もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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1.始まりのスケルツァンド
〈1〉四月一日


「ビックリした。どうして急に閉めたりするの」

 くぐりかけた戸を突然閉められ、麗奈はすっかり面食らっていた。久美子はそれにぎこちなく振り向くことでしか答えられない。自分はさっき、何を見たのか。それを思い出すことを脳が拒絶している。 

「いや、その、中に」

「中に?」

「音楽室の中に、その、亡霊が――」

 刹那、バーン、と戸からけたたましい音がして、その拍子に久美子は押さえていた戸の引き手を離してしまう。恐らくは()()が内側から戸を叩いたのだろう。ガラガラと目の前の戸が開き、そこに立っている人物を見て、今度は麗奈が度肝を抜かれる番だった。

「あ、あすか先輩?」

「まーったく、酷くない? 先輩を前にして、挨拶も無しにいきなり閉めるなんてさ。おまけに何か悪いものでも見たようなリアクションしてくれちゃって。先輩はそれはもう深ーく傷付いちゃったにゃあ?」

 我が目を疑う、というのは実に、こういう時の為にあるような言葉だろう。人を食ったその態度。ふざけた物言い。からかうような笑み。けれど内に混じる鋭利な怒気。その容貌も、良く見慣れた北宇治の制服姿も、隅々まで綺麗に磨かれた銀色のユーフォを腕に抱くそのさまも、目に映るものは全て間違いなく久美子の良く知る彼女そのものだった。

 田中あすか。この春に北宇治を卒業した、久美子にとって直属の先輩。

 勿論あすかの姿を見間違えよう筈など無い。けれど、本来ならばここに居る筈も無い人物なのだ。そんな彼女がここにこうして在学中と全く変わらぬ姿のままで立っている。驚くなと言われたってそりゃあ無理な話、というものだろう。

「ホントにあすか先輩なんですか?」

「そうだよん」

 久美子の狼狽ぶりを面白がるように、あすかの口角はさらに吊り上がる。

「っていうか、私が『あすか先輩』じゃないなら何だって言うわけ?」

「いや、だってもう四月ですし。先輩、卒業したんじゃ、」

「んー。まあ春休み中だし、どうせ家に居てもやる事無くて暇だったから楽器吹きに来たー、みたいな?」

 絶対嘘だ。理屈抜きに、久美子の直感がそう告げていた。

「まあまあ、細かいことはいいじゃない。どれ折角だし、黄前ちゃんには久々に個人レッスンをつけてあげるとしよう。さっきの落とし前も兼ねてたーっぷりとね」

 くひひ、とたっぷり邪気の籠った笑い声を上げながら、あすかが両手をカマキリのように構える。

「さ、まずは音出し音出し。ってワケだから高坂さん、後で黄前ちゃん借りるね」

「え、あの、はい」

 あの麗奈でさえもこの流れに巻き込まれてすっかりペースを崩している。これだからあすかは恐ろしい。彼女の勢いに背中を押されるようにして、二人は瞬く間に楽器室へと追いやられてしまった。

 

 

 

 

 音出しを終えた久美子がパート練習の場である三年三組に向かうと、そこにはやはりと言うべきか、ユーフォを抱いたあすかが待ち構えていた。

「さー、じゃあまずはコレでも吹いてみようか。今日は黄前ちゃんの弱点、徹底的に炙り出してあげるからね」

「お手柔らかにお願いします」

 何故か妙にやる気満々のあすかに、久美子も精一杯の抵抗としてジト目を返す。そもそも卒業生が新年度の学校に、しかも制服姿で居ることについて、何か一言くらい説明は無いのか? そんな風に辟易としつつも口には出さず、あすかと一緒に簡単なエチュードを吹いていく。

「うん、まあまあ良い感じだね。ちょーっとハイトーンの入りが探り気味なのと、動きの複雑なとこで弱気になるのは相変わらずだけど」

「はあ。ありがとうございます」

「ちょっとー、言葉に実感籠ってないよ」

「いや。っていうかその前にですね……」

「あすか先輩!?」

 ぎょっとして、久美子は教室の戸口を見やる。二人のやり取りを遮るように素っ頓狂な声を響き渡らせたのは、低音パートの一員でありチューバ担当の三年生、(なが)()()()だった。

「おはよー梨子。なに朝っぱらから騒いでんのよ」

 ひょうひょうと片手を挙げて梨子に挨拶したあすかを、久美子は横目で睨む。梨子の心情が今の久美子には手に取るように良く分かる。こんな物理法則を全開で無視した状況を目の当たりにして驚かずにいられる人が居るとしたら、そっちこそどうかしているのだ。それこそ絶叫ぐらいしたところで、ここにあすかが居るという異常事態に比べれば何の不可思議も無い。

「先輩こそ、こんなトコで何やってんですか。入学の準備とかしなくていいんですか」

 遅れて()(とう)(たく)()がのそりと声を挙げる。同じくチューバ担当の三年生である彼は現在、パートリーダーの職を務めている。傍目にはいつも通りに見える彼も内心では動揺しているらしく、その声は普段よりもずっと上ずっていた。

「ええー? 来て下さったんですか先輩! (みどり)、とっても嬉しいです!」

 続けて教室にやって来た緑輝(サファイア)が目をらんらんと輝かせながら、無邪気にもあすかに飛びつく。そんな彼女の興奮ぶりにあすかも満更ではない様子で、緑輝の緩い猫っ毛をグシャグシャと撫で回していた。

 きっと、いいや間違いなく、この後にやって来るであろう()(づき)も彼女たちと同じような反応を示すに違いない。まるで映画の同じシーンを何度も繰り返し流すみたいに。容易に想像できてしまう未来予想図に目眩を覚え、久美子はいつの間にか皺のたかる眉間を指で押さえた。

 

 

「……で、今に至る、と」

「はい……」

 これまでの状況を一通り報告し終えると、やはり度し難いと思ったのか、(なか)(がわ)(なつ)()もまた額に手を当て唸った。

 チラリと彼女が目を遣ったその先では案の定と言うべきか、葉月もやいのやいのと騒ぐ輪の中に加わりあすかの来訪を喜んでいる真っ最中。そんな状況に疲れ果ててしまった久美子は、遅れて登場した夏紀が眼前の光景に何かを言い掛ける前に口を塞いで教室の外へと連れ出し、階段のたもとで彼女に事の次第を説明していたのだった。

「あすか先輩、何考えてんだろ」

「私に分かるわけないですよ」

「だよね」

 苦渋の表情を浮かべた夏紀がバリバリと頭を掻く。その仕草は彼女の身に面倒事や厄介な事態が降りかかった時に良く見られるものだ。伸びた髪を後ろに束ねている夏紀の明るい癖毛が、更に方々へと跳ね広がる。

「下手にあすか先輩をつついたってどうせ何も出てこないだろうし。午後からは合奏だから、それまであすか先輩のペースに合わせておこう」

 夏紀の考えに「ですね」と久美子も同意を示す。あのモードのあすかに構うのは、彼女に都合よくエサを与える行為に等しいと言えそうだ。

「じゃあひとまず優子とスケジュールの打ち合わせしてくるから、久美子ちゃんは先に教室戻ってて」

 また後で、と手を挙げて夏紀は階段を下りていった。それを見送ってから久美子はぼんやりと、あすかの行動について考える。

 暇だから。本当に、そんなしょうもない理由でわざわざ学校にまで来たのだろうか? あのあすかの事だ。どうせいつかの時のように肝心なことを隠したままにしておいて、自分たちにドッキリでも仕掛けようとしているに違いない。

 ドッキリ。そう呟いた途端、久美子の頭上から一つの閃きが舞い降りる。そう言えば今日は何月何日だっけ? そう、四月一日だ。いわゆるエイプリルフール。その日一日だけはどんな嘘をついても良いという、平均的日本人の観点からすればありがたくも何ともない日なのである。

 ひょっとしたらあすかは、今日この日に突然現れて後輩達を驚かすことを、以前から計画していたのではないか?

 彼女の性格ならば有り得なくもない。でもそんな下らないことを本気でするものだろうか、という疑念もまた拭えない。在学中ならばともかく、あすかは厳密に言えばもう北宇治高校とは何ら関わりの無い人間なのだ。制服姿で学校に侵入するなんて、それなりにリスクのある行為だと言える。でもだからこそ、あすかならいざやる時はそこまで完璧にやりそうだという、そんな気もしてしまう。当人にしてみればそれは、ちょっとしたコスプレ程度の感覚なのだろう。

 何にせよ久美子にとって、今日がエイプリルフールであることを思い出せたのは僥倖と言うべきだった。一連の奇行について当人の思惑が何であるにせよ、久美子自身は今日がエイプリルフールなのだから、と割り切って過ごす事が出来る。そのうちにあすかから種明かしがあって『なーんだ』と一同が納得して終わる、そういう筋書きなのかも知れない。

 今は深く考えたって仕方ない。かぶりを振って、久美子は教室へと戻っていった。

 

 

 

 

「それからあすか先輩はどうだったの?」

「分かんない。気づいたら居なくなってた」

「何それ。忍者じゃあるまいし」

「それがホントに久美子の言った通りなんだよ。午後の合奏終わって帰ってきたら、楽器ケースごと煙みたいに消えちゃっててさ」

 帰りの電車が来るのを待つ間、久美子たちはホームのベンチに腰を下ろしながら、朝からすっかり蚊帳の外状態だった麗奈に一通りの報告をしていた。

 あすかについてはさっき話した通りの顛末だ。いつの間に帰ったかも分からず、誰に聞いてもあすかの姿を見た者はいない。使っていた椅子や机も綺麗に整頓されていて、痕跡一つ残すことなく、あすかはまさしく風のごとく去っていたのだった。

「ホント訳分かんない。あすか先輩の場合、頭良いから余計に何考えてるんだかサッパリだよ」

「純粋に、久美子たちのこと心配して来てくれたんじゃないの?」

「あのあすか先輩が? まさか」

 久美子は自信たっぷりに手を振って断言した。あすかに限ってそれは有り得ない話だ。あの人はそこまで後輩煩悩な性格をしていない。それに仮にそうだとしても、制服まで着て学校に来るだなんて、いくら何でもやり過ぎの範疇だろう。

「そう言えばあすか先輩って成績も学年トップだって聞いてたのに、卒業式の答辞はしなかったよね。アレって何でだったんだろ?」

「さあ、知らない。去年色々あって休んでたりしたから、それで他の人が選ばれたとかじゃない?」

 ふと思いついたような葉月の疑問に麗奈が見解を述べる。それは久美子も卒業式の当日に思った事だった。

 あすかの成績がいかに優秀であったかは、あすかと同学年であり久美子の幼なじみでもある(さい)(とう)(あおい)からもそれとなく聞かされたことがあった。だからこそ、首席卒業者が務めるという答辞の役目もてっきりあすかがするものだとばかり思っていた。それなのに壇上に上がったのは見知らぬ上級生で、そのことに少々意表を突かれたのは未だ記憶に新しいところである。まさか本人に直接尋ねるわけにもいかず、結局は久美子も、今しがたの麗奈と同じように結論付けるより他は無かったのだった。

「まあ、先輩の場合は首席とか何とかなんて関係ないか。第一志望の大学にもアッサリ一発合格しちゃったって言うし。偏差値ちょー高いトコなのに、凄いよね」

「そりゃあ、あすか先輩だからね」

 苦笑しつつ、久美子はしみじみとその事実を噛み締める。そう、やはりあすかは流石の傑物と言うべき人物だ。地頭の良さは勿論のこと、彼女自身が本当にやりたかった事をやるために弛まず努力し続けていた、という意味においても。

「けどあすか先輩が来てくれたお陰で、今日はすごく良い練習が出来ました! 緑、とーっても嬉しかったです」

「私も、今日はあすか先輩に直々に教えてもらっちゃった。『加トちゃん、随分上手くなったね』って褒められたし」

「あすか先輩が?」

「うん!」

 溌溂として頷いた葉月の短髪が爽やかに跳ねる。それに対して、麗奈はあいまいに困惑の表情を浮かべていた。無理もない。直属の先輩でなかったとは言え、麗奈も昨年のあすかの事を知らないわけではないし、あすかに関して度々言及もしていたのだから。さらにはあすかがコンクール組ではない者、つまりは葉月や夏紀らの指導にはさほど乗り気でなかったことも、久美子は麗奈に教えてあった。あすかのそういう姿があくまで彼女の一側面にしか過ぎないことは、久美子にとっては既知のものではあるのだけれど。

「明日も先輩来てくれないかなー。そしたら私、バリバリ練習がんばれる気がする」

「どうかな。大学の入学準備だってあるだろうし、流石に明日からはもう来れないんじゃない? あすか先輩の大学、いつ入学式なのか知らないけど」

「またそんな事言うー」

 久美子の冷めた物言いを咎めるように、葉月は唇を尖らせた。

「だってあすか先輩、もう卒業してるんだよ? 普通に考えてさ、本当は居るはずない人じゃん」

「なにさー。私は明日も来てくれたら嬉しい、って思ってるよ?」

「そりゃああすか先輩が居てくれた方が、練習もはかどるような気はするけど」

「久美子ちゃんはあすか先輩が来てくれて、嬉しくなかったですか?」

 ストレートな緑輝の問い掛け。それに答えようとした久美子の喉に、がつりと言葉がつっかえる。

「私は、」

 嬉しくなかった、わけがない。けれどそれ以上に、朝から意味不明な行動に付き合わされてクタクタだ、という気持ちもある。その二つはぐるぐると渦を描いて久美子の中で切り分けられなくなっていた。でもそんな事よりももっとおかしい事があるというか、どこか引っかかるものがあるというか。

「何か、ヘンな感じがする」

 そう呟いてはみたものの、これ以上うまく考えをまとめることが出来ない。突然現れたあすかの突飛な行動。不遜な態度。赤縁の眼鏡。学校指定の制服。紺色のスカーフ。色の濃いタイツ。それらの内側に丹念に織り隠された、ほんの僅かな違和感。か細い糸のようなその感触を指先で手繰ろうとしても、糸はするすると踊るように逃げ、闇の中に埋もれてしまう。

 何かおかしい。けれどそのおかしさの正体に、辿り着けない。

 俯く久美子にどう声をかけていいものかと迷ったのか、葉月達も押し黙ってしまった。そのうちに下り電車の近付くアナウンスが聞こえて来て、ひとまず今日はここで解散、という事になった。

 

 

「ただいまー」

 のそりと這うような声で帰宅を告げると、キッチンでは母が既に夕食の支度を始めていた。

「お帰り。どうだった?」

「んー、普通」

「そう」

 いつも通りのやり取りを交わし、久美子は冷蔵庫からパック牛乳を取り出す。中身を空のグラスに注ぐと、透明なグラスはあっという間に白い液体で満たされていった。底面にどんな像を映し出していたのか、それを見ることはもう叶わない。

「お母さんさあ、卒業した学校の部活に顔出したことってある?」

「急に何の話?」

「だから、お母さんが学生の時。卒業した後で部活の後輩に会いに行ったりとか」

 そうねえ、と頬に手を当てた母親が昔を思い出しているうちに、久美子は手に持ったグラスをぐいと傾けた。きんきんに冷えた牛乳が体の中を一気に下っていき、胃の中で存在感を主張している。この勢いで一気に飲み干したらお腹を壊してしまいそうだ。そう思いつつ口に含んだ液体を、今度は少し噛むように味わってから嚥下する。

「あんまり思い出無いけど、後輩の大会の時ぐらいは、応援に行ったこともあったような」

「例えば卒業した年の四月一日に、いきなり後輩のところに行ったりとかは?」

「流石にそんな事しないわよ」

「だよねえ」

 当たり前の答えが返ってきたことに、久美子はこっそり安堵する。これで『行ったけどどうして?』なんて言われたら、逆にこっちが母親の常識を疑うところだった。かく言う自分とて、高校入学の直前に中学の吹部へ顔出しをした覚えなんて無い。その時期はたいてい入学の準備で何かと慌ただしかったりもするし、そもそもいかに母校と言えども年度を跨げば部外者となってしまう身の上。そういうのは遅くとも三月のうちまでに済ませておくのが卒業生としての正常な振る舞い、というものである。

「急にそんなこと言い出したりして、どうかしたの?」

「なんでもない。ちょっとご飯まで部屋行ってる」

「すぐだから早く来なさいよ」

 んー、と生返事をしながら空になったグラスを流しへ置き、久美子は自室へと向かった。

 扉を開けると嗅ぎ慣れた匂いが自分を出迎えてくれて、心が少し安らぐ。この現象に何か名前がついていたりはするのだろうか? などと考えつつベッドの脇に鞄を置いて制服を脱ぎ、それから鏡に写った自分の身体をまじまじと眺める。恨めしいことに、どこを取っても去年からさほど変化があるようには見られない。いや、身体測定の日まではまだ分からない。麗奈だって一年ごとにどんどんサイズを更新しているのだ。高校生活はあと二年もある。自分だって、もしかしたら。

 そんな妄想をしていたところに、ピリリ、と携帯電話の着信音が鳴り響いた。鞄から携帯電話を取り出し、画面のロックを解除する。(つか)(もと)(しゅう)(いち)。液晶画面に表示されたその名前を確認しつつ、さっそく応答の操作をして久美子は携帯を耳にあてがう。

「もしもし」

『もしもし、ああ俺だけど。今日トロンボーンパートでも噂になってたぞ』

「ああ、あすか先輩のこと?」

『おう。何で田中先輩が制服姿でって、ちょっとした騒ぎだった。一体何があったんだ?』

「知らないよ。むしろこっちが聞きたいぐらい」

 電話口に向けて本心を吐きつつ、久美子はベッドの縁へと腰を下ろす。ぼふり、と肌を包む感触に、少し火照った体の熱が吸われていく。

『あの田中先輩だからな、ワケ分かんなくて当然か。それで先輩、合奏の後も居たのか?』

「ううん、いつの間にか帰ってたみたい。帰るとこ誰も見てないって。秀一も?」

『少なくとも俺は見てないな。まあ合奏中に帰ったんなら、俺ら吹部の連中は見てなくて当然だろうけど』

 やはりそうか、と久美子は喉を鳴らす。最後にあすかを見たのは午後の練習が始まる直前。親指を立てるあすかに『私はここで吹いていくから皆はいってらっしゃい。グッドラック!』と威勢よく見送られたのが最後だ。まだ午後も早い時間だったし、恐らくはそのままお昼でも食べるついでにどこかへ行ったに違いない。

「実は私、あすか先輩がエイプリルフールのために学校来たんじゃないか、って疑ってて」

『エイプリルフール?』

「うん。今日四月一日だったし、もしかしたらあすか先輩流のジョークだったんじゃないかな」

『有り得るのかそんな事? いやでも、あの人なら有り得るのか。やっぱ良く分かんねえ人だな』

 だよねえ、と嘆息交じりに返しつつ、久美子は空いていた手で自分の肩をさする。四月になったとは言え、日が落ちればぐっと冷え込みが帰ってくる。暖房もつけていない室内の気温はまだまだ肌寒かった。

「ところで私、着替え中だったんだけど」

『あん? それももしかしてエイプリルフール?』

「ばか。早く着替えないと風邪引きそう」

 げ、と電話口から秀一の呻き声が聞こえてくる。

『そりゃ悪かった。また今度電話するわ、じゃな』

 最後は足早にそう告げて、秀一は通話を切った。画面を閉じて携帯をベッドの上へ放り出し、おもむろに立ち上がる。収納棚を開けて着替えを取り出す久美子の脳裏には今も、あすかに対する疑念がべっとりとへばりついたままだ。

 誰に聞いてもあすかの意図は判然としない。エイプリルフールのつもりだったと言うのなら、種明かしもなく帰ってしまったのもそれはそれで気になる。そして誰の口からも出る言葉は『あすかだから』。そう、結局あすかの考えていることは、久美子にはサッパリ分からないのだった。

 分からない事をいつまでも考えるから余計に頭がこんがらがる。もしかしたら種明かしは四月一日の終わった明日、改めてやるつもりなのかも知れない。いや、そう思わせておいて種明かしをしない、という可能性すらあるだろう。であればあすかの動機を考えるこの時間も丸々無駄になってしまいかねず、それこそが彼女の思うツボであるのかも知れない。果たしてどちらが正解なのか、この時の久美子には判断することが出来なかった。

『あすか先輩が来てくれて、嬉しくなかったですか?』

 先程の緑輝の言葉が再び脳裏に響く。――潔く認めよう。内心嬉しかったのは事実だ。またあすかと会えて、あすかの声が聞けて、あすかの音と一緒に過ごすことが出来たのだ。嬉しくない筈が無かった。けれどこうして彼女の訳の分からない行動に振り回され続けるのも、それはそれで癪だ。

 もうやめにしよう。そう考え直したところでちょうど「ご飯出来てるわよ!」とドアの向こうから母の大きな声がした。今行くー、と気だるく返事をして、久美子は自室のドアを開けた。

 

 

 

 翌日。いつも通り麗奈と二人で登校し、いつも通り職員室へ寄る。いつも通り顧問の(たき)に挨拶をして、部室の鍵の在処を訊ねる。

 早朝はいつも一学年先輩のみぞれと(のぞ)()が先に来て鍵を開けていてくれる。ならば久美子たちがわざわざ職員室に向かう必要も無いわけなのだが、そうする事は久美子はともかく、滝を『ラブの方で』慕っている麗奈にとってはとても重要な日課なのだ。そんな麗奈の恋する乙女ぶりは実にいじらしい。彼女の日課に久美子がわざわざ同行するのは、麗奈の可愛いところをつぶさに観察しておきたい、という一抹の嗜虐心を含んだ密やかな喜びの為でもあった。

 そして日課を済ませた後、二人はこれまたいつも通り部室へと向かう。

「はよございます」

 音楽室の戸を開け、久美子は挨拶をした。ぴたりと動きを止めたかのような空気の中で、美しく伸びやかなオーボエの音色だけが坦々と響いている。これも日常通りみぞれが基礎練習を行っている、その音だ。

 音楽において基礎は大事、とは口酸っぱく言われる事なのだが、それにしたってみぞれはいつも膨大な量の基礎練習を事も無げにこなしている。少しは飽きるという気持ちを抱かないものなのだろうか、と内心思うこともあるのだけれど、当のみぞれにそんな気配は微塵も無く、まるで全自動の機械が定刻通りにそうするかのように全く同じ練習を日々重ね続けていた。その蓄積こそがみぞれの有する高い演奏技術へと繋がっていることは、言うまでもない。

「おはよう」

 こちらに気付いたみぞれが演奏の手を止め挨拶をしてきた。初対面の時と比べて、近頃の彼女の対人コミュニケーション力はかなり高まったものだ、と久美子は思っている。もっともそれを感じられるのは部内でも、自分を含めたごく少数だけなのかも知れないけれど。

「おはようございます」

 麗奈はみぞれに丁寧に挨拶を返し、それから自分の席へと向かった。久美子はその場に立ったまま室内をぐるりと眺める。当然と言うべきか何と言うべきか、あすかの姿はどこにも見当たらない。

「あすか先輩なら、今日はいない」

 さえずるようにみぞれは呟く。よくよく考えれば、昨日あすかと部室前でやんやと騒いでいた時、きっとみぞれもいつも通りここに居た筈だ。久美子の視線から誰を探しているのか、流石の彼女にも解ったのだろう。

「そうですか」

 噛み締めるようにそう言い、久美子は鞄を自分の席に置く。みぞれも自分の練習に戻り、オーボエの調べが再び部室を染め上げていった。それを背に受けながら楽器室へと向かい、おもむろに低音パートの棚へ目を遣る。自分のユーフォが収められた黒いケース。その隣にぽっかりと空いたケース一つ分の空間。その光景は何故だか、今の自分の胸中に似ている気がした。

 ひょっとしたら今日もこの戸を開けた時、そこにあすかが居るのではないかと、知らず知らずのうちに期待していたのかも知れない。それが裏切られたことに、自分は密かに落胆したのだろうか。昨日まではあんなに心を搔き乱された筈なのに、今はその相手が居ないことを認めるだけで、寂しい。それは初めて経験する感覚で、けれどもそれをどう捉えていいのか分からない、という不気味な戸惑いを同時に孕んでいた。

 あすかの事が分からない。

 いつぞや呟いたあの頃の心境が、もう一度この身に舞い戻ってくるような気がした。そうこうしているうちに何処からかひょっこりとあすかが姿を現して、何もかも一日限りのドッキリだったと明かされて『なーんだ』と胸を撫で下ろすことになる。そうあって欲しいという淡い期待を、久美子は未だ捨てきれずにも居た。

 

 

 

 結局その日、あすかが学校に姿を現すことは、無かった。

 

 

 

 

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