もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈17〉希美とみぞれ、二人の決着

 合宿を終えて数日。北宇治の練習はこれ以上無いほど好調を極めている。そう言い切っても良いぐらい、全体の音は文字通り秒単位で向上していた。

 一度は完成したかに見えた自由曲の演奏についても、橋本の提案で更なる調整と改善が進められ、課題だった表現力は府大会の頃とは見違えるほどに高まった。そうは言ってもこれで三強、あるいは立華や龍聖といったライバル校を破り盤石に全国へ駒を進められる、という確証が得られたかと言えばそういうことも無い。一発勝負のコンクールにおいて、僅かな油断は致命傷をもたらす。メンバー全員がそのことを頭の隅に叩き込んでいるお陰で、ここまでの練習は日々高まるクオリティとは裏腹に、常に良い緊張感が保たれ続けていた。

 そして今日は、本番前最後のホール練習。普段の部室ではなく実際のホールを丸一日借り切って曲を合わせながら、部員達は改めて音響やひな壇の感覚を掴んでいく。午前中は通し練習をメインに全体の形を整え、午後からの練習では細かな部分をぎりぎりまで煮詰める作業を繰り返していた。指揮の手を下ろした滝が一度、腕時計へと目をやる。

「では十分間の休憩にします。このホールの貸切時間も残すところあと一時間ですので、休憩の後は課題曲と自由曲を一度通してみましょう。いつも言っていることですが、練習だと思って吹いていては、いざその時を迎えた途端に呑まれてしまいます。常に本番の舞台に立っているつもりで、意識をそこへ合わせて下さい」

「はい」

 そこで滝はふと頬を緩めた。

「あの日から三週間。皆さん新しい練習プランにも素早く対応し、そしてここまで着々と努力してきました。明後日はいよいよ関西大会本番です。しかし私達のゴールはそこではありません。コンクールに出れば必ず結果が出ますが、それに囚われてはいけません。最高の演奏を追求し続けるのは舞台がどこであれ同じです。誰もが最高だと思える演奏をすれば、結果は自ずとついてくる。そう信じて、ここで終わりと思わずに一つひとつの演奏を、一音ずつを大事にすること。それを忘れずにいきましょう」

「はい!」

 滝のその発言の裏には、彼自身の手応えや関西突破の希望といったものを十全に見て取ることができた。久美子はこっそりと手のひらを握り締める。出来ることは全てやった、という確かな感触。本番ではただその成果を存分に発揮すれば良いのだ。今すぐ本番が来ても構わない。そんな思いに、久美子の身体がぶるりと震える。

 滝が壇上を降りたのを合図に部員たちも三々五々、席を立っていく。久美子もお手洗いを済ませ、一旦外の空気でも吸ってからホールに戻ろう、と館内の廊下をぶらついていた。と、通りかかった先で偶然、久美子は夏紀の背中を見つける。夏紀せ、とまで言い掛けて久美子は続きを飲み込んだ。建物の外へと繋がる通用口のところにしゃがみ込んだ夏紀はそこで、何か様子を窺うように息を殺している。そう感じ、久美子はそろそろと彼女の元まで近づいていった。

「何してるんですか?」

「しっ」

 小声で夏紀の耳元に声を掛けると、振り返った夏紀は唇に人差し指を当て、それから小さく手招きをした。彼女におぶさるようにしてその肩越しから、久美子は周囲の様子を窺う。夏紀のシャンプーの甘い香りが鼻先をくすぐり何とも言えない気分に胸が疼いてしまうのは、これは生理的にどうしようもないことだった。

「とうとう関西大会だね」

「……うん」

 どこからか聞こえるヒグラシの鳴き声。それは夕暮れの哀愁をより一層引き立てていた。通用口の先、階段を降りてすぐの植え込みのところには希美とみぞれが立っている。角度的にこちらには気付いていないようだったが、二人の声はこちらまで良く届いた。既に過ぎ行こうとしている西日は曇りがちな空模様に遮られ、そこからこぼれる光がまっすぐに黄金色の輝きを放ち、彼女たちの周りだけをスポットライトのように照らし出していた。

「私、みぞれに謝んなくちゃ、ってずっと思っててさ」

「希美が、私に、謝る?」

「うん。私ずっと、自分勝手だったなって」

 その言葉に夏紀の肩がビクリと揺れたのを、そこへ添えていた久美子の手のひらが感じ取る。

「私、自分のことしか考えてなかった。今までずっと。多分、一年の時に部活を辞めたのも。こないだの合宿の時、あすか先輩に言われて二人でいろいろ話したでしょ? その時も思った。あー、私って結局、自分が好きなだけのヤツだったんだって」

 黙するみぞれの表情には明らかに困惑の色が浮かんでいる。それを見てなのか、希美は自嘲するように顔を歪めた。

「自由曲が『リズと青い鳥』に決まってさ、嬉しい、って何度も言ってたでしょ? 私この曲好きだー、とかさ。それってホントは違ってた。私がこの曲を好きだと思ったのは、フルートが目立つ曲だから。こんなに目立つフルートソロが吹ける私ってカッコいいって、それが自分の勲章か何かみたいに、そう感じてたんだと思う」

 思いがけない希美の告白。久美子はごくりと息を呑む。それはいつだったか、希美に対して自分が感じたことそのものだったから。そろりと息を吐いた時、ふと背後に誰かの気配を感じて久美子はゆっくりと振り返る。

「優子先輩」

 いつの間にか、そこには優子が居た。無言のままの彼女は久美子がそうしているように夏紀の背にそっと身を預け、そうして三人、その場で身じろぎもせず、ただじっと希美たちの会話を見守る。

「でも、そういう自分が私の中にいることをあすか先輩に教えられてさ。私、悔しかった。自分がそんな人間だったなんて思ってなくて。自分でも自分のこと良く分かってなかったんだよ。だから無意識のうちにみぞれに対抗心燃やしたり、みぞれが音大受験奨められたって聞いたら『じゃあ私も受けるー』とか言い出して。今から思うとなんか、ホント、カッコ悪い」

「違う、希美は、」

「聞いて」

 みぞれが何か言おうとしたのを希美は遮る。その間、久美子の頭の中は今しがたの希美の発言で一色に埋め尽くされていた。今の今まで久美子は、希美が音大を志望したからみぞれも受ける気になったのだと、そう思い込んでいた。それは、順序が逆だった。希美が受けるなら私も、ではなく、()()()()()()()()()()()、だったのだ。であるならば、これまで久美子が考えていた『みぞれの希美への依存』という認識も、この順序の訂正と共にまた違ったものとなってくる。

「もし気付かないままだったら多分、私はあの日、みぞれの全開の演奏を受け止めきれなかっただろうなって思う。そっちの方が、もっとカッコ悪かった。だから今はあれで良かったんだって思ってる。みぞれはあの日、新山先生からのアドバイスで考え方が変わったんでしょ」

 コクリ、とためらいがちにみぞれが頷く。あの奇跡のような演奏には新山も関わっていたのか。それまで知らなかった情報が次々ともたらされ、久美子の脳内も次第に混乱し始める。

「どんなこと言われたのか、私に教えてくれる?」

 いつも元気に満ち溢れる希美の、普段殆ど聞いたことの無い柔らかく包むような声。それを受けてみぞれの身体は小さくうごめいた。俯き、微かに呼吸をするように口を開いたり閉じたりして、それからみぞれは希美にもう一度視線を合わせる。

「新山先生に、自分自身をリズじゃなくて青い鳥だと思ってみたら、って言われた」

「うん」

「もし私が青い鳥だったら、青い鳥はリズの決断を止められない。だって、リズのことが好きだから。リズが青い鳥に、大きな空で羽ばたいて欲しいって、そう願うんだったら、青い鳥は飛ぶしかない。どんなに辛くても、悲しくても、そうするしか」

 希美は黙ってみぞれの言葉を受け止める。じゃりっ、と彼女の靴がアスファルトの地面を擦る音が聞こえた。

「私、今までずっと、リズに自分を重ねてた。希美が部活を辞めて、私の前から居なくなって。ひとりぼっちのリズが私にそっくりだ、って。だから、私がリズなら青い鳥のことを自分から離すわけないって、そう思ってた。あんな苦しい思いをする選択を、自分から選べるわけないって」

「私も自分のこと、青い鳥みたいだなって思ってたよ。本当は離れたくないのに、青い鳥が自分の元から飛び立っちゃって、きっとリズはずっと青い鳥のことを待ってるんだろうなって。それがなんか、みぞれと私みたいだなって気がしてた。私が青い鳥ならいつかリズの元に帰って来たと思う」

 でも、今は。二人の声がそこで重なる。そして二人ともそこで押し黙った。

「ね、みぞれ。みぞれはこの曲、好き?」

 希美の問い掛けに、みぞれは小さく首を振る。彼女の表情は未だ迷いに歪んでいた。

「……解らない」

「私も、今は解らない。本当にこの曲のことが好きかどうか」

 え、とみぞれは聞き返すように瞠目する。

「正直、自分の中でも今はまだ、自分が一番カッコ良いままで居たいって気持ち、捨て切れてない気がするんだ。でも今回フルートはこの曲の主役じゃない。もちろん今でも良い曲だなって思ってはいるし、自分の役割も弁えてるつもりだけど、前みたいに好きって断言できるほどじゃない。だから今は、ちょっと複雑」

 希美は俯き、トン、と片方のつま先を地面につけた。

「おんなじだね、みぞれと」

「希美と、おんなじ……」

 うん、と希美は頷く。そしてやにわに、みぞれに向かって両手を伸ばした。

「ね、アレやろうよ」

 アレ、と言われてみぞれには思い当たるものがあったらしく、返事を言い淀むように唇だけを動かす。

「やったこと無いって言ってたから。みぞれの初めて、私と、してくれる?」

 その問い掛けにみぞれはしばらく逡巡しているようだった。横髪を左手で硬く握り、久美子も焦れるほどの時間をたっぷりと置いてから、みぞれが微かに頷く。そして希美と同じように、自分の両手を大きく横に開いた。

「ありがとう。みぞれ」

 みぞれの胸に希美が飛び込む。そして両の腕で、みぞれの細い背中をギュウと抱き締めた。大好きゲーム、と優子が呟く。耳慣れないその単語に久美子は大いに困惑した。

「何ですか、大好きゲームって」

「ああやってハグしながらお互いの好きなところを言い合うってゲーム。昔、南中で流行ってたんだけど」

 そんなものを今この場で、希美は何のためにしようとしているのか。彼女の意図が量りかねる。そう思ったのは久美子達だけでは無かっただろう。希美の腕に抱かれたみぞれもまた、自分の手をどうしていいか分からないといった様子で彷徨わせていた。ややあって、みぞれは相手を拘束するように、その小さな両手を希美の腰の辺りへゆるりと繋いだ。

「私はみぞれのオーボエが好き。みぞれは上手いし、才能もある。情熱的に吹いてるみぞれ、感情爆発、って感じでカッコいいなっていっつも思ってる。ホントだよ」

「……私は希美の、誰とでもすぐ仲良しになれるところが、好き」

「うん」

「いつもみんなの輪の中にいて、みんなを引っ張って、いつも楽しそうで。すごいなって、思ってる」

「うん」

「希美の笑い声が、好き。希美の話し方が、好き。希美の足音が好き。目が好き。においが好き。希美の髪が好き。希美の、希美の、全部が、好き」

「うん」

 最後の希美の首肯は少し声色が落ちたように、久美子には聞こえた。

「こんな私のことを好きって言ってくれるみぞれが、私も好き」

 希美の言葉が、昏い。それと同時に雲間から射し込んでいた光が完全に遮られ、二人の周りが暗くなっていることに久美子は気が付いた。思いの丈を吐き切ったせいか、みぞれは息苦しそうに顔を歪めている。対する希美はまるで何かを悟ったかのように、諦観に満ちた静かな表情をしていた。

「みぞれ、私、頑張るよ。みぞれのソロ、支えられるように」

「私も頑張る。コンクールでいい演奏、できるように」

「それだけじゃなくて」

 希美はみぞれを抱き締めたままで言葉を続ける。

「絶対に全国行って最高の演奏する。金賞だって獲る。そして音大にも合格してみせる。絶対に、負けたくないから」

 何に、とみぞれが問うのを許さぬように、希美がみぞれの背中に指を食い込ませる。痛々しい軋みの音は久美子達のところにまで聞こえてきそうだった。もはやヒグラシの声などまるで耳に入らない。そのぐらい、久美子の聴覚は二人の会話に集中していた。

「だから、みぞれも頑張って。オーボエ」

 なぜ希美がそんな事を言うのか、当のみぞれにはきっと解っていなかっただろう。しばらく迷いを見せていたみぞれは、やがて希美の腰ではなく背中に手を這わせ、彼女の肩へと顔を埋めた。

 がんばる。私、オーボエ続ける。

 そう聞こえた気がしたのは、果たしてただの幻聴だったのか。みぞれの声はほとんど呻きに近く、ひょうと吹いた風にも掻き消され、ハッキリとは判らなかった。けれどみぞれならばきっと、そんなことを言ったはずだ。だってそれは他ならぬ希美の、何の偽りも無い心からの願いなのだから。

 震えるみぞれの肩をポンポンと、まるであやすように、希美の手が優しく叩く。二人の会話は多分、そこで終わった。同じことを優子も悟ったらしく「行くわよ」と小声で久美子と夏紀の制服を引っ張る。なかなか動じぬ夏紀に、先輩、と追って声掛けをした時、彼女の下唇にうっすらと紅色が滲んているのを久美子は確かに見咎めた。

「……凄かったですね」

 通用口から離れ、ホールのロビーまで一時退散した久美子はそこでようやく息を吐くことを許された。呼吸するのを殆ど忘れてかけていたせいか、妙に頭がズキズキする。心臓の拍動も未だ収まりがついていない。身体に粘つく鈍痛のせいで、希美とみぞれの会話の意味を考察することも今は上手く出来そうになかった。

「希美先輩、どういうつもりだったんですかね」

「さあ。希美にしたらケジメのつもりだったんじゃない? 今までみぞれのこと振り回してきてゴメン、って」

「確かに、そうかも知れないですけど」

 的を射ている、という感覚が得られず、久美子の返答も何となく否定めいたものになってしまう。優子とて己の出した答えに確信を持っていた訳では無いのだろう。そのことは何よりも、優子自身の憂える表情から察することが出来た。

 あれは「大好きを言い合う」というよりは殆ど、希美自身の決意をみぞれに、そして己に言い聞かせるための行動だったように思えてならない。あの瞬間を振り返るだに、全身をどくどくと巡る動脈に何かどす黒いものが混じっていくような、そんな嫌な感じがする。彼女たちの問題があれで解決したという気配は全く無く、ただ暗澹たる不安感がねっとりと臓物に巻き付くような重たい感触だけが残っていた。

 夏紀はこの件をどう思っているのだろう。彼女は何も言わず、さっきから口の辺りをゴシゴシと手の甲で拭うばかりだ。

「夏紀先輩、大丈夫ですか?」

「何が?」

「その、唇ですけど」

「あー、これね」

 腕をどかした夏紀の下唇。そこにはハッキリと真横に引かれた鮮血が浮かび上がっていた。頬や顎にも、それを拭おうとしていた彼女の腕にも、ハケで塗ったみたいに真っ赤な血がこびりついている。それを直視してしまった久美子の視界が、途端にぐねりと歪曲した。

 次の瞬間、目に映ったのは、ホールの天井だった。

「大丈夫?」

「……あ」

 いつの間にか、久美子はロビーの長椅子に寝かされていた。慌てて身を起こすと隣には優子の顔があって、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。貧血を起こした自分が気を失っていたことに、久美子の思考がそこでようやく追いついた。

「安心して。滝先生には話してあるから」

「え、いや、すいません迷惑掛けちゃって。早く行かなくちゃ、」

「黄前が落ち着くのが先。どう? 気分は?」

「今は、特に何とも」

 そう、と優子は安心したようにひとつ息を吐く。

「ったく。とんでもないもの黄前に見せて、スプラッタ映画じゃあるまいし。ちゃんと黄前に謝んなさいよ」

 事の元凶となった夏紀に、優子が刺々しい口調で非難をぶつける。恐る恐る視線を向けると、夏紀の口元や腕にはもう血の痕は無く、代わりにところどころ水滴がついたままになっていた。きっと久美子が倒れている間にどこかで血を洗い落として来たのだろう。

「優子に言われなくたって、そのつもりだよ」

 横に走った下唇の裂傷は思ったよりも深手ではなかったらしく、半ばかさぶたになっているみたいだった。それを見て久美子は、気絶したあの瞬間から既にそれなりの時間が経過していたことを悟る。

「ホントに反省してんの? 謝るなら土下座とまでは言わないけど、せめて頭下げるぐらいはしてみせなさいよ」

「いやいや優子先輩、もういいですって。ちょっとビックリしちゃっただけで、私は別に怒ってはないですし。それより私、どのぐらいこうしてたんですか?」

「ニ、三分ってとこじゃない? 倒れてすぐ私が黄前のことを滝先生に報せに行って、それでついさっき戻ってきたばっかだから」

 良かった、と久美子は心から安堵した。本番前最後のホール練習というこの大事な時に自分のせいでみんなに迷惑を掛けてしまったらどうしよう、と気が気でなかった。ほんの数分程度なら、まだ取り返しはつきそうだ。

「アンタはそんなこと気にしなくていいの、それもこれも全部夏紀のせいなんだから。大体、合奏の時に唇が切れちゃったんなら大人しく手当てしてれば良かったのに。何やってんのよ全く」

「だから言ったでしょ。ちょっと水道で洗ってこようかと思ってたところにあの二人が降りてくのが見えたもんだから、つい気になって追いかけたの。それでうっかり怪我してたの忘れてたんだってば」

 ガミガミと叱る優子をのらりくらりといなす夏紀。それはどう見ても、いつも通りの彼女の姿だ。けれど久美子には解っていた。夏紀の唇の傷が、希美たちのやり取りを見ている間に刻まれたものであることを。さっき通用口で夏紀を見つけた時、声を忍ばせるよう人差し指を立てた夏紀の唇にはどこにも傷など無かった。それを久美子はしかと憶えていた。

「ホント、しょうがないんだからコイツ。まあいいわ。相手にするだけ時間の無駄だし」

 呆れ返ったように溜息をつき、それから優子は再び久美子を見やる。

「で、黄前の調子はどう?」

「あ、はい。もうすっかり」

「無理はしないでよ」

「大丈夫です。吹けます」

「じゃあホールに戻るわよ。さっきからアンタが帰ってくるの、待ちわびてるヤツもいるみたいだし」

 ホラ、と優子は指を差す。その先、ホールへと向かう下り階段の端には麗奈が立っていた。優子たちが介抱に当たっていたことで遠慮したのだろうか、彼女は不安の色を浮かべつつも遠巻きにこちらの様子を窺っている。そんな麗奈に対して久美子は心配を掛けたことを申し訳なく思いつつ、ほんのちょっぴり嬉しくも感じていた。

「今日最後の合奏だし、気合い入れていくよ」

「はい」

 優子に返事をして久美子は立ち上がる。ふらつきを感じることも無く、これなら十分に楽器を吹けそうだ。先を行く優子についていこうとして、ふと久美子は、夏紀がその場に立ち止まったままで居ることに気が付く。

「行きましょう。夏紀先輩」

「あー、うん」

 俯いたまま、夏紀はそぞろな返事をした。彼女の全身には今もなお色濃い愁いが漂っている。それは恐らく、後輩を昏倒させてしまったという罪悪感によるものでは無い。夏紀を苛んでいるものは、きっと彼女達のこと。だからあえてもうひとつ、久美子は声を掛ける。それがその時の久美子に出来る、夏紀への精一杯の気遣いだった。

「きっと、大丈夫ですから」

「……うん」

 口の端を複雑に曲げ、それから夏紀は力なく笑顔を浮かべた。それは今にも崩れてしまいそうなほどに脆く儚げで、それを見た久美子もまた鼻の奥がツンと熱くなるのを感じていた。

「ありがとう、久美子ちゃん」

 

 

 

 

 翌日の練習は早い時間で切り上げとなり、その後の久美子達は思い思いのひと時を過ごした。本番の直前まで練習を詰めるのは決して良いことでは無い。練習のし過ぎで疲れが残れば音が鈍り、音が鈍れば本番でも練習の成果を充分に発揮できなくなる。それよりは心身を休め、本番に向けて最大限のパフォーマンスを発揮できるようにした方が良い。そんな滝の方針により、本番前はいつも軽く確認をする程度の練習で終わっていた。

 不思議なもので、今回は久美子の心に焦りの念は一つも無かった。楽器を持ち帰ることもせず、秀一といつものベンチで語らったりした後、家に戻って晩ご飯を食べ、シャワーを浴び、灯りを消してベッドに寝そべる。そんないつも通りの生活はむしろ、本当に明日本番なのだろうか、と疑ってしまうほどの不気味な落ち着きぶりですらあった。早く本番が、その時が、来て欲しい。期待に高鳴る胸を手で押さえつけながら、その夜久美子は心地良く眠りに就いたのであった。

 次に目を開けた時、窓の外からはもう明るい光が差し込んでいた。枕元の目覚ましに手を伸ばして時刻を確認する。五時五十四分。セットしていた時間よりは少し早い。ベッドから起き出し大きく伸びをして、それから体を左右に捻る。――うん、特に問題は無い。朝一番の体調チェックを済ませた久美子は机に向かう。脇に置いてあったスクールバッグから楽譜ファイルを取り出し、それをめくって課題曲と自由曲をそれぞれ眺める。譜面は既に、仲間達によって寄せ書きされた沢山のメッセージで埋め尽くされていた。

『目指せ! 全国金賞!』

 オレンジマーカーで威勢よく書かれているのは葉月の字。

『一音入魂』

 紫色の細いペンで鮮やかにしたためられたメッセージは麗奈の手によるもの。

『ファイト!』

 青いフェルトペンでしたためられたサインのようなそれは、希美の筆致。

『久美子先輩がんばって』

 濃いピンクの可愛らしい丸文字は、長きに渡る説得の末に渋々ながらも書いてもらった、奏からの応援のことば。

 そして。

『全国で思いっ切り吹いてこい!』

 黒のペンで、まるで楷書体フォントのような精緻さで綴られたその字は、あすかが書いてくれた励ましのメッセージだ。一つひとつのメッセージを誰が書いたのかは筆跡を見るだけで解る。ファイルを閉じた久美子は、仲間や後輩、先輩達の想いごと、ファイルを胸に抱き締めた。全ての言霊から力をもらうかのように。そして、自分自身を鼓舞するために。

 忘れないうちにファイルをバッグへしまい込み、再びベッドへと向かう。ちょうどその時、ピピピ、と鳴り出した目覚まし時計のアラームを、久美子はすかさず手で止めた。よし。自分の感覚は今、極限まで研ぎ澄まされている。確かな手応えを感じた手のひらを久美子はおもむろに、そして強く握った。

 

 

 

「来ましたね、とうとう」

「うん」

 バスを降りて少し歩いたところで、久美子は立ち止まっていた夏紀に声を掛ける。コンクールの舞台衣装となる冬用の制服に身を包み、目前にそびえる赤茶色の建物をじっと見据えながら、彼女は硬い面持ちで頷きを返した。

 吹奏楽コンクール関西大会。その会場となるこのホールに、北宇治は今年もやって来た。去年は挑む側だった訳なのだが、ならば今年は挑まれる側かと問われれば、そうだと答える部員など一人としていないだろう。北宇治は今年も挑戦するためにやって来た。何に? ライバルである立華に、ダークホースである龍聖に、全国屈指の強豪校である三強に、そして全ての参加校に?

 違う、そうじゃない。自分達の挑む対象はいつだって過去の自分達。そして自分達が思い描く最高の音楽。それを成し遂げるために北宇治はここに居るのだ。結果は後からついてくる。そう語った滝の言葉を久美子は胸の内で反芻していた。泣いても笑っても今の自分に出来るのは、これまでに培った全てを本番の舞台にぶつけること。ただそれだけなのだ。

「緊張してる?」

「今日は全然です。むしろ早く本番で吹きたい、って思うぐらいで」

「メンタル強いね。私は府大会もそうだったけど、コンクールの本番なんて殆ど立ったことないからさ。自信無いワケじゃないんだけど、なんか緊張しちゃって」

「分かります、先輩の気持ち」

「それに、今年が最後なんだって思ったら、余計にね」

 噛み締めるように、夏紀はそう口にした。今年が最後。そうだ。三年生である夏紀は、今年を逃したらもう全国への挑戦権を得ることはできない。まして今年の夏紀は副部長として部を牽引する立場にあった。彼女の視野は自身のことだけではなく、共に血の涙を流しながら切磋琢磨した仲間、友恵を始めとしてサポートに回った友人、沢山の後輩、その全てに注がれていた筈だ。そんな夏紀の心境は、今の久美子には察するに余りあるものがあった。

「今までありがとね、久美子ちゃん」

 不意を突く夏紀の言葉に、え、と久美子は息を涸らす。

「久美子ちゃんが北宇治に来てくれたから、私も随分変われたなって思ってる。例え滝先生が北宇治に来るのは変わらなかったとしてもね。久美子ちゃんが居てくれなかったら私はずっと、コンクールなんてどうでもいいやって感じで練習サボったり、部のことにも自分なんか関係ないって、そんな風に過ごしてた気がする」

 いつになく夏紀は晴れやかな笑顔を浮かべた。それがどうしてか、久美子の胸に強烈な寂しさを突き立てる。

「それがこうやって最後の年にコンクールメンバーになれて、しかも関西大会にまで来れたんだよ? 自分で言うのも何だけどかなり上手くなれたし、音楽もユーフォも昔より好きになれたって思う。部のことだって、何だかんだ言いながら優子と二人で面倒見てこれたし、私にしては上出来過ぎるかなってぐらい。それも、久美子ちゃんが居てくれたから」

「先輩……」

「久石のこととか、心残りもあるけど、それも久美子ちゃんならきっと何とかしてくれるって思ってる。正直コンクールがここで終わっても、私は全然後悔なんてしない。私に出来るだけのことはもう、とっくにやり尽くしたから。だから今日は今までで最高の演奏をして、それで終わりたい」

 やめて下さいよ。そう言いたかったのに、言葉がつっかえて喉から出てこない。夏紀の発言の端々に巡らされた過去形のことばが哀しい響きを孕んでいた。はらり、と頬を熱いものが流れ落ちていったのが自分でも解る。それを見た夏紀もまた、クシャリと切なげに顔を綻ばせた。

「こんな私なんかにはホント、久美子ちゃんは出来過ぎた後輩だったよ。そういう子に出会えて、ここまで一緒に吹部でやって来れて、私は本当に幸せ者だった。私がここまで来れたのも全部久美子ちゃんのおかげ。だから、ありがとう」

 畳み掛けられて、いよいよ久美子は嗚咽を堪えることが出来なくなってしまう。そんな久美子の頭を夏紀はそっと撫で、己が胸元へと引き寄せた。そこに顔を埋めるようにして、久美子はとめどなく溢れる涙を彼女の肩へと刻んだ。

「これで終わりじゃ、ないです。私たちは、全国に行くんです」

「そうだったね」

「最後なんて、いやです。私、先輩と一緒に、全国で吹きたい。もっともっと、吹いていたい」

「……ありがとう」

 そう告げる夏紀の声もまた、胸に迫る感情を堪えるかのように震えていた。この人と一緒に吹くコンクールを、ここで終わりになんてしたくない。そんな思いが怒涛のように押し寄せて、久美子はただただ夏紀にすがりつく。それを黙って受け止めてくれた夏紀の優しさを、温かさを、久美子はずっとずっと大事にしていたかった。

「なになにー? 二人とももう感極まっちゃってるのぉ? 本番はこれからだってのに」

 そんな二人の心情を土足でぶち破るかのような無遠慮さで、どこからか沸いて出たあすかが冷やかしの言葉を浴びせてきた。すぐさま夏紀から身を離し、涙でグシャグシャになった顔面を慌てて袖で拭ってから、久美子は鼻声をごまかすように咳払いをする。

「何ですか、あすか先輩。いっつもそんなふざけたことばっかり言って」

「ふざけてなんかないって。先輩後輩の美しい師弟愛ってやつに思わず胸打たれちゃったんだってば。いやー、これぞ青春だねえ」

「知りませんよ、そんなの」

 久美子の非難もどこ吹く風といった具合に、あすかは身をよじらせながらニヤニヤとこっちを見てくる。さっきまで泣きっ面を晒していたのが急に恥ずかしくなって、久美子はツンとそっぽを向いた。

「そりゃあ先輩は今年出ないから関係無いかもですけど、夏紀先輩にとってはこれが最後のコンクールなんですよ」

「最後? いつ誰がそんなこと言ったの」

 あっけらかんとあすかは答える。その一言に久美子はザクリとみぞおちを抉られた。

「まさか夏紀も黄前ちゃんも、今年の北宇治はココで終わりだなんて、そんな風に思ってたワケ?」

 キョトンとした久美子と夏紀は互いに顔を見合わせ、それからあすかに向かって全力で首を振る。仮にどちらかが薄々そう思っていたとしても、急に真顔になったあすかを前にしてそんなことを言える筈も無かった。

「なら良し」

 フフンと不敵に鼻を鳴らして、それからあすかは高らかに宣言した。

「大丈夫、北宇治は必ず全国に行くから。この田中あすかが太鼓判を押してあげる!」

 

 

「……で、あすか先輩は?」

「その後すぐ、香織先輩と晴香先輩に捕まってた。先輩達ホント過保護だよね。他の後輩の応援より、あすか先輩のことが気になって仕方ないみたい」

「まあ、そうだろうなって感じもするけどね。特に香織先輩はああいう人だし」

 最後のチューニングも終え、北宇治の一同は真っ暗な舞台袖で待機しながら一つ前の出番である高校の演奏を聴いていた。曲目は「狂詩曲『ジェリコ』」。さすが地方大会を抜けてきただけあって、忙しなく動き回る音の連続を軽々と吹き上げる彼らの演奏力は押しなべて高い。けれど久美子を始め北宇治の面々はそれに動じることもなく、一定の緊張感と集中を保ったまま、出番が来るのを落ち着いて待っていた。

「あすか先輩も今頃、香織先輩達とホールで聴いてると思う」

「じゃあ先輩達の為にも、最高の演奏しなくちゃね」

「うん」

 こうして出番を待つ間、久美子はいつも麗奈に見とれてしまう。本番前の彼女が見せる鋭気に満ち満ちた姿はまさしく、久美子が思い描く理想そのものだ。久美子にとっての麗奈とは親友であり、同志であり、目標であり、それ以上の存在でもある。麗奈が『特別』を目指す以上、久美子にとっても目指す地平は同じ。そしてその先にはいつだってあすかが居る。自分の渾身の演奏を、あすかに届けたい。そんな思いが久美子の身体を駆け巡り、ぶるりと大きく震えた。

「さっき久美子言ってたでしょ。自分の方こそ、夏紀先輩が居てくれて良かったと思ってるって」

 麗奈の視線が少し離れたところに居る夏紀へと注がれる。優子と友恵、三人で顔を見合わせる彼女らは、今は静かに互いの決意を確認し合っているみたいだた。

「私もそう。優子先輩が居てくれて良かったって、今は本当にそう思ってる」

 そう語る麗奈の言葉には力が籠っていた。頷きつつ久美子もまた、先刻の優子の姿を思い返す。

『……今年の北宇治を、私は最強だって思ってる』

 本番直前のチューニング室で、滝に発言を促された優子は開口一番、神妙な面もちで部員にそう告げた。

『ここまで大変なことが幾つもあって、時には折れそうなこともあって、けれどみんなそれを乗り越えてここまでやって来た。私は純粋にすごいって思ってる。こんなに頑張ってきた部員一人ひとりが、私の最高の自慢であり誇りです。そして何より、こんなすごい仲間に支えられて今日まで部長をやらせてもらえたってことが、私にとっては吹奏楽部で過ごした三年間で一番の宝だと思ってます』

 一旦言葉を区切り、優子は皆に向かって一礼する。次に面を上げたとき、彼女の顔にはそれとわかるほどの決意と自信が満ち溢れていた。

『けど、北宇治はここを抜けて全国へ行く。それだけの力が今年の北宇治にはある。私はそう信じてます。これまでずっと吹部に居て、吹部を見続けてきた私が言うんだから、間違いありません。もう一度言うけど、私が北宇治に入ってからの三年間で今年の吹部は最強です! だから今は目の前の十二分間に集中して、私達のやってきたことを全部、本番の舞台で出し切ろう!』

 誰もが抱いていた一抹の不安をもあっという間に吹き飛ばしてしまうほど、優子の演説には人を導く確かな力強さがあった。全員の意志を束ね、一つにまとめて前へと推し進める。そんな能力が優子にはある。それはきっと彼女の生来持っている気質が限りなく良い方向へと発揮された、その結実とも呼べるものだった。

 そしてそんな優子との間に、かつて麗奈が抱えていた軋轢。時と共にそれを乗り越え、いつしか麗奈は優子を文句なしに頼もしい存在と感じ、心から慕っている。現在の麗奈と優子、どちらも去年の今頃ならば想像さえ及ばなかった姿だ。優子に全幅の信頼を寄せる麗奈の強い眼差しをこうして横から見ているだけでも、久美子の胸にはとても言い表せないような高まりが押し寄せる。

 きっと自分や麗奈だけでは無い。部員達のそれぞれが紆余曲折の末に、先輩や後輩といった垣根すらも越えて、今は互いに同じ思いを抱いていることだろう。この人達ともう一度、いいや何度でも、この一心同体の時間を過ごしたい。ここで終わりになんか絶対にしない。その思いが、北宇治の部員達を灼き尽くさんばかりに燃え上がっていた。

 総奏(トゥッティ)の後に木管の音が翻り、残響を締めとして前の団体が演奏を終える。なだれ込む拍手の音。いよいよだ。久美子の心臓はそこでひときわ高く跳ね上がった。感じているのは緊張か。不安か。それとも興奮か。掴み切れぬ自分の心情を、久美子は深く吐いた息と共に押し出す。

「頑張ろう、久美子」

 そっと差し出された麗奈の拳。

「うん。頑張ろう、麗奈」

 久美子も自分の拳を伸ばし、重なり合う二つの拳が小さく音を立てる。その誓いが、決してここで終わらないことを信じて。

「続いての演奏は、プログラム十五番。京都府代表、京都府立北宇治高等学校――」

 

 

「ああ、緊張するう」

「大丈夫ですって先輩。私達も舞台袖から見てましたけど、最高の演奏でしたから。思わず泣いちゃうぐらいカンペキでしたし、あれならぜったい金賞ですよ」

「うっかりタイムオーバーとかになっちゃってたらどうしよう。もう不安と緊張で、胃がねじ切れそう」

「心配いらないって。客席で時間計ってたけど、練習通りバッチリ十二分切ってた」

「もうダメ、耐えらんない。みんなここで結果発表聞いてて。私トイレ行ってくる」

「ちょっとアサミぃ、置いてかないでよ。私だって怖いんだから」

 そんな声が方々から聞こえてくる。ホール内には後半の部に出場した全ての学校の部員が集い、粛々と、あるいは息も絶え絶えに、結果発表の時を待っていた。

「でもまさか、立華が銀だなんてなぁ」

 一つ前の席にいた葉月が小さく呻きを洩らす。彼女の隣に腰掛けた緑輝はさっきから「よしよし」と、落ち込む葉月のことを懸命に慰めていた。いかにライバルと言えど同じ京都府代表であり、一緒のステージに立って演奏したよしみでもある立華に対して、葉月はある種の仲間意識を持っていたのだろう。けれど前半の部に出場した立華は無念にも銀賞に沈み、後半出場校の結果発表を待たずして全国大会進出の望みを失うこととなってしまった。

 久美子の脳裏に一瞬、梓の顔がちらつく。果たして彼女はこの結果をどう思っているのだろう。いかに立華がマーチング主体の学校であるとは言え、梓個人はきっとこの結果に満足してはいない筈だ。そんな彼女の胸中を充分に慮るだけの余裕はしかし、今の久美子には無い。間もなく北宇治の命運は決まる。その事実は、あたかも断頭台の上に立たされているかのような決死の気分を否応なしに増幅させていた。

 にわかに舞台の気配が動き出す。あちこちの席から「来た」という声が上がり、さざ波のように押し寄せたざわめきは、壇上に並ぶ各校の代表者、そしてコンクールの主催者である関西吹奏楽連盟のお偉方が揃うにつれて、おのずと減衰していった。

「それでは只今より、全日本吹奏楽コンクール関西大会、後半の部の表彰式を始めます」

 ごくり、と唾を呑む久美子の手を、隣の麗奈が強く握り締める。まずはここで北宇治が金賞を獲ること。これが出来なければその時点で、全国への道は断たれてしまう。立華がそうであったように。出場順の通りに一校ずつ名前と賞が読み上げられてゆき、その度に客席からは喜びと悲しみの声が交錯する。

「……十二番、大阪府代表、大阪東照高等学校。ゴールド金賞」

 わあっ、という歓声と共に咲き誇る笑顔。彼らにとってその反応は半ば予定調和なのだろう。たおやかに鳴らされた拍手もすぐに止み、大阪東照の面々は再び静けさを取り戻した。その規律正しい振る舞いはさすが三強の一角、と言うべきか。

 他の三強である明静工科、そして昨年ダメ金に沈んだ秀大附属はどちらも前半の部の出演で、これまた当然のごとく両校とも金賞という結果を得ていた。他にも金賞の団体は午前午後を含めて既に幾つか出ており、つまり残った金賞の枠もそれほど多くはない。出番が比較的遅かった北宇治の面々も一つまた一つと金賞の学校が出るにつれ、強い焦燥感に襲われ始める。

「十五番、」

 来た。あまりの緊張に堪えかねて、久美子はぎゅっと目を瞑る。

「京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞」

 よおし! と男子部員たちの(とき)の声。久美子もまた麗奈と二人、握り合った手を振りかぶる。まずは一つ、関門を抜けた。けれどまだ全ての苦労は報われていない。気を引き締め直して、久美子は続く発表へと耳を傾ける。

「二十二番、京都府代表、龍聖学園高等部。ゴールド金賞」

 わああ、とホール中に雄叫びが響き渡る。喜びの大合唱を上げる彼らにとって、初の関西大会で金賞というこの結果はまさしく殊勲であったに相違ない。あまりのはしゃぎようを見かねた司会役の「静かに!」という一喝で、彼らの狂騒は潮が引くように鎮められた。

 北宇治よりも後だった龍聖の演奏を、今回久美子はホールで直に聴いていた。彼らの選んだ課題曲は奇しくも北宇治と同じ『ラリマー』、そして自由曲は『白磁の月の()()()』。冒頭からフルートやピッコロが舞い踊るように跳ね回り、場面ごとにそれぞれの楽器の音が飛び交う変則的な和楽調曲。静と動、あるいは陰と陽を巧みに使い分け、終盤はまさに怒涛の展開で終わりへとなだれ込んでいく、難易度と芸術性の極めて高い曲だ。

 演奏技術。表現力。どちらも他の強豪校に引けを取らない彼らの出来栄えには、あのまま何の対策もなく北宇治がここに乗り込んでいたならば太刀打ちすら出来なかったことだろう。あすかの予見が単なる脅しではなかったことを頭では理解しながらも、実際に龍聖の演奏を耳にしたことで、久美子はようやく実感することが出来たのだった。

「……続きまして、十月に行われる全国大会に、関西代表として出場することになる三団体を発表します」

 ぞわり、と場の空気が極限の緊張に縛られる。用意された全国行きの切符は僅か三枚。前半の部を合わせて挙げられた幾つもの金賞団体のうち、果たしてどこが関西代表の栄誉を得るのか。ここが運命の分かれ道だ。

「ではまず一校目」

 一度そう告げた後、司会役の男性は思わせぶりに言葉を溜める。祈りに声を震わせる誰かの吐息が聞こえた後、司会役の息を吸う音が、スピーカーを通じていやに響き渡った。

「三番、大阪府代表、明静工科高等学校!」

 ホール中を席巻する歓声、そして拍手。明工の盤石ぶりはやはり微塵も揺らがなかった。赤のジャケットで統一された明工の生徒たちは皆一様に穏やかな表情で拍手をしている。彼らのような全国常連校の場合、上位大会に進出したことの喜びよりもむしろ、先輩達から代々受け継いできた常勝の伝統を今年も守れたという安堵感が勝るのだろう。

「次に、二校目」

 再び静まり返る館内。次に呼ばれるのはどこか。自分達か、それとも自分達よりも後の団体か。誰もがその瞬間に備え、必死に祈る。久美子もまた麗奈と結んだ手に力を籠め、ただ北宇治の名が呼ばれる事だけを信じ続けていた。

「八番」

 と告げられたその瞬間、やったあ! と弾け出る声。ホール前方に陣取る黒いブルゾンの集団が、喜びもひとしおといった様子で互いを讃え合っている。それは昨年、金賞ながらも代表権を取れずに終わった秀大附属の部員達だった。その中の一人、何となく既視感を覚える女子部員の横顔に大粒の涙が浮かんでいるのを、久美子は確かに見た。

「そして、三校目。次が最後です」

 いよいよだ。代表権を得られる最後の一校。ここで北宇治の名が告げられなかったら、その時点で全てが終わる。北宇治だけでなく三強の一角である東照にも、今大会最大のライバルと見ていた龍聖にも、名を読み上げられる可能性はまだ残っていた。

 緊張はとっくに限界を超えている。びっしりと脂汗に覆われた肌が、神経を絶たれたみたいに何の感触も示さない。目を伏せ、久美子は必死に祈った。北宇治の名が呼ばれることを。そしてコンクールへの挑戦がまだ続くことを。

 麗奈が呻くように息を洩らしたのが聞こえる。永遠かと思えるほどに長い刹那の静寂。ふつと途切れた音を汲み直すかのように大きく息を吸う音が、マイクからスピーカーを経て久美子の耳に届いた。

 

「十五番、京都府代表、北宇治高等学校!」

 

 プツリ、と全身から糸が抜けるような錯覚。周囲から上がる絶叫。大音声。動揺。そして悲嘆。ありとあらゆる膨大な感情が一気に爆発しホール中に轟く中で、久美子の頭はそれらをまだ上手く処理し切れない。北宇治高等学校。耳にした音をもう一度確かめるように、久美子は声に出してみる。

 行けたのか。自分達は、本当に。

 行けるのか、そこへ、みんなと一緒に。

 もう一度。

「久美子、」

 どかり、と何かがのしかかって来る。それは麗奈の体だった。ほとんど身を投げ出すようにして、麗奈が自分に覆いかぶさっている。未だ半信半疑の久美子は、がくがくと震える顎を手で押さえつけながら、麗奈に尋ねた。

「全国、なの?」

「そうだよ、久美子。行けるんだよ、私達、全国に!」

 そこでようやく、久美子の意識は正常を取り戻した。喜びに打ち震える部員達。後藤も、梨子も、友恵も、夢も、美玲も。見渡す先にある一つひとつの顔にはいずれも、最大級の喜びと感泣とが溢れ返っていた。

 そして、希美とみぞれは。久美子が振り返ったその先で並んで座る二人もまた、手に手を取り合っていた。どちらの目にも涙は無い。希美は僅かに頬を緩めながら黙してステージに視線を固定し、部の代表として舞台上で賞状とトロフィーを受け取る優子達の姿を見守っていた。そしてみぞれはそんな希美の横顔を、ただじっと見つめていた。

 壇上に設けられた席で、最高の結果がしたためられたトロフィーを胸に抱く優子が感極まった様子で目頭を押さえる。そんな優子を心からねぎらうように、彼女の肩へ夏紀が優しく手を掛けたのが見えた。その瞬間、久美子の感情は、とうとう弾けてしまった。幾ら指で拭っても、両眼から溢れ出す熱は次から次へとこぼれ落ちる。気付けば麗奈もまた、抑え切れぬ涙をどうしたらいいか分からなくなっているようだった。

「良かった。ホントに、ホントに良かった」

 どちらからともなく、久美子と麗奈は抱き締め合う。まだ終わらない。私達の音楽は続くんだ。その喜びを麗奈と二人、心から噛み締める。どこにこれほどの涙と感情がしまわれていたのかと思うくらい、二人はひたすらに涙を流し、そして嗚咽した。

 ふと顔を上げると、サポート係の一団にあすかの姿があった。いつも通り、何でもないような澄まし顔をしながら、あすかはこちらに向けて親指を立てる。

 だから言ったでしょ?

 そんな不敵な声に耳をくすぐられたような感触が、確かにあった。

 

 

 

 

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