「それにしても今年もなんか、あっという間だったね」
「だな。まあ思い返してみると、今年も去年に負けないくらい濃い一年だったけど」
植え込みを避けるように歩きながら久美子は秀一と二人、語らいの時を過ごしていた。普段は部の関係者に見られることを避けつつ行動している二人も、外灯の光さえおぼろげにしか届かぬこの場所では何に憚ることもない。互いの表情でさえこの暗闇のせいで、相当近くまで寄らなければ判らないほどだ。
そんな二人が今いる場所は、学校でも二人の住むマンションの近辺でもない。宇治からバスに乗ること数時間、名古屋市内に手配された宿舎の一角。玄関から出て少し歩いた先にある庭園のようなところを、二人は夜闇に紛れてそぞろ歩きしていたのだった。
「いよいよ、明日だな」
「うん」
重みを込めた秀一の言葉に、久美子もまた気持ちを昂らせる。現地入りした今日、近くのホールを借りての最終確認とリハーサルを終え、明日はいよいよコンクール全国大会高校の部、本番の日。とうとうここまで来てしまったという切迫感と、これまでやって来たことの全てを思い切り発揮したいという確かな意欲とが、久美子の中には交互に去来していた。
「そう言えばさ。去年も久美子とこんな風に、本番前日の深夜に二人っきりで喋ってたっけな」
「そうだっけ?」
「忘れてんのかよ。ホラ、あれ渡しただろ。一応誕生日のプレゼントってことで」
「ああ」
生返事をして久美子はそっぽを向く。もちろん忘れてなどいる筈が無い。覚えている、と白状するのが照れくさかっただけだ。あの日秀一から渡されたのは、白いひまわりをあしらった髪飾り。普段滅多に付けることのないそれを久美子は今回、周囲に内緒でこっそり持ち込んでいた。本番の舞台で着飾る為でなく、一種のお守りとして。
「あん時さ、実は俺、けっこう緊張してたんだぜ。もし拒否られたらどうしようって」
「そういうこと、本人目の前にして言う?」
「だからあくまであん時は、って話。さり気なく渡すのにも苦労したし」
「全然、さり気ないって感じじゃなかったと思うけど」
「しっかり覚えてんじゃねえかよ」
しまった。語るに落ちるとはこのことだ。急激に顔の辺りがかあっと熱くなるのを感じて、久美子は秀一から目を背ける。
「もう、秀一のくせに」
唇を尖らせる久美子の何を面白がったのか「くはは」と秀一が噴き出した。ムカつく、と振り向いた目と鼻の先には微笑みを噛み締める秀一の顔。不意の接近に、久美子の心臓はずぐんと大きな脈動を打つ。
「あん時、久美子が喜んでくれてさ。俺も嬉しかった」
しばし見つめ合う久美子と秀一。嗅ぎ慣れた筈の彼のにおいが、ひときわ強く鼻先をかすめる。互いの前髪が触れ合うほどの距離。唇に感じる秀一の吐息。この雰囲気はやばい。そう思った次の瞬間、秀一は一瞬困ったように眉を歪め、そのままするりと久美子から離れた。
「さって、だいぶ冷え込んで来たし、そろそろ部屋に戻ろうぜ。あんま長いことうろついてたら、またあの人に見つかって冷やかされちまいそうだし」
「……ん、」
ばくばくと暴れ回る心臓はまだ落ち着きを取り戻してはいなかった。それを抑え込むように緩く息を吐き出しながら、そうだね、と久美子も彼に倣う。
異性に対してこんなに胸をときめかせるものを、恋と呼ばずして何と呼ぶのかは分からない。けれど以前から何となく、久美子はそのことに不安を覚えつつもあった。あんな時、恋人同士ならどんなことをするのか。それを知らないわけでは無い。そして秀一とそうなることを、久美子自身は嫌がっている訳でもないつもりでいた。でもいざその瞬間を迎えそうになる度、心にブレーキを掛けてしまう。そんな自分がどこかに居る。
幼なじみ。近所付き合いもある仲の良い男子。吹部の仲間。そして、恋人。秀一に対して貼り付けた幾つもの付箋のうち、果たして自分はどの秀一を選びたがっているのだろう。その感覚がもう一つ掴み切れなくて、久美子は胸の内に迷いを募らせていた。秀一はあの瞬間、何かを自分に求めたのか、それとも自制したのか。こんな判断すら自分にはつけられない。そしてもし、彼が本気で自分を求めてきたとしたら。そう考えた時、体の芯が大きく疼くのを感じた。
いつまでも答えを出せない自分は、本当に秀一の傍に居ていいのか。そんな思いが久美子の中でずっと燻っていた。
「おはよう久美子」
「おはよ、麗奈」
朝の目覚めは極めて爽快と言えた。初めに麗奈と挨拶を交わし、皆が起き出してから布団を畳んで簡単に身支度をし、食堂へと降りる。調理場から漂ってくるおみそ汁の匂いがかぐわしい。途端、自分のお腹が小さく「ぐう」と音を立ててしまった。緊張で食欲が失せたりしていないのは良い傾向だが、いかんせん恥ずかしい。それを覆い隠すようにみぞおちを撫でつつ奥のほうを見渡す。配膳作業が進められている真っ最中の食卓には既に、卓也ら低音パートの三年生が座っていた。
「おはようございます」
「おはよう。皆、ゆうべはよく眠れた?」
にっこりと温かな笑みを湛えながら、梨子が久美子達を労わる様に声を掛けてくる。
「はい。ぐっすりでした」
「葉月ちゃんが、ちょっとお寝坊さんでしたけどね」
「仕方ないって。ゆうべは友恵先輩達との打ち合わせもあったし、それに寝る前の
「加藤、ほら。寝ぐせ寝ぐせ」
夏紀が手振りで教えてやると、もー、と低く唸りながら葉月は前髪をバサバサと押さえつけた。彼女のがさつな処置に夏紀は失笑しつつ目の前の箸へと手を伸ばし、それをついと指で撫でる。
「まあ私もなんだかんだ言って、正直ぐっすりは眠れなかったけどね。何度か起きてトイレ行ったりしてるうちに気付けば朝、って感じで」
「私も夏紀といっしょ。今日が最後って思ったら、なんか急に目が冴えちゃって」
最後。梨子の発した一言の重みに全員が口をつぐむ。あ、と場の雰囲気を察した梨子はうろたえながらも必死に取り繕った。
「で、でも、今年は三年生みんなでここに来れたから、楽しみなのもあったけど」
「そうだな」
卓也がぼそりと梨子に相槌を打つ。
「去年、約束したし」
「だね」
それに夏紀はウインクをしてみせた。一年前のささやかな誓い。それがこうして無事果たされたことを、久美子もまた嬉しく思う。そんな中で葉月だけはメンバーでない負い目からか、肩身狭そうにシュンとしていた。が、笑顔の緑輝にパンと背中を叩かれ、すぐさま表情を引き締める。
「私、今年も先輩達のこと全力でサポートしますから。本番がんばって下さい!」
「ありがと、葉月ちゃん」
「来年は加藤も、必ずオーディション受かって、そんで全員で全国まで来い。俺たちも必ず見に来るから」
「はいっ!」
元気の良い葉月の返事。こうして今年も仲間達との誓いは更新された。それはこれからもずっと続いていく筈だ。来年も。自分達が卒業しても。その後も、ずっと。久美子はそれを願わずにはおれなかった。
「ところで、あすか先輩は居ないんですか?」
はたと気付いた緑輝が辺りをキョロキョロと窺う。早起きが習慣付いているあすかなら、とっくにここへ来ていてもおかしくない頃合いだ。なのに食堂のどこにもあすかの姿は見当たらない。もしや何かトラブルでもあったのでは。気になって辺りを窺う久美子に、心配無いよ、と夏紀が片手を上に向ける。
「あすか先輩、楽器も持ってきてないし、他にやること無いから朝食の時間ギリギリまで部屋で勉強してる、ってさ。そろそろ受験も近付いてきたことだしって」
ほへー、と葉月は間の抜けた相槌を打つ。
「そうなんですか。大会まで来て勉強ってのも、なんか大変ですね」
「ま、自分の勉強してるっていうよりかは、他の連中に教えてる方がメインっぽかったけど」
「そうだね」
その光景を思い出してか、梨子は夏紀と顔を見合わせ苦笑する。何となく久美子はここ最近、そんなあすかのことが気に掛かっていた。合宿の辺りから時々発していた「最後」という言葉。それがまるで嘘であったかのように、その後もあすかは文化祭のステージ、植物園での演奏、そして各種のイベントでも久美子達と椅子を並べ、共に本番をこなして来た。全国大会に向けての練習一色となってからもあすかの辣腕ぶりは変わらず、コーチとして部員達に沢山の助言をしてくれている。あの頃はひょっとしてあすかが関西大会を目途に部を辞めてしまうのでは、などと恐れていたものだが、それは単なる自分の杞憂に過ぎなかったのだろうか?
と、そんなことを考えていた折、食堂の入口に美玲たち一年生の一団がぞろぞろと顔を見せる。こちらに気付くなり、彼女らは全員揃って元気な挨拶をよこしてきた。
「おはようございます!」
「おはよう。みっちゃん、さっちゃん」
「さっちゃん、今日は私らもサポートとして、目いっぱい頑張ろうね!」
「はい! 葉月先輩!」
「あれ、求くんは来てないんですか?」
「さあ、求は男子部屋ですから。大方まだ部屋で寝てるんじゃないですかね」
などと会話を交わす久美子達のところに、梨々花と一緒に奏も姿を現した。
「おはよーございますぅー」
「おはよう梨々花ちゃん、奏ちゃん」
久美子が声を掛けると、奏は僅かに身じろぎをした。それからこちらにジト目をくれる。やはりまともに挨拶をしてはくれないのか。と、
「……おはようございます」
不承不承、といった具合に奏が頭を下げた。それを見て久美子は一つ安堵する。オーディションの日からずっと塞ぎ込んだままであるかのように見える奏もほんの少しずつ、氷山が一滴ずつ融けていくかのように、久美子と向き合う姿勢を見せ始めている。今日この日を迎えるまでに完全な雪解けを、とはならなかったものの、まだ希望が断たれたわけではない。そんな奏をただじっと見つめる夏紀の横顔に、久美子はいつかの彼女の言葉を思い返していた。
『私の分までアイツのこと、面倒見てやって』
・
・
・
チューニング室の扉が閉じられ、久美子達は本番に向けて最後の音出しをした。ピッチの確認。入りの音。その後全員で短い練習曲を合わせ、感触を一つにする。ここまで来たら余計な調整はせず、あとは自分達の気持ちを確認する。それはいつも通りの滝の方針だ。
「さて、いよいよ全国大会の本番です。皆さん、気分はいかがですか?」
滝の問い掛けに、メンバーは皆引き締まった表情で応える。
「もし皆さんが怯えてしまっているようなら何か一言を、と思っていましたが、この分ならば大丈夫でしょう。あまり気負い過ぎずリラックスして臨めば、今の皆さんなら最高の演奏ができると私は信じています」
滝のその一言で、久美子の高揚は否が応にも増す。一同の頼もしい顔つきに一度目をすがめ、滝は続きを語った。
「春、皆さんが誓った全国金賞の目標に向かって、私たちは一心不乱にここまでやって来ました。努力を重ね、高いハードルを乗り越え、自分達の音を磨き続ける。口で言うのは簡単ですが、実行するのは並大抵のことではありません。それをここまで成し遂げてきた自分自身を、誇って下さい」
「はい!」
「そして、後は本番を楽しみましょう。結果は後からついてくる。今は自分達の全てを出し切って、最高の演奏を思う存分楽しんで下さい。それを成すためにも相応の実力が必要です。皆さんにはそれが出来るだけの力がある。この事は私も、橋本先生や新山先生も、そしてコーチとして今年一年頑張って下さった田中さんも、誰もが認めるところです。そのことを、誰よりも皆さん自身が強く信じること。そうすれば必ずイメージ通り、最高の演奏が出来ます。私からは以上です」
では部長、と促され、優子が立ち上がる。
「まずはみんな、ここまで私のことを支えてくれて、本当にありがとう」
真摯な面持ちを保ったまま、優子のコメントは部員達に感謝の意を告げるところから始まった。
「みんなじゃなかったら、北宇治は今日この場には居られなかったって思う。たくさんの人たちに支えられて、私たちは府大会からここまでを勝ち抜いて、そして今日までやって来れました。加減が利かずに突っ走りがちな私について来てくれたこと、危ない時でも全力を出して乗り切ってきたこと、全部心から感謝の一言です。特に……言いたくないけど副部長にも、この勢いでお礼を言っときます」
おっ、と部員たちは一斉に息を呑む。突然のご指名に夏紀はそそくさと顔を逸らし、優子もまた照れ隠しをするように「ゴホン!」と大袈裟な咳払いを一つ入れた。
「ここまで来たら後は難しいことは言いっこなし! 今までの全部を本番にぶつけて、十二分間の舞台を思いっきり楽しもう! 関西大会でも言ったけど、今年の北宇治はここ三年間の中でも最強です。過去、強豪だった頃の北宇治にだってきっと負けてません。そんな自分達に自信を持って、金賞だ何だって気負わずに、私達に出来る最高の演奏で会場にいる人達をあっと言わせて、最後は笑顔で帰りましょう!」
「はい!」
「それではいつも通り、ご唱和願います」
部員達に向け、優子は顔の高さにげんこつを握る。久美子もそれに合わせ、同じポーズを取った。
「北宇治ぃ、ファイトー!」
「おー!」
天に向かって高々と突き出す拳に自分達の想いを乗せて。五十五名の鬨の声が高らかに、チューニング室に響き渡った。
「時間です」
扉を開けたスタッフの声。「分かりました」と返事をした滝は部員達を導くように、その手を差し伸べた。
「行きましょう。私達の舞台に」
「久美子は本番、誰の為に吹く?」
「そういう麗奈は?」
舞台袖。ひんやりと冷える空気の中、北宇治の一同はそれぞれに、本番までの僅かな猶予のひと時を過ごしていた。関西大会の時と違い、今は一人静かに集中を高める優子。彼女の姿を横目に見ながら、麗奈がひそりと呟く。
「私はもちろん自分と滝先生の為。それと今年は、優子先輩の為」
「じゃあ私は麗奈と夏紀先輩の為、かな」
「それは嬉しいけど、久美子にはもう一人いるでしょ? 聴かせたい人が」
「うん」
「最高の演奏しないとね。その人の為にも」
「だね」
きっとその人はこの暗闇のどこかで、葉月達と一緒に自分の演奏を見守っていてくれる。あの人に最高の音を届けたい。そういう思いに、久美子の胸は高鳴った。
「麗奈、ありがとね」
「どうしたの、急に?」
「何となく。麗奈がいっつも前を走ってくれてるから、それを追いかけて私もここまで来れたんだなあって、そう思って」
「まだ早いでしょ」
クツリと喉を震わせて、それから麗奈はいつかの時と同じように、こちらへ向けて拳を繰り出した。
「私達のコンクールは、まだこれからだから」
「そうだね」
「それと、久美子には後ろじゃなくて隣を走ってて欲しいって、私はそう思ってるんだからね」
「うん」
その想いに応え、久美子は麗奈に拳を合わせる。くっつけた麗奈の拳から自分の腕へと熱い滾りが伝わり来るのを、久美子は確かに感じた。
「頑張ろう」
どちらからともなくそう言ったのとほぼ同時に、前の団体の演奏が大音声と共に荘厳なフィナーレを迎えた。いよいよ登壇の時。北宇治のメンバーが続々と舞台の袖へと集う中、久美子はその隙間を縫って、夏紀の隣へと身を寄せる。
「先輩、頑張りましょうね」
「久美子ちゃんも」
そこで交わした言葉は少なかった。けれど、それで充分だった。互いの決意をわざわざ口にする必要はもう無い。後はここで全てを出し切るだけだ。差し出した久美子の拳を夏紀の拳がコツンと叩き返す。彼女から教わった激励と宣誓の儀式は今や、北宇治の全員に広まっている。卓也と梨子。葉月と緑輝。美玲とさつき。優子と友恵。そして、みぞれと希美。そこかしこで静かに拳のぶつかる音が鳴り、それが部員達の士気を一段と増幅した。
「行くよ」
優子が小さな声で合図を送る。それに背を押されるようにして、久美子達は
「続いての演奏は、プログラム七番。関西代表、京都府立北宇治高等学校の皆さんです。課題曲Ⅳ。自由曲、卯田百合子作曲『リズと青い鳥』。指揮は、滝昇です」
流暢なアナウンスと共に鳴り響く満場の拍手。それと入れ替わるようにして滝が指揮台へと登壇する。舞台は瞬く間にしんと静謐な空気に染まり、照明に浮かされた埃がひそやかに宙を舞っている。緊張と集中が最大に高まるひと時。滝はそれを穏やかに見送るように舞台上の全員へ目を配り、皆の準備が整っていることを確認しておもむろに両手を高く掲げた。楽器を構え、滝に集中を向ける一同。滝が手を振り、二拍目をかざすのと同時に、一斉に息を吸う音が舞台に散らばった。
高らかに鳴らされた開幕の音。華々しく広がる木管の音を支えるように金管の音色が上下に揺れ動き、打楽器の硬質な音がそこに煌めきを添える。出だしを終えてすかさず音量を指定通りに抑え込み、そこからチューバが行進曲らしい刻みを正確に放っていく。フルートを主体とした瑞々しい音色は曲の題名である『ラリマー』の名に恥じぬ、宝石のような美しい輝きを燦然と放つ。そこにクラリネットやサックスが各々の表情を見せつつ颯爽と前面へ躍り出た。
リズムをしっかり維持しつつ、それに囚われない奔放さをもって旋律は次へ次へと進行し、やがて口火を切ったホルンの力強い音に乗って金管の総奏がホールを揺るがす。これまでの練習で培ったものは細やかさのみならず、こうした大音量の場面にも存分に活かされていた。絞り込みを極限にまで行うからこそ、開放はよりダイナミックに引き立てられる。緩急。抑揚。濃淡。それらの落差が鮮明であればあるほど表現の幅はより豊かになる。そのことを、久美子はこの本番の舞台に立って演奏しながら改めて強く実感していた。
滝が腕を横に払うと共に、スウともたらされた静寂。二拍を一組として穏やかに進行する場面で、木管とユーフォによって織り成された調和の上を、希美のフルートの音がひらりひらりと自在に舞っていく。それをクラリネットが受け継ぎ情緒感のあるメロディを吹き上げたかと思えば、次に来るのはトランペットの耳をくすぐるような柔らかいハーモニー。次の場面にはユーフォニアムのソロが待っていた。休符のうちに呼吸を整え、久美子はユーフォの管を握り締める。
場面転換と共に自分のユーフォから響き渡る、柔らかく芯のある音。たった四小節間のソロ。けれど久美子は細心の注意と共に、万感を込めてソロを吹く。イメージはあすかの奏でるあの音色。そのメロディを彼女に届けたい。あすかのような美しい音を、あすかに聴いて欲しい。一つひとつの音を、決して音量に頼らず、しかし極限まで響かせるように。己の理想をここに体現するつもりで、久美子は堂々とソロを吹き切った。
そこから木管はまた息を吹き返したようにじわじわ音量を上げてゆき、つられてホルンとトロンボーンが景気よくユニゾンを奏でる。唸る金管の大合唱。拍通りに打ち鳴らされるシンバル。火を点けて回るように一つずつ、やがて全ての楽器が音量を高め、マーチの終盤を大いに盛り上げる。さらに一段テンポを速めたまま怒涛の流れに乗り、締めの一音を余韻を持たせて鳴らし切って、課題曲の演奏は終わった。
息をつく暇もなく、目の前の楽譜を自由曲に差し替える。『リズと青い鳥』。このメンバーでこれを吹くのもこれが最後になる。そんな感傷に身を委ねるだけの余裕は、しかしこれっぽっちも無い。視界の端で希美がフルートを、みぞれがオーボエを構えるのが、それぞれ久美子の目に飛び込んできた。全ての次第を確認するかのように滝は小さく頷き、そしてゆるやかに手を振り上げる。
さわさわと空気を撫でるような木管の入り。黎明の瞬間を
第一楽章『ありふれた日々』の主題は木管が中心となって快活に展開される。リズミカルに小気味よく、八分の六拍子を正確に保った木管のメロディ。トリルから跳躍、そして下降、と細やかな音の連続。それらはともすれば僅かなズレのせいでぼやけがちになってしまうものだが、極限まで揃えられた北宇治の音はハッキリと音の粒を聞き取れるほどに洗練されていた。トランペットの勇壮な音が場を駆け抜け、打ち鳴らされたシンバルの音と共に場面が移ろう。もう一度、トランペットがユニゾンで歌い上げたその主題は強烈なインパクトを場に残す。後を受け継ぐ木管が音場を広げると共に迎えた最初のピーク。木管の音が転々と舞台上を跳ね転がり、最後はページをそっと次へとめくるようにして、第一楽章は終わった。
間を空けず、すぐに第二楽章『新しい家族』へ。地べたを這いずる重低音がひしめき、吹きすさぶ強風を思わせるウインドマシーンの乾いたこすれ音が周囲を引き裂き、場面に強烈な不穏さを醸し出す。第一楽章の明るさから一転、第二楽章は訪れ来る嵐の只中をテーマとした猛々しさを基調とする楽曲である。それに相応しく、何かを予感させるように小さく蠢いたトロンボーンに合わせて拍子木が雷鳴のような一閃を放つ。ティンパニーの張り裂けるような打撃音。迫り来る木管の重連。そして聴く者に衝撃を浴びせる、金管の高低問わぬ大音声。ここから暫くの区画は低音パートの独壇場だ。
三本のチューバによる豪壮な爆音は否応なしに恐怖感を掻き立て、音楽全体に凄みを加えていく。木管の挙動をなぞるように金管が追従し、さらにその上にまた木管がかぶさって。折り重なる音の波は階段状のクレッシェンドで一気にせり上がり、これでもかと観客席を揺さぶった。駆け回るシロフォンと木管の音が聴衆の耳を存分にくすぐった後、木管総員による一撃がスフォルツァンドで一度、それよりもひときわ強くもう一度、風に飛ばされた小枝の如くホール後部に打ち付けられる。重低音の唸りが這うように伸びると共に、ラチェットと呼ばれる巻き上げ式楽器の音が無機質にそこらを転げ回ったところで、嵐の第二楽章が過ぎ去っていった。次はいよいよ第三楽章『愛ゆえの決断』。みぞれのオーボエが主体となる、その時だ。
滝の指揮がふわりと落とされたのに合わせ、オーボエの音が神々しく響き渡る。フルートはその傍にぴたりと身を寄せ、二つの音がえも言われぬ一体感で飛び交う。そんな二人の優雅な協奏を、ハープの風雅な音色はそっと見守る様に支えていた。
豊かに、けれど物悲しく行き来する伴奏。初めは苦戦していた
そして、みぞれの独奏。希美の支えを受けて翼を翻し、彼女は一段高く舞い上がる。まるで孤独に打ち震えるように。そんな哀しみさえをも飲み込んでしまうかのように。儚げなオーボエの音色は、ホール内に存在する全てを染め上げた。張り詰めさせた力を一度抜くように音を弱めた後、夕凪の空をたった一人で飛んでいく決意を固め、みぞれは駆け上がっていく。それに合わせてバスドラムは振動を強め、他の楽器も急速に音量を盛り上げる。
衝撃的に打ち鳴らされるシンバル。最大級に鳴り響く金管のファンファーレ。それは離別の決断を思わせる、強い悲哀に満ち満ちた音。みぞれが奏でるオーボエの飛翔は尚も止まらず、堕ちかけてはまた翼を広げ、全ての想いを懸けて幾度も身を翻す。やがて場の音が少しずつ絞られていく。夕陽がとっぷりと雲の向こうに沈むように。辺りを埋めていた灯を一つずつ消すように。オーボエが虚空を斜めに切って音を繋ぐと、束ねられたフルートもそれに呼応して高みから一段ずつ音を下げてゆく。暮れなずんだ夕闇の遥か向こうで、みぞれのオーボエがか細く悲痛に主題のフレーズをそっと歌い上げた。希美はみぞれの歌声をそっと抱き締めもう一度空へと解き放つみたいに、オーボエと同じフレーズを同じように歌い上げる。ギリギリまで絞り込まれた全ての音は雲の中に尾を引いて立ち去り、ふつりと終端を迎えた。
第三楽章の最後、オーボエによるカデンツァ。それはここに到って彼女の持てる技術、表現、そして感情の全てを音に変換し紡ぎ上げた、みぞれ自身の
自由曲もいよいよ最後の第四楽章『遠き空へ』。クラリネットソロによる安らぎのモチーフから始まり、それを麗奈のトランペットソロが受け継ぐ。地響きのようなバスドラムのロールと共に繰り広げられるリタルダンド。堪えがたいほどの寂しさを駆り立てつつも、交互に押し寄せる重奏が場面を先へ先へと進めていく。
その先に待つ、希美の独奏。一人残された哀しみを背負い、それでも前を向いて歩こうとする彼女の足跡であるかのように、フルートの奏でるその音色は一つずつふわりふわりと優しく落とされた。その余韻を受け継いだ調のフルートが間を取り持ち、さらに次に待つクラリネットへと引き継がれてゆく。ワルツを踊るように四拍続けられたクラリネットの三連符。直後、滝の振り上げる手と共に全員の音が一音ずつ、膨れ上がるように大きくなっていく。ここが第四楽章のピーク。つまり終わりはもうすぐだ。
自由曲の中でも最大級かつ感動的なフォルティシモ。それは色合いを変えながら少しずつ、感情の極点に向かってまっすぐ昇っていく。幾つもの音色が混じり合い、響き合い、表情を変える。決して言葉には言い表せない感情の移ろい。描き出すことさえ不可能な心象の景色。それらを全て音に換え、全員が一体となって、ホールという名のキャンバスに顕していった。
気の遠くなるようなリタルダンドを経て、最後は終幕まで一気になだれ込む。決意に満ちたトランペットのファンファーレ。これでもかと鳴り響くチューブラーベル。大地を踏みしめるようにホールをつんざく重低音。全てが淀みなく絡み合う中、最後の行進を全力で、一つずつ叩き込むように。ああ、終わりが近付く。終わる。終わってしまう。そんな想いを噛み砕きながら久美子は音を鳴らす。一歩、また一歩。とうとう辿り着いた最後のフェルマータ。木管のトリルが煌びやかに飾り、金管のハーモニーが渾身の輝きを放ち、ドラムロールがその波を掬う。そうして全てを一体に溶け込ませたフィナーレは、握られた滝の手の動きによって見事なまでに終点を揃えられた。
どっと鳴らされる万雷の拍手。一同は立ち上がり、荒く吐き出される呼吸も留めぬまま、聴衆の大喝采を一身に浴びる。凄まじい達成感と、舞い上がる高揚感。全国の舞台に立ち、自分達の思う最高の演奏をする。それは他の何にも代えがたいほどの快感だった。
全てをやり遂げ
「先輩、」
まだ息も絶え絶えに、久美子はあすかに向かって手を伸ばす。あすかはニカリと笑い、
「良い演奏だったよ、黄前ちゃん。お疲れ!」
パン、とその手を叩いてくれた。その感触は、じんじんと響く痛みは、いつまでも手のひらに残り続けているみたいだった。
そして、その時がやって来た。
「続きまして、結果発表に移ります」
その言葉に場内のざわめきは収まり、ぴんと張り詰めた静寂が降りる。
「では一番、」
一つ一つ、学校の名と賞とが読み上げられ、その度に歓声やため息があちこちから漏れる。久美子はその間ずっと両手を握り顔を伏せ、ただひたすらに祈り続けていた。
何に祈っているのか、それは久美子にもわかっていない。
何を祈っているのか、それだけは明確だった。どうか金賞を獲れますように。ただそれだけを念じ続けていた。
隣で同じ姿勢を取りながら震える息遣いをしているのは、麗奈だ。彼女もまた一心に何かを念じ続けている。
「七番」
その言葉に、周りの空気が一瞬にしてぞわりと固まる。
「神様っ」
小さく呟いたのはきっと葉月だろう。久美子の心臓は今にも張り裂けそうなほどぎゅうぎゅうと締め付けられていた。もうすぐ結果が出る。出てしまう。『北宇治高等学校』と読み上げられるその言葉が、やけに遅く響いて感じられる。
どうか、金賞を、金賞を。
久美子の、いや北宇治吹奏楽部全員のその願いは、
「銀賞」
スピーカーから響いたそのたった一言で、呆気なく打ち砕かれてしまった。
・
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・
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・
「……みんな、今日まで、本当にお疲れ様でした」
ホール前広場。目元を泣き腫らし、あるいはその表情に悔しさを滲ませながらも整然と列を成す皆の前で、優子は締めの挨拶に立った。彼女もまたどこかで泣き濡れてきたのだろう。他の部員達と同じく、その目元は涙の痕でグジャグジャになっていた。
「私達は春からずっと、全国金賞を目標に掲げて頑張ってきました。みんな本当に持てる限りの力を全部尽くして来たと思う。今日の本番だって、サポートのみんなを含めて誰一人手抜きなんかしてなかった。でも結果は銀賞。正直メチャクチャ悔しいです。もう一回コンクールに出られるなら、今度こそやり直してやるって思うぐらい」
絞り出すような優子の声に、悔しさを強めた者は一人や二人では無かった。ぐずつく鼻音は次第に増えていき、やがてはすすり泣く声がそこかしこから出始める。その想いは久美子とて同じだ。強烈なやり切れなさに自然と顔が歪んでいくのを感じる。
「けど、後悔はしてません」
毅然と放たれたその言葉に、え、と一同は顔を上げた。
「だって、私達は全力を出し切ったから。全国の大舞台で、自分たちの思う最高の演奏を完璧にやり遂げて、あんなに気持ちよく本番を終わることが出来た。これって本当にすごいことです。それが出来たみんなを私は今、誰よりも何よりもすごいって言ってやりたい気持ちでいっぱいです」
拍手! と優子は率先して手を打ち鳴らす。初めは恐る恐る、けれど次第に部員達の拍手強まり、ついには力強い音が広場中へと響き渡った。
「結果は後からついてくる。口酸っぱく言われてきたことだけど、金賞かそうじゃないかなんて関係ありません。私達がここ一番で最高のパフォーマンスを出し切れたってことこそが、私は、最大最高の結果だったと思ってます。それは、みんな、自慢に思っていい。悔しい気持ちと、おんなじくらい、胸を張っていいこと、です。だから、っく、最後は、みんな、笑顔ふぇ、」
喋るうちに感極まったか、えづくように途切れがちになった優子の声がとうとう嗚咽にまみれてしまった。その姿に胸を打たれたのか、麗奈もまた目頭を押さえ、喉の震えを押し殺そうと唇を噛んでいた。
「はいはい、ここでアンタが泣くとみんな貰い泣きしちゃうでしょ。最後までしっかりしなよ、部長」
「あによ、アンタいっつも、そうやって。あだぢのごと、バガに、して」
もはやボロボロの優子が茶々を入れる夏紀に一生懸命言い返そうとする姿は、悲壮を通り越してなんだか滑稽ですらあった。泣き交じりにくすくすと部員の間から苦笑が洩れる。ああもう、と優子は溢れ出した涙を袖口でゴシゴシと勢いよく拭った。
「とにかく、私にとっては今年が最高の一年だったってことが、何より最高の結果です。私の話は以上! あとは副部長、アンタもなんか一言くらい言いなさい!」
はあー? と夏紀の口の端から気だるい不服の意志が洩れ出る。優子にせっつかれるようにして無理やり皆の前へ引っ張り出され、やむなく観念したように、夏紀はそこで大仰な溜め息をついた。
「えーっと。まあ皆も知っての通り、私はこういう時にコメントするのは向きじゃないんで、手短に言うけど」
そこで夏紀は一度言葉を切り、そして毅然とした眼差しで部員達を見渡した。
「正直を言えば、悔しいって気持ちは私も優子と同じ。それももう、今ここではらわたブチ撒けそうってぐらい。それはここにいる皆も同じだと思う。他の人からは全国来れただけでもすごいとか銀賞でも充分って言われるかも知れないけど、今年の私らは全国金賞を目指してここまで来たワケなんで、それが達成出来なかったのはやっぱりどうしようもないぐらい悔しいです」
そう述べる夏紀の拳は固く握られ、あたかも内から襲い来る感情を圧し潰すようにわなわなと震えていた。それを見た久美子の目に、じくりと痛みが突き刺さる。
全てを見て来た自分だからこそ解る。夏紀の語る『悔しい』という言葉が、それこそ痛いぐらいに本気の言葉なのだということが。そしてそれは、我が身のことのようにさえ感じられるほど凄まじく鮮烈で、気がおかしくなってしまいそうなほど狂おしいものだった。
「けど、私らのコンクールはこれでもう終わり。後のことは二年の仕事だからもう全部任せるよ。でも今のこの悔しさを忘れないって言うんなら、来年また必ずここに来て、そして今度こそ金賞を獲ること。プレッシャーかけるみたいで悪いけど、それが私からみんなへの、副部長としての最後のお願いです。分かった?」
「はい!」
涙に声を震わせながら、久美子たちは力強く返事をする。よし、と微笑んだ夏紀の双肩は、全てを後輩に託してようやく重い荷物を下ろせたという安堵の気配に包まれていた。その様子を見ていた滝は静かに頷き、こういう時に涙もろい美知恵はハンカチで目元を覆う。
「じゃあ後は部長の仕切りでお願いします……って優子、アンタいつまで泣いてんの」
「うっさい。夏紀がガラに合わない演説なんかするもんだから、ぐず、余計に泣けてきちゃったでしょ」
「全く、しょうがないんだから。泣き虫の部長さんは」
わしわし、と乱暴な手つきで夏紀が優子の頭を撫でつける。いつもは丁寧に整えられている優子のセミロングヘアも、夏紀の容赦無い手櫛のせいで今はすっかり台無しになっていた。
「アンタが言わないと場が締まらないんだから、最後に一言だけ頑張りなって。ほら、できるよね?」
優子。夏紀の柔らかい問い掛けに、優子は嗚咽を飲み込みぐっと涙を堪える。そして、彼女の最後の号令は下された。
「各自、バスに乗って、撤収!」
「撤収」
ここで唐突に、みぞれがその丸い拳を天に向かって突き出した。あまりに意外な人物の突飛な行動に場の全員は一瞬固まり、それから一斉にどっと笑い出す。みぞれまで何よ、と顔を真っ赤にする優子。何故かやり遂げた表情のみぞれ。その様子を大笑いする夏紀、みぞれに苦笑を向ける希美。みんなで泣き、笑い、そして讃え合い。こうして今年の、久美子たち北宇治のコンクールへの挑戦は幕を閉じたのであった。
*
それは、京都に帰ってから数日後のこと。
こっそりと自分を呼び出した優子と夏紀との、ファミレスでの会談。そこでもたらされた衝撃の依頼。渋々とは言え、引き受けない理由などどこにも無かった。胸に去来するのは不安と決意。自信なんてこれっぽっちも無かった。けれど、あの人たちにあそこまで言われれば、やるしかない。今の久美子はそういう心境にあった。
川面に吹く晩秋の風。とっぷりと暮れた街並み。宇治橋を渡る久美子には家に帰る前に、もう一つだけ用件があった。携帯を取り出して画面を開き、とある人物から届けられたインスタントメッセージへと目を走らせる。
『今日、用事が全部終わったら指定した場所まで来ること。以上』
メッセージの差出人はあすかだった。携帯をポケットにしまい込み、久美子はその場所へと向かった。