もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

19 / 25
〈15〉合宿開始

 一切が、まるで電池を抜いたように、ぴたりと静止していた。

 ゴクリと唾を呑み、それから久美子はまずみぞれを見る。彼女は希美のその言葉にさして驚いたような素振りでも無い。みぞれはただ、普段よりもほんの少しだけ温度を感じさせる色を瞳に浮かべながら、じっと希美のことを見つめていた。

「傘木さんが音大を志望していることは、前にも聞かせてもらったわね。私も応援してるわ。それで、どこの大学を受けるかはもう決めてあるの?」 

 希美に問い掛ける新山の声色はとても優しかった。その表情にも、希美の意志をまるごと抱擁するかのような微笑みが讃えられている。しかし彼女の両の瞳には、指導者として日頃見せる慈愛に満ちた穏やかさではなく、相手の真意と覚悟を推し量ろうとする鋭利の色がたっぷりと塗り込められていた。その寒気すら覚える厳しさの片鱗を、久美子は新山の内側に、確かに見出していた。

「まだ決めてません」

「そう。まあ、まだ具体的な志望校が絞り切れなくてもしょうがないわよね。それはそれとして、基礎練習はどうしているの? どなたか先生に付いてレッスンを受けたりはしてるのかしら」

「それもまだです」

「それなら早く良い先生に教わった方が――」

「でも、音大に行きたいんです。どうしても」

「それは何故?」

 発言を遮られても気に障る様子も見せず、新山は重ねて希美に問う。このとき久美子は、今すぐにでもこの場から逃げ出したいとすら思っていた。傍目にはただの進路相談とでも形容できるこの光景が、自分の眼には二人が白刃をぶつけ合う決闘のさなかであるかのように映って仕方ない。次の一瞬どちらかの喉笛が斬り裂かれ、ぱっくりと口を開けたそこからおびただしい血飛沫が飛ぶことになる……そんな連想を抱かずにはおれぬほど、ここには危うい気配が充満していて、さっきから肌がぶつぶつと粟立っているのが触れずとも解る。

「フルートが好きだからです。フルートで、好きなことで、誰にも負けたくない。だから私は音大に行って、そして夢を叶えたいんです」

「それは本当に、傘木さんの思っていること?」

 一旦そこで会話が途切れる。言葉で答えを返す代わりに、希美は無言で新山と視線を交わした。恐らくは彼女のありったけの感情を、そこに込めて。

「解ったわ」

 しばしの沈黙の後、ふう、と新山は息を一つそこへ落とす。

「それで、傘木さんは私にどうして欲しいの?」

「先生に聴いて欲しいんです。私の、全力の演奏」

 早口で告げると共に、希美は譜面台の楽譜をパラパラとめくった。

「第三楽章『愛ゆえの決断』。ここのフルートソロを、今からカット無しで吹きます。それを新山先生に聴いて欲しいんです」

 希美のその発言に、久美子の気道はがふりと詰まる。滝の施したカットにより、フルートのソロは単体で目立つ箇所の殆どを削られていた。つまり今この場でカット無しの譜面を吹くことは、コンクール用の練習としては何の意味も成さない。それを希美はあえて吹こうとしている。新山に聴かせようとしている。それは何のために? 希美の意図を量り切れない久美子には、ただただ場の空気を搔き乱さぬよう努めて息を潜める以外に成す術は無い。

「それを聴いて、傘木さんの演奏を評価すればいいのね。黄前さんや鎧塚さんも一緒に聴くことになるけど、それでも良い?」

「大丈夫です。お願いします」

 まるで久美子達など最初から視界に入っていないかのように、新山だけを見据える希美が敢然と返事をした。こうなってはもはや退室の言い訳など捏ねるだけ無駄だ。腹を括った久美子は姿勢を正し、みぞれがそうしているように己が聴覚へとひたすら意識を集中させる。

「じゃあ、吹いてみて」

 はい、と返事をして希美はフルートを構えた。彼女の全身にピンと張り詰める緊張感。ブレスの感覚を確かめるように唄口に軽く息を吹き込み、下唇をそっとリッププレートに添えて、そして希美は彼女の持つありったけを、新山の前に披露した。

 

 

 滝考案の新プランにも部員たちがすっかり順応してきた頃。三日間のお盆休みを挟んで、ついに合宿の日がやって来た。

 去年もお世話になったこの宿泊施設。今年はサポートメンバーを含めてかなりの大所帯となったこともあり、管理棟内の研修室がコンクールメンバーの合奏用、施設に併設された体育館がサポートメンバーの練習用、と振り分けられている。その研修室には既にサポートメンバーの手によって譜面台や椅子といった用具が並べられていた。まずは自分の席に腰を下ろし研修室内の香りを懐かしみつつ、久美子はそこで一つ溜め息を吐く。

 今年の合宿が去年にも輪を掛けて厳しいものになるであろうことは、とっくに予想がついていた。関西大会まであと十日あまりという状況の中、全員の音は着実に磨きの度合いを増してはいるのだが、それは必ずしも求める結果を保証しうるほどの盤石さでは無い。未だ残存する数多の課題を集中的に見直し、あるいは潰していくための最後のチャンスとも言えるこの合宿。ここでどれだけ北宇治の表現力を高められるかがそのまま関西大会の結果に直結する、と言っても過言ではないのだ。

「では只今から二泊三日の合宿練習を始めます。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 優子の号令につられるように、全員が壇上の滝に向かって勢いよく一礼をする。

「今日午前中の合奏ではまず、課題曲と自由曲を総ざらいしていきます。そこで上がった問題点を、午後の自由練習の時間を使ってパート同士で合わせながら、細かいところまで調整を掛けて下さい。その後、三時からは夕方まで再び合奏です。そこでは修正状況を確認しつつ更にもう一段、全体的な表現の追求に挑んでいきます」

 滝が部員たちをぐるりと一望しながら、一日の練習スケジュールを口頭で説明していく。

「府大会終了後のあの日から、皆さんの音は確実に良くなっています。ここが正念場です。もう一段と言わず何段でもより良い表現、サウンドを作り上げ、本番当日に最高の音楽を奏でられるようにしましょう。今回の合宿でも橋本先生や新山先生、それと田中さんには気になった個所をどんどん指摘していただきますので、皆さん速やかに対応していって下さい」

「はい」

 窓際となる研修室前方、滝の隣には新山達指導陣に肩を並べ、コーチ役としてあすかも腰を下ろしている。こちらの視線に気付いたあすかが、呑気にも親指を立ててウインクをしてきた。それに申し訳程度に手を振って応じ、久美子はユーフォを構える。

「では始めましょう」

 滝の指揮に合わせ、課題曲の冒頭を吹き鳴らす。あの日以来、滝の要求方法は必ずしも口での注意に留まらない。その手指、身振り手振り、視線、そして呼吸といった彼の全ての動きには、楽曲に対する『こうあれ』という微細なニュアンスが込められている。奏者はそれを汲み取りつつ、すかさず音として表現に換えることを常に求められるのだ。当然、求めに応えられなければすぐさま厳しい指摘がなされるのは今までと同じである。

「トロンボーンのCの部分はまだ響きが足りません。音量にばかり気を取られがちですが、重要なのは響かせることです。楽器のすみずみにまで息を通し神経を張り巡らせ、『鳴っている』という感覚を出して下さい」

「はい」

「サックスの刻みは先日に比べて随分良くなってはいるけれど、まだ少し重く感じます。ここはトゥントゥトゥトゥー、ではなく、トゥットトトゥン、と鋭いイメージで吹いてみましょう。そして一つずつの音も平板に吹くのではなく、連続した音の中での強拍と弱拍を意識してみて。いい?」

「はい」

「シロフォン! 今の場所、微妙に乗り切れてないよ。君がもたついてちゃあその上に乗っかる木管が合わせにかかれない。周りを伺ってないで、自分がリードして他の音を引っ張ってやろうって気持ちで行くべき場所だよ、ここは」

「はい!」

「低音パート、P直前の主張が少しうるさい印象です。ここはクレッシェンド指定ですが、一音ごとに重みをつけるように音量を上げつつ決して機械的に、例えばそう、角ばった階段状に大きくするわけではないのだと心掛けて下さい。そしてピークを迎えるPからどれぐらいの音で吹くか、その計算を念頭に置くように」

「はい!」

 音を合わせる度、指導陣からの指摘が矢継ぎ早に飛んでくる。それに従って音の形は次第に定まったものへと固められていく訳なのだが、その途上でもっと良いものが見つかればそちらに方向修正することも辞さない。例えばこのように。

「今のクラリネットの華々しい音の感覚は素晴らしい。フルートはこの箇所、先程のクラに合わせられますか?」

「はい」

「では、次からはそれで統一します」

 そして次の合わせでフルートの音はすかさず変化し、きっちりクラリネットと揃った音を奏でてみせる。こんな調子で秒を追うごとに、北宇治の演奏は一箇所また一箇所とブラッシュアップされていった。

 新プランが北宇治にもたらしたものは何よりもこの順応速度、先日緑輝が『即応力』と呼んでいたものだ。これまで練習してきたものを更に研ぎ上げるだけでなく、それまでのやり方をガラリと入れ替える、楽器ごとの鳴りや残響の違いを意識して吹き込みの長短を調整する、複数の吹き方を試してより良いものを探求する、といった様々の要求に対しても今の部員達は俊敏に対応し、それを何度合わせても同じように再現出来るまでになっていた。

「そろそろ時間も押してきましたし、午前最後の合わせは第三楽章を重点的にいきます」

 はい、と返事をして久美子は楽譜を差し替える。課題曲と自由曲の大半はおおむね形が見えつつあったが、件の第三楽章だけは未だに滝らの納得行くものを出せてはいなかった。みぞれと希美が素早く演奏態勢を取り、そうして二人の音を皮切りに、薄暮の空を物憂げに滑空するような音楽が研修室に漂う。

「新山先生は今の演奏、どう思いましたか」

 一度通し終えてすぐ、滝は新山に意見を求めた。

「そうですね。まず、傘木さんの音はだんだん良くなっています。鎧塚さんの音を聴いて寄り添えるようになってきている。とても丁寧に吹いていて、求められた役割をしっかり理解しているという感じね」

「はい」

「けれど鎧塚さん。あなたの演奏はそれで、本当にいいの?」

 新山に問われ、みぞれの肩が小さく動く。

「あなたの音がどうしても、私には窮屈に聞こえてしまう。あなたならもっと情感を込めた、美しい演奏が出来る筈だわ。怖がらないで、自分の音をもっと思い切り主張してみてもいいのよ。今の北宇治のみんなならきっと、あなたの実力に追従するだけの演奏だって出来る」

 新山の提言に滝も頷き、そこへ言葉を継ぎ足す。

「私も鎧塚さんなら、もっと優れた演奏をする事は可能だと思っています。この第三楽章、全体の演奏はあなたに沿って作られる。今のままでも充分とは言えません。目下、北宇治最大の課題は表現力。その鍵を握っているのはメインとなるあなたです。後の修正をするだけの時間はまだたっぷりとあります。遠慮せず、あなたが持っているものを全てここで出し切って下さい」

「……はい」

 ぽつりと落とされたみぞれの返事はあたかも砂の上にこぼした雫の如く、場に滲みすら残さず消えていった。そんな不確かなやり取りに苛立ってか、橋本がバリバリと頭を掻きむしる。みぞれの演奏は決して下手ではないのだが、強いて言うならば色づきの浅い紅葉のように何とも物足りない印象で、その後の合奏でもどうしてもそれが拭い切れない状態が続いた。

「もう十二時を過ぎてしまいましたので、ここで昼休憩にします。午後から鎧塚さんは新山先生とのマンツーマンで指導を受けるように。他は予定通り三時の合奏までパート練習、鎧塚さんのいないダブルリードパートの指導は代わって田中さんにお願いします。合宿は三日間ありますが、それにあぐらをかかず、一分一秒を血肉に換えるつもりで取り掛かりましょう」

「はい!」

 滝が指揮棒を譜面台に置く。彼のその表情はしかし、求める成果をこの時間内に得られなかった不満感のせいでか、合奏前の時よりも僅かに曇っていた。

「それじゃ、起立。ありがとうございました!」

「ありがとうございました!」

 優子の号令で部員たちは一時解散となった。楽器を置いて昼食に向かおうとした久美子は、その途中でちらりとみぞれの様子を窺う。席に着いたままオーボエを握り締め、目の前の楽譜を注視し続けるみぞれ。小さく縮こまった彼女の後ろ姿が久美子には、とても苦しがっているように映って見えた。

 

 

 ユーフォの管に貯まった水をウォーター=キイから解き放ち、管体を振って残滓が無いことを確認する。俗に『ツバ』と呼ばれるこの水分は、実のところ奏者の呼気に含まれる水蒸気が管内で凝結したものであり、いわゆる唾液とはちょっと違う。ツバは楽器を吹いていれば必然的に溜まってしまう訳なのだが、音の乱れや汚れの堆積を防ぐ意味合いからこうして定期的に抜く必要があるのだ。

 次にマウスピースを楽器本体から取り外し、バシャバシャと流水に浸してきれいに洗い上げる。ハンカチで水気を拭き取ってからフッと吐息を吹き込むと、ひんやりと冷たいマウスピースは実に気持ちよく自分の息を通してくれた。

「久美子」

「麗奈?」

 この声は麗奈のもの。そうと確信して久美子は振り向く。目の合った麗奈は幾分安堵したように、ほう、と息を吐いた。

「そっちも休憩中?」

「うん、十分間だけだけどね。麗奈もマウスピース洗いに来たの?」

 麗奈の手元で輝くトランペットに目をやりながら久美子は尋ねる。ううん、と浮かぬ顔でかぶりを振る麗奈が、久美子の元へと一歩距離を詰めてきた。

「久美子のこと探してた」

「私を?」

「そう」

 ここじゃ何だから、と麗奈はそっと手招きをした。それにいざなわれるようにして、久美子は彼女の後についていく。施設中の至るところではそれぞれのパートがそれぞれの練習を行っていた。全員がまとまって音を合わせているか、それとも個人単位で己の課題に取り組んでいるかは各パート次第で、中には楽器を置いて木陰で休息を取っているところもある。そんな光景をあちらこちらと眺めつつ、二人は通路の端から屋外へと出る。

「こんなところまで来て、何か聞かれちゃまずい話でもあるの?」

 連れ出された先は施設裏手、建物の陰となるひと気の少ないところだった。何気ない久美子の質問に、麗奈はやや躊躇ったようにきつく唇を結ぶ。

「実はさっき、午後の練習が始まる前に私、みぞれ先輩のところに行ってきて」

「みぞれ先輩の? 何でまた」

「優子先輩がみぞれ先輩のところに行ってたから、全員揃ったって伝えに。そのついでにと思って私、みぞれ先輩を励まそうとしたんだけど」

「励ますって、麗奈が? みぞれ先輩を?」

 おかしい? と麗奈は文句をつけるような目つきをこちらに向けた。別におかしくはないのだけど、それにしても麗奈が誰かを励ましている姿というのはどうにも想像がしがたい。しかも相手はあのみぞれだ。二人は日頃から特に接点があるわけでもなく、従って二人が会話をしている光景すら久美子にはとんと思いつかなかった。果たして麗奈はみぞれにどんなことを言って励まそうとしたのだろう。

「でも失敗した。却ってみぞれ先輩のこと不機嫌にさせちゃった。ホント私、こういうことに向いてない。久美子も一緒に連れてけば良かったって、すごく後悔してる」

「いやいや。流れ的に、そこに私がいるのはおかしいでしょ」

 そもそも麗奈だって、初めからみぞれを励ますつもりで彼女の元を訪れた訳では無かった筈だ。成り行き上そうなってしまったものに後悔の念を抱くだなんて、今日の麗奈は実に麗奈らしくない。

「だから、もっと別のタイミングにすれば良かった。今日の練習終わった後とか、消灯時間前とか」

「んー。それだったらまあ、分かるかも」

「けど、みぞれ先輩が窮屈そうにしてるのが、私にはどうしても我慢ならなくて」

「そういうとこ、麗奈らしいって思うけどね」

 率直に褒めたつもりの久美子に、麗奈は幾分拗ねたような表情を浮かべる。

「久美子はどう思う? みぞれ先輩のソロ」

 みぞれにはあんな演奏しか出来ないのか。その問いに対する答えは、とっくに用意できていた。

「私も麗奈とおんなじ。みぞれ先輩ならもっと吹けるはずなのに、って」

「だよね」

 ザア、と夏風が麗奈を吹きつける。黒く艶を放つ曲線が優雅に波を打ち、久美子の鼻先にはほのかに甘い麗奈の香りが届けられた。

「私、歯痒くて。今の北宇治ならきっと、みぞれ先輩の全開の演奏にだってすぐ合わせられる。なのに肝心の先輩が何か我慢してるように吹いてて、それにつられて私もみんなもどこか低い天井につっかえてる感じがして。それがたまらなくもどかしい」

 麗奈の陶器みたいな白い手が彼女の肘を掴む。その指は微かに震えていた。

「麗奈的にはそこが、関西大会の結果を分けるポイントだって思うの?」

「関西どころか全国でだって金賞を狙える。そのぐらいのポテンシャルが、今の北宇治には充分ある」

 決然と言い切った麗奈に、ほお、と久美子は感嘆の吐息を洩らした。彼女がこうまで言うのなら、それは恐らく真実なのだろう。こと音楽に関して、麗奈の見立てには一つとして間違いなどある筈が無い。久美子にとって信仰とさえ呼べるその念は、微塵も揺らがぬものだった。

「たぶん滝先生も新山先生も同じこと考えてると思う。でも二人がどんなに指導しても、みぞれ先輩の演奏は変わらない。それを何とかできないか、って私思ってて」

「麗奈は、その原因がどこにあるって思ってるの?」

「分からない。分からないけど、もしあるとしたら、希美先輩」

 そこで麗奈は俯き、自らの思考を手探りするように少しずつ、言葉を紡ぎ始めた。

「希美先輩の演奏、合宿に入る少し前ぐらいからかなり良くなってるよね。それは私も認めてる。でもみぞれ先輩の方がいつまでもそれに合わせに行って、自分の演奏を抑え込んでる。それが全体の基準になってるから、結果的に二人の中間ぐらいのところに音楽が落ち着いてて、やりたい表現が全然出来てない」

 麗奈の言い回しはとても抽象的なものだったけれど、何となく要点は解る気がした。うん、という久美子の相槌を受け取って、麗奈は更に続きを述べる。

「みぞれ先輩は多分、心のどこかで希美先輩を信用してないんだと思う。自分の演奏に希美先輩がついて来れるって本気で思ってない。だから自分の演奏にブレーキ掛けて、希美先輩の音に合わせてばかりいる」

「私も、そう思う」

「でもあの場面では、フルートはあくまでオーボエに寄り添うだけだから、このままじゃいつまで経ってもみぞれ先輩は自分の演奏が出来ないだけ。だからって、希美先輩が思いっ切り吹けばいいってもんじゃない。あの場面でフルートに求められてるのは、あくまでオーボエの対話の相手になることだから」

「そうだね」

 そぞろに同意しつつ、久美子は思い出していた。それはあの日、音大受験への強い意志を新山に表明し、彼女に己の実力を測ってもらうべく全身全霊の演奏を行う希美の姿だった。

 

 

 

 

 第三楽章のノーカットソロを一人で吹き切り、荒く息を吐き出した希美は、新山に尋ねた。

『今の演奏、どうでしたか』

 対して新山は、それまでの微笑を崩さずにこう返した。

『とても良かったと思うわ。後は良い先生に見てもらって、大学の候補を絞って、それに向けて受験の対策をしていけば――』

『そうじゃなくて、』

 希美が苛立たしげに首を左右に振る。彼女のポニーテールが乱雑に跳ねるさまを見て、新山は出しかけた言葉を呑み込んだ。

『私、プロになれると思いますか?』

 再び尋ねた希美の瞳には、悲壮な覚悟が宿っていた。黙した新山の顔からもすうっと微笑みが引いていく。焦れるような空気。重苦しい沈黙。この場においては傍聴者以外の何物でも無かったみぞれと久美子は、ただただ新山が口を開くのをじっと待つばかりだ。

『はっきりした言葉が欲しいのね』

 新山を見据えたまま、希美は頷く。その意志の強さを受け取るように新山は一度瞼を伏せ、開くと同時にこのように、希美へ告げた。

『今のままでは厳しいと思う。これからも努力と研鑽を重ねれば、傘木さんならいつかきっと良いフルート奏者になれる。けど、だからと言って傘木さんの思っているような存在になれると言えるほど、プロの世界は甘くないわ』

 凄絶を極める新山の宣告。自分のことでもないのに、久美子は己の心を打ち砕かれたような気さえした。誰もが押し黙る中、虚ろに口を開いた希美はただ、そうですか、と力なく返事をしただけだった。

 

 

 

 

 あの日を境に希美の演奏は変わった。今まで以上に細部にまで神経を張り巡らせているのが、はたで聴いていても解る。ともすれば全面的に勝気ですらあった彼女の音楽はすっかり鳴りを潜め、と同時に場面に応じて身を翻し、抑えるべきを抑え、溶け込むべきに溶け込み、そして羽ばたくべき時に羽ばたく。変幻自在の音を使い分けその場に相応しい音を奏でるようになった希美は、みぞれとの協奏においても己の役割を悟ったかのごとく、みぞれに沿って最適な音を紡ごうと努めていた。だが、それがみぞれには届かない。どういうわけか、そうした姿勢の希美を前にしてもなお、肝心要のみぞれはどこまでも希美に合わせようとし続けるばかりだった。

「……そんなことがあったの」

 久美子が一通りの顛末を語り終えると、麗奈は愕然としたように俯く。

「希美先輩が音大を受験するつもりなのは私も聞いてたけど、そんなことになってるなんて思わなかった」

「麗奈は、希美先輩が音大に入ってプロになれるって思う?」

 久美子の質問に、麗奈はしばし黙考し、そしてすげなく首を振った。

「いろんな音大があるから一概には言えないけど、少なくとも一般的な器楽専門のところを受けるなら難しいと思う。学部とか学科にもよるし、高校三年から音大受験を目指す人もいるにはいるけど、それなりの対策は必要だし。まして、もう八月でしょ? 今からでも本腰になって取り組まないと間に合わないし、それですら時間が足りないぐらい」

「やっぱり、そうだよね」

「それにプロになる人って、やっぱり他の人とは何か違う、輝きみたいなものを持ってることが多いと思う。本人には言えないけど、私から見て希美先輩がそういうものを持ってるとは思えない。もっとも一口にプロって言っても色んな形があるし、本人の努力次第ではどうなるか解らないけど」

 それはもちろん久美子にだって分かることだった。自分達の言うプロとは単に『音楽を生業にする者』という世間一般の意味合いではない。それは『特別』を置き換えた言い回しであり、恐らくは希美もまたその高みに手を伸ばそうとしていた。だからこそ新山の言葉が、麗奈の言葉が、久美子の頭には殊更残酷に響く。

 音大に行きたい。プロになりたい。春頃にそう語っていた希美の口調は、あたかも小さな子供が夢物語を描く時のような、いたって現実味の無いものだった。けれど今の希美にとってのそれは、痛いくらい真剣な願いへと姿を変えている。彼女の意識をここまで大きく変えたのは、恐らくあすかだ。先日のあすかと希美の秘密の会談。人生相談、とあすかがうそぶいたその場できっと、希美は完璧に打ちのめされた。それが、希美を変えたのだ。

「その時、みぞれ先輩は何か言ってたの?」

「大した事は何も。きっと大丈夫、って希美先輩に声掛けたぐらいで、でも希美先輩はそれに何も返さなくて」

「そう」

「もしかしたらみぞれ先輩、あの時の事をずっと気にしてるのかも知れないけど。本当のところはどうなのか、私にも分かんない」

 下唇を噛み、久美子は遠くに視線を投げる。その遥か先には木陰に佇むフルートパートの面々に混じって希美の姿もあった。指導の為か、ピッコロの女子と同じフレーズを一緒に吹きつつ、その子の指導をしているらしい希美。彼女の胸中には何が渦巻いているのか。そして常日頃から彼女を見るみぞれがどんな思いを抱いているのか。その全てが何一つとして、久美子には分からなかった。

「ねえ久美子」

 麗奈の声にカツリと鼓膜を叩かれ、久美子は我に返る。

「第三楽章の二人のソロ。今ここで、私と合わせてみない?」

 えっ? と久美子は思わず瞠目する。

「別に良いけど、でも何のために?」

「何となく。私たちならどんな『リズ』と『青い鳥』になるかなって、急に確かめたくなって」

「あーでも、先輩達に聴かれたらまずいかも。絶対いい気はしないよ。ホラ、希美先輩だってあそこに居るし」

「構わない。むしろ先輩達に聴かせるぐらいのつもりで吹くから」

「相変わらず強気だなぁ麗奈は。……後でどうなっても知らないよ」

「もしそうなったら、私のせいにでもする?」

「それは無いけど」

 くすり、と笑みをこぼして、それから麗奈はトランペットを構えた。

「私がオーボエのフレーズ吹くから、久美子はフルートの方吹いて。楽譜無いけど、できる?」

「せいぜい頑張ってみます」

 謙遜しながらユーフォを抱き、確認の為に軽く音を鳴らす。休憩を挟んだとは言え、吹き込みの感覚はまだ失せていない。フルートの箇所も多分、自分の耳が覚えている限りでは大丈夫な筈だ。「行けるよ」と頷き合い、それを合図に麗奈はトランペットに息を吹き込んだ。ベルから真っすぐ放たれる彼女の音が場を鋭く貫く。続けて久美子は麗奈を支えるようにユーフォを奏でる。二つの音が足並みを揃え、真夏の空を悠然と飛翔した。音の形。抑揚。そして音色。久美子は耳と心を、ひたすら麗奈へと傾け続けた。麗奈の鳴らす音もまた、自分にぴったりと重なっていた。麗奈に引き出されるがまま。自分が彼女を高めるがまま。そんな音を響かせつつ絡み合うハーモニーに、久美子はしばし陶酔する。一通りを吹き終えた久美子はその姿勢のままで、率直な感想を麗奈に述べた。

「なんか『青い鳥』っていうより、『金色の大鷲』みたいだったね」

「だね」

 などと言いながら互いに顔を見合わせた途端、それがたまらなく滑稽に思えて、久美子たちはつい笑い声を上げてしまう。二人の音も、気持ちも、一つに繋がっているみたい。そんな風に思えるこのひと時がとてつもなく愉快で、心地良かった。

「やっぱり久美子と吹くのって、すごく良い」

 目の縁からこぼれる涙を拭いながら、麗奈はいつぞやと同じことを言う。私もだよ、と笑い掛けながら、久美子はもう一度麗奈の顔を眺めた。こんな麗奈ともっともっと一緒の時を過ごしたい。麗奈の見ている世界を自分も同じところから見ていたい。そんな思いに、久美子の胸は熱く焦がされていた。

 

 

「――それじゃこの後の予定だけど、お風呂の時間はさっき配ったスケジュール表通り学年ごとに決まってるので、時間を守ってサッサと入るようにして下さい。そのあとは食堂に集合して晩ご飯。それが済んだら毎年恒例、外の広場で花火とキャンプファイヤーの時間です。もしお風呂に入りそびれたって人は、消灯前までにこっそり済ませるように」

 午後の合奏も終わり、本日の練習が優子の事務連絡によって締め括られる。一同はすでにクタクタに疲れ果てていた。針の穴に連続で糸を通し続けるような作業をしていると、神経はあっという間にぼろぼろに擦り切れてしまう。それでも苦労の甲斐あって、この一日で全体の音は以前とは比べ物にならないほど飛躍的な向上を遂げていた。自由曲第三楽章の、例の問題を除けば。

「どうしました久美子ちゃん? お風呂に入る時間がなくなっちゃいますよ」

「あ、ごめん。緑ちゃんは先に行ってて」

「分かりました。久美子ちゃんも早く来てくださいね」

「うん。なるべくそうする」

 緑輝の誘いを受け流し、楽器を置いた久美子はまだ席に着いたままのみぞれの元へと歩み寄る。

「みぞれ先輩。お疲れさまです」

 久美子の声掛けに、みぞれはコクリと会釈を返してくれた。

「第三楽章、大変そうですね。やっぱり難しいですか?」

「難しい」

 みぞれにしてはいつになく弱気な発言だ。微かに眉間に皺を寄せた彼女の様子を、久美子は横からそっと窺う。

「どう吹けばいいのか、私には、解らない」

「滝先生も新山先生も、みぞれ先輩は思いっ切り吹いてもいい、って言ってますけど」

「解らない」

 声を落とし、みぞれは首を振った。解らないも何も、この箇所において『思いっ切り』を定義づける権利を有しているのはそれを吹くみぞれ自身だけだ。何が彼女を迷わせているのか、そんな彼女にどう声を掛けていいものか、久美子も考えあぐねてしまう。

「みぞれ」

 その声に、みぞれの耳がふるりと震えた。久美子もまたみぞれの視線の先を向く。そこには希美が立っていた。

「第三楽章のソロなんだけどさ、花火の後ででもいいから、ちょっと合わせてみない? さっき優子に確認したけど、消灯三十分前までは体育館で吹いても大丈夫だって」

「希美、」

「一回みぞれなりに好きに吹いてみようよ、私もそれに合わせるからさ。ね?」

「……いい。吹かない」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ここはみぞれが主役なんだから」

「だって、希美は、」

 何かを訴えたがったみぞれは、けれど上手く言葉を紡げなかったのか、再び押し黙ってしまう。その様子にどうしたものかと、みぞれを持て余した希美がこちらへ苦笑を向けてきた。久美子もそれに曖昧な笑みを返すより他は無い。久美子にとっては正直なところ、今のみぞれと同じくらい、希美もまた読みづらい存在だ。彼女が今どんな思いでいるのか。こないだの件もあって余計に、それを聞き出そうとする事がどうしても憚られてしまう。

「それなら吹かなくてもいいから、せめて話だけでも――」

「希美ちゃん、それとみぞれちゃん」

 希美が何か言い掛けたのを別の声が遮る。先に振り返った希美が、その名を呼んだ。

「あすか先輩」

「二人とも後で、ちょっといい? 話があるから」

 どこからか現れたあすかは真剣な表情で二人に確認の目を向け、みぞれと希美がそれにおずおずと頷いた。この展開に久美子は密かに身構える。あすかはまた希美を責めようというつもりなのだろうか。それとももしかして、今回のターゲットはみぞれか?

「あすか先輩。希美先輩達と、どんな話をするつもりですか」

「どんなって、そりゃあ今回のソロの件に決まってるでしょ」

 それ以外に何があるの、とあざ笑うようにあすかが鼻を鳴らす。それは重々承知の上で、だからこそ久美子の胸は軋まずにおれない。あすかの言葉は時として人をへし折る。ただでさえ調子を崩している今のみぞれに、もしもトドメを刺すようなことにでもなってしまったら。そう思うと気が気ではない。どうにかしてその場に自分も同席することは出来ないものか。何が出来るという訳では無くとも、せめて希美やみぞれへの致命傷を避けるための防波堤にでもなれれば、それでも良かった。

「気持ちは分からなくもないけど、保護者面談じゃあるまいし。それにこういう話は第三者を入れずにする方が良いと思うよ、希美ちゃん達にとっても」

 なだめすかすように、あすかは片手でヒラヒラと久美子をあおぐ。

「まぁそう心配しなさんな。多分これで、私のちょっかいも最後になるから」

「最後?」

「そう。最後」

 いまいち要領を得ない久美子に言い聞かせるように、あすかは同じ言葉を繰り返した。それを受けた久美子は、それまでとはまた別種の不穏さに胸中を掻き乱される。コンクールに向けての練習はまだまだ続く。もし関西を抜ければ三年生の出番は十月末の全国大会までとなるし、それにコンクールとは関係無しに、文化祭での演奏や既に予定された各種イベントへの出演だってある。あすかと過ごせる時間はまだまだ沢山ある筈だ。なのに『最後』とは、それは一体どういう意味なのか?

「それじゃ二人とも、花火も終わる九時頃に研修室集合ってことで。以上、よろしくぅ」

 募る懸念のせいで黙りこくった久美子を放置し、希美たちと一方的に約束を取り付けたあすかは、そのまま颯爽と去ってしまった。

「ホント、あすか先輩はいつでも平常運転って感じだね。ちょっと羨ましいかも」

 腰に手を当てた希美が、感心するように一つ息を吐く。

「あの、希美先輩」

「どうした、久美子ちゃん?」

「その、大丈夫、ですか」

「何が?」

 小首を傾げた希美はいたってケロリとしている。その仕草に嘘やごまかしがあるようには思えない。ともすればあすかとの面談で再び傷を抉られることを彼女は恐れているのでは、とも思ったのだが、それはどうやら杞憂に過ぎなかったようだ。でもだとしたら、先日の希美のあの涙は一体何だったのだろうか。

 それに相対するように、俯くみぞれは無言で目を細めていた。それはまるで、希美に代わって彼女の方があすかに怯えているような、そんな雰囲気でもあった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。