もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈11〉崩れた均衡

「ハイ、どうぞ」

 高台の一角にしつらえられた日除け下のベンチに腰を下ろし、久美子はきんきんに冷えた缶ジュースを梨々花に手渡す。ありがとうございますぅ、と殊勝にそれを受け取って、梨々花はプルタブに指を引っ掛けた。

 プシュ、と景気良く中身のソーダが爽やかに弾ける音。そのまま両手で缶を挟み込むようにして梨々花がクピクピと口をつけ始める。果たしてそれが彼女の好みの品かどうかは良く分からなかったが、自販機の前でどれを飲むか尋ねた時に迷いなく『おまかせしまーす』と答えるぐらいだし、きっと特にこだわりは無かったのだろう。そう思いつつ、久美子も側面に白字で『宇治茶』と大きく記されたペットボトルのキャップを捻る。ふわりと漂う芳醇なお茶の香り。それをひとりでに嗅ぎ取った自分の鼻が、スンと機嫌の良い音を鳴らした。

「ごめんね、こんなところで」

「ぜーんぜん、大丈夫です」

 学校を出て後、久美子は梨々花と二人、近所にある公園へとやって来ていた。本当は高校生らしく喫茶店かファミレスにでも席を設けたいところだったのだが、今月はあがた祭りもあったためお財布の事情はいくぶん心許ないことになっていた。梨々花にしてもあんまり遅くまで出歩くのは……という事情があったらしい。校門前のゆるやかな坂道を降りながらどこか都合の良さそうなところを、と検討した結果、白羽の矢が立ったのは駅からも程近くお金も掛からないこの公園であった。そんな経緯もあり、梨々花にジュースをおごってあげたのは先輩としてせめてもの面目躍如というやつだ。

 暮れなずむ公園の運動場で遊ぶ数人分の小さな人影は、恐らくこの近所に住んでいる子供達だろう。ああやって男女の別なく混ざり合って駆け回る姿を見ていると、自分の小さかった頃を思い出さずにはおれない。何も難しいことに縛られたりせず、近所の友人達とただ飛んだり跳ねたりしているのがたまらなく楽しかったあの頃。それが今ではずっと昔のことのように思える。時と共に、人と人との関係は移ろっていく。或いは自分自身さえも。その感傷に、久美子の胸はぎゅうと締めつけられる。

「それで、話って何?」

「あー。えっとですね」

 梨々花はモジモジと何だか言いにくそうにしていた。ここまで来ておいて、今さら遠慮なんかする必要無いのに。そう思いながら梨々花の発言を待っていると、よし、と自らに発破を掛けるようにしてから梨々花がこちらを向く。

「奏の事なんですけど」

「ああ、奏ちゃん?」

「はい。何か最近の奏ってぇ、ちょっと元気無い気がするんです」

 そうかなあ、と久美子はわざと回答をぼかした。実際のところ、梨々花の推察は的を射ている。奏が日頃どのような学校生活を送っているかは知らないが、少なくとも部活中の彼女は以前に比べて明らかに塞ぎ込んでいる時間の方が多い。美玲を始め一年生同士での会話も極端に減り、先輩への応対にも笑顔を向けることが皆無となりつつある。とりわけあすかや夏紀に対しては、もはや奏の方からちょっかいを出すことも絶えて久しかった。当初の猫っかぶりが嘘のように、奏が己に施していた優等生のメッキは、その殆どが既に剥がれ落ちてしまっていた。

「もしかして低音パートで何かあったのかなー、って思いまして。久美子先輩は、何かご存知ないです?」

「んー……」

 ある。とここで言うのは簡単だ。けれどそれを梨々花に言ってどうなるのだろう。久美子は大いに悩む。下手を打てば、梨々花の低音パートに対する悪感情を煽ってしまうことにもなりかねない。かと言ってこのまま梨々花の質問を受け流してしまうのも、それはそれで不義理に思えた。

 どちらにせよ、これ以上問題をこじれさせてしまうのはあまり好ましい事態では無い。何より梨々花はとっくに奏の変調を察している。普段の学校生活やもしかしてプライベートまで鑑みれば、恐らくは自分などより梨々花の方が奏と接する時間はよっぽど多いことだろう。そして奏はきっと、そんな梨々花にも事のいきさつを喋ってはいない。だからこそ梨々花はこうして奏の身を案じ、自分に探りを入れているのだ。

「実はですね、こないだ話したみぞ先輩の件なんですけど」

 いつまでも口を開かぬ久美子に痺れを切らしたのか、ジュースの缶を脇に置いた梨々花が唐突に話の切り口を変えてきた。

「本当はもっと前に久美子先輩に相談したいなーって、梨々花思ってたんですよ」

「え? それって、いつ頃の話?」

「えーっと、正式入部してすぐの頃だから、サンフェスのちょっと前ぐらいですねー。でも梨々花と先輩ってその頃、ほとんど接点無かったじゃないですかぁ」

「あー、そうだね。新入生指導の時もあんまり喋ったりしてなかったし」

「なもんで、奏にお願いしてたんですよ。久美子先輩に相談したい事あるから、奏から先輩にそう伝えといてーって」

「そうだったんだ。そんな話、奏ちゃんは全然してくれなかったよ」

「ですよねー。梨々花、おっかしいなぁーって思ってたんです。テスト期間中に先輩と会った時、先輩全然知らないって感じでぇ。忘れてる風でもなかったしヘンだなーって」

「そう言えばそんなこと言ってたね。確か、梨々花ちゃんの事を私に何にも話してないのかな、って」

「それです!」

 ビシ、と梨々花は両手の人差し指をこちらへ伸ばした。

「後で会った時に、奏に直接聞いてみたんですよ。そしたらうっかり忘れてたーって言われて。奏ってそういうのしっかり守ってくれる子だと思ってたんで、その時は梨々花ビックリしちゃいました」

「なるほど」

「で、それから梨々花、ちょいちょい奏のこと見てたんです。けど奏、何となーく部活中ずっと居づらそうにしてるなーって感じがして。窮屈そうっていうか」

 そこまで奏のことを見ていたとは。久美子は少しだけ梨々花に感心していた。一見マイペースにはしゃぎ回っているだけのように見える彼女もその実、冷静に他人を観察する目を持っている子なのかも知れない。そして梨々花はその目でずっと奏の事を見守っていたのだろう。奏の良いところも悪いところも、余さず彼女の全てを。

「奏ってああ見えて、けっこう自分一人で抱え込んじゃうタイプなんで。もっと梨々花にバンバン甘えなさーい、って言ってるんですけど全然ダメなんです。あー! もっと梨々花に素直になってくれてもいいのにー!」

 いかにも悔しげに、梨々花が握り締めた拳をぶんぶんと上下に振る。その大げさな身ぶりは、悩める彼女には失礼ではあるのだけれど、とても愛らしかった。

「でも梨々花ちゃんは、奏ちゃんのそういうところが好きなんだよね?」

 久美子はあえて言葉を選ばず直球を投げつける。ビタリと動きを止めた梨々花はおもむろに久美子から視線を外し、それから彼女にしては珍しく照れくさそうな顔で小さな頷きを返した。

「分かるよ。梨々花ちゃんの気持ち」

「ホントぉ、ですか?」

「うん。奏ちゃんのことが、本気で心配なんだってことも」

 自分一人の世界に入り込んで、周りを遠ざけて、そうして一人で勝手に結論を出して。そういうケースに久美子はいくつも心当たりがあった。それを見ている周囲が、とりわけその人たちを強く気に掛ける人間が、見えないところでどれほど心を痛めているかということも。だから久美子も意を決する。

「実はサンフェス練習の時、ちょっとパート内で色々あってね」

 え、と梨々花が久美子の一言に血相を変える。

「奏、皆さんとケンカとかしたんですか?」

「そんなんじゃなくて、ただパートの人同士がこじれちゃった時に、たまたま奏ちゃんがそこに居合わせちゃったってぐらいの話なんだけど。でもそれからずっと奏ちゃんの中で、何か納得し切れてないことがあるみたいで」

「そうなんです?」

「多分、だけどね」

 梨々花から視線を外し、久美子は空を見上げる。薄暗くなった空はどんよりと灰色の雲に覆われていた。この分だと夜半までには雨が降り出すかも知れない。ひたひたと湿気を含んだ空気が辺りに沈みつつあるのを感じながら、久美子は少しぬるまったお茶を口に含む。

「先輩は、奏のことどう思ってます?」

「うん? どう、って言うと?」

「奏のこと、正直嫌いだなーとか思ってたりしますか?」

 梨々花の眼差しはいやに真剣だった。奏の事が嫌いか。こうして改めて問われると、何とも答えにくい。人間誰しも積極的に近付いてくる後輩は可愛いと感じるし、こちらも親しく接してあげたいと思うものだ。しかして今の奏の態度はその対極に位置している。周囲を拒絶するかのような彼女に接する時というのはまさしく『腫れ物にさわる』ような心地である。人によってはそういう難儀な人物など相手にしたくないと思ったり、あるいは梨々花の言うように、その感情を露骨に表してしまう場合だってあるだろう。自分だってもしかすれば、そうなりえていたかも知れない。

 けれど。

「嫌ったりなんて、してないよ」

 初めて奏の本性が露わになったあの日からずっと、一日たりとて、久美子は奏から目を離さずにいた。それは美玲の一件から得た久美子なりの反省の証でもあった。奏がその小さな体の内に抱えているであろう、彼女なりの事情。それが何なのかは未だにさっぱり見えていない。けれどきっと何かがあると信じて、それが明らかになる日が来ることを久美子は辛抱強く待ち続けていた。それはひとえに奏のことを案じていたから。そう思う気持ちが自分の中にある以上、少なくとも自分は奏を嫌ってなどいない。そのことだけは、確信を持って断言することが出来た。

「今はキッカケが掴めてないけど、もし奏ちゃんが心を開いてくれる瞬間があったら、私は必ず奏ちゃんのことをフォローするつもりでいるから。先輩として」

 決然たる久美子の回答に梨々花が息を呑む。しばし交錯する両者の視線。こちらの真意を探ろうと、梨々花は久美子の瞳の奥底を見つめてきた。それを受けて久美子は、己の目にじとりと強く意志を込める。自分の内に抱く覚悟を、余さず相手に伝えるように。

「そうですか」

 ひゅうっ、と梨々花の口から吐息が洩れる。

「良かったぁー。梨々花、すごーく安心しました。そこまで言って下さるんならきっと、先輩はホントに奏のこと心配してくれてるんですよねぇ」

「信用無いなあ」

「ダイジョーブです! 今ので梨々花、ちゃんと先輩のこと信用しました。ってゆーか、信頼、ですぅ」

 ふっくりと梨々花が微笑む。それは彼女の持つあどけなさと可愛らしさを目一杯風船に詰めて膨らませたような、そんな表情だった。

「そこで先輩に一つ、約束です」

「約束?」

「はい。もし奏のことで梨々花が久美子先輩のお力になれることがあったら、何でもお手伝いします」

「本当?」

「ホントです!」

 絶対保証しますという意思表示なのか、梨々花は胸の前に両手でピースサインを形作る。その可愛らしい所作には、久美子も思わず顔を綻ばせてしまった。

「ありがとう、助かるよ」

「先輩にはみぞ先輩の件でもお世話になったので、梨々花なりの感謝の気持ちです。ですけど、」

 梨々花は淀みなく言葉を続ける。と同時に、満開だった彼女の笑顔がそこでスウッと温度を下げた。

「先輩も、奏のことで私が困った時は助けて下さい。もしも先輩が奏のこと見捨てたりしたら私、本気で怒っちゃいますよ」

 艶の失せた梨々花の瞳孔が真っすぐこちらを捉えている。それを直視して、久美子は自分のうなじがゾワリと冷えるのを感じた。

 声色こそ冗談めかした口ぶりだったが、今の梨々花の発言はきっと本気のものだ。それも何となく分からないではなかった。久美子はまだ奏に何も成せてはいない。この約束を果たせるかどうか、全てはこれからなのだ。自分の覚悟は未だ梨々花に試されている。もしも自分が梨々花との約束を反故にするようなことがあれば、きっと彼女の宣言通り、ただでは済まない。そう思わされるだけの威圧感が、目の前の梨々花にはあった。

 言葉だけなら、どうとでも取り繕うことは出来る。けれど今ここで梨々花から求められているのは、本当にそれを行動に移すのかどうか。口だけじゃなく、これから奏にどう接していくか、本当に自分と一緒に彼女を支える側に立ってくれるか、それを梨々花は確定させたがっているのだ。

「いいよ。約束する」

 久美子も梨々花の迫力に真っ向から受けて立つ。返事を受けて一度まばたきした後、梨々花の瞳はさっきまでと同じようにくりりと艶を放っていた。

「約束っていうか、協定って感じだね。奏ちゃんの為に手伝い合うっていう、お互いにする約束」

「協定、ですかー。そうかもですね」

 喉をクツクツと震わせ、それから梨々花は右手を差し伸べてきた。きっと誓いの握手をしようというつもりなのだろう。そう考え、久美子も右手を伸ばして彼女の手を掴み取る。思いの外かさついている梨々花の手の平は自分のそれよりも、ほんのりと温かかった。

「じゃあこれは先輩と梨々花の、ナイショの協定です!」

「うん。お互いによろしくね、梨々花ちゃん」

 梨々花の手に力が籠る。負けじと久美子も固くその手を握り込む。互いに思いを交わし合い、そして梨々花の方からスルリと手がほどかれた。

「久美子先輩とお知り合いになれて本当に良かったですー! いつも梨々花を助けて下さって、ありがとーございます!」

「助けになれるかどうかは、これから次第だけどね」

「でも梨々花、すごーく感謝してます。やっぱり先輩に相談して良かったです。あーそうだ! これから先輩のこと、『くみ先輩』って呼んでもいいですかー?」

 え、と虚を突かれた久美子は思わず息を止めてしまった。

「何それ、もしかしてみぞれ先輩みたいな感じ?」

「そーです! 梨々花から先輩への、感謝とソンケーのしるしですぅ」

 にへへ、と八重歯を覗かせる梨々花は完全に普段の調子に戻っていた。くみ先輩、か。一瞬、久美子の脳裏を友恵の笑顔がよぎる。何とも面映ゆい呼ばれ方ではあるが、それが梨々花なりの信頼度を表すものであると考えれば、それほど悪い気もしない。

「別にいいよ」

 そう返事をすると「やったあ!」と梨々花は飛び跳ねてみせた。

「それじゃあ改めてよろしくお願いしまーす、くみ先輩。梨々花のコトもこれを機に『リリリン』って呼んでくれていいですよー」

「うん、梨々花ちゃん」

 改めて、梨々花の提案はすげなく固辞しておいた。何事においても線引きというものは大事だ。

 長話をしているうちに陽は沈み、空にはすっかり夜の帳が落ちていた。ぐずついた空模様もどうやらギリギリのところで踏み留まってくれたらしい。一雨降られる前にと解散を告げて、二人はそこから各々の方角へ別れていった。

 

 

 梅雨雲が次第に優勢を占め、長雨が続くようになった頃、とうとうその日はやって来た。

「それではこれより、コンクールメンバー選出のオーディションを始める」

 陣頭に立った美知恵の鋭い宣言が音楽室に響く。副顧問である彼女の前に整然と列する部員たちの表情には、緊張、不安、そして集中、といった気配が色濃く浮かんでいた。誰かがゴクリと固唾を呑む音が聞こえ、直後に峡間のごとく落とし込まれる静寂。普段とはまるで異なる室内の様相に、こちらまでもが否応なしに心を乱される。

「今日のオーディションは金管と打楽器、明日は木管となる。順番が来たらマネージャーの加部が呼びに行くので、それまで各パートとも普段の教室で待機すること。その間はオーディションの妨げにならないよう、楽器での音出しは禁止だ」

 美知恵の説明に、はい、と一同は力の入った返事をした。

「あー、ドキドキしてヤバいです。心臓破裂しそう」

「こういう時は平常心だよ平常心。一緒にガンバろ、さっちゃん」

 ミーティングを終えた後、久美子たちは楽器を持ってぞろぞろと、待機場所である三年三組に移動していた。ガタガタ震えるさつきとその手を取った葉月とが、二人で祈るようなポーズを取っている。それを眺める美玲は少し微笑んだ後、うっすらと憂いの表情を浮かべた。彼女の心にいま去来するものが何か。それが透けて見える気がして、けれどだからこそ、久美子はあえて美玲に声を掛けるようなことはしなかった。

 大丈夫。きっと美玲が思うようなことにはならない。

 久美子はチラリと後ろ毛の跳ねた夏紀の背中を覗く。昨年のオーディションの後、自分のことを優しく気遣ってくれた夏紀。そんな夏紀と葉月は去年、コンクールのサポートメンバーとしてレギュラーメンバーの背中を全力で支え続けてくれた。『チームもなか』だった彼女達には強い絆があり、そして育まれた関係がある。自分の事を後回しにして皆に気を配る夏紀の献身ぶりを、葉月はずっと間近に見ていたのだ。それはきっと今でも葉月の中にも息づいている。だから大丈夫。そう久美子は信じていた。

「ところで、あすか先輩は?」

 ふと気付き、辺りをキョロキョロと見渡すも、あすかの姿はどこにも見当たらない。そう言えばさっきのミーティングの最中にも、あすかは部室に居なかったような気もする。もしかして、コーチ役である彼女は滝の隣で皆の演奏を裁定していたりするのだろうか? その光景をうっかり想像してしまった久美子の頬を嫌な汗が滑り落ちていく。だってそうだろう。あすかに見られながらオーディションを受けるだなんて、これほど緊張を強いられる話も無いではないか。

「あ、大丈夫。それは無いと思うから」

 そんな久美子の邪推を、梨子が笑顔混じりに否定してみせた。

「さっき廊下で会ったんだけど、あすか先輩、今日は皆の邪魔はしないって。今頃は図書館かどこかで勉強してるんじゃないかな」

「そうなんですか」

 それを聞いて久美子は大いに安堵する。さしものあすかと言えども、オーディションのように厳正なる審査の場にはちょっかいを出すまいと、そこはきちんと弁えてくれたのかも知れない。

「田中先輩って、勉強は大丈夫なんでしょうか? 去年は学年トップだったって話は聞きましたけど、今年はコーチ役もやってますし」

「大丈夫なんじゃない? こないだの中間テストも、その後にあった全国模試も、あすか先輩ぶっちぎりで学年一位だったし」

 美玲の疑問には夏紀がさも当然といった様子で答えた。もっとも、あすかが今年も成績優秀であろう事実は夏紀のみならず、久美子たち上級生にしてみれば自明の論理といったところだ。

「何かさ、先輩いわく『今年は去年よりも周りに成績の良い子が少ないからラクショー』なんだってさぁ」

「あー、それすごくあすか先輩らしい感じしますね」

 夏紀の口真似にあすかの調子が秒で思い描かれて、久美子も思わず失笑してしまう。

「私ら同級生からしたら勘弁してよって感じだけどね。去年先輩と同級生だった人らにはホント、同情するわ」

 そう言って肩をすくめてみせる夏紀の態度には、さっきから随分と余裕を見て取ることが出来る。だがそれも至極当然のことだ。ここのところの追い込みで、夏紀の技量は完璧に周囲のそれに比肩する程にまで上達していた。パート練習の際にも卓也や梨子に混じって各々に指摘をするようになり、しかもその内容がちゃんと芯を捉えているが故に、久美子ですら素直に頷かされる事も二度三度では無い。あすかの指導は夏紀の技術面のみならず、音楽的な解釈や表現力といった部分までも徹底的に鍛え込んでいるらしかった。知識や理論に裏打ちされた演奏には一分の隙も無い。目下、久美子にとって最も意識すべき強力なライバルとなった夏紀の姿は、今までとはまた別の意味でこの目に眩しく映って見える。

「緑先輩、僕、頑張ります。絶対に頑張りますから」

 そんな台詞を聞きつけて視線を巡らせると、そこにはコントラバスを抱えた緑輝と求の姿があった。

「ふふ。求くんはもっと肩の力を抜きましょう。普段通りにやれば、求くんならきっと大丈夫」

 一方こちらでは、白のテーピングをぐるぐる巻きにした緑輝の指が、求の柔らかそうな栗色の髪をさわさわと撫でている。それに無上の喜びを感じたのか、求はうっそりとはにかんだ。あそこの空間はちょっと異様な雰囲気を醸し出している。別に二人が付き合ったりしている訳ではない事ぐらい承知しているのだが、中性的なオーラを放つ求と桃のような可愛らしさに包まれた緑輝、二人のやり取りは何だかとてもいけないものであるかのようにも見えてしまう。

「ホルンのオーディション、終わったみたいだな」

 卓也がぼそりと呟く。耳を澄ましてみると確かに、先ほどまで校舎に響いていたホルンの音が今は聞こえない。順番的に次は低音パート。その口火を切ることになるのは恐らくユーフォニアムだろう。胃の腑から心臓を突き抜けてぐらぐらと立ち昇る緊張感を、久美子はゆっくり吸った息でギリギリまで押し込み、そうしてから一斉に吐き出す。ここから先は集中力をピークまで高める時だ。今日に向けてたくさん練習を重ねてきた。大丈夫、何も問題は無い。自分の内にその言葉を落とし込むと、胸の中をたゆたっていた一抹の不安がスッと溶けていくような、そんな気がした。

「出番かな」

 夏紀も楽器を手に取りマウスピースに息を吹き込む。その表情はいたって凛としていた。

「じゃあ奏ちゃん、私達も準備しよっか。……奏ちゃん?」

 何気なく声を掛け、そこで久美子は異変に気付く。この時既に、奏は全身の血の気が失せたようにこれ以上無いほど青白い顔をしていた。ふうふうと小さく吐息をこぼし、ピストンの上に乗せられた指を固くこわばらせ、体は微動だにしていない。焦点の定まらぬ目つきでじっと楽譜を見つめるその姿は、鬼気迫るものさえあった。

「ちょっ、大丈夫? もしかして体調悪いんじゃ――」

「大丈夫です。何も問題ありません」

 久美子の気遣いを奏がすかさず払いのける。どう見ても大丈夫そうには見えない。これは極度に緊張しているのか、何か不安を感じているのか、それとも。考えあぐねる久美子だったが、あいにく次の手を打てるほどの時間的余裕は無かった。

「お待たせしました、低音パートのお時間でーっす! まずはユーフォの三人からね」

 ガラリと扉を開けながら友恵が元気良く飛び込んで来た。教室内をぐるりと一望し、それから皆の視線が集まっている奏のところで友恵の目が止まる。

「ありゃりゃ、久石ちゃんどうかしたの? なんか顔色悪くない?」

「平気です」

 言葉少なな返事と共に奏はかぶりを振った。それなら良いけど、と友恵は一つ息を落とす。

「まあオーディションだし緊張するのも分かるよー。あんまり深く考えないで、普段の自分を出し切っていこう! 久石ちゃん、ファイトファイトぉ」

 両腕のガッツポーズを胸の位置で絞り込むようにして、友恵は努めて明るく奏を激励する。奏はそれに見向きもしなかった。

「黄前ちゃんも頑張ってね」

「ありがとうございます、加部ちゃん先輩。頑張って来ます」

 久美子が応えると、うんうん、と友恵は満足気に頷く。それから、と友恵は踵を返した。

「夏紀も。頑張って」

 ゆるく結んだ拳を突き出す友恵。その表情には少しだけ、彼女の夏紀に対する申し訳なさのようなものが灯っている。そんな風に久美子には見えた。

「もちろん」

 友恵の拳に、夏紀が自分の拳をコツリとぶつける。その目には強い感情が籠っていた。友恵の分まで全力を出し切る。そして必ず、コンクールの舞台に立ってみせる。そんな思いが、そこにはありありと映し出されているみたいだった。

「じゃ、行ってくるよ」

 颯爽と夏紀が先陣を切る。それに久美子も続いた。後をついてくる奏の足取りはどこかおぼつかなくて、彼女にどう声を掛けたものかと久美子は迷う。けれどその懸念も廊下の向こうに見える音楽室の扉が近付くに連れ、今は集中しなくては、という思いへと塗り替えられていった。

 

 

「失礼しました」

 音楽室の戸を閉め、久美子は一息をつく。と、脇に並べられた待機用の椅子には出番を待つ奏に加えてもう一人、既にオーディションを終えた筈の夏紀が何故か座り込んでいた。

「先輩、教室戻ってなかったんですか?」

「あーうん。吹き終わったらちょっと気が抜けてさ。ここで頭冷やしてるとこ」

「そうですか」

 楽器を脇の椅子に置いた夏紀は窓枠に肘を置き、頬杖をついて雨模様の外を眺めている。二つ間を空けて座っていた奏の表情は依然として青白いままだ。次だよ、と久美子が声を掛けると奏は目を閉じて一度深呼吸をし、それからゆらりと立ち上がった。そのまま無言で戸の向こうへと消えていく奏の背を見送ってから、久美子はさっきまで奏が座っていた椅子へ腰を下ろす。スカート越しに、そこにはまだ奏の温もりが残っているのが感じられた。

「先輩はどうでしたか、オーディション」

 ひそひそと耳打ちをするように、久美子は夏紀に話し掛ける。

「んー? まあ、ぼちぼちって感じかな」

「そうですか」

 小声で応じる夏紀の返答は気もそぞろ、といった按配だった。気が抜けた、という夏紀の弁も、確かに分からないではない。一番手だった夏紀の演奏中、出番を待つ久美子の耳に聴こえてきた彼女の音はまさしく完璧という出来栄えだった。決して百点満点という意味では無いが、少なくとも滝が要求するであろうレベルの演奏は十二分にこなせている。当落は滝の判断次第だが、夏紀にとっては己の持てる全力を振り絞ることが出来たと言って良い筈だ。そりゃあ事後には気の一つぐらい抜けたって仕方ないだろう。

「そういう久美子ちゃんはどうだったの?」

「私もぼちぼちですかね。結果は分かりませんけど」

「久美子ちゃんなら大丈夫でしょ。私より上手いんだし」

「そんなこと無いですけど」

「謙遜しなさんなって」

 片手をヒラヒラと振る夏紀は、しかし未だこちらに顔を向けない。冗談めいた口調の向こう側で彼女が今何を思っているのか、その意図を読み取ることはもう一つ出来なかった。夏紀につられ、久美子もまた無言で窓の外を眺める。しとしと降り続く雨は耳にうるさいほどの音を立てる訳ではなかったけれど、何となく二人の間にまたがる物憂げな空気を増幅させているみたいだった。

 もちろん久美子自身、やれるだけのことはやり切ったと自負している。客観的な評価はともかくとして、自分なりの判定としては夏紀のそれよりも頭一つ上の演奏をすることが出来たという感触だ。夏紀のような長時間に及ぶマンツーマンこそ無かったとは言え、日々の練習であすかから手ほどきを受けていたのは久美子とて同じ。短い時間ながら彼女の指導によって音を磨き上げられた久美子は、それまでの弱点も殆ど克服することが出来ていた。そしてその全ては今しがた、オーディションの場において遺憾なく発揮してきたところだ。

「まあやれる事は全部やったし、あとは神のみぞ、ならぬ滝のみぞ知るって――」

 そう夏紀が言い掛けた時、音楽室からユーフォの音色がこぼれ出す。それと同時に夏紀は口を閉じた。姿勢こそさっきまでと変わらぬものの、彼女の聴覚と意識は今、奏の演奏にぴたりと集中している。それを感じ取った久美子も同じように、奏の生み出す音にそっと耳を傾けた。

 課題曲の一節をなぞっていく奏の音。次に自由曲。第一楽章と第二楽章の一節を吹き切り、そしてややあって、第三楽章の中ほどをユーフォの調べが歩んでいく。さっきの自分達が吹いたのと全く同じ個所を、奏は全て吹き終えた。

 その演奏に、決定的な破綻など、どこにも無かった。

 奏は持てる実力の全てをその場で出し切った。

 けれど、その音は。一つひとつの形。音色。そして、彼女の音楽は。

 ……シンと静まり返った廊下で、夏紀はぴくりとも動かない。久美子もまた息をするのもためらわれるほどに、それはそれは重い静寂のひと時だった。ポタポタ、と校舎の隙間からこぼれ落ちる水滴の音が今は何故か、ひどく耳にこびりつく。

 やがて、音楽室の戸がゆっくりと開かれる。そこに立っていた奏は恐ろしいほど虚ろだった。自分に怒っているのか。それとも悔やんでいるのか。彼女自身にも己の感情を掴み切れていないかの如き表情を前髪の奥に浮かべながら、途方に暮れてしまった時のように、奏はただそこに立ち尽くしていた。夏紀がおもむろに奏を見やる。その一瞥で何を思ったのだろう。ふう、と息を落として夏紀は立ち上がり、奏の右肩をポンと叩いて、

「帰ろう」

 ぴくり、と跳ね上がる奏の肩。青ざめた彼女の唇はひどく震えたまま、上手く言葉を紡げずにいるみたいだった。

「はい」

 気の遠くなるほど長い一瞬を経て、奏はようやくそれだけを口にした。来た時とは逆に、先に立った奏がフラフラと教室に向かう。その足取りはあたかも地面など無いところを歩んでいるみたいな不確かさで、影の差す廊下に小さな靴音を刻んでいった。

 雨脚がその一瞬、ザアとひときわ強く跳ね上がる。それは背を向けた奏の叫び声だったかのような、そんな痛々しい音だった。

 

 

 

「では、今からオーディションの結果を発表する。名前を呼ばれた者は返事をするように」

 瞬く間にテスト期間の日々が過ぎ去り、そして今日はとうとう結果発表の日。部室内に揃った顔ぶれは一様に張り詰めた緊張一色で塗り潰されていた。今にも弾け飛びそうな感情の高ぶりが、果たして合格の喜びに彩られるか、はたまた落選の絶望に圧し潰されるか、それはまだ誰にも分からない。個々の明暗が峻別されるのは今からのほんの一瞬のうちだ。

 皆を見渡した美知恵が手元のバインダーへと視線を落とし、おごそかに口を開く。

「まずはフルートから。三年、井上調」

「はい」

「三年、傘木希美」

「はい!」

「二年、小田芽衣子」

「はい」

「二年、高橋沙里」

「はい」

 合格者の名前が次々と読み上げられ、その度に無言の達成感と悲痛な呻き声とが音楽室を席巻する。当落の結果を知る度、あの人が受かったかと喜ばしく思う事もあれば、あの人は落ちたのかと衝撃を受ける事もある。こればかりは久美子にも完璧に予見するのは不可能な事だった。

 滝が選出する五十五人の枠に入るには、基本的に上手さこそが絶対条件ではあるのだが、他のパートとの人数的なバランスという要素も無視しがたい。それぞれのパートを横断的に見た限りではあの子の方がこっちの子より上手くとも、このパートは何人までという括りがある以上、時にはギリギリのところで取りこぼされてしまったりもする。それらを分かつ滝の審査を疑うつもりなど毛頭無いが、そうは言えども部員の立場としては受かるのと落ちるのとでは天と地の差だ。一度きりのオーディションが全てを決めてしまうというのはそれほどまでに厳しく、残酷なことなのだ。

「次に低音パート。ユーフォニアムから」

 来た。心臓の高鳴りは極大を越えて、皮膚を突き破らんばかりに跳ね上がる。

「三年、中川夏紀」

「はい!」

「二年、黄前久美子」

「はい!」

「ユーフォニアムは以上」

 その宣告は呆気なくもたらされた。奏は、メンバーには選ばれなかった。久美子はすぐに奏を見やる。奏は口元だけを微かにたわませて、ただぼうっと中空に視線を泳がせていた。半ばこうなることが解っていたのか、無感情とさえ言えるその佇まいからは、絶望と諦めの入り混じった深い虚無を思わせるものがあった。

「次にチューバ。三年、後藤卓也」

「はい」

「三年、長瀬梨子」

「はい」

「一年、鈴木美玲」

「はい」

「チューバは以上。次にコントラバス」

 美知恵による点呼は淀みなく続けられ、コンクールを戦い抜く五十五名が決まってゆく。そんな中、レギュラーに選ばれたことを喜ぶべき久美子の胸中に渦巻く不安。それはどす黒い不気味さを孕んでいて、ばきばきと音を立てて軋みが広がっていくような、そんなとてつもなく嫌な感触だった。

 

 

 

 

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