噎せ返る硝煙のにおい。暗闇に飛び出す色とりどりの
夕食も済み、部員達は広場の真ん中に焚かれた大きな火の周りに集まり、それぞれ花火に興じている。奏と梨々花が一緒に手持ち花火をしていたり。秀一が同じ男子部員である
そのうちの一つ、フルートパートの輪の中では、地面に置かれた筒花火の導火線にライターを近付ける希美の姿があった。漆黒の中をふらふらと揺れ動く小さな灯。やがてパチパチと弾ける火花が筒から立ち昇り、眼鏡をかけた一年生の女子が悲鳴を上げるさまを見て、希美が他の後輩と一緒になってけらけらと笑い声を上げる。そこからやや離れたところにはみぞれが一人ポツンと座り込んでいて、自分をよそに盛り上がる希美の事を少し寂しげに見つめているみたいだった。
「久美子は、花火やらないの?」
頭上から声を注がれ、久美子は顔を上げる。そこには麗奈がいた。彼女の手に今回、花火は握られていなかった。
「私は、今年はいいかな」
「そう。せっかくだから楽しめばいいのに」
麗奈はそう言うが、今のこの心境ではとても花火になど熱中できそうに無い。その内訳を麗奈に説明するのも躊躇われたため、久美子は愛想笑いをして答えをはぐらかす。怪訝そうに目を瞠った麗奈はしかしそれ以上何も質そうとはせず、そっと久美子の隣に腰を下ろした。
「麗奈こそ楽しんで来たら? 今なら滝先生と一緒に花火できるかもよ」
「できたらそうしたいけど、先生達さっきからずっとあんな風に固まってるから。流石にあそこには混ざれない」
麗奈が少し寂しげに滝のいるところを指差す。そこでは橋本、新山、そしてあすかが膝を突き合わせ、難しい顔をして何やら話し込んでいた。きっと明日からの練習方針について彼らは今も議論を交わしているのだろう。時折部員らに目を向け危ない事があれば声掛けをする滝の姿は、そうしていればいかにも生徒思いの優しい顧問、といった按配だった。
「久美子は、何考えてるの」
「んー。昼間の話、かな」
「みぞれ先輩と希美先輩のこと?」
「うん。何とかならないかなって」
「私もどうにか出来ればって思ったけど、難しい。何か、打開のキッカケでもあればいいんだけど」
「キッカケ、かぁ」
それは恐らくこの後にある。あすかが動く以上、何も起こらずに済む筈は無いのだから。けれどそのことを麗奈に言うわけにはいかなかった。言ったところでどうしようもなく、また必ずしもキッカケになりうるという保証も無い以上、何かが変わると今ここで断言できる訳でもないからだ。
「高坂せんぱーい! 先輩もこっち来て一緒に打ち上げ花火やりましょうよー、爆裂三段昇り龍変化!」
向こうから麗奈を呼ぶ声。そこではトランペットの後輩たちがわいわいと打ち上げ花火の筒を囲んでいた。やれやれと言いたげに、麗奈はおもむろに腰を上げる。
「行かなくちゃ」
「先輩は大変だねえ」
「久美子だって先輩のくせに」
苦笑しながら「また後で」と手を振って、麗奈が後輩の輪の中へ戻っていく。それを見送ってから、髪の毛に沁み込もうとする煙を避けるようにして、久美子もまた立ち上がった。
「あれ、夢ちゃん?」
「あ、黄前先輩」
施設の中へ戻ると、食堂前の談話スペースには夢の姿があった。どこか呆けたような表情をした彼女の座る卓上には青いラベルのスポーツドリンクが置かれている。びっしりと水滴をまとったボトルの様子を見るに、どうやら彼女は長いことここで過ごしていたようだった。
「どうしたんですか? まだ花火の時間ですよね」
「あー、なんとなくノド渇いちゃって。そういう夢ちゃんの方こそ何してるの、こんなところで」
久美子が逆に尋ね返すと、夢は実に落ち込んだ様子でさめざめと青白い息を吐いた。
「情けない話ですけど、さっきお風呂に浸かってて、湯あたりしちゃって」
「湯あたり、って大丈夫? ここにいて平気なの?」
「さっきまで横になって休んでまして、今はだいぶ良くなりました。吉川部長と中川先輩にもずっと付きっきりで看病していただいて。こんなとこでも先輩方にご迷惑をお掛けしちゃって私、本当にどうしようもないです」
「あたっちゃったんなら仕方ないよ、大浴場のお湯ってけっこう熱いもんね。それで、晩ご飯はちゃんと食べた?」
「はい、ついさっき先輩方と、食堂で済ませてきたところです」
「なら良かった。あんまり無理しちゃダメだよ」
道理で夕食の席から花火の場までずっと、夏紀と優子の姿を見かけなかったわけだ。久美子は密かに得心する。三年生の入浴の順番が一番最後だったことを考えると、彼女たちは夢と共に食事をした後、今頃は二人仲良くお風呂にでも入っているのかも知れない。もっともあの二人のやり取りは、傍目には決して仲良さげに見えないだろうけれど。
「まだ花火やってるから、体調良くなったんなら夢ちゃんもそっち行ってみたら? なんか麗奈たちもすごい派手な打ち上げ花火やってるみたいだったし」
「あぁー……見に行きたいのはやまやまですけど、今日はこのまま安静に、ですかね。明日の練習に響いてもまずいですし」
えへ、と夢がはにかむ。それを見てふとあることに気が付き、久美子はじっと夢の表情を見つめた。
「ど、どうしたんですか先輩? 私どこか変ですか?」
落ち着かない様子で、夢が自分の頬やおでこをぺたぺたと探り出す。
「夢ちゃん、なんだか変わったね」
「え? いや、その、分かんないですけど」
「ううん変わった。何て言うかちょっとだけ、前向きになった感じがする」
「うぇ、や、やめて下さいよぅ。先輩がお世辞言ってるだけだって、分かってますから」
「いやお世辞とかじゃなくて、ホントに」
「……本当ですか?」
顔を目いっぱい紅潮させた夢に、久美子はしっかりと首肯を示してみせる。ひゃー、と夢は今にも頭から煙を上げそうになっていた。
「あー、ヤバい。先輩がヘンなこと仰るせいで、もう一回湯あたりしちゃいそうですよぉ」
「お風呂に入ってないのに湯あたりって、それもヘンな話だと思うけど」
夢の言い分が妙におかしくて、久美子はクツクツと喉を鳴らしてしまう。あれから夢がトランペットパートでどう過ごし、そして今日までを歩んできたのか。それはわざわざ聞き出すまでもなく、今の彼女を見ていればきっと順調なのだろうと、そう思うことが出来た。少し気まずそうにスポーツドリンクのボトルを手に取った夢が、中身を喉へと流し込む。ボトルにまとわりつく結露は彼女が流してきたであろう沢山の感情と同じように、とぷりとテーブルの上へ跡を残していた。
「それじゃ、私はそろそろ部屋に行くね」
「あれ? 先輩、ジュース買いに来たんじゃなかったんですか?」
夢が不思議そうな顔をする。ジュースの自動販売機が設置されてある大浴場前の廊下と、久美子が向かおうとした先とは、まるであさっての方角だった。
「あ、いやその、お財布がね。部屋に忘れてきちゃって」
「あぁそっか。ヘンなとこ突っ込んじゃってすいません。ホント私ってばポンコツで」
「いやいや、気にしなくていいから。じゃあ夢ちゃん、くれぐれもお大事に」
「はい。お気遣いありがとうございます」
まだまだ自虐癖は抜け切らないようだったけれど、この調子ならそれもいつかは時間が解決してくれるだろう。そう思いつつ夢と別れ、久美子は談話スペースを後にする。それはもちろん財布を取りに戻る為などではなかった。
手元の腕時計へと視線を落とす。八時四十五分。そろそろ花火もお開きになってみんな戻ってくる頃だ。これから消灯までの間は自由時間となる。体育館で楽器を吹くか、割り当てられた部屋で宿題やゲームをするか、明日の練習に向けてミーティングを詰めるか等、過ごし方は人によりけりだろう。そしてその間、他の誰にも知られぬところで、あすかは希美やみぞれと面談を行う。彼女達はそこでどんな話をするつもりなのか。久美子にはどうしても、それが気掛かりだった。
ホールから階段を上って二階へと至り、研修室へと辿り着く。扉を開けて中にするりと滑り込み、久美子は月明かりの差し込む真っ暗な室内を一瞥した。保安上の理由から、部員達の楽器や楽譜はパーカッションなど大きなものを除き、夜間は各々の部屋で保管することになっている。従って、消灯ぎりぎりまで楽器を吹きたい人達もわざわざここに来ることは無いだろう。もう一度辺りを見渡して、それから久美子はある物へと視線を定めた。
木製の講演台。普段は名前通りの使われ方をしているであろうそれは、今は練習の邪魔にならないよう壁掛け時計の真下辺りに置かれている。近付いて台を少し動かしてみると、内側は事前の推測通りがらんどうになっていた。ポケットの中に携帯が入っていないことを今一度確認し、久美子は腹を括るようにその場で深呼吸をする。こういう方法はあまり気乗りしないが、正面切って同席できない以上は仕方ない。部屋の前に突っ立って盗み聞きするのも人目につくし、もしもバレたらその場で一発退場となってしまうだろう。そう、これは仕方のないことなんだ。そんな風に自分の胸に言い聞かせ、最後の決心をした久美子は、頭の中で練っていた計画を実行に移した。
講演台を持ち上げて一旦窓際に近いところへと運び、その下に潜り込んで内側から台を引っ張り壁際へと寄せる。中の空洞はお世辞にも広いとは言えないが、これならパッと見にはこの部屋には誰も居ないと、誰もが思うに違いない。先日の反省も活かし、しっかりと自分の足を抱え込むようにしてコンパクトに屈めた身体を固定する。物音一つしない真っ暗闇の中、自由曲のメロディを口ずさんだりして心細さをどうにか誤魔化しながら、久美子はただじっとその時が来るのを待った。
やがて、こちらへ近づいてくる一人分の足音が聞こえた。扉を開け、パチンとスイッチを入れる音。それと共に暗闇の隙間から光がこぼれ来る。中に入ってきた誰かが部屋の明かりを点けたのだ。それから少しして、今度は二人分の足音。同じように扉を開けて「遅くなりました」と告げたその声は、希美のものだった。
「全然待ってないよん。さ、そこに座って。みぞれちゃんも」
「はい」
希美が返事をして程なく、二人分の気配が久美子の潜伏する講演台のすぐ背後を通り過ぎていく。物音などから察するに、希美達は指揮台の正面辺りに着座したのだろう。その付近にあすかも自分の席を設けたらしく、ギシリと椅子の軋む音が聞こえてきた。三人のいる場所はここからそう遠くない。息一つさえも洩らすまいと、久美子は閉じた唇にきゅっと力を込める。
「ダラダラ話しててもしょうがないし、スパッと本題に行っちゃうね」
実にあすからしくサバサバした物言いで、三人の秘密会談は口火を切った。
「ここに来てもらったのはズバリ、二人のソロの件について。二人とも、原因は分かってる?」
「はい」
そこで返事をしたのは、またも希美だけだった。みぞれは黙しているだけなのか、それとも首を縦か横に振るぐらいはしたのか、どっちだろう。暗闇の中の久美子に与えられる情報は音ばかりで、そこから窺えない情報については知り得る由も無い。
「希美ちゃんには前にちょっと話したんだけど、私は二人のソロが噛み合ってない原因が希美ちゃんにあると思ってた。希美ちゃんが自分の音を主張し過ぎるせいで、みぞれちゃんの演奏にどうしても合わせ切れてなかったこと。そして、みぞれちゃんが希美ちゃんに合わせようとしてばっかりなせいで、自分の演奏を縮こまらせちゃってること。だから私は、ここを何とかするつもりで希美ちゃんに色々言ったんだけど」
そこで言葉を区切るように、あすかは一度息を継ぐ。
「結論から言うと、私の見立てはちょっと的外れだった。希美ちゃんはあれからずいぶん改善してくれたけど、みぞれちゃんの方が全然変わらないままで、結果的に合奏もイマイチの状況だからね。だからまずは、それを希美ちゃんに謝っとこうと思って」
「そんな事ありません、あすか先輩」
希美が慌てたように声を上げる。
「私、先輩に感謝してるんです。あの時先輩に言ってもらわなかったら、私バカなんで、きっと今でも気付かないままだったと思います。先輩のあの言葉で目が覚めました」
「そんな風に思わなくていいから。あの時は私、希美ちゃんにキツく言い過ぎた。ごめんね希美ちゃん」
「頭上げてください先輩。本当に私、気にしてないです」
あのあすかが希美に頭を下げている光景。それが久美子にはどうにも思い浮かばない。実際にそれをこの目で見てみたかったけれど、こうして彼女達の秘密会談を盗み聞きしている以上、とてもそれが許されるような状況では無かった。
「先輩には去年も一昨年もメチャクチャ迷惑掛けちゃって。なんとか先輩に恩返ししたいって、私、ずっと思ってたんです。だから今年はその最後のチャンスだなって。それに先輩に言われて気持ちを切り替えてからは、何となく自分のやる事も見えてきたような気がしてて。コンクールだけじゃなくて、これから先のことも。それも全部あすか先輩のお陰だって私、思ってます」
希美の声が震える。ややあって、あすかが身を動かす気配があった。
「……そこまで言ってもらえると、先輩冥利に尽きるね」
その声色に潜む微かな自嘲。額面通りではない言葉の奥に隠された真意を知るのはきっと、この場では久美子だけだろう。
「じゃあ話を戻してソロの件だけど、どうしてみぞれちゃんはいつまでも希美ちゃんに合わせようとしてるの?」
話の矛先が、今度はみぞれへと向かう。彼女は暫くあすかに返答をしなかった。
「そんなに希美ちゃんのこと、信頼できない?」
「違います」
みぞれのか細い、けれど切り詰めた断片のように鋭い声が、研修室に沁み渡る。こうして講演台の陰に隠れていても、彼女の声はハッキリと久美子の耳にまで届いた。
「じゃあ何でなの? みぞれちゃんなら自分なりの演奏をするのはそんなに難しい話じゃないハズ。なのにそれがどうしても出来ないっていうのは、何で?」
「……解らない、から」
みぞれの苦しそうな呻きを、解らない? と訝しむような声色で希美が復唱した。
「リズの気持ちが、解らないから。ひとりぼっちだったリズが、青い鳥と楽しい日々を過ごして、ずっとずっと一緒だと思ってて。それなのに、最後は自分の手で青い鳥を逃がすリズの気持ちが、どうしても解らない。……だからどう吹けばいいのか、私には解らない」
「だから私の演奏に合わせて吹いてる、ってこと?」
希美のその質問への答えは、いつまで経っても聞こえては来なかった。ただみぞれの首が小さく動くような空気を感じたのは、果たして自分の錯覚だったのか。たどたどしい言葉遣いで、けれど必死に吐き出されたみぞれの本音に、久美子は愕然としていた。リズの気持ちが解らない。本当にそんなことが原因で、みぞれは自分の音を己の殻の内に閉じ込めていたというのだろうか。
けれどそれならば、希美に合わせようとばかりしていたのも頷ける。みぞれが一緒に居たいと願う相手、その人物を、彼女が自ら手放せるわけがない。だってその人物は既に一度、みぞれの元から離れてしまったことがあるのだから。その時の痛みや苦しみ、そして悲しみを、多分みぞれは今でも忘れられず一人で抱え込んでしまっている筈だから。
「なぁるほど、こりゃあ重症だ」
ぼりぼり、とあすかは眉間かどこかを掻いたらしい。同時に誰かが固唾を呑むような、そんな音も聞こえた気がした。
「みぞれちゃんが何をどう捉えてるかはこの際触れないでおくけど、ちょっとヘンな方向に感情移入し過ぎちゃってるね。曲の元になった物語をイメージして演奏するのは悪いことじゃないけど、流石にそれは囚われ過ぎ。まぁ私がそんなこと言ったって、当のみぞれちゃんにもどうにもならないんだろうけど」
「……すみません」
「謝るようなことじゃないよ。けどみぞれちゃんの考えがどうであれ、少なくとも今は希美ちゃんがみぞれちゃんに合わせて吹いてくれてる。みぞれちゃんが本気を出したらその分だけ、希美ちゃんもついていこうとすると思うよ。それを信じてあげることは、みぞれちゃんにはどうしても出来ない?」
あすかが柔らかく問うても、みぞれはなかなか返事を寄越さなかった。答えに悩んでいるのか、それともこの場では言えない答えなのか。無言の時間がじりじりと、その場にいる者たちを燻らせる。
「分かった。それじゃ今からちょっと、二人で話しといで」
「話、ですか?」
「そう。何でもいい、中学校の頃の思い出話とか、最近の話題とか、出来ればこの件以外のことを何でも。今の二人に必要なのは楽器を吹いて合わせることじゃなくて多分、そういう時間を持つこと。これからはそんな時間もじっくり取れないだろうし、今のうちだと思ってどっかで話して来なさい。それが終わったら、あとは真っすぐ自分たちの部屋に戻っていいから」
「でも、」
「言っとくけど、私は初めからソロの問題を解決してあげるつもりで二人をここに呼んだんじゃないからね」
きっぱりとあすかは言い切る。そのあまりの歯切れの良さに、久美子は自分でも気付かぬうちに歯を食いしばっていた。
「私に出来るのは問題点を洗い出すところまで。解決するのはあくまでみぞれちゃんと希美ちゃんが自分自身でやらなくちゃいけないことだよ。冷たいことを言うようだけど、こればっかりは他人が解決してくれるようなものじゃないから」
そう告げたあすかの声に続けて、椅子を引きずる音が聞こえる。恐らくはあすかが立ち上がり、二人に退室を促しているのだろう。
「すぐに解決はしないかもだけど、どっちも相手に言いたいことの一つや二つぐらい、きっとあるでしょ。それを全部話してスッキリしてくること。これが私から二人への、最後のアドバイス」
「……はい。ありがとうございます」
殊勝な声で、希美が感謝の意を告げる。
「お礼なんていいって。ホラホラ、後は若い二人にお任せするから、行った行った」
扉を開け、失礼しました、と希美達が研修室を出ていく物音。それを見送ったかのような無音が暫く続いた後、「さてと」と一息ついたあすかの足音が何故かこちらに近付いてきた。まさか。嫌な予感が警鐘に切り替わるよりも早く、久美子を覆っていた漆黒がガタガタと、音を立てて取り除かれていく。
「黄前ちゃん見ーっけ」
「あすか、先輩」
急な眩しさに幻惑され、目をすがめつつ睨んだその先には、悪戯っ子を見咎めた親のように口角を吊り上げるあすかの顔があった。バレてしまっては仕方ない。怒られることを半ば覚悟しつつ、久美子はのそのそと立ち上がる。
「なんで私がここに隠れてるって分かったんですか?」
「そりゃあ分かるよ。花火の途中から黄前ちゃんの姿が見えなかったし、それでここに来てみたら講演台の位置が昼間と違ってたからね。コレ、元々はそっちにあったやつでしょ?」
さも当然のようにあすかがその位置を指し示す。何故この人は、合奏に何の関わりも無い講演台の置き場所などをいちいち記憶しているのだろう。開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだ。
「黄前ちゃんも、まだまだ詰めが甘いね」
「そんなことに気付けるあすか先輩の方がおかしいんですって」
「褒め言葉と受け取っておきましょう」
あすかは得意げな顔で久美子のボヤきをいなす。明日の練習に差し支えの無いように、と講演台を元の場所に運んで疲労混じりの嘆息を吐き、それから久美子は振り返った。
「怒ってないんですか? 私がここで盗み聞きしてたこと」
「別に? ああいう風に言っとけば黄前ちゃんの場合、意地でも聞き出そうとするかなーって思ってたし」
「そういうトコだけは信用されてるんですね、私」
「それに私にしてみれば、他の誰に聞かれようが、話の邪魔さえされなければそれで良かったしね」
立ち話も何だしそこ座りなよ、とあすかは合奏形態に並べられた椅子の一角を示した。そこは奇しくも、あるいは狙ってなのか、希美の座る第一フルートの席だった。どうも、と一礼して久美子は腰を下ろす。そこはまだ微かに人肌のぬくもりが残っているみたいだった。あすかが指揮台上の椅子に座り、ちょうど真正面の久美子と相対する形となる。
「さっきみぞれ先輩が言ってたリズの解釈の話ですけど、あれってどう見ても、みぞれ先輩自身と希美先輩のことですよね」
「だろうね」
「どうしてそのことを、二人に言ってあげなかったんですか?」
「あそこで私がそんなこと言ったらどうなるか、黄前ちゃんにだって分かってるでしょ」
「そりゃあ、分かりますけど」
仏頂面で答える久美子に、くすくす、とあすかは乾いた冷笑をこぼす。
「希美ちゃんはね、あれで結構、みぞれちゃんに黙って部活を辞めちゃったことを気に病んでるんだよ。みぞれちゃんに申し訳ないと思ってるっていうよりかは、希美ちゃん自身の問題でね」
「希美先輩自身の?」
「そう。そしてそのことに、希美ちゃんはもうだいぶ気が付き始めてる」
あすかの言っていることが、分かるようで分からない。首を傾げる久美子を置き去りにして、あすかは更に話を続けた。
「去年の今頃は多分、希美ちゃんもほぼ無自覚だっただろうね。でも傍から見てて何となく気付く子も居たと思う。特に優子ちゃんとか夏紀あたりはそれなりに分かってるんじゃないかな。黄前ちゃんも何かしら、思い当たるところがあるんじゃない?」
あるには、ある。その瞬間、鼻先をプールの消毒液のにおいが掠めるような、そんな錯覚があった。あの時あの場所で希美の態度から読み取ったもの。何の根拠も無い、ただの憶測にしか過ぎなかった筈のそれは、彼女とみぞれの関係が修復したことによって久美子の頭からは一旦きれいに削除されていた。にも関わらず、この憶測はあの日の消毒液の香りごと、自分のどこかでひっそりと息づいていたのかも知れない。
「ある、って顔してるね。多分それ間違ってないから」
「本当なんですか。そんなのって、」
「さあ。もしもこの世に神様なんてモンが居るんだとしたら、そういう存在には答えがハッキリ解ってるのかも知れないけど」
久美子ならどう思う? と問うかのように、あすかはデコピンの要領でカツンと指揮台を弾いた。それを受けて久美子は思考を深める。もしそれが真実なのだとしたら、みぞれがひたすら純粋に希美のことを慕っているのに対して、希美が、彼女がみぞれに抱いているものの、その正体は。愉悦の込もったあすかの含み笑いに、久美子の気持ちは昏く沈む。
「それは本人にとって、醜い自分自身を目の前に突きつけられるのと同じなワケ。だから自分が退部したっていう過去を他の誰にも責められたくないって、希美ちゃんは内心ではそう思ってる。でも一方で、あの子はそんな自分にもちゃんと向き合う気にもなってるんだよ。こないだ私にいろいろ言われたせいでショック受けたから、ってのもあるんだろうけど」
「それなんですけど先輩。そのいろいろって、どんな話をしたんですか?」
「どんなって、だからこないだも言ったでしょ。ちょっとした人生相談だってば」
「とぼけないで下さい。私あの時見たんですよ、希美先輩が泣いてたの」
久美子はあすかを強く睨む。あちゃー、と肩をすくめるようにあすかはおどけてみせた。
「見られちゃってたかぁ。でも残念だけど、話の内容は私と希美ちゃんだけのヒミツ。流石にそれを喋っちゃうのは希美ちゃんにも悪いからね」
それっきり、あすかはその件について何も語ろうとはしなかった。ヒミツと言われてあっさり引きさがれるほど、久美子の自制心は成熟しているとは言い難い。けれど、掘り下げても無駄だと判り切っているものにいつまでも執着するほど物分かりが悪いわけでもなかった。この件の真相を知るのはきっと自分には叶わぬことだ。そう直感した久美子は、これ以上の追及を控える。
「まぁ、根がああいう子だからね、一本気っていうか実直っていうか。コミュ力も人望もあるしメチャクチャ器用そうに見えて、その割に肝心なところが不器用な人っているじゃない? 能力と性格がアンバランスな子。希美ちゃんはその典型だね。そのことに自分で気付きさえすれば、後は自分で変わっていけるだけの力もある子なんだけどさ」
「毎度思いますけど、あすか先輩ってホント、人のことを良く見てますよね」
「半分は、当てずっぽうだけどね」
形ばかりの謙遜と共に、あすかはニヤリと口元を歪める。当たっているかどうかはさて置き、彼女のその観察眼は果たしてどこでどうやって磨かれたものなのだろう。あすかの場合、他人とはあまりに違い過ぎる人生の背景を抱えている。ひょっとしたら今までずっと、あすかは他人との間に二つも三つも線を引いて、その外側から対象となる人物を冷静に眺め続けていたのかも知れない。だからこそきっと、凡人には見えない他人のアラがあすかには手に取るように見えるのだ。彼女自身の賢さ故に。そして他人の機微に聡くあることで彼女自身のやりたい事を阻害されない為に。せいぜいそんな拙い推理に思考を走らせるのが、今の久美子には関の山だった。
「これにて私に出来ることは全部終了、店じまい店じまい。さぁて、明日も朝から練習だし、ダラダラ話し込んでないで部屋に戻ろっか」
はい、と返事をして久美子も立ち上がった。パチリと研修室の照明を落とすと、それまでの会話で温まっていた室内の温度は嘘のようにスルリと下がる。それに合わせて、あの時の『最後』というあすかの言葉がもう一度自分の耳を突き刺したような、そんな気がした。最後、って何なんだろう。この人はどういうつもりであんなことを口にしたのだろう。それを本人に問うのは少し怖くて、結局は何も言えぬまま、久美子はあすかと共に宿泊棟へと向かったのであった。
*
ゆるりと目を覚まし、霞んだ視界で辺りの様子を窺う。
室内にはぼやけたような日の光が僅かに射し込んでいた。二段ベッドの上にいる麗奈も、隣のベッドの子達も、今はまだ夢の世界をたゆたっているらしい。彼女達の健やかな寝息に耳を澄ましつつ、久美子は枕元に置いてあった携帯の画面を点け時刻を確認する。起床の時間までにはまだ随分と余裕がある。そのまま二度寝してしまうつもりで布団をかぶり直したものの、何となく気持ちがそわそわして結局寝付けず、のそりと布団から這い出す。まだ薄暗い室内をひたひたと歩き、入口の近くに置いてあった自分の楽器ケースの把手を掴んで、久美子は静かに戸を開けた。
ロビーでケースからユーフォを取り出し、それを腕に抱いて外へと出る。目指す先は、宿舎から少し離れた高台にある歓迎用スペース。あそこなら周囲に気兼ねなく音出しが出来るからだ。残っていた眠気も朝露に濡れた草木の香りに覚まされて、胸のすくような心地がする。去年もこの時間帯に散策のつもりで外へ出て、そこであすかがユーフォを吹いているところに出くわしたんだっけ。などとあの日の思い出をひとり呟きつつ、ぶらぶらと歩みを進める。
と、そのとき坂の上から「ポン」と、聞き慣れた楽器の音が柔らかく響くのが聴こえた。ひょっとして。そう思った久美子は、少しだけ急ぎ足でその場所へと向かった。
「おはよう黄前ちゃん。今年も早起きだねぇ」
今年もその場所に、あすかは居た。その手には銀色のユーフォニアム。もう十年以上も愛用している彼女のマイ楽器は山際から昇り来る朝日を反射して、シャンパンのような淡い
「おはようございます。楽器持ってきてたんですね、先輩」
「まぁね。暇なときは自由に吹いてても良いって滝先生に言われてたし。それに指導する時も、自分の楽器がないとどうにも締まんなくて」
「恋人ですもんね、ユーフォ。先輩にとっては」
「そういうことよ」
愛おしげな手つきでユーフォの管を撫でつつ、あすかはこちらへ無邪気な微笑みを投げ掛けた。そんな久方見なかった彼女の眩さを目の当たりにして、久美子は何だか体の奥があったかくなるのを感じる。
「そう言えば黄前ちゃんがアレ聴いたのって、ここで私が吹いてたのが初めてだったんだっけ?」
「ですね」
あの日の事は今でも何一つ失うことなく鮮明に覚えている。金色の朝焼けに包まれながら、あすかのユーフォが奏でていた、あの曲。滔々と響き渡る音色の一つひとつには、まるでこの世に存在する全ての感情が込められているみたいだった。その曲も、ユーフォも、紡がれた音色も、そしてあすかの姿も。何もかもが光り輝くあの美しいひと時を、久美子はいつまでも胸の奥に、一生の宝物みたく大事にしまっているのだ。
「どう? そろそろ上手に吹けるようになった?」
「んー、まだ自信無いです。ゆったりしてるように見えても結構難しいとこが多くて、そっちが気になると今度は音が綺麗に出せなくなる、っていうか。先輩から預かったノートにも毎日一回は目を通してるんですけど、先輩みたいに吹くのはなかなか」
「素直だねぇ。ま、私は十年以上もあの曲吹いてたワケだし、これはもうキャリアの差ってやつだね」
「精進します」
ぺこりと頭を下げて、それからあすかと笑い合う。こんな彼女と触れ合えるようになったのも、去年あすかと過ごした諸々の時間があればこそだった。一年前の自分には想像もつかなかった光景がここにはある。時と共に、人と人との関係は移ろっていく。少なくともそれは自分とあすかにとって、かけがえのない大事な繋がりをもたらしてくれるものだった。
「よぉし。じゃあ今回は特別に、黄前ちゃんと一緒にアレを吹いてあげちゃおう。聴いて覚えるよりも一緒に合わせた方が感覚掴みやすいでしょ」
「良いんですか?」
「早起きは三文の徳、って言うしね。黄前ちゃんだけのスペシャルボーナス」
「ありがとうございます!」
いそいそと楽器を構え、久美子は肩慣らしに
「黄前ちゃんのタイミングでどうぞ」
「じゃあお言葉に甘えて、行きます」
スウと息を吸い込み、久美子は出だしのフレーズを吹き始める。あのノートに書かれていた曲の譜面はもう、用紙の皺や褪せた色ごと脳内にすっかり刷り込まれていた。だから少しも迷うことなく、久美子は一つひとつの音を奏でていく。隣に立つあすかの音はどこまでも深く伸びやかで、その一輪ずつが黄金のような煌めきを放っていた。その凄さを改めて肌で感じながら、久美子は思う。ああ、この音にはまだまだかなわない。けれど、それで良い。久美子にとってあすかのユーフォはずっと目標であり、そして理想であり続けるのだから。
いつか自分もこんな風にユーフォを吹けるようになりたい。そう願いながら吹き込むユーフォの音色はあすかの音色と混ざり合い、向こうに見える山々をも越えて、淡く輝く朝焼けを湛えた大空の向こうへと響き渡っていった。
「それでは、本日の練習を始めましょう」
合宿二日目の今日も、練習は全体合奏から開始された。今日の午後にはこれも合宿恒例となる『十回通し』が予定されており、それには休憩を含めて二時間以上を要することになるため、朝から夕方までびっしり合奏漬けのスケジュールが組まれている。
昨日の練習での手応えから、今日は主に第三楽章の合わせが集中的に行われるであろうことは誰しも予想がついていた。この曲が現在の北宇治における最大のネック。そしてここさえ克服できれば、天王山ともいえる関西大会で並居る強豪校とも互角以上に渡り合えるようになる。果たして今日こそそれをモノに出来るのか。今朝あの曲を合わせた後、希美たちのことが未だ心配だった久美子に対して、あすかはこう言っていた。
『どうなるかは分からないけど、でも多分、今日あたりは何かしら起こると思うよ』
それは何の根拠も無い話ではあったのだけれど、それでもあすかには何やら確信めいたものがあるらしい。そのあすかは今日も新山達と並んで指導チームの席に座っている。どこか不敵さすら覚える彼女の佇まいを眺めながら、久美子はただひたすらに事態の好転を願うばかりだった。
「ではまず初めに、昨日の課題となっていた点から――」
「すみません、先生」
涼やかな声が空気を震わせる。手を挙げたのは、普段こういった場では自発的に喋ることの無いみぞれだった。彼女の意外な行動に、部員達はにわかにざわめき立つ。
「第三楽章、通しでやっても、いいですか」
みぞれは真摯な表情で滝を見上げている。その瞳に何かを感じ取ったのだろう、「いいでしょう」と滝は彼女の申し出を承認し、全員に準備を促した。演奏の態勢が整うなり、まるで先を急くようにオーボエのリードを銜えるみぞれ。その全身から迸るオーラのようなものに、久美子の心拍はトクリと跳ねた。今日のみぞれは何かが違う。何かとんでもない事が起こる。そんな予感がどきどきと、心臓に早鐘を打たせていった。
滝が静かに二拍を振り、三拍目と同時にみぞれが独奏を開始した。それに合わせようとしたハープの音が、オーボエの音色よりも先に飛び出してしまう。普段よりもずっと遅いテンポで、しかしそれすら気にも留めさせぬほど、一つひとつの音には重厚な深みと余韻が備わっている。みぞれがメロディを吹き、それを希美のフルートが受け止めるようにして、二人の音が響く。次第に加わる楽器が増え音の厚みが増しても尚、みぞれの旋律は群衆を抜け出でてハッキリと前面に立ち、時に羽を震わせるように優雅なビブラートを利かせながら進行していった。
すごい。引き込まれる。そう感じたのはきっと久美子ばかりではない。全体の音は瞬く間に、みぞれの音に圧倒されていった。本来あるべき枠からボロボロとこぼれ落ちる幾つかの音。それでもみんな必死に食らいつこうとするものの、緩急と抑揚を自在に操り場の音楽を支配するみぞれには追いすがることさえ適わず、あっという間に突き放されてしまう。
オーボエの美しい音色がどんどん輝きを強めていく。魂を揺さぶられるような切なく狂おしいその鳴き声に、久美子もまた目から熱いものがこぼれ落ちそうになってしまう。衝撃的に打ち鳴らされるシンバル。最大級に鳴り響く金管のファンファーレ。その全てはガタガタになっていた。それでもみぞれのオーボエは止まない。細やかなフレーズを巧みに、そして情熱的に吹き切り、返す刀で次のシーンへと迷いなく飛び込んでいく。それに完全に寄り添うことが出来ていたのはただ一つ、希美のフルートが奏でるその音だけだった。
奇跡を、見ていた。他の誰も決して手の届かぬ遥かなる雲上の世界を、みぞれと希美の二人だけが手をつないで踊るように舞っている。例えるならば二人の演奏は、それほどまでに崇高なものだった。夜の帳を色濃くしたような終盤に差し掛かって、もはや二人以外はほとんど演奏のていを成していない。そこには幾人もがすすり泣く音が聞こえる。久美子ですらユーフォを吹き込むその息が嗚咽に掠れてしまって、もはやまともには吹けそうもなかった。合奏は完全に破綻していた。それでも滝は指揮の手を止めることは無く、二人は最後まで飛ぶことをやめなかった。
リタルダンドを経て長いフェルマータ。それを吹き切った希美はそっと手を離すように、みぞれをさらに一段高みへと解き放つ。天の果てへと至ったみぞれが遍く虚空に響かせる、終幕のカデンツァ。それは、彼女がこれまでに培ってきた全ての結晶だった。最後の一音に再び希美も加わって、そのまま彼方へ飛び去るように、二人の演奏はそこで終わった。
全ての音が止んだ後の光景は異様を極めていた。滝や橋本ですら驚愕の形相を浮かべたまま、言葉もなく棒立ちになっていた。呆気に取られて動けない人。感嘆と困惑の声を上げる人。ただただ咽び泣く人。研修室のどこを見てもそんな様相ばかりが溢れ返っている。そんな中でみぞれと希美は二人、荒く息を切らしながら互いを見つめ合っていた。
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それからの練習はたいへんだった。
滝はそこまでで午前の合奏を急遽打ち切り、午後に予定されていた十回通しも翌日に回されることとなった。午後からの合奏ではみぞれと希美の演奏を基準として重点的に見直しが図られ、それまで必死になって積み上げてきた北宇治の音楽は僅か半日で、ほぼ全てを一気に塗り替えられてしまった。それでも部員たちが即応力を鍛えていた甲斐もあって夕方までにはおおよその形が整い、そして翌日の十回通しを経て、北宇治はその全てを完璧に会得することが出来た。今回の合宿における一番の成果。それは第三楽章を基点とするみぞれと希美、二人の劇的な進化を遂げた演奏だった。
「他に積むもの無いかー?」
「打楽器、積み忘れありません」
「金管は?」
「積めるものは全部オッケーです」
「だってよ、部長」
ガタガタ、と黒いケースの山がトラックの荷台に収まってゆく。卓也や秀一ら男子部員が陣頭指揮を執る楽器搬出作業もまもなく終わりそうだ。楽器を満載したトラックが出発するのを見送った後、私物も含めて忘れ物が無いかの最終確認をする為に、久美子は傾き始めた陽の射し込む館内を練り歩いていた。合宿所に一礼をするような気持ちで行われた部員全員での清掃により、床はぴかぴかに磨かれている。そこへおぼろげに映る自分の表情を眺めつつ、久美子は今回の合宿を頭の中で振り返っていた。
あまりにも中身の濃い、けれどあっという間に過ぎ去った、三日間の合宿。ここで手にしたものは数多く、部員たちもこれで関西大会に勝負を賭けられると意気込みを強めている。だからと言って油断できない状況である事には依然として変わりないものの、この短期間で北宇治か急速に成長したのは滝や橋本らも認めるところだ。後は残された時間を最大限有効に使い、もっともっと音を磨いていこう。明日からの追い込みに向けて久美子は決意を新たにする。
と、そこでふと、久美子の視界に黒いポニーテールの後ろ姿がよぎった。管理棟から宿泊棟へと繋がる廊下、その中ほどに立つ二つの人影に、久美子は無意識のうちに引き寄せられていく。
「――色々と、ありがとうございました」
そこにあったのは新山と、彼女に向かって頭を下げる希美、二人の姿だった。強い夕陽が逆光になって射し込んでいるせいで、ここからだと両者の様子はおぼろげにしか判らない。彼女達に気付かれぬようにと、久美子は柱の陰からそっと二人のやり取りを盗み見る。
「いいのよお礼なんて。鎧塚さんが本来の素晴らしい演奏が出来るようになって、本当に最高だったわね」
「それ、みぞれが聞いたらきっと喜んだと思います」
希美の口ぶりからするに、どうやらみぞれはこの場には居ないようだ。くす、と吐息をこぼすような仕草の後で、新山はするりと自分の横髪を撫でつける。
「傘木さんも、鎧塚さんを支える完璧な演奏だったわ。この短い期間のうちに音も意識も本当に良くなったと思う。この間は耳の痛いことを言っちゃってごめんなさいね」
新山の丁重なお詫びに、いいんです、と希美はかぶりを振る。
「あれでやっと踏ん切りがつけられました。今回の自分の役割は主役じゃない、みぞれのオーボエを支えることなんだって。それに、やっぱり思ったんです。私はフルートが好きなんだなって」
そう語る希美の声には、羞恥、自嘲、不甲斐なさ、愛着、そういった念を少しずつスポイトで掬い取って混ぜたような、えもいわれぬ苦みが入り混じっていた。
「私多分、今までフルートが好きだったんじゃなくて、フルートを上手に吹ける自分のことが好きだったんですよね。だからみぞれに合わせろってどれだけ注意されても、みぞれに負けないよう張り合わなくちゃって気持ちがどこかにあって。けど、そんな自分が間違ってたことをある人に教えられて。それからは自分のことを少しだけ、冷静に見れるようになった気がします」
「そう……それならきっと、本当に傘木さんを変えてくれたのは、その人ね」
「はいっ」
返事と共に、希美のポニーテールが元気良く跳ねる。
「私、これからもフルート続けていくつもりです。今度こそ誰にも負けないぐらい上手にフルートを吹けるようになりたい。プロになれるかどうかなんて分かんないし、親にもまだ話してないからどう言われるか分かりませんけど、もし新山先生さえ良ければ、これからもご指導いただきたいと思ってます」
お願いします、と希美は折り目正しく頭を下げた。新山は頬に手を当てたまま、少しの間考えるような素振りを見せた。
「ごめんなさい」
返ってきたのは残酷な回答。その重たさに、久美子でさえも胃にギリリと細糸が食い込むような苦しみを覚える。それを直接浴びた希美の胸中はいかばかりだったろう。目に飛び込む夕日の眩さに、久美子は思わず目を瞑る。じわり、と瞼の裏で涙が滲み出るのが分かった。
「私では傘木さんに充分なレッスンをしてあげることは難しいと思う。でも、私なんかよりももっと良い先生を紹介することなら出来ると思うわ」
「本当ですか!?」
続く新山の回答は予想だにしないものだった。それは彼女にとってもまた同じだったのだろう、希美の半身が勢いよく起こされる。
「音大受験に関しては私よりもずっと実績のある方だから、まずは相談してみるだけでも良いんじゃないかしら。でもその前に、親御さんにきちんと話してご承諾いただかないとね。学費とか講義内容とか、音大に関する一般的なことで良ければいつでも相談に乗るから、気軽に連絡してちょうだい」
親身な笑顔を浮かべながら、新山は胸元にしまっていたパスケースから取り出した一枚の紙片を希美に手渡す。きっと彼女の名刺か何か、連絡先をしたためたものだろう。それを受け取り、ありがとうございます、と希美は深々と頭を下げた。
「頑張ってね、傘木さん。私も応援してるわ」
「はい!」
嬉しそうな希美の返事が、久美子の耳にいやに響く。自分にとっても喜ばしい筈のそのやり取りが、その時の久美子には何故か、耐えがたいほどの気持ち悪さを覚えるものとして聞こえていた。
例えば道を歩いていて、何の気なしに左へ曲がった時にふと芽生える理屈抜きの不安感。あるいは一旦左に行くと決めたにも関わらず、実は右を選んだ方が良かったのではと考えてしまうような、根拠を伴わぬ悔恨の念。そういったどす黒いものがひたひたと胸に沁み込んでくるみたいで、それはとてつもなく不気味な感覚だった。
希美にとって、みぞれにとって、この決断はほんとうに幸せなことなのか。そんな事を、帰りのバスの車中で久美子は考え続けていた。ぐるぐるとまとまらぬ思考はやがてトンネルを抜けるようにハッキリした回答へと導かれることもなく、いつまでも光の見えない穴ぐらの中を彷徨うばかりだった。