緒にコンクールのメンバーになろうって」
「はい」
「なのに私にはさ、今の今まで何にも相談しなかったんだよアイツ。水くさいにも程があると思わない? せめて前もって教えてくれたっていいのに、って考えたらどんどんハラ立ってきて、ミーティングの後すぐに友恵のこと捕まえて全部聞き出した。それでアイツの事情は分かったけど、でも、」
「納得、出来なかったんですよね」
久美子の推察に夏紀はコクリと小さく頷いた。僅かに歪んだ口角の隙間に、彼女の白い歯がきつく食いしばられているのがチラリと見えた。
「どうにもしようのない事なんだって、奏者を辞めても吹部の仲間なのは変わらないんだって、頭では分かってたんだけど、どうしても受け入れられなくってさ。それでさっき、友恵に何もかも直接ぶつけて来た」
「そうですか」
これ以上、久美子には何も言うことが出来なかった。自分のやりたかったことを夏紀は代わりにやってくれた。それに彼女の友恵との繋がりは、自分のそれなんかよりももっと深く強いものであった筈だ。それだけに、今の夏紀が抱えているやるせなさも寂しさや苦しさも、きっと自分の比では無いだろう。そんな諸々の感情に責め苛まれ憔悴しきった夏紀の姿を見ているうちに、久美子の溜飲は少しずつ下がっていった。
「夏紀先輩は今、どう思ってるんですか」
「何を?」
「マネージャーの件です。実際、加部ちゃん先輩が色々立ち回ってくれるんだったら、夏紀先輩も優子先輩もかなり負担が減りますよね」
その問いに夏紀の表情がこわばる。あすかの見解通りだとすれば、マネージャーの役務とはすなわち部長と副部長の補佐、ということに他ならない。ちょうどあすかが務めるコーチ役が、指導者である滝の補佐であるのと同じように。ただしそのことを夏紀が諸手を挙げて歓迎できるかと言えば、それはまた別の問題である。少なくとも彼女にとって、友恵はそういった役職的な関わり云々の前に、同じ目標を掲げて共に頑張ってきた同志であった筈なのだから。
「それ、友恵にも同じこと言われた」
溜め息混じりに、夏紀はそうこぼした。
「実際、友恵が私らを補佐してくれるってのはすごく助かるよ。特に優子とか、目を離すとすぐ暴走するし。アイツに手綱掛けて引っ張るのも、私一人より友恵が手伝ってくれた方が何倍もラクになるのは事実でさ」
喋りながら、夏紀の頬が引きつるように上がっていく。歪な表情から読み取れる彼女の感情は間違いなく、自嘲そのものだった。
「そう思う自分にも正直、ハラ立って仕方ない」
最後は吐き捨てるように言い、それきり夏紀はそっぽを向いてしまった。元々が癖強い彼女の髪は既にグシャグシャに搔き乱され方々に跳ね散らかっている。そのあまりの痛々しさに、久美子は彼女の頭をそっと撫でつけてやりたいような衝動に駆られてしまう。
友恵の異変を察してやれなかった己の不明にも、そんな友恵に支えられるのをほんのちょっとでもありがたいと思ってしまう自分の薄汚い利己心にも、きっと夏紀は憤っている。そしてそれらの感情は久美子の心中にも僅かながら、しかし間違いなく存在しているものだった。だからこそなのだろう。今の夏紀の気持ちが自分には手に取るように良く解る。久美子は黙し、夏紀が全てを吐き出し切るまでを、ただそっと見守った。
「友恵、言ったんだよ。自分がマネージャーになるのは私と優子のことも助けたいからだ、って。そんなこと言われたらこれ以上文句なんてつけらんないじゃん。ホントさ、ずるい奴だよね、アイツ」
それは、きっと違う。きっと友恵は本心からそう思っているのだ。楽器を吹くことを断念せざるを得なくなった彼女が取りうる最善の選択肢として、激務に次ぐ激務の毎日に擦り切れてしまいかねない優子たちを支える為に、友恵は退部でなくマネージャーとなることを決意した。そんなことは夏紀にだってとっくに解っている。痛みを必死に堪えるようにひしゃげた彼女の横顔が何よりも、それを雄弁に物語っていた。
「でも、全部友恵が自分で決めたことだから。私にはどうこう言う権利、ないんだけどね」
しばらく続いた沈黙を破り、夏紀はおもむろに正面を向く。さっきまでの弱々しさはそこにはもう見受けられなかった。
「今の私に出来ることは、目一杯練習してオーディションに受かること。それで友恵の分まで本番の舞台で吹くことだけだから」
「私も、加部ちゃん先輩とあすか先輩を全国に連れていきたいって、そう思ってます」
「だね」
その双眸に強い意志を宿した夏紀が、固く結んだ拳をこちらに向かって突き出す。久美子も自然と同じポーズを取り、そして二つの拳はコツンと音を立てて重なった。
「頑張るよ、久美子ちゃん。絶対にオーディション受かって、全国で金、獲ろう」
「はい」
二人で交わした密かな誓い。けれどその想いは他の誰よりも熱く滾っていた。もう後に引くことは出来ない。たくさんの誓いを胸に、今年こそ夢を叶える。心からそう願う久美子の、北宇治吹奏楽部の燃え盛るような夏は、今まさに幕を開けようとしていたのだった。
カレンダーの日付は一日また一日と塗り潰されていき、ふと気付けばオーディションはもう目と鼻の先まで迫りつつあった。焦燥と切迫に背中を追われつつも、部員達は今まで以上の真剣さで練習に取り組んでいる。己の課題と真摯に向き合い、少しでも改善をしようと繰り返される作業にはどこまでも終わりが無い。けれど己の上達を気長に待てるほど、残された時間もそう多くはなかった。必然的に練習をする誰もが気迫に満ち、一分一秒を無駄にすることの無いよう神経をより細く尖らせていく。それはここ低音パートの一同も例外では無い。
「加藤、Bのところ、音の形がまだ間延びしてる。吹き切り方を意識した方がいい」
「はいっ」
「それと求は音が弱い。川島の弾き方を見本にしてもっと深く響かせよう。今の感じだと、他の音に埋もれるだけで存在感が無い」
「はい」
パート練習で飛ばされる卓也の指摘も、日頃からあすかの手ほどきを受けてきただけあって、このところはかなり鋭さを増している。低音パート全体の仕上がりは現状でも上々といったところだが、そこで満足していてはより高みへと向上することは出来ない。そう思っているのは他のパートも同じらしく、少し前までは練習に手こずっているらしき様子もちらほら窺えたものだが、それも今では高水準の統率を思わせる整った音色へと差し変わっていた。
ここまでは、北宇治吹奏楽部という大きな括りの中での話だ。けれど実際には個々の技術に大なり小なりのバラつきがある。昨日今日と楽器を始めてまだ日の浅い初心者は言うに及ばず、同じくらいのキャリアを持つ経験者同士であっても伸びの良い者と芳しくない者とに分かれつつあった。例えばそう、彼女のように。
「久石。こないだも言ったけど同じところ、ハイトーンで音の形が崩れてる。もっとレガートを強調すること」
「はい」
卓也の注意に応えた奏はしかし、ぶすりと険しい形相のまま固まっていた。近頃の奏はどうにも危なっかしい。入部当初に振りまいていた愛想も今ではすっかり尽き果てたかのように、こんな毒づいたような表情が奏の基本形となっている。あからさまに周囲と距離を置く彼女の態度は演奏面にも表れ始めているようで、卓也からの指摘もまともに聞き入れていないのか、しょっちゅう同じところでミスを繰り返していた。
元々奏のユーフォの腕前は、入学時点から今でも並の奏者に比べれば上手い方ではある。だが全国金賞に血道を上げる北宇治の面々との比較ではもう一つ物足りない。他の全員が日々少しずつでも上達を見せているのに対し、奏だけは春からほとんど技術的に成長していないような、そんな印象すらあった。
「すみません。ちょっと個人練してきます」
繰り返し注がれる卓也の指摘に奏はとうとう席を立ち、ユーフォを抱えたまま教室を出ていってしまった。これも今日が初めてという訳では無い。パート全体の練習が日増しに加速する中で、奏がこのような行動に出る回数も次第に増えつつあった。そしてその割に、戻ってきた奏の演奏はそれほど問題修正もされておらず、また同じ場所で同じミスを繰り返す。彼女のそんな有りさまは、次第にパート内でほぼ無視されつつあった。何せ今回はサンフェスの時とは状況が違う。奏がみんなについて来れなければ彼女はただ成すすべなくオーディションに落ち、そしてサポート係に回るだけ。美玲の時のように全体のことを考えて仕方無くでも手を差し伸べてもらえる、そんなご都合を期待することは出来ないのだ。
このままではやばい。そうは思えど、奏に手を差し伸べられるほどの余裕は久美子にも全く無かった。迫り来るオーディションに向け修正すべき点はまだまだ幾らでもある。故に他の人に構っていられない、という意味では久美子のみならず全員がそうなのだ。またこの件に関しては、あすかの助力もあてには出来なかった。何より当の奏が拒絶するであろうことは、彼女のあすかに対する普段の態度を振り返るまでもなく明白だ。そんな諸々の状況下で奏の状態が悪化の一途を辿っていることに関してはもう、恐ろしくタイミングが悪いと言うしか無かった。
「もう一度、自由曲。第一楽章の頭から通そう。全員もっと拍の強弱を意識して」
「はい」
力強く返事をして楽器を構える隣の夏紀も、まさに真剣そのものという気迫だ。今の久美子にとって、夏紀は気の良い先輩というだけではなく無視しがたいライバルともなりつつある。あすかとの特訓によって急激に伸びた演奏力に加え、今の夏紀には貪欲な姿勢で練習に取り組む強い動機が備わっている。日々上達していく夏紀の影に始終背中を追われているような気がして、久美子も決して油断は出来なかった。
オーディションでは誰が選ばれるかも、何人選ばれるのかも、全ては滝の采配次第。ユーフォは二人という保証も自分は必ず選ばれるという確約も、どこにも無い。仮に用意された席が一つしか無いというのなら、例え夏紀を蹴落としてでもその席を獲りに行く。久美子はそう腹を括っていた。それが己に誓った『特別』を目指すということであり、『全国で金を獲る』という夏紀との約束や吹部全体の誓いにも通じる、たった一つの道なのだから。
譜面を辿る目は既にいちいち音符の形を確認してはいない。それでも楽譜と睨めっこを続けるのは、楽譜に記された指示や行間に隠された表現意図を取りこぼすことなく拾い上げ、理想的な音へと換えるというプロセスを突き詰める為だ。余計な言葉を一切発さず、ひたすら黙々と楽譜に、己の演奏に向き合う。それは確かにしんどいことではあるのだけれど、少しずつ自分の音が良くなっていくことには苦労を上回るだけの喜びと達成感が確かにあった。
「久美子せんぱーい」
本日のパート練習を終え、楽器室への移動のために階段へ向かう途中の廊下で、妙に間延びした声が自分を呼び止める。つい先日も聞いたことのあるその声の持ち主へと、久美子は振り返った。
「お疲れ、梨々花ちゃん。どう、練習頑張ってる?」
「おかげ様でバッチリでーす! 梨々花、最近メッチャ上手くなってきてるんですよー。来週のオーディションでも頑張って、みぞ先輩と一緒に本番吹けたらいいなー、って思っちゃってます」
「そりゃ良かったね。ところで何? その『ミゾセンパイ』って」
んー? と梨々花が首を傾げる。やがて何かに行き着いたのか、彼女はポンと手を打った。
「まだ久美子先輩に教えてなかったですね。梨々花たち、鎧塚先輩のこと『みぞ先輩』って呼ぶようにしてるんですよー。久美子先輩にアドバイスしていただいた通り、ソロソローって距離を詰める大作戦、そのイチです!」
「はあ、なるほどね」
そう言われれば、と久美子は思い出していた。フルートかどこかのパートで一年の後輩が親しみを込めてなのか、上級生達の名前をこんな感じに崩して呼んでいたのを。その時はずいぶん妙なことが流行っているものだと思ったぐらいで別段気にも留めなかったのだけれど、どうやら梨々花もその風習にあやかって敬愛するみぞれにアプローチを仕掛けていたらしい。
「それで、『みぞ先輩』の効果はあった?」
久美子のその質問に、梨々花はへにゃりと頬を緩める。
「はい! 最近はですねー、みぞ先輩といろいろお話しできるようになったんですよー。みぞ先輩の方から話し掛けてくれる事もぼちぼちあったりしましてぇ。これも久美子先輩のおかげサマサマです。ホントにありがとうございます!」
ぺこり、と梨々花は首だけでお礼のポーズを作った。彼女とみぞれ、二人の関係性はまだまだこれからといった按配のようだ。けれどこれまでのみぞれを思えば、話し相手になれる後輩が出来たというのは、これは格段の進歩と言って良い。これをキッカケに、極度の人見知りなみぞれが少しでも人間関係の輪を広げていってくれれば。その想像は自分にとっても喜ばしく感じられて、久美子はついつい頬を緩めてしまう。
「ううん、私は大したことはしてないから。じゃあ私もう行くね。梨々花ちゃんも練習頑張って」
「あ、ちょっと待って下さい先輩」
立ち去りかけたところでやにわにグイと半袖を引っ張られ、「うぉ、」と久美子はよろめいてしまう。袖をつまむ梨々花は彼女に似つかわしくない、申し訳無さそうな、困っているような、そんな掴みどころの無い顔つきをしていた。
「すみません、そのー……先輩、今日帰りって空いてますか?」
「うん? 特に予定とかは入ってないけど、どうして?」
「良かったー! じゃあじゃあ、とーっても申し訳ないんですけど、」
少し固い面持ちで、梨々花は大きく息を吸い込む。それはまるで覚悟を決める時のような仕草だった。
「黄前相談所、お願いしてもいいですか?」