コンクール全国大会への進出を決め、それとほぼ同時に夏休み明けを迎えた吹部一同。彼らは毎日の学業に勤しむかたわら、全国大会に向けての練習を着々と進めつつ依頼を受けた各種の演奏会もこなす、つまりはそれなりに多忙な日々を送っていた。
「ホント、何が起こるか分かんないっていうか、今回はコンクールの怖さを思い知ったっていうか」
「なのかなー。私は立華があんだけ上手いのに銀だったってことの方が、まだショック抜けてないかも。三強がすごいってのは聴いてて何となく分かるんだけど、みんなみたいに細かいとこまでは違いが分かんなくてさ」
「私も麗奈ほどハッキリ分かるってワケじゃないけど。でも毎年全国に行くぐらい上手いとこだからね、三校とも。特に明工なんか、顧問の先生が変わっても二年連続で全国出場なわけだし。ああいう強豪校ってホント、普段どんな練習してるんだろ」
「でも久美子ちゃん、練習の内容だったら今年の北宇治も負けてないって緑は思いますよ」
「そうね。流石は滝先生」
「いやいや麗奈、一応橋本先生と新山先生も手伝ってるから。あとあすか先輩も」
お弁当をつつきながら、四人は談笑のひと時を過ごしていた。今日は日曜日なのだが北宇治は午後からイベント出演の予定があり、それはここショッピングモールの大きな吹き抜けコートで行われることになっている。出番を控えた北宇治の面々は再集合の時間までこうしてお昼休憩の自由時間を満喫中であり、そこでは先般行われたコンクール関西大会の話題で持ちきりだった。
数年前に名物顧問が去った明工や昨年ダメ金だった秀大附属とは違い、盤石の砦と目されていた大阪東照のまさかの陥落。それは全国の吹奏楽ファンの間でもちょっとした事件になっていた。あの東照が、という驚きに乗じて『三強の凋落』『一時代の終焉』などとうそぶく声も中にはあったが、いずれにせよ衝撃的な話であったことに疑いの余地は無い。当の久美子達ですら、ほとぼりが醒めた頃になってようやく『東照ダメ金』という事実を認識して二度驚いたぐらいだ。そのぐらい、今年の関西大会は波乱に満ちた結末となっていた。
「龍聖も、すごかったよね」
「うん。府大会の時にも龍聖の演奏聴いてたけど、その時よりもずっとレベルアップしてた」
久美子の問いに答えつつ、麗奈はペットボトルのお茶に口をつける。
「あすか先輩の言う通り、私達もあのままだったらヤバかったってことだよね」
「多分ね」
その事を思うと、今でも怖気に身が震えてしまう。実際の評点はさて置くとしても、北宇治と龍聖、どちらが抜けてもおかしくないほど僅かな差しかなかったことは厳然たる事実だ。それを乗り越えられたのは、純粋な実力差によるものとは言いがたい。
「龍聖の顧問の先生、源ちゃん先生だっけ? どんな先生か後から聞いて私もビックリしたわ。そりゃたった一年で、府大会止まりのトコが関西金まで来れるはずだーって」
「葉月ちゃんの言う通りですね、さすが源ちゃん先生です! 顧問じゃなくて特別顧問ですけど」
「どっちも同じようなもんじゃないの、それ」
緑輝の弁に葉月は引き気味な視線を向ける。重度の吹奏楽オタクな緑輝がそこに拘る理由は、久美子にも良く判らない。
「全国金賞常連の明工を作った立役者。二年前に明工の顧問を引退して、今は龍聖の特別顧問。源ちゃん、こと
頭の中の情報を掘り出すように、少し俯き加減でぽつぽつと麗奈が呟く。それにすかさず葉月が反応を示した。
「そうそう、月永って苗字なんだよねー。そこもビックリした。うちの求と同じじゃんって」
「私もそれは思ってた。月永、って全国的にもそんなに多い苗字じゃないよね」
葉月と麗奈が珍しく見解を一致させている。きっと思い描いているのは二人とも同じことだろう。そしてその疑念は、久美子の中にもずっと渦巻いていたものだった。
「ただの偶然かもだけどさ、その。ひょっとして求君って、源ちゃん先生と――」
「久美子ちゃん」
場の流れをやにわに遮る緑輝の丸みを帯びた声。なにごと、と全員が緑輝に目を向ける。
「求くん、あんまりお家のこととか喋らないですよね。緑も一度求くんに聞いてみたことありますけど、家族の中に吹奏楽やってる人は居ないって言ってました。だったらそれでいいんじゃないかな、って緑は思います。求くんは求くん、私たちの可愛い後輩。ただそれだけです。ね?」
柔らかい微笑みを湛えながら、くりくりとつぶらな緑輝の瞳が自分を突き刺す。それに久美子は息を呑んだ。考えてみれば、吹奏楽に関するありとあらゆる情報に精通した緑輝がこの共通項を見逃す筈は無い。その上できっと、緑輝は求の意志を尊重しているのだ。そこに何が秘められているのかは結局分からないまま。けれど少なくとも当の求が何も語らない以上、自分達も迂闊に触れるべきではない。緑輝の発言も恐らくは、そこまでを見通してのものなのだろう。
「……緑ちゃんって、すごいね」
「何がです?」
「そういうところが」
ふに、と破顔し、緑輝は勢いよく立ち上がる。
「ぜーんぜん! 緑は緑らしくしてるだけです」
両手を振り、緑輝がはしゃいでみせる。仲良い友人の知られざる一面を垣間見た思いがして、久美子はその時、溌溂とした彼女の横顔をひたすら感心する面持ちで眺めていた。
「うーん、私は気になるけどなぁ。でも誰にだって触れられたくないことの一つや二つはあるよね、確かに。求本人が言わないんだったら、私達がとやかく言うことでもないか」
「そこは確かに、川島さんの言う通りね」
「あー! 麗奈ちゃん!」
「ど、どうしたの川島さん?」
「それですよ! 緑たち、もう二年も一緒なのに『川島さん』だなんて、何だかすごく距離を感じます。久美子ちゃん達みたいに『緑』って、麗奈ちゃんにもそう呼んで欲しいです」
「え、えぇ?」
緑輝の唐突な申し出に、麗奈は珍しくドギマギした様子を見せている。久美子はこっそり葉月と顔を見合わせ、くひひ、と示し合うようにほくそ笑んだ。
「今から緑のこと下の名前で呼んで下さい。では行きますよ、三、二、一、」
「えっと……じゃあ、み――」
「サファイアちゃん」
決死の思いで繰り出そうとしていた麗奈の発言を、久美子と葉月は声を揃えて上書きする。ぎゃー、と緑輝は目を白黒させた。
「やめて下さい二人とも! 緑は緑ですぅ」
「あははは。ごめんごめんサファイアちゃん」
重ねられた久美子の揶揄に、もうー、と緑が頬を膨らませる。そんな彼女の愛らしい姿にけらけらと笑い声を上げながら、久美子はおもむろに空を見上げた。
ついこの間まで夏の盛りだと思っていたのに、気付けばセミの鳴き声も聞こえなくなり、薄雲の伸びる空はすっかり蒼色を深めている。木々の葉が色づくのはもう少し先のことだけれど、それでも気温も少しずつ下がり始め、秋の気配はひたひたと辺りを染めつつあった。文化祭もとうに終わり、こうして各所のイベントに出演するのもそろそろひと段落。そうしたらまたコンクールに向けて集中することになる。全国で、金賞を。春にみんなで誓い合ったその目標を叶える時は、刻一刻と迫っていた。
「その前に中間テストがあるけどね」
「うわー、やめてよ高坂さん。テストの話されると私、おなか痛くなっちゃう。ああもうホンットいみじきかなーいみじきかな」
思い切り顔をしかめる葉月の謎の言い回し。麗奈はそれにクツリと吐息をこぼした。
「でもまずは、目の前の本番に集中しなくちゃね」
「はい! 緑、本番大好きです!」
「私も。頑張ろうね、その、緑」
麗奈の口がぎこちなく唱えたその呼び名に緑輝はご満悦とばかり、混じりっけ無しの笑顔を輝かせた。
「もちろんです!」
麗奈は少し照れくさそうに目を伏せる。そんな二人の微笑ましい様子を眺めながら、久美子もまたおなかの辺りがホワリと温かくなるのを感じていた。
*
答案用紙の返却も一通り終わり、中間テストをそれなりの成績でやり過ごした久美子は練習漬けの日々へと戻っていた。
秋の日はつるべ落とし、なんて言うけれど、この時期は本当に日の暮れるのが早い。放課後を迎えて程なく西の空へと傾く日差しはどんどん街の景色に身を沈めてゆく。暮れなずむ街並みの深みは、まるで勝負の日が近付いていることを自分たちに知らせているみたいで、落ち着かない気分を否応なしにくすぐられてしまう。そんな気忙しさの中、全国大会に向けてほんの僅かでも音を磨き上げようと、北宇治吹部の一同は誰もが練習の緊張感を高めつつあった。
「それでは、本日の合奏はこれまでにします」
「ありがとうございました!」
壇上の滝が手を組みながら今日の合奏を総括する。続けて練習を見に来てくれた橋本、新山らが合奏の感想を述べる。それらをぼうっと聞き受けながら、久美子はこれからのことに思いを馳せていた。
全国大会のその日まで、もうそれほど猶予は無い。練習の状況は日々順調を極めてはいるものの、それでも不安は常につきまとう。昨年の全国大会、北宇治の成績は銅賞だった。今年金賞を狙うというのなら、そんな過去の自分たちを大きく超えていかなければならない。どのみち全国大会は日本中に存在する三千以上もの出場校のうち、選りすぐられた僅か数十の団体だけが立つことを許される檜の舞台なのだ。『激戦区』と言われる関西を抜けたと言っても安心できる要素など一つも無い。そんなことは去年の例を紐解くまでもなく、とうに解り切っていることだった。
「……私からの話は以上。今日はこれで解散です。全国大会も近いし、みんな体調に気を付けて過ごしましょう。それじゃ、起立!」
優子の号令を合図に、全員が一斉に席を立つ。
「お疲れ様でした!」
解散の挨拶を終え、部員達がそれぞれ動き出す。一旦着席した久美子は、この後少し居残り練習でもしていこうかと考えていた。そんな折、部室の端から洩れ聞こえてきた話し声に、久美子はそっと耳をそばだてる。
「新山先生」
「どうしたの、傘木さん?」
「すみません。今日もちょっと教えて頂きたいことがあるんですけど」
「良いわよ。それじゃ、いつもの教室に行きましょうか」
「はい! よろしくお願いします」
そうして希美は新山と二人、部室を後にしていく。関西大会のあと、進路を音大一本に絞った希美はどうやら他の先生のところで受験に向けてのレッスンを受けているようだった。けれど彼女的に、現役のフルート奏者である新山の指導を仰ぎたいという思いはやはり諦め切れないものがあったらしい。新山が学校に来た日には決まって彼女にマンツーマンでの指導を願い出る希美の姿を、ここのところ毎度のように見ていた。
他方、みぞれはみぞれで自分の受験対策を粛々と進めているらしく、希美達とは別に過ごす時間も増えている。それでも今日はレッスンの予定が無いのか、部の練習が終わった今も彼女はひとり音楽室でオーボエを吹いていた。ひょっとしたら希美が帰ってくるのを、ここでこうして楽器を吹きながら待っているつもりなのかも知れない。そんなみぞれの背を眺めながら、久美子は彼女達の現状に思索を巡らせる。
あの日から今でも二人の演奏はしっかりと噛み合っていて、しかもその表現精度は未だに少しずつ、けれど確実に高まっている。それは決して悪いことではない。二人の間にも何も問題は発生していないし何もかもが極めて良好な状態と言える筈、だった。なのにどうしてか、久美子の心には今も引っかかりが残って仕方がない。何か、大事なことを見落としているような。そんな疑念を払い切れずにいるせいなのか、希美とみぞれを見掛ける度、心に翳りが生じるのを久美子は感じていた。
そしてそれは、あの人も。フルートパートの輪の中にいるその人物に久美子は視線を向ける。井上調。フルートを両手で握り締め、希美の背中を目で追うようにして、調は複雑そうな面持ちでジッと廊下の先を眺めていた。彼女のそういう姿を見るのはこれが初めてでは無い。関西大会以降、いや正しくは合宿の直後辺りから調が希美のことを曇りの入り混じった瞳で見ているのを、久美子はちょくちょく目撃していた。
『希美が戻ってくれて、私も嬉しいよ』
調の独特な声色が頭の中に残響する。ちょうどその時、調とパチリと視線が交わってしまった。あ、と久美子が思うよりも早く、調がこちらへと近付いてくる。
「黄前さん」
「あ、調先輩。どうも」
「どうしたの? 私のことなんか見ちゃって」
「いえ、何となく。ちょっとボーっとしちゃってて」
「そうなんだ、その割にはしっかり目が合った気がしたけど。その前からもずっと私のこと見てたでしょ」
「えぇ、そうでしたっけ」
「見てたって。実はこっち見てる黄前さんのこと、ずっと視界に入ってたし」
はぐらかそうとする久美子を、調はいやにしつこく追及してくる。ひょっとして何かを勘付かれてしまったか。内心狼狽する久美子をよそに、調はそこでふと窓の外を見やった。
「ねえ、黄前さん。この後って何か予定ある?」
「予定ですか? まあ、帰る前にちょっと居残り練習でもしていこうかな、って感じでしたけど」
「じゃあさ、十分くらいでもいいから、ちょっと話に付き合ってよ」
「話、ですか」
「そう。話」
頷いて、調は先ほど彼女が一瞥した明かりの灯っていない教室を指差す。
「前も言ったけど、黄前さんとは一度ゆっくり話したい、って思ってたからさ」
パチリ。
視界に広がる蛍光灯の眩しさに久美子は目をすがめる。引き戸を閉じた調は、奥へと向かって手を差し伸べた。
「さ、どっかテキトーに座って」
「はあ、失礼します」
調に促されるがまま、久美子は普段とは違う形の椅子を引く。夜の生物室内は動物の骨格やホルマリン漬けになった標本などがずらりと並んでいて、何とも不気味な空気だった。
調に連れられてやって来たこの部屋は、果たして二人きりで会話をするには実に都合良く、他の教室とも離れた位置関係にあった。窓際の台の上でコポコポ、と音を立てて泡を吹く水槽の中では小さい緑色の魚が何匹か泳いでいる。あれはフグか何かだろうか? などと考えていた折、目の前に椅子を持ってきた調がそこへ腰を下ろした。ここへ来るまで彼女が携えていたフルートは今は実験テーブルの上に置かれている。黒一色の台上に横たわる、切り裂くような銀色の輝き。そのコントラストがあまりに鮮烈すぎて、久美子は瞬きと共に目を逸らしてしまう。
「なんか緊張してる?」
「まあ、ハイ。調先輩とこうやって話すのって初めてですし」
「だよね」
調の喉が愉快そうにクツクツと鳴る。彼女の笑みは、牧歌的な平穏さを基調とする彼女の面立ちに良く映えて、それを見る者の心理をごく自然に緩める作用があった。
「まあそんな固くならないで。別に面談とか、そういう改まったもんじゃないし」
「はあ。えっとそれで、話って何ですか?」
「んー? まあ、大したことじゃないんだけどね」
片足首をもう片方の膝の上に載せ、まるで緩いあぐらをかくような行儀悪い姿勢で、調は話を切り出した。
「黄前さんはさ、希美のこと、どう思ってる?」
「え、」
不意を突かれ、久美子は息を詰まらせた。調は余裕の表情を崩さない。この人は自分に何を語らせようとしているのだろう。緊張から弛緩へ、そしてまた緊張へ。短時間のうちに幾度も心理をひっくり返され、久美子の思考はあっという間に混乱してしまう。
「誰にも話さないから、思ったこと正直に言ってみて。どう?」
「あ、いや、その」
どう、と聞かれたって、そんな質問への模範回答など久美子にはまるっきり用意できていなかった。かと言って口から出任せで答えるのも何となく後が怖い。さてどう答えたものやら。考えがまとまるまで暫くの間、久美子の口は変な形に歪むばかりだった。
「えっと、すごく頑張ってるなって思います。音大受験するみたいですし、それに向けていろいろ対策取ったり新山先生にも教わってたり。何よりフルート上手ですし。なんていうか凄いですよね、希美先輩」
「本当にそう思ってる?」
「思ってます。もちろん」
探りを入れるような調の物言いに、久美子は大きく頷いてみせる。決してウソばかりを言った訳では無いものの、核心にはなるべく触れぬよう気を遣ったつもりだ。自分の本音をここで彼女に悟られるわけにはいかない。調から漂う言い知れようのない緊迫感を嗅ぎ取った久美子の本能が、そう警告を発していた。
「そっか」
ぽつりと言葉を落とし、そこで調は少しの間、黙った。校舎のどこかから響くひゅるりと涼やかなフレーズ。難しげな音の羅列をいとも容易く吹きこなすそれは、新山の前で練習をする希美のフルートの音だ。久美子の耳は確信をもってそれを聴き取っていた。
「そうだよね。希美って、上手いもんね」
音のした方向に首を向けながら、調が一人ごちる。その表情に先程までの笑みはもう無い。色の無い瞳で、事実だけを淡々と噛み締めるように、何かをじっと見つめる調。彼女の不穏な様子を久美子は恐る恐る窺う。
「先輩は、その、どう思ってるんですか」
「何を?」
「希美先輩のこと」
調はこちらに視線を戻した。彼女の紡ぐ言葉が果たして本心かどうかは分からない。だから久美子はそこにもう一つ、言葉を付け足す。
「希美先輩が部に復帰した時、正直イヤだなって、先輩は思わなかったですか?」
その瞬間、すとん、と調の黒い
「さっすが黄前さん、って感じだねぇ。いやホント噂通り。こりゃあみんな一杯食わされるワケだわ」
「すみません。気分悪くさせるようなこと言っちゃって」
「いいよいいよ、別に気にしてない。それにさ、黄前さんだって『すみません』だなんて、実はこれっぽっちも思っちゃいないんでしょ?」
「う、」
こちらも図星を指し返され、久美子は思わず呻いてしまう。その反応を見て調はニタリと妖しく微笑んだ。
「だからかな、黄前さんと話したいって思ったのは。黄前さんになら話せそうだって思ったから。全部話して、それで全国大会の前に全部スッキリ、清算しておきたかったから」
「清算?」
「そう、清算」
やおら立ち上がり、調はつかつかと水槽のところへ歩いていく。その縁を指でさするように撫でると、中で泳いでいるフグたちは餌を貰えるとでも思ったのか、いそいそと水面へ寄ってきた。
「去年、希美が部に戻りたいってなった時さ。私は正直複雑だった。そりゃあ希美の気持ちが分からないでは無かったし、それにアイツが上級生に一生懸命抵抗してた時、私は先輩達が怖くて何も出来ないままだったから、希美に対しては罪悪感みたいな気持ちもあったよ。でもそれ以上に、何で今さら、戻って来てどうするつもりなのって、そんな風に思わなかったって言ったらウソになる」
窓の外に目を向けたまま、調はぽつぽつと語り始めた。つられるように久美子もそちらを見やる。両者の視線の先には、まだガヤガヤと賑わう音楽室の明かりがあった。
「でも、希美ってああいうヤツだから。去年のパートリーダーだった
「みんな希美先輩を許した、っていう感じですか」
「多分。あのあすか先輩が復帰の許可出した、ってのもあったしね。だったらしょうがないかーって。それに姫神先輩達だって、私と似たようなもんだったから」
水槽の縁を這っていた調の指が、角のところでくるりと向きを変える。
「滝先生が来て、それまでのヌルいやり方から一気に目が覚めてさ。ホントは心のどこかで解ってたんだよ。希美や希美と一緒に退部した子の気持ちとか、あの子らの言ってたことが間違ってなかったとか。だけど、希美達が辞めた後も私らは部に残ってずっと活動し続けてきたわけでさ。そこに『部の空気が変わったから』って希美があっさり戻ってくるのは、やっぱり複雑だった」
「それは、今でも?」
「どうだろうね。実際フルートには他に同学年の子も居なかったし、私一人じゃけっこう不安なとこもあったから、そこへ希美が戻って来てくれるんならありがたいって気持ちも無くはなかった。結果的に希美が復帰してくれて、練習面は希美に見てもらうことにして、おかげで私もずいぶん助かったって思う」
照明を背に負っているせいで、平坦な調の表情には陰が差していた。その機微を一粒でも読みこぼすまい、と久美子は目を凝らす。
「副パートリーダーの希美がバシバシ指導に回って、私は名ばかりパートリーダーみたいな感じだったけど、別にそういうのに拘る方じゃないし。後輩もみんな希美に懐いてみんなで練習頑張って、フルートパートは今年一年でかなり腕を上げたって思うよ。私が指導してたらこうは行かなかっただろうし、そういう意味でも希美が復帰してくれて良かったって、そこはホント思ってる」
彼女のその言葉は多分、嘘では無かった。頬を緩める調の面持ちに安らぎの色があるのを読み取った久美子は、ただ静かに彼女の語る続きを待つ。
「自由曲のソロとかも、希美の方が上手いんだし希美が吹くのは当然なことだと思う。自分が吹きたいって主張できるほど私、自惚れてないし。コンクールがどうとか部を辞めたヤツだなんて関係無しに、ソロは上手な人が吹いたらいい。それに私も文化祭とかでちょっとはソロ吹かせてもらえたから、私はそれで充分」
「そうですか」
「でも、最近の希美を見てるとさ。私はちょっと、息苦しい」
「息苦、しい?」
調の言葉を復唱しながら、自分の胸にもそれと同じ感覚が立ち昇ってくるのを感じて、久美子は短く息を吸う。
「希美、音大に行くって張り切ってるじゃん。今もああやって新山先生に直接見てもらったり、練習終わってからもレッスン受けたりして。自分の夢に向かって頑張ってるのは良いことだし、私だって応援したいって思ってる。でも希美が見てるのは多分、自分がなれそうな将来とかじゃなくて、鎧塚さんなんだよね」
調が遠くを見るように目をすがめる。それに呼応するかのように、部室の方角からオーボエの鷹揚な音色が響いてきた。
「希美はずっと鎧塚さんを追いかけてる。そして必死に手を伸ばしてもがいてる。そんな風に、私には見えてさ」
「それは……何となく、分かる気がします」
「希美ならそこに行けるって気もする。でも、いつかどっかで希美が折れそうな感じもあって。だけど私には何も言えない。だって私はどうやったって、あの二人みたいなところには行けないから。鎧塚さんだけじゃなくて、希美のところにも」
圧倒的な能力の隔たり。調が目算した各々の立ち位置は恐らく、これ以上無いほど的確だった。目には見えにくい、けれど峻厳とそこにそびえる絶壁を前にして、希美は今まさに己を奮い立たせて挑もうとしている。そして調は二人の足元にも及ばぬところから、遥か高みを見上げるようにして立っている。少なくとも彼女自身は、希美とみぞれのことをそういう目線で見ているのだ。
「じゃあ調先輩は希美先輩に、来て欲しいって思ってるんですか? こっち側に」
そう問いかけると、調はそれまで水槽を撫でていた指をピタリと止めた。力無く下ろされた手をもう片方の手で戒めるように、調はその細やかな手首をぎゅっと握り込む。
「ホント、凄いな。黄前さんは」
抑揚の無い声と共に、調が振り向く。彼女の目頭はほんのり淡く、きらきらと光っていた。
「私は希美と違うからさ。自分よりも凄い人を見て私もあっち側に行きたいなんて、そういう風にはどうしても思えないんだよね。私じゃどうやったって希美には敵わない。それに本音を言えば、どんなに希美がすごくたってアイツは『こっち側』なんだって、どっかでそう思ってる自分がいる気もする。もっともそれってどう見ても『あっち側』の鎧塚さんと比較するからなんだろうし、単に私がそう思い込んでるだけなのかも知れないけど」
それは久美子にはどうとも言えないことだった。プロになれるかどうかはさて置き、みぞれと希美、二人とも充分以上の実力を持っていることは疑いようの無い事実だ。そこは誰にでも辿り着ける境地ではない。少なくとも今の希美は部内でも指折りの実力者であり、全国の吹奏楽部員をひっくるめたって限りなく上位の技術を持っていると言えるだろう。けれど久美子は知っていた。新山の裁定を。そして、麗奈の判断を。
「でもさ、ホントは解ってるんだよ。例え希美がどこかで墜ちて夢を諦めてたとしても、それでも希美はこっち側に来たりはしなかっただろうな、って」
そう語る調の表情には苦渋とも悲嘆ともつかぬ、どろどろとない交ぜになった彼女の心理を煮こごりにした、ある種の凄絶さがひしめいていた。
「希美って、そういうヤツじゃん。音楽とか関係なしに、アイツは自分と向き合って自分を見つめて、自分を高めていけるヤツ。きっとそれが希美の才能。だからこそ
「調先輩も?」
かもね、と何かを諦めた時のように、調は弱々しい笑みを浮かべた。それはほとんど泣いているのと変わらない、そんな儚げな気配だった。この表情には彼女の本心の全てが込められている。久美子はそう直感した。
「あー、喋った喋った」
唐突に大きな声を出し、そこで調は力いっぱい伸びをした。全てを話し終えてせいせいしたのか、彼女の笑顔はもうすっかり元通りになっていた。
「やっぱ黄前さんと話して良かったよ。こういうこと、フルパの子達にはとてもじゃないけど喋れなかったからさ。優子達が一目置いてる理由も良く分かったし。腹を割って話すっていうより、割られた、って感じ?」
「いや、良く解りませんけど。優子先輩達どんなこと言ってたんですか? 何か変なこと言われてそうで怖いんですけど」
「そりゃあ本人には直接言ったりしないだろうけど、でも心配してるようなことじゃないから。そのうち打診されると思うし、期待して待ってたら?」
「打診とか期待ってそれ、どういう意味ですか」
「まあまあ。それは開けてからのお楽しみ、ってことで」
意味深なことを言いながらつかつかと、調が教室の入口の戸に向かって歩いていく。話はもう終わり、という合図なのだろう。立ち上がった久美子も椅子を元の場所へと戻し、彼女の背に続いた。
「今日はありがとね、黄前さん。これで心置きなく全国大会に集中できそう。あ、念押ししとくけど、今の話は他言無用でよろしく。特に希美とか夏紀とか、あのへんには」
「分かってます。二人だけの秘密、ですよね」
「そうそう。くれぐれも私の信用を裏切らないでよー」
引き戸を開け、調は久美子に先を譲った。それに従って久美子は戸口から一歩、廊下へと歩み出る。
「どっちだと思う?」
やにわに問い掛けられ、はたと久美子は振り向く。自分と調、二人の足元には互いの領分を隔てるかのように、引き戸のレールが横たわっていた。
「黄前さんは、自分自身のこと」
彼女が何を問うているのか、分かるような、分からないような。その曖昧な空気にしばし言い淀む。けれど微かな迷いを振り払うように決然と、久美子は口を開いた。
「分かりませんけど、今は自分の理想に向けて精いっぱい頑張りたいって、そう思ってます」
「……そっか」
その時浮かべた調の笑顔は、久美子を包み込む目一杯の慈愛と、ほんの少しの寂寥とを混ぜ合わせたような色合いだった。「先に行ってて」と調に言われるがまま、久美子は前を向き廊下を進む。後ろでパチリとスイッチを切るような音。久美子はそれに振り向かず、楽器を置いたままにしてあった部室へと、ただ真っすぐに歩いていった。
しばらく話し込んでいる間に部員の大半は居残り練習へ向かったか、あるいは下校してしまったらしい。音楽室に残る人影はまばらだった。そんな中、定位置で練習を続けていたみぞれがこちらに気付き、視線を寄越してくる。
「おかえり」
さえずるようなみぞれの呟きに「戻りました」と返事をすると、みぞれは小さく頷きを返して自分の練習に戻った。オーボエの調べが再び部室を染め上げていく。その音色の豊かさを肌に感じながら、久美子はさっきまで調と話していた生物室へと目を向けた。既に明かりは落とされ、生物室の窓は真っ黒に塗りたくられている。そこに重なって映る、調の儚げな笑み。途端、急速にこみ上げる何かを抑えるように、久美子は胸の辺りをぎゅっと掴む。
調はもう帰ったのだろうか。それともそこには、彼女は、まだ。
校舎のどこかから再びフルートの音色がこぼれる。それまでよりもちょっとだけ不格好な、震える風のように不確かな旋律。それは涙の色に濡れているみたいに、久美子には思えた。