もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈幕間3〉奏の本心

 思考が、淀んでいる。

 目に映る教室の景色も、滝の語る言葉も、何もかもが奏にはあやふやだった。

 

 何故、自分はここにいるのか? そう己に問うてみても答えが出て来ることは無い。きっと他の誰に聞いたところで、納得のいく答えを返してくれる者などいやしないだろう。ただ一つだけハッキリしていたのは、臓腑から沸き出でて今にも全身を焼き尽くしそうなほどの強烈な敗北感、それだけだった。

 自分は、負けたのだ。

 何に? それだけはちゃんと解っている。自分は、正しさに負けた。他の誰かの述べる正しさなんかじゃない。自分自身の中に歴然とあって、そうであるべきだという強い思いを抱き続けて、その正しさに従って自分は北宇治に入学してからこれまでの月日を過ごしてきた。そしてそれこそが敗北を招いた決定的な要因だった。自分を負かしたのは他でもない、正しくあるべきだという自分の信じた正しさだ。眼前の机に刻まれた小傷をじっと見つめながら、己を苛む思考の刃に、奏は容赦なく嬲られていた。

「これからはここに居る皆で、コンクールメンバーを支えながら練習もしていくことになります。さっきの滝先生の言葉通り、落ちたことをこれからのバネに出来るように、全員頑張っていこう」

「はい」

 その場にいる三十名あまりの部員が一斉に返事をする。壇上でこの集団をまとめにかかっているのは、この中では最年長となる三年生の先輩だった。『岩田(いわた)慧奈(けいな)』と名乗った彼女は確か、トロンボーンのパートリーダーを務めていたと記憶している。彼女がここに居るということはつまり、彼女もまたオーディションの落選組であるということだ。今年が最後なのにコンクールに出られない。そんな彼女は今、何を思っているのか。きっと当たり前にこの結果を悔しいと感じていることだろう。自分を差し置いて合格した後輩に恨めしさを覚えたり、あるいは恥じ入る気持ちだってあるかも知れない。涙の痕ですっかり腫れ上がってしまった岩田の目元を見れば、会話すらしたことのない上級生の心境を推し量るのもそう難しくはなかった。

 でもそんなことは正直、どうだって良い。

 メンバーとなった者たちと同じ目標を見据え、愚直にも毎日毎日朝から晩まで必死に練習に取り組み、けれど結果として落選してしまった彼女達とは、自分は違う。彼女達だけではない。仲良く根性ごっこや友情ごっこに明け暮れる低音パートの先輩も、それに何の疑問も無く同調する同級生も、彼らにあっさり懐柔されてしまった美玲も皆、こいつらと同類だ。

 みんな馬鹿ばっかりだ。周りに上手に取り入って。優秀な人に目を掛けてもらって。そうやって器用に立ち回る人間の方が、結局はいつも大事にされる。そしてその流れに上手く乗れなかった人間がはみ出し者にされ蹴落とされていく。世の中にこれほど馬鹿げた話があるだろうか。そしてそうと知って小利口に振る舞う者も、何も知らずがむしゃらに頑張るしか能のない者も、どちらも等しく馬鹿だ。そんな奴らに、本当に正しいことなんて判る筈が無い。そう、自分の気持ちを分かってくれる人なんて、初めから誰も居なかった。所詮誰も自分のことを理解などしてはくれない。そんなことを期待するのがそもそも間違っていたのだ。

 どこもかしこも馬鹿、馬鹿、馬鹿。コイツらも、アイツらも、こんなことすら分からなかった自分さえも。そう思うだに、鮮烈な屈辱感が全身に巻き付いてぎゅうぎゅうと自分を締め付ける。その苦しさに呻きを上げることも叶わぬまま、奏は今にも窒息してしまいそうだった。

「奏ぇ」

 ひらり、と誰かの手のひらが視界をよぎる。つられて奏が顔を上げると、梨々花がこちらを見下ろしていた。

「何ボーっとしてんの? もうみんな教室出てったよー。これからサポメンのチーム名、報告しに行くんだって」

「梨々花。どうして、ここにいるの」

「どうしてって」

 ぶふ、と梨々花は噴き出す。両手をピンと広げて数歩ほど後ずさり、そこで梨々花の身は独楽(コマ)のようにくるりと一回転した。

「ここに居るってことは、そーゆーことじゃん」

 ああ、そうか。奏はそこでようやっと気付くことが出来た。そんなことにすら頭が回らなくなっていた自分自身の憔悴ぶりに。それまでを取り繕うように奏は一度頷き、すぐに思考を切り替えようと努める。

「残念だったね。流石の梨々花も悔しいんじゃない? 憧れの『みぞ先輩』と一緒にコンクール吹けなくて」

「んー? えへへぇ」

 梨々花の無邪気な笑顔。それはきっと、奏の言葉を純粋な慰めとして受け取ったからではない。恐らく彼女は奏が込めた皮肉の念に気付いている。その上であえて、それを笑い飛ばしてみせたのだ。そう、例えば、見せかけだけの気遣いを述べた奏のことを『気持ち悪い』とでも吐き捨てる代わりに。

「べぇっつにー。他の人達もみんな上手い人ばっかだし、それにオーボエって一人しか選ばれないことも結構あるでしょ? だからそんなに落ち込んでないってゆーか」

 嘘ばっかり、と奏の喉から苦笑の音がこぼれる。奏の知る剣崎梨々花という人間は、そこまで殊勝で慎ましやかな性格をしてはいない。傍目には朗らかさと愛嬌が上皮の大半を占めているように見えても、内側には詰めに詰めた彼女なりの計算が血肉のごとく埋め込まれている。さっきの梨々花の態度はさしずめ、今ここで悔しさをぶつけたところで奏が応えてくれることはないと分かり切っているからこその、一種の強がりなのだ。彼女はそこまでを計算ずくで自分に接している。そんなことぐらい、奏にはとうにお見通しだった。

「嘘じゃないってぇ。それに奏も一緒だから、梨々花は全然平気」

「また梨々花は、すぐそういうこと言うんだから」

「マジもマジで言ってるんですけどー。奏だってホントはわかってるくせにぃ」

「どうだか」

 いつもの調子で梨々花とやり取りをするうちに、奏は少しだけ己の表情が緩むのを感じ取った。そう、梨々花には一度も、こんな自分の秘めたる思いを吐露したことは無い。何も知らない彼女は同時に、奏の考える唾棄すべき対象の内にも数えられてはいなかった。そのことが、奏の中から一つ重石を取り除く。周囲にひしめく馬鹿の人垣の中で、唯一梨々花の存在だけが、奏にとっては心を安らげる拠りどころであった。

「それ言ったら、奏はどうなのさー」

「私?」

「奏の方こそ落ち込んでるんじゃないのぉ」

「梨々花にはそう見えてる?」

「見える。あと、メッチャ暗い」

「そう? 私は別に落ちたことなんて、これっぽっちも気にしてないけど」

「はい奏のウソつきー。鏡見てごらんって、幽霊みたいに真っ青になってるよ」

 でろでろぉ、と舌を伸ばして梨々花がお化けの真似をする。真っ青だって? そんなの言われずとも解っている。加えて言うなら気分だって最悪だ。それでも梨々花の冗談めかした口ぶりに腹の一つも立てずにいられるのは、奏が本当に、オーディションに落ちたことにショックを受けている訳ではないからだった。

 そう、落ちたことそれ自体はどうでもいい。そんなのはただの結果だ。確たる根拠も無いのに、下された裁定にしがみついてわんわん喚くほど自分は子供ではない。奏自身はそう思っている。ならば奏が本当に拘っていたもの、それは。

「梨々花に一つ、聞きたいんだけど」

「私に?」

 人差し指を鼻の頭へ向け、梨々花は怪訝そうな表情を浮かべる。

「てゆーか私たち、こんなことしてていいの? みんなと一緒に部室行かなくて」

「いいから」

 奏は手招きをして梨々花に着座を促す。目の前の椅子をガタリと引いた梨々花は、そこに馬乗りの姿勢で座り込んだ。机を一つ挟んで向かい合う二人。くりくりと円らな梨々花の瞳は奏の胸中とはまるで対照的に、清らかに透き通っていた。

「例えば、自分なりに一生懸命頑張ってるのに、それが周りの人にとっては頑張りだとは映らない。だから結局、誰の為にもならない。そんな中で頑張るのなんか丸っきり無駄なことだって、梨々花は思う?」

「急に何の話ぃ? 難し過ぎて、全然頭に入って来ないんですケド」

「要するに、他人に認められない努力なんて無価値だと思うか、って話」

「認められない、かー。そうだなぁ」

 腕を組み思案する梨々花を奏は固唾を呑んで見守る。んー、むー、と何度も首を捻り、それから梨々花は探り探りといった様子で喋り出す。

「自分の為になる、ならないはともかくとしてー。せっかく頑張ってるのに誰も認めてくれないなんてちょっと悲しいかもー、って梨々花なら思うかなぁ」

「本当に?」

「うん、ホントに」

 彼女のその回答は、ぼろぼろになっていた奏の心を満たすにはもう一つ足りない。けれど渇きを潤す一滴の雫のような、そんな僅かな手応えを感じることは出来た。

「じゃあ逆に、他の人たちに認めてもらうために求められた方法で頑張らなくちゃいけないとして、それが全然正しくないやり方だったら、梨々花ならそうと分かってても認められるためにそれをする?」

「それも良く分かんないなー。そんなこと、今まで考えてみたこともないし」

 目を瞑りながら顎を伸ばし、梨々花は再びウンウン唸り始めた。

「するかしないかは、どうだろー。正しくないんだったら自分の為にならない気もするしぃ。でも認めてもらいたいんなら要求通りに頑張ってみせた方がいい、って気もするし。うーん、ムズかしい!」

 語気を強める結びの一言に反して、内容は全くの玉虫色といった具合だ。当の梨々花に答えをはぐらかす意図など無いことぐらい、今の奏にも察することは出来る。けれど、自分の欲しがっている答えを求めるのには、さっきの質問はいささか抽象的に過ぎたものだったかも知れない。

「次で最後。梨々花の思う正しいやり方で頑張ってる人が他に居たとして、その人が周りに認められずにいるのを見たとしたら、梨々花ならどうする?」

 奏のその質問に、グニグニしていた梨々花の身体が動きを止める。それからすぐ「そんなのカンタン」と、彼女は滑らかに口を開いた。

「ちゃーんと認めてあげるよ。梨々花は、その子のこと」

 あっけらかんと言い放たれたその言葉が真っすぐ胸に飛び込んできて、とくん、と奏の心臓が揺れる。

 果たして今の回答は、こちらの欲しがっていたものを読み取って与える為に梨々花がでっち上げた空疎なものなのだろうか。それともただ単に、向けられた質問に対して彼女自身の考えを誠実に答えてくれたものなのか。願わくば後者であって欲しい。奏はそう願った。例え自分の身勝手な思い込みなのだとしても、梨々花にはそういう梨々花で居て欲しい、と。

「分かった」

「質問タイムはこれでおしまい?」

「うん、おしまい」

「そっか」

 にへら、と梨々花が顔を綻ばせる。そばかすの目立つ彼女の笑みはあどけなさと大人っぽさの、ちょうど中間のところに位置していた。

「じゃー早く行こう! みんなもう部室に着いちゃっただろうし。私らだけ抜け出してたら、あの二人アヤしい~って噂されちゃうよ。部内スキャンダルってやつ!」

「馬鹿じゃないの」

 くすくすと笑ってから、奏は梨々花と共に席を立つ。そのままトコトコと出口に向かっていく梨々花の背中を見たその瞬間、奏の全身に強烈な衝動が襲い掛かった。抗うことも許されぬ何かが、気付けば自分の口を押し開いていた。

「ごめん梨々花、最後にもう一つだけ」

「んー?」

 梨々花の靴底が木床の上にキュルリと円を描く。すう、と吸い込んだ息がうまく肺に届かない、そんなもどかしい感覚があった。

「梨々花は、ずっと私の傍に、居てくれる?」

 喉が震えるのを手で押さえつけながら、奏はようやっと思いを吐き出す。それが精いっぱいだった。

 梨々花はすぐには答えを返さず、ただこちらをじっと見据えている。奏もまた梨々花の視線を捉えて離さぬよう目を凝らす。もしも梨々花に拒絶されてしまったら。そう考えるだけで、激流のように押し寄せる不安に己の心はたやすく翻弄された。息を呑むことすら出来なくて、奏はただひたすらに、黙して梨々花の答えを待ち続けた。

「もっちろん!」

 ずかずかと近付いてきた梨々花が、少々乱暴に奏の手を取る。

「本当に?」

「本当にホント」

「もし裏切ったら、私が梨々花を殺すって言っても?」

「ダイジョーブ。絶対殺されないから」

 むっくりと浮かべられた梨々花の笑顔。そして次にそれは、奏が驚くほどの勢いで急激に引き締まった。

「だって梨々花と奏、友達じゃん。トーゼンでしょ」

 真剣な梨々花の眼差し。それを受け止めた奏の心境は、あたかも草一つない荒野の真っただ中に一輪、ひっそりと咲く花を見つけた時のようだった。

 間違っている。自分がおかしい。だから自分は負けた。本当は奏自身、そのことを良く分かっている。それと一緒に、アイツらが正しいとはどうしても思えない気持ちも、馬鹿だとすら詰ってやりたい気持ちも、今はまだ拭い去ることが出来ない。果たしていつこの気持ちに決着がつくのか、それすらも奏には全く分からなかった。

 でも、傍に梨々花が居る。梨々花だけはきっと自分のことを裏切らずに居てくれる。そうとさえ信じられるなら、自分はまだこの荒野をひとりぼっちで進んでいけるのだと、奏はそう思うことが出来た。例え梨々花までもが自分のこんな思いを、正しさを理解してくれないのだとしても、それで構わない。ただ傍に居てくれさえすれば、それだけで。

「ありがとう、梨々花」

 この時の自分がどんな表情をしていたのかは分からない。それを見た梨々花が一瞬くしゃりと顔を歪め、それから何かを押し込めるようにぼろりと笑いかけてきたのを見た時、奏は今の自分を哀れだと、心底思った。

 

 

 

 

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