夏休みに入っておよそ一週間。迫る府大会に向け、日々の練習は緊張と集中の度合いをどんどん強めていった。
「そこ、ホルン。今の音色は場の調和を崩しています。鋭く、かつ丁寧に。荒れた音にならないよう注意して下さい」
「はい!」
「金管全体、この場面は嵐の吹きすさぶ苛烈さと恐怖感とを最大限に高めなくてはいけません。特に低音はもっと、この部屋を揺らすぐらいの気持ちで」
「はい!」
「何度言えば分かるんですか。ただ音量を上げるのではなく、重要なのは底から地鳴りのように響かせる音を出すことです。ここで重低音の圧迫感が最大限に出てこそ、上に乗る高音部のトリッキーな動きが対比として効いてくる。現状ではそれが全く出来ていません。アーティキュレーションの有無に囚われずに、この場面には音の伸びに合わせた微細なクレッシェンドがあると思って吹いて下さい。こんなところに無駄な時間を割くだけの余裕は無いんですよ」
「はい!」
今日も滝の指導は手厳しい。初めはそれに半ば怯えていた一年生のコンクールメンバー達も、日々罵声を浴びるうちに慣れてしまったか、あるいは己の為すべき事に集中しているのか、ここのところは表情を崩さずにいられるようになってきた。
「……今の感じを忘れずに。前回までの課題のおさらいはひとまず良しとしましょう。それでは改めて自由曲の第一楽章、全員で頭から行きます」
「はいっ」
楽器を構え、全員が滝の手元を凝視する。腕を振る滝に合わせて始まりの木管の音が奏でられた。ある程度のところまでを吹かせ、それを一旦止めて、滝は問題箇所をそれぞれのパートに突きつける。彼の声色に熱が籠るに連れ、指摘の内容もまた微に入り細を穿つものへと変わってゆく。
「フルートの四小節目、軽やかさが足りません。スタッカートの形をもっと短く、パート全員できちんと揃えて下さい」
「トロンボーン、そこは今以上に勇壮な音を。それとパーカッション、全体的に言えることですがメリハリを意識して。ダイナミクスの頂点ではうるささでは無く『鳴り』を出すようお願いします」
「木管の今の箇所は音を誤魔化している。ここはフォルテで進行しつつスラ―になっている部分ですが、各々リズムに僅かなバラつきがあるせいで濁って聴こえます。この八分の六拍子、三つ連なった音はどれも均等の筈。しかし実際には不均等な音が混じっている。これではクリアな音に聴こえないのは当たり前です」
注意を受け、演奏を修正し、また新たな注意を受ける。合奏中はひたすらこの繰り返しだ。こうして洗い出されたそれぞれの課題は個人やパートの練習時間で徹底的に潰されていく。もしも次の合奏で出来ていなければ滝の毒舌はさらに一段階きつくなり、全身をズタボロにされてしまう。皆がその状況を受け入れているのも、それが無理難題ではなく出来ることをやらずにいるからなのだということを、経験則によってとっくに理解しているからだった。
「次、第三楽章。始めに言っておきますが、出だしのオーボエに対してフルートとハープの追随が出来ていないのが前回からの課題です。ここは注意深く合わせて下さい」
「はい」
前方に座するみぞれと希美、そしてハープを担当するパーカッションの
「また楽譜には示されていませんが、オーボエのソロに合わせて息継ぎをするようにテンポを緩める箇所を幾つか設けたことは、先日も話した通りです。それなのに今までのところ、我慢し切れずに音が飛び出してしまっているケースが散見されます。私の指揮に合わせようとするのも結構ですが、ここでは一番の基準になるオーボエの、鎧塚さんの呼吸を、全員が感じ取って下さい」
「はいっ」
「後は、イメージを表現に換えることを常に忘れずに。それでは行きましょう」
滝が腕を伸ばすのに合わせてみぞれがリードを銜え込む。希美や大野も演奏の体勢に入り、ぴたりと空気が静止したところで、滝は腕をゆるやかに二度振った。みぞれのオーボエからとろりと流れる出だしのフレーズ。ここのテンポは楽譜の上では
最初の八小節を終えてすぐ、滝は演奏を止めさせた。
「傘木さん、オーボエの音を聞いていますか。今の演奏も悪くはありませんが、あなたの方が少し感情的になりすぎるところがある。この部分は互いの音を聴き合い、そして吹き合うことが何より重要です。あなたから鎧塚さんへ、そっと語りかけるように。出来ますか?」
「はいっ」
手を差し伸べて問う滝に、希美は決然と返事をしてみせた。
「それと、鎧塚さん」
滝の指摘は続けてみぞれにも及ぶ。
「いま傘木さんに言った通り、鎧塚さんも傘木さんの音を良く聴いて、そして吹いて下さい。ここの主役はあなたですが、何よりも大事なのはフルートの音と掛け合うことです。楽譜に書かれた事ばかりでなく、その行間にある心や情感を汲み取り音にするのです。ちょうど傘木さんと歌い合うように。いいですね?」
「……はい」
希美のそれとは対照的にみぞれの声はどこか弱々しく、今にも消え入りそうだった。果たして滝はその返答にもう一つ満足出来ていない様子だったが、まあいいでしょう、と寄せた眉根を戻し、もう一度頭からの演奏を指示する。
「では行きます。各自、今言われたことを音楽として表現するのを忘れずに」
こうして練習は進められていく。受けた指示は都度楽譜に書き留め、次にはきちんと演奏に替えられるように。一瞬一瞬を、まるで糸をより合わせるみたいにして、久美子は極限まで集中していった。見上げる度に時計の針はどんどん進み、気付けば合奏練習の時間はそろそろ刻限に差し迫りつつあった。
「それではここで、本日の合奏は終了とします」
「はい!」
ふう、と部室中の気配が息を抜く。数時間も集中している状態が続くと流石に疲労を感じずにはおれない。毎日のように重ねられる合奏の日々で、時には音を上げてしまいそうになることもあるけれど、今はそんな時間さえ惜しいというのが久美子の偽らざる胸中だった。
残り僅かの日々で可能な限り音を突き詰める。その工程に終わりはなく、またここがゴールという明確な閾値も存在しない。それが音楽だ。ましてコンクールという舞台にあって、それは尚更のこと。北宇治が金賞を取り上位大会への代表権を掴み取れるかどうかは、他校の演奏との比較による相対的な評価で決められる。例え久美子達が本番当日どんなに素晴らしい演奏をしたとしても、他の学校がそれを頭一つ上回ってしまえば、枠数の限られた代表権を得ることは適わないかも知れないのだ。
「田中さんからは、何かありますか?」
滝に発言を求められ、部室の隅に設けられたコーチ席に座るあすかが腰を上げる。コンクールに向けての合奏が本格化してきてからというもの、あすかの役割はこんな風に全員の演奏に関する細やかなチェックをすることにあった。
「ええと、まずみんなに言いたいんだけど。みんなまだまだ音が固ぁい!」
その口調がとある人物の物真似である、と気付いたらしい何名かが、堪え切れぬようにクスクスと声を潜めて笑う。
「とっても繊細で表現の難しい曲だってのは分かるけど、だからって慎重になり過ぎ。ガチガチになってるせいで本来滑らかに吹くべき箇所までぎこちない表現になっちゃってて、勿体なく感じます。もっと音楽全体を伸びやかに捉えて、鳥が優雅に羽ばたくような気持ちで大胆に表現してみて。大胆と言えば、作曲者の
「はい。田中さん、ありがとうございました」
二年目ともなれば、滝によるあすかの扱いも手慣れたものである。余計な発言をピシャリとさえぎられたあすかは返事の代わりに満足げな敬礼のポーズを滝へと向けた。そんな光景にもどこか既視感があって、久美子の口の端からは呆れの感情が漏れ出てしまう。
「田中さんからも指摘のあった通り、これからの大きな課題は表現力です。固くぎこちない音楽では、この『リズと青い鳥』に込められた感情や機微といったものを十分に表現し切れません。音の形やテンポなど守るべきはしっかり守る必要がありますが、一方で不必要に恐れず、積極的に音で表現することを大事にしましょう」
「はい!」
「残った時間は予定通りパート練習としますので、各パートとも今回の合奏で見つかった課題を煮詰めておいて下さい。では本日は、これにて解散です」
「起立!」
優子の号令で、全員が一斉に席を立つ。
「ありがとうございました!」
部員と向かい合って礼をし、そして滝は部室を出ていった。部員達はこれから各々パート練習に向けて足早に移動をしたり、問題の箇所を確認するために楽譜を読み合わせたり、と様々だ。けれど彼らに共通していたのは、貪欲な姿勢で練習に取り組む必要性を見据えた瞳に宿る、強い意思の炎。それを見ていると、久美子の中にも大きく脈打つ思いがある。もっと上手くなりたい。現状の自分自身に全然満足できず、今まで以上に上達を求めんとする強烈な渇望。それは日を追うごとに強まっていて、今にも胸を突き破り、身体中をズタズタに引き裂いてしまいそうなほどだった。
「お疲れー久美子ちゃん。何かボーっとしてるけど、どうした?」
ふと顔を上げると、そこには希美が立っていた。楽器と譜面台を手に抱えた彼女は様子を窺うような顔つきで、上からこちらを覗き込んでいる。
「あぁ、すいません。合奏に集中し過ぎてたもんで、終わってからちょっと気が抜けてました」
「分かる、その気持ち。私もさっき滝先生にめちゃくちゃ叱られて、もぉゲンナリ」
あはは、と希美は空笑いをしてみせる。その言葉通り、先の合奏で彼女はみぞれと共に滝からの注意を集中的に浴び続けていた。
『傘木さん、今のままでは主張が強すぎます。鎧塚さんはどんな音を出していますか? どんな風に吹いていましたか? あなたにはそれに合わせようとする意識が足りません』
『鎧塚さんの音は平板過ぎます。あなたなら技術的に、このソロを吹くのには何の問題も無い筈。今ここで欲しいのは表現です。それをもっと出して』
『二人とも、もっと微細な部分をお互いに合わせる努力をして下さい。ピッチはようやく揃ってきましたが、音の形、強さ、音色、ビブラートの掛け方、そういったものが全てちぐはぐです』
「……だもんねぇ」
滝からの指摘を反芻するように口ずさみ、希美は実に苦々しそうな表情を浮かべる。
「たいへんですね、今回のソロ。かなり難しそうで」
「まあね。でも、やりがいはあるよ。フルートソロが結構カットされちゃったのは残念だけど、難しい分だけ良い曲だし。それに私さ、この曲すごい好きなんだよね」
「『リズと青い鳥』が、ですか?」
「うん」
頷いた希美の視線は手に持った譜面台、そこに置かれた楽譜へと移ろう。
「ずっと前から思ってたんだ。こういうカッコいいソロのある曲を、コンクールの本番で思いっ切り吹きたいなあって」
「それは、」
思わず開きかけた口を、久美子はすぐさま閉じる。それは? という希美の問いは「何でもないです」と笑顔ではぐらかした。しばし怪訝そうにしていた希美もやがて気を取り直したのか、視線を再び楽譜へと戻し、
「だから今年は絶対、この曲で全国の舞台に立ちたい。そして必ず、金賞を獲る」
力の篭った希美の声。それはきっと彼女なりの決意の証なのだろう。希美は本気で金賞を獲りたがっている。その願いは言葉よりもなお強く、彼女の全身からとめどもなく溢れ出ていた。
「のーぞせーんぱーい?」
「あ、そうだ、パート練行かなきゃ」
部室の入口あたりで希美を呼ぶ後輩達の声。我に返った希美は慌てたように、下ろしかけた譜面台をもう一度持ち上げる。
「それじゃあね、久美子ちゃん。本番も近いし、お互い頑張ろうね」
「はい」
別れ際に見せた彼女の笑顔はとても眩しいものだった。サッと身を翻し、後輩達の元に向かう希美。その後ろ姿を手を振って見送り、それから久美子はさっきのことを思い返す。
『こういうカッコいいソロのある曲を、コンクールの本番で思いっ切り吹きたいなあって』
喜びと熱意を交えて語る希美を前にして、喉まで出かかったその言葉は、会話の流れに相応しいものとは到底言えなかった。あの時そうと直感したからこそ、久美子は咄嗟に口を閉じたのだった。やる気に漲る希美に対して、もしもその一言を最後まで口走っていたなら。それを想像するだけで胃の底にドスンと重い石が落ちる感覚がする。どう考えてもあんなこと、本人に尋ねてはいけない。
――それは『好き』とは違うんじゃないですか、だなんて。
「そんなに希美のことが気になる?」
やにわに掛けられた聞き慣れぬ声に鼓膜を揺らされ、久美子はハッとそちらを見やった。
「あ、井上先輩?」
知らず知らずと語尾が裏返ってしまう。フルートの三年生、井上調。彼女とまともに会話をするのは、もしかしなくてもこれが初めてのことだ。調の声は猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら喋っているみたいに低く転がる印象で、それもまた久美子にとっては意外に思える。そのぐらい、久美子は調という人物と、これまでほぼ全くと言っていいほど接触する機会を持っていなかった。
彼女の黒く艶めいたセミロングヘアの前髪は、額のところで大きく横に流すように分けられている。そこから伸びて掛かった耳元の髪を一度手で払うようにして、調は朗らかな笑みを湛えた。その顔立ちはお世辞にも美人とまでは言えないものの、どこか親しみと落ち着きを覚える、人好きのしやすそうな印象があった。
「別に、何でもないですよ」
「そう? その割にはさっきからずうっと希美の方見て固まってたよ」
「それは、気になったというワケではなくてですね。その、何と言いますか」
「そんなにかしこまらなくても良いって」
調の喉がクツクツと揺れる。ただでさえ喋り慣れない先輩とのやり取りは緊張するというのに、こんなことを言われたら却ってどうしたらいいか分からなくなってしまう。すっかり泡を食った久美子の様子にやれやれとばかり、調は自分の顎を指でさすった。
「それに、呼び方。気楽に『しらべ』って、下の名前で呼んでくれていいよ」
「はあ、それじゃあ、調先輩」
「よし」
素直に申し出を聞き入れた久美子に、調はニカリと満足そうに口角を持ち上げた。彼女のその笑顔には、久美子がこれまで関わってきたどのタイプの人物にも見られない、独特な愉悦の色が入り混じっていた。
「黄前さんは私のことあんまり知らないと思うけど、実は私、前から黄前さんのこと知っててさ」
「そうなんですか?」
「黄前さん、隠れ有名人だもん。去年も今年も、吹部で何か問題起こった時は黄前さんが頑張って解決してくれてたみたいだし」
「別に、私が解決した訳じゃないんですけど」
それが理由で彼女は自分なんかに話し掛けて来たのか、と久美子はこっそり得心する。ところで『隠れ』とは一体どういう意味だろう? 別に有名になりたいわけでもないけれど、さっきの言い回しには部内における自分の微妙な立ち位置が如実に反映されているような、そんな空気を嗅ぎ取れなくもない。
「謙遜しなくて良いってー。優子とか友恵も、黄前さんのことは信頼してるみたいだしさ。それに、」
不自然に言葉を切った調がスウ、と視線を移す。その先には後輩たちと連れ立って練習場所へ向かおうしている希美の背中があった。
「去年、希美が部に戻ろうとしてた時も、裏で黄前さんが関わってたんだって?」
「あ、いえ、まあ。裏っていうか、復帰前の希美先輩と時々会ったりして少しお話したぐらいでしたけど」
「希美、けっこう感謝してるみたいでさ。時々パートのみんなにも話してるんだよ、『私が部に復帰できたのはあの子が色々良くしてくれたからだ』って」
「はあ……そうなんですか」
そんな話を聞かされるとますます居心地が悪くなってしまう。一年前に希美が部へ復帰するに際して、久美子の貢献した割合は殆どと言って良いほど無かったのが事実であり真相だ。いつぞやのあすかの言葉を引用するならば、あの時の久美子は徹頭徹尾『傍観者』で居られるよう彼女達との間に境界線を引いていた、とも言える。そんな自分の情けない古傷を今また別の誰かにほじくり返されているみたいで、痛痒感がひどい。それを少しでも逸らすべく、久美子は思い切って会話の舵を横に切ろうと試みる。
「あー、でも良かったですよね希美先輩。念願叶って部に戻ることが出来て」
「そうだね」
答える調の声色はどこか空疎なものだった。おや? と久美子は次に用意していた台詞を呑み込む。
「希美が戻ってくれて、私も嬉しいよ」
そう告げて、調は薄く微笑みを浮かべるばかりだった。あまりにもおぼろげに霞んだ表情。そこには決して遠巻きには窺い知れることの無い、調の内に沈む翳りが滲み出ているみたいだった。依然として一点を見つめる調の視線の先に、もう希美達の姿は無かった。
『井上先輩だってきっとソロやりたいって思ってたよね。今年が最後なんだし』
『何も気にしていないように振る舞っているだけなのだとしても、そのまま受け取った方がいいんじゃないかな、って緑は思います』
いつぞや葉月たちと交わした何気ない会話の内容が、久美子の脳裏にふと蘇る。あの時はどちらが正しいとかそんな判断を付けられるほど、当の本人である調のことを何一つとして知らなかった。これと言って目立った特徴も活躍も無く、部の一員としてひっそり周囲に溶け込んでいる人物、井上調。そういう人は彼女に限らず、大所帯の吹奏楽部において珍しいものでは無い。同輩としての三年間を通じてすら、あまり関わりを持たぬまま卒業までの時を過ごし切るという人達だってチラホラ居る。ましてやパートも学年も違う先輩後輩同士ならばそれは尚更のことだ。久美子にとっての調とは、これまでそういう存在だった。
でもこうして調を俯瞰するうちに、そして調が希美について語るのを見聞きするうちに、何となく目の前の人物がどういう人でどんなことを思うのか、ちょっとだけ興味が湧いてきたような気がする。まだ何もかもを解き明かすまでには到底至らないけれど、最初の扉が一つ開いた。そんな感触がこの時、久美子には芽生えていた。
「ごめん。私から話し掛けといて何だけど、これからパート練習だってのに私だけこんなところで油売ってるわけにもいかないからさ。そろそろ行くわ」
気まずささえ覚える長い沈黙の後で、ようやく調は口を開いた。
「あ、はい。お疲れさまです」
「また今度、黄前さんとはゆっくり話したいな。それじゃ」
「その時はまた、よろしくお願いします」
楽器と譜面台を抱え、調が部室を後にする。彼女の受け売りではないが、久美子もいつの日か調とはじっくり語り合ってみたいと、そう思った。
吹奏楽部には色んな人がいる。そんな当たり前の事を久美子は改めて思い知らされていた。そういう人達同士が寄り集まって、幾つもの音を束ねて、一つの曲をみんなで奏でて。今まで当たり前のようにしてきた事が、なんだかとてつもなく奇跡的な事のようにすら思える。きっと誰もが、ずっと表に出す事の無い何かを胸の内に抱えながらここにいる。厳しい練習をこなし、少しでも理想の音に近付き、その結晶たる演奏を本番の舞台で存分に響かせるために。
その日まで、もう残された時間は多くない。今できることは自分の音を可能な限り研ぎ澄ますことだけだ。決意に漲る両手でユーフォと譜面台を抱え、久美子はいつもの教室へと向かうべく音楽室を飛び出した。
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「麗奈は、行けると思う?」
「手応えは充分。出来ることは全部やった」
「私も。絶対行けるって思ってる」
「大丈夫。絶対に金賞獲って、北宇治は次に行く」
ホールの観客席、久美子は麗奈と並んで座り、その時を待つ。
今日はコンクール府大会、本番の日。高校Aの部、つまり北宇治が出場した部門の演奏が全て終わり、後は結果発表を待つだけだ。薄暗いホールの中は今か今かと発表を待ち侘びる人々でごった返している。そこかしこからこぼれる声はいずれも張り詰める緊張に耐えかねるように、はらはらと小さく震えていた。
発表の瞬間までこうして椅子に座っている間が、いつも緊張のピークだ。府大会では結果の記された大判のロール紙がホール上階から解き放たれる。その結果を見るのは一瞬のこと。ここで金賞の欄に北宇治の名前が無かったら、その瞬間に久美子達の夏は呆気なく終了してしまう。演奏の出来には自信があったし、ライバルと目した幾つかの団体の演奏とを比べても、北宇治の演奏が勝るとも劣らぬものであるという手応えも持っている。けれど評定をつけるのはあくまでも審査員なのであって、演奏する側ではないのだ。全てを賭した努力の成果を、他人に白黒付けられる。こればかりは何度その時を迎えても慣れるものでは無い。
「来た!」
にわかにどよめく場内。全員の視線が一斉に、係員達の手に抱えられたロール紙へ注がれる。息を詰め、久美子は彼らの動きを見守った。その瞬間を決して見逃すまいと。会場全体がシンと静まり返るのを見計らっていたかのように、ちょうどそのタイミングで、係員達はロール紙を階下に向けて解き放った。
「うおおおおおお!」
ホールを席巻する歓声。怒号。嗚咽。それらを飛び越えて、久美子は金賞の欄を目で追う。
「あった、」
久美子がそれを見とがめたのと、後方からそんな喜びの呟きが洩れ聞こえたのは、ほとんど同時だった。北宇治高等学校。金賞の欄には間違いなく、その文字が刻まれていた。
よし、と久美子は小さく拳を握り締める。けれどまだ安心ではない。関西、そして全国金賞を目指す北宇治にとって、ここでの金賞は単なる通過点でしかないのだから。
「それではこの中から、関西大会に出場する学校を発表します」
スピーカー越しに聞こえるその声を合図にして、久美子と麗奈は互いに手を固く握り合う。そう、ここからが本番だ。
上位大会に進出する為の代表権は、各地区のコンクールで金賞を取った学校の中からより優れた演奏をした団体に与えられる。京都府大会の場合、関西大会への枠はたったの三つ。その中に入れなければその先も無い。北宇治の成すべきはここで代表に選ばれ、関西大会でも勝ち進んで全国へ行き、そして全国の舞台で晴れて金賞を獲ることなのだ。その為には是が非でも、ここで躓くわけにはいかなかった。
吐き出す息が緊張に震える。汗ばむ麗奈のしなやかな指が久美子の手にきつく食い込む。不気味な沈黙に支配される刹那。係員が息を吸う音すらハッキリ聞こえる気がする。固唾を呑み、今にも飛び出しそうな心臓を必死に抑え込んで、久美子はひたすらに祈った。
「三十七番、北宇治高等学校」
その一言と「やったあ!」という周囲の歓声とが、一瞬で久美子の聴覚を埋め尽くす。直後、毛穴という毛穴からどっと汗が噴き出るような錯覚。それまで緊張に張り詰めていた全身が一気に弛緩して、久美子はゆるりと首を垂れた。良かった。まずは一つ抜けた。その時の感覚を率直に言葉で表すと、こんな感じだった。
「久美子」
麗奈の声がして久美子は隣を見やる。最良の結果が出たにも関わらず、麗奈の表情は何故か未だ硬かった。
「関西、決まったね」
「うん。良かった」
おめでとう麗奈、と久美子が続けて述べるよりも早く、麗奈はそっと久美子の耳元に顔を寄せる。
「立華と
「あ、うん」
「ここで油断してるとやられるよ」
そう告げる麗奈の声色には明らかに、さっきまでとは違う種類の緊迫感が滲んでいた。それにあてられるようにして、さっきまで昂っていた久美子の感情もするりと冷やされていく。無意識のうちに目を配らせたホールの一角。そこでは深緑色のブレザーに身を包んだ男子たちが歓喜を弾けさせ、互いを称え合っていた。彼らは龍聖学園吹奏楽部の部員たち。去年まで全くのノーマークだった彼らは、果たしてこの一年のうちにどんな手を使ったか、府内の強豪である
麗奈の真意がその時はまだ、良く分かっていなかった。けれど久美子の脳裏には、嫌な予感が一つの像となって結ばれようとしていたのだった。府大会での快挙を心から言祝ぐ龍聖の面々。彼らは去年の自分達に、良く似ていた。
*
「皆さん、昨日はお疲れ様でした」
壇上でねぎらいの言葉を掛ける滝に、部員達はみな意気揚々といった様子を見せていた。無理もない。ここ数週間の厳しい練習に耐え、練り上げた音楽を本番の場で余すところなく発揮できた、という実感が彼らの中にはあったのだろう。本番前にも、そして演奏を終えた直後も、北宇治の関西進出は既定路線とうそぶく者までいたぐらいだ。しかして結果は見積もり通り、堂々の府大会突破。この事実にコンクールでの手応えを覚え、あるいは枕を高くした者も少なくなかったに違いない。そんな中で久美子は昨日のことがどうにも気に掛かったまま、周囲の喧騒にももう一つ乗り切れずにいた。
「今日からは関西大会に向けて、気持ちも新たに練習に取り組んでいきましょう。昨年と同じく
「はい!」
「それと、コーチの田中さんから皆さんへお話したい事があるそうです。田中さん、お願いします」
はい、と返事をして滝の後ろに立っていたあすかが進み出る。「何だろう?」という音楽室内のざわつきは、あすかにしては珍しいお褒めの言葉にでもあずかれるのか、はたまた油断せずこれからも頑張ろうというお決まりの激励を受けるのか、といった空気で、どちらかと言えば期待に向かう色合いの方が濃いように思えた。
「回りくどいコト話しても意味ないと思うんで、結論からハッキリ言うね」
やけにさっぱりとした言い回しの後、流れを区切るようにあすかが一度小さく息を吸う。そして次に発せられた彼女の言葉によって、部員達のそれまでの喜びにはまさに絶対零度の冷や水が浴びせられることとなった。
「このままだと確実に、北宇治は次の関西大会で落ちます」