もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈12〉球技大会

 手に抱いたユーフォニアムのピストンを確かめるように押し込み、解放し、それから久美子はマウスピースに当てた唇を震わせる。

 天に向かって伸びやかに広がるB♭(ベー)の音。ちょうど八拍を揺らがぬよう、形を崩さぬようきっちり吹き切る。それから(ツェー)(デー)E♭(エス)……と、さっきと同じようにそれぞれの音を八拍ずつ鳴らしていく。

 あらゆる練習の中で基礎中の基礎と言われるロングトーンだが、ただ単に音を長く伸ばせば良いというものでは無い。そこには吹いている時のクセや偏り、音質の濁り、音量や音程、その日の自分の調子といったありとあらゆる要素を見出すことが出来る。それらを自分の耳でチェックし修正するのが本来の目的であり、それは同時にあらゆる音に対する感覚を鍛えることにも繋がる。そういう意味でもロングトーンは管弦を問わず、器楽において欠かせぬものとして取り扱われている。まさしく『ロングトーンは全ての基礎』なのである。

 自分が出せる目一杯の高さの音までを出し終えて、久美子は一息をつく。まだ早朝ということもあり、露天の渡り廊下を吹き抜ける薫風は涼しささえ感じるほどだった。それでも徐々に昇りゆく太陽の気勢を感じ取ってか、裏山の向こうからはジリジリ、とセミの鳴く声も聞こえ始めている。そろそろ他の人たちも朝練のために登校してくる頃合いだろう。いったん呼吸を整えて次はスケール練習に移ろうとした、その時だった。

「おはよ、久美子ちゃん」

 久美子は声のする方へと向き直る。そこに立っていたのは、夏紀だった。

「おはようございます、夏紀先輩。ここに来るなんて珍しいですね」

 こちらへ歩み寄ってくる夏紀は自分の楽器を持ってはいなかった。きっと何か話があるのだ、と直感して、久美子は構えていたユーフォを下ろす。

「練習中にごめんね。ちょっといい?」

「はい、大丈夫です」

 手すりを掴み、ちょうど猫がそうする時のような姿勢で「ん~っ、」と夏紀が大きく伸びをする。目頭にじわりと滲んだ涙を、彼女はついと指先で払った。

「それにしても偉いねー、毎日こんな朝早くから練習頑張ってて。さすが、コンクールのソリストに選ばれるだけはあるわ」

「あんまりおだてないで下さいよ。朝イチで学校に来るのももう、半分くらいは習慣になっちゃってるっていうか」

「それ、希美とおんなじこと言ってるよ」

 ニヤリとする夏紀に、あ、と久美子は気付かされる。確かに今のはいつぞやの希美の弁にそっくりだ。

「それだけ上昇志向があるってことじゃない? 私も今年はコンクールのメンバーになったわけだし、久美子ちゃんに負けてらんないけどさ」

「はあ」

「もうすぐ夏休みだし、私も明日からは気合い入れてもうちょっと早く学校来ようかな?」

「あんまり朝早すぎると音出しできないですけどね。近所迷惑、とかって注意されちゃいますし」

「お? もしかして経験アリ?」

「まあ、何度か」

 苦笑してみせた久美子に、さもありなん、とばかり夏紀がカラカラ笑い声を上げる。その声は次第に噛み潰すように小さくなり、ひとしきり笑い終えた夏紀は表情を引き締めた。

「実はさ、久美子ちゃんには話しておきたい事があって」

「話しておきたい事?」

「久石のコト」

 風が、二人の間を抜けていく。さらりと揺れた夏紀のポニーテールはすぐに元の位置へと戻っていった。

「アイツがなんかグチャグチャしたもん抱えてるのは、久美子ちゃんも気付いてるよね」

「はい。春ぐらいからずっと」

「あんだけあからさまなら誰にだって解るか。まあ、それが何なのかってのは、私には全然見えてないんだけど。でも久石さ、周りと全然クチ利かないでしょ? 特にあすか先輩と、私には」

 そのことは、久美子にも何となく察しがついてはいた。奏があすかを避ける理由はまだ何となく分かる。けれど、彼女の夏紀に対する態度はそれに輪をかけるように、ほとんど無視と言っていいほどのレベルだった。そしてその理由が、久美子には皆目見当もつかない。

 もしも美玲のような事情が奏にもあるのだとして、人望的にも音楽的にもパートの輪の中心となりつつある夏紀に、あるいは嫉妬のような感情を向けているのかも知れない。だが仮にそうだとしても何故あそこまでの敵愾心を抱く必要があるのか? そこに何か糸口があるような気はすれども、糸を手繰ることは一向に出来ないままだった。

「もちろん、単に私が自意識過剰になってるだけ、って可能性もあるんだけどさ」

「そこは私には、何とも言えないです。私も奏ちゃんとはそんなに喋ってる方じゃないですし」

「まあとにかく私としては、理由がどうであれ久石がずっと孤立してるのが正直心配なわけ。でも多分、私にはアイツの悩みを解決してやることは出来ないんだろうなって、そんな気がしてる」

 そうなのかも知れない。根拠などどこにも無いけれど、今の奏には夏紀という存在を受け入れることなど到底不可能だ。頭の中に寝そべる漠然とした予感がそんな風に、夏紀と同じ結論を導き出していた。

「本当はもっと時間あったらアイツとぶつかってでも本音引きずり出してやりたいところだけど、そこまで手が回るかどうか。これからはコンクール関係の活動でバタついてくるし、そしたらきっと優子もガンガン突っ走るだろうしさ。ホントあのバカ、適度に手を抜くって考えが無いんだから」

「あれ? 加部ちゃん先輩がマネージャーになって、優子先輩もだいぶ負担減ってるんじゃないんですか?」

「アイツの場合、融通が利かないっていうか、空いた隙間に何か突っ込んでおかないと逆に不安になるタイプなんだよ。いっぺんアイツの弁当箱覗いてみたら? こんなに詰め込んでアホか、ってぐらいおかず満載だし」

 その様子を思い描くのはあまりにも簡単で、久美子はつい苦笑してしまう。そうでなくとも優子という人物は、誰かに肩代わりしてもらうことを素直に良しとはしない性格の持ち主だ。手が空けばその分を別の何かに回す。それを際限なく繰り返せば『完璧』に近付きはするだろう。けれど当の本人が、その負荷に耐え切れるとは限らない。どこかで足を緩めて息を抜くことを覚えなければ、どんな人物でもくたびれ果てて、やがては呆気なく破綻の時を迎えてしまうこととなる。

「まあ、つまりはそんなことにならないように、誰かが手綱を引っ張ってやらなくちゃいけないってワケ」

「そうですね。頑張って下さい、夏紀先輩」

「なんでそれは私の役目みたいに言うかなぁ。どいつもこいつも」

 忌々しげに顔を歪める夏紀が、ハー、とうんざりしたように溜息を吐く。

「別に私だってやりたくてやってるワケじゃないんですけど。去年あすか先輩に副部長指名されなかったら、今頃は優子のことなんて無視してたかもよ」

 などと夏紀はうそぶいてみせる。それは絶対有り得ない、と久美子は断言することだって出来た。何だかんだで夏紀は優子のことが気になるし、優子も相手が夏紀だからこそ素の自分を曝け出す。そんな二人の関係性は役職や立場に縛られるものでは無い。二人を繋いでいるものは、ある種の信頼なのだ。それも他人には理解しがたく、けれどもずっと深くて強い、信頼。きっとそれが何をどうしようとも二人を結び付けていたことだろう。

「とにかくさ。コンクールの時期に入ったら私もそこそこ忙しくなってくるし、それが終わったらもう引退だしで、久石に何かしてやれるだけの時間はもう無いと思う。冷たいかもだけど、元々アレもコレもって手に付けられるほど器用な人間じゃないから」

 夏紀は視線を逸らし遠くを見つめた。その目に映っているのはきっと今この時、この場所ではない。そう遠くない、けれど着々と近付きつつある終着点。そしてそこに到ってもなお、目の前の後輩に対して何ともしてやることの出来ない己の不甲斐なさ。恐らくはそういうものを夏紀は見据えていた。

「だから、久美子ちゃんにお願い。久石のグチャグチャはきっとこの後も残ると思う。もしかしたら私が卒業した後も。そうなったら悪いけど、私の分までアイツのこと面倒見てやって」

 頼むよ、と告げる夏紀の顔には申し訳なさそうな、情けない己を責めなじるような、そういった複雑な思いがこれ以上無いほど滲んでいた。しかして久美子には、夏紀の想いを無碍にするつもりなど毛頭無い。部のため、仲間のため、そして自分たち後輩のために、夏紀は文字通り身を粉にして尽くしてきた。そんな彼女の切なる願いをいとも容易く拒絶できるほど、久美子は自分のことを人でなしだとは思っていない。

「もちろんです」

 久美子は頷く。夏紀を少しでも安堵させるように。

「こないだもそんな約束、したばっかりなんで」

 それが何のことだか分かっていない夏紀は少しだけ怪訝そうにしたものの、けれどすぐにゆるりと微笑んだ。再び吹き抜けた風が、夏紀の胸元にかかる涙色のスカーフを緩やかになびかせていた。

 

 

 

 

 ダン、ダン、ダン。

 そこかしこを跳ね回るいくつものボールの音。それに合わせるように右に左にと飛び交うたくさんの歓声。やがて一つのボールが輪をくぐると、それらはひときわ高く大きく空間を揺らした。

「疲れたぁ」

 扉を開け、這い出るように外に出た久美子たちは「ぷはぁ」と息を吐く。体育館脇の入口から地面へと道を繋ぐ丈の低い階段のところには、ちょうど体育館の屋根が(ひさし)のように日光を遮って、涼むのに都合の良い影を作っていた。そこに腰を下ろして思い切り全身を弛緩させる。ぬるい風でも無いよりはマシだ。カンカンに照った陽光がアスファルトをじりじりと焼いている。その焦げ付くようなにおいが肺の奥にまで突き抜ける気がして、久美子は今にもむせてしまいそうだった。

 へばりついた体操着をつまんではたくと、じわりと帯びた汗が少しは乾いていく。タオルは一応用意してあったのだが、着替え時のための一枚がスクールバッグに詰められてあるのみで、この場には持って来ていなかった。まさかたった一度の出番でこんなに汗をかくことになろうとは。この時ばかりは己の判断の甘さを悔やむより他に無かった。

()っちー。もう体中ベタベタだよぉ」

 葉月などは大胆に裾を持ち上げ、それでパタパタと大きく身体を仰いでいる。剥き出しになったおヘソはきゅっと縮まっていて、日々の楽器練習に鍛えられた彼女の腹筋がうっすらとそこに浮かび上がっていた。あと少しめくれ上がったらいけないものが見えてしまいそうなのだが、それをわざわざ葉月に教えようか、という気持ちも暑さと疲労のせいであっという間に掻き消えてしまう。

「やー、終わった後の球技祭りってヤバいよねー。授業受けなくていいし、テストも終わって一学期はもう終業式があるだけだから、勉強しなくていいんだー! って解放感すごいわ」

「でも、いざ夏休みに入ればコンクール前の練習と宿題でそれどころじゃなくなっちゃうから、この解放感もあと数日の命って感じだけどね」

「いいの! 今はこのひと時を骨の髄まで満喫するんだから!」

「葉月ちゃん、すっごく楽しそうだね」

「先月からずっと、この日が来るのを待ちに待ってたんだよねー。こう見えても元・球技部員でございますので」

 そう言って葉月はニッカリと悪戯っぽく笑った。北宇治の行事の一つである球技祭りは、一学期末の数日間を掛けて挙行される。その間は一切授業も無く、各学年が入り乱れてクラス対抗、という形式で勝利を争われることになる。総合成績で優勝を収めたクラスには栄光と達成感、そして担任からの『ちょっとしたご褒美』もあるということで、運動部所属の生徒や美知恵に代表される熱血教師などは皆気合いを入れてこの催しに臨んでいた。

 中学時代テニス部に在籍していた葉月は、元々運動神経がかなり良い。組まれたスケジュールに沿っていくつもの種目で同時に試合が行われるこの行事において、生徒たちは最低でも一種目へのエントリーが義務付けられている。そんな中で葉月は率先して色んな種目に名を書き連ね、奮闘に次ぐ奮闘でクラスの成績を押し上げることに随分と貢献していた。あらゆる学校行事の中でも彼女にとって、こういう催しは貴重かつ絶対的な活躍の機会であるに違いない。

 かたや、スポーツ全般が不得意な久美子からすれば、この手の行事は楽しさよりも苦痛が勝る部分が多かった。出場種目として久美子が唯一エントリーしたのはバレーボールだったのだが、それもあくまでチームプレイの競技なら自分の運動神経の無さもあまり目立たなくて済み、しかもバスケほど忙しなく動き回る必要が無いからという、いわば消去法的な理由によるものだ。ただしその選択のおかげで試合中は何度も相手のスパイクを受けるハメになり、レシーブのために酷使した前腕は真っ赤っかに内出血を起こしている。これは今夜お風呂に入る時、猛烈に痒くなること間違い無しだ。未だ痺れる両手をさすりながら、久美子は少しばかり憂鬱になっていた。

「いいなぁ葉月ちゃん。緑、運動は全然ダメです」

 葉月の隣で緑輝がしょんぼりとうなだれる。それも仕方が無い、と久美子は思った。テニスをさせればラケットごとあさっての方向へサーブ、ゲートボールをさせればクラブだけ見事にホールインワン、そしてバレーをさせれば顔面もといおでこレシーブ……と、いずれの種目もなかなかの壊滅っぷりな緑輝は本人も述べた通り、こういう場面にはからきし向いてないみたいだった。

「まあまあ、緑だって精一杯頑張ってたじゃん! 私は緑のそういう何でもチャレンジしてみる、って姿勢もカッコイイって思うし」

「けどやっぱり、緑も葉月ちゃんみたいにカッコ良くボールを投げたり打ったりしたいです」

「そんなに落ち込むこと無いよ緑ちゃん。ホラ、人には向き不向きがあるっていうし、緑ちゃんは運動がまるでダメでも音楽はすごいんだから」

「いや久美子、それフォローになってないから」

「うわわ」

「いいですよぅ。緑にはジョージくんが居ますから」

 例によって出た自分の『うっかり』のせいで、プイ、と緑輝はそっぽを向いてしまった。ちなみに『ジョージくん』というのは緑輝が愛用している学校備品のコントラバスに彼女が付けた愛称である。と、そんなことを言ってる場合では無かった、すっかり拗ねてしまった緑輝のご機嫌をどうにかして取らなければ。焦る久美子を見かねてか、その肩をグイと押しのけた葉月が緑輝の正面へと陣取る。

「上手かどうかなんて関係無いって! 思いっ切り体動かして、それでストレス発散できて気持ちいいー、ってなれたらさ。音楽にだってそういうトコあるでしょ。そうじゃない?」

「それは、そうですけど」

「じゃあクヨクヨしないの。それに球技に限らず、へこたれないで色んなスポーツやってるうちに楽しめるものが見つかるってこともあるよ。緑にだってきっとある、って私は信じてる。だから元気出しなよ」

 ね、緑? と、葉月の指が緑輝の猫っ毛を優しく梳く。

「……はい!」

 葉月のお陰で緑輝はすっかりテンションを持ち直してくれたようだ。久美子はホッと一安心する。葉月の言う通り、上手くやることや勝つことだけを目的にしなくても楽しむ方法は幾らでもある。そういうところを諭してくれる葉月の存在が、久美子にはありがたかった。

 それに球技祭りの期間中は、出番のない時にはこうして表を自由に出歩いたり、水分補給と称して好きな時に売店へ飲み物を買いに行っても良いことになっていた。特にこの期間だけは特別なはからいで、売店スタッフがコーラやアイスといった普段取り扱わない品々を用意してくれる。窮屈な学生生活の中で、たまにはこうした息抜きの時間があるのも良いものだ。そう考えると球技祭りも決して悪いことばかりではない。何事においても良い側面に着目するのは、人生を前向きに生きる上で大事なことである。

「それにしても音楽と言えば、今年もオーディション、落ちちゃったなぁ」

 葉月が突然あっけらかんと言い放ち、ドキリとした久美子と緑輝は互いに顔を見合わせる。

「葉月ちゃん、その、」

「あー、いいっていいって。変に気ぃ遣われても却ってビミョーな感じになっちゃうし。そりゃあ今年こそはみんなと一緒に吹きたいって、そう思ってたけどさ」

 よっ、と弾みをつけて立ち上がり、そして葉月は二人に向かって親指を立ててみせた。

「大丈夫。私、あんま落ち込んでられないな、って今は思ってて。友恵先輩さ、マネージャーってことで今年のコンクールでもサポートに回るじゃん? そんな先輩のことも誰かが支えてあげなくちゃだし。それにサポートの仕事もけっこうアレコレ複雑だったりするから、何ていうかその辺、引き継ぎ? みたいなこともしっかりしておきたい、っていうかさ」

「葉月ちゃん……」

「そんな暗い顔しないでよー、緑。その代わり、これからはもっともっと練習頑張って、来年は必ずみんなと一緒にレギュラーになってコンクールで吹くって約束するから」

 そう語る葉月の瞳は強い決意に燃えていた。きっと葉月だって、今回の結果には人並みかそれ以上の悔しさを覚えた筈だ。それでも彼女が気丈に振る舞っているのは、久美子たちへの気遣いより何より葉月自身が『落ち込んでいる暇など無い』ということをこの一年で学んだからこそなのだろう。

 一年という時間は長いようで短い。それこそうかうかしているうちに、あっという間に過ぎ去ってしまう。オーディションに落ちた人たちだって「来年こそは」と頑張るのかも知れないが、コンクールメンバーに選ばれた者も負けず劣らず滝の厳しい指導の下で腕を磨いていく。そして来年は来年で圧倒的な実力を持った新入生が入って来ないとも限らない。そんな中でコンクールの席を勝ち取るためには、誰もが人一倍の努力をしなければならないのだ。オーディションでの選抜が終わりではなく次への始まりでしかないことを、葉月はきっとこの三人の中で誰よりも一番良く知っていた。

「来年こそ三人一緒にコンクール出ようね。久美子も、約束だよ」

「うん」

 葉月が伸ばした手に、緑輝と久美子も手を重ねる。

「それじゃあ今年の全国金賞と、来年の私たちの活躍を祈願しまして。北宇治ぃーファイトぉー、」

「おー!!」

 三人の掛け声が高らかに盛夏の空へと鳴り響く。思いを新たに誓い合った三人は顔を見合わせ、途端にからからと笑い出してしまった。

「ちょっとぉ。せっかく真面目な雰囲気だったのに、何で笑うのさー」

「すみません、なんだか急におかしくなっちゃって」

「そんなこと言ったら葉月ちゃんだって、思いっ切り笑ってるじゃん」

 こんな自分たちがどうにもマヌケなように思えて、けれどこうして笑い合って過ごす時間は、何だかひどく居心地が良かった。はー、とひとしきり笑い終えて、葉月はその場にどかりと腰を下ろす。

「とにかく、私は今年もきっちりサポート頑張るからさ。久美子たちもコンクール頑張ってよね。私からしたらメンバーの人たちの方が大変だなーって思うし」

「頑張るよ。どっちが大変とか、そういうのは無い気もするけど」

「いやいや、絶対大変だって。今年のオーディションは三年生でも落ちちゃった人も居たしさ。コンクールメンバーになった三年の先輩は特に、責任感じてると思うよ」

「それは、あるかもね」

 葉月の推察に久美子は声を落とす。オーディションの結果が発表されたその日の夜、秀一と交わした電話の中でもその話題はあった。彼が所属するトロンボーンパートでは唯一の三年生が落ち、サポートに回ることとなったらしい。コンクールメンバーは実力によって選ばれる。その方針には久美子も他の部員も納得ずくでオーディションに挑んでいるわけであり、もちろん滝の裁定にも異論などあろう筈が無い。けれど、選ばれなかった人たちの想いやコンクールに懸けた情熱までもが、そこで終わってしまう訳では無いのだ。その分も本番の舞台に立つ自分たちは背負っていかなくちゃ。そう語る秀一の声色は、それまでよりもずっと大人びていた。

「それにさ、メンバーの中でだって色々ありそうじゃん。特に今回の自由曲ソロって、吹くのはやっぱり鎧塚先輩と傘木先輩なわけでしょ?」

「ですね」

「傘木先輩、フルートパートの中じゃ一番上手いから、当然フルートソロなんだろうなって思ってたけど。でも井上先輩だってきっとソロやりたいって思ってたよね。今年が最後なんだし」

 どうだろう、と久美子は言葉を濁す。フルートの井上調と自分とは殆ど接点が無い。そんな彼女について何かを語れるだけの情報量を、あいにく久美子は持ち合わせていなかった。

「調先輩とは緑たち、お話したことも全然無いですからね。ホントのところは緑にも良く分かりませんけど」

 一つ前置きをして、それから緑輝は続きを話す。

「調先輩、フルートパートの中では普通にしてますし。それが表面上だけのことで何も気にしていないように振る舞ってるだけなのだとしても、そのまま受け取った方がいいんじゃないかな、って緑は思います」

 そこで緑輝がおもむろに久美子の顔をチラリと覗いた。『ですよね?』と言いたげな彼女の瞳に、久美子も緩やかに頷いてみせる。

「だね。きっとそうだよ」

「そういうもんかなぁ。んーでもまぁ、そういうもんか」

 いまいち要領を得ないといった様子の葉月だったが、やがて自分を納得させるように空へ向かって一息を吐いた。つられて久美子も空を見上げる。入道雲がもくもくと盛り上がりゆくその遥か向こうには、吸い込まれそうなほど深い天色(あまいろ)が広がっている。調は、希美を、どう思っているのか。そんな取りとめもない推察を、久美子はしばし空の向こうへと描いていた。

「そうだ!」

 不意に威勢の良い声を浴びせられ、久美子の思考はたちまち寸断される。葉月はまるで名案を思い付いたと言わんばかりに、ギラギラと眩しい笑顔をこちらへと向けてきた。

「夏休みの宿題なんだけどさ。練習休みの日にみんなで集まって、一気にやっちゃわない? 勉強会ってことで」

「勉強会?」

「うん! 高坂さんも呼んで四人で、分かんないトコあったら見せ合いっことかしたり」

「ダメですよ葉月ちゃん、勉強は自分の力でやらないと身に付かないです」

「えぇー、緑のイジワル。何さぁ、最近ちょっと成績が上がったからって」

 葉月をたしなめる緑輝はさっきの話通り、二年生になってから少しずつ成績を伸ばし始めていた。元々努力家の緑輝である。今まで楽器演奏に全振りだった彼女の情熱がいくらかは勉強にも向けられるようになった、というところだろうか。とは言え、緑輝のコントラバスの技術は衰えるどころかますます腕を上げてさえいる。できる人はできる、と、きっとそういうことなのだろう。

「じゃあ見せ合いっこは無しでいいから、勉強会はやろうよ。ね?」

「そうだなぁ、一応考えとくね」

 苦笑を交えて久美子は曖昧な返事をする。いずれにしろ、そんな話をするのも府大会が終わってからだ。万が一にも関西大会に勝ち進めなければ、宿題だのお盆だのとお気楽に騒いでいられるような状況ではなくなってしまう。『取らぬ狸の皮算用』ではないけれど、今は目の前のことに集中していたかった。

「ところで二人とも、ノド渇きませんか?」

「あー、言われてみれば確かに。ねえ、売店行かない? 次の試合までまだ時間あるし」

「おっ、いいねー。やっぱ汗かいた後は水分補給っしょ!」

 葉月もすかさず二人の提案に乗ってきた。久美子は念のため、ポケットの上から小銭入れを揺すってみる。チャリチャリ、と小銭同士のこすれ合う音。ジュースを買うだけのお金は、確か入っていた筈だ。

「私コーラ飲みたい。みんなは?」

「緑、アイスがいいです!」

「ひょっとしておごってくれんの? ありがとね緑ぃ、ゴチソウサマ」

「どうしてそうなるんですか! ……んー? アイスをおごると言えば、その昔ですね、」

 などと緑輝が何かの話題を口にしかけたその途端、眼前の地面にとんと一つ濃い影が落とされる。何だろう、と思って久美子は頭を上げた。

「あ、優子先輩」

「何よあんたたち、こんなとこでサボり?」

 慌てて久美子たちは立ち上がり「こんにちは」と優子に挨拶をする。おつかれさん、と返事をしながら優子はさらさらと風にそよぐ髪を手櫛で直した。オーディションの少し前、気合いを入れるためと称して、優子は腰丈まであった髪を肩ほどの長さまでカットしていた。勝気で真っ直ぐな優子の性格にこの髪型はとても良く似合っている。そんな優子の肩越しから「やほー」という砕けた挨拶と共に、友恵がヒョッコリと顔を出した。

「加部ちゃん先輩、こんにちは」

「こんちわー黄前ちゃん。それに葉月ちゃんと、川島さんも」

「こんにちは!」

 二人もまた久美子に倣い、友恵に元気良く挨拶をする。

「あー、ちょうど良かった。ここで黄前ちゃんに会えて」

「ちょうど?」

「うん。部活中はなかなかタイミング無かったからさ」

 いつもは砕けた調子の友恵が改まって、一体何の話だろう。少々疑問を抱きつつも、久美子は友恵の言葉の続きを待つ。二人の微妙な空気を察したのか、優子は「あっち行くわよ」と葉月たちを伴って久美子たちから少し距離を取ってくれた。

「ごめんね。黄前ちゃん」

「ごめんって、何がですか」

「私が奏者引退するって、黄前ちゃんに話してなかったこと」

 ああ、と久美子は少々呆気に取られた。そう言えばあれ以来、マネージャー職に就いた友恵と二人で膝を突き合わせる機会は、全くと言っていいほど無かった。

「同じ指導係だったし、あんだけ黄前ちゃんに遠慮すんなーみたいなこと言ってたくせして、その私が遠慮するみたいな感じになっちゃってさ。隠すつもりじゃなかったんだけど、それ言うのも何となく言い訳くさくなっちゃうし」

 友恵はそこで後ろ手を組み、居心地悪そうに身体をよじらせる。

「だから、ホント、ごめん」

 決心したように久美子の目を一度見据え、友恵はしっかりと頭を下げた。やめて下さいよ、と久美子は友恵の両肩を持ち上げる。

「確かに、あの発表のときはちょっとビックリしちゃいましたけど。でも夏紀先輩から事情聞かされて、私は納得しました。加部ちゃん先輩も大変だったんだなって」

「ありゃ、夏紀話しちゃったの? みんなに?」

「あー、私だけです」

 遠くの葉月たちを横目に見やりながら、久美子は弁解する。

「とにかく、先輩の気持ちはもう十分解ってますから。私のことなんて気にしないで下さい、加部ちゃん先輩」

 久美子は精一杯の笑顔を浮かべてみせる。少しでも友恵の心が安らぐように、という、それは久美子に出来る限りの配慮の表れだった。

「……そう言ってもらえると、救われるわぁ」

 友恵は大きく息を吐く。ずず、と鼻を鳴らし、それから友恵もニッカリと満点の笑顔を返してくれた。

「ありがとうね黄前ちゃん。黄前ちゃんが指導係の後輩で、ホント良かったよ」

 彼女のその言葉には何だか、こちらこそ救われたような気分だった。あれ以来少しだけ距離を感じていた友恵と、その時ようやく、久美子はもう一度打ち解けることが出来たと感じていた。

「もう済んだ?」

「あ、優子」

 二人の話がひと区切りついたのを見越してか、優子たちがこちらへと戻ってきた。うん、と友恵がはにかみながら頷く。

「だから言ったでしょ。黄前ならきっと怒ったりしないからって」

 ほれ見たことか、とばかり平手を向ける優子に、友恵は気まずそうな表情で鼻の頭を掻く。この様子からするに、友恵はこの件に関して何がしかの相談を優子にしていたらしい。 

「いやまぁ、優子を疑うつもりは無かったんだけどさ。黄前ちゃんって絶対、本気で怒らせたら怖いタイプだから」

「別にそんなこと無いと思うんですけど」

「だから、そういうのが怖いんだってば」

「どういう意味ですか!」

 隠さず非難をぶつける久美子に、ほらぁ、と顔を引きつらせた友恵がじりじりと後ずさる。

「あーそうだ、友恵せんぱーい!」

 やにわに葉月に呼び掛けられ、友恵は一転ホイホイと脱兎の如く跳ねていった。ともすれば今のは葉月なりの助け舟だったのかも知れない。そのまま葉月たちと談笑を始めた友恵に「全くもう」と優子は睨みを向ける。

「ホントしょうがないんだから。引っかかってんならさっさと謝りに行けば、って何度も言ったのに友恵のヤツ、なかなか踏ん切りつかなかったみたいで」

「ですね。でも私はちょっとだけ、加部ちゃん先輩の気持ち分かります。本当にちょっとだけですけど」

「ふうん?」

 優子は不思議そうに首を傾げる。まあいいけど、と咳払いを一つして、それから優子は階段を指差した。

「私もちょっと話あるから。立ち話もなんだし、そこに座んなさいよ」

「はあ」

 率先して腰を下ろした優子に並ぶようにして、久美子もそこへ座る。

「ありがとね、小日向さんの件」

 何の話かと思いきや、優子が切り出したのは夢のことだった。そう言われれば彼女のその後についても、久美子にはとんと報告が無かった。

「あ、いえそんな。それで夢ちゃん、オーディションはどうでした?」

「バッチリ吹き切ってたよ。あんなにやりたがらなかったのがウソみたいにね。コンクールでもファーストやることになって、ここんところは高坂がマンツーマンで指導してる。その分、小日向さんと入れ替わりに私がサードに回ることになったけど」

「あー、そうなんですね。それは何か、すいません」

「なんでアンタが謝るワケ?」

 そこでクスリと優子が吐息をこぼす。

「私もね、実力とか適性で考えたら、小日向さんがファーストやるべきだってのは分かってた。けど本人の望まないポジションに無理矢理割り振って、そのせいであの子が委縮したりぶつかって揉めたりするのは避けなきゃって思って、それで最初は本人の希望を優先してたの」

「そうだったんですか」

「まあそれが原因で、今度は高坂と私がぶつかっちゃったんだけどね。それでも去年みたいなことにはしたくなかった。人間関係のゴタゴタとか、そういうので部がグシャグシャに引っ掻き回されたら、コンクールどころじゃなくなっちゃうから」

 俯く優子の瞳には、昨年の光景が映っているのだろう。再オーディションを希望した中世古香織を巡る優子と麗奈の激突。みぞれと希美のすれ違い。そしてあすかの退部騒動。思えば昨年のコンクールは常に、度々起こる問題に翻弄されては解決して、を繰り返しながらの挑戦だった。その結果が全国銅賞。きっとその事実を、当事者でもあった優子は重く捉えていたのだ。

「一旦ああなっちゃうとどっちも譲れなくなっちゃうでしょ? 私も高坂も。まあそん時は保留ってことにして場を収められたし、その点はお互い成長したなって思うんだけど。あそこで黄前が間に入ってくれなかったら、きっと今でもまだ拗れてた。だから、ありがと」

「あ、いえ」

 ストレートに感謝の言葉を述べられると、それはそれでどうにも居心地が悪い。咄嗟にうまい返事ができなくて、久美子はごまかすように太ももの辺りを手でさする。さっきまで汗のせいでべたべたしていた感触も、今ではもうすっかり乾き切っていた。

「私っていうより、本当にすごいのはあすか先輩ですよ。先輩がいなかったら私だってきっと、夢ちゃんの悩みに辿り着けなかったと思いますし」

「どうかな。まあでも、あすか先輩が凄いってのは確かにね。私も先輩に負けないよう、もっとしっかりしないと」

 そう述べた優子は、まるで何かに追い立てられているみたいに張り詰めた表情をしていた。そんな彼女のことが心配になって、堪らず久美子は口を開く。

「あの、優子先輩」

「何?」

「あんまり無理、しないで下さいね」

 久美子のその言葉に、優子はしばしキョトンとしていた。ややあって口元がフッと緩み、そしてやにわに、優子が手を伸ばし久美子の頭髪をわちゃわちゃと掻き撫でる。

「ひゃあ!」

「下らない心配してないで、アンタは自分のことに集中しなさいよ。全く、」

 どっかの誰かさんにそっくりなんだから。ぼそりと優子の洩らした呟きに、え、と久美子は顔を上げた。

「さあて、そろそろ出番だし、私たちもグラウンド行かなくちゃ。友恵ー!」

「お? もうそんな時間か。はーいはいっ」

 呼ばれるに応じて、葉月たちとの会話を打ち切った友恵がぴょんぴょんとこちらに戻ってきた。

「それじゃ黄前ちゃん、また部活でね」

「はい、お疲れさまです」

「アンタたちもいつまでもこんなとこでサボってないで、クラスメイトの応援にでも行きなさいよ。じゃあね」

 校庭に向かって颯爽と歩み去る優子。その後を追って、友恵が手を振りながらその場を離れていく。そんな二人の背中をしばらくの間、久美子はじっと見つめていた。

 優子の背負うものは自分なんかが考えているよりも遥かに大きく、そして重い。彼女がたった一人でそれを背負おうとするのはきっと、あすかという偉大な人物の影を追い、与えられた役割をこなし切ろうと努めているからなのだろう。確かにあすかは有能で処理能力も高く、おまけに機転も利く。団体の長を務めるにはこれ以上なく相応しい人物だ。少なくとも、能力だけに関して言えば。

 けれど、誰もがあすかの真似を出来る訳ではない。疾風の勢いで草原を駆け回る駿馬も、大空を自在に舞う鳥のように飛ぶことは叶わない。もしもそれを目指して馬が高いところから飛んだなら、あっという間に地に墜ちて、その華奢な足はあっさりとへし折れてしまうだろう。万が一にも優子がそうなってしまわぬよう、久美子にはただそっと祈ることしか出来なかった。

「あれ、夏紀先輩?」

 葉月の一声で、久美子ははたと我に返る。遠目にも目立つポニーテールの後ろ姿は確かに夏紀のそれだ。どうやら友恵たちとバッタリ出くわした夏紀は、早速とばかり優子に絡み始めたらしい。それなりに距離があるにも拘らずギャーギャーと喚く二人の声が、遠く離れたここまで届く。

「相変わらず犬猿の仲だねぇ、あの二人」

「そうですね。でも緑は優子先輩と夏紀先輩、とっても良いコンビだなって思います」

 確かに、と久美子も思う。生真面目かつ突っ走りがちな優子には、ああして適度にイジりつつ必要に応じて支えてくれる人間が傍らに居た方がバランスが取れてちょうど良い。彼女たちの姿が校舎の角を曲がっていくまでを見届けて、ほう、と久美子は小さく息を吐いた。

「私たちも行こっか。早くしないと次の試合の時間になっちゃうし」

「おっとそうだった。それじゃー支払いはよろしくぅ、サファイアちゃんっ」

「絶対におごりませんからね!」

「ちぇー、緑のケチぃ」

 売店を目指して久美子たちはパタパタと駆けていく。セミも今が盛りとばかり、校舎や裏山の至る所でけたたましく大合唱を繰り広げていた。梅雨もすっかり明け、コンクールに向けていよいよ本格的に、久美子の戦いの夏が始まろうとしていた。

 

 

 

 


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