もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈20〉種明かし

 平等院表参道からあじろぎの道へと入り、そこから宇治川沿いを上流方向に辿る。

 夜の帳はもうすっかり降りきって、もはや真っ暗闇と言った方が近い状況ではあったのだけれど、そこは勝手知ったる何とやらだ。目指す場所もそう遠くではない。少なくとも、自宅よりはずっと近くにある。そこへ向け、久美子は迷うことなく真っすぐに歩みを進めていく。

 やがて頭上を覆う木々のトンネルが切れかけた頃、約束の場所は見えてきた。井川用水機場。名前以上の意味は良く知らぬものの、今すぐそれを知りたいとは思わない。河川工事の為に長らく張られていたフェンスもすっかり撤去され、周辺はおおむね元通りの景観を取り戻していた。そのすぐ脇にある木製ベンチに、待ち合わせをしていた人物の姿はあった。

「よっ。早いねえ」

 ベンチに座ったままの姿勢で振り向いたあすかが片手を挙げる。

「すいません、待たせちゃいました?」

「今来たとこ。って、デートの常套句でもあるまいし」

「ですね」

 軽く笑い合い、そして久美子はあすかの隣に腰掛けた。秋もだいぶ深まり、日が暮れれば気温は下がる一方だ。きんきんに冷やされたベンチの温度がじっとりとお尻に沁み込む。

「本当にここで良かったんですか? 先輩一応受験生なんですし、私が先輩の家の方まで行っても良かったんですけど」

「うちの近所じゃ、じっくり話をするには不向きだからねえ。それに予備校の対策授業とかで私がこっちに来なきゃいけなかったってのもあるし。ここのが色々と都合良かったの」

「それなら良いんですけど」

 そぞろに返事をしながら、久美子は昨年あすかの家に行った時のことを思い返していた。彼女の家の近所にあった河川敷、宇治川を渡る鈍色の水管橋。そのちょうど真下で、あすかのユーフォの音色に酔いしれながら過ごしたひと時。久美子はまたあそこで過ごしても良いと思っていた。にも拘わらず、指定された待ち合わせ場所は、久美子の自宅に程近いこのベンチ。それが少しだけ残念ではあったのだけれど、あすかにも都合があるのだからしょうがない。それに、あすかと一緒にここで過ごしたことはこれまでに一度も無いことだった。自分にとっては少し特別なこの場所。そこへ新たな思い出の一ページをあすかと一緒に綴じるみたいで、この時の久美子はほんのちょっぴり浮き立っていた。

「で、どうだったの黄前ちゃん?」

「どうって、何のことですか」

「またまたぁ、しらばっくれちゃって。今日あたり呼ばれたでしょ? 優子ちゃんと夏紀に」

「あ、はい」

 何故にあすかが? という疑問と、流石はあすかだ、という得心とが久美子の胸中には同時に湧き上がる。

「さっき先輩達から正式に部長指名されました。それと個人の実力アップの為に北宇治をアンサンブルコンテストに出場させたいから、部長就任最初の仕事としてそれに取り掛かって欲しい、ってことも」

「だろうねぇ」

 クツクツと愉快そうに、あすかは声を震わせる。

「先輩も知ってたんですか? 優子先輩達が私を部長に指名するつもりだったこと」

「ううん、私には一切の相談無し。っていうか私が撥ねつけたんだけどね。アンタらの後継者はアンタらが自分で決めなさい、って」

 そうだろうな、と久美子は内心頷く。今年の部への関わり方から見ても、あすかがそんなことにいちいち口を出す気が無いのは明白だった。その一方で、あすかの深い洞察力があれば、優子や夏紀の考えを予見するのもまたお手のものだったであろうことも。

「アンコン出場は実のところ、意外っちゃ意外だね。そう来たかーって感じ。でも個々のレベルを向上させるのにアンサンブルはうってつけだから、その点はこれからの北宇治を考えれば妥当な選択とも言えるけどさ」

「かもですね。ただアンサンブルってけっこう大変だった思い出しか無いんで、出るってだけでも気が重いですけど」

「やる前からそんなんでどうすんのよー? 何事も経験だと思って、まずは取り組んでみることだね。それで、部長の件は引き受けるの?」

「はい。正直不安も多いですけど、先輩たち直々の指名ですし、頑張ろうって思ってます」

「そっかそっか。こうして北宇治の伝統は、今年も受け継がれていくワケだねぇ」

 あすかは満足げに鼻を鳴らす。

「まあ黄前ちゃんが引き受けるだろうってのも、私には分かってたけどね」

「なんかそれ、後出しジャンケンみたいな感じですけど、本当ですか?」

「もちろんホントだよん」

 化かすような物言いと共に、あすかは首だけをこちらに向けてくる。その怜悧な瞳は視覚を通じて頭の中にまで入り込むような、そんな深みを感じさせた。

「去年から夏紀達が、黄前ちゃんのことをプッシュするつもりで動いてたのは知ってたし。黄前ちゃんがどういうつもりだったか知らないけど、新入生指導係になったのも言わばその為の布石だね。それと、色んなところで後輩の面倒を見るように頼まれたり差し向けられたりしてたんじゃない?」

「それは……思い当たる節は、無いでもないです」

「でしょ? 特に優子ちゃん辺りはみぞれちゃんと希美ちゃんの問題を解決した件で、黄前ちゃんのことをだいぶ高く買ってたからね。三年生の子達の間じゃ次の部長は黄前久美子、みたいなムードもあったっぽいよ」

 そう語るあすかの言葉に、いつぞやの調の意味深な発言が頭をよぎる。期待して待ってたら? とは恐らく、このことを指していたのだろう。

「どうしてそんなに買われてるのか、私にはサッパリですけど」

 疑問を呈す久美子に、んー、とあすかは少し考えるようなそぶりをした。

「どう言っていいか分からないけど、そうだね、それが黄前ちゃんの『特性』だから、かな」

「特性?」

「前にも言ったでしょ。黄前ちゃんってすごくユーフォっぽい、って。そういうコト」

 あすかの言っている意味が、久美子にはサッパリ解らない。ひょっとして上手くはぐらかされているのでは。そんな収まりの悪さをごまかそうと、久美子は地面に向けて脚を突っ張らせる。ざり、と乾いた音を立てて、靴の裏に小砂がめり込んだ。

「まあ、今にきっと意味が解るよ。黄前ちゃんなら」

「はあ」

 それからしばらく無言の時間が訪れた。ほう、と吐く息が白く(もや)を作り、それは緩やかに流れる風に運ばれて川の向こうへと掻き消えてゆく。まだ雪が降るには早いけれど、そんな時期も確実に迫っている。雲の殆ど無い空に浮かぶ月は満月と呼ぶには少し歪で、ほんの僅かに輪郭が削られた形のまま、その威光をくっきりと大地に向けて注いでいた。それを浴びるあすかの横顔が、ふと小さく綻ぶ。

「さてと。それじゃ黄前新部長の就任を祝って、そろそろ種明かしといきますか」

「種明かし、って何ですか?」

「気になってたでしょ? どうして私が留年したのか」

 ……あ。久美子の口から、声にならない驚きの音がこぼれ落ちる。

 今の今まで、久美子はそのことをすっかり忘れていた。あまりにあすかが自然に溶け込み過ぎていて、周囲の誰もが違和感を覚えることが無くなって、怒涛の勢いで押し寄せる日々の忙しさにかまけて、そうしているうちにいつの間にか、その疑問は完全に頭の中から抜け落ちてしまっていたのだ。

 あすかは何故留年したのか。()()()()()()、のではなく。

「それじゃ、やっぱり――」

「ん? フフッ」

 えも言われぬような声色を伴って、あすかの形相が歪む。それは愉悦とも狂気ともつかぬ、極限の危うさに満ちたものだった。

「初めはさ、去年母親が首突っ込んできてゴタゴタしちゃったせいで、欠席とか早退とかが続いてただけなんだけどね。黄前ちゃんも知っての通り」

 そのことは勿論覚えている。一時期、あすかは部の練習を休みがちになっていた。香織や晴香といった友人たちですらあすかへのコンタクトがなかなか取れずにいた時のことだ。

「その時までは別に、こんなことするつもりなんて無かった。けど黄前ちゃんに説得されて、全国大会であの人に向かって思いっ切りユーフォ吹いて仮引退して、それで黙々と受験勉強してるうちに段々とさ、こんなこと考えるようになってたんだよ」

 目を伏せ、その当時を思い返すような仕草をしながら、あすかは続きを紡ぐ。

「自分らしく振る舞っても良かったんなら、だったら、もっと早くからそうしておけば良かったって」

 周囲の時が止まる。風の音も、川のせせらぎも、今の久美子には何一つとして聞こえない。

「そしたら出るわ出るわ、後悔の嵐。幾ら自分の為だったとは言え、私の高校生活ってずーっとそんなのに縛られて、本当の自分自身なんてものは何一つ無かった。もちろん全部が全部じゃなかったけど、やりたい事のために我慢したり、切り捨てたり、そういうものばっかりだったなぁって。そしたら何かもう、色々嫌になっちゃってさ」

「だからもう一回やり直そうって、そう思ったっていうんですか?」

 問い掛ける自分の喉が震えるのを止められない。それでも久美子は、そう尋ねるより他に無かった。

「まあ簡単に言うと、そういうこと」

「そんなこと――、」

 出来るわけがない。あまりにあすからしくない馬鹿げた発想に、久美子の頭は真っ白になっていた。うまく言葉を発することが出来ず、己の口がただパクパクと、虚しく空気をついばむばかりになってしまう。

「そうだね。どんなに憧れたって、どんなに手を伸ばしたって、人は過去には遡れない。もう一度、あのひと時を。どんなにそう願っても、それは結局あの時と同じじゃない。そんなことぐらい、とっくに解ってた」

 それでも、私は。あすかはそこまで言った後、溢れ出す感情をせき止めるように口をつぐんだ。久美子の脳は依然、理解が追いついていない。本当に、そんなことのためにわざと留年したというのなら、それは親への反抗以上にとんでもなく愚かな行為だ。そのたった一年の為に、求めるものが得られないととうに解り切っていた一年間の為に、彼女が己の人生で犠牲にしたものはきっと遥かに大きく、そして重い。あすかにだって、それが分からなかった筈は無いのに。

「けど、私は私の選択を後悔してない。副産物として幾つかは出来ることもあったしね」

「ふく、さんぶつ?」

「そう。来年部長になるであろう黄前ちゃんに、部長としての筋道をつけてあげること」

 そんな。そんなの要らない。昂る感情に己の言語能力が完全に破綻をきたしてしまい、久美子はただぎこちなく首を横に振ることしか出来なかった。それを見たあすかが困ったような笑みを浮かべる。

「そんな顔しなくていいっての。あくまでそれは副産物。黄前ちゃんが気に病むようなことじゃないから」

「だとしても!」

 ようやく喉につっかえていたものが抜けて、勢いのままに久美子は声を荒げてしまった。

「本気、だったんですか。全部本気で、あすか先輩は、そんなことしてたんですか」

「本気だったよ、私は」

 キッ、とあすかが真摯な面持ちをこちらに向ける。それを見て久美子も察した。今の言葉に嘘はひとつもない。あすかは確信をもって行動していたのだ。最初から今の今まで何もかも、起こること全てを腹に括った上で。

「でも、上手くいかないこともあった。例えば美玲ちゃんの件。本当はもっと上手くあの子を低音パートに繋いであげたかったけど、私一人じゃそこまで手が回らなかったから、結果的に黄前ちゃんと久石ちゃんにフォローしてもらう形になったでしょ?」

 そのことは良く覚えている。サンフェスの練習中、逃避した美玲を奏と二人で追い掛けた時のことだ。

「あの時は今後のことを考えてそうさせたつもりだったけど、今考えるとあれは完全に私の失敗。そのせいで久石ちゃん、ヘンに私に敵対心を持つ恰好になっちゃったからね」

「そんなことは、」

 無い、などとは言えなかった。あの日、美玲が鬱屈した感情を爆発させた日。彼女が打ち解けたのと入れ替わるようにして、奏は孤立の日々に足を踏み入れた。その時の奏の言葉を、久美子は今でもハッキリ覚えている。

『ですが、あすか先輩はもっと凄い方ですね』

 思えばあの瞬間から、奏はあすかを悪い意味で意識するようになった。きっと奏もどこかの時点で、あすかが夏紀に特別目を掛けて指導している事実にそれとなく気が付いたのだろう。遠巻きに夏紀を見る奏の視線が妙に冷たかったのも、つまりはそれが原因だったのだ。

 自分に反発する後輩を除け者にし、お気に入りの後輩にばかり構う偉大な先輩。そんな先輩にどうにか一泡吹かせてやりたいと思えど、あらゆる意味で万能超人のあすかにはまるで歯が立たない。忸怩たる思いを抱えたまま敗れ去った奏はその後、完全なる孤独と絶望の道へと陥ってしまった。そんな状況を、夏紀も、あすかでさえも、例え全ての事情を知っていたとしてもどうすることも出来なかった筈だ。だって奏の心をより深い闇へと追いやってしまったのは、他ならぬ自分達だったのだから。

「その後も何度か上手にあしらうつもりでいたけど、久石ちゃんって私とどこか似たようなタイプでしょ? そのせいもあって最後まで上手くいかなかった。黄前ちゃんにはそこで一つ、重い宿題を残しちゃったってわけ。これは田中あすか、痛恨の大失敗ってやつだね」

 くひ、と漏らした彼女の笑声は、これ以上無いほどの自嘲をふんだんに塗り込めたものだった。

「これだけじゃなくて、他にもある。例えば小日向夢ちゃんのサード問題とかね。アレもあの時は上手いこと取り繕ってみせたけど、黄前ちゃんがあそこに居てくれなかったら、私はただ夢ちゃんを抉っただけで終わってたと思う。すぐには立ち直れなかったかも知れないし、ひょっとしたら今年のコンクールが終わるまで夢ちゃんはずっとサードに留まってたかもね。ああいう言動を取って夢ちゃんを救ってみせるあたりが、やっぱり黄前ちゃんだよ」

 それは自分だって同じだ。そう久美子は言いたかった。もしもあすかがあの場に居なかったら、自分一人では夢の本音を抉り出すことも叶わなかった筈だ。結果として事態の解決にはもっと時間が掛かっただろうし、優子と麗奈の議論が平行線を辿っていたことも踏まえれば、あのまま結論を見ずにコンクールまでなだれ込んでいた可能性もある。その場合、今年のコンクールがどんな結果になっていたか。麗奈の見立て通りであれば、決して芳しいものとはならなかったに違いない。

「それに、希美ちゃんのこともそう。ソロの件でぐずぐずしてる二人を見かねて、思い切って希美ちゃんを動かすことでどうにかしようって思ったけど、あれこそ私の判断ミスもいいとこだった。私としては希美ちゃんに自制してもらって、それでどうにかまとめようって感じだったんだけどね」

「それは、それは違います。希美先輩、あすか先輩にずっと感謝してました。先輩のおかげで目が覚めたって。だから希美先輩は今、音大受験に向けていっしょうけんめい頑張って――」

「それが一番の大失敗」

 久美子の必死の擁護にも、あすかはすげなく首を振る。彼女の掛ける眼鏡のレンズが、寒さのせいで白く曇り始めた。

「希美ちゃんの気持ちが前向きになった。そこだけを見れば問題解決、一件落着って思えるでしょ? でもあの問題はそもそもどっちが悪いとかじゃなくて、二人の間に横たわった二人の問題なんだよ。それもずうっと、多分あの二人が北宇治に入るよりも、もっと前から。そして希美ちゃんはともかくみぞれちゃんの中では、その時から今に至るまで何にも解決してない。あの子だけが置き去りになったまま、何となく元通りの空気を取り戻したような雰囲気になって、問題の根っこは今でも裏側に残ってる」

 ごくり、と久美子は湧き上がるえぐみを呑み込む。大好きのハグをして、そこで己の決意を滔々とみぞれに語り聞かせた希美。そしてみぞれは希美と共に次なる道を歩もうとしている。そこまでならあすかの言う通り、この件は美談に終わったと言えるのかも知れない。けれど実際には未だ、みぞれに対する黒い情念が希美の中には渦巻いているのだ。

 恐らくそれは友情や好意とも綯い交ぜになった、とても複雑な感情。あまりにも絡まり過ぎて容易にほどくことの出来ない積年の混濁。もしもみぞれと同じ大学へ進学できたとして、希美はそれを抱えたままで、これからもみぞれと同じ時を過ごすことになる。その一方でみぞれもまた、希美に対する感情に折り合いを付け切れてはいない。あのままではいつまた同じようなことが起こるか、知れたものでは無かった。

「いま黄前ちゃんが思ってることを言い当ててみせても良いけど、それはやめておくとしよう」

 あすかは人差し指を立て、それを小さく左右に振ってみせる。

「けど多分、遅かれ早かれあの二人はそうなる。その時に二人をちゃんと理解して間に入ってサポートしてあげられる人が、どっちの傍にも居ないとしたら? そしたらきっと、あの二人の関係は呆気なく壊れる」

「そんなの、分かんないじゃないですか」

「そうかもね。確かに分かんない。そのまま二人とも精神的に成長して、うまいこと妥協できるようになったり良い距離感を保ってられるようになる可能性だってあるね。でもそうなる前に壊れちゃうのはきっと、みぞれちゃんの方だよ」

 全力で否定しようとする久美子に、それを一歩先回りするあすかの予言。それはあまりにも鋭く、そして何も言い返せないほど、彼女が語るままの未来をありありと思い描くことが出来てしまう。みぞれは、彼女は、こと希美が絡めば極めて脆く危うい。希美に依って飛ぶしかないみぞれがいつか彼女を失ってしまう時、果たしてみぞれは自分一人の翼で寄る辺無き虚空を飛んでいけるのか? それは余りにも望みの薄いことだった。

 そして、そんなみぞれを理解してあげられる人間は決して多くない。もし居たとしても、その人が希美のことも理解できる可能性はもっと少ない。あの二人を理解し、二人の間に割って入れる、共通の近しい人物。そんな都合の良い存在など、久美子の知る限りでは夏紀と優子、あの人達以外に居なかった。

「そんなわけで、あれを最後に余計なちょっかいを出すのは止めにしようって思ったの。上手くいけばあの子が自力で解決の糸口を探れるようになるかも、ってのもあったけど、何より私が余計なことをしない方がいいと思ったから。だから私は、希美ちゃんとみぞれちゃんの二人だけで話をさせることにした。解決にはほど遠い選択だったけどね」

「最後って、そういう意味だったんですね」

「なあに? ひょっとして私が吹部辞めちゃうとか居なくなっちゃうとか、そんな心配でもしてくれてた?」

「違います」

 口では否定しつつも、無意識のうちに久美子はするりと胸を撫で下ろす。それは長らく刺さっていたものがようやく抜けた、という感触だった。

「えー、違うんだぁ。お姉さん寂しいなあ。ま、どっちでもいいんだけどね、そんな事」

 あすかは何かを納得するように、小さな含み笑いを一つこぼした。

「吹部についても、私がもたらしたのは良い側面だけじゃなかった。幾ら北宇治が全国金を達成する為とは言え、無理やりに練習の方向性を捻じ曲げちゃったせいで、要求されるレベルが一気に上がっちゃったワケだからね」

「あの練習法にも、先輩が一枚噛んでたんですか?」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。私はあくまで北宇治が現状ピンチだってのと、あの状況を乗り越えるために練習への取り組み方を改善する必要性があるってことを訴えただけ。具体的な内容を決めたのは全部、滝サンだから」

 滝サン。敬意など一ミリも感じさせない口ぶりで、あすかは滝のことをそう呼んだ。それは他者を評価する上で相手の肩書きや年齢の多寡に囚われない、言わばあすかの習性みたいなものなのだろう。久美子の脳裏に一瞬、あすかの母の顔がちらつく。

「ともかく今回の結果を踏まえれば、部内の空気はこれからもっとコンクール至上主義が加速することになると思う。まあこれは北宇治が全国金賞を目指すなら避けて通れない課題でもあるし、新部長になる黄前ちゃんの舵取り次第ではあるけど、それでも黄前ちゃんにとって負担が大きくなるであろうことは間違いない」

 そのぐらいは、覚悟している。そっと手を忍ばせたポケットの内側で、久美子は携帯をぎゅうと握り締めた。

「部の運営や人間関係の問題、他にも黄前ちゃんの見えてないトコで私が作った歪みは幾らでもあるよ。数えたらキリがないくらいある。それもこれも全部、私の力不足なせい」

 ハア、と吐き出されたあすかの吐息が、白く大きな塊を作り出す。

「ホーント、全部大失敗。やっぱり私には誰かさんの真似をするのは無理なんだなーって、改めて思い知らされたよ」

「……誰かさんって、誰ですか」

「えぇ? わざわざ聞かなくたって、ホントは解ってるくせにぃ」

 茶化し半分で脇腹を小突かれても、久美子はわざとらしく呻いてみせることすら出来ない。仮に自分の思っている通りなのだとしても、そのことを認めたくはなかった。だって、あすかはあすかだ。他の誰でも無い。あすかに誰かの真似をして欲しいとも思っていないし、そもそもあすかが思っているほど、その誰かさんは大して凄くなど無い。少なくとも、あすかに真似されるほどのものでは。

「とまあ、そういうことでさ」

 ん~っ、とあすかが大きく伸びをする。それはきっと、全ての懺悔を吐き出し切ったという合図だった。

「黄前ちゃんには重い宿題を残しちゃったし、他の皆も私のワガママで引っ掻き回しちゃって。それはホント申し訳無いなーって思ってるよ」

「気にしなくていいです、そんなの」

「そういうワケにはいかないでしょ」

 久美子にはもう、あすかの顔をまともに見ることさえ出来なくなっていた。そんな様子を見かねたのか、あすかは困ったような吐息を微かに洩らす。その音が、久美子の耳を揺らした。

「もしも私が今年ここに居なかったら、何もかも、もっと上手く行ってたのかもね」

 噛み締めるように呟き、それきりあすかは自らを罰するように沈黙した。そんなあすかの姿は見たくない。そう思った瞬間、久美子の口は勝手に開いていた。

「それでも、私は、」

 おもむろにあすかが久美子を見やる。その眼をしかと捉えながら、久美子はあすかに告げた。

「誰が何と言おうと、私はこの一年をあすか先輩と一緒に過ごせて良かったって、思ってます」

 決然たる久美子の声色を浴びて、あすかが目を瞠る。久美子も瞬き一つせず、あすかを睨み続ける。それは久美子なりの精一杯の抵抗だった。あすかがこんなにも自分を卑下することなんて無い。あすかはただ、今まで我慢に我慢を重ね続けていただけだ。周囲にも親にも優等生であることを求められて、いつしか自分自身もそうあるようにと、あすかは誰かの求める『田中あすか』を振る舞い続けた。自分のやりたいことをやる為には、彼女はただの『あすか』では居られなかった。それはきっと疲れることだったに違いない。時には当人なりに傷付きもしただろう。その積み重ねの果てに本当の自分自身を取り戻す為、それまで築き上げてきた一切合切をかなぐり捨てる道を、彼女は選んだのだ。

 なんて愚かだろう。馬鹿げた話だろう。この事実を前にして百人中百人がそう思ったとしても仕方が無いほど、全ては荒唐無稽な話だ。けれど、もしも周囲に望まれるがままの道を唯々諾々と歩んでいたならば、あすかはこれからもずっと『田中あすか』でしか居られなかった。どこから見ても非の打ち所のない、誰もが羨む頭脳と美貌と才能を持った、完全無欠の超人。そんなあすかの孤独を解ってやれる人が果たしてどれほど居たことか。彼女が真に欲しがっている何かを理解して与えられる人物が、たった一人でも彼女の傍に居てやれただろうか。

 久美子にだって、その全ては解らない。もしかしたらあすか本人でさえも、自らを愚かだと罵っているのかも知れない。だからこそ久美子は、せめて自分だけは、あすかの全ての行いを否定したくなかった。

「あー」

 刹那、何かから解放されたように、あすかはけらけらと笑い出した。何がおかしいんですか、と問い詰めた久美子には構わず、彼女の指が眼鏡をずらして眦を拭う。そして次の瞬間、突然に伸ばされたあすかの手によって、久美子の横髪はモジャモジャと揉みしだかれた。

「わぁ!」

「ホントに自覚無いんだねぇ、黄前ちゃんってば」

 驚く久美子の頬を両手で挟み、あすかが顔を近づけてくる。唇と唇が触れ合ってしまうのでは、と思えるほどの至近距離。そこまで詰め寄ったあすかは満開の笑顔で、久美子にこう告げた。

「そこがいちばん凄いところなんだよ、黄前久美子の」

 

 

 

 

 どうやってあのお母さんを騙し切ったんですか?

 その問いにだけは最後まで、あすかはハッキリした答えを返してはくれなかった。それはきっと彼女なりの企業秘密、といったところなのだ。常識的に不可能、と思えることでさえも可能にしてしまうあすかはまさしく悪魔の頭脳の持ち主と言うべきであり、その意図など只人の自分には量りようもない。こればかりは永遠の謎として、恐らくはあすかが墓に入るその時まで、彼女の中だけに秘められたまま終わることだろう。家路を辿るあすかの背を見送りながら、久美子はそんなことをおぼろげに考えていた。

 今回の一件では久美子もまた結果的に、周囲の人間に対して秘密をひとつ隠し持つこととなってしまった。もちろん全ての真相は、他の誰にも喋るつもりなど無い。葉月達にも、秀一にも、麗奈にすらも。それはあすかと自分、二人だけのとっておきの秘密。そしてこれもまた、恐らくは自分が墓に入るその時まで、ひっそりと記憶の内に封じられたまま終わってゆく筈だ。

『これで私達は、いわゆる一つの共犯者だね』

 そう述べたあすかの不敵な笑みを、久美子はこれからもずっと忘れない。あすかとの間に結んだ新たな繋がり。例えそれが世間的に後ろ暗いものであるにせよ、自分達にとっての大切な絆であることには違いない。久美子はそれを、これからもずっと、大事にしていたかった。

 あすかの後ろ姿が角を曲がり、街並みの陰に消えていく。それをしっかり見届けて後、久美子もまた振り返った。後は自分も家に戻るだけだ。数日内には新三年生の役職を決める為の会議が開かれるだろう。その場で自分は新部長として、皆の前で名乗りを上げる事になる。他の子達がそれに賛同してくれるかどうかはともかく、優子たち直々の指名と要望を引き受けた以上、久美子は既に覚悟を決めていた。

 それは部長という大役を務めることだけではない。今年あすかがやったこと、その爪痕を、ただの瑕疵にしないこと。過去はどうやったって変えられない。あすかがこの一年で自分達にもたらしたもの。あすかによって影響されたもの。起きてしまったそれらの事実そのものを捻じ曲げることなんて、誰にも出来やしない。でも、自分は今を生きている。これからも生きていく。その中で変えていけるものは、まだまだ沢山ある筈だ。

 だったら変えてしまえばいい。あすかのやったことを、あすかが自分達にくれたこの爪痕を、意味のある何かに。そしてそれが出来るのはこれからの自分達だけだ。希美とみぞれの問題だってきっと、二人を支えてくれる人達も一緒になって何とかしてくれる。それと同じように、自分達は自分達を変えていく。部の事も、奏の事も、そして、自分自身の事も。それがきっと本当の意味で、あすかが過ごしたこの一年を価値あるものへと変えてくれる、その筈だから。

 大事なのはこれからだ。けれどその前に、久美子にはどうしてもやっておくべきことがあった。ポケットから携帯を取り出しインスタントメッセージのアプリを立ち上げ、スルスルと画面を操作して目的の人物のところで指を止める。そこに示された「通話」のアイコンを、久美子は迷いなく押した。

「……もしもし、今ちょっと良い? あのね、急で悪いんだけど、直接会って話したいことがあって。……そう。今日のうちに、どうしても。うん。……うん、解った。じゃあ今から十分後、いつもの場所で。……うん。それじゃ」

 言葉少なに通話を切り、久美子は自宅を目指して駆け出す。目的は、家でくつろぐためでは無かった。自分の部屋へ大事なものを取りに行くために。そして、久美子にとって大事なことを、直接その人へ告げるために。

 ひょう、と身体が空気を切り裂く。フルートの音色にも似たそれは、これから草木を眠りへと誘うであろう風の音にそっくりだった。

 

 

 赤く枯れた木々の葉はやがて地面に落ち、その上にこんこんと白い雪が降り積もる。

 季節は移ろい、過ぎ去る日々を経て、彼女達の見ていた景色もまた大きく揺れ動いていった。

 

 

 

 

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