〈14〉改革せよ、北宇治吹部
「待って下さい、あすか先輩!」
誰もが驚愕と混迷に己が身をすくませる中、真っ先に声を上げたのは優子だった。
「落ちる、ってどういうことですか。急にそんな――」
「落ち着いて優子ちゃん」
強い動揺のせいで気色ばむ優子を、あすかは平手を示して牽制する。
「質問や意見は後から受け付ける。だからまずは言いたいことを全部言わせて。いい?」
しかと宣言され、優子は立ちすくんだまま口をつぐんでしまう。しばし睨み合う二人。やがてあすかの眼光に圧されてしまったか、憤懣やるかたなし、といった勢いで優子はドカリと椅子に腰掛け直した。
「……手短にお願いします」
「出来るだけね」
渋々譲った優子へ謝意を述べることもせず、それじゃ続きを、とあすかは再び部員達を向く。その刺すように鋭い瞳はまるで彼らに「心して聞け」と言っているかのようだった。
「今回の府大会、私は朝からずっとホールで他団体の演奏を聴いてました。結果、府代表に選ばれたのは立華、北宇治、そして龍聖の三校。この結果は多分皆もある程度予想済みだったと思う。ここまではいいとして、」
と、あすかは振り向いて黄色のチョークを手に取ると、カツカツと黒板に先程の三校の名を書いていく。
「私の聴いた限りでは三校とも、トータルな演奏技術にはそれほど大差が無かった。代表枠に入るぐらいだから当たり前、って思うかも知れないけど、去年まで銀とかが関の山だった龍聖がいきなり関西進出。これがどのぐらい凄いことなのか、去年ここに居た皆なら分かるでしょ」
あすかの一言に上級生達は揃って息を呑む。その主旨が彼らに分からぬ筈は無い。ちょうど一年前、それまで府内ですら『堕ちた強豪』の立場にあったところから顧問の交代により一躍関西大会への出場権をもぎ取ってみせたのは、他ならぬ自分達だったのだから。
「立華と龍聖、この二校に対する私の印象は二つ。まず一つ目は立華の演奏力が去年よりも上がってること。そして二つ目、龍聖は技術的にはまだ少し甘いところもあるけど、何より表現力が圧倒的に高かったってこと。多分、立華や私達北宇治よりも。現状を図にすると、まあこんな感じかな」
口頭での説明と共に、あすかの手に握られた黄色いチョークがそれぞれの学校名の隣に棒グラフを書き加える。少しの歪みもない直線で描かれたそれは、恐らくはあすかが量った各校の総合的な実力を示したものだろう。二段に分かれた棒グラフは下が技術力、上が表現力を表しているらしい。この三本の中で北宇治のグラフはトータルでこそ一番高かったが、他校と比べてその差は僅か。対して龍聖は三校中二番目という評価ではあるものの、表現力の項だけは北宇治のそれよりも嵩が大きめだった。
「これはあくまで府大会での演奏を聴いての私の見積もりね。じゃあ関西大会ではどうかって言ったら、これからは橋本先生や新山先生も来てくれるし、北宇治もここから三週間でもっと伸びていくとは思う。けど、それは他の学校も同じ」
口を動かしながらも、あすかは軽快な手際でチョークを走らせ続ける。
「中でも最大のハードルと言っていいのはやっぱり東照、明工、秀大附属の通称『三強』。この三校に関してはただでさえ甘い見通しが利かない上に、去年ダメ金だった秀大附属は今年の気合いの入り方が全然違うと思ってた方がいいね」
先ほどまでと同じ要領で書き足された三強の情報。彼らのグラフは北宇治や龍聖よりも一段頭が高くなっている。そしてそのうち二つの名を、あすかは大きな
「ズバリ油断ならないのは、この秀大附属と伸びしろ不明のダークホース龍聖。今の龍聖に細かいところの技術がしっかり備わってくれば、たった三週間でも三強クラスにも匹敵するぐらいまで伸びることも充分に有り得る。そしてその可能性は、極めて高い」
全身を稲妻のような衝撃が貫く。昨日麗奈と話し、そして金賞を喜ぶ龍聖の生徒達を目の当たりにして抱いた漠然たる予感。久美子の中のそれがはっきりと確信に変わったのは、この瞬間だった。
「三強はどこも全国金賞が常連ってぐらいの強豪校だし、そこに龍聖まで加われば、三つしかない全国への枠を狙うのは今まで以上に厳しくなる。もちろん立華や他の団体だってどうなるか、そこはちょっと予想できないけどね。そしてこれもハッキリ言うけど、このままのペースで北宇治が三週間練習したとして、この中に割って入るのはほぼ無理っていうのが私の見解」
それは未だ半信半疑といった様子の部員達をバッサリと一刀両断する、まさに非情の宣告だった。彼らのうち何人かは救いを求めすがりつくように滝へと首を向ける。けれどその滝はさっきからずっと黙したまま、部員からの視線に何も応えない。彼のその態度はあすかの意見をほぼ全面的に肯定していることの証みたいで、そこから生じた不安の渦が瞬く間に音楽室を丸ごと呑み込んでゆく。
「そんなわけで、今の自分達がものすごく厳しい状況に置かれてるって自覚を持たないと、さっきも言った通り北宇治はここで終わる。私から今言えるのはそれだけです。――誰か、質問はある?」
あすかが部室を見渡す。ここで手を挙げる者は誰一人として居なかった。重苦しい沈黙に支配された部員達の姿を見て、伝えたかったことは十二分に伝わったと判断したのだろう。後は先生お願いします、と告げてあすかは静かに教壇を降りた。コホン、と咳払いをして眼鏡の位置を指で直しながら、滝が改めて皆の前に立つ。
「皆さんがどのような気持ちでいるかはお察しします。しかし皆さんには酷なようですが、私の意見もまた田中さんとほぼ同じです」
それは一縷の望みを期待していた者にとっては最後通牒にも等しかったことだろう。水を打ったように静まり返る部室のそこかしこから、ぐず、と涙をすする音が欠け落ちる。本当にもう、どうしようもないのか。多くの部員達がそうであるように久美子もまた歯噛みをし俯きかけた、その時。
パシン。
「全員、顔を上げなさい」
落雷のような
「皆さんはこの程度のことで全国金賞の目標を諦めるのですか? 私達北宇治が関西を突破して全国で金賞を獲ろうというのなら、どのみち三強との激突を避けられない状況であったことに変わりはありません。であれば本来、府大会突破を決めたといって浮かれている余裕も、厳しい現状を目の前にして落ち込む暇も、私達にはこれっぽっちも無かった筈です。違いますか?」
久美子の喉がごろりと鳴る。滝の咎めは間違いなく本質を突いていた。彼の言う通り、関西大会は熾烈な争いを避けられない、そんなことはこうなる前から分かり切っていた筈だ。なのにその覚悟がいつの間にか、自分達からは抜け落ちていた。三強や龍聖がどうのといった他校の趨勢など一切関係無い。滝にいま叱責されているのは、いつの間にか天狗になってしまっていた北宇治の慢心した姿勢。それをこうして眼前に突きつけられ思い知らされた部員達がぐうの音も出せないのは、至極当たり前のことだった。
「このままでは厳しいということが解ったのなら、次はそれを乗り越えるべく対策を練り、大きな壁をも打ち破る気概をもって事に臨む。それ以外にすべきことなどありません。では具体的に何をどう対策していくか? 重要なのはここからです」
いいですか、と念を押すように滝が一拍の呼吸を置いて場を見渡す。彼の端正な顔に掛かる眼鏡が小さく鋭い光を放った。
「この状況下で尚も全国金賞を目指すのであれば、私自身も含めた全員の練習に対する取り組み方と意識を、短期間のうちに大きく入れ替えなければなりません。その為に私はまず、橋本先生や新山先生とも相談の上で、当初予定していた今後の練習プランを組み直そうと思っています」
プランの組み直し。それを聞いた部員達からザワリとどよめきが起こる。これまでの練習だって決して手を抜いていたつもりは無い。時間的にも気力的にも、各家庭の門限や学習塾への通学といった制約もある中で、誰もが許容されうるギリギリまでを吹部の練習に費やしてきたのだ。にも関わらず、今後はさらに倍増しの練習を重ねなければならないというのか? そんな想像をしてなのか、中には露骨に顔を歪める者もチラホラ見受けられる。
「静かに」
指揮を止める時の動きでもって、滝は今一度の清聴を皆に求めた。
「ただ単に時間を延ばして朝から晩まで練習をしても、その分良い音楽が出来るとは限りません。もちろん一定以上の時間を掛ける必要はありますが、限られた時間の中でも良質かつ適切な練習を行うことで音を高めることは出来ます。むしろそちらの方が、ただ長々と楽器を吹き続けるよりも遥かに効果があるものです。この事は今後の練習を進めていく上での大前提として、よく覚えておいて下さい」
それは分からなくもない、と久美子は滝の言葉を素直に飲み込む。きっと美玲を始めとして、効率性を重視した練習を好む何人かの部員も似たような事を思った筈だろう。
「これからは皆さんの練習に対する取り組み方や時間の掛け方、そして音に対する向き合い方、といった部分を徹底的に刷新するためのプランを実践していきます。詳しい内容は今日中にもプリントして配りますが、ひとまず今日の練習内容に関しては各パートリーダーに口頭で伝えますので、ミーティングが終わったら各パートリーダーはすぐに私のところへ集まって下さい」
そこまでを言い切って、滝は厳しく象っていた表情をふと緩める。
「難しく考える必要はありません。基本的に、やるべきことは今までと同じ。ただそのやり方を今までとは少し違うものにする、それだけです。皆さんがこれを機にもう一度気を引き締め直し、これからの三週間を最大限有効に活用しさえすれば、私達は必ず関西大会を突破して全国に行くことが出来るでしょう。それだけのポテンシャルが今の北宇治にはある。私はそう信じています」
己の発言を担保するかのように、滝はにっこりと柔和な笑みを向けてみせた。それをしかと見据える部員達もようやっと希望のひと欠片を得られたお陰か、より一層の緊張と決意に包まれた顔立ちをしている。滝の一喝はひとまずのところ、ほんの少し緩みかけていた北宇治のネジを締め直すのに充分過ぎる効果をもたらしたようだ。
「では部長、後はお願いします」
滝に促され、今一度優子が席を立った。
「これ以上の発破なんか、もう皆には要らないと思う。だから私からは一つだけ」
場の全員が静かに頷く。優子もまた皆の意志を確認するように一度首肯し、続きを語り出した。
「私自身、今の話で目が覚めました。府大会を無事に突破することが出来て、正直これなら全国も狙える、って甘い見通しを立ててた部分があった。だって去年と違って今年は大きな問題も起こらなかったし、演奏面でも充分満足できるところまで来てるし、このまま行けば関西も抜けて全国に行けるんじゃないかって。でもそういう気持ちで関西大会に臨んでたらきっと、代表権はおろか金賞だって取れなかったって思う」
そう語る優子は、恐らく誰よりも自分自身を許せないでいる。溢れんばかりの悲壮に彩られた彼女の姿を、その隣に座る麗奈が苦しそうに顔を歪めながらじっと見守っていた。あるいはこの浮かれた部の状況を、もっと早く優子に指摘していたなら。ひょっとして麗奈はそんなふうに己を責めていたのかも知れなかった。
「本当ならそういう浮ついた気持ちを部長の私がいの一番にブッ飛ばして、みんなを引っ張らなくちゃいけなかったのに、その私がこのザマで、そのせいでみんなにもそれが
謝罪の一声と共に、優子が勢いよく頭を下げた。スカートの裾に添えられた彼女の拳は固く握られ、今にも血が噴き出そうなほどにわなわなと震えていた。
「こんなんじゃ部長失格も良いとこだって分かってるつもりだけど、でもたった今から私も気持ちを全部入れ替えて関西に、そして全国金賞に向けて、改めて死に物狂いでやっていくつもりです。こんな私で良かったら、これからもどうかついてきて下さい」
「やれやれ、まーた始まったよ。部長サマの頭でっかちモードが」
その予想外の悪態で優子がガバリと身を起こし、ギョッとした久美子は反射的に悪態の元凶を見やる。自分のすぐ隣、その席上では半ば予想通り、夏紀が肩をすくめて呆れ返るようなポーズを取っていた。渋々と立ち上がった夏紀は狂犬のような眼つきで自分を睨む優子には目もくれず、親指だけを彼女へと向ける。
「まーコイツもこう言ってることですし、みんなもどうか寛大な心で勘弁してやって下さい」
「ちょっと、何でアンタがそこで仕切り出すのよ。っていうか頭でっかちってどういう意味? 副部長は幹部としての責任とかそういうの、少しも感じてないわけ?」
「だからぁ、責任とか何とかそういう話じゃないからコレ。だいたい部長さんは話がくどすぎ。そんなこと言われなくたってみんなとっくに反省して、これから気を引き締めてかかるぞーって流れだったでしょ。それなのに、アンタが余計なことしてくれたお陰でお通夜モードに逆戻りじゃん。どうしてくれんのこの空気」
「だからこれは、部長としてみんなに筋を通しておこうって話で、」
「あーハイハイ。そういう堅っ苦しいのは、今日の練習帰りにでもみんなの代わりに私がゆーっくり聞いてあげるから、アンタのおごりで。みんなは早く練習行きたくてもうウズウズしてるんだってば。――だよね?」
軽妙な夏紀の問い掛けに、部員達からは一斉に「はい!」と大きな返事が出た。すっかり彼らを味方につけた夏紀が、優子を挑発するように意地の悪い笑顔を覗かせる。
「じゃ、こっからは部長のお仕事。ぐだぐだ言ってないで練習開始の号令しましょ。ほぉら」
さんハイ、と拍子を振る夏紀を優子は忌々しげに睨めつける。憤りにカチカチと歯を鳴らし苦悶に喉を唸らせながら、しかし追って差し出された夏紀の両手に迫られて、とうとう優子は口を開いた。
「さっさと練習始めるわよ! 全員解散!」
顔を真っ赤にした優子の怒鳴り声。その滑稽さに、部室はどっと笑いで溢れ返った。何だかんだ言ってもやっぱりこの二人の相性は良い。ともすれば悲壮感のどん底に陥りかねなかった場の雰囲気は一瞬のうちに回復し、部員たちもこれからに向けて元気とやる気をすっかり取り戻せたようだった。
こうして本日の、いや北宇治の新たな第一歩が踏み出された。卓也らパートリーダーは早速滝のところへ集まり、今日の練習方法について指示を受けている。それ以外の部員は音楽室を練習場所とするパーカッションを除き、こぞって音楽室を出ていく。
「行こ、久美子ちゃん」
「はい」
梨子に返事をして、久美子も楽器と譜面台を手に立ち上がる。とその時、久美子の脇をするりと小走りに希美が抜けていった。こちらのことなどまるで視界に映っていなさそうな辺り、彼女もまた今の話で逸る気持ちを抑え切れずにいるらしい。
「希美ちゃん、ちょっと」
それを阻むようなタイミングで、あすかが声を掛けた。踵を返した希美が、はい? と返事をする。
「何ですか、あすか先輩」
「ごめん。希美ちゃんに話があるんだけど、いま時間作れる?」
「え、はい。大丈夫ですけど」
「じゃあちょっとついて来て」
「分かりました」
あすかに了承の意を返した希美は、フルートの後輩達に自分の楽器や譜面台と共に何やら指示を託し、それからあすかに連れられ部室を出てゆく。その光景が久美子の目には、何故だかひどく奇妙に映って見えた。一瞬脳裏をよぎったのは、昨年部に復帰しようとしていた希美とそれを拒否し続けるあすかとの凄絶なやり取り。何かがあると決まったわけでもないのに、妙に胸がざわつく。いや、大丈夫。今年はそんなこと起こるはずがない。そう自分に言い聞かせてみても、それからしばらくの間、心拍は不気味な高鳴りを続けていた。
「……大体、こんな感じで」
それを結びの言葉にして、卓也は一通りの説明を終えた。
個人練を終えた低音パートの一同がいつもの三年三組に集合した時、ちょうど卓也もそこにやって来て、彼の口から新しい練習プランの内容が発表された。それを聞いた上での反応はまさしく人それぞれで、効果のほどや意義に関しての推察もまた人それぞれだった。滝がその真意とするところを明かしていない以上、誰一人として答えらしい答えに辿り着くことなど出来よう筈も無い。けれど唯一それに近いと思える私見を述べたのは、緑輝だった。
「何となくですけど、滝先生はこの練習メニューを通じて部全体の即応力を鍛えるつもりなんじゃないかな、って気がします」
「ソクオ……? どういう意味?」
「『即、応じる力』と書いて即応力、です。今までは先生にこう吹いてと要求されても、その場ですぐ音に出来る場合もあれば時間が掛かってしまう場合もあってまちまちでしたよね。府大会まではそれでも良かったかもですけど、これから関西大会までの短い時間で一気にクオリティを上げようと思ったら、一回合わせる度にどんどん音を変化させるぐらいのスピードじゃないと多分間に合いません。そういう能力を少しでも鍛えるために滝先生はこの練習を導入しようとしてるんじゃないか、って緑は思います」
「素晴らしいです! 緑先輩は流石、他の人とは違いますね。説明不足な練習の方針にも、ここまで深く洞察されていらっしゃるなんて!」
「あー月永、悪いけどそのへんにしといて。それやられると某部長サマの昨年度を思い出して、私のイライラが一気に限界来るから」
「月永って呼ばないで下さい」
「うわっ。いつもながら川島以外には塩対応だね、キミ」
「中川、それに求も、ちょっと静かにしろ。とにかく実際にやってみれば解る。滝先生はそう言ってた」
「ですね。まずはやってみないと」
「それじゃ、始めるぞ」
かくして早速、新プランでの練習は開始された。まずは楽器を持たず声で楽譜を歌うソルフェージュ。これ自体は普段からも取り入れている練習メニューなのだが、この時点からいつもとはまるで異なり、卓也は曲練さながらの鋭い指摘を容赦なく飛ばしていった。
「求は音を端折らず最後まで伸ばし切る。それと夏紀、クレッシェンドもっとしっかり」
「はい」
「ただのソルフェージュと思わずに楽器で吹いてるイメージで、表現をもっと大げさにつけること」
「はい」
「ところで後藤くん。今の八分音符の
「……ごめん」
梨子に指摘され、逆の立場となってしまった卓也は気まずそうにガリガリと鼻の頭を掻いた。こうしてきれいに揃うまで数回ほどソルフェージュを合わせた後、楽器でのロングトーン、そしてスケールといった基礎練習へと移っていく。
「みんなもさっきの梨子みたいに、気付いたことがあったら俺に構わなくて良いから、どんどん意見言い合うこと」
卓也のその提言もどうやら新プランの一環らしい。音を合わせながら互いに指摘を飛ばし合うことでチェックは飛躍的に厳しさを増し、ほんの僅かな乱れもすぐに自分以外の誰かによって拾われる。それを繰り返してピタリと音が合えばようやく次の段階へ進める……といった流れは全ての場面で厳格に実行されていった。
ここまでのメニューがようやく済んで、今度は短いコラールをみんなで合わせる合奏練習。この工程が一番、普段の練習とは異なる内容であった。平素は予め用意された曲の譜面に書かれた通りを確認程度に吹くだけで終わる。ところが新プランでは音の表情、すなわちアーティキュレーションのパターンを卓也の指示で随時変則的に入れ替えてゆく。例えば先ほどは全体的にレガートで吹いていたものを、今度は全てスタッカートに置き換える。それが合えば次はスタッカートとレガートを織り交ぜる。そのさらに次は音の強弱やクレシェンド、デクレシェンドなどを各所に混ぜる……といった具合に。
この時点で練習開始から既に一時間以上が経過していた。にも拘わらずコラールを合わせ始めてからの数十分、一同はひたすら地味に音合わせをするだけの時間が続いている。けれどそれに飽きを感じる間もなく、奏でる音はどんどん変化を余儀なくされる。一つのパターンが完璧に揃うまで何度でもやり直し、揃えばまたすぐ次のパターンへ。そうやって反復される一連の作業は吹く者の意識に惰性の介在を許さず、目の前の音符に対して初見の曲を演奏する時のような緊張感と注意とを恒常的に求め続けていた。自然、集中力は従来の練習と比べて倍以上の速度で消耗してしまう。
「はー、これキッツ」
何十回目かの合わせを終え、夏紀がマウスピースから口を離すと同時に天を仰いだ。
「これやってると、吹き慣れた曲を毎日同じように吹いてる方が遥かにラクに感じるよ」
「それに、合ったそばからすぐ変えるっていうのも結構難しいっていうか、なかなか追いつかないよねぇ」
頬に手を当て、梨子が疲労も隠さず溜め息をつく。疲れたらすぐに三分間休憩、というのもプランの一環らしく、ここで卓也達は一旦楽器を下ろすことにした。
「これ、あと何回やるんですか?」
「滝先生が言うには、一音ずつでもいいからアーティキュレーション換えて最低でも三十パターン、慣れて来たら毎日五十パターン。それが終わるまで曲練禁止、って」
美玲と卓也の問答に、げぇ、と夏紀が辟易の声を上げる。練習用に使われるコラールはごく短いものなので一度の演奏につき数十秒程度の時間しか要さないが、現状のように何度もやり直しをしていれば一パターンが整うまでに早くとも数分は掛かる。それを当座三十回、ゆくゆく五十回となると、ノルマをこなすだけで実に半日分の練習が終わってしまう計算だ。
「けど、やってみて解った。俺も含めてみんな、音の微妙な処理に甘いところがまだまだある。こうやって変化をハッキリ付けると、ちょっとでも揃ってないところとか吹き分け切れてないのがすぐに出る」
アーティキュレーションをはっきりと、違いの分かるように。吹奏楽では日々の練習や合奏の中で口酸っぱく言われることだ。今の北宇治にとって、それを実行すること自体はさほど難しくはない。しかしこの新プランにおいて求められる精度や確度は、今までのそれと比較にならないほど段違いに高くなっている。これまでなら見逃されてきたようなほんの僅かな揺らぎですらも、全員のチェックによって一つ残さず拾い上げられてしまうほどに。
「滝先生の狙いって、こういうことなのかもな。聴くのも吹くのも含めてもっと音に対して敏感になって、色んな音の出し方をいつでも吹き分け出来るように、っていう」
ようやっと合点が行った、とばかりに卓也は唸りを上げた。この練習を通じて実際に問題点が見えてくると、それが音作りの上で極めて重要なものである、ということに改めて気付かされる思いがする。コンクールにおいて技術と表現は概して分けて評価されるものだが、どちらも同じ『音』によって紡ぎ出されるものであることに変わりはない。
もちろん、譜面に記された表現指示を守ることは演奏上の大原則である。けれど実際のところ、より優れた演奏をするためにはそうした記述のさらに奥、言わば行間にあるものを読み取って音へと換えていく必要がある。つまりはその認識に各人ごとのズレが僅かにでもあれば、それは表現のズレにも直結するということだ。それを滝の指示に基づいて迅速かつ的確に修正し、揃え、より良い音を求められればすぐに音にして返す。これが出来るようになれば、今までと同じ合奏時間であっても北宇治の音楽は数段以上の速度で高められることだろう。それをして『即応力』と呼ぶならば、緑輝の読みはこの点、確かに的を射ていると言えそうだった。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え、」
久美子ははたと顔を上げる。そこには美玲の顔があって、こちらを心配そうに覗き込んでいた。
「さっきからずっと、元気ない感じですけど」
「あー。ううん、何でもない。大丈夫だよ、みっちゃん」
そう返答すると、美玲は安堵と嬉しさの入り混じったような微笑を返してくれた。
「もしかして久美子ちゃん、ミーティングの話、まだ引きずってる?」
美玲の隣に座る梨子にも気遣われ、そんなんじゃないです、と久美子は両手を振ってみせる。それは本当だった。むしろあの話が出たことで、自分の中の不安も覚悟へと形を変えたという実感があるぐらいだ。そこに今さら心を煩わせるようなものなどこれっぽっちも無い。そう、あのミーティングが終わったところまでならば。
「ならいいけど、さっきから黄前は集中できてない。音の長さも全体的に短く切れてるし。ちゃんと充分に伸ばし切るように」
「はい、すみません」
卓也の注意を受け、久美子はかぶりを振って気を引き締め直す。そうだ、今は余計なことに気を取られている場合じゃない。これから練習の内容はどんどん密度を増していく筈だ。そんな時に集中力を切らしていたら、あっという間に置き去りにされてしまう。ほんの小さな差でも関西大会では命取りになる。自分がその原因になってしまうわけには、絶対にいかない。
一旦忘れよう。あすかと、希美のことは。それはまさにそう自分に言い聞かせた直後のことだった。
ガラリ。
「あすか先輩、お帰りなさい!」
音を立てて開いた引き戸へ向けて、まず最初に出迎えの声を上げたのは緑輝だった。場の全員がそこに立つあすかへと視線を向ける。と同時に、その奥を見た久美子の背筋は一瞬で凍り付いた。
「みんな早速やってるねぇ。感心感心」
あすかは何食わぬ顔で扉を閉め、コツコツと靴音を立てながらこちらに近付いてくる。口をへの字にしている夏紀に、きっとあの瞬間は見えていなかったのだろう。疲労の色を隠せぬ彼女は堪りかねたように、あすかへ愚痴をこぼし始めた。
「あすか先輩、この新しい練習法、めちゃくちゃキツいんですけど」
「だろうねぇ。まあでも、小一時間もやってるうちにコレの『狙い』が何なのか、みんなも解ってきたんじゃない?」
「そりゃ、まあ」
「これはあくまで課題そのイチであって、明日からは今やってるのとは別のメニューも追加になるから楽しみに待ってなさい。これぐらいの内容はとっととこなせるようになっとかないと、基礎錬ばっかで曲合わせる時間無くなっちゃうかもよお」
皆を脅すかのように、あすかが整った顔を嗜虐的な形に歪める。その恐ろしさに、ひぃ、と梨子やさつきが小さな悲鳴を上げた。
「さて、今日はこのままアンタらの練習見てあげちゃおうかな。けどダラダラやってる暇なんか無いからね。早いとこコツ掴んで明日からの練習にきっちり対応すること。分かった?」
「はい!」
ここまでの間、久美子は閉じられた教室の戸を凝視したまま、全くと言っていいほど動くことが出来ずにいた。吸い込む息すら浅く、瞼は張り付いたようにピクリとも動かず、乾いた眼球が血を噴きそうなほどに痛い。その目で無理やり引っ張るように首をぎこちなく動かし、久美子はあすかを焦点に置く。
「あすか、先輩」
「ん? どしたの黄前ちゃん」
「あの、」
喉がひりつく。顎がうまく開かない。震える唇を一度舌でなぞり、食いしばるように引っ込めてから、久美子は尋ねた。
「さっきまで希美先輩と、どんな話、してたんですか」
刹那、ビリッ、とあすかの全身から静電気のような鋭気が迸った。答えを寄越さぬあすかが代わりにこちらをじいっと見つめる。その時点でもう、久美子の切迫感は極度に達してしまう。無意識のうちに握り込んだ拳がガチガチに固まっている。指を開こうとしてもどうにも動かず、それどころか全身のあらゆる筋肉がまるで言うことを聞かない。仮にあと数秒でもその状態が続いたならば、緊張に堪えかねた身体はきっと痙攣を起こしてしまっていただろう。
「ちょっとした人生相談」
へらり、とあすかは軽薄な笑みを浮かべる。なあんだ、とはならなかった。だってそれは、あすかが自分に対して嘘をつくときの明確なサインだと、知っていたから。
「だから、黄前ちゃんが気にすることじゃないよん。今はね」
優しく撫でるような手つきで、あすかが久美子の頭をポンと叩く。それを合図に、逼塞し切っていた久美子の呼気は一斉に漏れ出てしまった。
「さあ、こんなお喋りしてる暇なんて無いでしょ? この多忙なあすか先輩がせっかく見てあげようって言ってんだから、もたもたしてないで全員さっさと楽器構える。ホラホラ」
あすかに急き立てられた卓也達が慌てて練習の体勢に戻る。この時の久美子は正直、それどころではなかった。くたりと椅子にくずおれた全身は、まるで関節に通した糸をプツリと切られた
だって、あんなものを見てしまったら、平然としていられる筈がない。その光景を、隣に座る夏紀が目撃していなかったらしいことだけが唯一の救い。そう思うより他は無かった。もしも彼女があれを見たならきっと、矢も楯もたまらず教室を飛び出したか、あるいは練習などそっちのけであすかを責め立てたに違いなかったから。
戸が締まる寸前、あすかの背後を通り過ぎていった希美。彼女は口元に手を当てて静かに、けれど激しく、慟哭していた。
*
「はい、こんにちは」
「こんにちは!」
「おぉー、今年の北宇治はのっけから元気が良いねぇ」
部員一同の高らかな挨拶を受け、壇上に立つ彼は満足そうな顔つきで無精ひげの目立つ顎髭をさすった。
「上級生のみんなはお久しぶり。一年生の子らは初めてだから、改めて自己紹介ね。
野太い声がガラガラと、馴れ馴れしく口上を述べる。橋本の夏用ジャケットは今年もと言うべきか、センスを疑うような装飾や色使いの施されたド派手なものだった。続けて橋本と立ち位置を替わるように登壇したのは同じく、今年も北宇治の指導を行うために来てくれた特別顧問の一人だ。
「
うやうやしくお辞儀をする新山の姿に、一年と思しき幾人かが感嘆の吐息を洩らす。昨年、その美貌と存在感から「ひょっとして滝の婚約者なのでは」と噂されたこともあった彼女は、恐らく今年も一年生の間に困惑と疑念を孕ませているに違いない。教壇を降りた新山がみぞれに向けて軽く会釈し、みぞれもそれに応じるように小さく頷いたのが、久美子の視界の端をかすめた。
「それじゃあまずは一発目の合奏で、みんなの今の腕前を聴かせてもらおうか。滝クン、頼むよ?」
「勿論です」
穏やかに返事をして指揮台に立った滝が、パラパラと楽譜をめくる。久美子は意識を切り替えるようにそこで小さく息を吐いた。昨日の合奏では、滝からの相当に細かく綿密な指示が余すところなく全員に飛ばされた。それに昨日一日で即追従できた人は流石にそう多く無い。久美子個人にも新たに追加された課題が山ほどある。それらをどれだけ的確かつ速やかに修正できるかが、三週間後の出来高に直結する。これからの合奏は一回一回が真剣勝負そのものだ。
「それでは自由曲、第三楽章。頭から通しで行きます。昨日の合奏でも言いましたが、これからの大きな課題はより深く豊かな表現力です。今まで以上に表現性の高い演奏が出来るよう、出した指示には素早く音で返して下さい。ですがそこに気を取られて音が縮こまったり、固い演奏になってしまっては元も子もありません。求められる要素は幾つもあり、そしていずれも高い水準が必要です。まずはその認識をしっかり持った上で自分達の現状を把握しましょう」
「はい」
楽譜を第三楽章のものに替え、楽器を構える。第三楽章は冒頭オーボエとフルートのソロから始まり、全編を吹き切ったオーボエソロが最後に単独の即興的演奏、いわゆるカデンツァを奏でて幕を閉じる。この第三楽章が現状、全曲の中でいちばん演奏が噛み合っていなかった。端的に言えば、下手ではないが味気も無いといった具合だ。この合奏で滝が最初にこの曲を合わせることを選んだのもきっと、そのへんの状況を鑑みてのことなのだろう。
滝が腕を振り、みぞれが小さく息を吸い、そして演奏は開始される。橋本は顎をさするように片手で抱え込み、じっくりと一つひとつの音に耳を傾けていた。けれどそのうち彼の視線はみぞれと希美を交互に行ったり来たりするようになり、やがて困り果てたようにその表情を大きく歪めさせる。
「はい、ありがとう」
社交辞令的にそう述べた橋本は、んー、と喉を鳴らしながら、フルートとオーボエのちょうど中間あたりを指差した。
「二人のソロ、ちょっと上手くいってないんじゃないの?」
半ば予想されたその指摘に、希美の身体が微かに揺れたのが見える。一方のみぞれはおもむろに俯き、何やら右手で横髪を弄るみたいにスルリと動かした。
「府大会を抜けたわけだし、二人とも基本的な水準は高いと思う。でもね、よくよく聴いてみると二人とも音がバラバラ。それに面白みも全然無い。メインがそんな風になってるせいで、全体の音もなーんかチグハグな印象になっちゃってるんだよねぇ、うまく噛み合ってないっていうかさ。ええと、こういうの何て言うんだっけ滝クン?」
「そんな風に聞かれましても、私は超能力者でもありませんし、橋本先生のイメージは分かりかねますよ」
「相変わらずつれないなぁ滝クンは。そこはウソでも『倦怠期じゃないですか?』とか、何か適当にボケて僕が突っ込むところでしょ」
「あいにくですが、私は橋本先生と漫才をするつもりでお呼びしたわけではありませんので」
「ちぇっ。ホーント滝クンって、昔っからこうなんだよねぇ」
渋面の橋本が入れたボヤきに、部員の側からも苦笑の音が洩れ聞こえる。しかして今の久美子は、それに同調する気には全くなれなかった。
「とにかく二人がこのままじゃあ、いくら全体の表現力が上がったって宝の持ち腐れだ。ひとまずオーボエとフルートのソロ二人は後で新山先生にガッツリ集中指導してもらうこと。それ以外の皆は今出来ることとして、表現の引き出しをドンドン作っていこうか」
「はい」
「いいかいみんな。今はこんな細かいところまで突っ込まれて正直しんどいって思ってるかも知れない。けど細かい表現ってのを自在に使えるようになったら、音楽はもっともっと面白くなるからね。音楽はどこまでも音を楽しむものだってこと、ちゃーんと頭に叩き込んどいてよ。いい?」
「はい!」
「よぉーしその意気だ!」
やる気に漲る部員たちの返事に満足したのか、橋本は豪快に声を上げた。その後も合奏は続けられ、挙がった問題点はさながら天から降り注ぐ矢雨の如く久美子達を穿つ。それから数時間後、ちょうど予定の刻限を迎えたところで後は各パートの個別指導ということになり、その日の合奏は終了した。
「それにしても橋本先生、あすか先輩の顔見てビックリしちゃってましたね」
「まあそりゃあそうだろうね。橋本先生だって私のこと覚えてただろうし、いろんな意味で。にしても酷いと思わない? 部室に入ってくるなり化け物でも見たような声上げて、開口一番『キミ、去年三年生だったよねぇ?』なんてさ」
パート練習は一区切りを終え、休憩の時間を迎えていた。梨子やあすか達が楽器を置いて談笑する中、久美子は教室を出てお手洗いへと向かっていた。
滝らによる新プランに基づいた練習法は、短い時間でも精神と体力を大いに消耗する。その状況でダラダラと練習をしても却って身に付かず、それどころか適当に吹いた音と吹き方が体に染みついてしまい、さらにその是正に要らぬ労力を払うこととなりかねない。こうした悪循環を避ける為か、練習中の小休憩は今までと比べて減るどころか回数が増えるようになった。短い時間で最大限集中し能率を高める、という手法は一種のインターバルトレーニングのようでもあったが、それが功を奏するかどうかはまだ何とも言えない。今は滝の言うことを信じ、出来ることを全力でやり切るより他は無いのだ。
かくして数分後。お手洗いを済ませた久美子はチラと腕時計を見やった。まだ少しばかり時間に余裕がある。ついでに水分補給もしておきたい。水筒にはお茶が残っていた筈だが、どちらかと言えば今は真水を口にしたい気分だった。少し遠回りをして、久美子は廊下の一角に置かれた水飲み器を目指す。と、どこからか洩れ聞こえるオーボエとフルートの合わさった音色が、久美子の耳を穿つ。
「今のって、」
それは第三楽章のソロパート、つまりみぞれと希美の奏でる音だった。この近くで練習しているのだろうか? と久美子は首を巡らせる。先の合奏で橋本や滝から言い渡された、彼女たちの集中指導。それはどうやら廊下の端にある空き教室で行われているみたいだった。
「――悪くはないんだけど、やっぱり音が窮屈そうにしてるわね」
そろりと戸の前まで近付くと、内側から新山の声がやけにハッキリと響いてくる。かねてよりの問題である二人のソロは、現役のプロ奏者である新山の集中指導をもってしても一朝一夕で改善とはいかないらしい。
「ちょっと聞きたいんだけど、二人はこの第三楽章のソロを、どんな風に解釈しているの?」
「かい、しゃく」
少しどもったように呟いたのは、きっとみぞれだろう。二人とも質問に対する答えを考え込んでいるのか、しばし沈黙の時が続く。
「鎧塚さんの解釈はどう?」
「……わかりません、私には」
深呼吸を三度するのに充分なだけの間を置いたあと、みぞれが呟いたのはただそれだけだった。
「傘木さん、あなたの解釈は? ここでのフルートソロを、どんなものだと考えてる?」
新山は希美にも水を向ける。ガサリ、と教室内の何かが小さくうごめくような音。ややあって希美は、彼女なりの答えを新山に告げた。
「空に向かって飛び去る青い鳥。その姿を、離れていてもそっと寄り添うように見守っている――そんな『リズ』の心情です」
それを聞いた瞬間、久美子の頭の中は真っ白になっていた。寄り添うように、だって? そんな殊勝な発想が、あの希美から自然に出てくる筈が無い。だって、希美という人間が心に抱いていたのは。あの時、希美が言っていたのは。
『こういうカッコいいソロのある曲を、コンクールの本番で思いっ切り吹きたいなあって』
がたん。
「誰か、そこにいるの?」
は、と久美子は我に返る。今のは新山の声だ。湧き出る思考に意識を奪われた結果、うっかり肩で引き戸を軋ませてしまったらしい。こんな時に何とも間の悪いことだ、などと思う暇すらもなく、目の前の戸がガラガラと開け放たれていく。そこに立って自分を見下ろしていたのは、希美だった。
「久美子ちゃん……」
「す、すいません」
「黄前、さん? どうかしたの?」
新山にも認識されたことで、いよいよ久美子は無言でその場を立ち去る訳にもいかなくなってしまった。どうも、と頭を下げながら釈明のために教室へと入る。教卓前の机は軒並み周辺に寄せられ、ぽっかりと開いた空間には新山の席が、その対面には各々の譜面台を挟んで希美とみぞれの席がそれぞれ設けられていた。みぞれの表情はいつも通りで殆ど変化は見られなかったものの、まるで予想外だったであろう闖入者の姿に、彼女の双眸は幾分驚きの色で覆われているみたいだった。
「本当にすいませんでした。邪魔するつもりは無かったんですけど、先輩達がどんな練習してるのか気になっちゃって、その、」
狼狽しつつも頭に浮かぶ単語を繋げ、それらしい言い訳を紡ぐ。この土壇場の状況ではもうそうするより他に無かった。そんな久美子の白々しさを汲み取ったかのように、新山が口に手を当ててクスリと吐息を震わせる。
「別にいいのよ。そうね、二人の練習を見るのは黄前さんにとっても良い勉強になると思うし。それに私以外の誰かに聴いてもらいながら吹くのも、鎧塚さんと傘木さんの刺激になって良いかも知れないわね。黄前さんさえ良ければ、見学のつもりでちょっと見ていかない?」
「え。いや、そろそろ休憩時間も終わっちゃうんで。私パート練に戻らないと」
「いいじゃん。せっかくなんだし、見ていきなよ」
そうは言われても、と久美子は振り返る。目の前にあったのは、うっすらと口角を持ち上げた希美の、深い夜闇を思わせる真っ黒な二つの瞳だった。
「なんだったら、私も久美子ちゃんと一緒に謝りに行ってあげるし。それなら私の責任ってことになるでしょ。だから、ほんのちょっとだけ。ね?」
笑顔のような表情とは程遠い感情に紐づけられた、底知れぬ漆黒の瞳。その深淵に覗かれて、久美子の全身は髪の毛一本に至るまで委縮してしまう。無言で頷き、久美子は近くの椅子を引いてその場に座した。帰るな。ここに居ろ。そう語る瞳の前では、それ以外の行動を取ることは許されなかった。
「黄前さんに一度聴いてもらって、それで率直な感想を聞いてみましょう。生徒同士、客観的な立場からの意見もお互い参考になると思うわ。じゃあまずは初めのところから――」
「すみません新山先生。その前に一つ、いいですか」
おもむろに手を挙げた希美に、どうぞ、と新山が発言を促す。愛用のフルートを握り締め席を立った希美は、新山にはっきりと宣言した。
「私、本気で、音大に行きたいと思ってるんです」